2012年05月

2012年05月27日

『この空の花 長岡花火物語』(大林宣彦監督)が素晴らしかった!

5dea361b.jpg大林宣彦監督の最新作『この空の花 長岡花火物語』が素晴らしかったです。少し前に、新しい大林映画が公開されるという情報を聞いたときから、ぜひ行こうと楽しみにしていたのですが、公開された直後の中森明夫による絨毯爆撃プッシュもあり、期待を持って観に行きました。予告を観ただけで、そのヤバさがにじみ出ている感じもありますが、ガチャガチャした画面の作り方には、『ハウス』路線への回帰も感じます。『この空の花』は、セミドキュメントという体裁なのですが、「ドキュメント」という道具を手にした大林は、これはもうエラいことになっていましたね。「セミドキュメント」という形式を良いことに、現実と作品世界の重なり、つながり、混ざり具合が半端じゃなかったです。回想かと思ったら、地のセリフとして登場人物が話していたり(これは、リメイク版『転校生』におけるヒロシくんが、車内で祖父について回想するシーンに通ずる)、登場人同士が会話していると思ったら、突然カメラ目線で観客に語りかけてきたり。っていうか、とくに序盤、カメラ目線が多すぎ! とにかく、メタフィクションという言葉では括りきれないほどに位相が定まらない作品世界で、もうそれだけで目が離せませんでした。感動的で道徳的で教育的で温かくて、なおかつ前衛的なこの映画は、もう本当に理想的な映画と言って良い気がします。

さて、今回の大きなモチーフとして、花火というのがありましたが、花火と言えば、前作『その日のまえに』においても、ラストでみんなが花火を見ていたかと思います。僕が『その日のまえに』を観たときは、個人的に「ゆるやかなつながり」強化月間だったこともあって、遠く場所も時間も隔たった人たちが、本人たちの意識とは無関係に「ゆるやかにつなが」っていくというモチーフが非常に好きだった時期です。このころ東浩紀は、『文学界』(09・5)の連載「なんとなく、考える」において、アマゾンの購入者履歴でつながっていく消費者の姿を指摘していましたが、そういった同時代的な感覚が反映されたものとして、「ゆるやかなつながり」を見ていたような気がします。具体的には、「三月の5日間」に代表される岡田利規の作品群、アニメ『サマーウォーズ』などですが、とくに岡田の小説は、「ゆるやかなつながり」のモチーフが語りの水準まで徹底されており、とても感銘を受けました。これについては、『F』4号に「一人称複数形でつながるゆるやかな世界」という論文を書いて論じたことがあります。「ゆるやかなつながり」を描くときに小説技法で見られるのは、述語的統合的に描くということです。述語的統合については、前田愛が『文学テクスト入門』(筑摩書房、増補版としてちくま学芸文庫)で、古井由吉「円陣を組む女たち」や中牟礼道子『苦海浄土』を論じていたのが有名です。同じ動作や状態(述語)を共有していることで、主体的に切り分けられた世界とはオルタナティヴな世界が立ち現れるような感じ。まさにアマゾンが、「カートに入れる」という述語的なデータをもとに購入者を「ゆるやかにつな」げるように。そういう目線で『その日のまえに』を観ていたとき、みんなが各々花火を見ているというラストは、時間も場所も隔たった人たちが「ゆるやかにつなが」っていくような感じがして、やはりとても感動的だったのでした。

『この空の花』は、とても一言では要約できないような余剰性に溢れているのですが、大きなテーマとしてはやはり、震災以降的「絆」という意味での「つながり」だと思います。実際、「つながり」という言葉も数回登場していたと記憶しています。それで、この「つながり」は、戦争の記憶をいかに(語り)継いでいくかという問題にも重ねられています。大林宣彦という人は、インタビューとかラジオでの出演とかを耳にするに、本当に真っ当で道徳的で教育的なことを言う。TBSラジオ『デイキャッチ』の宮台真司回に出演したときも、とても道徳的なことをおっしゃていました。道徳的で教育的な作品というのは、だいたいにして説教臭くてつまらないものです。しかし大林においては、そのメッセージを映画にしたとき、なぜかその映画は前衛的になっていくのですよね。そもそもリメイク『転校生』のときもそうだったけど、監督の署名入りの直接的なメッセージが文字として画面に出てくること自体が、作品としては破格なことであり、トヨザキ社長の書評とかだったら「メッセージを直接言わせるのはダサい!」みたいなことになってしまうのでしょう。しかし大林映画に関しては、言いたいことは全部言う!、表現したいことは全部盛り込む!、という足し算的動員の発想が、メッセージ性とアヴァンギャルド性を両立させるのだと思います。語りの位相も時間の位相も知ったことか、と。全部を入れ込むんだ!、そして、全部が「つながり」を持つんだ!、と。だから、作中人物とその実際のモデルが横に並ぶことだってある。登場人物がいきなり観客に語りかけることがある。なにせ、大林宣彦の頭の中では全部が「つながり」を持っているのですから。そして、この時間も場所も語りの位相も超えた人たちが「つながる」ということこそが、戦争や震災の痛みやそのなかで生まれた物語を語り継ぐことになるのだ、と、そういうメッセージを受け取りました。大林的にはマジで、映画の登場人物と監督自身が同じ水準にいるんじゃないかなあ。そして、その感覚は僕自身もけっこう共有できるというか、共感できるところです。

物語中、戦争の記憶は、各々の痛みを抱えながら演劇や紙芝居や戦争の記事や被爆などによって継がれていきました。実際にやはりなにかを継いでいくときに必要なことは、動作を反復することなのではないか。ここには、『F』10号で論じたヒップホップ論と重なる問題意識がありますが、動作を反復するという述語的な共通体験こそが、「ゆるやかなつながり」を生むのではないか、という印象を僕なんかはどうしても受けます。その意味で、松雪泰子が野外で稽古中の劇空間を横切るときに戦時中の防空壕を覗いてしまうというある種幻想的な場面も、非常に綿密になされた演出だと思いました。ああいう場面が入るのは本当に素晴らしい。そうした各人の記憶が、花火(=核爆弾)というかたちでラストに収斂していきます。述語的統合によって「ゆるやかなつながり」を持っていた戦争・震災をめぐる記憶が、花火によって回収されていきます。このとき大事なことは、この「つながり」が、安易な神秘主義みたいに、個々の差異性を消去しないことです。各人固有の痛みを抱えたまま(リリ子さんは耳を塞ぐのだ)、しかし、花火を介して山下清も含め、みなが「ゆるやかなつながり」を持つこと。そうして、痛みの記憶は継がれていくのかもしれない。

誰かがいない、その場所を想像で補うこと。そんなようなことを花は言っていました。誰でもどこでもいつでも共有できる動作とは、「想像する」ということです。「想像する」ことで、時間も場所も語りの位相も飛び越えて、「ゆるやかなつながり」を持つことができる。大林映画が幻想的で前衛的で、感動的なのは、彼が真に「想像」的な監督だからだと思います。



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2012年05月04日

〈擬装〉するミュージシャン、〈変身〉するコメディアン

『F』10号は、「擬装・変身・キャラクター」という特集となっている。僕は以前から、〈模倣欲望〉という点から音楽について考えたかったので、この機会にそういうことを考えてみた。「擬装」という観点からアメリカ音楽史を捉え直したのは、大和田俊之『アメリカ音楽史――ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社)である。これはたいへん示唆に富む本で、広い視点で、とても実証的に書かれている。大和田さんによる「擬装」のアメリカ音楽史の出発点は、副題にもあるとおりミンストレル・ショウという文化なのだが、ミンストレル・ショウとは、「白人が顔を黒く塗り、黒人の形態模写をおもしろおかしく演じる」というものである。僕は昔から、音楽とお笑いのモノマネが好きなのだけど、大和田史観を勝手にフレームアップさせていただければ、両者は最初期から密接に関わっていたと言える。最近の僕の関心は、音楽とコメディである。

今回の僕の論文における主人公はジブラという人だが、多くのラッパーがなぜかどこかで忘れてしまう、黒人への「変身」欲望を抱えたまま表現をしていたのは、やはりこの人だったのではないかと思う。このことについては、論文で示したつもりである。ヒップホップは内面を投影するものだ、という見方が支配的な印象があるが、少し考えれば、そんなこともなかったはずだ。例をあげればキリがないが、例えばエミネムのようなラッパーは、スリム・シェイディーというオルター・エゴを仮構し、それに「変身」し、そこでストーリー・テリングをする。僕はむしろ、純粋な内面からは出現しえないような表現のあり方を組織化することこそ、ヒップホップの本領だと思っている。とは言え、このような音楽における変身の表現は、ヒップホップに限らず出現する。ある時期から、突然「土星からやってきた」と言いだし、ファラオの衣装でステージに立ったサン・ラを挙げておこう。スターボーか、と。

ラッパーにしてもジャズメンにしても、音楽における「変身」の性格は、しばしばコメディアンによって担われる。谷啓がトロンボーンを持っていたことを、トニー谷がマンボを歌っていたことを思い出そう。ある時にはエリマキトカゲとなり、ある時には中国人となったタモリも、やはりトランペット奏者だった。坪内祐三は、タモリにはビートたけしのような文体がない、と言っていたが、不断に「変身」する空虚な主体としてのタモリは、こうした内面なき「変身」の系譜に位置づくだろう。日本におけるモノマネの源流には古川ロッパがいる。もっともロッパのそれは、モノマネではなく声帯模写と呼ばれた。ロッパのデビューは、ラジオに出演できなくなった徳川夢声の代打だったというが(中山涙『浅草芸人――エノケン、ロッパ、欽ちゃん、たけし、浅草演芸150年史』マイナビ新書)、ロッパは夢声の声マネをして放送を難なく乗り切ったという。ロッパの声帯模写をおそらく参考にして、文体模写と称し、音楽と演芸を新たに結ぶ存在にマキタスポーツがいる。マキタによる、ミュージシャンの世界観ごとパロディ化する表現は、誰の内面にも還元されない、まさに「変身」する主体としての地点からしかありえない、見事なものだと思う。そう考えれば、かつてトニー谷の再評価を牽引し、かつて諧謔的な身振りをしていた大滝詠一が、マキタを気に入るのも深い意味がある。マキタの弟子にはセクシーJという芸人がいるが、そのセクシーJを舘ひろしに見立てて、自らは柴田恭兵に「変身」するのがセクシー川田である。川田は、柴田恭兵への憧れゆえに、人生すべてを「柴田恭兵ならどうするか」という大喜利に変換して生きてきた人物である。したがって川田は、人生の選択を柴田恭兵に委ねてきた。いや、自分で選んだには違いないが、その自分とはつねに/すでに柴田恭兵に「変身」した自分なのである。はっきり言って、「変身」する主体の表現として考えたとき、いちばん強度をもっているのは川田だと思う。彼の心はどこにあるのか。彼が表象する柴田恭兵とはいったい誰なのか。彼の表現はどこから来たのか。セクシー川田が主催したライブ、「あぶない刑事一代」は近年まれに見る衝撃だった。

日本の芸人は、河原者と呼ばれるような、まあ早い話が乞食や被差別部落出身者が担ってきた。社会から落伍者とみなされる者だからこそ、「擬装」し、「変身」し、「キャラクター」化しなければ、生きて行けなかったという経緯がある。『平家物語』を広めた琵琶法師たちもそうだが、彼らの異形性(琵琶法師で言えば、〈盲目〉というのは重要な異形性だ)は祭りのときには許容されるが、日常では排除される。このあたりは、兵藤裕己『〈声〉の国民国家――浪花節が創る日本近代』(講談社学術文庫)『琵琶法師――〈異界〉を語る人びと』(岩波新書)に詳しい。2002年3月の『ミュージック・マガジン』誌においては、日本のヒップホップ史が豊年斎梅坊主による口承芸能から出発しているが、だとすれば、日本の伝統的な口承芸能と「擬装」の音楽史の結節点に、日本のヒップホップを置くことは可能だろう。島田紳助不在の現在、浅草演芸的な、音楽とお笑いをめぐる議論を活性化させたいと中・長期的に思っている。速水健朗さんは『コメ旬』で、とんねるずを黒人音楽との関係で論じていたけど、石橋貴明はデビュー間もない頃、憧れのビートたけしにエールを送られていたらしい(『バナナマンのバナナ・ムーン』で石橋が発言)。もちろん、そのたけしは、浅草フランス座で修業をしていた。浅草を中心とした東京の演芸として、音楽を捉え直したい。そういえば、レペゼン浅草のラッパーってあまり聞かないがいるのだろうか。とりあえず、落語が詳しくないことが本当にネック。

※この記事は、『F』10号に書いた文章を一部流用したものです。

toshihirock_n_roll at 22:29|Permalink 音楽 | 芸能