2013年07月

2013年07月30日

サマータイマー

某日。朝、目が覚めて、少し早いか、と適当に新書をパラパラ。大田俊寛『現代オカルトの根源――霊性進化論の光と闇』(ちくま新書)だが、ルドルフ・シュタイナーで有名な神智学(ちくま学芸文庫に、シュタイナーのその名も『神智学』がある)を説明した章だけ読むと、また眠くなり二度寝。起きるといい時間なので、顔を洗って、外に出る。意外も意外、雨が降っている。自転車で行くのは無理か、いや、可能か。三、四度、ドアを開け閉めして悩んでいるうちに、雨足が弱まったので、やはり自転車。できれば、自転車を手放したくはないのだ。学芸大学の大学院で公認モグリ授業、春学期最終回。テキストは、舟橋聖一「ダイヴィング」(1934)。舟橋は、行動主義論争で、名前だけ知っていて読む機会がなかった作家だったので、この選択は嬉しい。主人公のモデルが堤清二だと教わったが、はて、年代的に早すぎやしないか。フェルナンデス‐マルローの行動主義は、虚無を通過してから行動に踏み出すことが重要のようである。なるほど、小松清がやたらとニーチェを強調していた意味がわかった。終了後、研究室でお茶。研究室には、教授の小林秀雄論が置いてあったので、パラパラ読んでいたら、「オカルトという接点――小林秀雄と柳田国男」という章を発見したので、おっ、と思い読んだ。文章は、小林がユリ・ゲラーに言及した講演の話から始まる。この講演は、新潮社からカセットテープとして発売され、その後、CDにもなっている(講演集として、たしか4作品出ている)。かく言う僕も、i-podにこの講演を入れており、ユリ・ゲラーの話から始まり、ベルグソンの話になり、柳田国男の話で締める、というものだ。爆笑問題・太田光も、この講演集を愛聴していると言っていた。アナウンサーの赤江玉緒も最近聴いているとラジオで言っていた。さて先生には、立教大学でおこなわれた演習の、岡田利規「三月の5日間」を扱った回のレジュメをもらった。なんと、4年前に『F』に寄稿した拙論をちゃんと先行研究として紹介してくだすっていて驚いた。あの雑誌を学芸大から取り寄せていたらしく、その熱心さには本当に頭が下がる。ちなみに、発表者のかたは、僕の論を批判的に踏まえて論を展開していた。フロイトを引用して展開されたその論は、僕の立場とは決定的に異なっていたことがわかったけど、演習はさぞ盛り上がっただろうなと思わせるには十分であり、ブログの報告によると実際盛り上がったようだ。帰りに武蔵野うどんに寄って、帰宅。柳田の件があったので、初出は『思想地図』で、改稿ののち『神的批評』(新潮社)に収録された大澤信亮の柳田論を少しだけ読み、溜めた皿を洗い、増設した本棚に本を入れ、眠くなったので寝る。起きたら、この時間。

toshihirock_n_roll at 00:52|PermalinkTrackBack(0) 日記的 | 文学

2013年07月25日

当事者と部外者の問題をいかに突破するか――東浩紀編『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』を読んで

チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1 [単行本(ソフトカバー)]


東浩紀編『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(ゲンロン)は、発売されるまえから、ちょっと関心を持っていました。で、実際に読んだら、やはり興味深かった。まず素朴に思ったことは、本書には、「ダークツーリズム」に真っ向から反対、という人はいないまでも、ダークツーリズムの位置づけ方については、意外にいろんな立場が示されており、「どうせ〜なんでしょ」という批判に対して、東浩紀が「読んでから言え!」と怒る気持ちは、まあ理解できました。とは言え、「読んでから言え!」と言いたくなる批判というのは、おそらくどんな本にもなされがちで、例えば自分が関わった『ジャニ研!』に対してだって、「あいつら、ジャニ研を貶めるのが目的ですから」みたいな感想を見かけたことがあって驚いたわけです。そうか、読まずに決めつけて批判する、ということはあるんだな、と。いや、僕だって、著者の印象だけで勝手に著作の方向付けを決めてしまう、という愚行を犯したことは幾度となくあるし、まあわかるんだけど、どんな本に対してでも、けっこう極端に決めつける人が一定数いるのだとは思います。

チェルノブイリ本に話を戻します。僕の関心は、執筆者のひとりである井出明を照射すると伝えやすい。僕の考えていることは、井出と逆の方向にある。井出は「ある場所で生じた悲しみは、その場にいてこそ、その重さや辛さをリアルに感じることができる」(p.53)と述べているが、僕は逆で、原発事故なら原発事故の「リアル」が、必ずしも「その場」にはない(←「ない」強調)、と考えたい立場なのだ。同じように、「当事者」こそが問題の「リアル」を把持している、という考えにも僕はくみしえない。と、この辺から、批判の声が上がってきそうな気配があるけど、いや、迷いつつも現時点ではやはりそう思う。なぜか。「リアル」が「その場」(あるいは「当事者」)にある、という論理はどうしたって行き詰まってしまうからだ。

「当事者」性の問題を考えたのは、東浩紀の師匠筋にあたる高橋哲哉らのカルチュラル・スタディーズの一派である。僕は高橋哲哉に習ったことはないが、本橋哲也の授業には出ていたことがある。マイノリティへの視線を徹底的に問うて、僕にリベラルのなんたるかを教えてくれた刺激的な授業だった。その授業で言われたことで印象的だった言葉に、「戦争遺族ですらも戦争被害者からすれば当事者にはなりえない」というのがある。スピヴァクの議論に通じる、マイノリティの問題を考えるうえで重要な考え方だと思うが、同時にこれはたいへんな行き詰まりである。遺族すらも「当事者」でないのならば、本当の「当事者」は、すでに話す手段を持たない死者のみになってしまう。さらに言えば、言葉の表象不可能性的な議論を導入すれば、いかに「当事者」であろうと、そこから語られた言葉はすべて「リアル」を取りこぼす。「リアル」が「その場」にある、という考えの行き先は、誰もが口をふさぐという方向性なのだ。ここに、かつて東がツイッター上で問題にした「無限の謝罪」(「無限の祈り」って言ってたっけ?)というキーワードが出てくる。「リアル」に寄り添えない以上、残された者は、その寄り添えなさを自覚して、無限に祈るしかないのだ、という倫理観。倫理的態度としては別にいいと思うのだが、一方で圧倒的に行き詰っている感じがする。同じように、チェルノブイリなり福島なりという「その場」や「当事者」に「リアル」な中心があるので、その中心に近づいて「当事者」の悲しみを共有しよう、という井出的なダークツーリズムの論理は、その問題について考えれば考えるほど、沈黙を強いられるような気がする。だとすれば、ダークツーリズムの射程はもっと別のところにある。

ここはやはり、われらが速水兄貴。とてもいいことを言っている。
 実際のチェルノブイリに足を踏み入れ、それを見ることと作品に描かれたチェルノブイリを見ることとでは、まったく意味合いが違う。しかし、どちらか片方を見たからといって真実がわかるわけではないのだろう。フィクションの中に浮かび上がるものとは、重層的に積み重ねられたチェルノブイリである。(中略)現実とフィクションは、衝突させて善し悪しをいう関係性にはないのだ。(p.148)

速水的には、「現実」(=「リアル」あるいは「当事者」)を見ただけでは「真実」はわからない。というか、ここでは「現実/フィクション」という二項対立を採用していない。考えてみれば当然である。部外者には部外者なりの見方があり、遺族には遺族なりの見方があり、当事者には当事者なりの見方がある。で、当事者から部外者までを包括する理念こそが「ツーリズム」なのだろう。チェルノブイリは圧倒的な出来事だったが、当事者にとってのチェルノブイリから部外者にとってのチェルノブイリまで、さまざまなチェルノブイリ像がある。部外者にとってのチェルノブイリ像の極北として、ゲームの『S.T.A.L.K.E.R.』で描かれたチェルノブイリ像があるというわけだ。だとすれば、どちらに同情的になるかという判断は別個あるとしても、一方のチェルノブイリ像が「リアル」で、もう一方のチェルノブイリ像が「フェイク」だということにはならない。僕が思うチェルノブイリ本の功績は、チェルノブイリ事故においてわりと「当事者」性が強い人々から『S.T.A.L.K.E.R.』の存在意義を引き出した点である。もちろん、なかには苦々しく思いながら、消極的にアリかな程度の態度の人もいたが、「当事者」に近い人が『S.T.A.L.K.E.R.』を認めたとき、「現実/フィクション」の二項対立は少なからず無化されているのだ。とくに、セルゲイ・ミールヌイ氏の軽やかな態度は印象的だった。

速水が言う「重層的に積み上げられたチェルノブイリ」という言葉に、僕は、かつて東浩紀が論じたエクリチュールの概念を思い出す。入り組んだ議論を見直すのは、ちょっとブログということで勘弁していただきたいのだけど、つまり、引用可能性によって言葉それ自体が言葉を産出していくように、チェルノブイリはさまざまな引用可能性によって、まさに重層的なチェルノブイリ像を産出していくということだ。そして、これが、福島を語り継ぐという目的を支える思想だろう。おそらく、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』の狙いはこの思想の提示にある。だから、井出的な立場も、引用可能性のひとつとしてあっていい、ということになるのだろう。各論者の立場をお互いに裏切り合っているという感じもポストモダニズム的と言えばそうか。まあ、なんにせよ、僕は『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』を思想的に支持している。道徳的に、ではない。なぜなら、道徳的になると「当事者」論理が発動して、何も語れなくなるから。それこそが忘却ではないか。忘却はあり得ない。もちろん、「重層的」に記憶を積み上げてく手段が、本当に資本主義的な論理しかないのか、みたいな疑問は、本橋から植えつけられた僕のなかの左翼心から湧いてこないこともない。だから、そういう論点で議論とか起こると面白いかもしれない。でも、被災地をエクリチュール的に捉える、という方向性自体は興味深く思っている。しかも、それが、かつて高橋哲哉のデリダ研究から飛び出して、自身でデリダ論を書いた東浩紀が主導しているという事実が面白い。いや、たぶん、その思想の流れは意識していると思う。

ちなみに言うと、僕は同じことをヒップホップについて考えていた。ヒップホップも「当事者」性がある程度付与されていないと、「フェイク」だと言われがちである。ジブラは、ドラゴン・アッシュと一緒に世に出ることによって、また、バラエティ番組に出ることによって、「当事者」の態度を捨てて、嘲笑を含め「重層的」に語られることを選んだ。マキタスポーツさんのラジオにおいて、それを僕は「ボケ」と呼んだわけだが、マキタさんは『一億総ツッコミ時代』で「ボケ」は「遠心力」(興味のない人のところまで届かせる力)を持つと言っていた。チェルノブイリも福島も、中心に向かっていくのではなく、むしろ外側に向かう「遠心力」を持たせることが重要だろう。



まあ、こういう議論をすること自体、「あなたが当事者じゃないからだ!」という議論に巻き込まれるから大変なんですよね。とある学会で聞いた話だと、ジェンダー論の研究発表会で、最初の質問で「あなたはセクシャル・マイノリティなんですか?」って訊かれた、とのこと。マイノリティの方たちの切実な思いは、もちろん理解というか真剣に向き合わなければならないとは思うけど、正直そのやり方はないよな、と思う。


toshihirock_n_roll at 19:03|Permalink ブック | 思想