2012年01月03日

本年もよろしくお願いいたします。

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

さて、2011年は大きな地震があって、いまだにその記憶はこびりついているわけですが、ネットその他で非常によく議論されていたのは、震災以降に表現はいかにあるべきか、といった類の問いです。このことは、阪神・淡路大震災や911の際にも少なからず議論されていたみたいですが、創作に限らず批評行為なども含め、圧倒的な現実に対してどう向き合うべきか、という議論がいくつか勃発していました。僕自身の基本的な立場としては、やはり佐々木敦さん的な「「音楽になにができるか」などと問う必要はまったくない」(『季刊アルテス』)という言い方がしっくりくるし、加えて、表現者のあり方としては、ツイッターにおける吉田アミさんの発言の「そもそも震災でブレるような表現をしているつもりはない」(ニュアンス)的な啖呵の切り方が素晴らしいと思っています。そう、少なくとも震災以前/以後で表現自体を変更させるという考え方は、あまりない。それは、ある意味、僕が表現というものをやはり〈テクスト〉として捉えているところがあるからです。

『文化系トークラジオLife』の12月のメールテーマは、1年を振り返るという意味で「今年響いた作品」というものでした。発表されたのが今年でなくとも、今年響いたものであればオーケーという趣旨です。良いテーマだと思う。放送では、速水健朗さんが、斉藤和義「ずっとウソだったんだぜ」に対する菊地成孔からのコメントを紹介していました。そうなのだ。圧倒的な出来事を前にして人間が小手先で考えるよりもっと先に、表現はつねに/すでに/とっくに、表現者を離れて自律しており、圧倒的な出来事として生まれていたのである。基本的には、その表現の力を信じていたい。だから、菊地成孔の言う通り、斉藤和義が小手先で考えた(と言ったら、超語弊がありますが)「ずっとウソだったんだぜ」以上に、すでに「歩いて帰ろう」は圧倒的な表現の力を有していたのです。同様に、かつてオウム真理教の事件に際した村上春樹は、『アンダーグラウンド』によって、圧倒的な出来事に対抗しようと試みていましたが、そのイメージはすでに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「やみくろ」として示されていた。このことを指して、自分の先生でもある千田洋幸は、「「やみくろ」は、(略)テクストがかかえこんでしまった根本的な過剰さとしての側面をあらわにすることになる」(『国文学』98・2)と述べていました。起こった出来事に対して、個別にどう向き合っていくかという点は、もちろん、その都度されて然るべきですが、〈起こった出来事〉に対峙する以上に、表現そのものを〈起こるべき出来事〉として世界に放り出す態度のようなものを感じたいと思います。

年末に、佐々木敦『未知との遭遇』(筑摩書房)を読みましたが、とても良い本だと思いました。もっとも僕個人としては、ラジオその他で言われていた佐々木さんの「未知との遭遇」的な考えを少しずつ聴いて、それで少しずつファンになっていったような経緯があるので、共鳴するのは当然と言えば当然です。いろいろと刺激になった部分はあるのですが、やはり「最強の運命論」がハイライトでしょうか。「最強の運命論」の良いところは、個人の視線を離れてもっと大きい世界の視線に同化しちゃうところだと思います。こういう言い方をするとオカルトチックに思われ、ゼミなどでも、こういう発想の仕方を意見すると「矢野はそっち系か」みたいな空気が流れるのですが、でもとにかく、文学や思想などにおいて、個人の視線からいかに逃れていくか、という問題意識は極めて正統なものです。いや、正統とは言えないのかもしれないけど、でもある種の水脈として色濃く存在します。ざっくり言うと、閉鎖的で限界を抱えざるを得ない〈個人〉という枠を外して、もっと豊穣な仕方でこの世界と接しよう、というメッセージとして受け取りました。

すごく悲劇的で、しかもほとんど偶然性に支配されたように感じられる事態に対面したとき、人はその偶然性を恨むわけですが(大澤真幸の言う「終わりの感覚の鈍化」)、その悲劇的な事態とまったく同じように、日々の取るに足らない日常が超奇跡的であるという想像を働かせることは、とても日常を豊かにすると思います。そして、この圧倒的で悲劇的な出来事と取るに足らない出来事を並置させる考え方こそが、「最強の運命論」である、と。僕なんかは、中観仏教で言うところの「空(くう)」をとても連想させるのですが、どうなんでしょう。ちなみに、佐々木さんと千葉雅也のトークを見に行ったのですが、千葉雅也はドゥルーズが引用したホワイトヘッドの言葉を紹介していましたが、僕も2年前に仏教思想とホワイトヘッドに少しだけ関心を持っていたので非常に得心がいきました。加えて言っておくと、なぜ、仏教とホワイトヘッドに関心を持ったかと言えば、その頃、佐々木さんがしきりにおすすめしていた保坂和志スクールの作家たちを読み解くヒントになると思ったからです。一時期、「妄想力」みたいな言葉で、おもに女子会などで「妻夫木が彼氏だったら〜」みたいな妄想をするのが世間で流行っていたような気がして、僕自身は「妄想というか想像みたいなことは誰でもするでしょ」とか思っているのですが、まあ、僕もわりと取るに足らない想像力はたくましいほうかもしれません(比べようもないのでわかりませんが)。で、どういった類の想像力かと言えば、このあいだ現金9千円を落としてしまい、それなりにテンションが落ちたのですが、同時に想像力をたくましくして、9千円拾った人を仮定し、その人に同化し、「うほー、ラッキー!」とテンションを上げる(ちなみに断っておきますが、もし僕自身が拾ったら100%交番に届けます。その意味では、あくまで仮構された存在です)、そういう想像力です。会ったこともない、存在するかもわからない人に自分の存在を投企して、自我を超える。ほら、言葉にするとかなりオカルト的な危なさがありますが、でも、これは文学の本領だし、ヒップホップだってアイドルだって、あるいは大和田俊之さんの『アメリカ音楽史』(講談社選書メチエ)を読めば、音楽だってずっとそうだったのです。こういう考え方は、僕が少なくない人生の中で、いかに悪いことを良いことに転ずるか、という自己防衛によって育まれた想像力です。そして、その根底には高校時代の部活経験があったりもします。とにかく、傷つきたくないという僕自身の弱さがそこにはある気もします。

話が外れてきてますが、とにかく『未知との遭遇』で例に出されていた小沼丹の小説のように、取るに足らない出来事をいかにワンダーなものにするか、というのは僕のある時期からの人生的なテーマのような気もします。そのことは、レア・グルーヴの概念に重ねて、大学卒業時「国文学だより」にも書きました。つらいことを「つらいこと」だと認識する〈個〉という牢獄からいかに解放するか、という問題です。だから、3歳児にして「僕に精神の自由はない!」と叫んだ中野裕太が、〈個〉の牢獄からの解放を目指して俳優になった、というのは、すごく説得力のある動機なんです。僕が編集者だったら、佐々木さんと中野裕太を対談させたい。それで、この〈個人〉へのある種の不信感や諦念というのは、僕からすれば、同時期に読んだ東浩紀『一般意志2.0』(講談社)にも色濃くて、「未知」的なものをむしろ可視化することで政治はネクストステージに行くんじゃないの?、という読み方をしました。おまけに言うと、こうした考え方は、アプローチは違うけど、やはり佐々木中さんも思い浮かぶし、そのへんはみんなで座談会とかやって欲しいなあ、と思うこと頻りです。なんか仲良くなさそうな雰囲気はありますが、手を取り合って。

とにかく、ブログの読者さまがどれほどにどこにいるのかわかりませんが、本年もよろしくお願いいたします。とりとめのないスタートとなりました。

toshihirock_n_roll at 20:51│