2012年04月10日
ヒップホップはパンクではなく、ましてやテクノでもない。――教員の立場から読んだ、B.I.G. JOE『監獄ラッパー』(リットー・ミュージック)

ヒップホップはパンクではない、とつねづね思っていた。ヒップホップの快楽は、やはり約束事を守る快楽だと思う。ルールを遵守する快楽だと思う。ラッパーによる獄中記である、ビッグ・ジョー『監獄ラッパー』(リットー・ミュージック 11・8)は、法律を犯した時点から始まるが、あとがきで「本物のギャングたちは忙しくてラップどころではありません」と書かれるように、彼は、自身のイリーガルな側面をラッパーとしての自分だと考えていない。では、ラッパーであるビッグ・ジョーはどこにいるのか。もちろん、読んだ誰もが印象に残っているだろう、カセットデッキを分解して、電話口で、など様々な形で試みられるラップの録音である。ビッグ・ジョーは、このことについて、次のように語っている。
なかには違法に携帯電話を手に入れて、チャットやビデオ・メールで遊ぶ受刑者もいたが、そういうやり方で録音するのは、受けとる側のメッセージが違ってくると思ったので、それを僕がやることはなかった。僕は与えられた最低限の環境を使ってクリエイトし続けることに、この行為の意味があると思った。
それこそが70年代後半に黒人コミュニティーやゲットーで発祥したヒップホップというものだ。
ビッグ・ジョーははっきりと言っている。「違法」は違う、と。そして、ヒップホップの名のもと、「僕は与えられた最低限の環境を使ってクリエイトし続けることに、この行為の意味があると思った」と言っている。ビッグ・ジョーがおこなっていることは、本人も書いているように、もちろん見つかればペナルティが科されるだろう。グレーゾーンどころか違法だと思う。しかし、切迫した、最終的な決断のときに、ルールを破るのではなく、ルールをぎりぎり守るのが、ヒップホップある。ビッグ・ジョーはそう言っている。だから、DJは他人の曲を読み換えるのだ。だから、グラフィティー・アーティストは風景を書き換えるのだ。壊すのではなく、残す。
ヒップホップの、この保守的な態度は、どこまでも退屈な僕にとって、実は大きな意味を持っていたのではないか。なぜか、ヒップホップはパンクと並列されがちだ、あるいは、テクノと並列されがちだ。僕は全然違う、と思うのである。ヒップホップは、決められたことを〈反復〉する。どんなに切迫したときでも、ルールをぎりぎり守る。リスペクトして見習う。他人のお手本になる。とても抑圧的な学校のようだ。僕の好きなKRSワンは、自らを「teacher」とし、「edu-tainment」と言っていた(KRSワン「Edutainment」)。クール・ハークは「他人の手本(ロール・モデル)になれ」と言っていた。
教員をやって理解したことがある。僕自身は、学校の授業の約束事の多さにはうんざりしていた。とくに国語が得意だったので、教師が提示するルールは不自由な枷としか思わなかった。教員になって、このルールは国語が苦手な生徒に向けられていたのだな、と気付いた。やっと気付いた。規律訓練、均質化――もちろん、過剰なものは批判されるべきだが、一方で、なるほど約束事の上に全員が開かれている、と思った。ヒップホップは、ルールをぎりぎり守る。保守的だが、ルールというのは、それさえ守れば誰もが参入できるものである。持つ者も持たざる者も。ルールをぎりぎり守るというのは、ヒップホップを、そうした誰でも参入できる場所として開いておくことなのではないか。学校的な価値観から逸脱することもできず、あまつさえ教員にまでなってしまった僕は、だからこそ、ヒップホップにどうしようもなく魅了されるときがある。それは、パンクでもなく、テクノでもない。パンクは共同体化への意志が弱いように思える。テクノは歴史化への意志が弱いように思える。ヒップホップは、包括的だが、ときに暴力的で排除的である。まるで、教室空間のようだ。だとすれば、退屈な教室空間に耐えながら、ルールを守りながら、抑圧的で教育的でありながら、その裂け目から出現する特異な表現を探るべきである。教育的な部分を残しながら、その裂け目で享楽的に生きる。――「edu-tainment」に他ならないではないか。