2014年03月11日

ポエジーをいかに獲得するか――文化系トークラジオLife「超絶! ポエム化社会」感想戦

『文化系トークラジオLife』の2月回「超絶!ポエム化社会」が面白かったです。僕的には、「信じる論理、信じさせる倫理」「楽しくやろうというけれど」「僕たちは社会を変えることができない」などのラインの、現実的な社会のリアリティに片方の足を着けつつ、もう片方の足でこれからのことを探っていくような回、だと思いました。単なる社会の現状分析ではない。もちろん『Life』という番組はいつもそういうことをやっているのですが、今回はとくにそういう面が出ていたのではないかと思います。で、そういう回は個人的に好きです。ということで、せっかくなので、感想戦というか個人的な延長戦へ。

僕は、外伝2で話す機会がありましたが、あれもこれも、と思っているうちに、言いたいことが言えたような言えなかったような、でした。僕は、それを「ポエム」という語では考えていなかったけど、やはり職業柄、〈ことば〉について自分なりに考えることは多いです。放送でも言ったように、友人と接するときや生徒と接するとき、彼らの〈ことば〉がすごくJポップ的だと思うことがあります。もちろん、自分自身がそうなっていることもあります。「Jポップ的」を具体的に言うと、これも放送で言ったことですが、とくにGReeeeN「キセキ」と西野カナ「Best Friend」(←この曲は、けっこう好きです)、あるいはいくつかの感謝系ラップあたりの、ざっくりとした〈ことば〉です。そういう〈ことば〉でなさざるをえないコミュニケーションがあることは重々承知しているつもりなので、そういった〈ことば〉自体を「稚拙」とか「軽い」とか言う気はありません。僕は、〈ことば〉の機能は文脈によって変化していくと考える立場です。お茶の間が存在していた時代の歌手が発する〈ことば〉とカラオケ以降のアーティストが発する〈ことば〉は、ある程度変わっていくべきだと思います。しかし、もどかしいのは、知らず知らずのうちにそういう〈ことば〉の規範に乗っかって苦しくなったり、自分ではユニークだと思っている〈ことば〉が、ある面からはものすごく凡庸である、という事態です。やはり、文学教育に携わっている以上、詩的言語の教育可能性を考えたい。

放送では、知らず知らずのうちにJポップ的な話型に陥った小論文の話をした記憶があります。おそらくここには、「素直な気持ち」問題がある。「素直な気持ち」とは、2011年8月の『Life』(テーマ「祭りの時代」)で、フジテレビデモに触れながらチャーリーさんが提起した言葉です。チャーリーさんの話とは、まるごとは重ならないと思いますが(半分は重なると思う)、僕もつねづね「素直な気持ち」から発せられる〈ことば〉は厄介だなあ、と思っていました。今回の放送でもそのことを少し言いましたが、「素直」性によって正統性を与えられる〈ことば〉はとても凡庸だと思うし、そこではおうおうにして、その「素直な気持ち」が寄りかかっているものが見落とされがちです。教員としての僕が気になるのは、みんなが揃いも揃ってJポップ的な話型に寄りかかりがちではないか、ということです(むろん、教室・学校の安易な一般化は禁物です。自分が見た3校の範囲)。揃いも揃ったJポップ的な〈ことば〉はただし、論理性もあるし、言葉遣いに間違いもない。言われている内容もとても真っ当である。したがって、国語的には満点の〈ことば〉に違いないのだが、同時に圧倒的に凡庸である。これが悩ましい。というか、国語教育史的には、むしろ他ならぬ初等〜中等の国語教育のシステムこそ、凡庸な「素直な気持ち」の〈ことば〉を量産してきたのだと思います。Jポップ的な〈ことば〉は、綴り方教育・作文教育の産物でもあるかもしれません。

では、どうするか。放送でも言いましたが、僕は〈ことば〉に対して、わりとロマンティックに思うところがあるので、「まず言葉ありき」という姿勢でいます。書き手や話し手が貧相な頭で考えたこと以上に、〈ことば〉はそれ自体が豊饒だ、と。これはラップから学んだことでもあります。ラップは自分の内奥にあるギリギリの言葉を表現する手段ではない(←「ない」強調)、というのが僕の立場です。なぜなら、これだとフリースタイルによって組織化される、でたらめでユニークな〈ことば〉たちの説明がつけられないからです。むしろ、マミー・Dが言うように「韻踏んじゃったらお前もライマー」(「グレート・アマチュアリズム」)という姿勢をこそ重要視したいです。自分の「素直な気持ち」はいったん措いておいて、まずは「踏め!」というメッセージ。そうすれば、ライミングに導かれながら、ゆるやかに自分の〈ことば〉が組織化され始めるはずです。ラップが「素直な気持ち」や「ギリギリの言葉」と手を取り合うのは、そのあとでよろしい。ラップ初心者は、メッセージ性から出発せずに、単語レベルのライミングとフロウから始めたほうがいい、と自分の経験上からも思います。だから、書けない生徒には、「でたらめで良いから、まずは書け(=踏め)」という指導になるでしょう。放送では、「結論をひっくり返してみよう」というオレ流マニュアルを話しましたが、これは実際にやっていることです。ひっくり返さないまでも、「でたらめで良いから、まずは結論を先に書いてみよう」ということは、よく言います。生徒のみんなを見ていると、論文が難しいのは、いままでは他人と〈同じ答え〉が求められていたはずなのに、論文になると急に、他人と〈違う答え〉が求められるからなのだ、という感じがします。他人との差異化する、オリジナリティーのある答えが、論文では求められるのです。そうでなければ、それは一般論だから。そうなると、これまで育まれてきた「素直な気持ち」という超一般論はすぐ限界が来る。だから、そういう論文構想に「C」評価を付けられると、あとは手の打ちようがなくなるのだと思います。とてもよくわかる。では、だとすれば、自分の内奥にあるものはいったん措いておいて、自分より豊饒な〈ことば〉の力を借りる必要が出てくるのではないか。

感謝系ラップの問題(?)も、ラップが「素直な気持ち」に支えられている、という捉え方にあるような気がします。これも放送で触れたと思いますが、とある先鋭的なヒップホップのユニット(僕もファンだし、一緒にイベントをしていたこともあります)による母親へ宛てた感謝の曲が、先鋭的なサウンドと先鋭的なフロウに不相応な、あまりにも凡庸な〈ことば〉だったので驚いたことがあります。アメブレイクのインタビューを読むと、案の定、セルアウトと思われるかもしれないけど「素直な気持ち」だから堂々と出すことにした、みたいなことを言っている。それにしても、なぜこんなにも凡庸だと感じるのか。自分なりに分析してみると、(貎討髻屬△覆拭廚噺討咾け、△任垢泙皇瓦鰺僂ぁ↓いままで好き勝手に生活していたけど、ぢ膺佑砲覆辰燭蕁屬△覆拭廚梁臺僂気傍い鼎、例えば、イい弔癲屬△覆拭廚録暇靴垢詼佑魑こしてくれたよね、Δい弔癲屬△覆拭廚蓮⊆分の分をあとまわしにして僕を優先させてくれたね、みたいな内容を歌う、という話型と〈ことば〉の数々が、シーモ「MOTHER」にそっくりじゃん、ということがわかりました。先に言ったように、そういう〈ことば〉が良いとか悪いとかといった評価は、好みや文脈によって変わると思います。だから、これをGReeeNが歌えば、むしろ「フロウがやばいね」という評価になったのかもしれない。でも、先鋭的なことをやり続けていたユニットにそれをやられると、戸惑ってしまいます。というか、あなたの「素直な気持ち」は全然「素直」ではなく、がっつりシーモに寄りかかっているんだよ、と教員の立場として言いたくなります。作文としてはよくできているかもしれないけど、論文としては一般論に過ぎる、と。

感謝系ラップはもちろんヒップホップのマナーでもあるので、それ自体はあってしかるべきでしょう。Kダブ・シャインにも、「今なら」という母へ宛てた感謝系ラップがあります。でも、その歌詞はやはりユニークです。いちばん面白かったのは、「いままでしてきた親不孝 いつか連れてくよオアフ島」というライン。ギリギリ駄洒落のようで楽しい。そこで、こう問いたい。Kダブは、本当にオアフ島に連れて行きたかったのか? ひとりで育ててくれた母親に感謝する「素直な気持ち」は疑うべきもないが、「オアフ島」という固有名は、「親不孝」という〈ことば〉のライムに導かれてはいないか? これは、本当に単なる「素直な気持ち」なのか? いや、違うでしょう。〈ことば〉が自分を外に連れて行っているのである。「親不孝」という〈ことば〉に導かれて、半歩外に出たところで「オアフ島」は発見される。同じことを論文指導で考える。というか、自分が論文や批評を書くときは、本当にそういう気持ちである。まず書く。そうすると、一語一語に導かれるようである。先行研究を引用すると、引用の文章を打ち込んでいるときに新しい発見があって、半歩ずつ論旨がずれていく。凡庸な自分の主張から離れて、書き始めたときには思ってもみなかった主張が表れてくる。そういう事物を日常から切り離す作用を「異化」作用(シクロフスキー)と言い、そういう〈ことば〉を詩的言語と呼ぶ。そして、そういう〈ことば〉は論文指導のうえでは、どストライクに評価対象なのである。まず書いたところの、先行する〈ことば〉に導かれながら自分の〈ことば〉を模索する、というのは、先行論を参照しながら自分の論を練り上げていくことに他ならず、これはそのまま論文執筆の手つきである。

まず書きなさい。まず結論を言ってみなさい。そこから逆向きに「素直な気持ち」に戻って行きなさい。ワンフレーズ・ポリティクス的で自己啓発的なポエムの〈ことば〉は、やはり抵抗感があります。それは凡庸な「素直な気持ち」を喚起しすぎる。「素直な気持ち」に支えられた強い一般論は、やはり危険な匂いがする。そうではなくて、凡庸な「素直な気持ち」に陥らず、いかに〈ことば〉のポエジーを獲得するか、が重要だと思います。そして、その〈ことば〉のポエジーをいかに復元し、再現可能なものとして、教育のシステムに乗せるか。唯一無二の詩的言語(オリジナリティ!)の表象=再現可能性(レペゼン!)を探ること――これが、「ヒット・レコードや新鮮なライムが生まれるとき秘密、それは君と聴衆が一つになり、君は単に体を揺らしているだけになる、そんな瞬間にある」と言った、KRSワン(a.k.a. THE TEACHA!)流エデュテイメントの、オレ解釈であります。番組では、「ポエム化社会のような現代にあって、そのなかで届く言葉を考えたい」とありました。単なるポエム化社会批判にならない点が、とてもチャーリーさんっぽくて良い!、と思った一方で、ヒップホップ主義者からすると、これは問いの立てかたが少し違うのではないか、と書きながら思いました。あらかじめ存在する言葉が、一方から一方へ伝達されたり、されなかたったりするモデルではなく、複数の関係性のなかで生成されるような〈ことば〉。わたしを外に連れ出し、あなたも外に連れ出すような〈ことば〉。そういう〈ことば〉のありかたを、自分としては考えている感じがします。『SRサイタマノラッパー3』ラストの刑務所で、IKKUとトムは、マイティの言葉尻をつかまえて、マイティの言葉を踏むことによって、自分たちの〈ことば〉を練り上げていました。あのラップのかけあいは、本当に感動的だったなあ。

toshihirock_n_roll at 23:25│TrackBack(0) 教育 | ラジオ

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