2016年08月02日

都知事選を終えて

昨日は投票後に仕事。夜に終わり、その後、少し酒の席へ。都知事選は「どうしても投票先がない」という意志を反映させた。個人的には、民進党結成以前から、シングルイシューで野党共闘すべし、と考えていたので、だとすれば、投票先は鳥越俊太郎ということになろう。しかし、それがどうしてもできなかった。宇都宮健児を不当に(と思っている)降ろした、という経緯があるからだ。さらに、鳥越を支持しなかった宇都宮に対する、反安倍勢力によるバッシングを見たからだ。基本的に宇都宮を応援しているが、別に宇都宮が攻撃されたこと自体が問題なわけではない。

スガ秀実がかつて、華青闘告発をマイノリティ・ポリティクスの嚆矢と位置付けていた。他方、野間易通は以前、華青闘告発のようなものが運動の足を引っ張る、みたいなことをツイッターで言っていた。(単純化して言うが)「当事者性」という名の細かい差異に配慮しすぎることで運動が停滞する、ということだ。東浩紀による「無限に祈る」批判ではないが、ロマンティックに〈他者〉を言いの募ることによって制度設計なり運動なりが行き詰っているのではないか、という予感は僕自身も抱いていた。それはかえって、マイノリティに対してなんの力にもなっていないのではないか、と。だから、ある種の単純化をともなった、反原発以降の動員的性格の強い運動に対しては、かなりの葛藤や複雑な気持ちを抱えつつも、どこかクレバーさを感じているところもあった。しばき隊もカウンターも野党共闘の立場も、そうした点において共感・感心するところがあった。

しかし、最近はさすがに疑問である。戦略的に細かい差異を消去していたはずの動員において、見事に、細かい差異に起因する内ゲバが生まれている。「わたしたち」の動員に乗らない対象に対して、かなりベタに暴力を働いている。リンチ事件はもちろん、宇都宮降ろしのさいも脅迫まがいのことがおこなわれたという話がある。細かい差異を消去して連帯していたはずが、それ以上に細かい差異から排他的になっている。鳥越支援のために宇都宮バッシングが起こるとは、完全に迷走している。なんだろう、このねじれた暴力性は。連合赤軍事件のベタな反復なのか。それとも、なにか新しい局面なのか。いずれにせよ、野党連合の鳥越に投票すると、この暴力的な動員を認めてしまうように思えた。

動員の怖さみたいなことはよく言われる。そのために、物事を批判/批評的に見ましょう、と。しかし、この件については逆で、批判/批評的なまなざしこそがベタな暴力を生んでいるように感じる。みずからの暴力性が省みられる気配がないという点で、とてもおそろしい。これが、大澤真幸の言うアイロニカルな没入というやつなのだろうか。あるいは、北田暁大の言うネタのベタ化というやつなのだろうか。少し異なるようにも思う。とは言え、運動がはらむ暴力性については、平野謙による女房論のころからくり返し指摘されてきたことでもある。いったい現在とは、どういう時代なのだろう。大局的な政治思想史のなかから見るべきなのだろう。というか、だからこそ、そういう本が多く出ているのだろう。

toshihirock_n_roll at 01:09│TrackBack(0) 思想 | 雑感

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