2018年03月09日

博士の異常な欲望――『藝人春秋2』の蒐集

たしか2012年の年末、『文化系トークラジオLife』(TBSラジオ)に出演したとき、今年の一冊として、水道橋博士『藝人春秋』(と、安藤礼二『祝祭の書物』)を紹介しました。道化論ばかり読んでいた時期でもあり、タイミング的なことも含め、とても刺激的な読書体験だったので、のちに長い感想をブログに書きました。その感想については、博士さん自身もリアクションしてくれました。

「境界領域に立つ者のドキュメント――水道橋博士『藝人春秋』(文藝春秋)を読んで」
http://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/51757877.html

続編となる『藝人春秋2(上)(下)』をずいぶんまえに読みました。博士さん自身、広く書評・感想を求める旨、ネットで発言していたので、今回も書こうと思います。ただ、あまりにも多くの仕掛けがある本書を読み解くのは、たぶん僕の知識と注意力では限界がありそうです。だって、上下巻を貫く「芝浜」の円環構造とか全然気づかなかったよ! 博士さんによる仕掛けの数々は、枡野さんと古泉さんによる『本と雑談ラジオ』でもいろいろ明かされているので、そちらをおすすめします(そして、TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』2018年2月20日回を聴くことをおすすめします)。だからここでは、必ずしも著者自身が意識していない(と思われる)本書の構造について書きたいと思います。本人すら了解していないことを「こうなのだ」と言い募るのが、批評家の詐欺師的性質だ。

僕は前作のテーマを、彼岸(芸能界)と此岸(日常)をつなぐことだと捉えていた。異形な芸能人を語ってきた文章が、障害者の存在に触れながら、最終的に死者(彼岸の住人)に捧げられることで終わる。彼岸と此岸をつなぐ『藝人春秋1』の、その構成がとても見事で感銘を受けた。だとすれば、博士はそのとき、彼岸/此岸の境界に立つ道化的な存在となっている。一方続編となる今作では、その立場を一歩進める。芸能界に対してはより介入的になり、さらにそれは政界にまで及ぶ。異形の者たちが集う彼岸に潜入して、彼らを撃つこと。『藝人春秋2』では、『007』になぞらえながら、スパイとしての自身の状況介入的な立場を明確に打ち出している。

道化からスパイへ。あるいは、道化から探偵へ。

本書において、まず見るべきはこの点だ。では、これはなにを意味するのか。通常読み取られるべきは、問題ある政治家への、そして、それに加担するメディアへの批判姿勢である。橋下徹、石原慎太郎、猪瀬直樹など、ウォッチされるべき公人に対して博士の追及は厳しい。『週刊文春』のメイン記事にすべきとも思える社会的な問題を、竹中労のルポさながらに追っていく。社会や政治に対する状況介入的な態度は、前作にはなかった本書の大きな特徴である。スパイとなった博士は、自らの筆で敵を始末しようとしている。「死ぬのは奴らだ」と。

しかし、そこまで踏まえてなお、スパイであることの真の意味は別のところにあるのではないか、と思える。今年定年を迎えた、学魔こと高山宏は、19世紀末のヴィクトリア朝イギリスについて考えるなかで、コナン・ドイルが作り出した、探偵シャーロック・ホームズにおける蒐集の欲望について論じる(「殺す・集める・読む――シャーロック・ホームズの世紀末」『アリス狩り』)。高山によれば、ホームズもワトスンも、社交界の記録、官界の醜聞、人事関係、事件関係の一切を収集し、索引化し、所有し、捜査の材料とする。ホームズの推理は、これらの断片を独自につなぎ合わせることで、通常の人には見えないものを紡いでいくのだが、そのとき「ホームズは事実そのものの集積に、索引のための材料のコレクションに熱中しているのである」。そこには、世界を文字化し、索引化するというホームズの異常な蒐集の欲望がある。
かれにとっては世界よりも、世界の文字化、索引化の方が魅惑的である。ホームズの索引とワトソンの日記で世界は二重に文字へと平板化され、ホームズの部屋の中へ、アルファベットの秩序の中へ、コナン・ドイルの意識の中へと「所有」される。世界が文字へと標本化されると言ってもよい。

そしてホームズとワトソンの、世界を文字の裡に収集するという感性を、ホームズ作品そのものが見事になぞっていく。推理小説ほど細部(ディティル)が「伏線」として重要なジャンルはないわけだから、それを口実にして、ここでは世紀末文学特有の細部への惑溺趣味は存分にそのはけ口を見出すことができたのである。

僕が言いたいのは、博士は二重スパイだった、ということだ。道化という立場から権力を撃つスパイとなった博士が、人知れず『藝人春秋2』に密輸入したものは、実は、このホームズ的な蒐集の欲望に他ならない。したがって、高山にならってこう言おう。博士は、権力を撃つことを口実に、事実そのものの集積に、索引のための材料のコレクションに、熱中しているのである。目を凝らして、どんな些細な情報も見逃さない。本書において、博士の蒐集や記録の欲望はくりかえし自己確認される。
その夜から、彼はテレビ界の要注意人物として、ボクの観察対象としてスタメン入りした。(上巻p.24)

テレビを見ていてもスルーできない発言は、そのまま心に引っかかり、録画を残し、メモに取る。(上巻・p.42)

自分を含めて、同時代人の年表作りは、ボクの趣味でありライフワークなのだ。(上巻・p.258)

これほどまでにボクが揺るぎなく小倉伝説を語れるのは、草野伝説と同様、伝聞だけでなく、資料にあたり、本人に裏取りをしているからだ。(下巻・p.26)

さて、この項を読みながら読者は不思議に思うだろう。なぜ、ボクが猪瀬直樹について、ここまで事細かに書けるのか?/それは、ボクが幼少の頃から記録魔で、習性のようにメモや日記を残しているからだ。(下巻・p.80)

この章では、ボクが20年に渡って書き続けている日記を軸に、資料や関連項目をピックアップし、日付や放送資料の裏を取りつつ、当時の模様を振り返ろうと思う。(下巻・p.141)

拠り所にする言葉が枯れると、新たな言葉を探して本の海をひとり泳ぎ、潜水した。(下巻・p.322)

一見、社会派ですらある本書の底辺に流れているのは、あらゆる事実を蒐集しようという博士の異常な欲望である。もちろん、政治家を追及するさいの博士の正義感は疑うべくもない。しかし、正義感を発揮するそのさなかでさえ、博士の異常な欲望は作動している。博士が行動を起こすとき、いつかこの現実を文字化して記録することを、あわよくば作品化することを、念頭に置いていなかったか。

考えてみれば、博士はつねにそうだった。博士が欠かさずに記している日記、惚れ込んだ人の年表作り、下調べと裏取りへの執着。明らかに過剰な博士の細やかさは、その異常な蒐集への欲望によって支えられている。壁一面に本のコレクションが並んでいるという博士の仕事部屋の存在は、室内を資料館化し博物館化し標本化する19世紀末の時代精神に通ずる。

そもそも、本書における事細かなエピソードの数々自体、異常な情報蒐集の結果ではないか。高山は、「まずホームズの頭の中には過去の事件が全て記憶されていて、これから自在な引用を織り合わせて新しい事件の織物(テクスト)を構成していく」と論じている。標本化され索引化された事実の断片をサンプリングし全体像を立ち上げること。通常は気づかない事実の重なりに物語を見出す博士一流の「星座」の提示は、細部の観察によって事件の全貌をつかもうとする点で、極めて探偵的な手つきでもある。道化からスパイへ、道化から探偵へ、という転身で露わになったのは、蒐集癖という博士の異常な欲望だ!

『藝人春秋2』の真の主題(テーマ)は、博士が手を変え品を変え事実を蒐集する、ということだ。ショッキングな告発的ルポルタージュさえ、『藝人春秋2』全体の構造からしたらサブテーマとなる。だとすれば、『藝人春秋2』の構造において博士の本当の敵は、橋下徹でも石原慎太郎でも猪瀬直樹でもない。

博士が真に打倒すべきは、大瀧詠一その人だ。

『藝人春秋2』の構造を真におびやかすのは、福生の自宅であらゆる情報を蒐集する大瀧詠一に他ならない。同じ「スペクター」でも、デーブではなく、フィル・スペクターの影響下にある大瀧詠一に。

実際、高田先生に連れられた大瀧詠一宅の蒐集(「コレクション」)は、異常にもほどがある。「ウィスパー・カード」やソノシートを含めた「数万枚はあろうかというEPとLP」、「数万本はあるだろう」ビデオテープ。極めつけは、「録画モード」で動き続けている「無数のビデオデッキと最新鋭の小型8mmデッキ群」。さらに、「日本の地方局くらいなら全部、観れちゃうし、聴ける」くらいのパラボナアンテナ。人並外れた蒐集行為によって支えられている本書は、語り部である博士以上の蒐集家が出現によっておびやかされる。世界中の情報を蒐集する大瀧との対面こそ、本書におけるもっともクリティカル(危機的=批評的)な場面である。

だからこそ博士は、大瀧の情報量に必死に食らいつこうとする。事実を蒐集して創造的につなぎ合わせる、そんな真の探偵は誰か。七変化する探偵の多羅尾伴内(大瀧詠一の変名でもある)は誰か。本書における真の闘争は、その点にあった。少なからぬ人が言っていたように、大瀧詠一の章に読み応えを感じるとすれば、それは、大瀧詠一の章こそが本書の構造的なハイライトだったからだ。余裕たっぷりに相手を迎える大瀧詠一は、「スペクター」の首領にまことにふさわしかった。

本書の構造を明らかにしたとき、スパイはふたたび藝人に戻るだろう。本書を通読してみれば、博士があらゆる情報を蒐集するのは、必ずしも敵を撃つためだけではないことがわかる。独自につなげ、まだ見ぬ景色=星座を提示するためだ。謎かけもダジャレも漫才のボケも、一見無関係な二項をつなげることでおかしさ(滑稽/奇怪)をもたらす。政治批判自体が目的化されているわけではない。蒐集してつなげるという藝人的な身振りが、本書においてはスパイの告発として機能しているのだ。

大瀧との対決は博士が相手を最大限に称えることで閉じられるが、その言葉は、なにより蒐集をめぐる闘争だったことを表している。――すなわち、「あなたが風をあつめたように、思わず笑ってしまう話をボクもあつめます」と。世界を文字化する蒐集の欲望こそが、『藝人春秋2』という言葉の世界を創り上げているのだ。


藝人春秋2 下 死ぬのは奴らだ
水道橋博士
文藝春秋
2017-11-30



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