2018年03月28日

1991年と小室哲哉のコンプレックス――LL教室の試験に出ない90年代J-POP[1991年編]に向けて

いよいよ、星野概念さんを迎えたLL教室のイベントが近づいてきました! まだまだ席に余裕があるみたいなので、ぜひ予約・参加して欲しいです!

4月1日(日)@荻窪velvet sun
LL教室の試験に出ない90年代J-POP[1991年編]
ゲスト:星野概念(精神科医、ミュージシャン)
http://www.velvetsun.jp/new-events/2018/4/1/41-ll90j-pop-1991ll

「1990年代」というディケイドの括りではなく、1年ごとの区切りで見て行こう、という趣旨で始まったこのシリーズ、なるほど「1991年」という共時性で見えてくるものがありそうです。LL教室・ハシノ先生のブログもぜひご一読ください。

「1991年のこと」―森の掟
http://guatarro.hatenablog.com/entry/2018/03/25/010506

思ったのは、1991年には、次なる時代を彩る多くのジャンルが出揃っているな、ということ。ハシノ先生のブログで言えば、ニルヴァーナ『NEVERMIND』の出現もあって、アメリカでメタルからグランジへの移行が始まったこと(映画『レスラー』における「ニルヴァーナが出てきてダメになった」というセリフは、「プロレス」的フィクションが受け入れられなくなった時代を示す名セリフだ!)。とは言え、日本ではまだまだメタル人気が高かったこと。ダンスカルチャーのがロックに合流した、マイ・ブラッディ―・バレンタイン『LOVELESS』の年であること。ダンスカルチャーと言えば、電気グルーヴがメジャーデビューをして、日本でテクノが市民権を得ていく時期とも言えます。あるいは、レッド・ホット・チリペッパーズ『BLOOD SUGAR SEX MAGIK』の年であること。ヒップホップの領域では、デ・ラ・ソウルやア・トライブ・コールド・クエストなどのネイティヴ・タン勢によるニュースクールの時代で、その日本版とも言えるスチャダラパーがメジャーデビューをしています。あらゆる音楽をコラージュしたフリッパーズ・ギター『ヘッド博士の世界塔』がリリースされたのも1991年です。

「1991年」という年で輪切りにしたとき、国境を越えてさまざまな音楽が流れ込み、それがかたちになっていったようなイメージを抱きます。このような傾向はもちろん、戦後からゆるやかにあったのだろうけど、一方で、湾岸戦争が起こった1991年が冷戦崩壊前後の時代であることを考えると、グローバルな経済活動の促進と歩みをそろえているような気にもなってきます。前述のスチャダラパーは、この年、「ボーズBar〜Yo! 国際Hah」という曲を歌っています。「24時間働けますか」というバブル直前の狂騒のなかで、強迫的ながんばれソングや、それとは裏腹の新興宗教問題とかも潜在しており、当時の社会背景がおぼろげに浮かんでくるようです。

久しぶりに、烏賀陽弘道『Jポップとは何か』(岩波新書)を読み直したら、1991年に関することで面白いことが書いてありました。1980年代以降の音楽現場におけるデジタル化に触れたところです。

このデジタル技術がもたらした機械化・省力化・効率化がどれほどすさまじい大量生産を生んだか数字を挙げよう。九一年、なんと一年で五百十組の歌手・バンドがデビューしたのである。


このような音楽バブルとでも言うべき状況が、90年代のメガヒットの時代を形成します。そのトップに君臨するのはやはり小室哲哉だと思いますが、興味深いことに、楽譜も読めない小室はまさに、音
楽におけるデジタル化の申し子だったということです。烏賀陽も「こうしたデジタル技術が楽器や音楽制作の現場に入ってこなければ、小室の成功もなかっただろう」と書いています。

1991年のヒット曲のひとつに、チャゲ&飛鳥「SAY YES」がありますが、飛鳥は小室との対談(『小室哲哉 with t vol.1』幻冬舎)のなかで、デジタル技術が自身の楽曲制作に与えた影響を語っています。

八〇年代、いわゆる打ち込みものが主流になる頃、僕は新しもの好きだったから注目しててね。そしたら、たまたま知り合いがそれに飛びついて、そこに足繁く通っててね、興味湧い
ちゃったんだよ。
(中略)で、実際作り出して、それで打ち込みも自分で始めちゃったでしょ。それからだよね、曲作るのが面白くなって、いわゆる量産体制っていうのかな? いいものも悪いものも含めてたくさん作ったかな。

その後、小室と飛鳥は、吉田拓郎がいかに機材マニアかという話で盛り上がるのですが、1980年代を通じて普及していくデジタル技術が、表面的にも潜在的にも、1990年代の音楽を支えているのが面白いです。飛鳥に関して言えば、デジタル化という外在的な要因が創作意欲につながっている、ということです。ちなみに、ゲストの星野概念さん(精神科医・ミュージシャン)は今回、「SAY YES」はじめ、チャゲ&飛鳥の歌詞について語ってくれるのですが、これがとても面白かったです。僕も文芸批評的な立場から、歌詞分析を試みることができたらと思っていますが、まだなんとも。

さて、小室とデジタル技術の話ですが、たしかに、小室にとってシンセサイザーというのはとても大事なものです。ナンシー関が以前、「小室にとってシンセサイザーはアイデンティティそのものだ」といったことを指摘していました。というのも、もともとメタル少年だった小室は、その細い腕がコンプレックスだった。そんな小室少年は、シンセサイザーを手にしたとき、これでエレキギターに対抗できると確信した、というエピソードがあります。小室にとってテクノとは、日本人であらざるを得ない自分がメタル的なハードさを表現するものだったというわけです。

このことは、小室に限らないのかもしれない。1991年は、B’z「Lady Navigation」、SMAPのデビュー曲「Can’t Stop」の年でもありますが、これらに共通するのは、打ち込みのビートとエレキギターということです。ビーイング勢含め、この頃のJポップは妙に、打ち込みとハードのギターという組み合わせが多いです。デジロック的ということなのかもしれませんが、印象としては、同じBPMのもと、メタルのノリをテクノとふしだらにつなげているような感じ。個人的には、この打ち込みとハードなギターというのが、すごく日本的なJポップの風景に見えます。その感じは例えば、宇多田ヒカル「Movin’ on without you」とかにまで感じます。

もしかしたら、日本人によるメタルの夢としての「Jテクノ」とでも言うべき磁場が、Jポップのある一角を占めているのではないか。例えば、小室とYOSHIKIによるユニット、V2はその儚い夢として見るべきではないか。「Jテクノ」があるとしたら、その萌芽は1991年にあるのではないか。さまざまなジャンルが出揃った1991年に。「1991年」という区切りで見えない風景が見えてくるような、そんなイベントになればと思います。ぜひ、来てください!

toshihirock_n_roll at 22:44│ 音楽 | イベント