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painting by サンデーKU
 
知人のblogに載っていた、ある俳句評を読んで考えこんで
しまった。 
それは、俳句における「抽象性」の是非についてのコメント。
 
「抽象的な言葉の俳句は、作者本人はよく分かっており、
作者なり感動も含めて詠まれていると思います。 
しかし意味が分かって作者の感動が伝わってきません。
れは抽象的な言葉のために言っている意味が分かって
読者と共有される感動が見えないからです」 
 ↓ (伊吹嶺 第199回 HP俳句会の国枝隆生氏の講評 より
 
「抽象的な言葉では、句意は伝えられても感動を共有で
ない」いう、この講評を読んで「一理あり」と一旦は納得した。
例えば、こんな句のことを言っているのだろうなぁ・・・と。
 
 春立つや人差し指の長さほど   十志夫(2016、1)
 
「人差指の長さほど」が、何とも分かったようでわからない。

しかし、と思い直す。
俳句の教えに「俳句は説明してはいけない」があることを思
い出したからだ。
換言すれば「俳句は語り過ぎてもダメ、省略の文芸である」
ということ。
 
俳句は作者の手を離れたら「読み手のもの」で、くどくど説明
がされていない分、どんな解釈ても自由である。
そして作者は、その鑑賞が自分の意図と違っていても決して
異論挟んではならない。(自句の弁明はゲスの極みとも)
 
このことは「俳句とは、作り手と読み手の共同作業の文芸」
いうことを意味している。
 
初学の人間に俳句を教える教室で
①いろいろな解釈が成り立つ俳句、すなわち余白のある
  俳句は名句である
②俳句の作者は、時に句を投げ出すことが必要で、読
  の鑑賞作者の言葉を補完し、名句に仕げてくれ
  ることもある
そう新人たちに教えてきた。 裏を返せば「説明句への戒め」
ある。
 
俳句にある余白(言葉の省略)に戸惑いつつ、突然、闇の中
不思議な灯り(答え)を見る(発見する)ことがある。
そんな瞬間、迷わず◎(特選)で採りたくなるものだ。
 
俳句における具体性と抽象性の是非については、おそらく答
は一つはないかもしれない。

今日のところは、「句の余白(抽象性)の中」にも、読み手側の
に訴えける具体的な力(象徴的な措辞)が必要だという
結論にしておく。
 
最後に、もうひとつ抽象句の一例を。
この句も意味は分かっても感動は伝わらないだろうか。
 
 なにごとも何ごともなき良夜かな  十志夫 (2015、10)

★閑話休題 
 孫のME I 「都立高校の推薦入試に合格したよ」と言って
 きた。 とにもかくにも家中の人間が一安心である。
 一般入試よりも難関なので、とりあえずは褒めてやりたいが、
 「新体操」ばかりやっていて、あまり家で勉強する姿を見たコト
 がないのに、あっさり合格してしまったことで「世の中」をなめ
 るようになってしまうかも・・・。心配だ (*^_^*)