俳句と主夫の間で(2)♫

俳句と主夫を仕事とする 「団塊の世代」日記

2016年02月

きょうは閏年の2月29日。
例年より1日長い如月も、あっという間に果てにけり、である。
それにともなって、こころなしか寒が弛んできたような。
 
  解(ほど)きたるチャーシューの糸二月尽    十志夫
 
「地球の公転」が1年という長さで、多少生ずる時間のズレ
調整するのが4年に一度の「閏年」。
(因みに太陰暦では、一年を354日としていたので一定の時
期を経て1年を13カとして調整していたという)
 
しかし、閏年調整を続けていると、微妙なズレが新たに生ずる
ので西暦が100で割り切れる年(次は22世紀の西暦2100年
「閏年」をパスするという話だ。とても生きてはいない。
 
2月29日生まれの人の中には、誕生日を前後に1日ずらす人も
いると聞く。
2月29日を誕生日として出生届けをすると、いろいろ支障をきた
のだろう。
 
  うるふ如月還暦迎ふる十五才    十志夫 
 
14ぜんざい893
Painting  by  サンデーKU
 

ひさしぶりに経済の話題。
 
いま簡単な資金調達の方法として、「クラウド・ファンディング」
が注目されている。
 
「Crowd」(=群衆)と「Funding」(=資金調達)を組み合わせた造語
で、一般の人が、個人または団体が「提案するプラン」に賛同し
場合に、資金を提供し一定の見返りを得るというもの。
 
卑近な例では、タレントが写真集を作りたいと思った場合に、この
方法で資金を集め、出来上がった写真集を資金提供者に配布し
たり、ライブに無料招待したりのインセンティブを付けたりするの
で、いわゆるサポーター気分を味わえるというしくみ。
 
もう少し大きな規模でいえば、新しい「ビジネスモデル」にも応用
されたりもする。
資金も伝手もない人間が、見ず知らずの群衆の力を借りて起業す
れば一攫千金も夢ではない。
 
  三月のアイデンティティといふ不安   十志夫
 
P2280037東京マラソン
 

P2270019P2270018P2270022 
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義父の十三回忌の法要を菩提寺ですませ、午後から
日暮里駅前のホテルで縁のある人達と会食をする。
 
十二年前、前日まで元気に自転車を乗り回して外出し
ていたのに、
翌朝、起きてこないので見に行ったらすで
に亡くなって
いた義父である。心筋梗塞だった。
享年84才。
 
あっけなく最期だったけれど、寝たきりの日々が長かっ
実父や植物人間になった実母に比べて、全く苦しむ
のなかった義父は、ある意味で幸せだったのかも。
 
  生きてゐるうちに死にたし蒸鰈   十志夫
 
「近衛兵」として終戦を迎え、その後もその団体事務局
として会報編集に尽力したことから、生前「春の園遊
会」招かれたことがある義父。
まる十数年が過ぎた今となっては、昭和天皇の謦咳に
接したことなど、の自慢話を酒の肴に戦友たちと
楽しくやっているに違いい。
 
家で孫たちから、私は「爺」、義父は「大爺」と呼ばれて
いた。その人間的な大きさから、「大」がついていたのだ。
 
   大爺は爺より偉し実万両     十志夫

作句手法の話。
 
初学の頃は必ずといっていいほど、「句を詠むためには、
対象をじっと見つめ、さらに見つめ、もう一度見つめて・・」
と、写生の大切さを教わる
 
問題は見た後である。
 
写真を撮るように俳句をつくるのか、
小説を書くように俳句をつくるのか、
絵を描くように俳句をつくるのか・・・。
 
師系ごとに多少の共通性はあるにせよ、俳句に対する考
え方(詠み方)は人それぞれで、同じ結社でも微妙に異な
るものだ。
 
そうした自らの俳句観を4文字熟語にしている著名俳人も
多い。
 
「不易流行」(ふえきりゅうこう)      松尾芭蕉 
「花鳥諷詠」(かちょうふうえい)      高濱虚子
「客観写生」(きゃっかんしゃせい)
「真実感合」(しんじつかんごう)      加藤邨。
眼前直覚」(がんぜんちょっかく)       上田五千石
「打坐即刻」(たざそっこく)          石田波郷
 
※その他にも、波多野爽波のように「俳句はスポーツの
    ごとく
」として多作多捨」を勧める人もいる。
   (俳句スポーツ説)
 
各々に首肯する点はあるが、自分の目指す「混血俳句」
一番近い考え方は、
外面のみの写生や主観のみの叙情を否定し、主客
透の境目指すべきだ」 とする加藤楸邨の「真実感合」。
 
楸邨が、その指導方法において修辞などについてとやかく
言わず自の方法に任せた(なんでもあり)という点も
気に入っている理由の一つ。
 
おおむね、所属した結社、影響を受けた俳人によって、それ
ぞれの俳句観形成されるもので、どれが正しくてどれが
違っているというものではない。
 
 時計屋の時計春の夜どれがほんと  久保田万太郎

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今日は、夕飯担当の日。
準備のためにスーパーに立ち寄ると「春野菜」のコーナーが
あった。(携帯でパチリ)
 
どれも高い。
「タラの芽」「蕗の薹」ともに、天麩羅にしたら3~4個にしか
ならないような小さなパックに入ったものが290円。
辛子マヨ合えにしたら美味しそうな「菜の花」も一束390円。
新玉葱に至っては、小さな二個パックで300円近い。
 
天候不順の影響もあるのだろうけれど、旬ということで足許を
みているようにも。
「主夫の財布の紐」は思いのほか硬いのだ。
 
  新玉葱触つてなでて通りすぐ    十志夫
 

★「俳句界3月号」で、稲畑廣太郎氏から「特選」を戴いた。
 
 図書館の消しゴムの音冬に入る    十志夫
この句は他の雑詠選者からも秀逸、佳作を戴き、今月号では
一番
評判のよかった句。 
「立冬」と取り合わせて、図書館の静謐さがうまく表せたかな♪
 
しかし、自分自身のお気に入りは他の句だった。
「自選」と「選者の選」が一致しないのが俳句の難しいところ。
 
★席題「流」でも秀逸を戴いた。 
 同姓同名ネットに流れゐて寒夜   (中西夕紀先生・秀逸
 流血の国に降り継ぐ枯葉かな     (大高霧海先生・秀逸)
 
★その他、複数の選者から選の戴いた雑詠句。
 小春日や母の遺せし端切れ箱  
 
P2240016

マーク・モンソン(水中ドローイング写真) 
「今日は、何もする気になれない・・・」
偶さか、そんな気分に陥る時がある。
いうならば、かるい「鬱」の状態といえばいいのか。
 
人間誰しもが、少なからず「躁」と「鬱」の狭間を生きているの
だけれど、
俳句を作るうえでは、この躁と鬱という状態のどち
らが具合がいいのかなぁ、と考えてみたり。
 
饒舌な「躁」の状態のほうが多くの言葉を生み出せるのか。
それとも内面奥深くに沈殿している「鬱」の時こそ詩を紡ぐこと
が出来
るのか・・・。
 
  饒舌といふは哀しきチューリップ   十志夫
 

練馬区立美術館の館長を務めている大学時代の友人から折り
にふれて企画展の招待券をいただくが、そんな時は仲間を誘っ
て美術館吟行に出掛ける。
 
今回は、「国芳イズム/歌川国芳とその系脈」と題して、幕末
~明治期の浮世絵、風俗画の粋を紹介する展示。(~4/10) 
P2200013 国芳とその弟子の作品230点
 
以前にも、リアリズム絵画の異才「礒江毅」展をみてから句会を
開いたことがある。
 
この手の吟行で作った俳句は、当事者以外には分かり難いもの
だが、そこでできた句をあまねく伝わるように変化させると、異色
な作品に化けることも。
 
今回は、国芳の浮世絵における独特「あか」と「あを」を詠んだ。
 
  血のあかと深海のあを冴返る   十志夫
 
P2210015 
 

P2200011
 
  国境をはみだす枝に鵙の贄    十志夫
 
「俳句四季」(3月号)の投句欄で齋藤愼爾さん(写真右)の特選を
頂戴した。
 
「思索を重ね、幾度も推敲を経たすえに彫琢されたのか、裂ぱく
気合いで一息に詠まれたのか。作者に創作過程を伺ってみたくな
る佳吟だ。境界線をはみ出した枝に突き刺さった鵙の贄。それは
グロテスクな政治の暗喩で、一句は破滅の危機をはらむ現代世界
の象徴図だ」
 
受賞コメント(写真左)が併載されるので、映画「劇場版MOZU」に
ヒントを得たことにふれて「国境、体制、宗教をめぐって憎しみの
連鎖を繰りしている国際情勢を思うにつけ、人間の愚かさと
〈業〉のようなものを感じる」と書いた。
 
「実景でない映像俳句」とのそしりを免れないが、ときに映像からヒ
ントを得た虚実すれすれの句もいいかとも。

マイナンバー 社会保障・税番号制度 内閣官房
 
マイナンバーの書類が届いて二か月余り。
 
当初は放っておくつもりだったが、「個人番号カード」
ったほうが何かと便利な気がしてきて、写真を貼った
書類を郵送することに。
 
返信用封筒が「一世帯一通」なのは少し不便で、ひとり
一通にしてくれればいいのにと思ったが、世帯ごとに
信封筒をまとめれば「億単位の節約」になることを思うと
仕方ないか・・・。
 
それにしても、一枚のカードの中に自分の氏素性、お金
関する情報の全てが記録されていると思うと・・・・。
なんとも(~_~)
 
  老齢年金月額六万蜆汁           十志夫
  (ろうれいねんきんげつがくろくまんしじみじる)
     
※今日2月20日は、長嶋茂雄氏の傘寿の誕生日、かつ
    亡母の誕生日、そして小林多喜二の忌日。 
   ミスターと妣生れし日や多喜二の忌 
 そのまんま(笑)
    (みすたーとははあれしひやたきじのき) 

昨日戴いたblogコメントに関連して。
 
一般的に「即きすぎ」の俳句はダメとされるが、「季語が動く」
という言葉もあって、「離れすぎ」てもダメと言われる。
 
季語とその他の言葉の距離は、どれくらいがベストなのか
 
初学の頃に、「離して」からさらにもう一つ「離す」くらいの感覚
で丁度いい、とアドバイスされたことがある。
 
譬えて言うならば、言葉同士が「親子」ほどの関係(距離)では、
顔が似ている(即きすぎ)と言われるのは必至。
 
 離すということは「孫」くらいの関係性が良いということで、さら
にもう一つ離せと言うことは「曾孫」くらいの距離感がベスト
いうことになる。
 
その先の「玄孫(やしゃご)」まで離すとどうか?
子供、孫、曾孫のすべてが25歳で子を産んだとした場合、玄孫
お目にかかれるのは125歳の時という計算。
 
中々そこまで生きるのも難しいし、「曾孫」のそのまた「子供」
れば、血縁という実感は薄くなり、「季語が動く」ということに
なるのだろう~。
 
 玄孫てふ不確かなもの帰り花     十志夫
 
P2030068
雛飾ってどの代まで継承できるのだろう?

出来はともかく、俳句がつぎつぎ詠める日と一句も出来ない日
とがある。
 
おそらく俳句脳というのがあって、それが活発に働く日と、全く
機能しない日があるのだろう。
 
左脳は、文字や言葉を認識し思考や論理をつかさどる「人間
的な脳」。
一方の右脳は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの五感をつ
かさどる、言うならば「動物的な脳」。
 
五感(右脳)で感得したものを文字や言葉(左脳)に置き換え
る作業が「俳句」だから、左も右もに使っているということか?
 
しかし、思考や論理(左脳)の勝る句はおおむね宜しくない。
感性(右脳)を信じて、つぎつぎと読み手に放り投げる句のほう
が結果として出来がいい。
 
ということは、俳句とは人間的な作業ではなく動物的な作業
いうことか。
 

   冬ざれの野に放たるる尻尾かな   十志夫  (2015、12)

「チータの写真」の画像検索結果 

 

 

昨日は、食事当番の日だった。
大婆が疲労骨折で入院中のため、分量は5人前である。
 
によって家族の帰宅時間がまちまちなので、手抜きレシ
ピの定番 「カレー」 or 「手巻きずし」とも思ったが、久し振
りにきちんとした料理を作ろうと「ビーフシチュー」にするこ
とに。
 
じっくり2時間ほど煮込んで下ごしらえしておけば、食す
間がバラバラでも美味しく食べてもらえるのに具合がいい。
 
材料をケチって足らなかったとなるとマズイので、「3~4人
前」と表示されている材料を 全て☓2 で購入。
(カレーなど10人分と表示されていても8人分しかないことが多い)
 
肉も上等な国産のものを買ってきた。
男の料理は、わずか調味料(ワイン、香辛料、バター)も
省くコトをしないから、レジで締めてみると外食した時と変わ
らないような合計金額が打ち出されてビックリ。
 
買い物を済ませ、家に帰ってきて連絡ボードを見て、さらに
ビックリすることがあった (*_*)。
 
の欄に、「お茶幹事会のため夕飯不要」とあったのだ。
 
ということは、ダイエット中MAOを含め「4人前」でいい
のだから、☓2 とする必要はなかったということ??
 
しばらく昼食に、ビーフシチューの日が続きそう・・・。
 
 午後四時に八百屋の前で献立を
             考えているような幸せ 
 
                 (俵万智「サラダ記念日」より)
 
P2150009

20度超のポカポカ陽気の後、寒の戻りが続いている。
 
月曜日の異常気象で一気に開花してしまった神奈川県松田町の
早咲き桜河津桜)
昨日今日と一気に10度も下がったものだ
ら、
たい雨に花弁を垂らし、じっとしているとの報道。
 
それを聞いて思い出したが、本家の伊豆「河津桜」を句友3人
見物してきたことがある。
菜の花の黄色と河津桜のピンク色が、川の流れに沿って競い合う
ように咲く様子は何とも美しかった。
P1030041伊豆の河津桜
 
昨年亡くなった同人会長の代表句に以下の句がある。
 
  菜の花が川を黄色く曲げにけり     土屋 覚
 
何日か前のニュースによると、そんな河津桜の枝を折る輩が現
とかで、地元の警察が犯人を捜しているという。
 
まさか、俳人ではないだろうなぁ・・・。
俳人の中には、句づくりのためなら「他人の庭」に断りもなく入って
しまう人もいるし、良識をなくす人が意外と多いから・・・。

P2130003
 
「俳句界」で担当している句集紹介の原稿依頼が届く。
早いもので五回目(2016年5月号)になる。
 
前回は伝統結社の主宰の句集だったが、今回は句歴10年
目くらいの方々の句集。
同じ目線で鑑賞できて、いささか気持ちが楽である。
 
小浜正夢・句集「抱花」
永い間ビジネスマンとして海外で活躍さてきた作者が定年
退職後にスタートした俳句をまとめた第1句集。
自分との背景が似ていて共感する句が多い。
☆職退いて翁追ひゆく枯野道
 
高橋涼・句集「榾明り」
体育教師であった作者は「童子」津軽句会のメンバーである。
方言俳句などが楽しい。
☆雪解道や誰も何も言はずバス待つて
(じゃけみちや/だもなもいわず/バスまって) と読むらしい。 

二冊ともしっかり読んで紹介したい。

  てにをはの行きつ戻りつ毛糸玉    十志夫 
(2015.12)

今日の「聖バレンタインデー」は春一番が吹いて、全国的に
ポカポカ陽気だった。
 
そんな「愛の日」に関連して、今さらの話題だけれども、ライン
とかフェイスブックといったソーシャルネットワーク(SNS)
ついての私見を。

自身で関わった経験がないので細かい点は分からないけれど、
まずは「功罪」との「功」のほう

1対1
の無料の「ビデオ通信アプリ」などは、
のやり取
遠距離(恋愛)の人達の通信手段としては有効いうこと
は理解できる。 
 
しかし、これらの「功」を超える「罪」と言うべき問題点が見落と
されていないだろうか。
 
その一つが通信端末と関わっている時間の多さである。 
孫のME Iの生活ぶりを見ていて感じるのだが、おそらく起き
ている時間の半分ちかくはスマホと睨めっこしているような
気がする
 
「そんな時間って勿体ないのでは?」 そう指摘すればきっと
「スマホがあるから時間を有効に使えるんじゃない反論し
くるに違いない・・・。
 
第二が、無駄な情報量という点。
この世には、知らなくとも、聞かなくとも、見なくともいいことが
ある。 さらに言えば、接しないほうがいい情報すらある。
「見ざる、聞かざる、言わざる」は、昔からの知恵なのだ。
 
第三が、その危険性。
グループ機能、出会い系、マッチング機能といったアプリの
名前を聞くだけで、危うさを感じる。
最近の人間性の感じられないような事件を見聞きするにつけ、
背景にそうした「仮想現実」の影響があることは間違いない。
 
以上が時代遅れ(?)のガラ系人間の独り言だ・・・ぶづぶつ。
 
  聞くことも訊かるることもなき朧    十志夫
 
P2130004このFOMAで十分・・・

 
「伊藤園おーいお茶写真」の画像検索結果
 
ネットサーフィンをしていたら、画面に「伊藤園の俳句募集」
いう文字が表示された。
 
話には聞いてはいたが、いままで投句したことは一度もない。
 
 ☆昨年の40歳以上部門優秀作
  曼珠沙華帰ろう鍵をかけぬ村     立神 勝子 (66歳)
 
応募句の中から2000句がペットボトルに記載され、7000句
までの人に応募句を収めた冊子が送られてくるという。
一体、何人くらいの人が投句するのだろう・・・?
 
2月29日が締切、パソコン上から6句までの応募が可能とある。
 
タイミングよく抹茶を点てて持ってきてくれたので、それを戴
きながら作った6句を投句してみた。
 
結果が出るまで未発表に、とあるのでここには書けないが、7月
結果発表を楽しみに。
 
P2130002抹茶をいただきながら
 

我々が若いころの映画俳優、歌手といった所謂タレントは、
「スター」と呼ばれ、近寄りがたく遠い存在だった。
 
銀幕やテレビの画面越しに見るか、ブロマイドなどを買って
めていたものだ。
 
ところが最近では、モー娘、AKB48 の登場あたりから、タレ
ントといっても友達の一人くらいの存在になってきたやうな。
 
「AKBサイン会写真」の画像検索結果 AKB公式サイトより
 
タレント側は、自らの「キャラ」をつくり、その「キャラ」に沿った
人物を演じなければならない。
blogもそんな「キャラ」づくりのツールだろうから、大変だ。
 
誰々の「blogが炎上」などという話をよく聞くけれど、それと
見る側からの友達感覚による「苛め」のひとつ。
 
芸能雑誌がそれをあおり、される側もそれを狙ってあえて過激
なことを書いているのだから、どっちもどっちというところ
 
今の世の中、プライバシーを云々すること自体が、アホらしいと
いうこなのかもしれない。
 
  冴返る容疑者といふ見出し    十志夫

今日2月11日は「建国記念日」
 
「国家」というものや、何をもって「建国」というのか、曖昧な言葉
ある。
 
国家、国旗、国歌 のすべてを認めない人がいる。
そんな人に「自らの拠って立つアイデンティティは?と問えば
「地球人でることと答えるのだろうか
 
「俳句に政治を持ちこみたくない」と2月8日のblogに書いたが、
今日くらいはいいかな
 
  いま辺野古かつて建国記念の日    十志夫
 
   000べんとう賛否両論

16ふきのとう555_1
by サンデーKU
 
  まだ固きひかりの中の蕗の薹    十志夫

蕗の薹(キク科の多年草)
この時期になると必ず詠む、いかにも早春らしい季語である。

花の開かぬうちに摘み取って、天麩羅、蕗みそ、筍に添える
煮物・・・などで食す。

  宿坊に師の師の色紙 蕗の薹    十志夫
 
二十年ほど前のこと山形県の教育関係者のお誘いをうけ
て鶴岡市を
訪れた際、羽黒山近くの宿坊で食した蕗の薹の
天麩羅が殊
の外美味しかった。
さくさくとした触感とほろ苦さに、まさに春を感じた。
 
  蕗の薹煮て賜ひけり土鍋立     石塚友二
  蕗の薹食べる空気を汚さずに    細見綾子
 
句にする場合、一句一章で「蕗の薹」そのものを詠むよりも
春の景との取り合わせとして添える場合が多いような。
 
  山峡をバスゆき去りぬ蕗の薹    三好達治
  水ぐるまひかりやまずよ蕗の薹   木下夕爾
  蕗の薹おもひおもひの夕汽笛    中村汀女
 

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