金儲けの為に健全な女性の子宮を摘出・・・との捏造報道で日本中を震撼させた富士見産婦人科医病院事件が起こった。これを機に、日本の医療は乱診乱療、つまり患者のことを顧みず、医者は金儲けの為に医療を行っているとのレッテルが貼られた。「Clinic Magazine 2001年5月号より転載」●理事長と医師6人すべてが不起訴となった
富士見産婦人科病院事件は、まったくデタラメな、デッチ上げ事件だったといったら、驚く人の方が多いだろう。こういう書き出しで、1989年(平成元年)の東京内科医会会誌新年号に、当時会長をしていた私が書いた巻頭言を、まだ覚えていて下さる方があるだろうか。
富士見産婦人科病院事件というのは、昭和55年(1980年)9月12日、朝日新聞が社会面トップに『健康なのに開腹手術』という大見出しで『無免許経営者が診断、次々と子宮など摘出』、『でたらめ診療、被害者数百人に及び、恨み残して自殺』などというセンセーショナルな内容を記事にしたことから始まった事件で、マスコミ各社が一斉にこれに飛び付き、以来日本の医療は乱診乱療の名で袋叩きに会い、とくに開業医は、金儲けの為には健康な女性の子宮までも摘出するような人種と思われかねない報道が続いた。
ところが、この報道は捏造であったことが明らかになった。すでに昭和58年(1983年)8月20日の朝刊各紙は、富士見産婦人科病院事件について、『傷害は全員不起訴、富士見病院の捜査終了』(讀賣新聞)、『浦和地検、傷害立証できず幕』(朝日新聞)と3年間にわたる捜査の結果、この事件は成立せず、起訴できなかったと報じている。被害者と言われた35人の患者から、健康な子宮を摘出されたといって、医事紛争ではなく傷害事件で告訴された同院元理事長と医師6人の計7人は、全員が起訴されなかった。
●この事件を機に厚生省の低医療費政策が強化
浦和地検は、この事件の傷害罪適用に当たって、1.治療目的が正当だったのかどうか、2.手術が医療水準から見て妥当だったのかどうか、3.患者の同意、承諾を得て行われたかどうか、の3点を軸に捜査を進めた。その結果、『利用目的なくして手術を行ったという証拠は無かった』、『病変が全く無く、そのことを医師が承知しながら手術した、とは証拠上断定できない』、『医師から病変を知らされた上で患者は手術に同意した』と判断した。つまり、告訴した35人の患者の訴えは、すべて却下された。
昭和55年(1980年)から強引に推し進められてきた厚生行政の低医療費政策が、こういう大誤報(ラジオ日本)の波に乗っていた。厚生省の医療費適正化推進対策本部というのは、いったい何か。平成元年(1989年)という新時代の始まりに当たり、虚報に振り回されて幕を閉じた昭和末期の医療のあり方には、自虐意識の中で低医療費政策に盲従してきた状態からはまず脱却することが、国民医療を直接担当するわれわれ臨床医の責務ではないか。
これは1989年(平成元年)の年頭所感である。その前の1988年9月26日、この虚報について「傷害で書類送検との虚偽の報道で名誉を著しく毀損された」として、富士見産婦人科病院・北野早苗理事長から産経新聞に損害賠償を求めた訴訟の判決があり、産経新聞は敗訴となって賠償金120万円の支払いが命ぜられ、この問題に一段落が付いた。
●北野夫妻はともに健在。現在も所沢市で診療活動
今、国民がみな、読者の先生方も含めて、未だに「富士見産婦人科病院というのは、ヒドい病院だった」という認識のままでいるのは、この法令違反の時のマスコミ報道が派手なトップ記事で一斉に「富士見産婦人科病医事件、元理事長夫婦に有罪」というタイトルを躍らせたあの鮮烈な印象が、まだ脳裏に焼き付いているからである。この記事のおかげで、富士見産婦人科病院事件そのものが有罪という観念になり、あの病院はもうとっくに潰れたと思っている人も少なくない。
確かに、1980年9月12日の事件発生後、富士見産婦人科病院は破産し、建物は競売に付され、取り潰されて今は跡形もない。
しかし、富士見産婦人科病院そのものは無くなったが、北野千賀子院長、北野早苗理事長はともに健在で、その後、所沢市小手指町に『チェリイクリニック』、『スコットレディースクリニック』という新しく生まれ変わった2つのクリニックを開設し、活発な診療活動を続けている。
潰れてしまった筈の富士見産婦人科病院が甦って、今も沢山の患者が集まっているのは何故か。このギャップを解明する為にはこの21世紀念頭の私の総括を、もう一度、当時の富士見産婦人科病院事件の原点にまで遡らせなければならない。
●ビデオ撮影と臓器保存が動かぬ証拠となった
この謎を解く鍵は2つある。北野千賀子という院長の類まれなる強靭な個性と研学心。そしてそれを慕う女性患者群の『さくらんぼの会』という支援組織の存在である。
ここでもう一度、1989年の巻頭言の一部を引用してみる。「北野千賀子院長は、昭和55年(1980年)11月初めから昭和58年(1983年)4月まで2年6ヶ月の間に、1症例につき警察で3回、検察庁で1階、平均3日ずつ述べ420日間の事情聴取を受け、一例一例について診療の経過を外来から手術まで、診療記録、病理組織、臓器鑑定などについてまで訊問に応じている。その結果、浦和地検の末永次席検事は、『高度な医学知識を要する非常に難しい事件だった。地検としては全精力を集中し捜査に当たってきたが、傷害罪として起訴するに足りる証拠を収集できなかった。収集し得る証拠を収集し尽したとしても、診療目的でない、医師として不相当な手術だったとは立証できなかった』と、昭和58年(1983年)8月20日の記者会見で述べている。
この記述の通り、北野院長が埼玉県警、検察庁検事の鬼の長期間の猛訊問に堪えて、真実を貫き通した精神力には凄まじい。そしてその説得力を支えたのが、子宮摘出手術全例の臓器保存と手術全症例のビデオ撮影記録であった。これは症例報告などの学会発表に備える為のものだったが、院長の普段からのこうした学究的活動が、事例解明の決め手をなす最も重要な動かぬ証拠となったのである。
臓器保存やビデオ記録もそうであるが、北野院長の向学心は医療技術の最先端にも及んでいた。20年前の所沢市ではまだ珍しかった超音波診断を外来診療に取り入れ、これをいまのコメディカルがやるような形で理事長に任せ、診断実績をどんどん上げていた。
●北野院長を支えた患者会『さくらんぼの会』の存在
富士見産婦人科病院が開設されたのは1967年8月であるが、北野千賀子院長の産婦人科医としての手腕、実績とその人柄によって受診患者は急速に増えていった。そして、院長の人徳を慕う患者達によって、1970年、富士見病院友の会として『さくらんぼの会』が結成された。『チェリイクリニック』、『スコットレディースクリニック』となってからの今も500名近い会員の団結は固く、院長、理事長の強力な支援組織となっている。
1980年の富士見産婦人科病院事件の時は、或る闇の勢力によって組織化された被害者同盟の強力な発言力と、マスコミの意図的な偏向報道に圧殺されて、病院側への単なる心理的な熱い後ろ盾の役目を果たすに止まっていたが、その存在価値がフルに発揮されたのは、20世紀末もギリギリになって結審した被害者同盟の民事訴訟に対し、損害賠償5億円の東京地裁判決が出てからである。
被害者同盟は、富士見産婦人科病院事件のマスコミ騒動の最中、1980年9月20日に、保健所長から市民会館で説明会を開くという連絡を受けて集まった元患者500人ほどが、住所氏名を書かされ、その中220人ほどがその場で結成した組織であるが、左翼系指導者C.K.弁護士の「1人確実に3,000万円の損害賠償が得られるから」という悪魔の誘いに乗った62名が原告となって起こしたのが、この損害賠償事件であった。
1981年から1999年まで19年近く掛かったこの民事裁判では、既に20年も前の刑事事件で検察側が起訴することさえできなかった件の審理に当たって、手術のビデオテープも摘出臓器も証拠物は何一つ出されず、裁判所に提出されたカルテと被害者同盟の訴えだけで判決が下されている。
1999年7月1日、19年間裁判所は一体何をしていたか!と司法行政の所業を問いたくなるようなこの判決に対して、マスコミは今度も例の如く「富士見産婦人科賠償訴訟、5億円支払い命令」、「乱診断罪、長かった19年」などと社会面トップに大見出しで書き立て、被害者同盟は鬼の首でも取ったような勢いで、この判決を盾に8月30日開催の医道審議会に対し、北野院長らの医師免許剥奪処分を行うよう要望書を出した
●昨年11月、医道審議会で処分なしの最終決定
19年も掛かった民事訴訟のこの判決は、長年にわたるマスコミの異常報道が裁判官の頭まで洗脳して、こんなにも証拠なしの感情的な判決が行われたものと思うより仕方がないが、訴えられた病院側は直ちに控訴したし、『さくらんぼの会』の人達は、8月30日、厚生省医務局長に宛てて事件の真相と患者達の真情を切々と綴った陳情書を提出した。
この陳情書には嘆願者として997名の署名簿が添えられたが、わずか10日足らずの短時日で、住所氏名に捺印まで押した署名が約1,000人も集まったということは、北野院長の窮状を救おうという患者達、女性パワーの熱意が如何に強かったかを物語るもので、院長の医師としての権威と人徳の深さを示す証拠でもあった。
これを受理した医道審議会は、当日の審議を見送った。10月25日の医道審議会でも、審議の対象となるか否かが討議されたが継続審議となり、翌2000年4月12日の医道審議会も、讀賣新聞が社会面トップに「被害者も怒りと絶望」、「意見の一致みず、厚生省、新たな処分行わぬ公算大」という被害者寄りのタイトルで報じた通り、医道審議会の判断はまた見送られた。
こうして3回の医道審議会を経た後、昨年11月14日、最後の医道審議会は被害者同盟の訴えを最終的に退け、「検察庁は傷害事件を立件しておらず、厚生省も犯罪を認定できるだけの調査ができなかった」という結論を発表して、北野千鶴子院長ら医師について処分しないことを正式に決定した。
20世紀末ギリギリで決着したこの結論をお伝えして、21世紀初頭における私の総括は終わる訳である。20世紀の終末まで、20年も日本の社会を眩惑してきたこの富士見産婦人科病院事件が、まったくのデタラメのデッチ上げ事件だったということをお判りになって頂けたであろうか。
そしてここで、あのひどい魔女狩りのような度重なるマスコミの報道にも拘わらず、富士見産婦人科病院はいま現実に超現代的な2つのクリニックに変身して、多くの産婦人科患者達の医療拠点となって栄えていることも改めて銘記して頂きたい。
●20世紀末の悪夢は忘れ、新世紀の国民医療構築に邁進
それにしても、富士見産婦人科病院事件というのは不幸な出来事だった。1956年の神武景気から始まって、岩戸景気、いさなぎ景気と続いた好況に乗って、宿願の医療国営に取り掛かろうとしていた厚生省が1961年、1971年と2度も総辞退を起こした医師会の反撃に阻まれて困りきったところへ、1973年の石油ショックが起こった。もう医療国営どころではなくなって、厚生行政の方向を低医療費政策に切り換えざるを得なくなったところへ、救いの神として起こったのがこの事件であった。
世の不況を余所に悠々としている医者が、病気でもない女性の子宮までとって金儲けをしているというのだから、社会は憤激し、厚生省も得たりとばかり医療費適正化推進対策本部まで設けて、医療費の押さえ込みに掛かった。
それに、医者ともあろうものが、というこの意外性と、普段からの羨望とやっかみに変えた大衆への迎合性をバネにするマスコミの商業報道が、大々的な医療叩き作戦を開始したのがこの事件の始まりだった。
時代背景もまさに20世紀の世紀末。2度の世界大戦と74年間にわたる共産主義の幻想に撹乱され続けた世界の中で、特に日本の敗戦後半世紀は、アメリカの占領政策の影響を受け骨の髄まで改変され、日本の魂を失ったまるで異質な日本人達が巷に横行する社会となってしまった。
富士見産婦人科病院事件も、結局はこういう堕落した20世紀末の日本を象徴する出来事であって、左翼かぶれとマスコミの商業報道に、浅はかな大衆が跋扈を許した結果、デッチ上げられてしまった、典型的な不祥事件だった。
もう過去のことだと思って忘れていたという先生方は、ここでもう一度、富士見産婦人科病院事件の経緯と帰結の現実を改めて認識し直して頂きたい。そしてまた、平成元年の年頭所感で訴えた通り、この事件に惑わされて、未だいくらかでもいわれ無き自虐意識のようなものを持つ方があるとすれば、それはこの際もうサラリと捨て、これから始まる21世紀の国民医療に向けて、当の責任者としての自覚と使命感を、ぜひ新たにして頂きたい。
尚、この事件の詳細は今年4月20日に東京経済から発刊された『捏造・富士見産婦人科事件』に明らかである。これは同病院の理事長であった北野早苗氏(現チェリイクリニック、スコットレディースクリニック会長)の直筆によるもので、私がここで十分に記すことの出来なかった事件の全容が書かれている。

















































