Write Between The Lines.

物書き・青木勇気の日々とメディアでの記事更新情報をお届けします。

超高齢化と核家族化が進む中、日本は深刻な状況にある。2025年には、第一次ベビーブームの時期に生まれた世代が後期高齢者(75歳以上)になり、介護・医療費等の社会保障費が急増すると懸念され、高齢者は約3,500万人(人口比約30%)、さらに認知症の患者数は約700万人、つまり5人に1人になると見込まれている。

これは遠い未来の話ではなく、認知症患者が徘徊中に電車にはねられ死亡、介護疲れによる心中事件や殺人事件、認知症同士で介護する認認介護問題など、毎日のように暗澹たる思いにかられるニュースを見るにつけ、否が応でも現実味を帯びたものとして感じられる事態だ。

いずれにせよ、認知症の最大の危険因子は加齢である限り、高齢化社会においては必然的に認知症患者が増え、多くの人にとって特別なことではなくなっていくことは間違いない。

このようなタッチで書くと重苦しくなってしまうが、本稿では暗い未来予想図でもって危機感を煽りたいわけではなく、むしろ逆で、避けられないことだからこそ、より身近な存在として受け入れるヒントになるトピックスを紹介したいと思う。

認知症の人も、周囲の人も笑顔になれる空間、その名も「注文をまちがえる料理店」だ。

■ 認知症の人が働く、「注文をまちがえるレストラン」とは

「注文をまちがえる料理店」実行委員会提供
「注文をまちがえる料理店」実行委員会提供

「注文をまちがえる料理店っていうのをやろうと思ってるんだよね」

彼は、こともなげにこう言った。宮沢賢治の『注文の多い料理店』をもじった何かなんだということはすぐにわかったが、私は内容を聞いて、それは面白い、ぜひ実現させたいな、でも大丈夫なの?と聞き返した。

「注文をまちがえる料理店」の発起人である小国士朗さんは、テレビ局のディレクターであり、飲食店経営の経験はない。きっかけはグループホームを取材中に体験したある「間違い」だった。

認知症の方々が作る料理を食べたときに、聞いていたメニューと全く違うものが出てきて一瞬戸惑ったが、「注文したものと違うものがきたけど、ま、いっか」そう言えるだけで、自分をとりまく世界は少し変わるのかもしれないと思い至ったという。つまり、治療や法律、制度を変えることは大切だけれど、周囲がほんの少し寛容であるだけで解決する問題もたくさんあるんじゃないかなということだ。

間違えること、うまくできないことを受け入れる、一緒に楽しむ。そんな新しい価値観を、認知症の方々が働く不思議なレストランから発信したい、その思いに突き動かされ、先日ついにプレオープンまでこぎつけた。

■ プレオープンから見えた可能性と課題

プレオープンは、都内某所で2日間、ランチタイムのみ限定80名で行われた。私は営業時間ぎりぎりに5歳の息子と駆け込んだが、大盛況でお腹を空かせながらかなり待つことになった。

席に通されると、にこにこと笑いながらおばあさんがお水を運びつつ、注文をとりにきてくれた。私はハンバーグとアイスコーヒー、息子はピザとオレンジジュースをオーダー。客が自分で希望するメニューにチェックを入れて渡す方式だったこともあり、「まちがえる」ことなく正しいものが運ばれてきた。

筆者が食べたハンバーグ
筆者が食べたハンバーグ

「メゾンカイザー」「吉野家」「中国料理新橋亭」プロデュースは伊達ではなく、どのメニューも美味しい。もちろん、間違えたとしても大丈夫なように、アレルギーには配慮してくれる。

息子はコーンが好きではないのではじめは積極的に食べようとしなかったが、美味しかったからかお腹が減ったからかはわからないが、私が実行委員会の方々と話している間にほぼ完食していた。

試しに、これを書きながら息子にプレオープン時の写真を見せて覚えてるかと聞いたら、「うん、ピザを食べたよ」とだけ返ってきた。他には?と聞くと「美味しかった」と。

私は、あることに気づいた。大人たちは「注文をまちがえる料理店」というネーミングと、認知症の方が働くということが何を意味するかわかるし、どうしてもそこで起こることに期待してしまう。

だが、息子にとって特別な点は、普段行かないところでご飯を食べた、かなり歩いた、待たされた、ということであり、認知症のおじいちゃん、おばあちゃんがいたことではない。5歳の子どもは何も知らなかったから、特に違和感を覚えなかったわけで、むしろその状況こそが望ましいのではないかということだ。

もちろん、このプロジェクトを批判したいわけではない。「注文をまちがえる料理店」のプレオープンは、介護や飲食のプロだけでなく、ロゴや空間デザイン含め、さまざな領域のプロフェッショナルによって綿密に準備されたイベントであり、奇跡的とも言えるレベルでバランスが保たれていた。だからこそ、そこにいる人たちが笑顔で、心地よい時間を過ごすことができたのである。

事実、参加した客はもちろんのこと、ニュースとなった後のSNSにおける反応を見ても、認知症患者を見世物にするなといった批判もほぼなく好意的に受け入れられており、海外からも絶賛され多数のメディアから取材が殺到している。

その上で私は、「何も知らないでこのお店に来たらどうなるのか知りたい」と思ったのである。プレオープンは2日間で80人、かつ実行委員会のメンバーが招待した客だったため、「たまたまふらっと来た」わけではなく、プロジェクトに対して好意的で、認知症の方々を優しく受け入れる余裕があったとも言える。

果たして、『注文の多い料理店』のように「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」とだけ書いてあったとしても、同じような空間になるだろうか。

■ どうすれば、“てへぺろ”の輪を広げていけるのか

注文をまちがえる料理店」実行委員会提供
注文をまちがえる料理店」実行委員会提供

そのような筆者の懸念は織り込み済みで、ハイレベルな運営ありきの「注文をまちがえる料理店」サステイナブルなものにするために、実行委員会はまずクラウドファンディングを用いた。

より本格的なイベントとフランチャイズする際に貸出し可能な公式グッズの制作、レギュレーションの整備などに必要な費用を募り、見事達成している。

認知症の方と作る「注文をまちがえる料理店」広がれてへぺろの輪

9月にプロジェクトが実行されることが決まり、どんな空間になるか楽しみだが、その後の展開についてもすでに飲食チェーンや市区町村とのタイアップが決まっているという。これからさまざまな形で“てへぺろも輪”が広がっていく様に注目したい。

最後に、小国さんから聞いた後日談に重要な示唆を与えるエピソードがあったので、紹介して終わろうと思う。

「注文をまちがえる料理店」で働いてくれた方々に謝礼を渡した際に、そのことを忘れていて「このお金は何?」と聞かれてしまった、でも、一生懸命働いてくれたじゃないですかと説明したら、「よくわからないけど、何か楽しかったのは覚えてるよ」と笑顔で答えてくれたという。

当たり前のことだが、すぐ忘れてしまうとしても、その時々で楽しいとか、充実しているとか感じられるのに越したことはない。

「注文をまちがえる料理店」に、認知症の治療・予防、雇用の創出といったことを過度に期待するのではなく、QOL(生活の質)という観点で、認知症の人が社会に参加し、たとえ一瞬でも、充実した時間を過ごしていると感じられることを大切にすれば良いのではないだろうか。

なぜなら、それは人間の尊厳が確立している状態であり、弱者として囲い込むことなく、共にあるということだからだ。

参考:

内閣府 平成28年版高齢社会白書(概要版)

内閣府 平成23年版高齢社会白書



 ※「Yahoo!ニュース 個人」に寄稿した記事を転載しています
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「キミは大丈夫だよ、おもしろいもん」


これは、Twitterで人気の燃え殻さんのデビュー作『ボクたちはみんな大人になれなかった』で、「最愛のブス」が「ボク」に向かって言ったセリフだ。


何気ない一言だけで生きていける、事実そういうことがある。「自分より好きになった人」の言葉は、他の何物にも勝る。


『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、そういうことが書かれた小説だ。その意味でこの物語は、100パーセントの恋愛小説だと思うし、処女作にふさわしいと言える。


「燃え殻って誰?」という方もいると思うが、百聞は一見に如かず、Twitterアカウントを見てほしい。彼の投稿を見れば、「あぁなるほどね」と思っていただけるのではないだろうか。なので、ここでは割愛する。


さて、燃え殻さんが書いたのはどんな小説なのだろうか。


記憶は小説に似ていて、小説は記憶に似ている

物語は43歳のボクの今から始まる。どん底を抜け出し晴れて業界人となり、器用に、でもどこか虚しさを抱えて生きる主人公の日常が描きながら、Facebookという過去の人間とつながる最強にKYなツールをうまく使い、自分の人生を大きく変えた昔の彼女を召喚する。


スノッブな人々の振る舞いや女優の卵との気のないセックスと、「最愛のブス」のみずみずしい記憶とのコントラストが際立つ冒頭で、読者は一気に物語へと引き込む。20年前の記憶が今へと集約されていく様を見届ける中で、人と人とのつながりから生まれる切なさと優しさに、思う存分浸ることになる。


記憶とは曖昧で不安定なものだが、同時に事実よりも鮮明で、確からしく感じるものでもある。だからこそ、過去から現在につながる記憶を紐解くことで、物語になるのだ。


村上春樹は、短編集の中で記憶と小説についてこう表現している。

「記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている」

出典:村上春樹『午後の最後の芝生』

恋人についてであれ、他愛のない出来事であれ、忘れられないもの、忘れたくないものの中に物語がある。そして、それらの記憶のかけらを拾い集め、改めてストーリーとして紡いだものが小説だ。


その中には、読む人の記憶を呼び起こし、胸を締め付け、心をゆさぶるものが詰まっていて、登場人物やそこにある世界に自らを重ね合わせ、物語に入り込むことができる。


物語を共有するというその行為において、パーソナルな記憶は普遍的なものへと昇華される。燃え殻さんは、短編小説のようなタイトルが付けられた19の章それぞれのシーンで、現在と過去を行ったり来たりしながら、それをやってのけた。まさに、ストーリーテラーである。


■ 全くの新人の小説が売れる意味

それにしても、この小説は売れ行きがすごい。Amazonの「文学・評論」カテゴリで1位になり入荷待ち、発売日に何店舗か回ってようやく買えたし、異例の売れ方だよなと思っていたら、案の定1週間も経たないうちに、初版の3倍という大増版が決まったとのことだ。


芥川賞を受賞して売れるのとはワケが違う。Twitterで人気の「140文字の文学者」とはいえ、燃え殻さんはマスメディアに露出していない会社員なわけで、小説というジャンルでいきなり売れるのはほとんど奇跡的と言える。


主人公の経験してきたことは決して「よくあること」ではないし、かといってセンセーショナルな何かがあるわけでもない。10代、20代の読者には当時の感覚は理解しにくいはずだ。わかりやすく共感できるストーリーだから、文才があるから、という一言では片付けられない。


では、なぜ売れるのか。それはやはり、記憶をこれでもかと刺激され、思わず「自分語り」をしてしまう小説だからではないだろうか。


「俺にも似たような経験がある」「特別可愛くもないのに、なんであんなに好きだったのだろう」「私もこんな人と恋愛がしてみたかった」


読んだ人は、それぞれの言葉で、それぞれの経験、物語を語りたくなる、そういう種類の小説なのである。


Twitterとの相性も良く、レビューよりも早く同時代を生きたおじさんたちが自分語りを始める。それを見たフォロワーは自分も読まなきゃ、だって燃え殻さんが書いたんだぜ? あの人が薦めてるんだぜ?と思わず手に取ってしまう。


それだけ話題になれば、メディアもこぞって取り上げ、露出が増え、燃え殻さんを知らなかった人たちのもとにも届く、という算段だろう。


というわけで、発売日に書店を回りどうにか手に入れた筆者も、ご多分に漏れず自分語りをしたいと思う。


■ 燃え殻さんへ

燃え殻さん、出版おめでとうございます。一気に読みましたよ。勝手ながら、僕が23歳くらいのときに書いた未熟極まりない小説と同じことを書いているなと思いました。


つまり、徹底してひとりの女性を描いているということです。彼女は僕にとって、女性そのもの、恋そのものでした。ボクと同じように、はじめて他人を自分より好きになりました。そんなことがあり得るかわからないけれど、そう感じた人です。


5、6年ぼど前に燃え殻さんから「ども、いつもツイート拝見させてもらってます」というDMをいただいて小躍りしたのを思い出します。僕はファン感丸出しで「燃え殻さんのツイートが一番好きです!」とかなんとか暑苦しいリプをしており、そこから会いたいですね、いつにしましょう、やっぱり無理になっちゃいましたと数年ダラダラやり取りしましたね。


ようやく会えた日、燃え殻さんの勤務先のエントランスで長々とお話してすごく盛り上がった気がしましたけれど、内容は全然覚えてないです。たぶん、燃え殻さんも同じなんじゃないかと思います。


3年くらい前まで、燃え殻さんは本を書け書け言われているけれど自信がなく逃げ倒していると言ってましたよね。そして、もし書くなら、今までのことを半自伝的に見たいな感じなのかな、とも。


プライベートなやり取りを晒してしまい、すみません。でも、ボクは最愛のブスの言葉を信じて書いたんですよね? きっと。だから、僕はこの物語を読めたことが嬉しいんですよね。


「次回作に期待しています!」なんて絶対言わないので、おごってください。下戸なので、コーヒーでも。




 ※「Yahoo!ニュース 個人」に寄稿した記事を転載しています
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6月21日は、世界ALSデー。文字通り、世界中で難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)の啓発活動が行われる日だ。


私は以前、ALSにおける疾患啓発について書いたが、今回は疾患そのものではなく、ある患者さんにフォーカスしたいと思う。


去る3月31日、ALS患者の藤元健二さんが亡くなった。3月25日には初の著作『閉じ込められた僕』を上梓しており、出版記念パーティーを目前に控えた矢先のことだった。


48歳のときに不自然な手の震えを感じ、その後確実に体の自由は奪われていき、50歳で確定診断が出て、胃ろうの造設、気管切開をすることで生きることを選択したが、53歳で胃がん、心筋梗塞を併発し、54歳で亡くなった。


一行で表現するとこういう紹介になるが、あまりにも味気なく、藤元さんの人となりをこれっぽっちも伝えることができない。いかに壮絶な最期だったかを描き、ALSという病気の難しさ、患者や家族の苦悩や公的サポートの重要性を伝え、疾患啓発につなげることが「北風」形式だとすれば、これから書くことは「太陽」とまではいかないまでも、頬を撫でる「そよ風」のようなものでありたいと思う。


伝えたいのは、ALSの恐ろしさではなく、ひとりの患者の生き方。手放しに称賛するわけではない、でもそれでいて、心から敬意を表したい生き方についてである。


■ 藤元健二さんと出会い、受け取ったもの

藤元さんとは、冒頭で触れた記事を通して知り合った。取り留めのない記事ではあったが、それでも藤元さんは「とても丁寧な文章で繊細ささえ感じます。事実を大局的に、多面的、複眼的に捉えられていて、そこから単なる批判、批評で終わらない素晴らしさがあると思います」というコメントをいただいた。


ALSの患者さんに読んでもらい、かつお褒めの言葉をいただいたことは、純粋に嬉しかったし、さらにはFacebookでメッセージ付きの友達申請までいただき、ありがたい限りだった。


あまりにも普通にメッセージが届くので当時は意識していなかったが、著作に書かれている時期と照らし合わせてみると、このときはすでに指先は動かなくなっており、視線入力装置を用いていたであろうことがわかり、改めてありがたみを感じた。


それからしばらくは、お互いの投稿に頻繁にいいねし合っていたが、時間の経過とともに彼の投稿、いいねの頻度は減り、ポジティブでユーモアに溢れる投稿が悲痛な叫びに変わり、私は胸が苦しくなることが多くなっていった。


ここでひとつ、彼の人となりを表す一節を紹介しよう。

さらっと生きよう

みなさんお気づきですか?

平成二六年のデータによると、日本人の死因上位三位は、

第一位 がん

第二位 心臓疾患

第三位 肺炎

だそうです。

この三つに同時に罹患するなんて、すごいと思いますし、ましてや平均余命五年以内のALS患者なわけです。

さらっと生きようと思います。

それがカッコいいと思いますので。

出典:閉じ込められた僕』P182

これは、意識を失い緊急搬送され、ALSだけでなく複数の病気を罹患していることがわかった約1カ月後の投稿だ。残酷な運命という言葉が生温く感じられるような凄惨な事態だが、他人事のようにさらっと書いている。


私でさえ、なぜこんなひどい目に遭わなければいけないのかと心から同情し、悔しい思いをしたのに、どうしてこんなことが言えるのか。いや、あえて強がり、平静を装っているのかもしれない。実際に、この後はカッコつけてなどいられなくなっている。


そうか、藤元さんは病と闘っているのではなく、自分自身と向き合っているのか。ALSによって動かなくなる体とクリアなままの頭が、否が応にもそうさせるのだとしても、強いとか弱いとか、すごいとか偉いとか、そういうことではなく、藤元さんの生き方の表れなのだと思い当たった。


そうして私は、極めて稀なケースではあるが、難病だから、がん患者だから、という枠組みに当てはめて考えず、あくまでひとりの人間の生き様として見守りたいと思った。


これがALSという病気をセンセーショナルに書くことはやめようと決めた背景である。


■ 絶望的な状況における夢と希望

胃ろう造設、気管切開、TLS(Totally Locked-in State:完全閉じ込め状態)…ALSという難病を難病たらしめる、物々しく象徴的な言葉は数多くある。だが、病気の進行をステージで切ってしまうと、ALSを知らない人に対して絶望感を端的に伝えることはできるが、その代わり日々の細やかな悩みや障害、病状とは直接関係しない部分での問題が端折られてしまう。


基本的にはプライベートがなく、食事や入浴、排泄などはもとより、体の位置を変える、痒いところを掻く、虫を手で払うなど、普段は意識すらしないような所作さえも、他者の力を借りるしかない状況ではどんな気持ちになるのか。


自暴自棄にすらなれないのがALSの辛いところで、泣き叫んだり、物に当たったり、酒をあおったり、現実逃避の旅に出たりすることもできないのであれば、患者のストレス発散や日常における小さな幸せとは何なのか。治療やメンタルケア以外でもQOLを高めるためにできることはないだろうか、なかなかそういったことまで想像が及ばない。


平均余命が2年~5年というと、それだけしか生きられないのかと絶望するが、一方で条件が揃えば長く生きることも可能な病気でもあり、むしろそれをどう実現するか、日々をどう過ごすのか、という部分が非常に大事になってくる。


防げない病気である以上、患者本人には責任はないし、動けなくなろうが、ご飯が食べれなくなろうが、声を失おうが、生きたいと思う権利がある。そして、必ずしも十分とは言えないかもしれないが、医療従事者や介護者、各種制度・保険はその意思を尊重するべく存在している。


ただ、やはり理屈では片付けられない問題がある。家族による介護だ。親が認知症になったときは子どもが面倒を見るべきだ、夫の介護は妻がしないで誰がするのか、こういった論調は根強いし、事実そうせざるをえない状況がある。


そこで藤元さんは、家族の負担の大きさや、奥様の介護離職のリスクを鑑みて「24時間他人介護」という目標を掲げたのである。これには、非常に大きな意味がある。家族が介護しないなんて…という後ろめたさだけでどうにかできるレベルの問題ではないし、家族にも人生がある。そこを損なえば、QOLも何もあったものではない。目指すところは延命ではなく、あくまでより良い人生を過ごすことなのだ。


夢や希望というと、少し違うものをイメージするかもしれないが、ALSと共に生きる方法を考え、実践していくことには希望がある。そうでなければ、絶望と恐怖に絡め取られてしまうだろう。病気が治ることを期待し続けることも、死を受け入れることもしない選択があり、そこに自ら向かえる患者力のようなものを垣間見た気がした。


今後、アイス・バケツ・チャレンジのような一大ムーブメントは起きないかもしれないし、難病はALSだけではない、結局理解は深まっていないとたしなめられるかもしれない。あるいは、予防も治療もできない以上どうしようもないんだから、知っても仕方ないじゃないか、ALSの患者さんを見ても辛くなるだけだよ、そんな風に思う方もいるかもしれない。


でも、それでも、ひとりのALS患者がどのように生きたのか、伝えたかったのだ。自分自身と向き合い、生きていくことは、誰にとっても他人事ではないはずから。


ぜひ、エッセイを読む感覚で、『閉じ込められた僕』を手に取ってもらえればと思う。


■ 最後に

藤元さんへ

前向きの理由

前向きですねと

言われると

違和感がある

前以外に

どこを向くんだろう

出典:『閉じ込められた僕』P76

この一節がとても好きです。まさにその通りだと思うんですよね。


お会いすることは叶いませんでしたが、Facebookの投稿や著作を通して、多くのことを受け取ることができました。本当にありがとうございます。


相も変わらず取り留めのない文章ですが、藤元健二さんとご家族に捧げます。


【参考】

『閉じこめられた僕 - 難病ALSが教えてくれた生きる勇気』(中央公論新社)



 「Yahoo!ニュース 個人」に寄稿した記事を転載しています 

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グロースハックという言葉が使われるようになって久しいが、成功パターンを見出し急成長を果たしたメディアでも、得られるのは賞賛ばかりではない。モラルを欠いたやり方で検索結果の順位を上げることで、誹りを受けることにもなる。

あるキュレーションメディアが、露骨すぎるコンテンツSEOをもって不確かな医療情報を垂れ流している、パクリを指示した、薬機法違反だと叩かれ、わずか1週間ほどで一時停止するまでに至った。そして、特定のメディア、企業への批判にとどまらず、キュレーションメディアのあり方そのものにまで波及している。

私は、物書きとしてYahoo!ニュース個人に参加しているが、普段は会社員であり、いわゆる「メディアの中の人」をしている。槍玉に挙げられているキュレーションタイプのメディアではないが、ヘルスケアメディア、サービスを運営している、いわゆる競合他社とも言える会社で働く、いちプロデューサーだ。

これまでは、あえて専門領域ではないことをメインに書かせてもらっていたが、この件に関しては思うところがある、というより、メディア運営者や業界通の発言があまり見受けられないので、ヘルスケア事業に携わる者としてこの件を論じたい。


■ 素人とプロを棲み分けるだけでは意味がない

まず、声を大にして言いたいのは、キュレーションメディアで記事を配信することは「IT×ヘルスケア」という観点で見ればごく初歩的でソリューションレベルが低いものであるということ、そして、ほんの一部分にフォーカスして医療・健康を出汁にして稼ぐ悪しきネット企業云々といった批判ばかりになってしまうこと自体がヘルスケア業界への関心の低さを物語っていて、非常に残念であるということだ。

人の命に関わる事態になるリスクがあるのに、どこの誰だか知らない人が書いた信憑性のない記事の検索順位を上げる、確かにこれはモラルに欠ける行為だと断罪されて当然である。信憑性を担保するのであれば、専門家の目を通すべきだ、これも正しいと思う。しかし、ざっくりと規定された専門家というくくりでとりあえず監修したと言えば良いというわけではない。

つい最近、ある獣医師の方とやり取りをしていて、「蛇についての質問が来たが私には答えられない、どうしたら良いですか?」と聞かれ、蛇について特別な勉強をしている獣医師でもない限り、一般人と知識に大差はないことを知ったが、例えば蛇の死因についてのコラムがあったとして、獣医師監修と書かれていたら何となく「へーそうなんだ」と思ってしまうのではないだろうか。そこに書かれたことに間違いがあったとしても、気付けるのは医療・健康に関する専門家ではない、「蛇の生態に詳しい人」ということになるかもしれない。

私自身、特段何の資格も持っていないが、今書いている内容に関しては誰よりも情報通であると自負している。でも、ほとんどの人が私のことを知らないわけで、その意味では本当かどうか分からないという話になる。つまり、記事の信憑性を担保することのは難しく、一言で専門家が監修するといっても、それはどんなレベルで監修するのかによってアウトプットの質が変わるわけだ。

「いやいや医療情報における医師は確実でしょ」と思うかもしれない。確かに、そんな気はする。だが、実際に患者や友人としてではなく、ビジネスにおいて医師と向き合ったことがある人はどれくらいいるだろうか。たとえ医師であろうとも、自分の専門外のことは調べなければわからないし、間違った情報を参照してしまう可能性はある。

編集や記者の実務経験のないネットメディアのディレクターがやっているからコンテンツのレベルが低い、著作権その他のルールに関する知識が乏しい。これは事実だし、それはそれで大きな課題である。しかし、それは誰が見ても分かることであり、見えていない部分にも課題はある。

まず、パクるのは邪悪な企業に指示されたクラウドソーシングライターだけではない。他サイトから丸ごとコピーするという意味では、医師だってパクる。もちろん悪気はなく、引用元がしっかりしていると思ったから、という理由がほとんどで、単純に著作権等の知識がないからではあるが、メディア側がしっかりと検閲しないと、どこで問題が起きるかわからない。また、当然ながら忙しい方が多いので、お願いした仕事をすっぽかしたり、適当に扱われたり、締め切りを守らないことも日常茶飯事だ。

言うまでもないが、決して医師を貶めたいわけではない。普段から医師の皆様には大変お世話になっているし、相対的に見て勤勉で人格者が多いと確信している。そこに傲慢な気持ちはないし、謝礼の多寡にかかわらず仕事の質が極めて高い方々は心から尊敬している。ここで論点にしたいのはあくまで、素人を見下し、ネットメディアを訝しみ、プロを絶対視していないか、ということだ。そこには思考停止状態に陥る罠がある。
 

■ 医師という特殊な存在への思い込み

もう一つ例を挙げよう。信頼性や専門性を担保するために後付けで監修を依頼するというのはメディア側の都合が色濃く反映しており、だからこそ、医師からあまりにも内容が酷くて直しようがない、健康増進という観点でそもそも推奨できないといった言葉が出てきてしまう。ただでさえ忙しい人たちに意義を感じられない仕事を依頼しているのだから、顰蹙を買うのも仕方がないだろう。

ただ一方で、誰が書いたかもわからない記事の監修を1本○○円で受けるなんてボランティアでもない限りやらないかといえば、そうでもない。金額や手間がどうのという話はさておき、事実快く受けてくれる医師は少なくない。むしろ、この流れを受けて、正しい情報を見てほしいからぜひやりたいと申し出てくれる方もいるくらいだ。

私たちは物心がついた頃から、体調を崩すと“お医者さん”に行って診察してもらうことが刷り込まれている。でも、実際は「激務の中で忙殺されている医師」や、「学会や論文執筆でそれどころではない医師」ばかりではないし、当たり前だが医師も家庭を持ち、子どもを産むし、海外に留学することもある。つまり、誰にとっても記事の監修など受けている暇はない、割に合わない仕事だとは限らないのだ。

例えば、ボストンに留学中のある医師曰く、コアな専門知識、豊富な臨床経験を持った優秀な医師であっても現地での仕事はなく、かつ夕方以降は比較的時間が空いているという。そういう境遇の方は、自らの専門分野で記事を監修するといった仕事は喜んで受けてくれるわけである。

医師は、患者と向き合うときだけ活躍する存在ではなく、医療現場にいなくても彼らが持つ知見を活かすことができる。でも、そういうシーンがない。だとしたら、その物理的な距離をゼロに近づけるのが、IT企業ができることだと思うのだ。ユーザー向けサービスで言えば、オンライン上での記事執筆、医療監修、健康相談など、役に立つコンテンツ、サービスに協力してもらうことができる。

海外にいながら、子育ての合間に、非常勤プラスアルファで。医師それぞれのステージ、ニーズに合わせてお仕事をお願いする。医療の素人であるメディア運営者は、専門家の力を借りてコンテンツの質を高める。こういった補完関係は成り立つのだ。自社が儲けることだけを考えていては、専門家からの協力は得られないし、ユーザーにとって役立つものにならないし、メディアとしての価値も向上しない。ネットメディアとひとくくりにして眉をひそめている方には、こういうことが見えているのだろうか。

正直なところ、ビジネスにおける優位性という観点では、こういう情報はあまり出したくない。しかし、キュレーションメディアの悪い部分ばかりがフォーカスされ、当該事業をやっていない人たちからサンドバックにされているのを遠巻きに眺めている感じがなんとも歯痒いので、渋々書いた次第である。

さて、ここらが本題だ。では、医療・健康領域における素人であるIT企業は何をなすべきなのだろうか。


■ いい加減な情報は排除すれば、課題は解決する?

いい加減な情報が出回らないよう、キュレーションメディアを筆頭とするシロートは撤退せよ、で良いのだろうか。正しい情報や役立つコンテンツを届けること、そうあろうとすることはメディア人の基礎であり、人の生死に関わる領域において無闇にでしゃばるべきではない、このことには同意する。

例えば、Yahoo!の検索では「乳がん」に関するキーワードで検索した際、一般社団法人日本乳癌学会による「患者さんのための診療ガイドライン2016」の一部を表示するなど、ユーザーが正しい情報に取得できるよう工夫している。

こういった取り組みは精度を高めながらどんどん広げてほしいし、「go.jp」(官公庁など)、「ac.jp」(大学病院など)、「.org」「or.jp」(非営利法人)などのドメインはそもそも簡単に取得できないので、機械的に表示順を上げても良いと思う。その他製薬、医療機器メーカーの疾患啓発サイトなども上位表示しても良いだろう。営利目的の企業がそれに対し異議を唱えるということもないはずだ。他にも、医学部卒のライター朽木誠一郎さんが提案していた信頼できる医療情報の見つけ方なども非常に良いまとめだと思う。

その上で私はこう考えている。「正しい情報から見せるべきではあるが、ここを見てください、まずは病院を受診してください、という案内は必ずしも正しいとは言えないし、不十分である」と。

なぜかといえば、私はかれこれ5年ほどQAサイトを運営しており、様々な質問、相談、疑問、悩み、愚痴、暴言等々を目の当たりにして、実にいろんな人がいて、求める答えもまちまちで、もっと言えば、答えを求めてさえいないことや、自分が何を聞いたら良いのかわからないのだということがわかった。

いわゆる匿名同士のQAコミュニティと医療専門家が答える健康相談サービスを運営してきたが、匿名だからいい加減で信頼に値しない、医師のアドバイスであれば問題は解決する、といった紋切り型の構図にはならず、正直に言って一長一短だと感じている。

例えば、匿名のQAコミュニティで妊娠・育児カテゴリを深く見ていくと、30歳前後の母親による、初めての育児に疲れ不意に涙が止まらなくなる、夫が帰ってくると無性にイライラするという投稿がものすごく多いことがわかる。筆者自身思い当たるところがあったため、より一層読み込んでしまったわけだが、彼女らは自分がなぜそうなっているかわからず、自己嫌悪で苦しんでいることが痛いほど伝わってくる。

こういった悩みを持つ新米ママさんにアドバイスをしてあげるのは誰が良いのか、これは簡単には答えられない。先輩ママが私もそうだったよと共感を示してあげることが正解かもしれないし、旦那を一緒にdisってスッキリしてもらうのが良いかもしれないし、育児うつである可能性に気づかせ、心療内科を受診することが解決への近道かもしれない。

何が言いたいかというと、人間は感情的な生き物であり、日々冷静に正しい情報を摂取し、おとなしく専門家の言うことを聞いているわけではなく、筋の通らないものにこそ飛びついてしまう複雑な存在だということだ。そう考えると、情報の確からしさは重要な指標ではあるが、ユーザーのニーズを満たすという意味では、それが全てではない。

理想的には、何が知りたいのか、どこから来たのかによって、見せる情報を変えるべきであって、これが正しい、これは間違っているとジャッジすることではない。むしろ、パーソナライズされた情報にこそ価値があるのではないだろうか。


■ 集客を目的としたコンテンツは“悪”なのか?

メディアであれ、プラットフォームであれ、ツールであれ、多種多様なニーズに対してたった一つの回答を用意することはできないし、その意味では検索結果の順位をジャックしようとする動きは、ユーザーの選択肢を奪うこととイコールと言える。今回、徹底したコンテンツSEOが取り沙汰されたが、医療・健康領域において集客を目的としたコンテンツを配信すること自体が“悪”なのだろうか。コラム記事といったライトなコンテンツは信憑性が低く、読むに値しないのだろうか。

実のところ、疾患啓発という観点ではコラムは効果的なのである。これは「乳がん」をテーマに実例を挙げると分かりやすい。20代、30代の女性からすれば、自分が乳がんになるなどと想像していないわけで、そういう温度感の人に「誰もが乳がんになる可能性があります。毎年乳がん検診を受けましょう!」と語りかけてもなかなか響かないし、「このサイトを参考にしてください」と国立がんセンターのサイトのリンクを送ることが必ずしも正解とは限らない。

むしろ、多くの人は小林麻央さんが30代前半で乳がんになったという事実にこそ驚き、「若い人も乳がんになるのか…」と自分の問題になるわけで、そういうスタートラインにあわせて、コラムという形で噛み砕くのである。健康に関する身近な話題を専門家に解説してもらうことで、信頼性を担保しつつ情報にリーチする際のハードルを下げる、ここにメディアの腕の見せ所があるのではないだろうか。そして、そういった記事がニュースサイトやキュレーションメディア、SNS等に取り上げられれば、より多くの人に読んでもらうことができる。これはネットメディアにしかできないことだ。

また、今はSEOならぬSXO(Search Experience Optimization)が主流になってきていて、とにかくコンテンツを拡充して集客するという手法は過去のものになっている。特定のページの流入数を増やすことありきではなく、例えば「googleサジェスト」を用いて、そもそもの検索ニーズを探り、そのニーズに検索者のステータス(興味レベルなのか、予防したいのか、治療方法を知りたいのか、病院に行くべきなのかなど)という概念を加え、必要なコンテンツを追加していく。

さらに言えば、これだけスマホが普及しているのだから、メディア運営者はほとんどの人がスマホでコンテンツを「上から順に読んでいる」ことに対して対策しなければならない。どこまで読まれているのか、どのコンテンツが熟読されているのか、どのページに遷移・離脱しているのか等を検証し、ユーザーが求めているであろうものへとチューニングしていくわけだ。iPhoneの新作の画面サイズやスペック、キャリア各社の通信速度制限の改善、地下鉄での無料Wi-Fiサービス開始、そういったUI/UXに関わるトレンドや外部要因もウォッチしている必要もあるだろう。

こんな当たり前のことを書くのは気がひけるが、メディアやサービスは、どのようにユーザーを集めて、何を見てもらい、どうなってほしいのかといったコンセプトやストーリーが根底にあることはもちろん、ただ運営するだけでなく、常日頃改修し続けなければならないのだ。ただ大量のトラフィックを集めるだけで、何らかの形で“その後”が用意されていないなら、ユーザーは広告を踏むか、検索ページに戻るしかない。果たしてそれは誰のためのものだろうか。

それぞれのコンテンツには役割がある。SEOやコラムは外せない。しかし、決して手段であるはずの集客が目的になってはならない。それが原則だ。


■ そもそもメディアは儲からないし、儲けるためにヘルスケアはやらない

そうは言っても、あるメディアがこれでもかと徹底的にgoogle対策をした結果、尋常じゃない伸びを見せていたら、つい真似したくなるのが人情というもので、特にメディアの中の人は赤字路線の状況に一石を投じたい、数値目標に届かせたいという必死な思いで無茶をしたり、当初思い描いていた世界観を見失ってしまうことがある。私自身、その怖さは嫌というほど知っているつもりだ。

「お前が成功してないだけだろw」と揶揄されるかもしれないが、基本的にメディアは儲からない。少なくとも、儲かるからと何億円も投資できるほどラクチンなビジネスではなく、SEOで獲得したセッションをそのままお金に変えることは簡単ではないから、いつ回収フェーズに入り、収益化するのかという絵を描きにくい。

キュレーションメディアにベタ付きの担当を立て、煩雑極まりないネットワーク広告の運用をしたところで、PV単価は0.3円まで持っていければ御の字というレベルだし、記事広告にしてもimpあたり50円程度で、制作コストを鑑みるとやはり安価な商品である。しかも、顧客が満足な結果が得られなければリピートはもらえない。健康、ダイエットというテーマはアフィリエイトとの相性が良いからと飛びつく手にあるが、そもそものメディア価値を下げるリスクもある。

いずれにせよ、サイトのボリュームが大きくなればその分インフラ周りの整備が必要だし、記事を量産し続けるのには社内外のライター、ディレクターも増強する必要がある。そこに医師による監修が加わるとなれば、なおさらだ。とにかく運用コストがかかるのがメディアの宿命である。要するに、メディア事業単体で儲けている会社があったら教えて欲しいくらいシンドイわけで、それでもやるのはなぜなのか、という話になる。

ネット企業がメディアをやる理由はいくつかあるが、まず一つは「参入障壁が低い」からである。いきなり薬や医療機器を作ったり、生活習慣病予防アプリを開発したりはできないが、医療知識がなくてもキュレーションメディアならば立ち上げ時のノウハウもあるし、限られたリソースでも運用していくことができると思って参入するパターン。もう一つは、「インターネット広告事業の延長線上で始める」からだ。いわゆるネット系企業や代理店出身者は、広告でマネタイズする方法を熟知しているため、その道の素人であっても事業として収益化できる可能性がある。

そして、これが最も重要なのだが、「解決したい課題」や「どうしても伝えたいこと」があるからだ。ここから先は、私自身の話になる。なぜ、ヘルスケアの道を選んだのか。このようにうんざりするほどの長文を書くモチベーションはどこから出てくるのか。最後にその点について触れたい。

私は現在37歳だが、これといって大きな病気にかかったこともなければ、幸いなことに両親は健在で、小さな子どもたちも元気いっぱいだ。つまり、ヘルスケアの道を選ぶことになった必然的な理由はない。では、なぜヘルスケア事業に携わり、思うようにいかない毎日の中で奮闘しているのかといえば、「病気を治すことだけが解決法ではない」という確信があるからだ。

例えば、ある疾患の患者が第三者からの誤解や差別により苦しんでいるとする。そして彼は、その病気を隠し、目立たないように生きようとしたり、人生におけるあらゆる可能性をあきらめてしまう。さらには、たまたま通院を怠って、1日だけ服薬しなかったがために、発作が起きてしまう。しかも、そのとき彼は自動車を運転していてーー

「てんかん患者が運転中に発作を起こし重大事故」といったニュースが出ると、何が起こるか知っているだろうか。ネットには人殺しだ、免許を取得させるなといった罵詈雑言の類が噴出する。ほとんどの人が知らないことだが、てんかんの患者が自動車免許を取得するには医師の診断書が必要であるし、道路交通法が定めた細かな条件があり、発作があることを隠して取得しようとすれば法律で罰せられる。

特定の疾患の患者全体にレッテルを貼ったり、病気を持つものは車を運転してはいけないと主張するのは、当たり前に守られるべき人権を無視しているわけで、そういった心ない中傷や無知が、より一層患者やその家族に肩身の狭い思いをさせることになる。先に述べたように、どうせ自分は病気だからと消極的になったり、治療に対しても後ろ向きになったりと、悪循環にはまってしまう。

私は、ある製薬会社のマーケティング担当者から、てんかんという病気の難しさ、病状も人それぞれであることを教えてもらったが、そのとき初めてDTCやアドヒアランスという言葉と、その活動の意味を知った。そして、てんかんの専門医の方の言葉に感銘を受けたことが大きなきっかけとなった。

「患者さんの人生を変えたい」

病気は薬を飲んだり手術をすることで治すものだと思い込んでいたが、治らない病気とどう付き合っていくのか、どうやって少しでも前向きに人生を歩んでいけるのかといった観点でもサポートができる、自分にも何かできるかもしれない、そう思い立ち、ネットだからこそできるヘルスケアサービスとは何かを追求することに軸足を置いたのである。


■ 選択肢を広げ、QOLを向上させることができるサービスを

その後も、様々な病気やそれにまつわる課題や悩みがあることを学んだ。例えば、「血友病」という病気は、わかりやすく言うと出血が止まりにくくなってしまうものだが、血液凝固因子製剤を的確に使用すれば、健常者と何ら変わりがない。しかも、公的負担制度により治療費はかからない。

ただやはり、治療以外の部分で悩ましいことが多数存在する。幼少期には、もしものことを考えて、みんなと同じように校庭を走り回ることができず、寂しい思いをするかもしれないし、青年期には遺伝することを恐れて恋愛や結婚に消極的になってしまうかもしれないし、高額な医療費を国に負担してもらっているということに対してずっと負い目を感じ続けることになるかもしれない。

生まれつきある病気、障がいを持っているだけなのに人生の幅が縮まってしまう、いろんな可能性をあきらめてしまう、このことに対して、私は選択肢を用意したいと考えている。治療ではなく、QOLを向上させることならできると思うし、そこに関しては諦めたくはない。

これまでは、疾患に関するQAデータをテキストマイニングし、仮説を立て、インサイトとして製薬企業向けにレポーティングするということもやったし、患者同士のコミュニティも立ち上げたし、今は専門家による健康相談サービスやコラムメディアを運営し、そこから派生したソリューションビジネスを手がけている。

未だ理想は程遠いところにあるし、どうすれば特定の疾患の患者や、心身の健康で悩む人たちのQOLを向上させ、人生を前向きなものへと変えられるのか、答えは出ていない。だが、患者や消費者のためになり、それでいて医療従事者の負担を軽減することができ、医療費の増大を多少なりと食い止め、製薬企業にとってもプラスに働くような、そんなスキームがあるとしたら、その一助となりたいと思う。

甘ったるい夢物語のようだが、果たしてそのくらいのことを考えずに、ヘルスケア事業をやっていると言えるだろうか。軽いノリで参入していないか、我々は何を思い、何を為すのか、今一度問い直す必要があるだろう。


 「Yahoo!ニュース 個人」に寄稿した記事を転載しています  
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とにかく評判の良い『シン・ゴジラ』。そんなに言うならと、仕事帰りにIMAXシアターに滑り込んだ。開始5分前にチケット売り場に行ったら、最後の1席。休日前とはいえ、注目度の高さがうかがい知れる。

一人で食べるには多すぎるポップコーンを抱えて席に着き、最上段からスクリーンを見下ろすと、ほどなく本編が始まった。2時間を超える作品だが、冗長なところはなく非常に濃密で、随所にエヴァ的要素が盛り込まれていることを差し引いても、その評価の高さに値する出来映えだった。

これだけ登場人物が多いのに混乱することなく、それぞれのキャラクターを認識することができるのは、ひとえに作り手の手腕と豪華キャストあってこそだ。

観客席はエンドロールが終わるまで適度な緊張感で包まれ、皆がスクリーンに集中していた。純粋に面白かったし、満足度の高い映画だと言い切っていいだろう。

その上で、私は『シン・ゴジラ』を「エリートの、エリートによる、大衆のための映画」だと感じた。理由はシンプルで、基本的にエリート(と天才)しか出てこないからである。

未曾有の災害や大惨事などの異常事態と立ち向かう人々の群像劇を描くパニック映画においては、主人公である「一般人」が中心となり活躍し、困難を乗り越えながら家族や恋人との絆を深めていくことが前提となる。『シン・ゴジラ』にはその要素がない。

そもそも『シン・ゴジラ』はパニック映画ではないといえばそれまでだが、だから良いとか悪いとかではなく、そこにこの映画の特徴が表れていると思うのだ。


■ 登場人物はとにかくカッコよすぎて、すごいヤツだらけ

突然トラブルに見舞われ、運命に翻弄されながらも、諦めずにベストを尽くす。ヒロイズムを帯びた主人公は、見る者の心を掴み、ストーリーに引き込んでいく力を持つ。長谷川博己さんが演じる主役、内閣官房副長官政務担当・矢口蘭堂とはどんな人物だろうか。

矢口は、二世議員であることを生かし若くして要職に就いたエリートであるが、閣僚会議という場であっても自分の意見を主張する向こう見ずなところがあり、折に触れて竹野内豊さんが演じる切れ者、内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹に諌められる、といった設定からもわかるように、空気を読んでなんぼの政治家像と一線を画した存在として、応援したくなる人物に仕上がっている。

作中取り乱すシーンがあり、松尾諭さん演じる保守第一党政調副会長・泉修一に諭されるものの、その後は終始見事なまでに冷静と情熱の間で難しい判断を下し、自らも前線に出て問題解決に当たる。ただひたすら、国の未来のために。つまり、矢口はあまりにも「カッコよすぎる」のだ。

そういう意味では、政治家たちのカッコよさや、陸海空の自衛隊がひるむことなくゴジラに立ち向かっていく様子を見るにつけ、「安倍政権の政治的プロバガンダである」と評する向きがあるのも無理はないかもしれない。先の東日本大震災でもそうであったように、政治家や官僚は不眠不休で事態の収拾に当たったんですよ、そう言わんばかりではないかと。

こういった見方やネットに溢れる深読みの類の是非はさておき、魅力的な登場人物を配置しながらも、あくまでもエリートとそれ以外という構造で描かれていることに注目したい。なぜ、ここまでカッコよく、すごいヤツばかりの必要があるのか。あんな怪物を目にしたら、腰が抜けて勝てっこないと逃げ出すのが普通ではないだろうか。エリートたちは人間の弱さを超越してしまったのだろうか。


■ 作品と観客が断絶されているからこそ、虚構としての純度が高い

この違和感に解を与えると、こうなる。『シン・ゴジラ』はただひたすら理想を描いているからである。

にわかには信じがたい事態が現実となり、目を覆いたくなるような惨劇が繰り広げられようとも、この国は負けない。日本の未来のために全身全霊を注ぐことのできるエリートたちがいる。世界に誇れるものがあるんです。希望を持ちましょう。そんな具合に。

『シン・ゴジラ』に魅了され、ある種の爽快感を覚える人が多いということは、虚構としての純度が高く、現実とのギャップが大きいことの表れでもある。つまり、「こんなヤツいるわけねーだろ」と白けるまでもなく、その虚構を受け入れ、楽しむことができるのが『シン・ゴジラ』の魅力なのである。

映画館に足を運ぶ一般人は、エリートや天才的な才能を持つ登場人物たちに感情移入することは難しい。メインキャストとは対照的に逃げ惑う無名の人たちには当事者性があるが、感情移入できるほどそれぞれの人物が描かれていない。

だからこそ、作品と観客は断絶され、見世物としての精度が高まる。断片的に切り取られ完結した世界を外側から眺め、そこで起きていることに一喜一憂できる。虚構としての純度が高いというのは、そういう意味合いである。

言い方は悪いが、『シン・ゴジラ』の観客である私たちは、二重に蚊帳の外にいるのだ。映画の中では、ゴジラから逃げ惑い「ヤシオリ作戦」の成功を祈るのみの存在であり、現実世界においても、様々な才能が集結して創られた作品を消費するのみの存在である。

いや、蚊帳の外という表現は正確ではない。その他大勢の人々もまた、しっかりと役割を担っている。国民として国を支え、その運営をエリートたちに委ねているし、良質なエンターテイメントを求める代わりに、興行収入を支えている。

『シン・ゴジラ』は、この構造を浮き彫りにしている。無名の人たちは、エキストラではあってもキャストではない。これが、「エリートのエリートによるエリートのための映画」と評する所以だ。
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