Write Between The Lines.

物書き・青木勇気の日々とメディアでの記事更新情報をお届けします。

グロースハックという言葉が使われるようになって久しいが、成功パターンを見出し急成長を果たしたメディアでも、得られるのは賞賛ばかりではない。モラルを欠いたやり方で検索結果の順位を上げることで、誹りを受けることにもなる。

あるキュレーションメディアが、露骨すぎるコンテンツSEOをもって不確かな医療情報を垂れ流している、パクリを指示した、薬機法違反だと叩かれ、わずか1週間ほどで一時停止するまでに至った。そして、特定のメディア、企業への批判にとどまらず、キュレーションメディアのあり方そのものにまで波及している。

私は、物書きとしてYahoo!ニュース個人に参加しているが、普段は会社員であり、いわゆる「メディアの中の人」をしている。槍玉に挙げられているキュレーションタイプのメディアではないが、ヘルスケアメディア、サービスを運営している、いわゆる競合他社とも言える会社で働く、いちプロデューサーだ。

これまでは、あえて専門領域ではないことをメインに書かせてもらっていたが、この件に関しては思うところがある、というより、メディア運営者や業界通の発言があまり見受けられないので、ヘルスケア事業に携わる者としてこの件を論じたい。


■ 素人とプロを棲み分けるだけでは意味がない

まず、声を大にして言いたいのは、キュレーションメディアで記事を配信することは「IT×ヘルスケア」という観点で見ればごく初歩的でソリューションレベルが低いものであるということ、そして、ほんの一部分にフォーカスして医療・健康を出汁にして稼ぐ悪しきネット企業云々といった批判ばかりになってしまうこと自体がヘルスケア業界への関心の低さを物語っていて、非常に残念であるということだ。

人の命に関わる事態になるリスクがあるのに、どこの誰だか知らない人が書いた信憑性のない記事の検索順位を上げる、確かにこれはモラルに欠ける行為だと断罪されて当然である。信憑性を担保するのであれば、専門家の目を通すべきだ、これも正しいと思う。しかし、ざっくりと規定された専門家というくくりでとりあえず監修したと言えば良いというわけではない。

つい最近、ある獣医師の方とやり取りをしていて、「蛇についての質問が来たが私には答えられない、どうしたら良いですか?」と聞かれ、蛇について特別な勉強をしている獣医師でもない限り、一般人と知識に大差はないことを知ったが、例えば蛇の死因についてのコラムがあったとして、獣医師監修と書かれていたら何となく「へーそうなんだ」と思ってしまうのではないだろうか。そこに書かれたことに間違いがあったとしても、気付けるのは医療・健康に関する専門家ではない、「蛇の生態に詳しい人」ということになるかもしれない。

私自身、特段何の資格も持っていないが、今書いている内容に関しては誰よりも情報通であると自負している。でも、ほとんどの人が私のことを知らないわけで、その意味では本当かどうか分からないという話になる。つまり、記事の信憑性を担保することのは難しく、一言で専門家が監修するといっても、それはどんなレベルで監修するのかによってアウトプットの質が変わるわけだ。

「いやいや医療情報における医師は確実でしょ」と思うかもしれない。確かに、そんな気はする。だが、実際に患者や友人としてではなく、ビジネスにおいて医師と向き合ったことがある人はどれくらいいるだろうか。たとえ医師であろうとも、自分の専門外のことは調べなければわからないし、間違った情報を参照してしまう可能性はある。

編集や記者の実務経験のないネットメディアのディレクターがやっているからコンテンツのレベルが低い、著作権その他のルールに関する知識が乏しい。これは事実だし、それはそれで大きな課題である。しかし、それは誰が見ても分かることであり、見えていない部分にも課題はある。

まず、パクるのは邪悪な企業に指示されたクラウドソーシングライターだけではない。他サイトから丸ごとコピーするという意味では、医師だってパクる。もちろん悪気はなく、引用元がしっかりしていると思ったから、という理由がほとんどで、単純に著作権等の知識がないからではあるが、メディア側がしっかりと検閲しないと、どこで問題が起きるかわからない。また、当然ながら忙しい方が多いので、お願いした仕事をすっぽかしたり、適当に扱われたり、締め切りを守らないことも日常茶飯事だ。

言うまでもないが、決して医師を貶めたいわけではない。普段から医師の皆様には大変お世話になっているし、相対的に見て勤勉で人格者が多いと確信している。そこに傲慢な気持ちはないし、謝礼の多寡にかかわらず仕事の質が極めて高い方々は心から尊敬している。ここで論点にしたいのはあくまで、素人を見下し、ネットメディアを訝しみ、プロを絶対視していないか、ということだ。そこには思考停止状態に陥る罠がある。
 

■ 医師という特殊な存在への思い込み

もう一つ例を挙げよう。信頼性や専門性を担保するために後付けで監修を依頼するというのはメディア側の都合が色濃く反映しており、だからこそ、医師からあまりにも内容が酷くて直しようがない、健康増進という観点でそもそも推奨できないといった言葉が出てきてしまう。ただでさえ忙しい人たちに意義を感じられない仕事を依頼しているのだから、顰蹙を買うのも仕方がないだろう。

ただ一方で、誰が書いたかもわからない記事の監修を1本○○円で受けるなんてボランティアでもない限りやらないかといえば、そうでもない。金額や手間がどうのという話はさておき、事実快く受けてくれる医師は少なくない。むしろ、この流れを受けて、正しい情報を見てほしいからぜひやりたいと申し出てくれる方もいるくらいだ。

私たちは物心がついた頃から、体調を崩すと“お医者さん”に行って診察してもらうことが刷り込まれている。でも、実際は「激務の中で忙殺されている医師」や、「学会や論文執筆でそれどころではない医師」ばかりではないし、当たり前だが医師も家庭を持ち、子どもを産むし、海外に留学することもある。つまり、誰にとっても記事の監修など受けている暇はない、割に合わない仕事だとは限らないのだ。

例えば、ボストンに留学中のある医師曰く、コアな専門知識、豊富な臨床経験を持った優秀な医師であっても現地での仕事はなく、かつ夕方以降は比較的時間が空いているという。そういう境遇の方は、自らの専門分野で記事を監修するといった仕事は喜んで受けてくれるわけである。

医師は、患者と向き合うときだけ活躍する存在ではなく、医療現場にいなくても彼らが持つ知見を活かすことができる。でも、そういうシーンがない。だとしたら、その物理的な距離をゼロに近づけるのが、IT企業ができることだと思うのだ。ユーザー向けサービスで言えば、オンライン上での記事執筆、医療監修、健康相談など、役に立つコンテンツ、サービスに協力してもらうことができる。

海外にいながら、子育ての合間に、非常勤プラスアルファで。医師それぞれのステージ、ニーズに合わせてお仕事をお願いする。医療の素人であるメディア運営者は、専門家の力を借りてコンテンツの質を高める。こういった補完関係は成り立つのだ。自社が儲けることだけを考えていては、専門家からの協力は得られないし、ユーザーにとって役立つものにならないし、メディアとしての価値も向上しない。ネットメディアとひとくくりにして眉をひそめている方には、こういうことが見えているのだろうか。

正直なところ、ビジネスにおける優位性という観点では、こういう情報はあまり出したくない。しかし、キュレーションメディアの悪い部分ばかりがフォーカスされ、当該事業をやっていない人たちからサンドバックにされているのを遠巻きに眺めている感じがなんとも歯痒いので、渋々書いた次第である。

さて、ここらが本題だ。では、医療・健康領域における素人であるIT企業は何をなすべきなのだろうか。


■ いい加減な情報は排除すれば、課題は解決する?

いい加減な情報が出回らないよう、キュレーションメディアを筆頭とするシロートは撤退せよ、で良いのだろうか。正しい情報や役立つコンテンツを届けること、そうあろうとすることはメディア人の基礎であり、人の生死に関わる領域において無闇にでしゃばるべきではない、このことには同意する。

例えば、Yahoo!の検索では「乳がん」に関するキーワードで検索した際、一般社団法人日本乳癌学会による「患者さんのための診療ガイドライン2016」の一部を表示するなど、ユーザーが正しい情報に取得できるよう工夫している。

こういった取り組みは精度を高めながらどんどん広げてほしいし、「go.jp」(官公庁など)、「ac.jp」(大学病院など)、「.org」「or.jp」(非営利法人)などのドメインはそもそも簡単に取得できないので、機械的に表示順を上げても良いと思う。その他製薬、医療機器メーカーの疾患啓発サイトなども上位表示しても良いだろう。営利目的の企業がそれに対し異議を唱えるということもないはずだ。他にも、医学部卒のライター朽木誠一郎さんが提案していた信頼できる医療情報の見つけ方なども非常に良いまとめだと思う。

その上で私はこう考えている。「正しい情報から見せるべきではあるが、ここを見てください、まずは病院を受診してください、という案内は必ずしも正しいとは言えないし、不十分である」と。

なぜかといえば、私はかれこれ5年ほどQAサイトを運営しており、様々な質問、相談、疑問、悩み、愚痴、暴言等々を目の当たりにして、実にいろんな人がいて、求める答えもまちまちで、もっと言えば、答えを求めてさえいないことや、自分が何を聞いたら良いのかわからないのだということがわかった。

いわゆる匿名同士のQAコミュニティと医療専門家が答える健康相談サービスを運営してきたが、匿名だからいい加減で信頼に値しない、医師のアドバイスであれば問題は解決する、といった紋切り型の構図にはならず、正直に言って一長一短だと感じている。

例えば、匿名のQAコミュニティで妊娠・育児カテゴリを深く見ていくと、30歳前後の母親による、初めての育児に疲れ不意に涙が止まらなくなる、夫が帰ってくると無性にイライラするという投稿がものすごく多いことがわかる。筆者自身思い当たるところがあったため、より一層読み込んでしまったわけだが、彼女らは自分がなぜそうなっているかわからず、自己嫌悪で苦しんでいることが痛いほど伝わってくる。

こういった悩みを持つ新米ママさんにアドバイスをしてあげるのは誰が良いのか、これは簡単には答えられない。先輩ママが私もそうだったよと共感を示してあげることが正解かもしれないし、旦那を一緒にdisってスッキリしてもらうのが良いかもしれないし、育児うつである可能性に気づかせ、心療内科を受診することが解決への近道かもしれない。

何が言いたいかというと、人間は感情的な生き物であり、日々冷静に正しい情報を摂取し、おとなしく専門家の言うことを聞いているわけではなく、筋の通らないものにこそ飛びついてしまう複雑な存在だということだ。そう考えると、情報の確からしさは重要な指標ではあるが、ユーザーのニーズを満たすという意味では、それが全てではない。

理想的には、何が知りたいのか、どこから来たのかによって、見せる情報を変えるべきであって、これが正しい、これは間違っているとジャッジすることではない。むしろ、パーソナライズされた情報にこそ価値があるのではないだろうか。


■ 集客を目的としたコンテンツは“悪”なのか?

メディアであれ、プラットフォームであれ、ツールであれ、多種多様なニーズに対してたった一つの回答を用意することはできないし、その意味では検索結果の順位をジャックしようとする動きは、ユーザーの選択肢を奪うこととイコールと言える。今回、徹底したコンテンツSEOが取り沙汰されたが、医療・健康領域において集客を目的としたコンテンツを配信すること自体が“悪”なのだろうか。コラム記事といったライトなコンテンツは信憑性が低く、読むに値しないのだろうか。

実のところ、疾患啓発という観点ではコラムは効果的なのである。これは「乳がん」をテーマに実例を挙げると分かりやすい。20代、30代の女性からすれば、自分が乳がんになるなどと想像していないわけで、そういう温度感の人に「誰もが乳がんになる可能性があります。毎年乳がん検診を受けましょう!」と語りかけてもなかなか響かないし、「このサイトを参考にしてください」と国立がんセンターのサイトのリンクを送ることが必ずしも正解とは限らない。

むしろ、多くの人は小林麻央さんが30代前半で乳がんになったという事実にこそ驚き、「若い人も乳がんになるのか…」と自分の問題になるわけで、そういうスタートラインにあわせて、コラムという形で噛み砕くのである。健康に関する身近な話題を専門家に解説してもらうことで、信頼性を担保しつつ情報にリーチする際のハードルを下げる、ここにメディアの腕の見せ所があるのではないだろうか。そして、そういった記事がニュースサイトやキュレーションメディア、SNS等に取り上げられれば、より多くの人に読んでもらうことができる。これはネットメディアにしかできないことだ。

また、今はSEOならぬSXO(Search Experience Optimization)が主流になってきていて、とにかくコンテンツを拡充して集客するという手法は過去のものになっている。特定のページの流入数を増やすことありきではなく、例えば「googleサジェスト」を用いて、そもそもの検索ニーズを探り、そのニーズに検索者のステータス(興味レベルなのか、予防したいのか、治療方法を知りたいのか、病院に行くべきなのかなど)という概念を加え、必要なコンテンツを追加していく。

さらに言えば、これだけスマホが普及しているのだから、メディア運営者はほとんどの人がスマホでコンテンツを「上から順に読んでいる」ことに対して対策しなければならない。どこまで読まれているのか、どのコンテンツが熟読されているのか、どのページに遷移・離脱しているのか等を検証し、ユーザーが求めているであろうものへとチューニングしていくわけだ。iPhoneの新作の画面サイズやスペック、キャリア各社の通信速度制限の改善、地下鉄での無料Wi-Fiサービス開始、そういったUI/UXに関わるトレンドや外部要因もウォッチしている必要もあるだろう。

こんな当たり前のことを書くのは気がひけるが、メディアやサービスは、どのようにユーザーを集めて、何を見てもらい、どうなってほしいのかといったコンセプトやストーリーが根底にあることはもちろん、ただ運営するだけでなく、常日頃改修し続けなければならないのだ。ただ大量のトラフィックを集めるだけで、何らかの形で“その後”が用意されていないなら、ユーザーは広告を踏むか、検索ページに戻るしかない。果たしてそれは誰のためのものだろうか。

それぞれのコンテンツには役割がある。SEOやコラムは外せない。しかし、決して手段であるはずの集客が目的になってはならない。それが原則だ。


■ そもそもメディアは儲からないし、儲けるためにヘルスケアはやらない

そうは言っても、あるメディアがこれでもかと徹底的にgoogle対策をした結果、尋常じゃない伸びを見せていたら、つい真似したくなるのが人情というもので、特にメディアの中の人は赤字路線の状況に一石を投じたい、数値目標に届かせたいという必死な思いで無茶をしたり、当初思い描いていた世界観を見失ってしまうことがある。私自身、その怖さは嫌というほど知っているつもりだ。

「お前が成功してないだけだろw」と揶揄されるかもしれないが、基本的にメディアは儲からない。少なくとも、儲かるからと何億円も投資できるほどラクチンなビジネスではなく、SEOで獲得したセッションをそのままお金に変えることは簡単ではないから、いつ回収フェーズに入り、収益化するのかという絵を描きにくい。

キュレーションメディアにベタ付きの担当を立て、煩雑極まりないネットワーク広告の運用をしたところで、PV単価は0.3円まで持っていければ御の字というレベルだし、記事広告にしてもimpあたり50円程度で、制作コストを鑑みるとやはり安価な商品である。しかも、顧客が満足な結果が得られなければリピートはもらえない。健康、ダイエットというテーマはアフィリエイトとの相性が良いからと飛びつく手にあるが、そもそものメディア価値を下げるリスクもある。

いずれにせよ、サイトのボリュームが大きくなればその分インフラ周りの整備が必要だし、記事を量産し続けるのには社内外のライター、ディレクターも増強する必要がある。そこに医師による監修が加わるとなれば、なおさらだ。とにかく運用コストがかかるのがメディアの宿命である。要するに、メディア事業単体で儲けている会社があったら教えて欲しいくらいシンドイわけで、それでもやるのはなぜなのか、という話になる。

ネット企業がメディアをやる理由はいくつかあるが、まず一つは「参入障壁が低い」からである。いきなり薬や医療機器を作ったり、生活習慣病予防アプリを開発したりはできないが、医療知識がなくてもキュレーションメディアならば立ち上げ時のノウハウもあるし、限られたリソースでも運用していくことができると思って参入するパターン。もう一つは、「インターネット広告事業の延長線上で始める」からだ。いわゆるネット系企業や代理店出身者は、広告でマネタイズする方法を熟知しているため、その道の素人であっても事業として収益化できる可能性がある。

そして、これが最も重要なのだが、「解決したい課題」や「どうしても伝えたいこと」があるからだ。ここから先は、私自身の話になる。なぜ、ヘルスケアの道を選んだのか。このようにうんざりするほどの長文を書くモチベーションはどこから出てくるのか。最後にその点について触れたい。

私は現在37歳だが、これといって大きな病気にかかったこともなければ、幸いなことに両親は健在で、小さな子どもたちも元気いっぱいだ。つまり、ヘルスケアの道を選ぶことになった必然的な理由はない。では、なぜヘルスケア事業に携わり、思うようにいかない毎日の中で奮闘しているのかといえば、「病気を治すことだけが解決法ではない」という確信があるからだ。

例えば、ある疾患の患者が第三者からの誤解や差別により苦しんでいるとする。そして彼は、その病気を隠し、目立たないように生きようとしたり、人生におけるあらゆる可能性をあきらめてしまう。さらには、たまたま通院を怠って、1日だけ服薬しなかったがために、発作が起きてしまう。しかも、そのとき彼は自動車を運転していてーー

「てんかん患者が運転中に発作を起こし重大事故」といったニュースが出ると、何が起こるか知っているだろうか。ネットには人殺しだ、免許を取得させるなといった罵詈雑言の類が噴出する。ほとんどの人が知らないことだが、てんかんの患者が自動車免許を取得するには医師の診断書が必要であるし、道路交通法が定めた細かな条件があり、発作があることを隠して取得しようとすれば法律で罰せられる。

特定の疾患の患者全体にレッテルを貼ったり、病気を持つものは車を運転してはいけないと主張するのは、当たり前に守られるべき人権を無視しているわけで、そういった心ない中傷や無知が、より一層患者やその家族に肩身の狭い思いをさせることになる。先に述べたように、どうせ自分は病気だからと消極的になったり、治療に対しても後ろ向きになったりと、悪循環にはまってしまう。

私は、ある製薬会社のマーケティング担当者から、てんかんという病気の難しさ、病状も人それぞれであることを教えてもらったが、そのとき初めてDTCやアドヒアランスという言葉と、その活動の意味を知った。そして、てんかんの専門医の方の言葉に感銘を受けたことが大きなきっかけとなった。

「患者さんの人生を変えたい」

病気は薬を飲んだり手術をすることで治すものだと思い込んでいたが、治らない病気とどう付き合っていくのか、どうやって少しでも前向きに人生を歩んでいけるのかといった観点でもサポートができる、自分にも何かできるかもしれない、そう思い立ち、ネットだからこそできるヘルスケアサービスとは何かを追求することに軸足を置いたのである。


■ 選択肢を広げ、QOLを向上させることができるサービスを

その後も、様々な病気やそれにまつわる課題や悩みがあることを学んだ。例えば、「血友病」という病気は、わかりやすく言うと出血が止まりにくくなってしまうものだが、血液凝固因子製剤を的確に使用すれば、健常者と何ら変わりがない。しかも、公的負担制度により治療費はかからない。

ただやはり、治療以外の部分で悩ましいことが多数存在する。幼少期には、もしものことを考えて、みんなと同じように校庭を走り回ることができず、寂しい思いをするかもしれないし、青年期には遺伝することを恐れて恋愛や結婚に消極的になってしまうかもしれないし、高額な医療費を国に負担してもらっているということに対してずっと負い目を感じ続けることになるかもしれない。

生まれつきある病気、障がいを持っているだけなのに人生の幅が縮まってしまう、いろんな可能性をあきらめてしまう、このことに対して、私は選択肢を用意したいと考えている。治療ではなく、QOLを向上させることならできると思うし、そこに関しては諦めたくはない。

これまでは、疾患に関するQAデータをテキストマイニングし、仮説を立て、インサイトとして製薬企業向けにレポーティングするということもやったし、患者同士のコミュニティも立ち上げたし、今は専門家による健康相談サービスやコラムメディアを運営し、そこから派生したソリューションビジネスを手がけている。

未だ理想は程遠いところにあるし、どうすれば特定の疾患の患者や、心身の健康で悩む人たちのQOLを向上させ、人生を前向きなものへと変えられるのか、答えは出ていない。だが、患者や消費者のためになり、それでいて医療従事者の負担を軽減することができ、医療費の増大を多少なりと食い止め、製薬企業にとってもプラスに働くような、そんなスキームがあるとしたら、その一助となりたいと思う。

甘ったるい夢物語のようだが、果たしてそのくらいのことを考えずに、ヘルスケア事業をやっていると言えるだろうか。軽いノリで参入していないか、我々は何を思い、何を為すのか、今一度問い直す必要があるだろう。


 「Yahoo!ニュース 個人」に寄稿した記事を転載しています  
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とにかく評判の良い『シン・ゴジラ』。そんなに言うならと、仕事帰りにIMAXシアターに滑り込んだ。開始5分前にチケット売り場に行ったら、最後の1席。休日前とはいえ、注目度の高さがうかがい知れる。

一人で食べるには多すぎるポップコーンを抱えて席に着き、最上段からスクリーンを見下ろすと、ほどなく本編が始まった。2時間を超える作品だが、冗長なところはなく非常に濃密で、随所にエヴァ的要素が盛り込まれていることを差し引いても、その評価の高さに値する出来映えだった。

これだけ登場人物が多いのに混乱することなく、それぞれのキャラクターを認識することができるのは、ひとえに作り手の手腕と豪華キャストあってこそだ。

観客席はエンドロールが終わるまで適度な緊張感で包まれ、皆がスクリーンに集中していた。純粋に面白かったし、満足度の高い映画だと言い切っていいだろう。

その上で、私は『シン・ゴジラ』を「エリートの、エリートによる、大衆のための映画」だと感じた。理由はシンプルで、基本的にエリート(と天才)しか出てこないからである。

未曾有の災害や大惨事などの異常事態と立ち向かう人々の群像劇を描くパニック映画においては、主人公である「一般人」が中心となり活躍し、困難を乗り越えながら家族や恋人との絆を深めていくことが前提となる。『シン・ゴジラ』にはその要素がない。

そもそも『シン・ゴジラ』はパニック映画ではないといえばそれまでだが、だから良いとか悪いとかではなく、そこにこの映画の特徴が表れていると思うのだ。


■ 登場人物はとにかくカッコよすぎて、すごいヤツだらけ

突然トラブルに見舞われ、運命に翻弄されながらも、諦めずにベストを尽くす。ヒロイズムを帯びた主人公は、見る者の心を掴み、ストーリーに引き込んでいく力を持つ。長谷川博己さんが演じる主役、内閣官房副長官政務担当・矢口蘭堂とはどんな人物だろうか。

矢口は、二世議員であることを生かし若くして要職に就いたエリートであるが、閣僚会議という場であっても自分の意見を主張する向こう見ずなところがあり、折に触れて竹野内豊さんが演じる切れ者、内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹に諌められる、といった設定からもわかるように、空気を読んでなんぼの政治家像と一線を画した存在として、応援したくなる人物に仕上がっている。

作中取り乱すシーンがあり、松尾諭さん演じる保守第一党政調副会長・泉修一に諭されるものの、その後は終始見事なまでに冷静と情熱の間で難しい判断を下し、自らも前線に出て問題解決に当たる。ただひたすら、国の未来のために。つまり、矢口はあまりにも「カッコよすぎる」のだ。

そういう意味では、政治家たちのカッコよさや、陸海空の自衛隊がひるむことなくゴジラに立ち向かっていく様子を見るにつけ、「安倍政権の政治的プロバガンダである」と評する向きがあるのも無理はないかもしれない。先の東日本大震災でもそうであったように、政治家や官僚は不眠不休で事態の収拾に当たったんですよ、そう言わんばかりではないかと。

こういった見方やネットに溢れる深読みの類の是非はさておき、魅力的な登場人物を配置しながらも、あくまでもエリートとそれ以外という構造で描かれていることに注目したい。なぜ、ここまでカッコよく、すごいヤツばかりの必要があるのか。あんな怪物を目にしたら、腰が抜けて勝てっこないと逃げ出すのが普通ではないだろうか。エリートたちは人間の弱さを超越してしまったのだろうか。


■ 作品と観客が断絶されているからこそ、虚構としての純度が高い

この違和感に解を与えると、こうなる。『シン・ゴジラ』はただひたすら理想を描いているからである。

にわかには信じがたい事態が現実となり、目を覆いたくなるような惨劇が繰り広げられようとも、この国は負けない。日本の未来のために全身全霊を注ぐことのできるエリートたちがいる。世界に誇れるものがあるんです。希望を持ちましょう。そんな具合に。

『シン・ゴジラ』に魅了され、ある種の爽快感を覚える人が多いということは、虚構としての純度が高く、現実とのギャップが大きいことの表れでもある。つまり、「こんなヤツいるわけねーだろ」と白けるまでもなく、その虚構を受け入れ、楽しむことができるのが『シン・ゴジラ』の魅力なのである。

映画館に足を運ぶ一般人は、エリートや天才的な才能を持つ登場人物たちに感情移入することは難しい。メインキャストとは対照的に逃げ惑う無名の人たちには当事者性があるが、感情移入できるほどそれぞれの人物が描かれていない。

だからこそ、作品と観客は断絶され、見世物としての精度が高まる。断片的に切り取られ完結した世界を外側から眺め、そこで起きていることに一喜一憂できる。虚構としての純度が高いというのは、そういう意味合いである。

言い方は悪いが、『シン・ゴジラ』の観客である私たちは、二重に蚊帳の外にいるのだ。映画の中では、ゴジラから逃げ惑い「ヤシオリ作戦」の成功を祈るのみの存在であり、現実世界においても、様々な才能が集結して創られた作品を消費するのみの存在である。

いや、蚊帳の外という表現は正確ではない。その他大勢の人々もまた、しっかりと役割を担っている。国民として国を支え、その運営をエリートたちに委ねているし、良質なエンターテイメントを求める代わりに、興行収入を支えている。

『シン・ゴジラ』は、この構造を浮き彫りにしている。無名の人たちは、エキストラではあってもキャストではない。これが、「エリートのエリートによるエリートのための映画」と評する所以だ。
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「全人格労働」という言葉をよく目にするようになった。

人生の一部であるはずの仕事にすべてを捧げ、心身ともに壊れてしまう。そのような状況に陥る原因として、ネガティブな文脈で語られる全人格労働とは、何なのか。いわゆるブラック企業と言われる会社などは、社員に全人格労働を強要し、搾取しているのだろうか。

厚生労働省による2015年度の労働紛争に関する調査では、民事上の労働相談のうち、上司による暴言や無視などいわゆるパワハラに当たる「いじめ」が、前年度比7%増で過去最多となったと発表されている。

また、労働相談自体も2.6%増えており、「いじめ」以外でも「自己都合退職」は8.7%増。このことからも、職場の人間関係や労働環境で悩んでいる人は増加傾向にあるとは言える。

ただ、私は全人格労働なるものが常態化し、それが故に多くの人の人生が損なわれているのかどうかといえば、必ずしもそうではなく、そこで止まってしまっては本質が見えてこないと感じている。

というのも、会社から搾取され、人生が狂ってしまったとされる匿名の人々は、被害者もしくは犠牲者として誇張され、「社会問題である。他人事ではない」という紋切り型の警鐘に終始するケースがほとんどだからだ。社会問題だとするならば、より掘り下げて考える必要がある。

いずれにせよ、全人格労働とは何なのか、なぜ起きるのかを考察してみよう。


■ 全人格労働の定義と発生理由について

まず、全人格労働の定義についてだが、「日本の人事部」の説明がわかりやすかったので、そのまま引用したい。

「全人格労働」とは、人生の一部であるはずの仕事に自分の全人生や全人格をつぎ込んでしまうような、破滅的な働き方をいう言葉です。産業医の阿部眞雄氏は2008年に著した『快適職場のつくり方 イジメ、ストレス、メンタル不全をただす』の中で、この概念を提示し、全人格労働が日本の社会に少しずつ広がっていると指摘しました。賃金やポストの上昇といった見返りが少ない職場が増えていることに加え、競争の激化や業績へのプレッシャー、解雇の恐怖などから、否応なしに過重労働に追い込まれ、仕事に人間らしさを奪われてしまう状態を表します。その結果、正しい判断ができずに道を誤ったり、心身を病んで休職・退職を余儀なくされたりする人も少なくありません。

筋が通っているし、筆者自身ITベンチャーを渡り歩き、様々な企業を取材してきたが、こういう状況はどこか別の世界の話ではなく、具体的にイメージできる。実際に、そうとしか言いようのない人たちが一定数いることは間違いないだろうとも思う。

では、なぜ必ずしも会社が全人格労働を強要しているわけではないと考えるかというと、ひとつ目は冒頭で述べた通り、被雇用者の「被害者側」の視点、もしくはそこに同調し憑依したメディアの視点で語られていて、雇用者は匿名のまま抽象的な加害者として仕立てられることが多いからである。

そしてもうひとつは、全人格労働としか言いようのない事態が起こっていたとしても、真の理由と問題はむしろ「ブラック化した企業」の側にはないからである。

つまり、ある人が全人格労働をできてしまうという、まさにその状況こそが危機的なのであり、なぜ全てを注ぎ込んでしまうようなことができるのか、この理由にフォーカスする必要があるということだ。

念のため断っておくが、「いじめられる側も悪い」「弱者も戦うべきだ」といった議論を展開する気は毛頭ない。これから書くことは、本当の意味で他人事ではない、より根深い問題であり、全人格労働そのものの是非を問うといった話ではない。

現状定義されている「全人格労働」はそのままに、あくまで全人格労働が実践されているとはどういう状況なのか、そしてそれはなぜ起こるのか、なぜそこから脱出できないのかに迫りたいと思う。


■ 会社は長時間労働を強要し、搾取する存在なのか

「賃金やポストの上昇といった見返りが少ない職場が増えていることに加え、競争の激化や業績へのプレッシャー、解雇の恐怖など」、これが全人格労働の理由とされている。

見返りが少ない職場が増えていることのエビデンスはなさそうだが、外的要因に左右されやすい特定の業種業界だけでなく、盤石だと思われた会社が大幅な赤字を計上したり、リストラを推進していることなどを見ても、終身雇用は今や昔のことで、大企業に入りさえすれば大丈夫などと安心していられない時代になっていることは自明であろう。

そう考えれば、一部のブラック企業だけの話ではなく、誰もが全人格労働に囚われる可能性がある、他人事ではないという話になるのは納得できる。実際、長時間労働や休日出勤が常態化している会社はざらにある。

また、それを「組織貢献」として良しとする風潮が見えない同調圧力を生み、その状況を助長することは珍しくない。その意味では、全人格労働の理由とされているものが複合的に絡み合い、ネガティブスパイラルを生み出しているとも言える。

しかしそれでも、大抵の場合は組織が個人に全人格労働を強いているわけではなく、「結果的に」全人格労働になってしまっているのではないかと思うのだ。

前提として、私は会社員という立場は「都合が良く、楽だ」と感じている。なぜなら、保険や税金などの手続き周りのことは代行してくれるし、有給休暇もあるし、会社の業績が良ければ、個人として大した成果を上げていなくてもボーナスが出るからだ。

組織におけるポジションによるところはあるが、基本的には業務や責任の範囲は全体の一部を担うという形になる。また、最低限のルール、マナーを守れば、いつでも転職することができる。これらは、組織に属していればこそ享受できるメリットと言えるだろう。

さらに、「考えなくてもいい」という側面もある。先人たちが築いたビジネスモデルや商材があり、ゼロから何かを生み出し、それを価値に変えていく、というレベルの仕事に就くことは滅多にない。基本的には、ある程度決められた範疇、目標に従って働くことになる。

無茶な目標を設定し、目標達成そのものをモチベーションにして全力で働かせる、確かにそういうマネジメント手法は存在するし、やり方としては良いとは言えないかもしれない。ただ、それでもわかりやすくはある。なぜその目標が必要なのか、それが達成できなかったらどうなるのか、というところまでは見なくてもいい。

しかも、目標を達成できなかったとしても、結果だけを評価対象として機械的に給与を下げられる、降格させられるということは稀だ。外資系企業などは別だが、そもそもそういう文化を理解した上で入社しているケースがほとんどである。

お前は本当にブラックな会社を知らない、正規雇用社員が恵まれているだけだ、と反論があるかもしれないが、少なくとも筆者自身の経験で言えば上記のような認識である。


■ 機能しなくなっただけで、全人格労働は昔からある

確かに、厳しい時代ではある。労働と対価のバランスが崩れていると感じる人が多いのも無理はない。インターネットやデバイスの進化により、どこでも仕事ができるようになった代わりに、オンオフが切り替えにくい。SNSで上司や取引先で繋がっていて、息がつまる。そういったストレスもあるだろう。

ただ、会社という仕組み自体が労働者を搾取し、人生を損なわせるものに変わってしまったわけではない。全人格労働そのものは突如生まれたものではなく、長らく行われてきたことである。

問題は、全人格労働が時代の変化と多様性の中で取り残された愚直さ、そして、硬直化した価値観や生き方の表れとして可視化されたことにあるのだ。つまり、状況が変わっても従来通りにやるから悲劇が起こるのである。

全人格労働とは本来、終身雇用や社会保障制度という強固な基盤や、出世競争があるからこそ、“機能”する。受験戦争に勝ち、一流大学を卒業して、終身雇用を約束する大手企業に入り、30歳までに結婚して子どもをもうけ、右肩上がりの給与を担保にマイホームを買い、ローンを返し、リタイヤ後は第二の人生を…という画一化された人生設計に組み込まれることで、全人格労働は社会問題として槍玉に挙げられるどころか、競争に打ち勝つための要素であり、その後の人生を左右するものとして組み込まれてさえいた。

だから、今や機能しなくなった全人格労働を悪者扱いしていても仕方がなく、自分自身でそこから脱却する必要がある。時代は変わり、価値観やライフスタイルが多様化し、言い換えれば、社会から個人として分断された状態で、情報の海の中でもがきながら「答え」を探すことが求められているのだ。

もう誰も正解を教えてくれないし、正規ルートだと思って走っていた線路が突然途切れてしまうかもしれない。それならば、どうすれば良いのか。これが、本稿のテーマである。


■ 「こんなはずじゃなかった」からどうやって脱却すれば良いのか

どのレベルを全人格労働と呼ぶのかイメージしにくい人もいると思うので、全人格労働で人生が狂ってしまったという事例を見ながら、どうしてそうなるのか、何が問題なのか、いかにしてそこから脱却できるのか、考えていこう。
 
仕事で私が壊れる 人生を搾取する「全人格労働」

ここに出てくるのは40代の男女で、夢ややりがいという気持ちを利用して搾取された、要求の高い上司に過重労働を強いられた、結果的に人生が狂った、というように「被害者」の体で語られている。なるほど、全人格労働とはこういうものですよ、と伝えるのにはもってこいのサンプルである。

同情とともに教訓を得るべきなのかもしれないが、真っ先に私の頭に浮かぶのは「この人たちは今までどうしていたんだろう?」という疑問だった。異業種にキャリアチェンジした結果なのかもしれないし、ここに至るまでの20年ほどはハードワークと無縁だったのかもしれないが、まだ世の中のことが分かっていない若者を騙して馬車馬のように働かせるのとは訳が違う。

30代後半が婚活、妊活のラストチャンスだったと言っているが、それまではどのような人生設計だったのだろうか。要求の高い上司さえ来なければ、順風満帆な人生を送れたのだろうか。いや、そもそも順風満帆な人生とは、結婚、出産することであると考えていたのだろうか。

人生の一部分であるはずの仕事に人生すべてを捧げ、「私」が壊れてしまった、これ自体は悲劇以外の何物でもない。ただ一方で、人生の一部である仕事にすべてを捧げている時点で、「私」は壊れているということに気づく必要がある。

辞めてしまったらそのあとどうなってしまうかわからない、だから辛くてもやめられない。そういう部分があることは否定しない。私自身、30代後半を迎え常日頃感じていることでもある。

だが、「こんなはずじゃなかった。会社に人生を狂わされた」というとき、同時に「では、どんなはずだったのか」と問う必要がある。日々自ら選択し、行動してきたのではなかったか、その「私」とは、何なのかと。

自分が“既定路線”から外れることなど考えたくないし、それこそ他人事として終わらせたいものである。しかし、「私」だと思っていたものと現実との間にギャップが生じ、残酷にも見たくなかった本当の自分が顔を出す。それに気づいた時には後の祭り、という具合に。

夢や希望、やりがいというものは、間違いなく前向きに生きるための原動力になる。ただ、「何者にもなれない私」や「思い通りにならない現実」とも向き合わなければいけない。

だから、まずは人生を「こんなはずじゃないもの」とした上で、自分とは何者なのか、どうありたいのか、何を大切にするのか、といった部分を、なるべく早い段階で考える必要があるのだ。
 

■ 自分自身と向き合い、心の声に耳を傾けることが必要

会社や上司は目標を設定してくれるが、当然人生の答えはくれない。アドバイスをくれたとしても、それをどう聞き、何をするかは本人次第。

自分を変えるのは、あくまで自分だ。自分はどうありたいのかが大切であって、正解はないし、他人に成り替わることも、代わってもらうこともできない。

もちろん、自分の頭で考え、自ら選択し、自発的に行動するなどといっても、社会の一員として生きていくためにはベースとなる「枠組み」が必要で、何も与えられず生きていける人などほとんどいない。高校での進路指導、大学でのキャリアセンター、会社での人事による研修や上司による目標設定、「正規ルート」にはこういった枠組みがあり、多くの人がそれらを甘んじて受け入れている。

なぜか、他にできそうなことがないから? レールから外れるのが怖いから? いや、自分とは何者なのか、何のために生まれ、これからどう生きていくべきなのか、そんなことは考えもしなかったのかもしれない。決まりきった人生など自由がなく、つまらないとうそぶきながらも、どこか他人事として語っているだけなのかもしれない。

理想と現実にギャップがあるのは今始まったことではないし、夢ややりがいを追い求めた結果人生を踏み外すというのは、むしろ普通のことだろう。ただ、踏み外したとしても、それは世間一般的に安全とされるルートではないというだけの話である。多数派の方に入ってさえいれば万事解決ということにはならない。

前述した40代の女性の例で言えば、全人格労働によりそこから外れてしまい、心身ともに損なわれお先真っ暗になってしまったという主張から鑑みて、おそらく正規ルートを歩んできていて、あとはどこかのタイミングで結婚、出産できれば、というステータスだったのだろうが、一般的にそれが良しとされていて、自分もまたそうなる、ということを全く疑っていないように思える。

このことに私は危機感を覚えるのだ。枠組みの中で確率論的に良しとされる、安心だと思われることを選択し、自分もそうあろうとする、それ自体は仕方がないとしても、そうならない可能性もまた考えておく必要があるわけで、今までは特に問題なかったから、周りの人たちもそうだから大丈夫じゃないか、という話には根拠がない。今まさに世知辛い世の中だというならば、なおさらだ。

会社よりも仕事よりも逃げられないのは、自分である。自分自身と向き合えなかった結果として全人格労働につながる、これこそが他人事にしてはいけない問題ではないだろうか。

全人格労働を強制される、これが本当なら完全に労基法違反だし、どう考えてもおかしいと心が叫んでいるのであれば、その声に耳を傾け、行動を起こさなければならない。ある状況により「私」が壊れるのではなく、その状況を受け入れ無理をすることで壊れてしまうのだから。

自分自身と向き合うことができていたら、それを良しとしない生き方を選ぶ「私」が形成されていれば、搾取される形で仕事にすべてを捧げるなどということはありえないのである。

だから、原因のほとんどを会社や経済の側に求めたり、働き方について考えようといったレベルの議題として扱うのではなく、各人が自分事として、これからの時代をどう生きていきていけばいいのか、という次元で考える必要があるのだ。


■ 「とりあえずググる」のをやめて、自分で答えを出すことの意味

最後に、自分自身と向き合うためにできることについて書こう。結論から言うと、「とりあえずググる」ことをやめることから始めるといい。

いつからか、何かに思いを馳せるとき、Googleの検索窓にキーワードを入れて「答え」を探すことが、初めに取る行動になっていないだろうか。

物事を相対化して現状を把握することや、事前に準備し、知っておくことは大切である。そのためにネット上でさまざま情報にアプローチするのは、賢い生き方かもしれない。情報の海を目の前にして、無限の可能性が広がっているようにも思えるだろう。

しかし一方で、それが現実における自分の立ち位置、向き合い方を見失うきっかけになってはいけないのである。他の会社はどうなのか、みんなどうしてるのかと思ったとき、それを簡単に探せてしまうことで、どうしても、自分はどうなのか、どう考えるのか、どうしたいのか、なぜそう思うのか、というコアな部分と向き合う習慣が希薄になってしまう。

確率論の世界や借り物の回答に囲い込まれてしまうと、その中からなかなか出てこれなくなる。選択肢がそこここに落ちているからこそ、逆説的に自分の道を自分で選べなくなるという、皮肉な結果だ。

例えば、結婚について考えるとき、周りの人たちの経験を踏まえた結果、絶対にした(しない)方が良いなどとは言い切れない。結婚さえすれば幸せになれる? 夫にDVされたら? 一人の方が気楽で自由? 子どもを持つ幸せに勝るものはない? 子どもは欲しくないが、少子高齢化だから産むべき?

自分がどんな答えを出すにしても、普遍的に良い・悪いとされること、という観点で物差しを持ち出しても意味がない。まずは考えてみる、感じていることを自分なりに表現してみる、ということをしない限り、枠組みの中で生きることを余儀なくされ、運が悪ければ、全人格労働の罠にはまるかもしれない。

言うまでもなく、とりあえずググるのをやめさえすれば良いという話ではなく、論点はあくまで、いかにして自分自身と向き合う習慣を身につけるか、である。また、自分勝手に生きればいいんだよ、という主張でもない。

むしろ逆で、自分は何者なのか、何がしたいのかという問いから派生して、自分にも何かができるかもしれない、誰かの役に立てるかもしれないという意識が芽生えることで、受身の人生から脱却できるのだ。

このことは、社会学者の宮台真司が共同体に求められるものとして度々用いる「内発性」という言葉で説明することができる。噛み砕くと、良き人生というレールに乗るための利己性や損得勘定による「自発性」に対する、内側から涌いてくる力、利他性や貢献性につながる「内発性」という意味合いになるが、自発性は合目的的なため動機付けが弱く、一方内発性は理由なく突き動かされるものだから動機付けが強い。

結果的に、内発性を持つ人間は自分自身であることを体現でき、それがどんなものであれ、自分事としてアプローチすることができ、環境によって大きくブレることがなくなる。

繰り返しになるが、決めるのは自分であり、一人ひとりが「私」であり、誰も代わることはできない。だから、全人格労働によって人間らしさを失った、こんなはずじゃなかったと嘆いたり、あの人は幸せになっているのにと羨んでいても仕方がない。

他の誰でもない私が答えを出すこと、自分自身で決めた答えなんだからと思えること、これこそが「正解」であることよりも重要なのだ。 
 

「Yahoo!ニュース 個人」に寄稿した記事を転載しています  
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医療現場において欠かすことのできない白衣。医師をはじめとする医療従事者が毎日身にまとう仕事着であり、機能性を重視した作業着でもある。子どもの頃から「お医者さん」を見てきた私たちにとっても、不変のアイコンと言えるだろう。

しかし同時に、そのように当たり前の存在だからこそ、光が当てられないという部分もある。白衣は、消耗品として取り扱われることで、個性やファッション性を剥奪され、安く仕上げられる。それを使う人もまた、そういうものだからと自然と割り切ってしまう。

もちろん、品質の良い白衣もあるし、最も重視されるべきなのは機能面や衛生面であってしかりである。ただ、それをビジネスパーソンにおける新調したスーツやネクタイ、ワンランク上の革靴などと置き換えてみたらどうだろうか。身が引き締まり、どこか誇らしげでポジティブな感情が芽生えるのであれば、白衣だって同様の効果が得られるはずだ。

ここに注目してビジネスを創出した「クラシコ」という会社がある。はじまりは、代表・大和新さんと友人の医師との何気ない会話だったという。「くたびれた白衣を着て仕事に向かうのはモチベーションが上がらない。なぜ、かっこいい白衣がないのか? あれば買うのに」という要望に応える形で2008年に創業。着ることでモチベーションが上がる白衣とは何かを追求し、テーラードの技術をもとにしたスタイリッシュな白衣を作り上げた。

彼らは、白衣を中心に医療領域における商品を展開をしているが、それを「メディカルコマース」と呼んでいる。メディカルコマースとは、どんなコンセプトなのだろうか。
 

■ 医師の不満・要望を吸い上げ、理想の白衣を

発想は良いものの、スタイリッシュで高級な白衣がなかったわけではない。だからこそ、クラシコはユーザー目線で理想を追求し、衣服単体としてのクオリティのみならず、医師の日々の仕事へのモチベーションを高められるように、現行品への不満や希望を聞き込んだ。

代表の大和新さん曰く、毎日身にまとうものであるにもかかわらず、消耗品として割り切ってしまうのはおかしいのではないか、作業着や仕事着ではなく、お洒落着を作ることにこだわったという。

その証拠に、デザイン性の高さは国際的に評価され、米国の「インターナショナルデザインアワーズ」の医療部門で最優秀賞を受賞している。また、より利便性の高い「ケーシー」や「スクラブ」のバリエーションも豊かで、そのせいもあってか、医療ドラマ等で度々衣装として採用されている。医師や看護師以外に、薬剤師、研究者、理髪師、時計職人からも注文があるとのことだ。

筆者も東京・表参道にあるクラシコのオフィスにお邪魔した際にドクターコートを試着させてもらったが、お世辞抜きに着心地が良くスタイリッシュで、思わず「これ普通に一着欲しいですね」と感嘆するほどだった。

そして、商品の品質とともに心に響いたのが、「メディカルコマース」というコンセプトだった。ひとことで言えば、医療従事者のモチベーションを高め、快適な医療空間を演出する商品を開発、提供するものだが、これには単なる目新しいビジネスという枠に収まらない意義がある。

医師向けのビジネス、サービスは数多あるものの、そのほとんどは医師という特別な存在、価値をハブにして商品化したもの、もしくは医師の負担を軽減するためのツールばかりで、医師が日々のモチベーションを高めるために自ら進んでお金を使う、というものは少ないからだ。

 

■ 次なる挑戦は、200年の歴史を塗り替える「聴診器」

もうひとつ、クラシコの大きなチャレンジを紹介しよう。スタイリッシュな白衣の次は、スマートな聴診器だ。
 
まず、聴診器は200年前に発明されてから、今日までほとんど形を変えていない。それはひとえに、この形が理想的だからかもしれない。だが、クラシコの大和さんは白衣と同様、聴診器の本質的な意義を再構築しようと試みた。

医師へのヒアリングを通して様々な課題と改善点を抽出し、新しい聴診器の形を追求。国内トップクラスの聴診器メーカーであるケンツメディコ社とプロダクトデザイナー・吉冨寛基さんと試行錯誤を繰り返しながら、3年以上かけて革新的な聴診器「U scope」を開発した。

聴診器は白衣とは違い、診療において重要なパートを担っている。いくらスタイリッシュでフィット感が良くても、聞こえ方に難があれば手を出すことはできない。実際に、筆者の友人の医師はこの商品を見て、興味はあるが試聴してみないと不安だと言っていた。しかし、3年以上の開発期間は伊達ではなく、クラシコは音質にも自信を持っている。

ダイヤフラム(集音するため皮膚にあてる部分に張られた膜)からイヤーピース(耳に挿入する部分)まで空気を逃さない設計を行うことで、音の減少を最小限におさえることに成功している。また、人間工学に基づき設計されたチェストピース(皮膚に直接あてる部分)も特徴的で、自然に指先に馴染んで手首の可動域が確保されることにより、患者の体のラインにあわせた聴診が可能だという。

そんな「U scope」は、2016年2月にKickstarterと並ぶ世界最大クラスのクラウドファンディングサイト「Indiegogo」のプロジェクトを通して発表された。目標金額の15,000ドルを大幅に達成し、47,576ドルの獲得に成功。6月に販売を開始する予定だが、国内でどの程度受け入れられ、シェアを取ることができるのか非常に楽しみである。


■ 患者のQOLだけでなく、医療従事者のQOLを

ここまでクラシコを例に「メディカルコマース」という考え方を紹介してきたが、医療・健康系サービスを運営する身として常々感じていることがある。

それは、患者やその家族のQOL(生活の質)については再三議論され、医療従事者はもちろん、官公庁や製薬・医療機器メーカー、患者会、NPO、当該領域においてビジネスを展開する事業会社までが、治療前後のあらゆるシーンで充実したサポートを実現すべく働きかけている。しかし一方で、日々患者に向き合う人々へのケアについてはなおざりになっているのではないか、ということだ。

すべては、患者のためにーー

言うは易しとはまさにこのことで、難病患者や終末期の患者、障がい者、被介護者などは、薬を飲む、手術をするといった「治療」では救われないケースが多い。公的支援は痒いところまで手が届いているとは言えないし、Web上で提供できるソリューションにも限界がある。◯◯さえあれば解決というほど簡単ではないからこそ、日々における様々な不自由や苦痛、不安を緩和するための細やかな支援が必要になる、これ自体は至極真っ当な話だ。

ただ、それを支える医療従事者が疲弊する構図なのはおかしい。医療に携わる人は他の仕事に就く人々とは違う、特別な職業だ、というだろうか。一般に「お医者さん」は特別な存在ではあるが、いくら志が高いとはいっても、私たちと同じ普通の人であり、日々の生活があり、当たり前のことだが感情もある。そのように考えず医者なんだから当然、という見方をしてしまうと、彼らに過剰に期待し要求することになる。

「職業に貴賎はない」などといっても、やはり医療従事者は別。このイメージ自体は悪いものではないかもしれない。実際に多くの人が彼らに助けられ、感謝し、頼っているからこそだとも思う。とはいえ、それを当たり前のこととして、そういう役割を担わせる仕組みになってしまってはいけない。どこまでいってもハードワークありきなのであれば、心身ともにどのような癒しが必要か、いかにしてモチベーションを保つかという観点でサポートを考える必要がある。

その際に必要なのは、休暇や給与ではなく、もしかしたらオシャレな白衣かもしれないし、最高のフィット感を有した聴診器なのかもしれない。そういう話も積極的にしていくべきなのではないか、これが本稿の論点である。

医療従事者のQOLが向上することで、結果的に医療現場で提供されるものの質が高まり、患者のQOLの向上につながる。一見すると牧歌的な話のようで、その実的を射ているのではないだろうか。

ある人を救うために誰かが損なわれる構図ではなく、犠牲を払う人がいても、その他の人々がそれぞの領域で補填していく、そんな循環が必要なのだから。その好例である「メディカルコマース」に、今後も注目していきたい。


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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
を読んだ。村上春樹と適度な距離感を保つために、新作が発売されてもあえて文庫化されるのを待つようにしている。だから、いつもこれでもかと書き殴られたレビューで溢れるGoogleの検索結果の中に、小さなつぶてを投げ込むことになる。それでも、今更ながらも書くのである。

まず、この小説には謎がない。より正確に言うと、謎解きは不要な物語である。つまり、喉元に引っかかる小骨のような伏線が其処此処に散りばめられていても、謎を解きたい欲求に負けることなく、それらすべてに「意味を求めない」ことから始める必要があるのだ。


「自意識の檻の中で解釈を加えることからの脱却」がこの小説の重要なテーマであり、その意味において主人公の多崎つくるともども、“たまたま”起こった出来事や謎に対し自己完結する習慣から抜け出すことが求められる。


元も子もない話と思うかもしれないが、この物語は純粋に、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という説明的なタイトルの意味を読み解けば良い。本稿では、その理由について述べたいと思う。

■ 色彩やそれに紐づく記号の位置付けについて


この物語において、色彩には2つの意味がある。ひとつは、名称、記号としての色。アカ、アオ、クロ、シロ、灰田、緑川というように、登場人物の名前に色が入っている。そしてもうひとつは、個性や才能、生命の輝きのような、記号化できない、その人を彩る要素のことである。そして多崎つくるは、自分にはこの色彩がないと感じている。

つくるは、高校時代に得がたい友人たちと「乱れなく調和する親密な場所」を手に入れた。それ自体は素晴らしいことだ。幸運とさえ言える。しかし一方で、自らを色彩を持たない無個性な存在と感じていた彼からすると、アカ、アオ、クロ、シロはそれぞれ皆光を放ち、魅力的に見えたし、偶然自分だけ名前に色が入ってないという致し方ないことさえも、疎外感や自信を失う要素になっていた。


そして、この薄ぼんやりと芽生えたものが、ひとり東京に出て訳も分からずグループから追放されたこと、さらにはその後にできた新しい友に突然去られたことにより、単なる記号や印象であるところのものが、あたかも実体を伴うものかのように色濃く影を落としたのである。東京の大学に進学し念願の職に就いたものの、それ以降の出会いは彼を前に進めさせることなく、自らを空っぽの入れ物と評する自意識を強化した。


ただ、色や記号で何かが決定的に決まるはずはなく、終盤に「クロ」だったエリが次のように証明している。
 

ねぇ、つくる、ひとつだけよく覚えておいて。君は色彩を欠いてなんかいない。そんなのはただの名前に過ぎないんだよ。私たちは確かにそのことでよく君をからかったけど、みんな意味のない冗談だよ。君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。

出典:『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ー P373


つくるは、古い友人にとっての「つくる」であり、父が思いを込めて名付けた「作」であり、夢を叶え駅を作り続ける「多崎つくる」でもある。それらはすべて彼を便宜的に呼ぶ記号に過ぎず、つくるが色彩と呼べる何がしかのものを持つか持たないかは別の話であり、それは当人が決める種類の物事ではないのだ。

そしてもうひとつ、ここにおいてはエリが「シロ」を「ユズ」と呼ぶことが重要となる。グループに属する名称である「シロ」ではなく、親友としての「ユズ」と呼ぶ意味がエリにはある。母となり子どもにユズと名付けたこと、これはある種のセンチメンタリズムであり、死によって断絶された(あるいは呪縛から解放された)彼女は、シロとのつながりを記号として残す必要があったから。


色や記号はその人自身を決めるものではないが、同時に記憶やイメージと強烈に結びつき、郷愁や複合感情を呼び起こすものでもある。この小説は、そのことを巧みに表現した物語でもあるのだ。
 

■ 色彩を持たない多崎つくると、色彩を持つ他者との間にあるもの


この物語における色や記号の意味は先に述べた通りで、結論から言うと、多崎つくると他者との間に差異はない。

色彩のある・なしは他者の眼差しいかんによって決まるものであり、本人の思惑とは必ずしも一致しない。ある人にとっては、ちょっとしたことが欠落や劣等感になることがある。つくるは自身を色彩を持たない面白味のない人間だと感じ、色彩を持つ友人たちを羨ましく思っていた。


しかし、それは他の4人も同様なはずだ。つくるこそが自分を持っている、個性的で中心的な存在と思っていたり、彼を彩る要素を羨んでいたかもしれない。皆それぞれ劣等感を抱いてもいただろう。例えば、美しく、音楽的な才能を持ったシロでさえも、いやそうだからこそ、自分に自信がなく、苦しんでいた。他者は自分の映し鏡であること、彼女の存在はその構図を際立たせている。


つくるが不幸なのは、突然グループから追放されたことにより、その可能性に気付くことなく、むしろ自意識を強めて内向的になってしまったことである。あるべき姿や向かうべき場所を失ったのは、つくるだけではない。つくるには、その想像力が欠けていたし、それ以前にショックが大きすぎた。20歳そこそこの若者にしては精神がタフだったがために(ギリギリのところまで行ってはいたが)、結果的に不条理な出来事をそのまま飲み込んでしまったのだ。「自分だけがグループから追放され、大切なものを失った」と。実際はそうではなかったのだが、16年もの間そういうものとして誤魔化してしまった。


ただ、そんなつくるにも救いがあった。沙羅との出会いである。彼女は閉ざされた過去を知ることを勧め、つくるを巡礼の旅へと促し、彼はそれに応じるのだった。

■ 「巡礼」を終えた多崎つくるが得たもの


つくるはまず、帰省してアオとアカに会いにいく。そこで、想像もしなかった追放理由とシロの謎めいた死について聞かされ、納得を得られないまま、彼らの今を垣間見たことで、人はどうなるかわからないという至極当たり前のことを知り、時間の経過を実感する。

そして、つくるは終着地であるフィンランドまでクロに会いにいく。より深く、シロがいかにして死に至ったのか、彼女たちの関係性はどのようなものであったのか、そして他者から見た自分はどんな存在であったのかを知る。


タイトルにある「巡礼の年」は、フランツ・リストの連作ピアノ曲集『巡礼の年』に由来するが、その中の1曲『ル・マル・デュ・ペイ』に、過去や故郷に思いを馳せることをイメージさせる「郷愁」や「望郷」といった直訳ではなく、「田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ」という訳を付けた意味が、このシーンで活きてくる。

「巡礼」というと、どこか失ったものを取り戻すというイメージがあるが、実はそうではない。自分がいるべき場所、帰る場所を失い、その後ぼんやりと生きてしまったとつくるは自覚しているが、16年という歳月を過ごしてきたわけで、それ自体は空っぽではない。つくるもまた昔の仲間たち同様に変化している。それらはすべて喪失により得られたものであると彼は言うが、果たしてそうであろうか。

 

僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない

出典:『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ー P420


つくるは、こう言う。シロだけは、かつての輝きを失ったまま、永遠に損なわれてしまった。冒頭でも触れたが、喪失のきっかけであるシロのレイプ事件の真相を探ることには意味がない。若者たちを心地よくつなげていたものの危うさや綻びを表現するための装置でしかない。確かに、もろく儚いものではある。それでも、不条理にも死んでしまった彼女以外は、まだ何がしかの可能性が残されている。

過去に輝かしいひとときを持っていたとしても、その延長線上に人生を描き続けることはできない。いつしか帰るべき場所はなくなり、好むと好まざるとに関わらず前に進むしかなくなる。時間は遡ることなく、そこにはあったはずの思いと歴史のみが残されるのだ。
 

■ 向かうべき場所に、沙羅はいるのか


恋人である沙羅について語ったつくるに対し、エリはこう語りかける。

ねぇ、つくる、君は彼女を手に入れるべきだよ。どんな事情があろうと、私はそう思う。もしここで彼女を離してしまったら、君はこの先もう誰も手に入れられないかもしれないよ

出典:『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ー P367


これに対し、つくるは自分には自信がないと返す。

僕には多分自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。そのことがずっと昔から僕の抱えていた問題だった。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。入れ物としてはある程度形をなしているかもしれないけど、その中には内容と呼べるほどのものはろくすっぽない。自分が彼女に相応しい人間だとはどうしても思えないんだ。

出典:『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ー P367


わざわざフィンランドまで来て、エリからつくるがいかに魅力的であるかを説明してもらったにもかかわらず、彼はまだ自分には色彩がないと言う。沙羅を欲していると言いながらも、自らを客体化し自己完結する習慣から脱却できていないことがわかる。

それでも、自信と勇気を持つようにと送り出され帰国したつくるは、沙羅に電話口で見苦しいとも言える振る舞いを見せる。沙羅がつくるを選ぶかどうかはわからない。しかし、大切なのは結果ではなく、彼自身が何かを欲し、行動することだ。もう失いたくないと願うことであり、自分には資格がないと諦めることではない。

向かうべき場所と帰るべき場所を、もう一度彼自身の手で手に入れなくてはならない。それこそが、つくるの巡礼であり、未来であるからだ。

■ 村上春樹の作風はどのように変わってきているのか

最後に、少し村上作品の変化について触れよう。以前、
『1Q84』における物語との向き合い方について書いたが、本作も村上文学の最大の特徴でもある「僕」ではなく、語り部は一歩下がったところから「多崎つくる」という主人公と、彼を取り巻く様々な人物や出来事を描いている。

つまり、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に関しては、天才的なストーリーテラーとしての手腕が発揮されることなく、よりプラクティカルで、ある意味においては凡庸な物語が提供されている。

これに関しては、才能が枯渇した、作家として後退した、20~30年前に書かれたものを捕まえてあの頃の作品と比べると小粒だなんだとしたり顔で批評せず、単純に新しい境地の踏み出した、という前提で考えるのが得策だろう。作者も読者も歳を取り変わっていくし、世界もまた大きなうねりの中で形を変えていくのだから。

これまで村上春樹は、基本的に一人称(僕)で物語を描いてきたわけだが、『1Q84』から本格的に三人称で書くようになった。今後もこの流れが続くかは定かではないが、「僕」という自意識から脱却し、現実的な世界と向き合い、他者と交わり、生活し、家族を築こうとする「普通の人」の有り様が明確に描かれている。

このことを前提にして苦言を呈するなら、より徹底して三人称で書いてほしいということになる。多崎つくるには拭いきれない“僕的なもの”が宿っているし、語り部であるところの村上春樹もまた、物語の中でつくるが自意識から脱却するように、彼を突き放してほしかった。語り部から見たつくると、つくる自身の心象を丁寧に書き分けることで、よりシンプルに登場人物に共感し、自分事にすることができるからだ。

村上春樹の小説に“アレルギー”がある方の主な理由に、自意識の強い「僕」と、彼のセリフまわしとセックスシーンへの違和感がある。自分はいたってつまらない人間と評価し、「わからないな」「あるいはそうかもしれない」などと言いながらも、女性に不自由せず簡単に女性たちと寝てしまう。しかも、そこに現実的な駆け引きや素人らしい感情の揺れ動きの描写がない。コミュ症なのにハードボイルド、なんだよそれという具合に。

いち村上ファンとしては、「そこはまぁご愛嬌ということで」とお茶を濁したいところではあるが、確かに、そのシーンが必要なのだとしても、セックスし過ぎだろとツッコミたくなることは数え切れないほどあり、食傷気味になることさえあることは否めない。セックスのない村上作品など、栗きんとんのないおせちみたいなものかもしれないが、勝手ながら「僕的なものがセックスをしない」小説を読んでみたい。

そして、それはむしろ村上春樹が書くからこそ意味を持つのだ、という予感がある。そんな物語と向き合うこと
ができるかわからないが、日々を生きながら次回作を楽しみに待とうと思う。


「Yahoo!ニュース 個人」に寄稿した記事を転載しています 

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