December 31, 2025

ようこそ!

東京大学長唄研究会のブログへようこそ。

現在、コメントは部員やOBの方がほとんどですが(^^ゞ、
どなたからのコメントももちろん大歓迎です!!

当研究会では長唄三味線と着物が不足しております。
お譲り(お売り)頂ける方がいらっしゃいましたら右プロフィール欄のアドレスまでご連絡いただければ幸いです。

東大長研 2020年度の活動(感染防止のため以下はすべて中止になりました)

4/13,21 新入生向け三味線ワークショップ
4/18 お稽古体験@自由が丘

5/16,17 東京大学五月祭 三味線こんさーと @東京大学弥生キャンパス



8/31,9/1,9/2 夏合宿 

 

10月末頃  秋合宿

11月 駒場祭

12月 第46回東大ICU合同定期演奏会

    第72回全国学生長唄連盟定期演奏会



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東大長研 2019年度の活動

4/15,23新入生向け三味線ワークショップ

5/18,19 東京大学五月祭 三味線こんさーと @東京大学弥生キャンパス



8/31,9/1,9/2 夏合宿 

9/28 学連OB会 

10月末頃  秋合宿

11月 駒場祭

12月 第45回東大ICU合同定期演奏会

    第71回全国学生長唄連盟定期演奏会



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東大長研 2018年度の活動

4/11,19,24 新入生向け三味線ワークショップ

5/5 目黒区邦楽会 @めぐろパーシモンホール

5/6 第40回希扇会 @国立劇場

5/19-20 東京大学五月祭

8-9月 夏合宿

10月 全国長唄連盟OB会

    秋合宿

11月 駒場祭

12月 第44回東大ICU合同定期演奏会

    第70回全国学生長唄連盟定期演奏会



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東大長研 2017年度の活動

4/5,20,25 新入生向け三味線ワークショップ

4/23 第39回希扇会 @国立劇場小劇場

5/6 目黒区邦楽会 @めぐろパーシモンホール

5/20-21 東京大学五月祭

8-9月 夏合宿

10月 全国長唄連盟OB会

    秋合宿

11月 川口市文化祭 三味線祭り

    (駒場祭)

12月 第43回東大ICU合同定期演奏会

    第69回全国学生長唄連盟定期演奏会

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2016年度の活動

04/09 第38回希扇会
05/07  目黒区邦楽演奏会
05/14, 15  五月祭

05/28 新入生歓迎会
08/09 JAPAN BOWL volunteer
09/02~09/04  夏合宿
10/16 全国学生長唄連盟OB会 @日本橋公会堂
10/28~10/30  秋合宿
11/13  川口市 三味線まつり
11/25~11/27 駒場祭有志企画:日本舞踊研究会、チリカラ座との共同演奏
12/10 東大ICU合同定期演奏会 @江戸東京博物館
12/28 全国学生長唄連盟演奏会 @日本橋公会堂
            

(20190626更新)------------------------------------------------

追記より、東大三味線クラブの現役メンバーを紹介いたします。


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January 09, 2024

徒然長唄記 《靭猿》

2024年、明けましておめでとうございます。本年も東京大学長唄研究会をよろしくお願いいたします。

世界情勢が不穏な中、昨年は久しぶりにほぼ例年通りの活動を行うことができた一年でした。なのに相変わらずこのブログは更新頻度が低く、申し訳ない次第です(定期演奏会の記事をある方に頼んでいるのですが、まだかな~)。普通に活動できるということが本当にありがたく思われた去年に引き続き、今年も元気に活動していきたいものです。今年は東大長研が再興してから25周年の節目の年でもあり、定期演奏会を少しデラックスに行う予定です。乞うご期待。

ということで2024年最初の徒然長唄記、今回は新春の曲として、昨年の定期演奏会で東大OBが演奏した《靭猿》を取り上げます。内容から考えると春真っ盛りの方が時期には合うのかもしれませんが、それはおいおい説明するとしまして、早速お読みいただければと思います。

***

《靭猿》
本名題「靭猿」(うつぼざる)
作詞稲垣抱節(生没年不詳)
作曲2世杵屋勝三郎(1821-1896)
初演明治2(1869)年と伝
調子本調子→二上り→本調子→二上り(上調子あり)
囃子笛・小鼓・大皷・太鼓(なしも可)
人数3挺3枚~5挺5枚程度
演了約28分

歌詞を見る / 隠す

〈本調子〉〽それ弓矢の始まりは、神代の時より用いしとかや、聞きつらん、矢入れを靱と名付けしは、その中うつろにして、外に毛皮をかけたるは、粟の穂などに似たればとて、空穂とは言い伝う。〔合〕
《謡ガカリ》〽あら不思議やな、怪石裂けて石卵生じ、忽ち化して猿となることは、人を教えのたとえ草。
〽秋吹く風に笛の音は、〔合〕草刈る童子もいづくかと、たよりし先はそれならで、妻を恋しと鹿笛に、隔てられたる谷川へ、散りし紅葉も時雨に濡れて、解けて嬉しき雪の暮、面白や。
〈二上り〉〽はや新玉の春ぞ来る、ぞめき囃せし花の中、花の筵に弾く三味線の、その糸桜厭いなく、殿も家来もほのめく顔の、よい緋桜の向島、土手の錦も花の空、竹屋竹屋と呼ぶ舟に、乗り合わせたる猿廻し、こなたの岸へと着きにけり。
〈本調子〉〔合方〕〽太郎冠者あるか。〽はア御前に候。〽あれに背負うた一物を、何処へ伴うなるか、尋ねて参り候えと、〽仰せに冠者は心得て、のうのう猿曳、止まれとこそ、その猿いづくへ曳き候や、と言いければ、賤の男は、はあっと手を仕え、やつがれはこのあたりに住む猿曳にて候が、今日もお旦那廻りを致そうと存じまする、心急げばやつがれは、そろりそろりと参ろうか。〽やれ待とうぞ猿曳、この方は隠れもない大名でおりゃる、今日は春野の遊びにて、弓矢をかたげ、狩に参ったるが、あれに持たせたる、靱をないない毛皮にしょうと、思う折からよい猿に逢うた、その猿の皮を申し受けたしと、〽聞いて驚く猿曳が、猿の皮をお好みとな、そもやそも、生きている物の皮が、何とて上げらるるで御座ろうぞ、この猿をもちまして、一日一日の命を送ります、これを上げましては、明日より何の手業なし、こればかりは御免しと、〽詫びるに聞かぬ大名の、威を張り詰めし強弓の、一矢に射てと立ちかかる、〽ああもし待って下さりませ、猿の皮が御用ならば、御手を下ろし射殺されましては、皮に疵がつき、ここに猿の一打と申しまして、一打にて命の失せる所が御座るによって、殺して進ぜましょう。〽太郎冠者も心得て、早う早うと勧めけり。
《クドキ》〽また有るまじき殿の御意、畜類なれどもよう聴けよ、子猿の時より飼い育て、今更憂目を見ることは、不憫なことぞ、今打つ程に、草葉の陰にても、恨と思うてくるるなよ、あれ是非なしと振り上ぐる鞭の下、廻る子猿のいじらしき、〔合方〕
〽あれあれ今のを御覧なされましたか、打ち殺さるる鞭とは知らいで、船漕ぐ真似をしまするぞ。〽なに、殺さるると知らいで、芸をするとは不憫なことぞ、やい太郎冠者、打つなと言え、打つなと言え、連れて帰れと申せい、と、〽聞いて喜ぶ猿曳が、ただ有難しと伏し拝み、この上の御礼に、猿に一舞舞わせましょうと、声張り上げ、
〈二上り〉〔合方〕〽ええい猿が参ってこなたの御知行、まさるめでたき能仕る、〔合方〕〽猿は山王、まさるめでたき、目出度さよ、〔合方〕天より宝が降り下って増生すれば、綾や千段錦や千段、唐織物よ、地には黄金の花が咲き候、実に豊かなる時なれや、〔合方〕
〽実に豊かなる時なれや、〽さらば我らは御暇と、もと来し道へ帰らんと、花を見棄てて帰る雁、空も高根の富士筑波、名に負う隅田の春の夕、景色をここにとどめけり、景色をここにとどめけり。

***

学生長唄のキャリアは狂言に取材した《末広がり》から始まりますが、これ以外にも狂言をもとにした長唄があります。そのひとつが今回取り上げる《靭猿》で、元となった狂言と同じ題名です。といっても両者の狂言の取り入れ方には大きな違いがあり、《末広がり》が外枠を借りただけで内容は元とほぼ関係ない仕立てになっているのに対し、《靭猿》の方は狂言の筋・展開をほぼそのまま取り入れた物語性の強い曲になっています。全曲演奏すると30分近くかかる大曲ですが、華やかで変化に富み腕の見せ所が多いため頻繁に演奏される人気曲です。

元の狂言の筋はこうです。都に出てきた大名(=地方の地主、シテ)が、気晴らしに太郎冠者(=家来、アド)を伴って野原に狩に出かけます。そこに猿曳(=猿廻し、小アド)が相棒の小猿(子方)を連れて通りかかります。大名は猿の皮を自分の靱(うつぼ、矢入れ)につける装飾にしたいと無茶を言い出し、太郎冠者を介して猿曳に猿を渡すよう迫ります。猿曳は断固拒否しますが、ブチ切れた大名は言うことを聞かなければ殺すと弓矢で脅迫。逆らいきれなくなった猿曳は「射殺しては皮に傷がつく」と、ことの顛末を言い含め小猿を自ら打ち殺そうとしますが、事情の分からない小猿は舟をこぐ芸をし始めます。その健気な姿に胸を打たれた大名はついに要求を撤回。猿曳は小猿に舞を披露させ、楽しくなった大名は褒美に自らの持ち物を与えて小猿と一緒に舞いはしゃぐのでした。

構成に変化がある上に猿歌や猿舞といった見どころにも富むこの狂言は昔から人気が高く、周辺の諸芸能にも取り入れられてきました。三味線音楽では他に常磐津や地歌などに類曲(注1)があり、長唄の《靭猿》もそのひとつというわけです。成立は明治2(1869)年と伝えられ、初演の詳細な年月日や場所は不明ですが、歌詞に「はや新玉の春ぞ来る」とあることから新春の曲とされています。作曲者は幕末~明治初期の長唄三味線の名人・2世杵屋勝三郎。このコーナーでも《勝連》や《狸》などですでに取り上げましたが、この時期随一の長唄作曲者のひとりです。作詞は稲垣抱節という勝三郎のパトロンで、2世浄観によれば池田屋という浅草の大きな酒屋の主とのことです。

***

《末広がり》の前弾を二の糸に移したような短い前弾で始まり、最初は真面目に弓矢と靱の起源が歌われます。急速で短い合の手の後に謡ガカリで〽あら不思議やな、怪石裂けて石卵生じ」と歌われるのは孫悟空の逸話。〽忽ち化して」までは少しおどろおどろしく迫力を持たせますが、〽猿(ましら)となることは」で一気にくだけ、絶妙な変化をつけています。〽秋吹く風に~面白や」は情景描写で、秋から冬にかけての風物を美しく唄い上げます。本筋には関係ないため上演に際し省略されることもありますが、しっとりした唄の節の美しさと描写力に優れた手付には素晴らしい味わいがあります。稀音家義丸師は「此処は不要部分とか言って省略する人が多いですが、二上りの華麗さを表現する為の前提として、絶対必要な部分と思います」(注2)と書かれています。

冬が終わって春が来ると二上りに転じ、一気にテンポが上がります。快活な三味線とお囃子に乗せて歯切れのよい明るい唄がうたわれ、《末広がり》や《花見踊》と似たような合の手も入ります。狂言の香りをさせつつ花見の情景を活力たっぷりに描写しています。やがて猿廻しが「辻打ち」の手とともに桜満開の岸辺に船で乗り付け、この短くも華やかな部分は終わりますが、とても強い印象を与える部分ではないかと思います。

本調子に戻り、社殿の合方に合わせて大名と太郎冠者が登場、ふたりの問答から猿廻しとのやり取りになります。三味線に合わせてセリフをやり取りするだけですが、それぞれ速度や手に微妙に変化をつけながら作曲されており、平板になるのを免れています。やり込んでみると登場人物それぞれの性格、あるいはそのセリフを発した時の動作や気分に実によく合った手や節がついていて、演じる側の表現を乗せやすくなっていることに気付かされます。唄うたいと三味線弾きの呼吸がぴったり合った時の演奏効果はとても面白いです。〽ああもし待って下さりませ」の間に入る手など、細かいところにもタテ三味線の技量が問われます。

続くクドキは、曲中で最も唄の美しさが発揮される部分です。猿廻しの愁嘆を幅広い音域と美しい旋律で存分に描いており、切ない曲調が哀れを誘います。耳につきやすい特徴として、〽不憫なことぞ」や〽草葉の陰にても」において一部の産み字を長く伸ばすというのがあります。すすり泣きの表現ですが、タイミングや表現がとても難しいです。それ以外にも巧みなノリ変わりなどが仕込まれ、シンプルながら凝った手付により心情を表現するところに作曲者の技量がうかがわれます。

いよいよ覚悟を決めた猿廻しは〽あれ是非なしと」で猿を殺そうとしますが、猿はそれを勘違いして芸を始めます。その様子を器楽的に描くのが〽廻る子猿のいじらしき」の後の合方。コキ上げを多用した不思議な響きが非常に印象的で、ここからいよいよ三味線が技巧的本領を発揮し始めます。一心に芸をする様子に胸を打たれた大名は〽打つなと言え、打つなと言え、連れて帰れと申せい」と要求を撤回。喜んだ猿廻しはお礼に(?)と、改めて芸を披露します。

猿唄の一節を聞かせた後で三味線は二上りに転じ、古典には珍しいトレモロから長大な合方が始まります。義太夫の《堀川》(注3)後半に演奏される長い合の手を効果的に取り入れた合方で、名前は特に付いていませんが非常に華やか、特に上調子との合奏が面白いものとなっています。上調子の活躍はここだけではなく曲の全編にわたりますが、この合方ではとりわけ聴き所となっているといえます。本手の方も実に技巧的で、特に終盤のウラハジキやカケバチ(注4)など初心者にもわかりやすいテクニックには人気があります。どんどんノッていってしまうような作曲になっているので、演奏する側としてはそのスリルも面白いです。

〽ええい猿が参って」からは猿歌・猿舞、唄と三味線が交互に楽しくリズミカルな音楽を奏でます。この辺りは猿廻し繋がりで《外記猿》の一部とよく似ています。めでたい詞章と明るい三味線、闊達なお囃子の相互作用で、曲はここに至ってクライマックスを迎えます。〽実に豊かなる時なれや」の狂言謡を立派に唄った後テンポをさらに速め、春の隅田川を後にして終曲となります。

***

長唄《靭猿》は狂言をもとにしてはいますが、《鶴亀》などとは異なり、原作の詞章にそのまま曲を付けた作りではありません。実は狂言と長唄では話の描き方がだいぶ違います。例えば狂言の方では大名たちの要求に対し、猿廻しがかなり頑張るのです。「ご贔屓さんたちが黙ってないぞ!」などと張り合うことで場にかなりの緊迫感を、そして劇全体にあどけなく楽しい後半との対照をもたらします。一方の長唄ではあっさり折れてしまうので、圧倒的な強者VSされるがままの弱者というような構図に。緊迫感の生まれる余地はほぼありませんが、その分猿廻しの嘆きがいっそう悲しく聞こえるようになります。もちろん狂言にも同じ場面はあり、感動的な名シーンなのですが、あくまで演技によって行われるため時間をたっぷり取って見せるわけにはいきません。そこを長唄では思い切り拡大し、じっくり聞かせるのが妙味なのです。小さく弱い者への温かなまなざしといったものも、長唄の方がより感じられるように思います。

また狂言では最後、猿が芸を見せる場面で大名が猿と一緒に遊び回ります。さっきまで居丈高に理不尽な要求をしていたオッサンが舞台上を無邪気に転げ回る様子にはおかしみがありますが、長唄ではそのような場面はありません。太郎冠者も狂言では結構活躍しますが、長唄だとただいるだけの人。人物描写は総じて狂言より希薄と言わざるを得ないでしょうが、長唄の強みは音楽による描写の豊かさにあります。春の野の風景や人物の心情、猿廻しの芸を音楽で活写することで世界を構築しているので、ドラマの薄さは問題にならないのです。むしろそちらも充実させようとすると音楽の焦点がぼやけるだけでなく、結局狂言や先行曲の二番煎じになり、無駄に長いだけの曲になってしまったことでしょう。

こうして比較してみると、長唄の《靭猿》は原作の狂言と(さらに言えば、この曲に強い影響を与えたといわれる常磐津《靭猿》とも)違う価値を生むことに成功している作品といえます。そして当然、演奏者にはその真価を発揮させるに相応しい実力が求められます。唄には物語をはっきり表現できる言葉捌き、語りに引きずられ過ぎずに旋律を紡げる腹と咽喉、ノリを作れる絶妙な節遣いといったものが要求されますし、三味線には手の込んだフレーズを正確に弾きこなすという意味でのテクニックはもちろん、場面の展開をまとめ変化を演出する構成力が求められます。上調子もまた大変で、1オクターブ上で弾くだけでなく本手の先に行ったり後に入ったり、また地や全然違う手を弾いたりと千変万化、間違えずに覚えるだけでも一苦労です。30分級の演奏時間に耐える体力(≒脚の力?)含め、確固たる芸の胆力とでも言うべきものがないと、これだけの大曲にはあえなく押しつぶされてしまいます。

大きくは派手な合方や上調子の活躍、細かくはトレモロやカケバチといった特殊技巧など分かりやすい部分でも特徴に富んだ曲ですが、全体的な物語の描き方という点にも注意して聞いてみると、この曲のよさがより際立ってくるように思います。

***

これだけの大曲、4年間ぽっちでは到底手が届くものではないので、現役学生が挑戦することはまず考えられません。また演奏上活躍するのが唄の役持ち3人、タテ三味線と上調子くらいに限られるというのも学生に向きにくい要素となっています。配役に忠実に行くとタテが延々と唄い続けることになるなど、演奏者の活躍度にものすごい差が生まれてしまうのは学生にとって望ましいことではありません。実は《靭猿》は狂言だとキャリアの第一歩となる演目(注5)なのですが、長唄の方ではどうしても上級者向けの曲ということになるでしょう。

なのでそこそこの経験を積んだOBにとっては、舞台映えもやり応えも充分な曲としてレパートリーに入ってきます。お囃子のキッカケがそれほど難しくない割に良い効果を上げてくれるため、その意味でお得とも言えます(お囃子なしでも問題なく演奏できますが、さらに賑やかになるので入れる意味は大です)。学連OB会では早稲田や明治などの大OBが出しているのを見たことがありますし、東大OBも数年~10年に一度くらいの割合で取り組んでいます。そういえば、私が1年生だった時の東大OB曲もこの曲でした。懐かしいことです。

しかし数年に一度というのは、一度出すと当分出す気にならないくらい(?)大変ということでもあります。個人の力量に依存する面が大きく、ツレの勢いで押し切れる曲でもないので、上演の難しい演目であることには変わりありません。東大OBにおいてもおそらく当分出さない期間が続くのでしょうが、もしかしたら今の1年生たちは、OBに上がるくらいにいきなり上演機会が訪れたりするかもしれません。去年はものすごくたくさんの1年生が入り、皆熱心に頑張ってくれています。彼らと《靭猿》(でなくてもいいのですが)を同じ山台で演奏できる日が来ることを、今から楽しみにしている私です。

***

☆録音名鑑☆
『四世吉住小三郎全集』(コロムビアCOCJ-34014)ほか収録
唄:吉住小三郎/三味線:稀音家浄観、稀音家六治(上調子)
[解説]
東大長研が連なる研精会系の芸系の始祖とも言うべき両雄の録音。大曲だけに演奏会ではお囃子入り5挺5枚などの大編成で上演されることが多いのですが、こちらは必要最小限の人数で、両タテの音楽的主張が最大限に貫徹される編成になっています。鷹揚でありつつ非常に闊達な演奏で、特に途中の二上りに満ち溢れるエネルギー、フィナーレの躍動的なスピード感は右に出るものがありません。タテ三味線の稀音家浄観はその三味線が作曲者の勝三郎にそっくりと評されたこともあるとのことで、作曲者ももしかしたらこんな風に……という気分で聴くこともできます。1940年11月26日の録音。
演奏者解説

4世 吉住小三郎吉住慈恭
(1876-1972)
大正から昭和にかけて活躍した、近代長唄を代表する唄の名人。東京出身で、幼名は長次郎。義兄かつ養父でもあった3世小三郎に師事。若い頃は劇場に出演していましたが、故あってそこを離れ、1902年より三味線方の3世杵屋六四郎(2世稀音家浄観)とともに長唄研精会を結成、本格的な長唄演奏会の先鞭をつけました。長唄を演奏会で鑑賞される音楽として芸術的に昇華させた功績は大きく、また演奏家としては渋い美声と明瞭な発音、格調高い芸風で現代における長唄の模範となりました。63年に吉住派の家元を長男に譲り、慈恭を名乗りました。藝大教授、日本芸術院会員(1948)、人間国宝(56)、文化勲章(57)。単独、あるいは2世浄観との合作による作曲も多数行い、その多くが名曲として研精会派を中心に伝えられています。

2世 稀音家浄観
(1874‐1956)
大正から昭和にかけて活躍した長唄三味線の名人。東京の神田出身で本名は杉本金太郎といい、父は4世杵屋勘五郎(初世浄観)。祖母の杵屋かねに手ほどきを受け、後に父に師事、2世杵屋勝三郎や3世杵屋正治郎などからも教えを受けました。1888年より3世杵屋六四郎を名乗り、最初は劇場に出ていましたが4世小三郎と同様の事情で離れ、長唄研精会の創立者となりました。1926年に芸姓を稀音家と改め、39年に六四郎の名と家元の座を息子に譲り浄観と改名。単独、あるいは4世小三郎との合作で多くの名曲を新たに発表し、演奏会形式での長唄鑑賞の普及に貢献した大きな功績があるほか、演奏家としても大音と抜群の演奏技術を誇り、長唄三味線の価値を最もよく体現した名人のひとりとされています。藝大教授、日本芸術院会員(1948)、文化勲章(55)。

初世 稀音家六治山田抄太郎
(1899‐1970)
大正・昭和期の長唄三味線方。東京出身。1911年より杵屋三喜代に師事した後、3世杵屋六四郎(のちの2世稀音家浄観)に入門。1913年より杵屋六次を名乗って長唄研精会に出演、26年に稀音家六治へと改名。浄観の高弟として大活躍しつつ、師らと同様に東京音楽学校時代から藝大での後進指導に携わり、50年より藝大教授。翌年に研精会の芸名を返上して本名で活動を開始。57年には藝大卒業生による長唄演奏団体・長唄東音会を創設しその会長となりました。研精会系統を代表する三味線の名人で、豊麗な音色と艶のあるテクニック、イキの良さで高く評価されました。1955年長唄三味線の人間国宝に認定(長唄分野では初)、59年日本芸術院会員、68年文化功労者。作曲も《あたま山》《橡の木》などの新作長唄のほか、小唄にも佳曲を数多く残しています。

***

注1:常磐津《靭猿》は本名題を「花舞台霞の猿曳」といい、作詞:2世中村重助、作曲:5世岸澤式佐。天保9(1838)年に江戸市村座で初演された舞踊劇で、筋は狂言ほぼそのままですが大名を奥女中に、太郎冠者を奴にするという長唄《末広がり》と似たような脚色を行っています(この常磐津は長唄《靭猿》に大きな影響を与えていますが、あまりに長くなってしまうので割愛しました)。地歌《靭猿》は17世紀前半頃に城志賀が作曲したといわれ、歌詞は劇中の猿歌を適宜つなぎ合わせたもので演劇性は希薄です。他に一中節などにも類曲があるそうです。

注2:https://www.kine-ie.com/storybook/sb/088.html 「長唄聞書88 靭猿」。2024年1月9日最終閲覧。

注3:正しくは《近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)》という義太夫浄瑠璃(3巻、作者不明、天明2(1782)年江戸外記座にて初演)の中の「堀川猿廻しの段」と呼ばれる章段です。のっぴきならぬ事情で心中に向かう主人公ふたりの出立を猿廻し(ヒロインの兄)が芸で見送るという内容で、華やかな音楽と舞台が悲劇を際立たせる名場面であり、人気演目となっています。三味線の賑やかな合の手も有名ですが、ヒロインが思いのたけを語る「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」という一節もよく知られています。

注4:三の糸に撥先を下から接触させた上で特定の勘所を抑えてハジくことにより、「キッ!」という感じの音を出す特殊奏法。猿など動物の鳴き声の写実的表現として使われることが多く、他には《四季の山姥》などで使われています。

注5:子供時代から狂言師として活動する場合、狂言《靭猿》の猿役で初舞台を踏むのが慣例となっています。対照的に奥義とされるのが《釣狐》で、この演目の狐役(演者に大きな肉体的負担を強いる)を演じることで狂言の修行を一通り終わったとみなされます(そのため狂言の修行は「猿に始まり狐に終わる」と言われています)。

January 20, 2023

徒然長唄記 《那須野》

松の内は明けてしまいましたが、新年あけましておめでとうございます。本年も東京大学長唄研究会をよろしくお願い申し上げます。

2023年最初の「徒然長唄記」、例年通り新年に相応しい曲をと思い探してみますと、お正月に初演されたと思われる長唄で、なおかつタイムリーな曲に行き当たりました。それは《那須野》。というのも2022年3月5日、栃木県那須野が原にある殺生石が真っ二つに割れたというニュースがあったのです。風化によって自然に崩壊したようですが、いわくつきの名勝ということで色々な憶測を呼んだようです。

ということで、祝儀曲でもないし去年3月のどこがタイムリーなんだという真っ当な疑問の声を華麗に無視し、《那須野》の解説を始めていきましょう。

***

《那須野》
本名題「三国妖狐物語下之巻 日本那須野之段」(さんごくようこものがたりげのまき にっぽんなすののだん)
作詞3世桜田治助(1802-1877)
作曲初世杵屋六四郎(1811または12-1871)
初演文久4(1864)年または元治元(1865)年正月か
調子全曲二上り
囃子笛・小鼓・大皷・太鼓・カゲ(なしも可)
人数独吟(2挺1枚)~6挺6枚程度?
演了約14分

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〈二上り〉〔前弾〕〽ここは下野賤機帯を、かけて七度氏神様へ、闇の夜参り、そんれはそんれは、それそれそれ憂や辛や、辛苦那須野の縁結び、しどけなや。〔宮神楽の合方〕
〽助蔵助作目を覚まし、とひょうもない夢を、〽汝も見たか、〽俺も見た、〽どのような面白い夢か、話して聞かせなさんせんかいな、〽ようよういつの間にやらお玉女郎、今日は祭りのほどあって、美しゅう、じょなめいて来やったの。〽なんじゃ、裾の模様は水に藻の花、誘う水あらばという謎々か、これ、上総生まれでも、それはそれは情のある、俺が女房に、〽どっこい俺は相模の三浦生れ、今は狩人なれど、もとは船乗り波の上。〔合方〕
《浜唄》〽沖で峰見りゃ松の枝動くのう、今宵待つとの、ええ、ええ知らせかや。
〽ええあじゃらにも、それほどに言うて、後れ毛取り上げて、心細くも喜連川、〽早乙女坂に見交わせて、人目の関や隔てられ、また太田原こうしてと、思うばかりを楽しみに、はかない恋じゃないかいな、恥ずかしや。
〽浮かれ狂うて懐中より、錦の包み取り落とせば、早くも三浦が拾い取り、〽やや、こりゃこれ確かに夜光の明玉、これを所持なす汝が俗性、いで顕してと弓矢おっ取り、引き絞れば、
《鼓唄》〽のうあさましや幾万代の、年を重ねて劫を積み、業通自在に身をなせど、〽神力擁護の尖り矢に、今は何をか包むべき、三国の王法を傾けんと、玉体に近付きしが、安倍の泰成が丹精の祈りに、今は立ち処なく、これなる那須野へ飛び去りし、万国無双の悪獣なるわ、〔狂いの合方〕
〽聞くより両助抜き連れて、打ってかかれば、〽やよ待ち給え方々よ、今より悪念ひるがえし、四海太平民安全、五穀富裕の神なると、〽約束堅き石に磐、末の世までも守るべし、ゆめゆめ疑いあらありがたや、神国の蟇目の弓の勲に、悪魔降伏治まる御代、語り伝えし故事も、また新玉の春の興、謡い囃すぞめでたけれ。

***

《那須野》は江戸時代末期に作られた《三国妖狐物語》という長唄を上・中・下の3段に分けたうちの下の巻であり、正式には「三国妖狐物語下之巻 日本那須野之段」と呼びます。最初に《三国妖狐物語》を説明しますと、作詞は《末広がり》と同じ3世桜田治助、作曲は初世杵屋六四郎。天竺(インド)・唐土(中国)・日本の3国において九尾の狐が美女に化けて悪行を働くというストーリー(注1)を長唄化したものです。上が三下りで天竺、中が本調子で唐土、下が二上りで日本という対応関係になっていて、全編通すと約50分かかるという文句なしの大曲です。長すぎて全曲演奏はめったに行われず、特に下の巻だけ独立して演奏されることが多いのですが、この下の巻のみを特に「那須野」と呼ぶのです。上と中それぞれの軽めの解説を下に載せておきます。

《三国妖狐物語上之巻 天竺檀特山之段(てんじくだんとくせんのだん)

全曲三下り、約20分。舞台はガンダーラ地方(現在のパキスタン北西部)の檀特山。洞窟にこもって修行をしている悉達太子(後の釈迦)のもとに、妻が従者と共に国の窮状を訴えに来ます。隣国の王・班足大王と妃の華陽夫人が軍勢を率いて攻めてきたというのです。故国の危難に心乱れる太子ですが、そこに別の使者が現れ、不思議な援軍によって班足大王軍が敗走したと伝えます。しかも華陽夫人は億万劫を経た妖狐であり、太子の法力によって正体をあらわにされ、東方へと飛び去って行きました、という内容です。

主人公たちが知らないうちに場外で戦闘が終わっていたという内容の盛り上がりのなさに加え、作曲も(前弾はなかなか格好良いのですが)渋く浄瑠璃がかっており、屈指の難曲とされます。『長唄の美学』の宮田哲男・稀音家康も口を揃えて一番苦労したと語るほどで、独立して演奏される機会はほぼ皆無、全曲演奏の企画以外ではまず聴くことができません。

《三国妖狐物語中之巻 唐土華清宮之段(もろこしかせいきゅうのだん)(暴力的な記述がありますので注意)

全曲本調子、約18分。舞台は殷王朝末期の古代中国。周の文王は傾国の美女・妲己に溺れる紂王によって家族と共に捕らえられ、華清宮の庭に鎖で繋がれています。紂王は妲己に箏を弾かせつつ文王の子を目の前で殺し料理するという暴虐を行います。しかし文王が懐に持っていた退魔の鏡の力によって、妲己が妖狐であることが暴かれます。妖狐はさらに東、日本の地を目指して飛び去って行くのでした、という内容です。

内容に残虐なところがありますが曲自体の完成度は悪くなく、上よりは演奏機会があり、中と下の連続演奏も行われます。義太夫を長唄三味線で弾いているような独特の音楽性、最後のごくわずかな部分以外に唄のツレがない(三味線のツレも少ない)という破天荒な特色を持ち、また妲己による琴唄の部分は優美な曲調で美しいと評価されています。

本コーナーで初登場となる作曲者の初世杵屋六四郎についても少し説明しますと、旗本の次男で本名は山本鉄次郎といい、《勧進帳》で知られる4世杵屋六三郎に師事。1825(文政8)年ごろに杵屋鉄次郎から六四郎と改名し、後に中村座のタテ三味線になっています。演奏の技術に優れていただけでなく人格も円満だったようで、師とライバル関係にあった10世六左衛門からも後輩としてかわいがられ、大名屋敷での演奏会でワキや上調子として頻繁に起用された記録が残っています。作曲は六三郎・六左衛門ほど多くはありませんが、三国妖狐以外にも40分クラスの《雷電》《草紙洗》など大曲が多く、《此君(たけ)の一節》といった小品も凝っていて演奏が難しいと言われています。

では《那須野》はどうなのでしょう? 学生長唄でも何度か出されたことがあるとはいえ、曲のあらましといい作曲者の傾向といい、どうも一筋縄ではいかない感じがしますが……

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《那須野》は楽しげな前弾と唄で始まります。前弾には地としてテンツツを繰り返して合奏すると効果的です。舞台は下野国(現在の栃木県)にある那須野が原。助蔵助作という狩人たちが居眠りから目を覚まし、揃って妙な夢を見たと語ります。この曲だけだと何の夢かちっとも分からないのですが、実は夢の内容は中の巻。上の巻の内容も中の巻の文王が見ていた夢という設定(注2)なので、二重の夢オチ構造になっているのです。途中の「宮神楽の合方」は、《あたま山》をやったことのある人にはなじみ深いものですね。

夢の話をしようとする2人のところに、お玉という名前の美しい女性が現れます。〽じょなめいて来やったの」は台詞と唄の中間のようなところで、唄い方が難しいです。男2人はお玉と戯れ、自分の出身地と絡めて口説きにかかります。今は狩人だがもとは船乗りだったと言い、浜唄を唄い出します。

浜唄は《越後獅子》にもありますが、節が細かい上に三味線の手が大間でタイミングを取りにくいのは共通しています。音程の正しさはもちろんのこと、節でしっかりとリズムを作れるか、適切なメリハリで唄えるかなど要求が多く難所といえます。一方で節はとても綺麗で、大きな見せ場でもあります。浜唄の後も掛詞を巧みに用いて恋の手管を唄っており、節付もなかなか艶っぽくやりがいがあります。ただ、ここに限った話ではありませんが唄の調子がかなり高いので、私みたいな人が唄うと高確率で干上がります。

〽浮かれ狂うて懐中より」からは曲調が一転。戯れるうちにお玉は懐から錦の袋を取り落とします。中に入っていたのは怪しい宝玉。助蔵と助作はお玉を問い詰めます。実はこのふたり、狩人などではなく、妖狐討伐に差し向けられた武士(上総介広常と三浦介義純)だったのでした。神の加護を得た弓矢の前に妖狐はついに正体を現します。かつて天竺と中国で君主を篭絡し、日本では天皇の寵愛を得たが、陰陽師の安倍泰成(注3)に正体を見破られ那須野まで逃げてきたと語る妖狐。ここは鼓唄が主体で、メロディは《小鍛冶》の冒頭などによく似ています。お囃子と合わせる場合は〽業通自在に身をなせど」が難関。その後は語り物的な運びになり、〽悪獣なるわ」は大薩摩で、迫力を持たせてバトルスタートです。

妖狐の狂いの合方で三味線の腕前を見せた後、ふたりは妖狐に斬りかかります。敗北を悟った妖狐は悪念を放棄、これからは五穀豊穣の神と変じてこの国を守護すると誓います。日本だけ都合が良すぎやしまいかと思いますが、とにかくめでたしめでたしということになり、〽また新玉の春の興、謡い囃すぞめでたけれ」と新春を言祝いで終わります。よくある段切の型ですが、大曲の終わりでもあることを意識せよと伝えられています。

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演奏会の演目として見た場合、《那須野》は長さが手頃調子替えがない筋がわかりやすい曲調に変化がある、唄三味線共に腕の見せ場が多い、と流行曲としての要件を一通り備えています。実際よくできていて面白いのは確かであり、お囃子も活躍するとあって、上や中を遥かに凌ぐ人気を得続けてきました。下にだけ通称が付いているのも、それだけ再演を重ねてきたからといえます。

では《勧進帳》や《越後獅子》クラスの人気が《那須野》にあるのかというと、実はそうでもありません。確かに面白い要素は豊富にありますが、小難しくて変なところも結構多く、どうにもやりにくい曲なのです。そのエキセントリックさは特に後半で顕著で、筆頭は〽悪獣なるわ」の大薩摩。大薩摩は基本的に本調子で弾くものであり、それを二上りでやるのですから実に強引です。狂いの合方も決して奇抜な手は使っていないのですが、フレーズの取り合わせが実に奇妙。箏曲段物《みだれ》のような手があるかと思えば獅子の狂いがちょろっと顔を出し、最後には《神田祭》にもあるような手まで出てきてカオスです。言葉の地の三味線も妙に弾きにくく、もうちょい滑らかにならんかとついケチをつけたくなります。

したがって《那須野》の評価はどうしても「(いい曲かもしれないけれど)変な曲」となってしまうのです。出す曲の候補には上がっても、同じような性格でひねくれたところの少ない曲も他にあるので、だったらわざわざ《那須野》にせんでもと結局選ばれない、なんてことが東大で何度あったか知れません。学生を指導する側も「最初からあまり変わった曲をやらせると後に障る」と考えてしまい、なかなか《那須野》を推せなかったりします。また、下だけとはいってももとが50分級の大曲。その貫禄もそこかしこに見え隠れするもので、なおのこと初心者向けとは言い難いのです。

取っ付き易そうで難物、やり易そうで変てこりん、小曲の顔をして大曲。いかにも悪い狐の曲らしいというか、色々な面であまのじゃくなのが《那須野》です。実力不足だと振り回されて終わりますが、この曲の顛末のように圧倒的な暴力でねじ伏せれば立派に渡り合えるだけの力量をもって相対すればきちんと輝きを示してくれます。そもそも第一級の流行曲というには演奏機会が少なめではありますが、三・四年曲や卒業曲としての適性は高い、力量を試される曲というのが総評になるでしょう。

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東大長研は今、春に来るべき新しい出会いとこれから本格化する演奏会のため、現役OBともに準備を始めているところです。近いうちに《那須野》を演奏する機会はありませんし、また曲の性格上今後当分来ないかもしれませんが、新しく入ってくる方も含めて現役の皆さんにはぜひ、この曲に出会える時が来るまで(もちろん来た後も)続けていってほしいと思います。

2022年は色々大変なことがあった年でした。2023年には七海太平民安全、五穀富裕の神のご利益が全世界にあるよう、祈らずにはいられません。

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☆録音名鑑☆
『長唄の美学』第2集その22(NHKサービスセンター)ほか収録
唄:宮田哲男/三味線:杵屋五三郎、稀音家六治/笛:中川善雄/小鼓:藤舎呂船、藤舎華鳳/大鼓:藤舎円秀/太鼓:堅田喜三久/鳴物:外池真裕美
[解説]
《那須野》の録音はかなり少ないのですが、その中でもやはり『長唄の美学』は鉄板です。第2集には独立で、第3集その50には《三国妖狐物語》上・中からの続きで収録されています(音源自体は変わりません)。1993年5月6日の録音です。
演奏者解説

東音 宮田哲男3世 貴音三郎助
(1934-現在)
東音会の長唄唄方。出身地である北海道札幌市で稀音家六幸治に師事した後上京し、8世稀音家三郎助、山田抄太郎、西垣勇蔵らに師事、1957年に藝大を卒業。長唄東音会の創立当時からのメンバーで、現在に至るまで第一線で活動を続けてきました。円熟味のある美声と貫禄ある唄いぶりで、長唄の芸術性を高度に体現していると定評を得ています。98年長唄・唄の人間国宝に認定、2015年日本芸術院会員など栄誉も多数。収録曲全てでタテ唄をつとめた『長唄の美学』は20世紀最大の長唄録音全集であり、規範的演奏としての価値を高く認められています。

3世 杵屋五三郎
(1918-2013)
昭和から平成にかけて活躍した長唄三味線の名人。笛方の望月長之助の子で、本名は増田元弘(ちかひろ)、東京出身。初世杵屋五三郎、のちに山田抄太郎に師事。重厚な撥捌きと確かな技巧、音色の美しさで若手時代から注目を集め、1978年に杵五派の家元を継承し初世五三助から3世五三郎を襲名。歌舞伎、舞踊、演奏会、放送と各方面に出演、大曲や難曲の演奏にも実績を残し、第一人者として晩年まで活躍を続けました。1989年長唄三味線の人間国宝に認定、2005年日本芸術院会員など栄誉も多数。

2世 稀音家六治東音 関毅貴音抄太郎
(1936‐現在)
長唄三味線方。仙台に生まれ、1953年に藝大に入り山田抄太郎に師事。61年藝大副手を経て長唄東音会の同人となり、70年に2世稀音家六治を継承。含蓄に富んだ音色と洗練された技術の持ち主として東音会など演奏会や放送などに幅広く活躍、録音も『長唄の美学』(特に第1集での活躍が顕著)でワキや上調子を担当するほか、自身がタテをつとめたものも多くあります。大病を経験したこともあり、現在の彼の芸には往時ほどの鮮やかさはありませんが、それでも絶妙そのもののケシなど技量の高みを示す瞬間に出会えるあたり、名人の貫禄は失っていません。

中川善雄
(1946-現在)
現在の長唄笛方の第一人者のひとり。藤舎流笛家元である藤舎秀蓬の次男で、2世藤舎名生(こちらも笛の名手で人間国宝)の弟。大津に生まれ、6歳ごろから父に笛を学び、1965年に藝大に入学し人間国宝の4世宝山左衛門(6世福原百之助)に師事。多方面の舞台や放送に活躍し活躍を続けています。

6世 藤舎呂船
(1944-現在)
長唄囃子方、藤舎流の現家元。本名は橘利明、鼓の名人として有名な4世藤舎呂船の子で、父および5世呂船(藤舎せい子)に師事。1967年に藝大を卒業して翌年藤舎成敏を名乗り、87年に6世藤舎呂船を襲名しました。故実に通じ、格調高い芸風を持つ現代を代表する名手であり、藤舎一門の指導者として放送や公演、歌舞伎の舞台などに活躍を続けています。

藤舎華鳳
(1942‐現在)
藤舎流の長唄囃子方。本名は尾崎太一、大阪出身。父である囃子方の藤舎呂華泉から手ほどきを受け、4世・5世呂船や初世田中伝一郎に師事。1970年に藝大を卒業し、現在の芸名を許されています。家元と並ぶ藤舎流の長老格で、伝統芸能のみならず、「日本音楽集団」に籍を置いて現代邦楽の分野にも活躍しています。91年モービル音楽賞を受賞。息子に現在若手囃子方として活躍する藤舎呂凰がいます。

藤舎円秀
(1961‐現在)
藤舎流の長唄囃子方。1971年より初世藤舎呂秀に入門し、79年藝大別科入学。87年に円秀の名を許されました。大皷の演奏を特に得意とし、数多くの演奏会や舞踊会に出演しています。

3世 堅田喜三久
(1935-2020)
昭和~令和にかけて活躍した長唄囃子の第一人者。本名は安倍康仁。名人と名高い父・9世望月太左衛門をはじめとする囃子一家に生まれ、伯父にして堅田流の家元である3世喜惣治に師事。喜惣治の没後はほぼ独学で修行。太鼓・小鼓の名人として古典曲の演奏や歌舞伎・舞踊などの舞台に活躍するほか、新曲の作調なども多く手がけました。1999年に長唄・鳴物の人間国宝に認定されるなど栄誉も多数。

外池真裕美
(1958-現在)
堅田喜三久社中の長唄囃子方。名は「眞裕美」とも書かれます。1984年より3世堅田喜三久に師事。社中で陰囃子を主に担当し、放送や舞台、録音など各方面で活動しましたが、現在は業界から離れているようです。

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注1:平安時代の末期、鳥羽上皇は玉藻前(たまものまえ)という女性を愛するようになりましたが、実はその正体は九尾の妖狐。陰陽師によって正体を見破られた彼女は、下野国(栃木県)の那須野が原に逃げて石と化しました。その石は毒気によって周囲に近付く人間や鳥獣の命を奪い、それにより「殺生石」と呼ばれました――という伝説が室町時代ごろに御伽草子にまとめられ、さらにその殺生石となった妖狐を玄翁和尚が退治したという後日談をつけて能《殺生石》が作られました。江戸時代になるとインドや中国の伝説まで関連付けられ、高井蘭山による読本『絵本三国妖婦伝』(享和3(1803)年~文化2(1805)年)や岡田玉山の読本『絵本玉藻譚』(文化2年)などによって《三国妖狐物語》のベースが作られていきました。

注2:ただし歴史的にいうと紂王や文王は紀元前12~11世紀ごろの人、釈迦は紀元前7~5世紀ごろの人なので、時間軸がおかしなことになっています(少なくとも『絵本三国妖婦伝』では正しい順序です)。地理的な遠さが時間的な遠さに重なってしまった、インド=仏教発祥の地ということで物語の起点としての適性が高かった、などが理由でしょうか。

注3:生没年不詳? 平安時代末期の実在の人物で、安倍晴明の昆孫(6代目の子孫)です。妖狐との対決者として名前が出てきますが(南北朝時代の(フィクション性が強い)年代記『神明鏡』に名前が出るそう)、歴史上鳥羽院政期に強力な陰陽師として活躍したのはむしろ父の安倍泰親(1110-1183?)であり、泰成の実績について詳しいことはよく分かっていないようです。