December 31, 2025

ようこそ!

東京大学長唄研究会のブログへようこそ。

現在、コメントは部員やOBの方がほとんどですが(^^ゞ、
どなたからのコメントももちろん大歓迎です!!

当研究会では長唄三味線と着物が不足しております。
お譲り(お売り)頂ける方がいらっしゃいましたら右プロフィール欄のアドレスまでご連絡いただければ幸いです。

東大長研 2020年度の活動(感染防止のため以下はすべて中止になりました)

4/13,21 新入生向け三味線ワークショップ
4/18 お稽古体験@自由が丘

5/16,17 東京大学五月祭 三味線こんさーと @東京大学弥生キャンパス



8/31,9/1,9/2 夏合宿 

 

10月末頃  秋合宿

11月 駒場祭

12月 第46回東大ICU合同定期演奏会

    第72回全国学生長唄連盟定期演奏会



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東大長研 2019年度の活動

4/15,23新入生向け三味線ワークショップ

5/18,19 東京大学五月祭 三味線こんさーと @東京大学弥生キャンパス



8/31,9/1,9/2 夏合宿 

9/28 学連OB会 

10月末頃  秋合宿

11月 駒場祭

12月 第45回東大ICU合同定期演奏会

    第71回全国学生長唄連盟定期演奏会



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東大長研 2018年度の活動

4/11,19,24 新入生向け三味線ワークショップ

5/5 目黒区邦楽会 @めぐろパーシモンホール

5/6 第40回希扇会 @国立劇場

5/19-20 東京大学五月祭

8-9月 夏合宿

10月 全国長唄連盟OB会

    秋合宿

11月 駒場祭

12月 第44回東大ICU合同定期演奏会

    第70回全国学生長唄連盟定期演奏会



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東大長研 2017年度の活動

4/5,20,25 新入生向け三味線ワークショップ

4/23 第39回希扇会 @国立劇場小劇場

5/6 目黒区邦楽会 @めぐろパーシモンホール

5/20-21 東京大学五月祭

8-9月 夏合宿

10月 全国長唄連盟OB会

    秋合宿

11月 川口市文化祭 三味線祭り

    (駒場祭)

12月 第43回東大ICU合同定期演奏会

    第69回全国学生長唄連盟定期演奏会

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2016年度の活動

04/09 第38回希扇会
05/07  目黒区邦楽演奏会
05/14, 15  五月祭

05/28 新入生歓迎会
08/09 JAPAN BOWL volunteer
09/02~09/04  夏合宿
10/16 全国学生長唄連盟OB会 @日本橋公会堂
10/28~10/30  秋合宿
11/13  川口市 三味線まつり
11/25~11/27 駒場祭有志企画:日本舞踊研究会、チリカラ座との共同演奏
12/10 東大ICU合同定期演奏会 @江戸東京博物館
12/28 全国学生長唄連盟演奏会 @日本橋公会堂
            

(20190626更新)------------------------------------------------

追記より、東大三味線クラブの現役メンバーを紹介いたします。


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January 30, 2022

徒然長唄記新年特別稿 《祝儀曲いろいろ》

もう1月も末となってしまいましたが、2022年明けましておめでとうございます。本年も東京大学長唄研究会をよろしくお願いいたします。

2020年から21年にかけては新型コロナウイルスの影響で、どなたも不本意な生活を送られたことと思います。東大長研もまた、新歓やお稽古など様々な影響を受け、演奏会や合宿もなかなかできない時期が続きました。それでも何人もの新入生と出会うことができたことに感謝しつつ、今年こそは心置きなく活動に励めるようにと願っておりますが、先の見通しの立たないことは相変わらずの状況です。

そんな状況を少しでも明るく、というわけではありませんが、今回は祝儀曲特集をお送りしたいと思います。「徒然長唄記」シリーズではほぼ毎年、祝儀曲やそれに類した性格を持つ曲の解説記事を書いてきましたが、今回は長唄に限らず、三味線音楽の様々な流派(津軽三味線含めた民謡を除く)から「祝儀曲」といわれるものを集め、曲そのものや録音、各流の名手たちの情報をお届けしていきます。浅く広く、比較的ポピュラーな演目から結構マニアックなものまで取り揃えております。気になった曲があったらぜひ、CDショップや図書館、レコード店やYouTubeなどで探して聴いてみてください。

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前説「祝儀曲とは?」
「祝儀曲」とはその名の通り、何かを祝う内容を持つおめでたい曲目のことです。その内容は新年を祝うもの、五穀豊穣や天下泰平を祈るもの、長寿や特定の人物の名跡襲名を祝福するものなど様々ですが、日本の伝統的音楽の多くのジャンルにおいて、実に数多くの祝儀曲が作られてきました。今日日本と呼ばれる領域に属する地域で行われてきた音楽の中で、祝儀曲を持たないものはほとんどないでしょう。中には内容が直接祝儀に関するものではなくても、華やかな曲調を持つなどの理由で習慣的に祝儀の席で演奏されてきたものも祝儀曲として扱われることがあります。

祝儀曲には、特定の主題を持つ曲も多くあります。代表的なものに「歳寒三友」として知られる松・竹・梅をよみこんだ「松竹梅物」や能の《翁》に由来する「三番叟物」があり、他にも能の《高砂》や《養老》、《竹生島》などに取材したものが祝儀曲としての性格を持ちます。正式名称での区別が難しい場合がある(例えば、三味線音楽には非常に多くの「松竹梅」があります)ため、唄い出しなどの特徴によって通称が付けられることも多いようです。

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地歌・生田流箏曲
大坂や京都など上方を中心に、盲目の職業的音楽家(〇〇検校や〇〇勾当といった人々)によって創作・伝承されてきた三味線歌曲を総称して「地歌」と呼びます(「地唄」は江戸での書き方)。最古の三味線音楽として17世紀からの長い伝統を持っており、古くは歌舞伎に使われたこともあったようですが、次第に大名屋敷や遊郭の座敷などで室内楽として行われるようになっていきました。地歌の担い手は多くが箏の演奏家でもあったため、地歌は箏曲(特に角爪を用いる生田流箏曲)と深く結び付き、特に19世紀以降に器楽的技巧の複雑化や箏・胡弓・尺八などとの合奏効果の追求が進みました。歴史が長いだけに多様性が非常に豊かですが、おおむね内省的な声楽と優美な三味線の音色を特色とし、特に左手の装飾技巧が素晴らしく発達しています。

《松竹梅》
地歌箏曲にはいくつか「松竹梅」という名前の曲がありますが、単に「松竹梅」といえば三橋勾当(生没年不詳)の作曲した二上り手事物の曲を指します。作曲者は19世紀に大阪で活躍した人。この曲は彼の代表作でもあります。松・竹・梅を主題に、春から秋にかけての四季折々の風物をうたっています。全曲演奏すると23分程度かかり、大阪系の地歌箏曲を代表する手事物の大曲として《根曳の松》《名所土産》と並ぶ「三役物」のひとつに数えられます。二上り→一下り(三上り)→本調子→高二上りと転調、特に二上りから三を上げて一下りにする調子替えは弁才天に参籠して啓示を受けたという伝説もあります。特に三弦の技巧が凝らされた前後2つの手事(長大な器楽的間奏部)が眼目で、非常に華やかな音楽的展開を見せる名曲です。箏は流派によってさまざまな手が付けられており、また胡弓曲としても行われます。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『邦楽決定盤2000シリーズ 三曲』(キングレコードKICX-8570)ほか収録
唄・三弦:富山清琴/三弦:安永清香/箏:富山美恵子、加川清枝/尺八:山口五郎
[解説]
地歌の人間国宝で、富筋と呼ばれる大阪の芸系の代表者であった初世富山清琴(清翁)による「松竹梅」。おそらくキングレコードSKK-5015の再録と思われます。三弦と箏が2名ずついる華やかな編成で、圧倒的な技巧と表現力で魅せます。
主な演奏者解説

初世 富山清琴富山清翁
(1913-2008)
昭和~平成の地歌箏曲家。富筋という大阪の芸系の代表者。本名は八田清治、大阪出身。幼少期に失明し1918年富永敬琴に入門。26年に八田久弥から富山清琴を名乗ります。29年に敬琴が死去し、翌年上京して富崎春昇に入門。73年に独立して家元となり、富筋独自の演目を含む膨大な地歌箏曲の古典を伝承、東京における関西系地歌の第一人者として活躍。《防人の賦》などの作曲も行いました。69年重要無形文化財保持者(人間国宝)各個認定、87年日本芸術院賞受賞、88年日本芸術院会員、1993年文化功労者。2000年に清琴の名を譲って清翁を名乗り、02年に勲二等瑞宝章。2世清琴を継いだ長男の清隆(1950-現在)も09年に地歌の人間国宝に認定されています。

富山美恵子
(1922-現在?)
富筋の地歌箏曲家。本名は長尾美恵子、広島出身。初世富山清琴に師事し、1961年に初世清琴と結婚。夫婦での共演が多く、録音でも息の合った演奏を聞かせています。

山口五郎
(1933-1999)
昭和~平成期の琴古流尺八の名人。東京出身。11歳の時から父・山口四郎に尺八を師事。1956年にNHK邦楽育成会(第2期)卒業。63年に父の死去に伴い竹盟社を継承し、77年からは藝大に新たに創設された尺八科の講師に就任(87年より同大教授)。この間、米国ウェスリアン大学での客員教授を務めるなど海外での実績も積んでいます。同じ77年には《巣鶴鈴慕》の演奏が、人類全体を代表する音楽のひとつとして惑星探査機ボイジャー2号に搭載されたレコードに収録されました。尺八の本質を高度に体現した第一人者として活躍を続け、芸術祭等での受賞も多数。92年には尺八の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

『古典芸能ベスト・セレクション 名手・名曲・名演集 地歌』Disc1(日本伝統文化振興財団VZCG-8535)ほか収録
歌:越野栄松/箏:米川文子/三弦:富崎春昇
[解説]
最高峰の演奏家のみによって作り上げられた演奏。演奏家全員が別々の芸系に属するという珍しい取り合わせながら非常に音楽的価値が高い規範的演奏となっており、これ以前にも様々な媒体に再録されています。やや地味な印象も受けますが、「枯れた」芸の魅力を存分に味わわせてくれます。1956年12月29日の録音です。
演奏者解説

初世 越野栄松
(1887-1965)
大正~昭和期の山田流箏曲家。神奈川県出身で本名は越野三次郎。6歳で失明し、山田流箏曲山木派の望田栄喜に師事、栄松を名乗ります。20歳からは4世山木千賀に師事。昭和初期の山田流箏曲を代表する名人であり、特に枯淡の芸境を湛えた箏組歌の演奏にかけては右に出る者はいませんでした。いわゆる美声の持ち主ではありませんでしたが、滋味あふれる歌を聞かせました。1956年、山田流箏曲の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。日本三曲協会会長も務めました。

初世 米川文子
(1894-1995)
昭和~平成期の女流地歌箏曲家。岡山県高梁市出身。異母姉の中国系箏曲家・米川暉寿(てるじゅ)に師事。小学校卒業後に上京し、九州系の小出とい、大阪系菊筋の菊原琴治などからも指導を受けます。1933年、ロシア文学者の四兄・正夫の縁ゆえか単独でソ連に箏曲を紹介。35年からは地歌を上方舞の伴奏として普及させるべく「地唄舞」の語を考案し、実践的に研究を行いました。日本三曲協会会長を務めたほか、他流の地歌箏曲家との協力のもと数々の会を主催し、地歌・箏曲の保存・普及に尽力しました。格調高い古典演奏に定評があり、66年箏曲の人間国宝、78年日本芸術院会員、81年文化功労者に認定。次兄の米川親敏(琴翁)、その長女の初世米川敏子も地歌・箏曲の名人であり(敏子は人間国宝)、また養女となった姪(三兄の娘)の操(みさお)が現在2世文子を継承し、同じく箏曲の人間国宝となっています。

富崎春昇
(1880-1958)
明治~昭和前期の地歌箏曲家。人形遣いの初世吉田玉助の子(本名・吉倉助次郎)として大阪に生まれ、5歳で失明。8歳で富崎宗順に師事し1896年に富崎春琴を名乗ります。1904年に宗順が死去すると、その芸姓を継いで富崎春昇と名乗りました。富筋の第一人者として17年には東京有楽座で地歌の独演会を開き、翌年東京に移住、大阪系地歌を積極的に東京に広めました。47年日本三曲協会会長、48年日本芸術院会員、1955年に地歌の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。57年文化功労者。美声ではないながら枯れた味わいのある歌と、楽器の最高の力を引き出すことができたという技の持ち主で、特に三弦の演奏に優れていました。富筋の芸は弟子の初世富山清琴、さらにその子息の2世清琴などの演奏家へと受け継がれています。


《八千代獅子》
もとは尺八の曲だったのを政島検校(?-1780)が胡弓曲化し、さらに初世藤永検校(1757検校登官)が地歌に移したと伝わる手事物。全曲本調子。名前に「獅子」とついていますがいわゆる「石橋物」の仲間ではありません。歌詞に竹と松がうたわれており、よく祝儀曲として演奏されます。作詞は不明ですが、一般に園原勾当といわれています。8分程度と短い曲ながら手事の旋律がとても印象的で、長唄《船弁慶》の「舞の合方」などにも取り入れられています。合奏される箏や三弦の替手も色々に工夫されています。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『人間国宝 地歌箏曲 菊原初子』(コロムビアCOCJ-34033)ほか収録
歌・三弦:菊原初子/三弦:菊伊都美津江/箏:星田みよし/尺八:星田一山
[解説]
富筋と並ぶ大阪系地歌の芸系・菊筋の代表者である人間国宝・菊原初子らによるものです。落ち着いた中にも華やかさの横溢する、味わい深い演奏です。
主な演奏者解説

菊原初子
(1899-2001)
昭和~平成の地歌箏曲家。本名は布原初。祖父・菊植明琴、父・菊原琴治という菊筋の家系に生まれ、この両名に師事。正確に伝承された古典を熱心に研究、人柄を映したようなはんなりとした演奏が高く評価されました。父から受け継いだ琴友会を主宰し、また大阪音大教授(のち名誉教授)として大学での正規邦楽教育に携わり、当道音楽会会長などもつとめました。1957年記録無形文化財の選択を受け73年モービル音楽賞、79年に地歌の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。三味線組歌の普及と後進の育成に尽力、87年には自身の伝承する野川流三味線組歌全32曲や珍しい古曲などを楽譜として出版するなど、研究上も大きな功績を残しました。船場言葉のネイティブスピーカーとしても有名でした。

菊伊都美津江
(1907-1977)
菊筋の地歌箏曲家。本姓は井元。大阪出身。菊秋光およびその師である菊原琴治に師事。菊原初子の右腕のような存在で、特に共演の機会の多かった人でした。

初世 星田一山
(1894-1968)
大正~昭和期の都山流尺八家。本名は星田惣一、大阪出身。1917年に初世中尾都山に入門、19年に都之雨(としう)を名乗ります。22年に師が東京へ進出した後も大阪に残り当地の代表的尺八家として活躍。23年に準師範となり一山と号し、34年竹琳軒大師範。第二次大戦後は三曲会の再建に尽力。古典的地歌箏曲への尺八の手付のほか宮城道雄らの新曲にも取り組み、また洋楽の作曲も学びました。61年、大阪市民文化芸術賞を受賞。

『日本の胡弓 杉浦聡の世界』(S-TWO Corporation D00EM-05103)収録
胡弓:杉浦聡/唄・三弦:今井勉/箏:三品千代子
[解説]
現在における胡弓演奏・研究の第一人者である杉浦聡、そして名古屋の国風音楽会に属する今井勉・三品千代子による三曲合奏による《八千代獅子》です。もとは胡弓曲であったという八千代獅子ですが、胡弓の演奏者が希少な今、オリジナルの雰囲気を味わう機会は多くありません。名古屋系地歌と名古屋系胡弓の合奏です。
演奏者解説

杉浦聡
(1960-現在)
胡弓をはじめとした邦楽演奏家・研究家。藝大卒。幼少期より洋楽器とともに山田流箏曲や宝生流謡曲を学び、平井澄子、山田広代、中井猛、峰内吟彰、菊茂琴昇、11世都一中、6世山彦河良、山彦ちか子、荻江加寿、東明吟泉、原一男、3世菊田歌雄とジャンルをまたいで多数の名人・名手に師事。山田流箏曲(杉浦允代之)、一中節(都宗中)、河東節(十寸見東里)、荻江節(荻江允宗也)、東明流(東明吟宗)と多くの分野で名を許され、かつ実績を残しています。特に胡弓の研究・演奏においては様々な流派の理論・実技に精通した第一人者であり、演奏や教育など様々な方面に活躍を続けています。

今井勉
(1958-現在)
名古屋系の地歌箏曲家、平家演奏家。愛知県江南市に生まれ、幼少時に失明。4歳で横井みつゑに入門し箏・三弦・胡弓を習います。1970年からは三品正保に師事して平家・箏・三弦を学び、さらに85年から土居崎正富に師事して名古屋系の伝承曲を皆伝。名古屋系地歌箏曲と胡弓の芸を継承する存在であるだけでなく、盲人男性の芸能としての平家(平家琵琶、平曲)の唯一の伝承者でもあります(平家の芸は現在、今井勉から一部の地歌箏曲家に継承されつつあります)。現在も演奏会や放送などに活躍を続けています。1996年より国風音楽会会長、2021年名古屋市芸術賞。

三品千代子
(1933-現在)
名古屋系の地歌箏曲家。愛知県生まれ。4歳で池田くわ(吉沢検校の孫弟子)に入門、後に姉弟子の田中田鶴子のもとで地歌箏曲を学び、のち1951年より三品正保に師事。65年に三品正保と結婚。80年に国風音楽会大師範。87年に夫が死去した後も演奏会や放送への出演、楽譜出版や録音などを精力的に行い、名古屋の芸の継承・発展に尽力し続けています。


《御山獅子》
19世紀に大きな音楽的発展をみた「京風手事物」の曲で、菊岡検校(1792-1847)の三弦、八重崎検校(1776または85-1848)の箏という、この時期の京都を代表する名コンビの作曲です。作詞は伊勢松坂三井家の竹中墨子(直枝)といわれます。「御山」とは伊勢の神路山のことで、獅子舞や神楽などを詠み込みつつ伊勢神宮の四季をつづっています。技巧的な手事を持つことで有名で、地歌箏曲の器楽の妙味を存分に楽しめる名曲です。三弦は本調子→二上り→三下り、箏は半雲井調子→平調子→中空調子。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『山本邦山 尺八の魅力 1』(キングレコードKICH-2061)ほか収録
歌・三弦:井上道子/箏:小林玉枝/尺八:山本邦山
[解説]
九州系地歌箏曲の名人と尺八の人間国宝による三曲合奏。輝かしい三弦・箏と鋭い尺八の音色の絡み合いが非常に鮮やかです。
演奏者解説

井上道子
(1913-2003)
昭和~平成の九州系地歌箏曲家。本名はフミ子、熊本県宇土市出身。5歳から長谷幸輝門下の八木美登、粟津あいに学び、14歳で上京して九州系地歌の名人である川瀬里子に師事。1944年に初世川瀬順輔門下の井上重美と結婚し、独立。師の里心会に所属するだけでなく東雲会を主宰しました。日本三曲協会相談役も務めた、地歌箏曲界の重鎮でした。

小林玉枝
(1911-1985)
昭和期の九州系地歌箏曲家。名人とうたわれた小出といの孫として東京に生まれ、5歳から祖母の門弟の中村カヨに箏の手ほどきを受けました。9歳で加藤柔子に三弦を師事、1927年頃から玉琴会を主宰。1930年から川瀬里子のもとで修業、一時期宮城道雄にも師事しました。

2世 山本邦山
(1937-2014)
昭和~平成期の都山流尺八家、現代邦楽作曲家。本名は山本泰正、滋賀県大津市出身。父の初世山本邦山(鵬山)は尺八の製作者で、母は箏曲家。幼少より父に、1949年頃から中山蝶山に都山流尺八を習い、58年に山本邦山を名乗ります。64年に「民族音楽の会」にて現代邦楽の分野で活動を始め、66年に青木静夫(2世鈴慕)・横山勝也とともに「尺八三本会」を結成。古典の演奏だけでなく、数多くの作曲を行い、ジャズや映画音楽の方面にも進出するなど、ジャンルを超えた幅広い活動で有名でした。後進の育成にも熱心で、93年から2004年まで藝大教授の任にありました。演奏家としては迫力のある演奏に特徴があり、02年に尺八の人間国宝に認定されるなど栄誉も多数。


《春の海》
お正月といえばこの曲というほど有名な、箏と尺八の二重奏による新日本音楽。尺八のパートをバイオリンやフルートに編曲しての演奏も行われます。昭和4(1929)年12月、翌年の宮中の歌御会始の勅題「海辺巌(かいへんのいわお)」をテーマに、宮城道雄によって作曲されました。A-B-A´の三部形式で構成される器楽曲で、高い知名度があるため古典と思っている人も多いですが、実はかなり新しい曲です。揺蕩うような旋律とリズムの内にのどかな春の情景を巧みに描写した傑作ですが、作曲当時はあまり評価が芳しくなかったという意外なエピソードも。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『春の海・六段 琴の名曲』Disc1(日本伝統文化振興財団VZCG-8322)ほか収録
箏:宮城喜代子/尺八:青木鈴慕
[解説]
作曲者の最も正統的な後継者と尺八の名人が織り成す規範的演奏。懐の深い音色と巧みな解釈に引き込まれること間違いなしの名演です。
演奏者解説

宮城喜代子
(1905-1991)
昭和~平成期の生田流箏曲・地歌演奏家。旧姓牧瀬、本名清子。滋賀県大津市に生まれ、1918年上京、妹の数江とともに叔母の夫である宮城道雄に入門。道雄とは家族として起居を共にし、芸の面でも第一の門弟・補佐役として常に傍らに付き従いました。1956年に道雄が急逝した後は宮城家の養女となり、やがて宮城会のトップとして社中を統率するに至りました。31年から東京音楽学校(後の藝大)で教鞭をとり、72年に退官するまで同大教授、86年名誉教授となりました。宮城会会長、生田流協会会長、日本三曲協会会長など要職を歴任。58年には箏曲の人間国宝に認定され、61年芸術院会員。道雄の業績を継ぎ発展させた業績は大きく、師の新曲や古典の演奏で高く評価されました。

2世 青木鈴慕青木鈴翁
(1935-2018)
昭和~平成期の琴古流尺八家。本名は静夫。初世青木鈴慕の次男として生まれ、幼少期から父に師事。切れ味鋭い音色で知られ、古典・新作のどちらにも意欲的に取り組み、1964年には2世山本邦山・横山勝也とともに「尺八三本会」を結成、現代邦楽における尺八の地位を確かなものとしました。75年に2世鈴慕を襲名。91年芸術院賞、99年には尺八の人間国宝に認定。晩年の2018年には鈴慕の名を長男の彰時に譲り、鈴翁と名乗りました。


***

山田流箏曲
18世紀の後半から終わり頃にかけて、山田検校斗養一(とよいち、1757-1817)という音楽家が江戸で創始した新形式の箏曲です。江戸での箏曲の普及は上方に比べて遅れていましたが、山田検校は当時の江戸で人気があった一中節や河東節といった三味線音楽の要素を取り入れた箏曲を開始し、大変な人気を博しました。箏に対して正面に構え、演奏に丸爪を用いることで有名ですが、生田流との違いは演奏の形式にとどまらず、三弦の音楽的比重が大きい、器楽よりも声楽を重視するなど根本の性質から大きく異なる別種の音楽です。レパートリーには地歌や生田流から移したものと山田流独自の演目がありますが、後者にはほぼ必ず三弦が入り、唄い分けをするなど三味線音楽としての性格も強く持っています。

《万歳》
初世中能島検校(1838-94)によって作曲された、長さ10分ほどの祝儀曲。江戸城に来た三河国の万歳(二人組で鼓などを打ち囃しながら歌い舞った門付け芸人)の姿や芸を描写しており、曲の中ほどには鼓のリズムを表現した長い合の手があります。箏は半雲井調子→四上り平調子、三弦は本調子→二上り。箏と三弦だけで演奏することもできますが、小鼓一調を合奏させることもよく行われます。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『コロムビア邦楽名曲セレクション20 箏曲(山田流)』(コロムビアCOCJ-32452)ほか収録
唄・箏:上原真佐喜/箏:長井真寿恵/三弦:田中佐喜秀/小鼓:望月太喜右衛門
[解説]
山田流箏曲の人間国宝である上原真佐喜の一門による演奏。古雅な趣を備えた素朴で格調高い演奏で、祝賀の調べを楽しむことができます。
主な演奏者解説

2世 上原真佐喜
(1903-1996)
昭和~平成期の山田流箏曲家。初代の娘で、本名は林兎喜子。父に山田流箏曲を師事するほか、2世稀音家浄観に長唄を、山彦秀子に河東節を、菅野のぶに一中節を学ぶなどし、33年に父が没すると2世真佐喜を継承、一門の会として真磨琴会を主宰しました。山田流箏曲の伝統を最も正しく受け継いだ演奏家のひとりで、格調高い古典演奏には定評があり、特に浄瑠璃ものや三弦の演奏で高く評価されました。

2世 望月太喜右衛門
(1919-1980)
昭和期の長唄囃子方。本名は森秀之助。名人として知られる9世望月太左衛門に師事し、様々な舞台で活躍。折り目正しい演奏で知られました。現在は長男が1992年に3世太喜右衛門を襲名し活動しています。


《七福神》
こちらも中能島検校の作曲した祝儀曲(前半部の作曲に2世山登検校(1815-76)が協力したとも)。富本節という浄瑠璃と箏唄の掛合形式になっています(演奏上は富本節の部分も山田流箏曲家が担当します)。京都の酒屋が江戸で酒蔵を新築、その祝いの席に七福神がやってくるという内容です。掛合ものなので大編成での演奏になり、とても賑やかで明るい演奏を楽しめます。調弦は、箏が浄瑠璃・箏唄ともに平調子→中空調子→平調子、三弦が浄瑠璃:本調子→二上り→本調子、箏唄:二上り→三下り→二上り。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『お祝い邦楽 箏曲』(キングレコードKICH-115)ほか収録
浄瑠璃・箏:中能島慶子、藤井千代賀/三弦:品川正三/箏唄・箏:山勢松韻、山勢司都子/三弦:鳥居登名美
[解説]
山田流箏曲の女流名人が中心の、豪華な編成による演奏。演奏者それぞれの個性が発揮されており、浄瑠璃と唄の三弦の響き・音色の違いも面白く鑑賞できます。
演奏者解説

中能島慶子
(1912-1988)
昭和期の山田流箏曲家。技巧派の名人として知られた箏曲家・今井慶松の娘で、本名は静枝。幼少時から父の教えを受け、1933年に中能島派4代目家元の中能島欣一と結婚(夫婦仲の良さは有名だったそう)。59年に夫が死去した後、61年に中能島派の家元を5代目として継承。ことに箏の演奏と唄に優れた技量を見せました。6世山勢松韻が自伝で伝えるところによれば、稽古の鬼である夫とは対照的な天才肌の演奏家だったとのことです。63年に芸術院賞を受賞するなど栄誉も多数。山田流箏曲協会常任理事、日本三曲協会理事、藝大講師も務めました。

2世 藤井千代賀
(1918-2005)
昭和~平成期の山田流箏曲家。本名は従(より)。古川鉱業の重役の娘に生まれ、1922年から初世藤井千代賀に山田流箏曲を学びます。37年藝大邦楽科に入学、中能島欣一や初世越野栄松らにも師事し、40年に佐佐木美千賀。翌年音楽学者の岸辺成雄と結婚して芸名を岸辺美千賀と改め、64年に初世から名跡を譲られ2世藤井千代賀を名乗りました。この間57年に夫婦で渡米し、当地の様々な大学で山田流箏曲を紹介しました。長唄、河東節、一中節の素養も持ち、特に一中節では宇治文鶯の芸名を持っていました。美声と息の長さで有名で、古典演奏に独自の解釈を示し、特に越野栄松から受け継いだ箏組歌の演奏では比類ない優雅さを示しました。

品川正三
(1912-?)
中能島派の山田流箏曲家。新潟県出身、中能島欣一に師事。特に三弦の名手で、録音にもよく参加しています。現在の消息は不明ですが、1970年代後半まで演奏活動の記録が残っています。

5世 山勢松韻山勢崇華
(1916-2003)
山田流箏曲家、山勢派の家元。本名は木原良子、山勢松韻としては2世(5世は家元としての代数)。4代目山勢福の養女となり、幼少期から家元となるべく育てられ、初世萩岡松韻や今井慶松らに師事。1936年に今井慶照の立会のもと松韻を襲名。昭和~平成期を代表する女流山田流箏曲家の一人で、繊細かつ格調高い演奏で芸術祭賞優秀賞、奨励賞などに何度も輝き、84年紫綬褒章、91年勲四等宝冠章。2000年に家元を妹の司都子に譲って引退し、山勢崇華(そうか)を名乗りました。

山勢司都子6世 山勢松韻
(1932-現在)
現在も第一線で活躍を続ける山田流箏曲家で、現・山勢派家元。本名は木原司都子。幼少より実姉である5世松韻に学び、その後藝大にて中能島欣一に師事、他に清元志寿太夫、杵屋正邦、矢木敬二などからも指導を受けました。長らく姉の最高の共演者として活躍し、2000年に家元を譲られ6世松韻となりました。NHK邦楽技能者育成会第一期の修了生であり、1989~2000年に藝大客員教授。96年芸術選奨文部大臣賞、98年紫綬褒章、2001年に山田流箏曲の人間国宝に認定。02年日本芸術院賞を受賞、08年芸術院会員、2013年文化功労者。箏・三弦もさることながら独特の張りのある歌声も美しく、今も演奏会や放送に出演して名演を聴かせ続けています。

5世 鳥居登名美
(1905-1992)
山田流箏曲家、鳥居派の家元。本名は鳥居もと。1915年に4世登名美の養女となり22年に4世鳥居名美野を襲名、その後養母が25年に死去すると中能島松仙を後見として5世登名美を襲名。養母の他にも丸田島能、今井慶松、中能島松仙、中能島欣一、4世山登松和などに山田流箏曲を師事、他に長唄・胡弓・河東節・宮薗節なども修めました。65年からは一門の会として耀名会を主宰、現在も後継者の5世名美野を会長として受け継がれています。


《竹生島》
同名の能に取材した曲で、千代田検校(?-1862?)によって作曲されました。一中節という三味線音楽の影響が強く、語り物的な味わいがあります。15分程度とあまり長くないこともあってか、山田流の祝儀曲としてテレビやラジオでも上演機会の多い曲です。箏は雲井調子、三弦は三下り→本調子。なお山田流には一中節と掛合で演じる同名曲もありますが、こちらは全曲演奏に約50分かかる大曲になっています。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『山田流箏曲 中能島欣一全集 古典篇』Disc5(日本伝統文化振興財団VZCG-8111)ほか収録
唄:中能島欣一、中能島慶子/箏:鈴木清寿、吉田純三/三弦:品川正三
[解説]
人間国宝・中能島欣一の一門による演奏。山田流では長唄などのように、声楽と器楽を分担しての演奏も行われることがあります。「神業」とまで称された欣一の器楽技巧はこの録音では味わえませんが、高い格調を備えた名演です。1971年6月19日の録音です。
主な演奏者解説

中能島欣一
(1904-1984)
昭和期を代表する山田流箏曲家。中能島派の4代目家元。中能島検校の孫として東京に生まれ、母の中能島喜久、初世丸田島能、中能島松仙、初世高橋栄清らに山田流箏曲を師事し、他に4世杵屋勝太郎に長唄を、都一秀に一中節を学んでいます。1928年に中能島派の家元を継承。32年より東京音楽学校講師、37年同校教授。50年に東京音楽学校が藝大となったのに伴い同校教授、72年名誉教授。「千段弾き」の逸話に代表される圧倒的な稽古量に裏付けられた技巧派の名人で、特に自らが編曲した《新晒》など手事物の演奏では他の追随を許しませんでした。54年・55年に芸術祭賞、59年日本芸術院賞、61年芸術院会員。66年には山田流箏曲の人間国宝に認定され、83年文化功労者。活躍は演奏面だけでなく、《三つの断章》《赤壁賦》など現代邦楽の先駆けといえる新機軸の作品を多く世に送った作曲家でもありました。


《都の春》
明治期に活躍した3世山勢松韻(1845-1908)が作曲、1890年の東京音楽学校(現在の藝大)開校式にて開曲されました。春の訪れにことよせて新しい時代を祝う内容で、古典箏曲の名曲から様々な旋律を借りつつ、古典的手事物のスタイルによって作曲されています。箏は半雲井調子→四上り平調子、三弦は本調子→二上り。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『古典芸能ベスト・セレクション 名手・名曲・名演集 箏曲』Disc2(日本伝統文化振興財団VZCG-8537)ほか収録
唄・箏:今井慶松、中能島慶子/三弦:中能島欣一/尺八:関和童
[解説]
中能島欣一の前の世代を代表する技巧派の名人・今井慶松の演奏。上でも触れましたが箏の中能島慶子は長女、三弦の中能島欣一はその夫なので、ファミリーでの演奏ということになります。通常この曲の演奏には12~14分程度かかるのですが、この録音の演奏時間は約10分(省略があるわけではありません)。音質はよくありませんが、とにかく合の手の圧倒的な速度と粒のそろった音の美しさが魅力的で、技巧派の至芸を存分に味わわせてくれます。原盤は1931年5月発売。
主な演奏者解説

今井慶松
(1871-1947)
明治~昭和期の山田流箏曲家。本名は新太郎、現在の神奈川県出身。4歳で失明し、9歳から箏曲の修業を開始。1885年に上京して3世山勢松韻に師事し、92年に慶松の名を許されます。1902年より東京音楽学校教授となり、61歳で退官するまで長く後進の指導に当たりました。技巧派の名人として知られ、特に《新晒》の編曲と演奏で有名でした。系譜上は山勢派のひとりですが、門下からも多くの名人を輩出しており、ある意味で独自の芸系をつくった人とも言えます。1942年芸術院会員。作曲に器楽曲《四季の調》や《御代万歳》《鶴寿千歳》などがあります。

関和童
(1886-1955)
琴古流尺八家。本名は順次郎、東京出身。3世荒木古童に師事。和風会を主宰しました。


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義太夫節
1684年、初世竹本義太夫(1651-1714)が大坂・道頓堀に竹本座を立ち上げたことからその歴史が始まる語り物音楽(浄瑠璃)です。元禄文化を代表する音楽として高校の日本史の教科書にも登場し、今でも特に人形劇(いわゆる「文楽」)あるいは歌舞伎の音楽(歌舞伎で行われる義太夫は「竹本」と呼ばれます)として重要な位置を占めています。レパートリーには長編の戯曲が多く、太棹三味線の力強い響きに乗せ、複雑な人物関係の中に入り乱れる人間模様を写実的・劇的に語るのが特徴です。文楽・歌舞伎での専従者は全て男性ですが、女流義太夫(女義)として女性によっても行われてきた歴史があります。

《寿式三番叟》
義太夫の中では珍しく、演劇的性格の希薄な祝儀曲。1763年4月に大坂豊竹座の再建開場興行にて行われたものをもとに、明治の義太夫三味線のレジェンド・2世豊澤團平(1728-98)が増補作曲したといわれています。しばしば複数人の太夫と三味線によって演奏され、特に太棹による合の手の合奏は聴き応えがあります。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『邦楽舞踊シリーズ 義太夫 二人三番叟(寿式三番叟)』(日本伝統文化振興財団VZCG-6027)ほか収録
浄瑠璃:竹本扇太夫、豊竹和佐太夫、竹本藤太夫/三味線:豊澤猿若、豊澤伊三郎、鶴澤清好/笛:福原百之助/小鼓:田中伝一郎、望月長左久/大鼓:望月左吉/太鼓:堅田喜三久
[解説]
竹本専従者による演奏。竹本扇太夫が多く残した録音のうちのひとつで、舞踊「二人三番叟」の地として演じられたものです。人形浄瑠璃(文楽)の義太夫に比べてどうしても注目されにくい竹本ですが、多くの演奏家が個性を発揮しつつ守り受け継いできた確固たる芸を味わわせてくれます。なおCDでは「澤」が全て「沢」と表記されています。
主な演奏者解説

竹本扇太夫
(1902-1989)
昭和期の竹本浄瑠璃方。本名は神谷勇、愛知県安城市出身。1919年に竹本朝太夫に入門、21年より内弟子となって竹本朝瀬太夫を名乗ります。後に師匠のもとを離れて一時崎太夫を名乗っていましたが、歌舞伎に出演するようになり、30年葵太夫と改名。松尾國三の一座などで活動したのち6世尾上菊五郎の一座に参加、44年から扇太夫を名乗りました。菊五郎劇団の竹本の代表者であり、また舞踊会での演奏にも活躍し多くの舞踊用レコードも残しています。78年勲五等双光旭日章。

豊竹和佐太夫
(1898-1989)
昭和期の竹本浄瑠璃方。本名は河内盛(伸吉)で、母は女流義太夫の竹本綱巴津。東京に生まれ、関東大震災後の1925年に大阪に出て、母の弟弟子にあたる2世豊竹古靱太夫(後の人間国宝・豊竹山城少掾)に入門し豊竹宮太夫を名乗ります。文楽への出演を続け54年には5世竹本和佐太夫を襲名しましたが、59年に師匠の山城少掾が引退したのを機に竹本扇太夫を頼って竹本に入り、豊竹に改姓。文楽で道行・景事・掛合などの役を多くつとめてきた経験から竹本でもこれらを得意としましたが、時代・世話を問わず幅広く語ることができる太夫だったといいます。晩年には国立劇場養成課の講師もつとめました。

竹本藤太夫
(1919-1981)
昭和期の竹本浄瑠璃方。本名は石村勝助、福岡県福岡市出身。中学生時代に6世竹本土佐太夫に入門し、1932年より竹本土佐栄太夫を名乗ります。文楽界では将来を期待されていましたが召集されアジア太平洋戦争に出征、最前線で激戦を経験しつつも生還。戦後は62年から竹本の7世豊竹岡太夫に入門して竹本に入り、竹本藤太夫と名乗り、美声と真面目な語り口を持ち味として3世市川猿之助の舞台をよくつとめました。戦前・戦中・戦後を通じて波乱万丈の人生を送った人でもありました。

豊澤猿若
(1908-?)
竹本三味線方。芸名の読みは「えんじゃく」。本名は小西市三郎、東京深川の出身。1922年頃に6世豊澤猿之助に入門。文楽への出演歴があるかは不明ですが、戦後に縁あって歌舞伎に出演を始め、52年より正式に竹本入り。菊五郎劇団でよく竹本扇太夫と組み、堅実かつ上品な芸風で活躍、明るい掛け声で舞台を盛り上げたといいます。74年国立劇場特別賞、92年には日本俳優協会より功労者表彰。

豊澤伊三郎
(生没年不詳)
竹本三味線方。本名は浅野伊之助、大阪出身。3世豊澤團平に師事し、1911年より豊沢團伊三。23年から4世鶴澤清六の預かりとなり、44年に清六の師の前名である鶴澤友松を2世として襲名。文楽に出演していましたが戦後に竹本に転向し、豊澤伊三郎を名乗りました。研究熱心で、遺したノートは今も上演の絶えた演目の復活に役立てられているとのことです。

鶴澤清好鶴澤政一郎鶴澤正一郎
(1931-2021)
竹本三味線方。本名は村上好衛、岡山県出身。1945年頃に野澤吉加に三味線の手ほどきを受け、48年に大阪に出て4世鶴澤清六に入門、清好(せいよし)を名乗って文楽に出演。60年に師の清六が没すると文楽座を退いて会社員となりますが、72年に退社して舞踊会などへの出演を開始、75年に正式に竹本に入りました。76年鶴澤政一郎、84年鶴澤正一郎と改名。89年以降松竹専属。国立劇場特別賞、2010年旭日双光章など受賞歴もあります。演奏活動の一方で77年から国立劇場養成課において竹本の講師を長くつとめた功績も大きく、今日の竹本三味線方に彼の薫陶を受けなかった者はいないというほどです。2015年に引退。


***

常磐津節
1747年、初世常磐津文字太夫(1709-81)が江戸にて創始した浄瑠璃。この少し前、江戸では宮古路豊後掾(?-1740)という京都出身の音楽家が優艶な浄瑠璃を語り大人気を博していましたが、風紀を乱すとして幕府によって禁止されてしまいました。江戸を追放され京都に帰った豊後掾でしたが、彼の弟子たちは江戸に残り、独自の音楽を創出していきました。そうして生まれた浄瑠璃の一つが常磐津節で、特に歌舞伎の舞踊劇の地として本領を発揮し、長唄などと並び歌舞伎に不可欠な音楽として、多くの古典曲や新作が現行しています。武張った中にも師流の艶を残しつつ、古風で素朴な味わいを持ち「江戸の義太夫」とも呼ばれています。三味線は太めの中棹で重厚な音色を特色とし、声楽は自然で飾らない発声。歌と語りのバランスが良く、全体に中庸を得た音楽性を特色としています。

《老松》
同名の謡曲をもとにした祝儀曲。初世佐々木市蔵(?-1768)作曲と推定され、作詞者は不明。8分程度と短いですが、この曲から常磐津節の歴史が始まったともいわれる重要な曲で、常磐津宗家にて秘曲とされていました。全曲本調子。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『コロムビア邦楽名曲セレクション20 常磐津』(コロムビアCOCJ-32446)ほか収録
浄瑠璃:常磐津一巴太夫/三味線:常磐津小欣司、常磐津子之助(上調子)/笛:福原百之助/小鼓:望月長左久/大鼓:望月左吉/太鼓:望月左武郎/陰囃子:望月太門、望月太意次郎/狂言方:渡辺歌三
[解説]
戦後の常磐津の名人とうたわれた常磐津一巴太夫の独吟。三味線の常磐津小欣司は、特に一巴太夫とのコンビで高く評価された人です。素朴さの中に力強さが感じられる、格調高い演奏です。
主な演奏者解説

常磐津一巴太夫
(1930-2014)
昭和~平成期の常磐津節浄瑠璃方。本名は明田昭(または交右)、京都祇園の出身。幼少期より芸事を好みつつも印刷会社に就職、会社員をしながら1948年より常磐津文字一朗の稽古場に通い、すぐに声の良さを見込まれて52年に常磐津一巴太夫の名を許されました。3世常磐津林中、常磐津文蔵、常磐津吾妻太夫からも指導を受け、次第に演奏活動に専念するようになっていき、78年には上方出身者として初めて歌舞伎座でタテ語りをつとめるに至ります。特徴的な美声、独特の発声と明朗な節回し、華やかな高音で確固たる個性を打ち立て、95年には常磐津節浄瑠璃の人間国宝に認定されました。

常磐津小欣司
(1937-2001)
昭和~平成期の常磐津節三味線方。本名は清水久巳、大阪出身。1942年に父の常磐津文字七(後の錦司)に入門し、その後7世常磐津文字太夫、常磐津豊之助(後の文蔵)、常磐津三都造らにも師事、51年に小欣司の名を許されます。67年より歌舞伎本興行でタテ三味線を弾き、この時から一巴太夫と組んで上方の歌舞伎興行を担うようになります。骨太の音と巧みな撥捌きの持ち主で、一巴太夫が太夫として大成したのも小欣司の腕前によるところ大であると評されています。長男の小欣矢も常磐津の三味線方で、小欣司の死後に一巴太夫の三味線を弾きました。

2世 常磐津子之助2世 常磐津文字蔵
(1952-現在)
常磐津節および一中節の三味線方。本名は藤堂誠一郎、東京出身。1956年より父である初世常磐津文字蔵に師事し、69年より父の前名である子之助を名乗ります。4世常磐津文字兵衛、常磐津菊三郎の指導も受けました。藝大中退後、81年に2世文字蔵を襲名。常磐津節だけでなく、一中節都派家元・12世都一中として一中節でも活躍しています。重厚な撥捌きと艶やかな美音の持ち主で、2014年には芸術院賞を受賞しています。


《子宝三番叟》
1787年2月、初世常磐津文字太夫追善・2世文字太夫襲名披露の席で初演された三番叟物の曲。常磐津節最古の三番叟物で、初世鳥羽屋里長(1738-94または95)作曲と言われています(作詞は不明)。子だくさんの長者が太郎冠者の勧めにより男女12人の孫の名を並べ、子供の四季の遊びを語ったものです。本調子→二上り→本調子。
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『お祝い邦楽特選 4~浄瑠璃』(キングレコードKICH114)ほか収録
浄瑠璃:常磐津千東勢太夫、常磐津小勘太夫/三味線:常磐津菊三郎、常磐津菊寿郎/鳴物:梅屋竹正社中
[解説]
大正~昭和の常磐津を牽引した千東勢太夫・菊三郎の名コンビによる録音。この両名がタテをつとめた録音は非常に多く、『常磐津全集』としてまとめられています(この「子宝三番叟」の録音は全集に入っていません)。常磐津の教科書ともうたわれた名人芸を味わうことができます。
主な演奏者解説

常磐津千東勢太夫
(1916-1968)
昭和期の常磐津節浄瑠璃方。本名は福田光佑(出生名は光吉)。明治後期から常磐津界を牽引した名人・3世常磐津松尾太夫の子として東京に生まれ、6歳より父に師事、1931年に尾上太夫を名乗って歌舞伎の初舞台を踏みます。33年に千東勢太夫と改名。38年以降タテ語りとして300近くもの歌舞伎興行を担ったばかりでなく、松韻会を主宰、放送や録音にも活躍し、決して長くはなかった生涯の中で多数のレコードを残しました。伸びやかな高音が特徴の美声の太夫で、その芸は今も常磐津の規範と目されています。

常磐津小勘太夫常磐津勘寿太夫
(1934-2016)
常磐津節浄瑠璃方。本名は小松原直義、東京出身。幼少より父の常磐津勘右衛門に手ほどきを受け、1938年に常磐津小勘太夫として初舞台。56年からは常磐津千東勢太夫に師事し、63年より常磐津勘寿太夫を名乗ります。古風で豪快な語り口を持ち味とし、3世市川猿之助をはじめ多くの歌舞伎の名優にも地方を望まれました。キャリアの後半では常磐津界を代表する太夫のひとりとして斯界を牽引し、旭日双光章を受章しました。

常磐津菊三郎
(1897-1976)
大正~昭和の戦後期を代表する常磐津節三味線方。本名は倉井修一、東京出身。11歳で2世常磐津都太夫に入門し、1910年より浄瑠璃方として常磐津小菊太夫を名乗りましたが、のち三味線方に転向。1914年に小菊から菊三郎と改め、都太夫の没後は常磐津松寿斎(2世文字兵衛)に師事しました。20歳の若さでタテ三味線を任されて以降300以上の歌舞伎興行を担っただけでなく、演奏会、放送や録音にも活躍。芸格の大きさ、音色の美しさでは並ぶ者がなく、また太夫として出発したことから浄瑠璃をよく理解し、的確な三味線を弾くことのできる三味線方でした(ちなみにわずかながら太夫をつとめた録音も残っています)。常磐津の模範的三味線方と自他ともに認める存在で、66年常磐津三味線の人間国宝に認定され、67年紫綬褒章、73年勲四等旭日小綬章。作曲に《菊の栄》《菊の盃》があります。

初世 常磐津菊寿郎
(1918-1994)
常磐津節三味線方。本名は石川真五良、大阪出身。実家に菊三郎が出稽古に来ていた縁で、1933年に上京し菊三郎に入門、内弟子となります。37年より菊寿郎を名乗り、菊三郎のワキ三味線として活躍(姉が菊三郎の妻となったため義兄弟の関係でもありました)、あるいは多忙だった菊三郎の代役でタテ三味線をつとめることも多くありました。楽曲の構成力に優れ、歌舞伎興行や演奏会、録音、放送に活躍。病気のため栄誉には恵まれませんでしたが、その演奏は今でも常磐津のひとつの模範として高く評価され続けています。現在は長男が2世菊寿郎を継承して活躍しています。


《乗合船》
本名題は「乗合船恵方萬歳(のりあいぶねえほうまんざい)」。1843年1月に江戸市村座で初演された演目で、この時は常磐津以外にも長唄など全4種の音楽を動員するお芝居だったようですが、後に常磐津節の部分だけが独立して演奏されるようになりました。作曲は5世岸沢式佐(1806-66)です(初演時の他の関係者は省略)。新春の隅田川の渡し船を宝船に、乗り合わせた女船頭、三河万歳、大工などの人々を七福神に見立てて芸を披露し合うという趣向。にぎやかな雰囲気と滑稽味があって親しみやすく、常磐津を代表する名曲のひとつです。本調子→三下り→本調子→二上り→本調子。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『古典芸能ベスト・セレクション 名手・名曲・名演集 常磐津』Disc1(日本伝統文化振興財団VZCG-8525)ほか収録
浄瑠璃:常磐津松尾太夫/三味線:常磐津文字兵衛、常磐津八百八(上調子)
[解説]
大正~昭和の前半を代表する名人である3世常磐津松尾太夫の独吟。SPレコードが原盤であるため決して音質は良くありませんが、一世を風靡した美声、いくつもの役を演じ分ける至芸を堪能できます。重厚ながらスピード感溢れる三味線も聴き応えがあります。
演奏者解説

3世 常磐津松尾太夫
(1875-1947)
常磐津節浄瑠璃方。本名は福田兼吉、神奈川県出身。初めは5世岸澤古式部(6世式佐)に入門して常磐津小和登太夫を名乗り、1900年に2世三登勢太夫と改名。その後02年より初世常磐津林中に師事し、06年に師の前名である松尾太夫を3世として襲名。11年に2世常磐津文字兵衛とともに帝国劇場専属となり、30年には松竹専属となりました。そのカリスマ性ある美声は、やはり美声で知られた師の林中とはまた違った魅力を備え、この時代を代表する名人と讃えられました。数多くの録音も残しています。

3世 常磐津文字兵衛常磐津文字翁
(1888-1960)
常磐津節三味線方。本名は鈴木広太郎、東京出身。初世常磐津文字兵衛、父である2世常磐津文字兵衛(松寿斎)、初世常磐津林中に師事し、1900年に父の前名である岸澤八百八を3世として襲名し、06年の常磐津派・岸澤派の分裂に伴い常磐津八百八と改名。16年に父より名跡を譲られ3世文字兵衛を襲名。3世松尾太夫やその子息である千東勢太夫を弾き、美しい音色と豪快な撥捌き、キレのあるノリで名人とうたわれ、53年芸術院会員、55年常磐津界最初の人間国宝に認定。演奏だけでなく《独楽》《良寛と子守》など作曲も行いました。最晩年に長男(現在の人間国宝・常磐津英寿)に名を譲り、文字翁を名乗りました。

4世 常磐津八百八常磐津松寿
(1904-1971)
常磐津節三味線方。3世文字兵衛の弟で、本名は林(旧姓鈴木)伊三郎。2世文字兵衛の次男として東京に生まれ、幼少より父に師事して三味線を修行し、1916年に4世八百八を名乗り初舞台。兄のツレを弾くほか、常磐津三東勢太夫(千東勢太夫の弟)などと組んでタテをつとめました。独特な撥の構え、表情豊かな演奏に特徴があったといいます。68年に長男に八百八を譲り、松寿と改名。薫陶を受けた演奏家に英寿、5世文字兵衛、八百二らの名手がいます。

『邦楽決定盤2000シリーズ 常磐津』(キングレコードKICX-8572)ほか収録
浄瑠璃:常磐津文字太夫、常磐津須磨太夫、常磐津真砂太夫/三味線:常磐津政寿郎、常磐津文昭(上調子)
[解説]
常磐津の16代目家元である8世文字太夫がタテ語りをつとめる録音。曲の滑稽味を大切にしながらも重厚で厳かな格調を備えた演奏です。昨今他の邦楽諸流と同様に華やかな高音がもてはやされ、調子が高くなったといわれる常磐津ですが、この録音は調子も低く素朴な響きがあり、無骨で古風な常磐津の味わいをよく伝えています。
演奏者解説

8世 常磐津文字太夫
(1918-1991)
常磐津節浄瑠璃方、常磐津節16代目家元。本名は常岡晃。7世常磐津文字太夫の長男として東京に生まれ、幼少より父に師事。1934年に4世常磐津小文太夫、44年10世小文字太夫を襲名し、51年に父の死去を受け16世家元を継承、53年8世文字太夫を襲名。格調高く表現力豊かな芸風で歌舞伎の舞台や演奏会などに活躍したほか、69~91年まで常磐津協会会長の任にあり、また常磐津節保存会の初代会長に就任するなど、常磐津の発展と継承のために尽力。激動の時代に常磐津を守り伝えた功労者でした。

5世 常磐津須磨太夫
(?-2010)
常磐津節浄瑠璃方。本名・上杉一郎。常磐津節協会副会長をつとめました。

3世 常磐津真砂太夫5世 常磐津和佐太夫
(1937-現在)
常磐津節浄瑠璃方。本名・髙橋勇、埼玉県出身。幼少より父の常磐津菊兵衛に師事し、1957年に3世常磐津真砂太夫を襲名。その後父の師である常磐津菊三郎、8世常磐津文字太夫にも師事し、1971年に5世和佐太夫を襲名、翌年初タテ語り。日本舞踊、一中節、小唄も修めており、歌舞伎や演奏会、放送、録音と各方面に活躍。2010年代以降は表立った活動がありませんが、戦後の常磐津を支えた偉大な太夫のひとりです。96年芸術祭優秀賞、2007年旭日双光章。現在、常磐津協会理事長。

常磐津政寿郎
(1909-1986)
常磐津節三味線方。本名は深田建次。常磐津政太夫に師事して常磐津小政を名乗り、1924年頃から歌舞伎、演奏会やラジオ放送に出演。30年に政寿郎を名乗り、同年からタテ三味線を弾くようになりました。公の記録があまりない人ですが、古風な音色と陰影に富んだ表現力を持った三味線弾きで、8世文字太夫や5世駒太夫と組んだ録音も複数残しています。77年芸団協芸能功労者。常磐津協会の常任理事でもありました。

2世 常磐津文昭3世 常磐津東蔵
(1934-現在)
常磐津節三味線方。10歳ごろに母に手ほどきを受け、その後8世文字太夫に入門。52年に伯父の名である文昭太夫を2代目として襲名し、浄瑠璃方として歌舞伎などに出ますが、後に三味線方に転向して文昭を名乗り、76年に3世東蔵を襲名しました。演奏の他に作曲面でも積極的に活動。2005年旭日双光章。


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清元節
1814年に初世清元延寿太夫(1777-1825)が江戸で語り出した浄瑠璃。常磐津節と同じく宮古路豊後掾の系統から生まれた浄瑠璃で、優艶・洒脱な芸風で人気を博しました。現在では長唄・常磐津・竹本(義太夫)と並び、歌舞伎におけるもっとも重要な音楽の一つとなっています。高音を効果的に使った技巧的な発声と節回し、艶と丸みを強調した語りが特徴で、三味線は中棹の中でも棹が細めのものを使い、澄んだ美しい音色を好み、声楽の邪魔にならないよう音量は控えめです。

《北州》
本名題「北州千歳寿(ほくしゅうせんねんのことぶき)」。作詞は幕臣にして狂歌の名人でもある大田蜀山人(=大田南畝 1749-1823)、作曲は元吉原芸者で清元の名人だった川口お直(?-1845)です。文化13(1816)年に全焼した吉原の再建を祝し、2年後の文政元(1818)年に開曲されました。内容は吉原の四季と年中行事を並べたもの。清元の代表曲のひとつであり、祝儀曲として非常に大切にされています。本調子→三下り→本調子。
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『古典芸能ベスト・セレクション 名手・名曲・名演集 清元』Disc1(日本伝統文化振興財団VZCG-8523)ほか収録
浄瑠璃:清元延寿太夫/三味線:清元栄寿太夫、清元正寿郎(上調子)
[解説]
戦前の清元を代表する名人・5世清元延寿太夫の独吟。原盤のSPレコードは1933年1月の発売。繊細高雅な浄瑠璃と豪快な三味線が、独特の味わいを醸し出します。近代の清元のベースはこの人によって作られた、と言えるほどの至芸を堪能できるでしょう。
演奏者解説

5世 清元延寿太夫
(1862-1943)
戦前の清元節浄瑠璃方で、清元宗家の家元。本名は斎藤(後に岡村)庄吉、東京出身。1872年に横浜の富貴楼に預けられて清元と出会い、76年より三井物産に勤めつつ清元菊寿太夫に入門。90年に4世清元延寿太夫およびその妻お葉の養子となり、翌年3世栄寿太夫を名乗ります。お葉らの指導を受けつつ97年に家元として5世延寿太夫を襲名。美声と格調高い芸風で知られた戦前期の名人で、時流に合わせて清元の語り方を上品に改め、また曲の扱いや流派の習俗などにも改革をもたらしました。《幻椀久》などの作曲もあります。

4世 清元栄寿太夫
(1895-1939)
清元節演奏家。5世延寿太夫の長男。1917年に4世栄寿太夫を襲名。22年に5世延寿太夫が相三味線であった3世梅吉と不和を起こし、梅吉一派が脱退する事件があり、その後は父の三味線を弾くようにもなりました。浄瑠璃方としては上品な語り口を持ち、三味線方としては豪快で撥音の高い派手な演奏で人気がありました。将来を嘱望されていましたが延寿太夫の名を継ぐことなく早世しました。

清元正寿郎
(1904-1980)
清元節三味線方。本名は田崎新之助、東京出身。清元の一家に生まれ、16歳で3世梅吉に師事、翌年5世延寿太夫に入門。1920年に正寿郎を名乗ります。独特の撥捌きと大音、格調高い芸風の持ち主で、また古い曲を数多く伝承、清元高輪派を代表する名人のひとりでした。清元志寿太夫などと組んでのレコードも数多く残しています。

『清元栄三・清元美寿太夫 花吟集』(テイチクレコードGM-6043)収録
浄瑠璃:清元美寿太夫、清元幸寿太夫/三味線:清元栄三、清元美治郎
[解説]
1986年に発売された、清元栄三・美寿太夫兄弟が主演のレコード集。二人は当時若手のホープであり、この録音でも正統な伝承を守りつつ、清新な演奏を聞かせています。三味線の二人は残念ながら最近亡くなってしまいましたが、浄瑠璃方の二人は今でも活躍を続けています。
演奏者解説

清元美寿太夫
(1943-現在)
清元節浄瑠璃方。本名は小柳吉弘といい、深川出身。三味線の清元栄三は実兄。ともに清元の演奏家であった両親から手ほどきを受けた後、1951年から約2年間2世清元一寿郎のもとで学び、56年からは兄の師である3世清元栄次郎(栄寿郎)に師事、また6世延寿太夫にも教えを受けました。59年に美寿太夫の名前を許され、歌舞伎や演奏会、放送や録音に多数出演し、現在も高輪派の重鎮として活躍。美声と格調高い芸風を持ち、最も美しい清元を語れる太夫のひとりです。清元協会では経理と理事をつとめ、また宮薗節や地歌も修めています。88年第1回清栄会奨励賞、92年芸術祭賞、2015年芸術祭大賞・芸術選奨文部科学大臣賞。

清元幸寿太夫
(1943-現在)
清元節浄瑠璃方。本名は石塚正明、東京出身。1963年清元幸寿郎に入門し、73年より幸寿大夫を名乗ります。ワキ語りなどとして歌舞伎や演奏会に出演し、稀曲の演奏などにも実績があります。清元協会理事。また清元の他に長唄三味線を杵屋六美朗、一中節を菅野序柳に師事。さらに小唄を小唄幸子と竹枝せんに師事し、春竹利昭の名で小唄演奏家としても活躍を見せています。

清元栄三
(1936-2016)
清元節三味線方。本名は小柳泰一、清元美寿太夫は実弟。1948年から2世清元國太郎(後の2世一寿郎)の手ほどきを受け、中学卒業後の51年に3世栄次郎(栄寿郎)に入門、7年間の内弟子生活を送りました。52年に栄三の名を許され、翌年初舞台。清元の道に入るきっかけともなった栄寿郎を深く敬愛し、師の衣鉢を継いで「名古屋をどり」の地方を担ったことでも有名です。先輩である一寿郎や栄三郎の没後は高輪派随一の三味線方として数多くの舞台でタテ三味線を弾き、折り目正しい演奏を聞かせました。93年芸術祭賞、2003年には清元三味線の人間国宝に認定、06年旭日小綬章など栄誉も多数。99年に清元協会理事、後に副会長となりました。

清元美治郎
(1945-2021)
清元節三味線方。本名は花岡雅彌、大阪出身。母は清元延いく栄。1964年に清元寿國太夫に入門し、翌年美治郎を名乗って初舞台、2世一寿郎にも指導を受けました。68年にNHK邦楽技能者育成会第13期を修了。荻江節では荻江露延の名を許されています。創作邦楽研究会にて研修を積んだ経験から新作舞踊曲など創作面でも大きな活躍を見せました。90年第2回清栄会奨励賞、99年第3回ビクター伝統文化振興財団奨励賞(現・日本伝統文化振興財団賞)、2003年松尾芸能賞邦楽優秀賞、12年東燃ゼネラル音楽賞、13年度芸術選奨文部科学大臣賞、14年度芸術祭大賞など受賞も多数。切れが良く重厚な撥捌きと艶やかな音色、曲の解釈にも優れ、ベテランとしてこれからの活躍を大きく期待されていましたが、新型コロナウイルス感染症により急逝しました。


《梅の春》
文政10(1827)年、作詞者の長門府中藩藩主・毛利元義(1785-1843)が四方真門として狂歌の判者になった記念として作られた祝儀曲。作曲者は《北州》と同じく川口お直とする説が有力ですが、初世清元斎兵衛、あるいは初世清元延寿太夫の妻お悦とする説もあります。もとは演奏用の曲ですが、早くから日本舞踊各流で振り付けがされています。隅田川付近の春の情景を綴っており、20分程度の中にも春の華やかさが横溢する名曲として、《北州》と共に重んじられています。本調子→二上り→三下り。
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『コロムビア邦楽名曲セレクション20 清元』(コロムビアCOCJ-32445)ほか収録
浄瑠璃:清元延寿太夫、清元清寿太夫/三味線:清元栄寿郎、清元勝寿郎
[解説]
6世延寿太夫・栄寿郎のコンビによる録音。両者ともにあまり長生きでなかったこともあり録音の数は決して多くないのですが、その中の貴重な一品です。延寿太夫の清新な浄瑠璃と栄寿郎の艶やかな音色が素晴らしい、上品華麗な演奏です。
演奏者解説

6世 清元延寿太夫
(1926-1987)
清元節浄瑠璃方で、清元宗家の家元。4世清元栄寿太夫の長男で、本名は岡村清道。祖父の5世清元延寿太夫や清元栄寿郎について清元を学び、1941年に5世栄寿太夫を、48年に家元として6世延寿太夫を襲名。64年清元協会の創設にあたり会長に就任。病気もあって長いとは言えない生涯でしたが、父譲りの美声は高く評価され、多くの人の思い出に残る太夫でした。現在は息子が7世延寿太夫を継承して活躍中です。

清元清寿太夫
(1935-現在)
清元節浄瑠璃方。本名は佐川好忠、父は新内節の浄瑠璃方である富士松八名太夫。1951年に清元若寿太夫に入門し、56年より清寿太夫を名乗ります。53年からは6世清元延寿太夫および3世清元栄次郎(後の栄寿郎)に師事し、62年よりタテ語り。豊かな声量と線の太い声、確かな技術に支えられた貫禄あるゆったりとした演奏に魅力があり、現在も第一人者として活躍を続けています。2003年に清元浄瑠璃の人間国宝に認定、05年旭日小綬章。清元協会副会長。

清元栄寿郎
(1904-1963)
清元節三味線方。本名は宮川源次、東京出身。6歳から2世清元順三郎に師事。清元三二、東三郎を経て、1937年に3世栄次郎を襲名。若手時代から天才をうたわれ、5世延寿太夫のタテ三味線として活躍。48年以降は6世延寿太夫の三味線を弾き、若き家元を指導・補佐しました。53年に栄寿郎と改め、55年に清元三味線の人間国宝に認定。玉を転がすような美音と繊細な感覚を備えた演奏で有名で、特に志寿太夫との演奏は比類ない音楽的価値を備えたものと評価されています。後進の指導にも功績が大きく、6世延寿太夫以外にも三味線方の一寿郎・栄三郎・栄三、浄瑠璃方の清寿太夫や美寿太夫など数々の名人を育てました。《幻お七》など清元新曲の作曲、また大和楽の方面でも活躍。長くはない生涯の中で大きな遺産を残し、今なお敬愛され続ける一代の名人です。

清元勝寿郎
(1905-1978)
清元節三味線方。本名は川上彰久(謙三とも)、大阪出身。はじめは地歌の手ほどきを受け、その後1918年から野澤勝市に師事して義太夫三味線の稽古をし、20年に野澤勝三郎を名乗っています(後に義太夫の名人と言われた8世竹本綱大夫、10世竹澤彌七と同期です)。30年に清元に転向し、清元正寿郎に師事、32年に清元勝寿郎の名を許されました。後に栄寿郎にも師事。現在ではあまり目立たない人ですが実力は確かだったようで、タテ三味線を弾いた記録も残っています。


《四季三葉草》
清元節を代表する三番叟物の曲(曲名は誤植ではありません)。天保9(1838)年夏に初演されたと伝わり、三升屋二三治(1784-1856)作詞・2世清元斎兵衛(生没年不詳)作曲とされています。その名の通り一曲の中に四季折々の風物、特に花の名前をうたい込んでおり、洒落が効きつつも荘重さを備えた曲です。本調子→三下り→本調子→二上り→本調子。
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『復刻 清元志寿太夫全集』Disc4「座敷物(祝儀物)(一)」(日本伝統文化振興財団VZCG-8088)ほか収録
浄瑠璃:清元志寿太夫/三味線:清元栄三郎、清元菊三郎(上調子)/鳴物:田中伝一郎社中/笛:鳳声晴雄
[解説]
圧倒的な美声で一世を風靡した清元浄瑠璃の人間国宝・清元志寿太夫の全集におさめられた録音。タテ三味線の榮三郎は志寿太夫の長男で、こちらも清元三味線の人間国宝に認定されています。『志寿太夫全集』にはこの曲の他に清元の人気曲のほとんどがおさめられており、名人親子の芸の精髄を味わわせてくれます。原盤は1966年11月発売。
主な演奏者解説

清元志寿太夫
(1898-1999)
清元節浄瑠璃方。本名は柿沢竹蔵、横浜出身。1918年より清元延小家寿に、19年より2世清元喜久太夫に師事し松喜太夫を名乗ります。24年からは5世延寿太夫に師事し志寿太夫と改名。26年よりタテ語り。延寿太夫が病に倒れた後は高輪派の重鎮として、海外公演も含む数多くの歌舞伎興行・舞踊・放送・録音に活躍を続けました。表通りにまで聞こえたという豊かな声量、聞く者を圧倒する美声、目もくらむような高音から重々しい低音まで自在に操る声域の広さで、並ぶ者のない名人とうたわれました。56年に清元浄瑠璃の人間国宝に認定、61年芸術選奨文部大臣賞、68年芸術院賞、69年勲三等瑞宝章、78年NHK放送文化賞と栄誉も多数。78年芸術院会員、82年文化功労者。100歳まで現役で舞台に出続けた「最強」の太夫で、子や孫、曾孫に至るまで清元の演奏家を輩出しており、偉大な芸系の祖ともなっています。

清元栄三郎
(1927-2002)
清元節三味線方。本名は柿沢壽夫といい、志寿太夫の長男です。4歳から母の清元延香に手ほどきを受け、1933年に3世清元栄次郎(後の栄寿郎)に入門。東京音楽学校にて山田抄太郎の指導も受けています。44年に清元榮三郎の名を許され、66年に立格に昇進。豊かな音量と拍子感の明瞭な芸風で活躍し、父・志寿太夫とも息の良く合った演奏を聞かせました。76年からは母校である藝大にて講師をつとめました。現家元の7世延寿太夫にも薫陶を与えています。90年芸術院賞、96年清元三味線の人間国宝、99年芸術院会員。作曲も多数。

清元菊三郎
(1907-?)
清元節三味線方。本名は清水正平。清元和佐造に師事し、1938年に菊三郎の名を許されました。39年からは満州にて師匠活動を行い、46年に帰国してからは清元延寿太夫社中で活躍しました。


《青海波》
明治30(1897)年、5世清元延寿太夫の襲名披露に当たって江戸中村楼にて初演された祝儀曲。作詞は永井素岳(1852-1915)、作曲は2世清元梅吉(1854-1911)。曲名は清元宗家の定紋にちなんだもの。海の名所を四季の順に、東から西へとうたい込み、鼓唄や浜唄などの趣向も凝らした曲で、明治期を代表する名曲として人気があります。本調子→二上り→三下り→本調子。
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『コロムビア邦楽特選(32) 清元』(コロムビアCOCF-6882)ほか収録
浄瑠璃:清元登志寿太夫、清元政栄太夫、清元梅喜太夫/三味線:清元邦寿、清元梅蔵、清元梅之丞(上調子)/笛:住田長之助/小鼓:望月彦八郎/大鼓:望月彦四郎/太鼓:六合新三郎/蔭囃子:望月彦東治/狂言方:渡辺益次郎
[解説]
延寿太夫の一派と分かれた清元流(梅派)による録音。舞踊を強く意識した演出がなされていますが観賞用としてもすぐれており、爽やかで洒脱な雰囲気のある演奏です。
主な演奏者解説

清元登志寿太夫
(1919-1999)
清元節浄瑠璃方。本名は長谷川五郎。父が清元登志太夫、母が清元小寅という演奏家夫婦のもとに生まれ、母および3世清元梅吉(2世寿兵衛)に師事、1939年より登志寿太夫を名乗りました。梅派を代表する浄瑠璃方のひとりであり、美声で知られ、録音も数多く残しています。他の家族にも清元の演奏家が多く、兄は初世清元梅寿大夫、その子が清元三味線の人間国宝である4世清元梅吉です。

清元邦寿
(?-1975)
清元節三味線方。国立劇場の記録によると1927年から清元梅助の名で活動、60年に邦寿と改めたようです。梅派の中でもかなりの実力者だったようで、タテ三味線を弾いた記録や録音が非常に多く残っていますが、芸歴等に関しては記録があまりありません。高輪派にも同名の清元三味線方(?-2004 大谷桂三の兄弟)がいるのですが、その人とは別人のようです。


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新内節
18世紀の中頃に初世鶴賀若狭掾(1717-1786)が創始し、さらにその弟子である初世鶴賀新内(?-1810)によって音楽的に確立された浄瑠璃。常磐津・清元などと同様の豊後系浄瑠璃ですが、劇場ではなく遊里を演奏の場として発展しました。こってりしたクドキが延々と続くような悲恋の曲が多く、絞り出すような発声、甲呂を激しく交錯させる扇情的な語りで悲哀と粋を表現します。三味線は中棹で、声楽を活かすため独特の大間な弾き方になり、特有の上調子(高音(たかね))が細やかに絡みます。

《子宝三番叟》
三番叟物の祝儀曲。常磐津に同名曲がありますが、それとは全くの別曲です。文政期(1818-30)ごろ、初世鶴賀若狭掾の娘である鶴賀鶴吉(1761-1827)により作曲されたといわれています。舟唄や長持唄などを取り入れ、艶やかで賑々しい曲になっています。
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『古典芸能ベスト・セレクション 名手・名曲・名演集 新内』Disc2(日本伝統文化振興財団VZCG-8528)ほか収録
浄瑠璃:岡本文弥/三味線:岡本宮染、岡本宮之助(上調子)/笛:福原百之助/鳴物:望月長左久、望月左吉、堅田喜三久、望月良道
[解説]
新内節岡本派による演奏。憂いを含んだ浄瑠璃と三味線の音色が織り成す、格調高い祝儀の調べを楽しむことができます。
主な演奏者解説

4世 岡本文弥
(1895-1996)
新内節の浄瑠璃方で、岡本派の家元。本名は井上猛一、東京出身。最初は母の鶴賀若吉(後の3世岡本宮染)に、次いで7世富士松加賀太夫に新内を学び、1913年より加賀路太夫を名乗ります。23年に岡本派を再興、岡本宮太夫と名乗り、後に文弥と改名。30年頃から積極的に新内の新作を発表するようになり、《西部戦線異状なし》《太陽のない街》など左翼的な作品で「プロレタリア新内」と呼ばれて評判になりました。その後舞踊のための新内作曲なども手掛け、戦後は新内の普及と古典の保存に尽力、57年に「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財保持者」に認定されました。若い頃は文学青年で、出版社で編集の仕事もした経験があり、新内研究著書の執筆や随筆、俳句の方面でも活躍。57年芸術選奨文部大臣賞、68年紫綬褒章、74年勲四等旭日小綬章など栄誉も多数。新内の洒脱な雰囲気、高度な声楽的技巧を体現しつつも飾ったところを感じさせない芸風で、100歳まで演奏・創作活動を続けました。

4世 岡本宮染
(1905-1978)
新内節三味線方。本名は延島せつ、東京出身。12歳で富士松加賀八(後の鶴賀若吉、3世宮染)に入門(後に養女となりました)、八十秀の名を許され、また富士元喜鶴から古典曲を学びました。岡本派再興後は岡本せつ子、初世岡本宮之助を経て4世岡本宮染を襲名。岡本文弥の50年来の相三味線として新作や古典の演奏に従事。妥協のない芸を持った本格派の実力者として高く評価されました。

2世 岡本宮之助5世 岡本宮染
(1911-2005)
新内節三味線方。本名は佐野志津子(しづ子)、名古屋出身。花柳界に育ち、10歳頃から長唄や小唄、端唄、舞踊などを学んでいました。1946年に岡本文弥と結婚し、その後4世宮染に師事して新内を学びます。文弥と4世宮染の上調子を長年つとめ、4世宮染没後の80年に5世宮染を襲名。90年には岡本派の家元を継ぎました。公私にわたって文弥と共にあり、後進の育成にも熱心でした。下町文化賞受賞。


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一中節
もと僧侶の音楽家・初世都太夫一中=都一中(1650-1724)が17世紀の終わり頃に京都で語り始めた浄瑠璃。後に中心地が江戸に移り、化政文化期に江戸風のテイストを加えつつ主に座敷芸として発展しました。ほぼ同じ頃に大坂で生まれた義太夫節よりも旋律性が豊かで、温雅重厚、上品な浄瑠璃とされています。常磐津や清元などの豊後系浄瑠璃は一中節から派生したものであるため、近世三味線音楽の大きな母胎としての歴史的価値も持つ音楽です。現在は都・菅野・宇治の3派に分かれ、それぞれの特徴を守りつつ伝承されていますが、演奏機会・演奏者共に少ない「古曲」のひとつとなっています。

《都若衆万歳》
元禄15(1702)年に大坂竹本座で初演された「富貴曾我」という芝居の五段目を、初世都一中が脚色したものと考えられています。内容としては万歳のうたうもの尽くしで、当時の京都の若き舞台俳優の名を並べ、最後は馬揃えになって終わります。最初は本調子で出ますが途中で二上りになって最後まで通すという、浄瑠璃としては少し珍しい仕立てになっています。一中節のおさらい会(都、菅野派)では「お馬」と称し、締めの演目として最後の馬揃えの部分だけを出演者全員で演じるという形で出されることがあります。
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『一中節古典名作選』(テイチクGM6021)収録
浄瑠璃:都一いき/三味線:都一中
[解説]
都派の人間国宝のコンビによる演奏。一挺一枚という最低限の編成で、一いきの美声と11世一中の抑揚豊かな三味線による一中節の芸の精髄を味わうことができます。原盤は一いき・一中の演じる古典一中節12曲をおさめたLPレコード全集で、1982年の発売です。
演奏者解説

都一いき
(1926-1997)
一中節浄瑠璃方。本名は星野伊基子。6歳より杵屋栄左衛門に師事して長唄を学び、1948年より杵屋栄基衛を名乗ります。55年にはNHK邦楽技能者育成会の第1期生となりました。同年11世都一中に入門し、59年より一いきを名乗りました。81年芸術選奨、96年一中節浄瑠璃の人間国宝に認定。張りと艶のある美声が特徴で、また弾き語りもよくしました。他に荻江節で荻江寿々野の名を持っていました。

11世 都一中
(1906-1991)
一中節三味線方。本名は小林清子。10世都一中を父、都一梅を母として東京に生まれ、6歳より長唄を学んだのをはじめ、後に河東節・宮園節・荻江節を片山ふさ(3世宮薗千之)に、河東節の特に上調子を山彦八重子に、地歌を富崎春昇に学び、幅広い三味線音楽を修業。一中節は19歳から都一花に師事して1935年に都仙卜(せんぼく)を名乗り、その後2世都一広に師事、48年に都派11世家元として一中を襲名。62年古典会の理事、82年に理事長に就任。一中節の正統を正しく継承した格調高い三味線の演奏で高く評価され、73年芸術選奨文部大臣賞、83年モービル音楽賞、芸術祭での受賞も多数。84年には一中節三味線の人間国宝に認定されました。《雪まろげ》などの作曲もあります。新橋の料亭「喜ん楽」の経営者でもありました。


《松襲》
一中節中興の祖・初世菅野序遊によって文化元(1804)年に作曲されたと考えられる歳旦浄瑠璃。作詞は栄志(歌舞伎作者の三升屋二三治)。松にことよせた吉原賛歌という趣の曲で、一中節の特色であるイロコトバの使い方や合の手の作曲に特色があります。一中節宇治派では「丁固」と称し、おさらい会の締めとしてこの曲の最後を演奏する習わしがあります。本調子→三下り→本調子。
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『一中節名作選―都・菅野・宇治 三派による―』(テイチクGM6032)収録
浄瑠璃:都一すみ、都一暁/三味線:都斎中、都一たみ(上調子)
[解説]
11世都一中門下の若手演奏家(現在はベテラン)による録音。浄瑠璃にしてはやや調子が高めですが格調のある演奏になっており、特に合の手における本手と上調子の鮮やかな合奏は聴き応えがあります。録音年月日は1985年8月6日。ちなみに原盤はその名の通り、三派それぞれを代表する演奏家による古典曲を収録したLPレコード全集で、演奏機会の少ない曲もおさめられた貴重なものになっています。
演奏者解説

都一すみ
(1947-現在)
一中節浄瑠璃方、山田流箏曲家。本名は川村京子、東京出身。10歳で箏の稽古を始め、藝大邦楽科にて中能島欣一に師事し、1972年同大を卒業。一中節は11世都一中に師事し、75年都一すみの名を許されています。他に4世宝山左衛門および福原徹に笛を習い、98年に福原百紫草の名を許されています。現在は山田流箏曲家として本名で活動することが多く、演奏会やラジオ放送などに出演しています。

都一暁
(1949-現在)
一中節浄瑠璃方、長唄囃子方。本名は坂田暁美、東京出身。1972年に藝大邦楽科長唄囃子専攻を卒業、在学中に安宅賞を受賞。一中節を11世都一中に師事し、75年都一暁の名を許されました。囃子では4世宝山左衛門と5世藤舎呂船に師事し、2008年に伊和家暁美を名乗っています。他に長唄では杵屋勝一瓔の名を持ち、また舞踊を西川扇蔵に師事しています。現在は囃子方としての活動を中心に行っており、鳴和会を主宰、演奏会などに出演を続けています。

都斎中12世 都一中
(1952-現在)
一中節および常磐津節の三味線方。都派の現家元。常磐津で登場した常磐津子之助=2世常磐津文字蔵と同一人物です。1975年より11世都一中に師事、82年に都斎中の名を許され、さらに91年に12世一中として一中節の家元を継承。一中節の普及活動に最も熱心な演奏家のひとりであり、演奏会や放送・録音への出演多数、都一中音楽文化研究所理事長として動画配信も行っています。長男の都了中も一中節浄瑠璃方として活躍中。

都一たみ
(1949-現在)
一中節および清元節の三味線方。本名は大熊愛子、東京出身。はじめ清元節を清元美治郎に師事して清元延美葉。一中節は11世都一中に師事し、1982年に都一たみの名を許されています。他にも東明流で東明吟美、小唄で千紫多己の芸名を持っています。現在は清元節三味線方としての活動を中心に行っており、演奏会やラジオに出演を続けています。


***

河東節
1717年に初世十寸見河東(1684-1725)によって創始された浄瑠璃。浄瑠璃には上方発祥、あるいはルーツが上方にあるものが多いのですが、河東節は江戸生まれの江戸育ち。《助六》だけは歌舞伎に出演しますが、基本的に座敷芸として富裕な町人などに喜ばれました。純江戸風の粋な音楽で、渋く力強い節回しが身上。三味線は長唄とほぼ同様の細棹ですが、その音色は力強くかつ柔らかく、また独特のスクイやハジキ、「ハオー」という威勢の良い掛声を特徴としています。現在は演奏者が少なく、「古曲」のひとつとして保存・伝承に努力が払われています。

《松の内》
この曲から河東節の歴史が始まったという曲。享保2(1717)年に江戸市村座にて初演されました(ただし詳細な状況は未詳)。作詞は竹婦人またはつるみ一魚。作曲については梅都で前弾作曲が山彦源四郎とする史料があります。吉原遊郭の松の内を題材にしたもので、羽根つきに興じる遊女や新年の遊びに浮かれる客の様子などが描かれています。曲中に一中節の要素を取り入れて上品さを加えているのも特徴。本調子→二上り。
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『河東節全集』Disc11(ソニー・ミュージックダイレクトMHCL-2723)ほか収録
浄瑠璃:山彦節子、山彦綾子/三味線:山彦河良、山彦光子、山彦貞子(上調子)
[解説]
1978~79年にCBSソニーから発売された『河東節全集』を、河東節創流300周年を記念し2017年にCD12枚組で復刻した全集に収録。第一人者による規範的演奏で、他の媒体にも採録されています。1975年11月26日の録音です。
演奏者解説

山彦節子
(1920-2018)
戦後の河東節を代表する浄瑠璃方。本名は小林峯子。最初は常磐津を学び、1940年に常磐津峰衛の名を許されています。河東節は6世河良に師事し、58年より山彦節子の名で活動。河東節の現行41曲を全て伝承、力強い語りと節回しで河東節の本質を高度に体現した存在でした。他に荻江節で荻江せつの名を持ち、こちらでもタテ唄として業績を残しています。89年芸術選奨文部大臣賞、94年河東節浄瑠璃の人間国宝に認定。十寸見会3代目技芸総代もつとめました。

山彦綾子
(1913-?)
河東節浄瑠璃方。本名は原田綾子。初めは清元を学び、1936年に清元延加寿栄の名を許されました。河東節は2世山彦文子(ぶんし)に師事し、1940年より山彦綾子として活動。他にも一中節で都一和、荻江節で荻江あや。現在の消息は明らかではありませんが、2000年頃まで演奏活動の記録があります。

6世 山彦河良
(1915-1980)
河東節三味線の第一人者。本名は飯箸ふみ子、芸名の読み方は「かりょう」。最初は常磐津節を学び(1938年に常磐津文衛)、河東節は山彦秀子と2世山彦文子に師事し、40年に山彦ふみ子を名乗ります。河東節以外に宮薗節や荻江節(荻江ふみ)なども習得。58年に山彦ふみ子から6世河良を襲名しました。堂々たる体躯から繰り出される柔らかくかつ芯の通った音色、華やかで力強い掛け声が特徴で、広範な芸の知識に裏付けられた豪華な三味線は河東節再興の大きな力となりました。71年より十寸見会2代目技芸総代をつとめ、山彦節子ほか多くの後継者を育てました。67年芸術選奨文部大臣賞、77年モービル音楽賞。

山彦光子
(1900-?)
河東節三味線方。本名は皆川光子。初めは長唄(1926年に杵屋勝里久)、次いで小唄(47年吉村光子)を学びました。河東節は2世文子に師事、49年に山彦光子を名乗りました。他に宮薗では宮薗千葉、荻江では荻江光の名で活動しました。現在の消息は明らかではありませんが、1980年頃まで演奏活動の記録があります。

山彦貞子
(1916-2003)
河東節三味線方。芸名の読み方は「ていこ」。本名は齋藤俊子。初めは長唄を習い、1950年に杵屋和三貞。河東節は6世河良に学び、58年に山彦貞子の名を許されました。他に荻江(荻江貞)や東明流(東明桃舟)、小唄(蓼胡紫貞)など多くのジャンルで活動しました。


《海老》
作詞作曲者、作曲年代のいずれも不明。大時代な前弾で大曲の匂いをさせておきながら、「そもそも海老はひげ長く、目さえめでたかりける次第なり」と1分少々であっさり終わってしまう、という何とも人を食ったような曲です。全曲本調子。
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『河東節全集』Disc2(ソニー・ミュージックダイレクトMHCL-2714)ほか収録
浄瑠璃:山彦節子/三味線:山彦河良
[解説]
上と同じ『河東節全集』に収録。おそらく市場に出回った唯一の《海老》の録音ではないでしょうか。節子・河良というツートップの組み合わせで芸の精髄を楽しめます。1976年3月30日録音。演奏者については既述につき省略します。

***

宮薗節
18世紀、宮古路豊後掾の高弟であった初世宮古路薗八(生没年不詳)が語ったものを弟子の2世薗八、後の宮薗鸞鳳軒(?-1785)が発展させる形で成立した浄瑠璃です。豊後系浄瑠璃の系統に入りますが、しっとりとしめやかな曲調を特徴としています。三味線の付き方は非常に控えめで、合の手はほとんどなく、艶のある沈んだ中棹の音色が奥ゆかしい味わいを醸し出します。江戸時代からの伝承曲は《鳥辺山》《桂川連理柵》《夕霧》の3大名作をはじめわずか10段ですが、明治以降の新作もあります。現在は「古曲」のひとつで、演奏者・演奏機会共に少ない音楽になっています。

《薗生の春》
事情あって明治政府からの公認を得られていなかった宮薗節が4年前に公認されたのを記念し、明治21(1888)年に作曲された祝儀曲。作詞は大槻如電(1845-1931)、作曲は「名人おさな」として知られた2世宮薗千之(1835-1909)。11分程度と短い中に宮薗のエッセンスを詰め込んだような曲で、新曲らしく合奏効果の工夫された合の手もあります。
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『宮薗節 心中雪解朝/道行相合炬燵/薗生の春』(キングレコードKC1013)ほか収録
浄瑠璃:宮薗千之/三味線:宮薗千富、宮薗千愛(替手)
[解説]
人間国宝・宮薗千之の録音。柔らかく穏やかで、それでいて芯の通った語り口と、控えめで優しい音色に魅力のあふれる演奏です。原盤がLPレコードなので非常に手に入りにくいのが難点、というより宮薗の録音全般が見つかりにくいのですが、ぜひ一度は聞いてみてほしい歌声です。
演奏者解説

4世 宮薗千之
(1891-1977)
宮薗節浄瑠璃方。本名は轟はん、長野出身。幼少期より義太夫と清元を稽古、後に2世常磐津文字兵衛に常磐津を学び、1913年より常磐津小助を名乗ります。16年頃から都一梅について一中節を学び、都一はんの名を許されています。宮薗節は20年頃に3世宮薗千之に入門し、27年に3世千秀の名を許され、53年に4世千之を襲名。情にあふれた宮薗の語り口は天下一品とうたわれました。54年芸術祭奨励賞、60年に宮薗節浄瑠璃の人間国宝に認定、66年勲五等宝冠章。常磐津の演奏家としても有名でした。作曲に《心中雪解朝》など。

宮薗千富
(1885-1963)
宮薗節三味線方。本名は轟とみ、4世千之の姉。幼少より長唄、義太夫、清元を学び、後に常磐津を学んで1913年より常磐津小春を名乗ります。16年頃から都一梅について一中節を学び、都一とみの名を許されています。宮薗節は20年頃に3世宮薗千之に入門し、27年に千富の名を許されました。柔和で穏やかな人柄を映したような三味線の弾き手であり、宮薗本来の滲むような味わいを特によく体現しました。妹と同様、常磐津の演奏家としても有名でした。

宮薗千愛
(1909-1999)
宮薗節三味線方。本名は早川志津子(または静)。幼少より義太夫を修業し、豊竹駒太夫、野澤勘治、2世野澤喜左衛門、野澤勘治郎、竹本綱大夫、鶴澤重造らに師事。宮薗節は1953年頃から4世千之に師事し、57年に千愛の名を許されました。他に小唄で吉村小定の名も持っていました。千富の没後には4世千之の相三味線となり、4世千之没後は千之派の代表として演奏会や放送に活動を続けました。弟子もいましたが宮薗を表芸とする後継者が出なかったため、千之派の伝承は実質的に千愛の死去をもって絶えたとみなされることが多いようです。


***

荻江節
初世荻江露友(?-1787)という音楽家を流祖とする歌いもの音楽。初世露友はもと長唄の唄方で、市村座のタテ唄だったのですが、ある時吉原遊郭の男芸者にジョブチェンジ(理由は諸説あります)。彼は自身の芸をお座敷向けに工夫し、その唄が吉原で人気となって、主に吉原の男芸者の芸として広まっていきました。この経緯からも分かる通り元は長唄の亜種として扱われていましたが、後世に独自曲の創作や演奏法の工夫を重ね、一ジャンルとして確立されました。繊細な唄い方を特徴とし、三味線は地歌風のおとなしい音色で、お囃子は入りません。23曲が古典として現行していますが、演奏の機会や伝承者が少なく、保存に努力が払われている「古曲」のひとつです。

《松》《竹》《梅》
荻江節には「松竹梅」という単独の曲があるわけではなく、松・竹・梅それぞれに曲が作られています。4世荻江露友(1836-1884)作曲とされ、吉原俄のための曲ではないかという説もありますが、詳細は不明です(そもそも全くの旦那芸であったと伝わる4世露友に作曲ができたのかも疑問)。それぞれ独立して演奏することもあれば、間に適宜合の手を足して連続演奏する場合もあります。《松》は位取りが重視され、家元あるいはそれに準ずる人が演じるものという口伝のある曲。《竹》は能の雰囲気と、真っ直ぐな竹の持つ素直な印象とを表現するべきといわれています。そして《梅》は春ののどかな感じとほのかな色気が演奏に表れなければならないとされています。
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『ビクター舞踊名曲選(29) 荻江節』(日本伝統文化振興財団VZCG-64)ほか収録
唄:荻江露友/三味線:荻江露光、荻江露英(「竹」のみ)
[解説]
戦後を代表する荻江節の演奏家・5世荻江露友の独吟による録音。豊麗な三味線の音色に乗せ、力強く、格調高く歌い上げられた荻江節の神髄を味わうことができます。
演奏者解説

5世 荻江露友
(1892-1993)
荻江節唄方。本名は前田(旧姓佐橋)すゑ。はじめ長唄、清元、囃子を学び、荻江節は姉の荻江章(後の露章)に師事。57年に5世宗家として荻江露友を襲名。長唄や清元など他流の演奏家を多く弟子に持ち、荻江節真守会を主宰して荻江節の勢力拡大に尽力。高い格調を備えた唄が高く評価され、67年芸術祭奨励賞、68年芸術選奨文部大臣賞、71年芸術院賞、同年芸術院会員。新曲も多く作りました。夫は日本画家の前田青邨。

2世 荻江露光
(1922-?)
荻江節の三味線方。本名は奥野英男。はじめ長唄を6世岡安喜三郎に学び、1941年に岡安喜一郎を名乗ります。荻江節は5世露友に師事し、55年より荻江露光を名乗りました。67年に荻江節の分家家元となりました。

荻江露英
(1932-1985)
荻江節の三味線方。本名は深山雅也。はじめ3世杵屋栄蔵に長唄を学び、1953年より杵屋栄三郎を名乗ります。荻江節は5世露友に師事し、58年より荻江露英を名乗りました。現代作曲家連盟に加入するなど古典演奏にとどまらない活動に意欲を示しましたが夭折しました。


***

端唄(俗曲)・小唄・うた沢
「端唄」は江戸時代後半に庶民の間で流行した小編の三味線歌曲(寄席的な演奏法による場合は「俗曲」と呼ばれることもあります)。天保の改革で庶民の三味線の稽古が禁止され(1842年)、1850年代に取り締まりが弛緩するまで庶民に三味線のブランクができたことで、短く演奏の簡単な端唄の人気が高まったともいわれています。端唄ブームの中で愛好者による端唄同好会が数多く誕生し、その中には家元制を敷いた組織にまで発展するものもありました。特に隠居旗本の笹丸(後の歌沢笹丸、1797-1857)を中心とした「歌沢連」(「唄のおさわ」とあだ名された師匠に因んだ名とも言われます)は有力で、彼らの芸は後に「歌沢節」として一ジャンルを確立するに至り、流派分裂などを経て「うた沢」と呼ばれるようになりました。さらに端唄の流れから出た芸能に「小唄」(江戸小唄)があり、明治~大正期にかけて主に花柳界の女性たちが座敷芸として発展させました(小唄は清元の演奏家の余技から出たという説もあり、特に幕末~明治初期の名人・清元お葉(1840-1901)が大きな役割を果たしたといわれます)。
音楽上の特徴は、端唄はあまり技巧を凝らさないさっぱりとした唄い方で、三味線は長唄とほぼ同様の細棹で撥を使って弾き、最近は演奏会用にお囃子を合奏させることもよく行われます。うた沢は一中節を模範に取ったこともあり、テンポが緩やかで上品な趣があります(現在は演奏機会の少ない音楽です)。小唄は発声や節回しにかなり技巧を凝らす傾向があり、座敷芸であるため声量を重視せず、つぶやくような唄い方をします。また「早間小唄」という別名からもわかる通りテンポは急速で、長い曲でも3分とかかりません。小唄の三味線は多くが中棹で、撥を使わずに爪弾きしまろやかな音を出すのが特徴です。
曲のレパートリーや主題は極めて多様で絶対数も多く、江戸時代や明治初期からの多くの曲目とともに、新作も膨大な数があります。端唄・小唄・うた沢共通の演目も多数あり、庶民的歌謡、流行歌として伝えられてきたゆえか、江戸時代や明治初期ごろから伝わる古典的演目には作詞作曲者や成立年代不明のものが多いようです。

《梅は咲いたか》
江戸初期に生まれ、明治初期に改めて流行した「しょんがえ節」という俗謡をもとに作られたという端唄・小唄。明るく色っぽい歌詞と曲調でお座敷歌として人気の曲です。本来は芸妓の様々な様態を草花にたとえて歌ったものですが、「梅は咲いたか、桜はまだかいな」という歌い出しに春の気分があることから新春を寿ぐ演目としてもよく出されています。全曲本調子。
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『コロムビア邦楽シリーズ 端唄 藤本二三吉』(コロムビアCOCF-11664)ほか収録
唄:藤本二三吉/三味線:小静、きん/鳴物連中
[解説]
端唄のもっとも代表的な名手で、その芸術的地位を確立したと定評のある藤本二三吉の演奏。もと葭町の芸妓(俗にいう「芸者さん」です)で、数多くのレコードを吹き込み人気歌手となった二三吉は、後に端唄に代表される江戸芸の大家となりました。端唄の代表曲で粋を極めた名手の芸を堪能できる、短いながらも贅沢な録音です。
主な演奏者解説

藤本二三吉
(1897-1976)
昭和時代に主に活躍した芸妓、歌手。本名は藤本婦美、東京の浅草出身。1915年から二三吉の名で葭町の芸妓として売り出し、24年に「ストトン節」などレコードを初吹込み。その後29年の『浪花小唄』、30年の『祇園小唄』などがヒットして人気歌手となりました。32年ごろから後輩の芸者歌手との競争が激しくなると端唄や小唄など古典芸能を中心に活動するようになり、特に端唄は晩年まで第一人者の地位にあり続けました。豊かな声量、歯切れの良い発音を持ち味とし、芸妓時代に常磐津三蔵に師事して修業した常磐津をベースに鍛えた歌声には独特の艶がありました。68年紫綬褒章、75年勲四等瑞宝章。

三味線の小静きんは二三吉の実姉です。


《初春》
「初春や」とも。全曲三下り。江戸時代から伝えられる端唄で、門松や正月飾り、獅子舞などおめでたいものを最初から最後まで並べ、数え歌の趣向も入れつつ明るい曲調でまとめています。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『御祝楽 お祝い邦楽決定版』(キングレコードKICG3239)ほか収録
唄:根岸登喜子/三味線:藤本琇丈、藤本秀花/笛:福原由次郎/鳴物:梅屋市之助、梅屋右近
[解説]
端唄演奏に大きな改革をもたらした名人・根岸登喜子の演奏。よく響く甲高い美声が、おめでたい曲調に良く合っています。三味線の初世藤本琇丈もこの分野での三味線の名人であり、両者ともに大きな芸の流れを生み出しました。
主な演奏者解説

根岸登喜子
(1927-2000)
昭和~平成期の端唄演奏家。東京に生まれ、幼少期から長唄や東明流などを稽古。終戦前後に蓼胡寸恵に入門して小唄を学び、1954年には蓼胡寸喜の名で小唄の師匠となります。同じ頃初世藤本琇丈のもとで民謡や俗曲を修得。64年にNHK邦楽技能者育成会を第9期生として卒業し、NHKテレビ「芸能百選」にレギュラー出演して人気を博しました。68年、他の端唄・小唄の名手らとともに新機軸の演奏会である「端唄の会」を結成。73年には端唄根岸流をおこして初代家元となり、端唄の教授に専念するようになりました。84年芸術祭優秀賞。夫は邦楽研究科の倉田喜弘。

初世 藤本琇丈
(1923-2006)
民謡・端唄・小唄の三味線方。本名は山田秀、東京出身。5歳で長唄、7歳で常磐津の三味線を稽古。最初は長唄三味線方として、5世杵屋和吉やその子息・2世杵屋勝之助に師事し、1941年より杵屋勝幸二の名で東宝邦楽部に所属し活動。戦後は生活のため端唄や俗曲の方面に転向し、48年頃から藤本二三吉に従い、藤本秀夫として活動。多くの検番の師匠をつとめつつ、51年からは初世蓼胡蝶に入門して小唄を習い、54年に蓼胡穣を名乗りました。うた沢も修め、73年には4世哥沢土佐芝金より3世哥沢芝梅の名を許されています。多くのジャンルの三味線を弾くことができ、なおかつそれぞれの分野で名人と認められました。多彩な演奏活動の傍ら多くの門弟を育て、その芸系は端唄・小唄・民謡の世界の一大勢力となっています。


《白扇》
「白扇の」「末広」とも呼ばれる小唄。昭和9(1934)年にとある銀行の重役の結婚を祝って作られたと言われる曲で、上田哥川亭(詳細不明)作詞、作曲は大正中期から昭和にかけて活躍した小唄作曲家・吉田草紙庵(1875-1946)です。夫婦の名を詠み込みつつ、全編をおめでたいもの尽くしで上品に綴っています。祝儀曲としてだけでなく、小唄舞踊の演目としても人気があるようです。全曲本調子。
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『御祝楽 お祝い邦楽決定版』(キングレコードKICG3239)ほか収録
唄:蓼胡津留/三味線:蓼胡穣(替手)、蓼胡津香/笛:福原由次郎/鳴物:望月孝太郎社中
[解説]
現在の小唄には100を余裕で超える数の「流派」があり、その中の2大勢力といえるのが「春日派」と「蓼(たで)派」。この演奏は蓼派最古参の演奏者によるもので、熟練の芸で魅せてくれます。鳴物については、基本的に小唄の演奏に入ることはないのですが、おそらく舞踊の地として使われることを意識した演出でしょう。なお、三味線の蓼胡穣は上の初世藤本琇丈と同一人物。小唄の三味線にも発揮した妙味を味わえます。
主な演奏者解説

蓼胡津留
(1906-1989)
昭和期の小唄演奏家。本名は竹内つる、東京出身。もとは福奴という新富町の芸妓で、持ち前の美声で長唄、清元、常磐津を得意とすることで有名でした。1924年に小唄・蓼派の門に入り、以来派の最古参のひとりとして活躍。豊かな声量と独自の節回しで古典から新曲まで幅広く唄いこなす小唄界の花形的存在で、77年には蓼派会の幹事長に就任、さらに日本小唄連盟副会長もつとめました。75年、紫綬褒章。


《高砂》
同名の能・謡曲にある〽高砂やこの浦舟に~」の一フシは結婚式等でよく謡われることで有名ですが、これに取材した三味線音楽の演目も多数あり、この端唄・うた沢もそのひとつです。江戸時代から伝えられている曲で、全曲三下り。格調高く、かつ潤いに富んだ曲です。
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『お祝い邦楽 特選』(日本伝統文化振興財団VZCG-523)ほか収録
唄:市丸/三味線:静子、豊藤/鳴物:堅田喜三久、望月太意次郎、望月太喜雄/笛:鳳声晴郷
[解説]
藤本二三吉の次の世代を代表する名歌手・市丸の演奏です。小唄勝太郎と並んでその芸と美貌で戦前期の歌謡界を風靡し、「情の勝太郎」に対して「智の市丸」と称されました。的確な間と華やかな美声で、上品に歌われた録音になっています。収録CDには他に「松づくし」「五万石」など、他にも市丸による祝儀端唄が収録されています。1982年に発売されたレコード『市丸端唄全集28 高砂/迎春』(ビクターOV-3182)と同じと思われますが、これが原盤かは不明です。
主な演奏者解説

市丸
(1906-1997)
昭和期を代表する歌手、端唄演奏家。本名は後藤まつえ、長野県出身。浅間温泉で芸者見習いをしていましたが、芸で悔しい思いをしたことがきっかけで1926年に浅草に出て芸妓として修業、名妓であった清元延千嘉に師事。歌唱力を買われてレコード会社からスカウトされ、31年『花嫁東京』でデビュー、続く『ちゃっきり節』が大ヒット、その後も映画の主題歌『濡れつばめ』や『天竜下れば』などのヒットが続き、人気歌手としての座を揺るぎないものとしました。戦後も『東京ブギウギ』などで注目を集めつつ、1960年に江戸小唄中村派の家元となり、以後端唄・小唄の方面を中心に活動。美貌に加えて芸の研鑽にもことに熱心で、当時を代表する名妓のひとりでした。72年紫綬褒章、81年勲四等宝冠章。

三味線の静子は市丸の実妹。豊藤は大正~昭和期に画期的な業績を残した三味線豊吉の門下で、特に優れた実力を持っていた三味線弾きのひとりでした。


《梅にも春》
江戸浄瑠璃の太夫であった高橋桜州(?-1904)により作詞・作曲されたともいわれる端唄・うた沢。全曲本調子。若水汲みや鳥追いなど東京の正月の風景をうたいつつ、ほのかに恋の気分も盛り込んだ、さわやかで艶のある曲です。
☆おすすめ録音☆ 見る/隠す

『美空ひばり 端歌草紙』(コロムビアACE-7073)収録
唄:美空ひばり/三味線:豊静、豊藤/尺八:坂田宏聡/琴:山内喜美子社中/鳴物:堅田喜三久社中/編曲:山路進一
[解説]
《悲しい酒》《川の流れのように》《愛燦燦》などの名曲で有名な”あの”美空ひばりが唄う端唄です。東大長研のブログに登場するのは場違いに思われるかもしれませんが、実は端唄・俗曲の名手でもあり、いくつかのレコードも出しています。歌謡曲で披露したような表現力は発揮される余地のない曲目ですが、やはり美声と歌唱技術の高さは疑うべくもありません。伝統的でありながら面白い演出が加えられているのも楽しく聴ける演奏です。原盤は1974年12月の発売です。
主な演奏者解説

美空ひばり
(1937-1989)
昭和・戦後の歌謡界を代表する歌手。本名は加藤和枝、横浜の出身。幼少期から歌を愛し、優れた歌唱力で天才少女とうたわれ、1946年に初舞台。天才少女歌手としてコロムビアから発売したレコードや出演した映画が次々とヒットし、時代を代表する人気歌手となりました。生涯に1000曲以上のレコードを吹き込み、晩年までステージに立ち続けました。声量、音域、歌唱の技術はまさに圧倒的、陰影豊かな表現力に富んだ歌声はまさに「歌謡曲の女王」の称号に相応しく、没後に国民栄誉賞を追贈されました。

三味線の豊静は、既述の豊藤と同様三味線豊吉の高弟です。


***

いかがでしたか? ここに取り上げたのはほんの一部であり、ここに挙げられなかった曲やジャンルもたくさんあります。ぜひここに挙げた曲や録音から、色々な三味線音楽を味わっていただければと思います。

本稿をお読みの皆様の2022年が、幸せなものとなりますように……

***

主要参考資料
『日本音楽大事典』平凡社1989
『平成28年版 歌舞伎に携わる演奏家名鑑』伝統歌舞伎保存会2016
『歌舞伎に携わる演奏家名鑑 思い出の演奏家たち』伝統歌舞伎保存会2020
九世常磐津文字太夫[監修]・竹内有一[編著]『常磐津節演奏者の経歴に関する調査報告書2017年度 常磐津節演奏者名鑑 第7巻 近代5:明治期から昭和期まで(下)』常磐津節保存会2018
各種録音資料解説書

※筆者の勉強不足に加え、気軽に図書館等に赴くのが難しい昨今の情勢もあり、特に一部の録音の演奏者について不充分な記述が多数あります。あらかじめお詫び申し上げるとともに、コメント欄などでの情報提供も歓迎いたします。

December 18, 2021

徒然長唄記 《島の千歳》 ~堅田喜三久師の思い出を添えて~

コロナ第5波が終息したかと思いきや新たな変異株にまた脅かされている今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。東大長研は秋から少しずつ活動を再開し、集中稽古や11月14日の三鷹邦楽会へのOBの出演、そして念願だった定期演奏会の開催にまでこぎつけることができました。何かと思うに任せなかった時期を経て、当日は140人ものお客様をお迎えすることができ、出演者の側としても感無量であります。ご来場をたまわったすべての方に、この場を借りて御礼申し上げます。

そんな状況の中ですが、今回は追悼の記事をお届けします。昨年(2020年)の12月17日、長唄鳴物の人間国宝で、稀音家六綾先生主宰の「希扇会」でも長らく作調と囃子を担当されてきた堅田喜三久師が急逝されました。代々続く囃子方の名門一家に生まれ、若い頃から「囃子界の麒麟児」として活躍、無数の舞台でその名人芸を披露して来られました。希扇会のICU・東大長研大合同の演目でも毎回欠かさず鳴物を打ってくださっていた師は、両長研にとって最も身近な人間国宝でした。

今回は師の一周忌に合わせ、その比類ない名人芸をしのぶ上で最適の演目である《島の千歳》を取り上げます。

***

《島の千歳》
本名題「島の千歳」(しまのせんざい)
作詞大槻如電(1845-1931)
作曲5世杵屋勘五郎(1875-1917)
初演明治38(1905)年4月1日 東両国伊勢平楼
調子三下り→本調子→二上り
囃子小鼓一調(笛など入ることあり)
人数独吟(2挺1枚)~3挺3枚程度?
演了約15分

歌詞を見る / 隠す

〈三下り〉〔前弾〕〽丹頂緑毛の色姿、朝日うつろう和田津海、蓬が島の千歳が、謡う昔の今様も、〔合〕変わらぬ御代の御宝、鼓腹の声々打ち寄する、〽四方の敷波、立つか返るか、返るか立つか、返す袂や立烏帽子。
〈本調子〉〽水のすぐれて覚ゆるは、西天竺の白鷺池、しんしょう許由に澄み渡る、昆明池の水の色、行く末久しく澄むとかや、賢人の釣りを垂れしは、厳陵瀬の河の水。
〈二上り〉〽月影流れ洩るなる、山田の筧の水とかや、葦の下葉を閉ずるは、三島入江の氷水、春立つ空の若水は、〔七種拍子の合方〕〽汲むとも汲むとも、尽きもせじ尽きもせじ。

***

「しまのちとせ」と読みたくなる曲名ですが、正しくは「しまのせんざい」。これは『平家物語』にその名が見える、白拍子の元祖とされている遊女のことです(注1)。彼女が謡う今様(平安末期ごろの流行歌)を引き出しに、唐天竺や日本の水のめでたさをうたったもので、ご祝儀曲のひとつです。

この曲は1905年4月1日、4世望月長九郎が7世太左衛門(注2)を襲名し家元となるのを記念して作られ、両国の料亭である伊勢平楼(後の日本美術倶楽部本社ビル)にて初演されました。作詞は明治~昭和初期の学者・著述家である大槻如電、作曲は明治時代に新風を吹き込む作品を多く残した名人・5世杵屋勘五郎です。

和漢洋の学問に広く通じた作詞者の手によるだけに、歌詞には漢語が多用され高尚な雰囲気があります。作曲も高雅で上品であり、エリートの参画が進んだ明治期の長唄らしい特徴を備えています。演奏時間、要求人数は長唄の中で標準的というところ。元は素唄として作られた曲ですが、後に振り付けもされ、舞踊の会でも多く上演されるようです。

以上あらましを書きましたが、この曲のポイントとなるのは7世太左衛門というたった一人の囃子方のために作られたということです。この曲は何よりもお囃子の編成が変わっていて、基本的に小鼓一調しか使いません。笛・小鼓・大皷・太鼓の4種から編成されるのが普通の長唄囃子において非常に例外的(注3)であり、言わば小鼓協奏曲という仕立てになっています。

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曲は荘重な前弾から始まります。調弦は三下りですが、本調子で弾いているように聞こえるメロディーです。小鼓とうまく息を合わせつつ、格調高い曲の雰囲気をどれだけここで作り上げられるかが勝負の一つになります。

〽丹頂緑毛の色姿、朝日うつろう和田津海」は三味線なしで唄います。重々しく唄い上げるのが重要です。〽蓬が島の千歳が」から三味線が入り、その後は「七種拍子」という鼓の手、〽謡う昔の今様も~鼓腹の声々打ち寄する」までゆったりと演奏します。音域の幅が広く、鷹揚な印象のある部分です。

〽四方の敷波~返す袂や立烏帽子」は鼓のみを伴奏とした唄です。リズムと音程を独力で取らなければならないのはもちろん、重みをもたせて唄わねばならないので結構難しいです。〽四方の敷波、立つか返るか、返るか立つか」ではタタタ……ポポポ……という鼓の音が、寄せては返す波の様子を表現します。〽返す袂や立烏帽子」は謡ガカリ。入るタイミングがつかみにくく、かなりの難所と言えそうです。

鼓がイヤーと打ち上がったら、典雅な返し撥(注4)を効かせた短い手の後、天竺(インド)や唐(中国)の水のめでたさをうたう部分に入ります。この本調子の部分には小鼓が伴奏されません。その分唄の節回しはかなり工夫されており、たっぷり聞かせることができます。三味線は一見平凡な中にスクイハジキ、コキ上げ、ウラハジキなど凝ったテクニックが随所に使われていて、面白い手付になっています。

〽厳陵瀬の河の水」を流し撥で終えたら、トンと一撥で二を上げて(この一撥目から鼓と合わせなければならないのが大変)二上りになります。ここからはテンポが速くなり、華やかな感じになっていきます。〽月影流れ洩るなる」は付き方がやや特殊で唄がよく落っこちるので、三味線弾きは気を遣うとか。〽葦の下葉を閉ずるは」を「葦の下葉訪るは」という解釈で唄っていた人も昔いたようですが、1967年に新たに発見された『梁塵秘抄』の原本に「閉ずる」と書かれていることが判明したため、今はそう唄う人はほぼいません。

〽春立つ空の若水は」の後に入る七種拍子の合方は、三味線と鼓の掛け合いが特に面白く聞かれるところです。リズミカルな三味線の合間に「トントンタトトントンタトトン」「トンタトタットンタタストトントン」など表情豊かな鼓が入っていくのが実に小気味よいです。三味線の手付自体は平凡ですが、技巧的にはなかなか凝った合方です。途中「フ、ヨーイ」で入り直し(藤舎流ではこの掛け声がありません)、ウラハジキを巧みに使った手で盛り上げを見せます。その高揚感を維持したまま段切に入り、〽汲むとも汲むとも、尽きもせじ尽きもせじ」と立派に演じおさめます。

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作曲の経緯、曲の性質からして当然ですが、この曲で主役となるのはやはり小鼓です。唄三味線も音楽的に決して面白くないわけではありませんが、そちらは勘五郎の作品にしては割と凡庸という印象。彼の曲は他に《新曲浦島》《多摩川》などが有名ですが、これらに共通する変わった調弦、トリッキーな指・糸遣いといった特徴も見られません(とはいえ所々に細かな技巧を散りばめてあり、やはり勘五郎作品といえるだけの面白さを備えてはいます)。この曲の魅力、個性は小鼓をメインに据えたことにこそ見出されるわけで、同様のコンセプトを持つ古典曲は他に例を見ません。

したがってこの曲、お囃子なしでの演奏はまず考えられません。お囃子が活躍する曲はたくさんあっても、ほとんどの場合唄三味線だけでも演奏は成立するのですが、この曲はお囃子が無くなってしまうともはや形無し。ワサビのない寿司どころか、もはやネタのない寿司です。《島の千歳》を演奏するためには、スターとなる小鼓の妙手が必ず一人いなければならないのです。

それだけにお囃子にとっては重い曲で、(詳しくは分かりかねますが)公に演奏するのは家元、あるいはそれに準ずる高い技量・芸格を持った人ということになります。特定の囃子方が技量を示すために出曲することも多く、個人の囃子リサイタルにおける古典枠の定番となっています(というより、他に枠を取り合える曲があまりありません)。

翻って唄三味線の方では、音楽的に面白い曲であるとはいえ、あえて出すインセンティブはありません。演奏するにしても、小鼓と息が合うかどうかが演奏の出来栄えに決定的に影響しますので、しっかり分かっている人でないとお話になりません。主役になれない割に怖い曲であるともいえそうです。当然学生長唄では出そうもない曲なわけですが、そんなものをなぜ「徒然長唄記」で出したかといえばもちろん、この曲の当代最高の演奏者のひとりが喜三久師であったからです。

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《島の千歳》を喜三久師の鼓で演奏した東大長研出身者はさすがにいませんが、指導者である稀音家六綾先生はその経験をお持ちです。先生によれば、「喜三久さんにはとにかくそのノリと掛け声で持って行ってもらうという感じだった」とのこと。そういえば、2018年7月20日にNHKEテレで初放送され、今年の1月22日にも師を偲んでアンコール放送された「にっぽんの芸能 囃子の鬼才・堅田喜三久」でも、喜三久師による《島の千歳》が収録されていました。自由自在に鼓を打ち鳴らし、戯れるように切れ味鋭いノリを紡ぎ出す様子からは、表情こそ厳粛ですが独特の「楽しさ」を感じます。同番組では演奏だけでなく、師の天真爛漫で茶目っ気たっぷりの素顔にも焦点が当てられていました。画面には、(「禁煙」のサインがでかでかと出ている前で平気でプカプカなさるのも含めて)希扇会や下浚いなどで拝見した舞台裏の師の顔が、そのままに映っていました。

個人的にも忘れられない思い出があります。私は数年前の希扇会にて、同期の一人と一緒に幕間の大薩摩を弾くという大役をいただいたことがありました。本プログラムと後始末が終わった後、我々学生は廊下に並んで出演者の皆さんやお囃子の先生方を見送っていたのですが、そこに六綾先生を探していた喜三久師が走って通りかかりました。通り過ぎようとしたところで師は足を止め、くるりとこちらを振り向き、満面の笑顔でこう言ったのです。

「あの大薩摩、弾いてたの誰だい? うまかったねえ、かっこよかったねえ!」

喜三久師にとって、我々の大薩摩など実に拙い、つまらないものであったに違いないのに……名人の度量の大きさを実感したものでした。

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たったひとりの小鼓を輝かせるために生まれた《島の千歳》。喜三久師は間違いなく、その演奏において最も輝かしい業績を残してきた演奏家のひとりです。こうして曲の「解説」や師の思い出を綴っていますと、その至芸が失われてしまったことに改めて大きな喪失感を覚えます。

一方で、現在も《島の千歳》の演奏に妙味を発揮する囃子方は出続けています。喜三久師の演奏が比類ないものだったのは言うまでもないですが、この曲の解釈が更新されていく中で、また新たな音楽的価値が提示されていくことは充分期待できるはずです。巨星墜つ、その後に出て来る星が新たな輝きを宿すことへの希望を記して、この記事の終わりといたします。

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☆録音名鑑
『邦楽百選 長唄名人選5』(ビクターVCK-30135)ほか収録
唄:杵屋六左衛門/三味線:杵屋六一朗、杵屋六郎助/小鼓:望月太左衛門
[解説]
長唄の宗家と望月流の家元という最高クラスの組み合わせ。タテ唄の14世杵屋六左衛門は作曲者の甥、小鼓の10世望月太左衛門は7世太左衛門の孫。名人の系譜と名跡の重みを感じることのできる、重厚・骨太の演奏です。
演奏者解説

14世 杵屋六左衛門
(1900-1981)
大正・昭和時代の長唄唄方で、宗家(植木店)派家元。本名・杵家安彦、父は13世杵屋六左衛門(後の初世寒玉)。父に手ほどきを受け、後に4世吉住小三郎(慈恭)に師事。1911年に13世杵屋喜三郎を襲名、さらに1916年に14世六左衛門を襲名。芝居に出演する一方で、20代にして一門を率いて長唄楽精会を起こし、演奏会や録音、放送にも活躍しました。44年に東京音楽学校(現藝大)教授に就任、翌年長唄協会の会長に就任(後に名誉会長)。受賞も56年の文部大臣賞、61年の日本芸術院賞をはじめ多数、66年に日本芸術院会員、74年に長唄・唄の人間国宝に認定。えらく調子が低い(だいたい二本か三本)のに加え、美声に恵まれたわけでもなかったようですが、熱心な研究によって繊細華麗な世界観と独特な渋みを備えた名人となりました。

杵屋六一朗
(1896-1974)
大正・昭和期に活躍した、宗家派の長唄三味線方。本名は赤松捨次郎。京都出身。1909年に12世杵屋六左衛門に入門し、その後13世、14世六左衛門にも師事。1920年にタテ三味線に昇進し、歌舞伎座や帝劇など大舞台を数多くつとめました。豪快で重厚感のある芸の持ち主で、植木店派の大番頭的存在でした。1972年に芸術院賞を受賞。

杵屋六郎助
(1914-1976)
宗家派の長唄三味線方。本名は橋本耀三郎。杵屋六郎に師事。宗家派の三味線方の幹部でした。

10世 望月太左衛門
(1923-1987)
昭和期の長唄囃子方、望月流家元。8世望月太左衛門の子(喜三久師にとっては従兄)で、本名は安倍一太郎。叔父の9世太左衛門、叔母の望月初子に師事、1946年に4世長左久から10世太左衛門を襲名。菊五郎劇団音楽部の鳴物師として、2世柏扇之助とともに中心的な存在であり、古風で重厚、端正な演奏スタイルの持ち主でした。息子の12世太左衛門と5世朴清、娘の2世太左衛も現役の囃子方として活躍中です。


『ビクター舞踊名曲選17』(ビクターVICG-2027)ほか収録
唄:杵屋佐登代/三味線:杵屋佐吉、杵屋佐之克/笛:鳳声晴雄/一調:望月初子/陰囃子:堅田喜三久
[解説]
女流の名人の共演です。どれほどの名人でも女性が囃子方として録音に参加することは非常に珍しかったため、大変貴重な録音ともいえます。繊細で華やかな演奏を楽しむことができます。
主な演奏者解説

杵屋佐登代
(1911-1997)
佐門(杵佐派)の女流長唄唄方。本名は高橋梅子。4世杵屋佐吉に師事し、幼少より天才をうたわれ、14歳で杵屋佐登代の名を許されました。唄の第一人者として演奏会や舞台、放送に活躍。線が太く華やかな唄の持ち主で、その芸は大輪の花にもたとえられました。今藤綾子や5世杵屋佐吉、3世杵屋五三郎など数々の名人を相三味線に迎えての録音も数多く残しています。1987年、長唄・唄の重要無形文化財保持者(人間国宝)に各個認定。

5世 杵屋佐吉
(1929-1993)
昭和期を中心に活躍した長唄三味線方で、佐門の家元。4世佐吉の子で、本名は武藤健二。幼少から父の稽古を受け、山田抄太郎や3世今藤長十郎にも師事、1951年に5世佐吉を襲名し家元となりました。演奏のみならず作曲にも力を見せ、230に及ぶ曲を世に送り、今も一門の人々を中心に演奏され続けています。59年の芸術祭で《日・月・星》3部作のうち《星》を作曲して文部大臣奨励賞を、70年に同じく芸術祭で《榎》により文部大臣賞を受賞するなどの栄誉も多数。

望月初子
(1895-1988)
昭和期の女流長唄囃子方。7世望月太左衛門の長女で、本名は浅倉ハツ。幼少期からその才能を発揮し、14歳で父の代稽古を任されるまでになります。ある歌舞伎俳優から「男に生まれていたら舞台で打たせたのに」と言われたという逸話も。女流鳴物連を結成して女流鳴物師の地位向上に寄与、長唄協会相談役もつとめました。妹の藤舎せい子とともに女流の囃子の名人として知られ、門下から多くの名手を輩出しました。


『鼓 望月朴清』(日本伝統文化振興財団VZCG-348)収録
唄:芳村伊四郎/三味線:今藤政太郎、杵屋栄八郎/小鼓:望月朴清
[解説]
3世堅田喜三久の兄で、彼と並び称せられた囃子の至宝・4世望月朴清の演奏。演奏者の細やかな息遣いも感じられる録音です。
主な演奏者解説

11世 芳村伊四郎
(1945-現在)
芳村派の長唄唄方で、芳村派の分家家元。本名は太田孝彦、父は昭和期を代表する唄の名人である7世芳村伊十郎。杵屋六寒次、菊岡裕晃、今藤綾子、稀音家三郎助に師事し1968年に藝大を卒業、78年に4世辰三郎から11世伊四郎を襲名。歌舞伎の舞台や舞踊の地方を中心に、タテ唄として活躍しています。その唄は渋く、あまり父親似とはいえませんが、容貌および舞台上での貫録は驚くほどにそっくりです。

2世 今藤政太郎
(1935-現在)
今藤流の長唄三味線方。4世藤舎呂船と藤舎せい子(5世呂船)の長男で、本名は中川昇一。10世芳村伊四郎、3世今藤長十郎、今藤綾子、山田抄太郎に師事。1959年に藝大を卒業し63年に2世今藤政太郎を襲名しました。多くの海外公演を含む歌舞伎や舞踊、演奏会、放送など各方面でタテ三味線として活躍し、正統派でありながら新しい感覚をも備えた演奏を見せてきました。古典演奏に加えて創作の方面でも活躍し、多くの作品を世に送ってきたことでも有名です。2004年芸術選奨文部科学大臣賞、05年日本伝統文化芸術奨励賞、08年旭日小綬章・エクソンモービル音楽賞、10年日本芸術院賞・松尾芸能賞、13年に長唄三味線の人間国宝など栄誉も多数。現在は病気のため公の演奏活動からは退いていますが、後進の指導や創作の方面で活動を続けています。

2世 杵屋栄八郎
(1967-現在)
杵栄派の長唄三味線方。本名は深沢恒夫。三味線が身近な環境に育ち、1974年より杵栄派の重鎮である杵屋栄敏郎に師事、80年に2世栄八郎を襲名。藝大別科課程修了。学生時代からその実力を評価され、学業のかたわら歌舞伎公演等に参加し実績を積み重ねてきました。音締の良さに定評があり、歌舞伎や舞踊の公演、演奏会や放送など各方面に活躍しています。

4世 望月朴清
(1934-2007)
昭和~平成の長唄囃子方。9世望月太左衛門の長男で、本名は安倍啓仁(ひろまさ)。父に囃子の、母の杵屋和春に三味線の手ほどきを受け、その後は伯母の望月初子に師事。1953年に5世望月長左久を襲名し、様々な演奏会や放送、録音などに活躍。若い頃はジャズや洋楽とのセッションにも積極的に取り組んでいました。88年に11世望月太左衛門を襲名して望月流の家元となり、93年に4世朴清を襲名。歌舞伎では菊五郎劇団にて主に活躍し。芸術祭賞優秀賞、芸術選奨文部大臣賞などの栄誉も多数、98年には歌舞伎音楽・囃子の人間国宝に認定。峻厳な佇まいと裂帛の気合で演奏を引き締める、存在感の大きい囃子方で、実弟の堅田喜三久とともに名人兄弟として有名でした。


「島の千歳」2013年5月13日NHK-FM「邦楽百番」放送
唄:今藤尚之、杵屋利光、今藤政貴/三味線:杵屋勝国、杵屋勝松、今藤長龍郎/小鼓:堅田喜三久
[解説]
最後は堅田喜三久師の演奏。NHKラジオで放送されたものです。奔放で自由闊達な鼓で魅せてくれます。
演奏者解説

今藤尚之
(1937-現在)
今藤流の長唄唄方。本名・中嶋敏之、神戸出身。1955年に今藤長尚に入門し、5年後に今藤尚之の名を許されました。3世今藤長十郎に見出され、川崎重工業を退職して上京、長十郎およびその姉である今藤綾子に師事。演奏会や舞踊、歌舞伎など第一線で活躍を続けており、2021年現在は同流内の唄方の筆頭たる存在です。放送への出演や録音も多数、2013年には東燃ゼネラル音楽賞を受賞。他にも荻江節を荻江露友・荻江寿友に師事し、荻江露喬の名で活動しています。

杵屋利光
(1967-現在)
勝派・東音会の長唄唄方。杵屋和四蔵の三男で、兄の崇光(6世杵屋勝四郎)・裕光も有名な長唄演奏家です。6歳で6世杵屋勝五郎に入門し手ほどきを受け、1977年に杵屋勝国に師事し三味線を習い、83年に東音宮田哲男に師事しました。86年に杵屋利光の名を許され、22歳で長唄東音会の同人となりました(現在も「東音 村治利光」の名でも活動しています)。繊細な唄いぶりに特色があり、舞台や放送など様々に活躍、河東節では十寸見東治の名で太夫を務めるなど長唄意外にも活動の幅を広げています。2012年には第3回「としみつの会」に対し文化庁芸術祭大賞を受賞。

今藤政貴
(1965-現在)
今藤流の長唄唄方。本名は中川貴史、父は長唄三味線の人間国宝である2世今藤政太郎。父に長唄の、祖父母である4世藤舎呂船・藤舎せい子夫妻に長唄囃子の手ほどきを受け、のち叔母の今藤美知のほか今藤綾子、今藤美治郎にも師事。1992年に今藤政貴の名を許されました。古典や新曲(特に2世政太郎の作品)の演奏に活躍を続け、複数の教育機関で教鞭も執っています。

杵屋勝国
(1945-現在)
勝派の長唄三味線方。本名は牟田口照国。福岡出身、藝大卒。杵屋寿太郎、のちに7世杵屋勝三郎に師事。1959年に杵屋勝国の名を許されました。若手時代から実力を評価され舞台で活躍し、録音等も多数。坂東玉三郎や故・中村勘三郎の舞台でタテ三味線をつとめていることでも有名です。長唄三味線の第一人者としての活動を評価され、2009年松尾芸能賞、2019年には長唄三味線の重要無形文化財保持者(人間国宝)に各個認定されました。現在、杵勝会理事長。

5世 杵屋勝松
(1962-現在)
勝派の長唄三味線方。本名は斎藤真一。1974年に2世杵屋勝招に入門し、のち7世杵屋勝三郎、杵屋勝国にも師事。2005年に杵屋勝招也から5世杵屋勝松を襲名しました。長唄の他にも民謡や端唄、小唄、うた沢、一中節などの素養を持ち、堅実な活躍を続ける実力派の三味線方です。

今藤長龍郎
(1969-現在)
今藤派の長唄三味線方。本名は中島健嗣。父が今藤尚之、母方の叔父が2世藤舎名生と中川善雄など長唄と囃子の家系に生まれ、1979年に今藤綾子に入門、85年に今藤長龍郎の名を許されます。87年に藝大に入学し菊岡裕晃らの指導を受け、91年卒業。各派の名人に師事して鍛え上げた実力は高く評価されており、歌舞伎狂言や演奏会、舞踊、放送、また創作など各方面で活躍を続けています。他に荻江節でも荻江露半の名で三味線方として活動。

3世 堅田喜三久
(1935-2020)
昭和~令和にかけて活躍した長唄囃子の第一人者。本名は安倍康仁。名人と名高い父・9世望月太左衛門をはじめとする囃子一家に生まれ、伯父にして堅田流の家元である3世喜惣治に師事、彼の没後はほぼ独学で修行。太鼓・小鼓の名人として古典曲の演奏や歌舞伎・舞踊などの舞台に活躍するほか、新曲の作調なども多く手がけました。1999年に長唄・鳴物の人間国宝に認定されるなど栄誉も多数。

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注1:ただしこちらは「しまのせんざい」とは読まず、「しまのちとせ」などと読まれるのが一般的であるようです。ややこしい

注2:7世望月太左衛門(1862-1938)は明治~大正期に活躍した囃子方で、望月流の家元。喜三久師にとっては祖父に当たります。本名は安倍清三久といい、父は仙台で活動していた囃子方の初世堅田喜三久(つまり作詞者の大槻如電と同郷)。明治6(1873)年に上京して6世太左衛門に入門しましたが、太左衛門が病気であったため3世長九郎の預かりとなり、翌年太左衛門が死ぬとそのまま長九郎の弟子となりました。新富座や中村座など数多くの劇場で修業を重ねて昇進し、明治31(1898)年に初世望月長左久から4世長九郎、38(1895)年に家元として7世太左衛門を襲名。のちに帝劇専属の囃子方として活躍しました。大正9(1920)年に引退し、3世朴清を名乗りました。多くの長唄の作調を行った名人であり、著書『望月流囃子手附』は後世の演奏家・研究者にとって最高の資料となっています。

注3:小鼓一調のみを伴奏とする古典曲は他にもないわけではありませんが、それらは基本的に後から作調されたものです。小鼓一調という編成を最初から織り込んで作られた曲は、《島の千歳》以外にはないでしょう。

注4:「返し撥」は三味線の特殊奏法のひとつ。ウラバチともいいます。撥の裏表をひっくり返すようにして、通常糸に当たる方とは逆の面を使って三の糸から順に下からすくい上げるように弾きます。主に箏の擬音などとして使われるもので、箏曲の気分や上品さを演出するために取り入れられます。糸を撫でるような独特の音がするとともに、視覚的効果も大きい奏法です。