⑦部派分裂

 『大毘婆沙論』によれば、根本分裂の原因は、大天という名の阿羅漢の提唱したに対する論争にあったという。この五事の論争は根本分裂の後に怒ったさらなる分裂の原因であったとする説もある。

 この枝末の分裂は、大衆部の中から始まった。大衆部系は始に四部派に分裂し、上座部を含めて計五部派となった。これは仏滅後二百年頃、アショーカ王時代に至るまでの出来事であったという。

 しかし、気候風土、生活、思考方法の違いも大きかったのであろう。大衆部系さらに分裂を繰り返し、結局は本末九部となった。上座部の分裂は大衆部の分裂が落ち着いた頃から始まったようである。まず根本上座部(雪山部)と説一切有部の二派に別れた。その後、説一切有部の中で分裂を重ね、上座部系は十一部派となった。これにより仏教は全部で二十の部派に分裂して、部派仏教の時代を迎えた。

 

⑧アビダルマ仏教

 各部派は自分たちの伝承してきた経と律を経蔵、律蔵の形に整えた。ついで、これらに種々解釈を加えるようになった。これをアビダルマと呼ぶ。アビとは「対する」の意、ダルマは「教法」の意、アビダルマとは「教法に対する研究、注釈」の意である。部派仏教の特徴はこのような教法に対する緻密な研究にある。各部派は競って、経と律に関する注釈書である「論」を作成した。ここに経蔵、律蔵と並んで論蔵が成立し、これを総称して三蔵という。

 アショーカ王から土地の寄進を受けるなどして、サンガの経済的基盤が確立すると、比丘は托鉢の必要がなくなり、遊行伝道よりも僧院に定住する傾向が強くなった。そこで、彼らは自部派の教理を確立するために研究に没頭した。

 

⑨アショーカ王と仏教

 マウリヤ王朝の三代目の王、アショーカ王の仏教に対する影響力は多大なものがある。

 彼は父王の死後、兄弟を皆殺しにして、王権を掌握した。即位後九年目にカリンガ国を征服し、十万人を殺戮、その何倍もの人が戦争の犠牲者となったという。彼はその悲惨な結果を深く反省して、以後、仏教に帰依し、在家信者となった。

 彼は、ダルマによる政治をめざし、法勅を発布して、それを石柱や磨崖に刻んで広大な領土の民衆に知らしめた。

 彼は自ら釈尊の四大仏跡に詣でて、民衆にも仏跡巡拝を奨励した。

 さらに彼は、八大仏塔に収められた仏舎利を細分化して、それを納める多数の仏塔を各地に建立し、民衆が身近に参詣できるようにした。その数は俗に八万四千基ともいわれる。そしてそれぞれの仏塔には、維持管理するための経済的基盤となる土地を寄進した。

 その仏塔は在家信者が管理運営をしていた。仏跡巡拝同様、仏塔崇拝も盛んになり、民衆は仏塔をよりどころとするようになり、そこから仏教は大乗仏教へと展開していくのである。

 アショーカ王は、仏教を各国に宣布するため伝道師を派遣した。そのうち、スリランカには、王子のマヘーンドラを派遣し、以後南伝仏教の発展の足掛かリとなる。さらにバクトリアや、ガンダーラ、カシミール等の西北インドにも伝道師を派遣し、仏教が盛んとなった。ガンダーラでは多数の仏塔が建てられ、仏塔信仰が大変に盛んになっていった。その後、ガンダーラでは、ギリシャ・ローマの造形美術とインドの仏教が融合したガンダーラ美術が生まれた。

④経律の編纂

 この結集に賛同したのは五百人の比丘であった。会議の議長はマハーカーシャパが担当し、経の編纂は多聞第一のアーナンダが責任者となった。

 アーナンダが、自分の記憶から釈尊の教えの内容を述べた後、異解、異記憶を正し全員でその経を唱和した。

 もともと結集はサンスクリット語でサンギーティといって「合誦」を意味した。その教えが全員で三回唱和されたらそれは「経」として確立された。そしてその「経」は記憶され、次々に伝承され、文字化されることはなかった。

 律の編纂は持律第一のウパーリが責任者となった。ところが、はじめる前にアーナンダは、釈尊の「細かな戒律は廃してよい」という遺言を思いだし、これにより会議は紛糾した。何が小々戒であったか、アーナンダは聞き損じていたからである。そこで、「釈尊の制定されなかった条項は一切追加しない、釈尊が制定された律は一切廃

止しない、釈尊が制定されたままを保っていく」と決定された。『』によれば、比丘に対しては二五〇、比丘尼に対しては三四八あったという。

 しかし、サンガにはサンガ全体を統制する中央集権が存在しなかったため、第一結集で編纂された経と律が各サンガに必ずしも徹底して伝承されたわけではなかった。

 

⑤経典の伝承

 釈尊の教えは第一結集でまとめられた後、口伝によって伝承された。この伝承された教えを「アーガマ」といい、漢訳ではと音写される。

 部派仏教の時代になると、各部派はそれぞれが伝承してきた経蔵の経典を、経の長短や内容などを基準として四つに分類した。これを「」という。

 

⑥第二結集

 釈尊の足跡はガンジス河の流域の大部分に及んだ。教化の中心地はシュラーヴァスティーとラージャグリハを二つの焦点として、サーケータ、カウシャンビー、バーラーナーシー、ヴァイシャーリー、パーヴァー、カピラヴァストゥ等の諸都市を含む、楕円形の地域で、仏教中国と言う。しかし、釈尊在世中、既に弟子たちによって西方地域にも積極的に伝道がなされていた。十大弟子中「論議第一」とうたわれたマハーカーティヤーヤナは自分の故郷であるアヴァンティ国をはじめその周辺を、また「説法第一」とたたえられたプールナはアラビア海沿岸地方にまで伝道した。仏滅後百年頃には西方の仏教教団は東方の仏教中国の勢力に対抗しうるまでに発展した。

 その頃、東方ヴァイシャーリーのサンガが、ヶ条の「律」に例外規定を設けて、本来の律が厳格に守られなくなったため、西方アヴァンティ・ダクシナーパタ地方のサンガが東方ヴァイシャーリーの多数の比丘を相手にこの十の例外規定に関して大論争をひき起こした。七百人の比丘がヴァイシャーリーに集まって結集が開かれたのである。これをヴァイシャーリー結集とか第二結集と呼ぶ。そこではこのはすべて非法と決定された。

 しかし、東方と西方では気候風土などの地域性もあり、律が決められた釈尊当時とは時代背景も経済状況も大きく異なっていたのであるから、この裁定を不服とした比丘が、かなリ多かったらしい。そこで多数派であった律に寛容な比丘が別に会合を開き「大衆部」を興した。一方釈尊の決められた律を遵守すべしと唱えたのは少数の長老を中心とする保守派のグループであったので「上座部」を名乗ることとなる。これを仏教史では「根本分裂」という。


 2,部派仏教の分裂と展開

 

①初期仏教教団

 釈尊がはじめて行った説法を初転法輪という。相手はかつての修行仲間五人で、釈尊のはじめての弟子となった。彼らをまとめて「五比丘」と呼ぶ。この五比丘を得て、はじめて三宝が整い仏教教団が成立した。後に釈尊の継母マハープラジャーパティーの願いを受けて比丘尼教団も誕生した。

 仏教教団では出家前の身分は問われず全員平等であった。但し、法臘に基づく序列があり、先に得度した者が上位となった。

 財産家の息子「ヤシャ」は釈尊の教えに帰依して比丘となった時、その両親と家族も「三宝」に帰依して最初の在家信者となった。これによって出家者中心の教団に、それを支援する在家信者の優婆塞・優婆夷が成立した。

 優婆塞は「仕える人」の意味であり、出家者に生活必需品を施し、修行生活を助けていた。

 もともとインド人にとって出家者に供養することは伝統的に大きな功徳をもたらすと信じられていた。

 比丘・比丘尼教団は四人以上集まればサンガを構成でき、釈尊やその弟子たちの伝道によって各地に多数成立した。遊行生活が基本であったからどのサンガに属するかは自由であった。

 

②雨安居

 出家者の生活は一年間を通じておおむね一所不住の托鉢遊行の生活であった。しかし、雨期の三ケ月はとても遊行には不便であり、雨の中を歩けば無数の生き物を殺しかねないため、次第に雨期の間は遊行を中止し、托鉢のしやすい、人里近くの特定の場所に避難して、坐禅・に勤めた。これを雨安居という。洞窟などが避難所になったが、なければ小屋を建て、そこで過ごした。これが「精舍」の起源である。

 やがて王侯や長者は競って住まいや園林を教団に寄進して、雨期のあいだ、釈尊やその弟子たちをそこに迎え入れる名誉と功徳を得ようとするようになった。そこで各地に精舎が建てられた。

 

経典編纂会議

 釈尊の入滅の後、長老マハーカーシャパは各自が教えを都合のいいように解釈して伝承していったら、いずれどれが本当の教えかわからなくなると考えた。事実、マハーカーシャパのグループのなかに、早くも釈尊の教えを無視し、教団の統制を乱す者が現われていた。そのため、釈尊の正しい教えと、教団の規則を今のうちに確認しておくべきだと考えて、経典編纂会議の招集を各サンガに知らせた。参加資格は「」場所は「ラージャグリハ郊外の七葉窟」であった。

 

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