3、近代社会と社会事業について

現代社会は、なんとなくボンヤリとした「生活不安」感が漂っている。言いようのない不安感と閉塞感が充満しているように感じている人が多い。大正期のこの時代も、現在の社会状況と同じような状況であった。「生活不安」は極限まで達して資本主義の危機的状況を予感させるに充分であった。

その「生活不安」が具体的な行動として出たのが「米騒動」であった。それに続いて世界恐慌が起きた。恐慌で影響を受けたのは、中小零細企業であり大規模な整理(リストラ)が行われた。

さらに関東大震災が起こって、それが直接の契機となって、慈善救済事業に変わって社会事業が成立することとなった。そのことは宗教者や篤志家が、部分的個人的に社会問題に対応するだけでは不充分となり、社会問題に対して、国家として全面的な組織的な対応が求められるようになったことを意味している。

国としては、家族制度、隣保相扶を尊重しつつ、最低限国民の生活不安と動揺を防止することが基本政策であったが、もはや資本主義の矛盾からくる貧困は、個人の自助だけではいかんともしがたいところまできていたという背景があった。

この時代の慈善救済事業が貧困を直接の救済対象とするのに対して、社会事業の中心は失業対策であった。「生活不安」層を代表する都市生活労働者層の対策が救済事業の中心とされた。その救済の思想的根拠は、社会連帯に基づく「共同体」の構築を目指すものであった。その社会連帯思想と仏教思想を結びつけようとして、社会事業を展開した代表的な仏教者が矢吹慶輝(宗教大学教授)と長谷川良信(後の淑徳大学学長)であった。特に長谷川良信は仏教思想を基礎にした「トギャザー・ウイズ・ヒム」と社会連帯思想を統合しようと試みている。しかし、一仏教者が個人的に社会活動を展開しても自ずから限界が見えていた。政府は、1929(昭和4)年に救護法を制定し、昭和7年施行した。この法律は、わが国ではじめての公的義務救済制度であった。救護法の制定により、方面委員の実施や社会事業の組織化のため社会事業調査会が置かれた。この頃から、仏教者は個人的に社会問題に対応することが困難になり、教団や宗団が全体で組織的に社会問題に取り組むようになる。行政の指導も教団や宗団に対して強くなされるようになっていった。

ちなみに智山派では、1922(昭和2)年に智山社会事業連盟を結成しているが、これはそのことと期を同じくしている。

教団や宗団が全体で組織的に社会問題に取り組むようになっていったことは、大きな前進だと歓迎されたが、それもつかの間であった。昭和16年からはじまる戦時厚生事業体制に組み込まれて、戦争遂行の先端として利用されていくことになる。そして破滅への道を歩んだのは周知の通りである。既に見てきたように、慈善事業から社会事業へと社会福祉問題の所在が変化しても、仏教者はその時代々々において適切に対応してきた。

慈悲の宗教としての仏教のあり方について、その中味である信仰と慈善の両面を常に意識しながら宗教活動を展開していくプロセスとして慈善事業や社会事業にコミットし続けてきたのが仏教者であった。しかし、昭和20年に戦争が終了すると同時に、社会事業活動と仏教活動が全くといっていいほどその関わりにおいて姿を消してしまった。

もちろん、現代でも多くの仏教者が、社会福祉に関係している。むしろ他の宗教者よりも仏教者の数のほうが最も多いのではないかとさえ思う。

しかし、ここでいう仏教社会事業とは仏教者が現代社会福祉の枠組みでの活動しているということとは似て非なるものといわなければならない。

仏教社会福祉事業は、仏教思想を基本に仏教実践を社会福祉に生かすことである。現在の社会福祉事業の法制度に基いてそれを忠実に実行することではない。個人の内面的な心の奥の奥まで入り込んでこれを安んずることにその本質がある。

仏教社会福祉事業は、社会福祉ニードに社会福祉サービスを提供するという表面的な社会福祉実践ではない。社会福祉実践は、仏教者の生き方そのものでなければならない。

現代日本の社会は過去のどの時代よりも豊かだといわれている。しかし、現代社会には大きな「ゆらぎ」が存在している。そのことは、無哲学・無思想・無理念のまま物質的豊かさだけを追求してきた結果だとの指摘どおりである。

この項でみてきた仏教社会福祉事業のあゆみは、過去はけっして物質的には豊かではなかったけれども精神的には恵まれていたのではないかということを述べたかった。

そして、仏教者は必ずどの時代においてもその仏教理念を具現化するために、その時代の社会問題に深く関わっていたことを我々は忘れてはならないのではないかと考える。

 

2、近代国家と慈善救済について

明治になってから身分制度が廃止され、特に武士階級の窮乏が多く発生した。商人や農民も近代的制度の準備が整う前に没落する者が多かった。

この時期は、近世とは違って公的な救済事業を法制度上整えることを目指した。さらに、貧民救済だけであった慈善救済活動は、児童問題について意識的に事業展開がなされるのが特徴的である。東京府養育院は成人と区別し明治11年に児童室を設けている。また、明治12年設立の仏教慈善施設福田会育児院(ふくでんかいいくじいん)はその先駆的役割を果たすと同時にこの時期を代表する存在である。内容は堕胎防止と捨子救済を第1義的目的としている。この後、同様な仏教慈善主義に基づく数多くの育児施設が誕生している。初期の感化教育も懲罰主義から抜け出し、次第に仏教慈善主義による東洋的な家族制に基調におくようになっていった。

当初、仏教は近代化によってその社会的役割を終えたとの考え方が支配的であった。しかし、明治維新期の混乱、キリスト教の慈善事業への積極的関与、社会的弱者に対する国家の保護の推進などの社会状況の変化により、仏教者もその存在意義が問われることになり積極的に慈善事業に関与せざるを得なくなった事情がある。

明治29年には社会政策学会が設立され、公的救済の必要性が強調されている。続いて、明治30年代にはキリスト教社会主義やキリスト教社会改良運動が盛んになってきている。さらに諸外国の数多くの公的救済思想やキリスト教的救済の紹介がなされている。

そういった政府の公的救済やキリスト教の救済に対抗する形で、仏教の側からも救済活動の再構築と展開がなされていった。

仏教者の活動の代表的なものとしては前述の福田行戒の福田会育児院や横山源之助の名著「日本之下層社会」に描かれる下層社会を背景に安達憲忠(東京府養育院責任者)が開いた無料宿泊所と職業紹介所などがある。

仏教各宗派において組織的な財団の設立が相次いでされていった。すなわち大日本慈善会(真宗本願寺派)をはじめとして大正の中頃にかけてほとんどの宗派において設立されている。ちなみに真言宗智山派は昭和2年に智山社会事業連盟が設立されている。(詳細は「現代密教」13号の小論を参照されたい。)

このように仏教者はキリスト教者の慈善事業活動に触発されるかたちで慈善事業を展開してきた。しかして、このキリスト教慈善事業に多くの影響を受けて仏教慈善事業が展開されてきたのも事実である。そして、近世までの慈善から近代的脱皮をはかるようになった。その近代的脱皮とは、従来の宗教的慈善から社会的慈善への脱皮を意味していた。「慈悲」の宗教と言われる仏教は、その「慈悲」の中味である「信仰」と「慈善」を車の両輪として活動を展開し、「慈善」は宗教的慈善であることは暗黙の了解事項であった。

しかし、社会的慈善と宗教的慈善は相反するものであり、「社会」性を否定するからこそ仏教の存在意義があるとの立場から近代的脱皮を否定する仏教者も少なからず存在した。

仏教宗団はそのような内部矛盾を抱えたまま慈善活動を展開せざるを得なかったといえる。その後も「信仰」と「社会」の問題は永く議論の対象となった。

明治以降の社会システムの変化により、新たな社会問題が続出する中で仏教教義の新解釈が盛んに行われるようになった。たとえば「慈悲」観、「衆生恩」や「平等」観等に関する教義が新しい社会問題に対して有効な思想となるような解釈の試みである。

この時期は、明治末年から大正初年にかけては、このようないわば暢気な慈善事業から、家族国家観に基づく天皇制を中心とした家族制度や隣保制度の共同性へと変容していった。

天皇制と救済事業が強調され、慈恵救済資金としてたびたび下賜されている。このお下賜金で設立された代表的なものとして「済生会」が有名である。

さらにこの時期は、国家救済の代替(アドボケート)機関として民間団体が設立されている。すなわち、貧民研究会、慈善団体懇話会、全国慈善同盟、中央慈善協会(現在の全国社会福祉協議会)などである。その団体の多くは感化救済事業講習会や社会事業講習会などを開催している。仏教者の多くもそれに参加し、仏教各宗派の社会事業活動が史上最も盛んな時期を迎えることになる。

第1回感化救済事業講習会を契機として仏教者は仏教同志会を結成した。されに浮浪者研究会、仏教徒社会事業研究会が相次いで結成された。

このような団体は、通仏教で結成された団体として以後活動して行くが、仏教各宗派においても独自で団体を設立し活動を組織的に展開していくことになる。このような盛り上がりは歴史上今までかつてなかったことである。

慈善事業が社会事業へと発展していくのが大正7年頃であるが、仏教と社会事業との関係について多くの議論がなされた。また、仏教教義との関係で再構築が迫られたのである。

この大正時代の代表的研究者渡辺海旭(宗教大学教授)の五大方針はこの時期の仏教者の共通する認識であった。

五大方針とは、仏教的共済主義の則った救済事業の展開を基本にしている。(1)感情主義から理性中心主義へ(2)一時的断片的から科学的系統的へ(3)施与救済から共済主義へ(4)奴隷主義から人権主義へ(5)事後救済から防貧への5点をあげている。これはこの時期において通仏教的なコンセンサスを得たものであった。

このように仏教者は、近世以前のように独占的に慈善救済事業を展開していた時代から、国家やキリスト教者に対抗する必要性から仏教独自の教義を新たに構築し活動を展開してきた。皮肉にもその活動が歴史上最も盛んになった。時代に対応する教義も生み出すことになった。困難な状況から苦肉の策として展開した慈善救済事業が国民にも受け入れられたのである。

1、明治維新社会と慈善・救済について

幕藩封建社会体制下における貧困窮乏化は、幕藩封建社会体制の慈善救済事業では、対策のうちようがない状況であった。必然的に社会体制の変革が求められていた。

また、この時代つまり幕藩封建社会には、なぜかカリスマ性をもった仏教指導者が全くといっていいほど出ていない。仏教教団は、幕藩封建社会体制に協力することでようやく存続してきたといえる。従来仏教教団がもっていた活力は見られなくなっている。まして、貧民の窮乏化に対しての一部を除いて仏教の慈善救済事業などはなされていない。

さらなる貧困農民の増加、都市下層民の窮乏化によって、一揆や打ちこわしなどが頻発し、社会不安が増大した。そのような状況の中で明治維新をむかえた。

しかし、明治維新になって、維新の動乱、貧困者の流動化などにより一層窮乏化が進んでいる。さらに政治改革による士族の貧困が新たに出てくることとなった。その中で特に下級士族の困窮は甚だしく、反乱を起こしたりしている。

明治7年には、歴史に残る公的救済制度として、「恤救規則(じゅっきゅうきそく)」が制定されている。この制度は、現在の「生活保護法」の前身である。

「恤救規則」は、江戸時代の幕藩封建社会体制とは違い、国が初めて全国的に統一的に政策を実施したことに意味がある。明治になってから国は中央集権的に次々と政策を展開している。それは江戸時代の個別的な家父長的な仁愛的なことではなく、組織的システム的に政策を出していることにポイントがある。つまり、この考え方は今でも国の基本となっているところであり、今日の社会体制が明治以来システム的には変化がないとの指摘もある通りである。救済事業に限って、代表的施策を紹介すると、貧困者対策は「恤救規則」により救済し、児童救育では「棄子養育米に対する通達」により施米し、浮浪者対策として「脱籍無産者復籍規則」を制定し授産をさせた。救済施設は、浮浪者対策として東京府養育院が設立されたのをはじめとして全国各地に設置された。

明治初めの近代的慈善思想は蘭学者、プロテスタント、啓蒙思想家が中心となって展開された。古代・中世・近世を通して、慈善思想と救済事業の先達をつとめてきた仏教者は初めて遅れをとることとなった。近代の入口のところでその旧態とした存在を問われたため以後仏教は慈善救済の表舞台から身を引くこととなってしまった。

江戸時代までにおいてはいわば独占的に仏教が慈善救済事業を行ってきたが、明治になって蘭学者、プロテスタント、啓蒙思想家などが自由に活動を展開し仏教の活動はかすんでしまった。しかしながら、明治の中ごろから、特にプロテスタントの慈善救済活動に対抗する形で仏教が、その活動を再構築し再展開をすることとなる。

そしてなによりも社会が民衆が、宗教を要望していたという基盤が存在していたことは、仏教の再構築を可能なものにした。むしろ多くの宗教が競合することによって活性化したのではないかと考えられる。一度民衆から見捨てられ、その中から再生した意義は大きいといえる。この仏教による慈善救済活動は、大正期にピークをむかえ第二次対戦まで続くこととなる。

↑このページのトップヘ