1、明治維新社会と慈善・救済について

幕藩封建社会体制下における貧困窮乏化は、幕藩封建社会体制の慈善救済事業では、対策のうちようがない状況であった。必然的に社会体制の変革が求められていた。

また、この時代つまり幕藩封建社会には、なぜかカリスマ性をもった仏教指導者が全くといっていいほど出ていない。仏教教団は、幕藩封建社会体制に協力することでようやく存続してきたといえる。従来仏教教団がもっていた活力は見られなくなっている。まして、貧民の窮乏化に対しての一部を除いて仏教の慈善救済事業などはなされていない。

さらなる貧困農民の増加、都市下層民の窮乏化によって、一揆や打ちこわしなどが頻発し、社会不安が増大した。そのような状況の中で明治維新をむかえた。

しかし、明治維新になって、維新の動乱、貧困者の流動化などにより一層窮乏化が進んでいる。さらに政治改革による士族の貧困が新たに出てくることとなった。その中で特に下級士族の困窮は甚だしく、反乱を起こしたりしている。

明治7年には、歴史に残る公的救済制度として、「恤救規則(じゅっきゅうきそく)」が制定されている。この制度は、現在の「生活保護法」の前身である。

「恤救規則」は、江戸時代の幕藩封建社会体制とは違い、国が初めて全国的に統一的に政策を実施したことに意味がある。明治になってから国は中央集権的に次々と政策を展開している。それは江戸時代の個別的な家父長的な仁愛的なことではなく、組織的システム的に政策を出していることにポイントがある。つまり、この考え方は今でも国の基本となっているところであり、今日の社会体制が明治以来システム的には変化がないとの指摘もある通りである。救済事業に限って、代表的施策を紹介すると、貧困者対策は「恤救規則」により救済し、児童救育では「棄子養育米に対する通達」により施米し、浮浪者対策として「脱籍無産者復籍規則」を制定し授産をさせた。救済施設は、浮浪者対策として東京府養育院が設立されたのをはじめとして全国各地に設置された。

明治初めの近代的慈善思想は蘭学者、プロテスタント、啓蒙思想家が中心となって展開された。古代・中世・近世を通して、慈善思想と救済事業の先達をつとめてきた仏教者は初めて遅れをとることとなった。近代の入口のところでその旧態とした存在を問われたため以後仏教は慈善救済の表舞台から身を引くこととなってしまった。

江戸時代までにおいてはいわば独占的に仏教が慈善救済事業を行ってきたが、明治になって蘭学者、プロテスタント、啓蒙思想家などが自由に活動を展開し仏教の活動はかすんでしまった。しかしながら、明治の中ごろから、特にプロテスタントの慈善救済活動に対抗する形で仏教が、その活動を再構築し再展開をすることとなる。

そしてなによりも社会が民衆が、宗教を要望していたという基盤が存在していたことは、仏教の再構築を可能なものにした。むしろ多くの宗教が競合することによって活性化したのではないかと考えられる。一度民衆から見捨てられ、その中から再生した意義は大きいといえる。この仏教による慈善救済活動は、大正期にピークをむかえ第二次対戦まで続くこととなる。