堕落論 (新潮文庫)
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いかなる時代であれ、いかなる国であれ、あるいはいかなる職場であれ、いかなる家であれ、その領域において特有の道徳、美意識、或いは暗黙の了解が存在する。そしてそれを遵守することが人間的美徳とされ、そのような人間が立派だと誉めそやされる。しかし、安吾の眼はこの道徳により覆われている人間の実相にまで届いたのである。人間はいつまでも、そのような立派な状態を維持することができない、というのである。

ここで「堕落」という単語の意味が問題になるのであるが、愛国精神に溢れていた勇気ある特攻隊が、戦争に生き残り闇屋で生計を立てること、と作中では例えとしてあげている。、現代風に変えたらどうだろう。差し詰め、愛社精神旺盛で、人の上にたち部下を取り仕切り、他人から評判よくみられていた人間が、突然リストラを言い渡され、生計を立てるために途方に暮れている事態、というのは如何だろうか。何も頼るもののない彼にとって一番重要なのは、最早地位、役職、仕事内容、会社の良し悪し、況や他人の評判などではなく、何よりも金を得、生き長らえることである。

「堕落」の本質を最も分かり易く具体化し、かつ理想化しているのが、別のエッセイ「青春論」において登場する若き日の宮本武蔵である、と私は考える。若き武蔵は剣術において、伝統的因習なぞ無視し、とにかく型破りであった。わざと約束時間をずらして相手をかく乱させたり、不意打ちしたりと、武士道精神やら正々堂々精神なぞとても見られず、何が何でも勝つことが第一だった。しかし剣術試合は敗北することは死を意味していた。ともすれば彼のこのスタイルは生き抜くという生物本能にただ素直に従っただけのことかもしれない。

この何が何でも生き残ろうとする精神。見栄、美徳はかなぐり捨て、時には悪知恵や狡知を働かせる生き方、これこそが安吾の述べた堕落である。堕落するというのは、例えばニートのように家に引きこもり生きがいが完全になくなった、いわば生命のない屍のような状態を指すのではなく、むしろ生き抜こうとする精神の肥大化により、逆に生命が燃え上がるのである。 ただし卑小さが介在しているこを忘れてはならない。

安吾はまた作中において生きることは奇怪なものと述べている。人間は若く、美しい時の方を好み、その状態の時に死んだ方がいいと思いながら、その一方自分は引きずられて結局生き続けてしまう、というのである。堕落もまた奇怪さを孕んでいる。美徳を離れ、孤独に生きる堕落。しかし、いつかは必ず何かの制度をつくりあげざらをえず、その制度における美徳に支配されなければならないである。人は完全に一人で生きられる程強くはない。

「堕落論」戦後間もない頃に発表されて、センセーションを巻き起こした作品。ただ、そのような時代に生きていない我々が読んでもどこかピンと来ないと思う。ただ、述べていることは決して無視してもいいものではないことに変わりはない。ちなみに、「続堕落論」の方が具体的で分かり易いので、そちらから読んでみてもいいかも。

この文章:

特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。   (堕落論)

人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。

即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。 (続堕落論)