2008年06月20日

相馬のふるさとは流山にあらず、柏の増尾を歴史ポタ(笑)

 この前の土日は両日とも、柏市の増尾方面をポタ。前から不思議だった『相馬流れ山』の謎の解明のためです(笑)。このエントリーは長いです。しかもポタの話というよりも、歴史のヲタ話が炸裂しますので、「よし、読んでやらあ」という物好きな方以外は無視してください (^_^;)

 さて『相馬流れ山』というのは、福島県の相馬地方の民謡です。あの有名な「相馬野馬追」祭りの出陣の時に謡われるもので、一種の“軍歌”のようですね。

  「相馬流れ山 習いたかござれ
   五月中の申 お野馬追い」

 で、どんな解説を読んでも、相馬中村藩祖がふるさと流山を偲んで謡ったもの、といった説明がなされています。さらに、そんな縁で私の住む流山市と福島県相馬市は姉妹都市提携を結び、いろんな交流があります。

 付け加えれば、相馬野馬追を見れば、江戸時代に小金牧で行われていた野馬追いがどのようなものだったか分かると言います。相馬中村藩祖が今の福島県の相馬地方に移ったのは鎌倉時代末期。その際、流山あたりで行われていた野馬追いを移植したそうですが、“本家”の野馬追いは江戸時代の小金牧に受け継がれたというわけです。

相馬関連相馬関連
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 その相馬中村藩祖とは相馬重胤(しげたね)。鎌倉時代末期から南北朝の動乱の世を行きぬいた人です。ところが厄介なことに、この人のふるさとは流山ではありません。そうなんです。今回訪れた柏市の増尾なのです。歴史オタクでもある私にとって、これは以前から気になってしょうがないことでした。

 今でこそ相馬と言えば福島県ですが、本来の相馬の地はこちらです。手賀沼周辺や茨城県の取手市、守谷市などが“本家”の相馬。茨城県の利根町は今でも「北相馬郡」です。この相馬の地を支配していたのが相馬一族で、重胤は相馬一族の中でも宗家の地位を争うパワフルなオッサンでした。

 で、この重胤さん、増尾を本拠に大津川流域を直接支配し、旧・沼南町など南相馬に点在する一族を従えていた。一方、北相馬などの他の相馬一族とは対立関係にあり、いさかいが絶えなかったようです。それが原因かどうかは定かではありませんが、従う一族郎党を連れ、先祖が源頼朝からもらったという奥州の飛び地に本拠を移し、奥州相馬、後の相馬中村藩の祖となります。

 まあ、この当たりが史実として確からしい話なんですが、問題は流山。重胤が流山に住んだことがないとすると、流山市民としては由々しき事態ですねぇ。増尾の居城を敵に奪われて流山に拠点を移したという説もありますが、相馬領だとしても西に寄り過ぎ。そもそも当時、流山村あるいは流山郷なる名称の村が存在したかも怪しいです。

 そんなわけで、この話、流山市民の私には都合が悪いので、「見ざる、聞かざる、言わざる」を決め込んでいました(笑)。ただ、この重胤というオッサン、結構面白い。遂に、そのふるさとを確認してやろうと思い立ち、増尾を中心に走り回ってきました。

 で、増尾と言えば増尾城址。今は増尾城址公園としてバーベキュー・スポットになっていますが、城の土塁なども結構しっかり残っています。しかしながら、この増尾城は戦国時代の遺構で、重胤の頃から存在した可能性はあまり高くないようです。ただ、この城址の南側に、重胤が住んだであろう相馬の館の幸谷館址、さらに重胤が信仰した妙見社跡、そして重胤自身の墓があるのです。

相馬関連相馬関連

 土曜日はMTBのAttitude后日曜日は折り畳み自転車のPacific-18で増尾の地に、これらの遺構を探してみたのですが、地元の人に聞いても幸谷館址はどこにあるのか分かりませんでした(←見つけました)。一方、妙見社跡はバッチリ。なんでもごく最近まで妙見社があったそうですが、放火などがあり取り壊してしまったとのことです。

 妙見社の妙見とは、相馬一族が信仰した妙見菩薩のことです。当然のことながら、この辺りには妙見社が至るところにありますが、相馬一族の本拠地ですから立派な社が建っていたのでしょうね。取り壊してしまったとは、少しもったいないような気がします。

相馬関連相馬関連

 さて、重胤の墓は少林寺という増尾のお寺にあります。小学生が作った看板に案内されて境内へ。でも、どこにあるのか分からない。で、お寺の方にお聞きして、場所を教えていただきました。なんと本当につつましい五輪塔でした。重胤の墓というのは伝承ですが、このつつましさからすると間違いない感じです。

 奥州に行ったはずの重胤がここに葬られているのは、南北朝の動乱にかかわってしまったからです。重胤が奥州に移ってからしばらくして、鎌倉幕府があっけなく滅亡します。そして後醍醐天皇による建武の新政がスタート。奥州にも北畠顕家というティーンエイジャーのお公家様が「鎮守府将軍」として派遣されてきます。

 重胤は最初、このお公家様とうまくやっていたのですが、まもなく足利尊氏が反乱。重胤は尊氏側、つまり北朝方に味方します。とすると当然、顕家とは敵対関係に。実は、このお公家様と敵対してしまったところに重胤の不幸があったのです。

 なんせこの若造、いや失礼! 北畠顕家は史上最強のお公家様。宮中の女官にモテモテの貴公子のくせに、民から慕われる優しさと帝の悪政を諌める真っ直ぐさを併せ持ち、戦っては鬼神のごとしだったと言います。もう存在自体が反則のようなアンチャンです。

 どれくらい強いかと言いますと、足利尊氏討伐のため帰京せよとの命を受けるや、奥州兵を率いて各地で北朝方を瞬殺して進軍、京へ戻り尊氏軍も木っ端微塵にしてしまいます。その結果、尊氏は九州へ落ち延びるはめに。さて、その顕家軍が戻って来るということで、重胤は北朝方の鎌倉防衛軍の一将として参戦します。

 で、予想通りの大惨敗。鎌倉防衛軍は顕家軍にやはり木っ端微塵され、重胤も追い詰められて自害して果てます。しかもその後、顕家に本拠地を襲われ、城は落ち、城を預かっていた重胤の息子も討ち死に、一族は山奥を逃げ惑ったというから、もう悲惨です。

 それでもなんとか、奥州の相馬一族は滅亡を免れます。それで重胤をどこへ葬るかという話になって、重胤のふるさとの増尾が選ばれたようです。ということで、重胤のふるさとは間違いなく増尾。決して流山ではありません。

相馬関連相馬関連

 だからと言って、流山は関係ないと言ってしまうと私は困る(苦笑)。で、こんな解釈はいかがでしょう。そもそも当時、流山という名の集落はなかった。ただ「流れ山」だけがあったのです。つまり、流山市にある現在の赤城神社です。

 この赤城神社には流山の地名発祥伝説があります。「昔、大洪水で上州の赤城山が崩れ、流れてきた土砂で小山ができた。山が流れて来たら、この地を流山と呼ぶようになった」というものです。その小山が赤城神社で標高は15m、まさに「流れ山」です。この伝説の真偽はともかく、昔この小山を「流れ山」と呼んだとすると、すべては丸く収まります。

 つまり『相馬流れ山』の流れ山とは、集落名や土地の名称ではなく、その小山のことだというわけです。しかも『相馬流れ山』の歌詞を見ると、とてもふるさとを偲ぶ歌とは思えません。野馬追いそのものを謡った歌でしかありません。

 ですから、重胤が増尾にいる時まで、野馬追いをこの流れ山が見えるところ(下総台地の西端)で執り行っていたのではないでしょうか。で、その際の“出陣”の際に謡う歌に、その流れ山を入れ込んだ。重胤自身の領地はともかく、相馬一族の領地は今の流山市芝崎まで及んでいたのは確実だそうで、流れ山の見えるところで野馬追いを行っても不思議ではありません。

 土曜日にはそれを確かめるべく、“流れ山”の赤城神社方面も改めて走ってみました。流れ山を上から見下ろすポイントは発見できませんでしたが、近くで写真を撮ってみると、まさに流れ山の風情です。うーん、これですっきりしました(笑)

相馬関連相馬関連
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 すっきりしたついでに、ここからは蛇足を書きます。旧・沼南町には平将門を祭る将門神社があります。ちょうど、あの鳥善さんのすぐ近くです。そのほか旧・沼南町には将門伝説がいくつもありますが、私はこれも不思議でした。だって、平将門の本拠地は今の茨城ですから、旧・沼南町は将門伝説を伝えるには南に外れすぎなのです。

 だけど、旧・沼南町が奥州に移った相馬一族のふるさとだとすると、話は簡単です。かなり嘘くさいのですが、相馬一族は平将門の子孫と称しています。その関係で、その領地に将門伝説があっても何ら不思議ではないですね。長文失礼いたしました。あーすっきりした(爆)

toukatsujin at 00:31│Comments(10)TrackBack(0) ポタリング | 東葛地域ネタ

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この記事へのコメント

1. Posted by たすけ   2008年06月20日 11:35
東葛人さん こんにちは
とても読みやすくわかりやすい内容ですね。私もご推察の通りだと思います。
相馬&流山の友好のシンボルだった相馬ユートピアも今年3月末で閉館となり寂しい限りですが、たとえこじつけであってもこの謡が両市の架け橋となって存続してくれればいいなぁという思いです。

もひとつ、私が"ちばらきポタ"にこだわるのは、アオさんの「北緯37度付近の中世城郭」に感化されたことも大きく、今回の関連では下記のような記事がありますので、ご参照なさってみてください。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_nanbu/moriya.htm
2. Posted by まっち   2008年06月20日 22:27
なるほど〜、そういうことだったのですね。
いつか流れ山のルーツをたどって赤城山ツーリングでもやりましょう。途中までは前回行きましたから。
ところで、メルシャンの工場跡地が更地になったお陰で赤城神社がよく見えるようになりましたね。まぁそのうちマンションでも建つのでしょうけれど…
最後の写真の中の馬のレリーフ、これはやはり野馬を意味しているのでしょうか?
3. Posted by IKAWA   2008年06月20日 23:39
東葛人さん、こんばんは。現代に蘇った北畠顕家です。あ、すみません。いま酔ってます(苦笑)。

これはいつもに増して読み応えのあるエントリーですね。分量もただごとではないです。何てったって電車のなかで携帯で読んでいたら、エントリーが二分割されてました(笑)。それにしても、地元の歴史を知る、そして考えるというのは楽しそうですね。私なんて野馬土手を見てキャーキャーしている状態なので、入り口に立ったところでしょうか。こういうことを考えると、ポタも更に楽しくなるでしょう。

ところで、このエントリーを読み終わった後でタイトルを読み直したら「柏の増尾の歴史ヲタ」に見えました。「ポタ」と「ヲタ」は響きこそ似ていても、異なるものと認識していましたが、東葛人さんに限っては....以下略(爆)。
4. Posted by 東葛人   2008年06月21日 21:17
たすけさん、こんばんわ
相馬市と流山市の絆は強いようですので、今後とも両市の友情は大丈夫でしょう。
ですから、流山を相馬重胤のふるさとというのは増尾に失礼なので、改めた方がよいと思います。
それに、流山の地名発祥伝説が結ぶ縁という方がカッコイイですね(笑)

「北緯37度付近の中世城郭」は、ちょっとすごいですね。
城のデッサンも素晴らしいです。
ちょくちょく覗きに行くことにします。
ありがとうございます。
5. Posted by 東葛人   2008年06月21日 22:03
まっちさん、こんばんわ
おお! 本物の赤城山の方ですね。
是非ご一緒しましょう。

確かに、工場跡地が更地かされたお陰で、流れ山のイメージがつかめるようになりました。
この更地、安っぽいマンションではなく、何か一工夫欲しいですね。

将門神社の馬のレリーフは、いわゆる「放れ駒」で、平将門の紋だそうです。
野馬追いをはじめたのは将門だそうですので、やはり野馬なんでしょうか。
このあたりは知識がないです(汗)
6. Posted by 東葛人   2008年06月21日 22:10
IKAWAさん、こんばんわ
コンパクトにまとめようと思っていたのですが、意外なほど長くなりました(苦笑)
どうもこの人、相馬重胤が気になっていたので肩に力が入りすぎたようです。
ただ歴史を知ってポタするのは、ホント面白いですよ。
IKAWAさんも歴史オタクの仲間入りをしませんか(爆)

ところで、もし北畠顕家にご関心があるようでしたら、北方謙三の『破軍の星』をお読みください。
もうメッチャ、カッコイイです。
北方の滅びの美学が全開です(笑)
7. Posted by はんぞう   2008年06月22日 09:09
東葛人さんはすっきりされたでしょうが、こちらは全文読破に体力使いました。

私が読んだ歴史書では、沼南地区の七名家(今でも沢山この名字が残っています。ちなみに我が家の隣も石土さんという方で旧家です。)は、将門の影武者であったとのこと。
相馬さんもその一つではないかと思います。
その縁で将門伝説や神社(娘が建てたようですが)があるのではと思っています。
ちなみにちょっと前の沼南町長は相馬さんでした(関係ないか)。。。
8. Posted by 東葛人   2008年06月22日 15:57
はんぞうさん、こんにちわ
かなりの長文になってしまい、失礼いたしました。
沼南地区に七名家あり、ですか。
きっと古い家系を誇る家なんでしょうね。
そう言えば相馬市の方にも、沼南の地名から家名を採った古い一族がいらっしゃるそうです。
きっと相馬重胤に付き従った武士の子孫なんでしょうね。

沼南町長だった相馬さんは、本当に相馬一族の方かもしれませんよ。
下総に残った相馬一族も衰退こそすれ、江戸時代に旗本として存続したようですから。
9. Posted by 三村栄   2016年01月11日 10:19
5 千葉常胤の2男に千葉師常がいますが、師常は相馬家に養子に入っています。師常の2男が常家で その子供が胤家です。
相馬胤家は別名矢木式部太夫とも呼ばれており、居住地は
今の流山市柴崎一帯だったようです。 当時の郷は 矢木。
これが 八木村になったようです。熊野神社あるも関連不明
八木胤家は鎌倉時代の歴史書吾妻鏡にも出てきて、日蓮宗との関係も深く 鎌倉時代に大活躍したようです。
しかし跡継ぎなどの資料が見つかっておらずその後は闇です。そのご相馬一族が下総で活躍したのは間違いなく、
矢木郷が八木村になり、明治21年 現流山市の流山町、新川村、八木村の3つが合併した。流山市は江戸時代流山村がメインで発達した地域ですが、地域としては矢木を含んで構成されたので流山とは関係が深いです。移住した相馬氏一族は
祖先であるが資料で追い切れていない。
10. Posted by 三村栄   2016年05月17日 09:48
香取神社の「造営記録断簡」1264 年〜1275によると当時の八木郷の地頭が八木式部太夫胤家と記載されており,1269年日蓮から立正安国論の写本を授与された。八木郷は流山市の芝崎、思井などで構成されていますので相馬胤家が住んでいたことは間違いありません。鎮守は熊野神社です。このすぐ近くに思井堀之内遺跡があり、歯や人骨、副葬品が出土されていますが、誰であるのか特定できていません。墓は13世紀後半〜14世紀初頭に造営。胤家以降の系譜が発見されていないので流山の歴史はここで切れています。胤家は相馬六郎(常家)の子供です。相馬重胤が下総から移住したのは1323年。一族の複雑な内紛が影響し重胤の本拠がどこであったのかはっきりしないため、流山とか、柏とかの議論になっているのですが、流山地方が関係していたことは間違えではありません。流山の下総台地部分に集落があったのです。

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