2009年01月01日

謹賀新年、どさくさに紛れて「西より来たりし人々」後編もアップ(苦笑)

 新年あけましておめでとうございます。本年もこの「東葛人的道楽」と「東葛人的サイト」を宜しくお願い致します。

 さて私の年末年始ですが、なんか忙しい。せっかくの9連休ですが、日ごろ片付けや掃除をサボっていたツケが一気にきて、年末は大掃除に追われることになりました。それなのに自転車置き場は半分程度片付いたところで、タイムアップ。完全なる整理整頓は新春一番の課題です(苦笑)

 とういわけで、年末年始は近場を走っています。大晦日の31日は、例のダイヤモンド富士の名所で、2008年最後の日没を見てきました。

最後の日没最後の日没
最後の日没最後の日没

 写真はデジイチではなく、コンパクトデジカメで撮りました。撮影するつもりはなかったのですが、江戸CRを走っていてこの名所に着くと、カメラマンの皆さんが大集合。で、それに煽られて日没を待って、撮影してしまいました(苦笑)

 山頂に掛かった夕日が富士の北の縁に沿って沈んでいく姿は、なかなか美しゅうございました。それに、コンパクトカメラでも結構撮れます。2005年以来の「最後の日没」を収めることができました。

 さて、年末年始のどさくさに紛れて、随分前から放置していたネタを1本アップします(苦笑)。「西より来たりし人々」の後編です。

 随分前に「西より来たりし人々」として、高市皇子・長屋王の子孫が東葛地域にやってきた話を書きました。「おすわさま」こと流山の諏訪神社の建立はその一族によるものだ、という話でした。それを前編として、後編で「東葛地域の古代に迫る話を書きたい」などと大風呂敷を広げたのに放置(汗)。ようやくのアップです。

諏訪神社諏訪神社

 ということで、またもや東葛地域に絡む歴史オタ話です。前回、前々回と同様、「よし、正月はヒマだから読んでやらあ」という物好きな方以外は無視してください (^_^;) 今回もたぶん長文になります。物好きな方は「続きを読む」をクリックしてください。

 「西より来たりし人々」(前編)をまだお読みでない方は、まずこちらをお読み下さい。

 さて、1200年以上も前に、なんで高市皇子・長屋王の子孫が東葛地域のような辺鄙な処にやってきたのかですが、そもそも東葛地域を含め関東一帯は昔から「大和」と深いつながりがありました。例えば最も有名なところでは、埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群から出土した鉄剣。その剣に刻まれていた115文字 が“大事件”でした。

 5世紀後半、この剣の持ち主のヲワケがワカタケル大王に仕え、その治世を補佐した、と記されていたので、さあ大変です。ワカタケル大王とは、中国の史書に「倭王武」として名を残した雄略天皇の可能性が極めて高いのです。埼玉古墳群からこの剣が出てきたことについて、様々な説がありますが、当時の大和と関東は想像以上に近かったわけです。

 さらにもう一つ、東葛地域のすぐ近く、今の葛飾柴又や水元あたりは昔、葛飾郡大島郷と呼ばれていました。正倉院に大島郷の戸籍が残されていて、「トラ」「サクラ」という名の人もいたということで、以前「古代の寅さん」として話題になりました。ただ、私が関心を持つのは姓氏のほうです。ほとんどの人が「アナホベ」なんです。

 アナホベとは「アナホ大王に仕えた集団」との説が有力です。そして、アナホ大王とは雄略天皇の兄、安康天皇です。日本書紀では、安康天皇が暗殺され、その機に乗じて弟(後の雄略天皇)が兄弟、一族、重臣を皆殺しにして即位するという凄まじい話が載っていますが、そうした権力闘争の経済的基盤を関東が支えていたわけです。

三輪野山三輪野山

 高市皇子・長屋王の一族に近いところで言えば、流山・三輪野山の茂侶(もろ)神社の存在も大きな意味があります。この神社は諸説ありますが、「式内社」であることはほぼ間違いありません。式内社というのは、927年に編纂された「延喜式神名帳」に記された由緒ある神社です。江戸時代までは領地まで持っていたというから、それなりの神社です。

 さて、この三輪野山の茂侶神社の祀神はオオモノヌシ(=オオクニヌシ)。大和の三輪山がご神体の神です。三輪山の別名は御諸山(みもろやま)。茂侶神社は、おそらく三輪の山(三輪野山)の御諸という意味でしょう。ですから、この茂侶社は、大和の三輪神社の分社であることは間違いありません。そして、三輪神社を祀ったのが、高市皇子が世話になった大和の高市地域の豪族、三輪氏です。

 つまり、高市皇子・長屋王の一族がやって来る前から、三輪氏の一族がこの地に勢力を張っていた可能性が強いのです。そもそも都の貴族が何の縁もない辺境にやってくるわけがありません。彼らを頼ってやって来たのでしょう。東葛地域の三輪氏としても、都の貴族は地元支配の有力な道具となりますから、ウェルカムだったことでしょう。

 ところで、諏訪神社社務所刊行の『駒木のおすわさま』によると、古文書では高市皇子・長屋王の一族が最初にたどり着いたのは、諏訪神社のある流山・駒木ではありません。なんと私の住む流山・名都借なんです。なんで名都借なのかと思いましたが、流山市立図書館で面白い資料を見つけました。

名都借名都借

 流山市立博物館が出している『流山市史研究』の第8号に、「名都借の集落と寺院」という、これ以上ない超ローカルな論文が載っていました(笑)。それによると、名都借は戦国期まで、放牧していた野馬を追い詰めて捕まえる「込」だった可能性があるとのこと。

 そう言えば、東葛地域は江戸時代の小金牧を待つことなく、ずっと牧だった場所です。高市皇子・長屋王の一族がやって来た時には、既に大和朝廷の牧だった可能性が高い。大和朝廷の牧から出発して、平将門の牧から、「相馬野馬追い」を現在に残した相馬氏の牧になり、最後の徳川幕府の小金牧へと受け継がれたのかもしれません。

 ともかく、高市皇子・長屋王の一族は、大和の軍馬を整える集積地の名都借に来たということでしょう。そして、この牧の運営は、三輪氏の一族が担っていた。高市皇子・長屋王の一族としては、まず名都借に落ち着き、その後、駒木に自らの安住の地を求めたのでしょう。

 こんなふうに高市皇子・長屋王の一族の話として書いてきましたが、大和と関東は特殊な関係にあったようです。つまり、関東は大和の軍事拠点だったのです。古墳時代から軍船、兵士、そして軍馬の供給拠点だったようです。

 特に下総国は当時、手賀沼や印旛沼は海へと続き、切り出した木材で軍船を作るのに絶好の地でした。軍船は徴発した兵士を乗せて西へ、そして朝鮮半島へ向かったのかもしれません。白村江の戦いで新羅・唐連合軍の前に倭軍が惨敗した時、関東より旅立った多くの若者が海の藻屑に消えたに違いありません。

 その後も、防人の多くはこの地の出身ですし、東葛地域などに牧が開かれ、大和の軍事拠点としての重要性は続きます。それから考えると、平将門の乱や鎌倉幕府の成立は、言われている以上に重大な意味を持つように思えます・・・このまま書いていると、いつまで書き続けるか分からないので(汗)、このへんで「西より来たりし人々」の後編としたいと思います。

toukatsujin at 21:56│Comments(14)TrackBack(0) ポタリング | 東葛地域ネタ

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この記事へのコメント

1. Posted by kaccin   2009年01月02日 00:06
あけまして、おめでとうございます。
今日も富士山とてもきれいでした。
目で見た感動を、なんとか画像に残したいと思う
のですが、うまくいきません。どうしようか
自問自答しています(笑)
今年も、東葛、走りましょう!
2. Posted by ROADRUNNER   2009年01月02日 00:42
あけましておめでとうございます。

私も富士山を見に行きました。
運河より先の送電線を超えないと埼玉側で電線と重なってしまいますね。夕暮れ時に行ってみようかと思います。
「西より来たりし人々」おもしろい話ですね。ハヤブサの森で意外と規模が大きな遺跡が出たので「西より・・・」の頃かななんて想像してしまいそうです。
3. Posted by 東葛人   2009年01月02日 18:01
kaccinさん、明けましておめでとうございます
この年末年始は、最近では稀に見る素晴らしい天気ですよね。
毎日のように美しい富士が見れて幸せな気分になれますね(笑)
富士は完璧すぎて、写真や絵ではその感動を伝えることなんてできないと思います。
もちろん、天才的なカメラマンや画家なら話は別でしょうが。
ですから私は、雰囲気の断片でも写真で伝えられたら、それでよしとしています。
では、今年も遊んでやってください。
よろしくお願い致します。
4. Posted by 東葛人   2009年01月02日 18:07
ROADRUNNERさん、明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願い致します。
そうなんです。運河より少し越えて送電線の北側に出ないと、送電線が邪魔をします。
ですから、送電線の北側はダイヤモンド富士を撮ろういう方々で、ビックリするほど混雑しています(笑)

「西より来たりし人々」を面白がっていただき嬉しいです。
ハヤブサの森で遺跡ですか。知らなかったです。

【追記】↑以前のコメントでも遺跡の情報を頂いていましたね。
森や野馬土手の方に気をとれられて、遺跡には反応できなかったです。すみません。
場所も特定できましたので、今度見に行ってみます。
5. Posted by IKAWA   2009年01月03日 00:17
東葛人さん、明けましておめでとうございます。

整理整頓・掃除はこまめに!と年頭に誓ったこと数あれど、一ヶ月も持ったことがありません(苦笑)。年が明けたいま、俺はやり遂げたとの満足感に浸っています。

「西より来たりし人々」、ぱっと読んでほほーと思うのですが、さっぱり頭に入ってきません。この手のネタは相変わらず苦手のようでございます。

ということで、明日よろしくお願いします(爆)。満足感に浸っていたせいか、今年に入ってまだポタれていません(苦笑)。

6. Posted by 東葛人   2009年01月03日 09:12
IKAWAさん、明けましておめでとうございます
私も半分ではありますが、整頓と掃除ができた満足感に浸っております(笑)
今は、その満足感からか、残りもやるぞと思っていますが、果たしでどうか・・・。
まあ、少なくとも再びエントロピーが増大しないようにしたいものです。
では、後ほど。
7. Posted by KAKAPO   2009年01月03日 18:25
 東葛人さん、明けましておめでとうございます。KAKAPOです。
 昨年は、念願だった「東葛人さんにお会いすること」が(2回も!)実現しました。その節は楽しい一時、ありがとうございました。チーム東葛との交流も、TEAM_STROLLERの太陽「10さん」を通じ実現し(実際には、その前から交流していましたが…)、2009年は、もっと楽しくなりそうな予感がします。
 本年も、よろしくお願い申し上げます^^
8. Posted by 東葛人   2009年01月04日 00:15
KAKAPOさん、明けましておめでとうございます
こちらこそ、昨年はお世話になりました。
KAKAPOさんをはじめTEAM_STROLLERの皆さんとご一緒できて、とても楽しかったです。
機会がありましたら、私やチーム東葛の皆さんの企画にもご参加いただけると嬉しいです。
では今年もよろしくお願いします。
9. Posted by きさらぎ   2009年01月04日 00:58
東葛人さん、
あけましておめでとうございます。
パソコンのお気に入りのトップにして
ホームページ楽しませていただいています。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
10. Posted by 東葛人   2009年01月04日 14:20
きさらぎさん、明けましておめでとうございます。
そして、ご無沙汰しております。
お気に入りのトップとは、とても光栄です。
こちらこそ本年もよろしくお願いします。
11. Posted by 千歳飴   2009年01月05日 17:17
東葛人さん あけましておめでとうございます
お正月は風邪で寝込んでいまして、今日やっと起きて、三輪神社へ初詣に行ってきました。
「西より来たりし人々」後編おもしろかったです。パチパチ ありがとうございました。次は遺跡が気になりますね。
12. Posted by 東葛人   2009年01月06日 00:32
千歳飴さん、今年もよろしくお願いします
お正月に風邪とは災難でしたね。
「西より来たりし人々」の後編は大変お待たせしました。
面白がっていただけたなら幸いです。
千歳飴さんに、後編を早く書いてくださいと言われなければ、まだ書けなかったかもしれません。
その意味で、本当に感謝です。
やはり、読んでいただいているコメントは励みになります。
遺跡は確かに気になりますね。
13. Posted by 諸人   2010年01月25日 18:38
4  また新しい年があけてしまいました。おめでとうございます。
 通りがかりのものですが失礼します。
 この茂侶神社について調べていたら、来るべくしてこのサイトにたどり着いてしまいました。(笑う)
 茂侶神社の由来や葛飾郡の支配者について、私の見解をちょっとだけ述べてみたいと思います。
 まず、船橋にも茂侶神社(砂山浅間神社)がありますが、船橋の茂侶神社と流山・松戸の茂侶神社とは地図上で一直線上に並びます。さらに、結城市にも茂侶という地名があり、その線をさらに伸ばすと男体山にたどり着きます。
 祟神天皇と荒川戸畔の女の間にできた豊城入彦やその5世孫である御諸別へと続く系譜は、船橋付近を拠点に旧利根川沿いに男体山を目印にして東国の開拓を進めていったということです。
 豊城入彦の子孫といわれる毛野氏を支えた紀清両党の一つ清原氏も天武天皇の子、舎人皇子の流れをくむと言われていますから、高市皇子とは兄弟ですね。
14. Posted by 東葛人   2010年01月28日 09:41
諸人さん、おはようございます
私のサイトをご覧になっていただき、ありがとうございます。
諸人さんご見解、興味深いです。
茂侶神社の配置は面白いですね。
私は豊城入彦の伝承まで遡って検討したことがないので、とても参考になりました。
関東の古代を語る上で、豊城入彦は欠くべからざる人ですが、茫漠として焦点が結べず、今まで意識的避けてきました(苦笑)
これを機に、豊城入彦や毛野氏のことも私なりに分析してみたいと思います。
ありがとうございました。

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