洞泉寺住職の日常

長野県伊那市美篶の曹洞宗 洞泉寺のブログです。

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除夜の鐘のことを書きたい。
なんか、遠い昔のような感じもするが、まだ二週間弱前の話である。

たいして時間が経っていないのに、遠い昔のように感じるのは年が変わったからであろう。
そんな体感的に大昔の話を書くのは、嬉しかったからである。
 
除夜の鐘は盛況だった。
明らかに参拝の方が多かった。
今までで一番多くの方に来ていただいた。

それが嬉しいのだ。

たぶん5割り増しくらいだ。
当日の天候が穏やかだったこともあるだろう。

だが、それだけでもないような気がする。

本日「洞泉寺新年祈祷」があった。
こちらも、過去一の申込者があった。

人は、もっと「神や仏」に頼っていいと思う。

「神や仏」というと、人格神的なものをイメージするかもしれないが、そうではない。
人格神的な存在になると、ご機嫌を取った方がいい気持ちにもなる。

そして、その取次のような誰かのご機嫌も取るようなことにもなる。
そうなると、私たちは奴隷になってしまう。

「神や仏」というのは、「働き」のことだ。

その「働き」がないと、何も生み出すことはできない。
つまり、すべてのものは「神や仏」が生み出したものである。

そして、私たちには「意志」がある。
その「意志」に呼応して「働き」は起きる。

私たちの仕事は「意志」を立てることだ。
あとのことは「神や仏」の領域である。
人の成し得るところではない。

だが私たちは、すべて自分の力でやろうとする。

それは、苦しみの道だ。

もう苦しむのはやめようではないか。
私たちは「願うこと」だけでいい。

無邪気に「願う」のだ。
その無垢な「意志」に「神や仏」は応える。

もしかすると、そのことを潜在的に感じている人が増えたのではないかと思ったのだ。
それが、除夜の鐘や新年祈祷が盛況である理由の一つではないのか。

私たちは、無条件に幸せであっていい。
努力の先に幸せがあるのではないのだ。

今すぐ、今ここに幸せであっていい。
例外なく、誰もがだ。
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新年あけましておめでとうございます。
旧年中は、更新も途切れ途切れのブログにお付き合いいただきましてありがとうございました。
本年も、ぼちぼち書いていきますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

さて、皆さん、今年は午年です。
午年というのは「勢いよく前進する年」と言われます。

とはいうものの、未来に不安を感じてしまうこともあるでしょう。
ですが、こう考えてみてください。

「どうせウマくいく!」
と。

「何か悪いことが起こるかもしれないから、今のうちに何と かしなければいけない」
という発想は捨てましょう。

そうではなく「ウマくいくこと」を前提とするのです。
そうすると、無理に頑張ることも、恐れを感じて焦ることも 必要なくなります。
心がゆるみます。

何をしようがしまいが、「どうせウマくいく!」のだから、 あなたは安心して今を楽しめるようになります。
そして、今が楽しければ、それが次の喜びを呼んできます。

「前提=ゴール」なのです。

「悪いこと」をゴールにすれば、 走り出した馬はそこに向かってしまいます。
ですから、ゴールは「どうせウマくいく!」で良いのです。

 本年が皆さまにとって、笑顔いっぱいの一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。 
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「新年祈祷」の申し込みが期限が近づいている。
年明けは、年始のご挨拶で忙しいので、年内にある程度準備をしておかなければならない。

とりあえず現時点での集計をしてみたが、多くの方にお申込みをいただいている。

人は、願いを叶えたいと思う。
しかし、これはおかしなことだとも思っている。

人が願いを叶えるのではなく、願いが人を形作っているのではないだろうか。

力のない今の自分がいて、何かの力を得て、何者かになる。
これは私たちの根本的な勘違いだと思うのだ。

何者でもない自分がいる。
これは、何者でもないがゆえに、無限の可能性を持つ。
そしてそれは、そのままで完全な存在だ。

その何者でもない自分が、完全であるにも関わらず願いを持つ。
その願いは、完全性をスタートとしているから、完全に実現する。

生きるとは、創造である。

それは、足りないものを補っていく作業ではない。
不安にせき立てられる道のりでもない。

ただ、ただ、自分の願いに忠実であろう。

それが、私たちが生きている意味だろう?
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子どもの頃の記憶だが、「ゆく年くる年」というテレビ番組があったと思う。
大晦日にNHKでやっていたやつだ。

その番組で、除夜の鐘の生中継をしていた。
子供心に、胸に響くものがあった。

そんな私が、寺で自ら除夜の鐘を撞くことになろうとは、想像だにしなかった。

私の人生も、すでに坊さんとしての時間の方が長くなった。
つまり、大晦日はこたつで中継を見るのではなく、寒風の中で除夜の鐘を撞く方が当たり前になってしまった。

ところで、除夜の鐘は108回撞くという。
そして108というのは煩悩の数だと言われる。

いやいや、そんなわけない。
たった108であろうはずがないではないか。
己を振り返ってみれば明らかである。

実際、108の根拠にも諸説ある。
そして、それらはいわば象徴的なものにすぎない。

では、いくつあるのか?

無数である。

残念ながら、そういうものである。
そして、煩悩は消せるものでもない。
そう言っては身も蓋もないが、そうだから仕方がない。

そもそも煩悩を悪者にするからいけないのだ。
煩悩は悪くない。

まずいのは、煩悩と自分が一体化していることだ。
一体化していなければ、煩悩もまた風流である。
いわば、人生の味付けだ。

では、除夜の鐘は何のために撞くのだろうか。

除夜の鐘を撞くと、煩悩が祓われるという。
祓えるということは、それは自分ではない。
つまり、「自分=煩悩」ではないことを知ることが目的である。

言ってみれば、煩悩は雨雲のようなものだ。
どんなに分厚かろうが、その上には青空が広がっている。
だから、大丈夫だ。

ではあるが、雨雲がないと成り立たないのがこの世である。
晴れも良し、雨もまたオツなものである。
なんて、考えられたら、私も大したものだがね・・・
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黒猫が横切る。
カラスが鳴く。
夜に爪を切る。

いわゆる「縁起が悪い」というやつだ。

先日、私の前を霊柩車が走っていた。
一般の方からすれば、これも「縁起が悪い」の部類に入るだろう。
まあ、職業柄、私はまったく気にならない。

とはいえ、霊柩車と坊さんという取り合わせが、あまりにしっくり来すぎてなんか嫌だったので、車間距離を少し広めに取っていた。
すると、横道から一台の車が、私と霊柩車の間にスッと入ってきた。

おそらく、こう思ったに違いない。
「しまった、よりによって霊柩車の後ろか…なんか嫌だな」

しかし、このドライバーは、さらなるテンション低下を受け入れることになる。

ルームミラーを見ると、後ろの車に坊さんが乗っているのだ。
霊柩車と坊さんに挟まれるという、ある種レアなシチュエーション。

しかも、その後ろの坊さん(私だ)は、なぜか少しニヤけているのである。
実に不気味である。

いや、勘違いしないでほしい。
脅しているわけでも、悪気があったわけでもない。
あれは「祝福」の笑顔だったのだ。

とはいえ、前のドライバーは、どうしたって「死」を連想するだろう。
「次はオレか…?」なんて思いがよぎるかもしれない。

しかし、物は考えようである。

霊柩車は、たしかに「死」の象徴かもしれない。
すなわち、それは「無常」を語る存在である。
すべては移り変わる。
それが恐れの元にもなるが、この無常を観ることこそが仏道でもある。

そして、ルームミラーに映るのは坊さん。
それは修行者、「悟り」の象徴である。
(いや、私が悟っているという意味ではない。あくまで、その分野の専門家というだけだ。)

こうなると、あの車列はもう、ブッダの道である。
実にめでたいではないか。

本来「縁起」とは、物ごとが互いに作用しあって成り立つ、広大なつながりを示す言葉である。

霊柩車も坊さんも、たまたまそこにいただけの存在。
喜ぶ必要も、恐れる必要もない。
ただ、そういう「巡り合わせ」があったというだけのことだ。

その一瞬一瞬の巡り合わせを、そのまま受け取る。
そこにこそ、心の自由がある。 
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