洞泉寺住職の日常

長野県伊那市美篶の曹洞宗 洞泉寺のブログです。

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まあ、そりゃそうですな。

雪かきをせずに冬を乗り越えられるわけがない。
いや、正直に言おう。
もしかしたら・・・と考えてはいた。

今年はいいぞ、と内心ほくそ笑んでいたのだ。

年齢を重ねるほどに、雪かきは辛くなる。
とはいえ、いなし方も上手くなる。

昨日の午後から降り出した雪は、みるみる積もっていった。
会合出席のため外出する予定があったのだが、雪で中止になった。

ならば雪かきをしようではないか、と思った。
だが、まだまだ降り続く予報である。
まあ、焦ることもない。
夕方まで待って雪かきをすることにした。

夕方になった。
なんだか風が強い。
まるで吹雪である。

・・・・まあ、そんなに無理することはない。
これから来客があるわけでもないし・・・

そう、無理は禁物である。
頑張ってはいけないのである。
だいたい、雪なんてやつは春になれば溶けるのである。
ここまでくると、ただの怠け者である。

さて、ここからは怠け者の自己正当化である。

ある人が、こう言っていた。

「頑張る」という言葉の意味は「やりたくないことを無理してやることである」

やりたくないことに人生を奪われてはならない。
頑張り屋さんね!なんて言われてその気になっていては、取り返しがつかないことになる。

さて、この吹雪の中、私は雪かきをしたいのだろうか?
いや、やりたくない。

じゃあ、やめよう。

幸いに、ここで雪かきをしなくても誰も困らない。
だって、こんな雪の夜、誰も訪ねてこないのだから。
来るのは、雪女ぐらいである。

雪女のために雪かきをする必要はない。
いや、雪かきなんぞしたら雪女に迷惑だ。

ということで、雪かきを怠けることにしたのだった。
そして、朝を迎えた怠け者の目に映った光景が、これである。
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ブラボー!
心優しき総代さんである。

住職の怠け癖を知ってか知らずか、愚痴ひとつ言わずに雪かきをしてくださった。
ありがたいのである。

こうして洞泉寺は、今日も護られたのである。
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雪かきは大変ではあるが、こういう景色も悪くはない。

歌心があれば、一首詠むところである。
犬であれば、勇んで駆け回るだろう。

同じ風景でも、見る者によって世界は変わる。

世界は見る者によって作られるのだ。
つまり、世界は自分なのだ。

とはいえ、春が恋しいのである。

まさに不安の時代である。

経済、政治、環境、どれを見ても先が見えない(ように見える)
お先真っ暗である(ように見える)。 
なぜこんなことになったのだろう。

だが、こういうときこそ落ち着かなくてはならない。
一休さんだって、「あわてない、あわてない」と言っていたではないか。

みなさん、しばらく情報遮断してみてはどうだろう。 

不安は、どこからきているのか。
たいがい外からきている。

テレビ報道は心配を煽るものばかりだ。
どうやら、そういうものの方が視聴率が取れるらしい。

難しい顔をして、世界はこんなに深刻なんです、と言えば知識人と思われるようだ。
まあ、大丈夫ですよ、なんて緩んだ顔で言っても尊敬されない。

いわゆる知識人に言わせると、世の中はますます悪くなるらしい。

じゃあ、どうすればいい?

有効な対策はないらしい。

アホらしい。
どこが知識人なのか。

怖い怖いって言ってるのは、子供だってできる。
そこに道を示せなくて、何の価値があろうか。

そんな話は一切無視しよう。
情報断食をしよう。

そうすれば、案外大丈夫だということがわかる。

人の本質は、そういうものだ。
ほっとけば幸せになるのだ。

人は幸せになるようにできている。
余計な情報に惑わされてはならない。

自分の内側に耳を傾けよう。
答えはそこにある。

知識人と言われるような先生方は答えを知らない。
ただ自分の不安を吐き出しているだけだ。

どれだけの情報を外からかき集めても、必要なものは得られない。
それは、自分の中にあるのだ。

不幸は外からくるが、幸福は内にある。
内にある幸福に気がついたとき、外の不幸は揺らぐ。

大丈夫、怖がることはない。
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人が来ると、本尊さまが喜ぶ

これが、昨日の「新年のお寺参り」を終えた感想である。

仏像は木材である。
そんなことを言っては元も子もない。

元も子もないが、それも事実である。
だが、単なる木材ではないことは、言わずもがなである。

もちろん、私は「仏」というものを擬人化して捉えているわけではない。
だから、「本尊さまが喜ぶ」という表現は、ちょっと違うのかもしれない。

木材と捉えるのは唯物論である。
そういう立場はとらない。

「仏」とはある種の「働き」であると思う。
それは、喜ぶとか悲しむとか、そういう階層を超えたものであるはずだ。

ではあるが、そう感じたのだ。

この辺りはあまり突っ込まないでおこう。
また、訳のわからんことを、と思われるのがオチだ。

いずれにしても、お寺に人が来るのは良いことだ。

まあ、本尊さまも毎日同じ顔ばかり見ていてもつまらぬだろう。

って、思いっきり擬人化してるし・・・

ああそうか、喜んでいるのは、私なのか。
ということで、住職が喜ぶので、皆さんお参りしてください。
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すでに檀家の皆様にはご通知申し上げておりますが、本年より『新年のお寺参り』の日程が変更になります。

どうぞ、ご注意ください。

1月14日(日)です。

狙いは、ご家族づれでお参りしてもらうことにあります。

お盆のお寺参りは、子供たちが来てくれます。
ですが、新年は元気な声が聞けません。

理由の一つは、平日だからです。
ならば、日曜日にしましょう、というわけです。

ご家族と一緒に、ゾロゾロとおいでください。

お寺は、お参りする人がいてナンボです。
皆様のお越しをお待ちしております。
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人間は、運命に翻弄される存在なのだろうか?

大きな力の前に、人間はただ打ちのめされるだけの存在なのだろうか?

降りかかる災いの原因は、人間の過去の過ちなのだろうか?

過去を悔い続けることが、分別ある正しい人間の生き方なのだろうか?

未来は制御不能で、常に怯え続けるのが知恵ある人間なのだろうか?

・・・・・・・・・

すべては、「今ここ」から始まる。

「今ここ」だけは完全に自由な領域なのだ。

「今ここ」にいる時、過去は単なるデータベースになる。

「今ここ」にいる時、未来は真っ白なキャンバスとなる。

「悲」も「怒」も「怖」も、「今ここ」には入れないのだ。

「今ここ」こそが、人が生きる場所なのだ。

何があろうと、誰がなんと言おうと、「今ここ」では人は無傷だ。

だから「今ここ」から始めよう。

「苦しみ」の無い「今ここ」こそが、人の生きる場所なのだから。
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