洞泉寺住職の日常

長野県伊那市美篶の曹洞宗 洞泉寺のブログです。

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除夜の鐘・・・
今年もそんな案内をする季節がやってきた
 
12月といえば「クリスマス」である
宗旨が違うが大イベントである
だが、今年はあまりそういうニュースが流れていないような気がする

そうか、「ハロウィン」だとか「ブラックフライデー」だとかがあるからか・・・
それが終わってから、今度は「クリスマス商戦」ということだろうか

かくいう私も、ブラックフライデーに乗せられて事務用品を買ってしまった 
必需品ではないのだが、あると便利だという品である

そんなことはどうでも良い
除夜の鐘である

今年も『福だるま鈴(おみくじ付)』をプレゼントします

一応「先着200名」と案内には書いているが、ここだけの話、もう少し用意している
たぶん来寺者全員にお分けできると思う
とはいえ、限りはあるので「先着200名」としておいた
まあ、足りなくなって不平を言われても困るので、自己防衛である

「除夜の鐘」というのは、108の煩悩が云々という理屈はある
それについて興味がある場合は、ネットを検索したらたくさん出てくる
ここでは説明しないが、要するにリセットである

リセットができるかどうかで、人生の重みが変わる
リセットできないと、どんどん重くなる
挙げ句の果ては身動きできなくなってしまう

世の中では、重いものが評価される傾向がある
「重厚な人」と「軽薄な人」では、当然前者が良いとされるだろう

しかし、そんなに重々しく生きなくてもいいではないか
重い荷物を下ろして、軽々と歩いていけばいいではないかと思う

そのためには、リセットである
引きずらないで、手放してしまう
そっちの方が幸せだと思うが、如何?

ということで、除夜の鐘にいらっしゃい!
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本堂前のドウダンが、今年はいい感じで色付いている。
植物には、ほぼ無関心の私でも、美しいと感じる。

とりあえず、お暇なときにお立ち寄りくだされ。
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私の母親が持っていた着物を家内が譲り受けた。
お陰様で、母親は元気でいてくれているが、着物を着る機会は無い。
それで、処分するという話になった。
それは勿体無いということで、譲り受けることになった。

それが先日、宅配便で送られてきた。
その中に、コレも一緒に入っていた。
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なんと、私が幼稚園の時に着ていた、鼓笛隊の衣装である。
ちなみに、私は、小太鼓担当だった。

今見ると、当たり前だが、ちっちゃい・・・

これを着ていた時には、坊さんになるなんて、誰も思っていなかった。
人生、わからんものである。

鼓笛隊のことは、鮮明に覚えている。
覚えていると言っても、一場面だけだが・・・

それは、休憩タイムのことだった。
私は、太鼓に上に座って休んでいた。
そうしたら、先生に「太鼓に座っちゃダメ!」と怒られてしまったのだ。

ただそれだけの場面なんだが、なぜかよく覚えている。
子供心に、先生に怒られたことがショックだったのだろうか。
私は、おとなしい子供だったので、たぶん怒られることに慣れていなかったのだと思う。

人の記憶というものは、不思議である。
変なことをいつまでも覚えている。

これは幼稚園に入る前のことだが、叔父の結婚式のことを覚えている。
式場のテラスに座っていたことが記憶に残っている。

多分これが、私にとっての一番古い記憶だと思う。
だが、なぜ、それを覚えているのかは全くわからない。

人間というものは、往々にして記憶に支配されている。
相当影響を受けている。

それが無意識に自分の行動を支配していると言っても過言ではあるまい。
その記憶を、単なるデータベースとして活用できれば良いのだが、多くの場合、それが自分を制限してしまう。

記憶と自分が一体であると考えない方が良いと思う。
自分は、「今ここ」にしか存在しないのだ。

記憶の中の自分は、幻だと思えば良い。
活用できるものは、使えばいい。
だが、邪魔なら捨ててしまえばいいのだ。

ところで、鼓笛隊の衣装だが、母親はどうしてもこれだけは捨てられなかったらしい・・・

いやぁ、そうだろうな。
だって、めっちゃ可愛いかったに違いないのだから・・・
これは、採用する。

でも、怒られたのは、先生の機嫌が悪かったのだ・・・ということにしておこう。

毎年恒例の「洞泉寺鎮守例祭」を本日(10/8)行った。
昨日の天気予報では雨だったのに、なぜか降らなかった。
持ってるねぇ。

例祭は本堂内で行うので大丈夫なのだが、外の祠に幟旗を建てたりお参りしたりもするので、雨は避けたいのだ。
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今年も無事に終えられてありがたい。
平日にも関わらず、集まってくださった総代さんと婦人会の役員さんにも感謝である。

そんなことを思いながら窓から外を見ると、雨が降っているではないか。
ちゃんと終わってから降る。
持ってるねぇ。

いや、これは総代さんや婦人会の方々のお徳というものだろう。

これで一応、本年の洞泉寺の法要行事は「除夜の鐘」を残すのみとなった。
もう「除夜の鐘」のことを思う季節になったのだ。
月並みだけど、本当に時間が経つのが早い。

あれ?
結構しっかり降ってきたぞ。

なんだかうまくいく洞泉寺なのである。
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気温が少し下がったせいだと思うが、蚊が元気になっている。
蚊という奴は、気温が30℃を超えると活動が鈍るらしい。
そして、35℃を超えると日中はほとんど活動しないという。

今年の夏は、あまり蚊にされなかった。
それは、要するに暑すぎたためらしい。

このところ、やけに蚊に刺されるようになった。
誠に不愉快である。

なんで蚊に刺されると痒いのだろう?
それは、蚊が刺したときに人体に入って、それがアレルギー反応を起こすからだという。

ふ〜ん

だが、なんでわざわざそんなことをするのだろう?

蚊は2mgの血を吸うと満腹になるそうだ。

私も一応、お寺を預かる身である。
は2mgくらいでガタガタ言うつもりはなのだ。
そのくらい分けてあげてもいい。

「布施」の心を説く身でもあるので、見返りを求めるつもりもない。
つまり、三輪空寂である。

三輪空寂って?

これを説明するには、まず「布施」の意味を書かなければなるまい。
「布施」といえば坊さんに渡す「お布施」のことだと思うが、そうでもない。
もちろんあれも「布施」だが、本来のそれは、もっと広義である。

「布施」というのは、人に財物などを施したり、相手の利益になるような教えを説くことをいう。
それは次のように分類されたりもする。

財施・・・金銭や衣服や食料などの財を施すこと
法施・・・仏の教えを説くこと
無畏施・・・災難に遭っている人を慰めて恐怖心を取り除くこと

ちなみに、法事などでは檀家さんは「お布施」として財施をし、坊さんは「法施」として供養や法話をするということになる。

では、三輪空寂とは何か?

それは、「布施」の心構えである。

「三輪」とは、「施す人」「施しを受ける人」「施されるもの」の3つのことである。

そして「空寂」とは、「執着から離れて清らかである」という意味である。
 

要するに、施す人も、それを頂く人も、そして施されるものも、その3つがすべて執着を離れて清らかである、ということだ。
つまり、見返りを求めないということだ。
そして、この状態であって、はじめて「布施」となりえるということなのだ。

さて、話を戻そう。

私は蚊に2mgの血液を惜しむことなく布施するとする。
それに対して、私は見返りは求めないし、文句も言わない。
吸ったら黙って立ち去ってくれればいいのだ。

お礼なんていらない。
手を振って見送ってあげてもいいくらいだ。

三輪空寂である。

しかし、それで終わらないのだ。

・・・・痒!!!

おかしくない?

なんで痒いわけ??

タダで血を吸ったのみならず、損害を与えるって、どうゆうこと???

せっかく慈悲に溢れた顔をしていたのに、一気に修羅に落ちてしまうのだった。
全部台無しである。

世の中は、時々意味不明である。
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