洞泉寺住職の日常

長野県伊那市美篶の曹洞宗 洞泉寺のブログです。

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とうとう、その時がやってきたのだった。
青いアイツは、もういない。

とうとう・・・
とうとう、愛車のフィットを手放したのだ。

平成18年に兄弟子から譲り受けたフィット・・・
思い返せば、17年の歳月が経った。
H15年式で走行距離は20万キロを超え、塗装も所々剥げていた。

親しい檀家さんからは「もうそろそろ替えたらどうだい?」と言われ・・・
兄弟子からは「よく乗るねぇ」と言われ・・・

実は、もう少し乗るつもりだった。
ところが、ありがたいことに、友人から車をいただけることになった。
車種は、ホンダのフリードスパイクである。

H22年式で走行距離は18万キロである。

一見、そこそこのくたびれているように思えるかもしれないが、状態は良好である。
友人が整備をこまめにして大切に乗っていたから、車もご機嫌である。

うちには、フィットの他にもう一台、トヨタのファンカーゴがある。
こちらは、H11年式で走行距離は16万キロを超えている。
フィットより、4歳ほど年上である。

だから、当初はフィットを残してファンカーゴを手放すつもりでいた。
だが、家内はフィットよりファンカーゴの方が運転しやすくて好きだという。
結局、土俵際でファンカーゴがフィットをうっちゃって、ファンカーゴが残った。

基本的には、私はフリードスパイクに乗り、家内はファンカーゴに乗ることになる。
されど、フリードスパイクは若干車体が大きい。
ご自宅のご法事などでは、駐車場のことも考えファンカーゴで伺うことになる。

「あれ?住職さん、古い青の車に乗ってたけど、今度はもっと古い車になったねぇ」

そんなふうに言われやしないか心配である。

それはそうと、新しい車は快適である。
いや、13歳の車であるから、新しくはないか。
それでも、乗っていてかなり楽である。
しばらくは、良き相棒になってくれそうである。

今の状況は、まさにタイトルの如くである。

心配された台風7号の影響も今のところ無い。
明日以降どうなるかわからないが、お陰で予定通りお参りできている。

あらためて思い返すと、初めて棚経に行かせていただいてから、早いもので30年以上になる。
洞泉寺でも10年を超えた。
そう考えると、そこそこキャリアを積んできたと思う。

昔は棚経の時には、皆さんにご焼香をしていただくことはしていなかった。
しかし、それではお参りの方も物足りないのでは無いかと思い、ある時期からご焼香していただくことにした。

当初は、お宅にある香炉に焼香炭を入れて、それをお盆に載せて回していた。
その後、携帯用の香炉を持参するようになった。

携帯用の香炉の導入によって、諸々スムーズになったのだが、一つ問題があった。
それは、携帯用香炉の持ち運びが難しいことだった。

そもそも携帯用香炉は、法要が終わった時点で金属製の蓋をして消火するものである。
しかし、棚経にように短時間で何軒も回るような場合は、それではその度に消火と着火を繰り返さなくてはならない。

そこで、消火せずに、そのまま持ち運ぶことを考えた。
だが、点火状態の炭が入ったものを運ぶのは、少々危険が伴う。
自動車の中で香炉をひっくり返したら惨事である。

良い方法はないものかと試行錯誤した結果、現在の形に辿り着いた。
こんな感じである。
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わかりづらいかもしれないが、カゴの中に携帯用香炉が固定される形で入っている。
そして、そのカゴの安定感を高めるために、発泡スチロールの箱の中に入れている。
さらに、その発泡スチロールの箱をシートベルトで固定している。

これで、香炉は微動だにしない。
安全性は確保されたのである。

お宅に到着したら、カゴを持って玄関へ向かう。
この発泡スチロールのサイズが絶妙で、まるでオーダーしたが如くであるが、たまたま見つけたものである。

カゴは、雑貨屋さんで見つけたものである。
カゴの中には何が入っているかというと、こんな感じである。
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左上が携帯用香炉である。
その下にあるのが、焼香炭、ターボライター、抹香である。
右側にあるのは、リンと木魚がセットになったものである。
これが案外便利なのだ。

カゴの中にチラッと見えているのは、香炉の固定具である。
固定具といっても、虎屋の羊羹の空き箱を加工したものである。
これも絶妙のサイズ感で、バッチリ香炉が固定される。
さすが虎屋である。

長々と書いてきて今更だが、こんな情報誰も必要としていないということに気がついた。
ほ〜なるほど、真似してみよう!なんて思うのはマニアな坊さんだけである。

とはいえ、せっかく書いたので、このままアップすることにします・・・

 

尋常ではない暑さだ。
その暑さの中、境内整備に勤しんでいる。

除草剤を使うことには抵抗がある。
理由は単純である。
境内に毒を撒くことが嫌なのだ。

だからといって、その意気に免じて草が遠慮してくれるわけではない。
むしろ、毒の魔の手から逃れて、年々生き生きとしてきている。

除草剤を撒かずに猛暑の中で草刈りをするのは体に毒である。
除草剤の毒と、猛暑の毒と、いずれにしても毒である。
どちらの毒を喰らうかと天秤にかけた結果、猛暑を選んでいるわけである。

しかし、休みなくワサワサ生えてくる草を見ると、コンチクショー!と思う。
これでは、心の中に毒を撒いているようなものだ。

これは行き過ぎた健康志向にも似ている。

健康志向の人は、会ったことも無い人が「体に良い」と勧めるものを無闇に食べる。
たとえそれが少々不味かろうが、無理して食べる。
その一方で、大好物であっても、どこかの先生が「悪い」といえば、グッと我慢する。

だが、時には耐えられなくなって食べてしまう。
「体に良く無いのにな」と思いながらパクリ。

確かにそれは健康食では無いかもしれない。
とはいえ、「体に悪い」と思いながら食べたら、それは完全に毒である。

私の東洋医学の師匠は、60歳を超えた人には食事指導をしなかった。
内弟子をしていた頃、理由を問うてみたことがある。
すると・・・

「どうせもうじき死ぬんだから、好きなものを食べさせてあげた方が良い」

ということだった。
ずいぶん乱暴だが、それくらいで良いのかもしれない。

パッケージの裏側を見ると大概は添加物満載の世の中である。
山奥で自給自足でもしない限り、それらを避けることは難しい。
いや、山奥だって雨に混じってなんか降っているかもしれない。
空気だって安心できない。

そう考えると、世の中毒だらけではないか。
だからと言って、そんなものにビクビクしていたら、それこそ毎日心に毒を撒くことになる。

本当に私たちは、そんなに危険な世界に生きているのだろうか。
案外、人間というものは、そんなものにへこたれない対応力を持っているのではないだろうか。
むしろ、心配や恐れの方が厄介なのではないかと思う。

私たちは常に満たされている、と考えたらどうだろう。
すべては整っているのだ。
必死になって、何かを手に入れようとする必要などないのではないか。

そのままで完成されている世界に生きている。
その上で、自らの願いを体験していけばいい。

あれ?
だとしたら、汗だくになって草刈りをする必要ないではないか。

境内の草がボーボーになっているとしたら、それは住職の悟りである。
そう思って見てもらいたい。

というわけにはいかないよね・・・
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人は、後世にな何らかのものを残したいと思うようだ。

芸術家であれば作品を残す。
だが、それが世間に評価されるかどうかは別問題である。

ゴッホの絵は、生前には1枚しか売れなかったという逸話がある。
いや、実は数名は売れていたらしいという話もある。
まあ、どちらにしてもパッとしなかったことは確かだ。

そんな画家の絵が、その後に何十億円にもなるのだから、世間の評価など当てにならない。

農業者は農作物を作るわけだが、その農作物が後世に残るわけではない。
だが、それを食した人が何かを残すだろう。

教育者もそれに似ている。
教え子たちの人生の中に、教育者の思いは残っていく。

いずれにしても、人が生きていくことで、何かを残していくのだ。
そこに結果を求める必要はないのだと思う。
求めなくても、何かは残っていくのだ。

今すぐに評価されなくても良いのだ。
できれば、未来に花開く種を残したいものだ。

ところで、今日も足跡を残して行った人がいる。
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では、もう少し近づいてみよう。
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どなたの足跡かわからないが、多分これは花開かないと思う・・・ 

大施食会が終わった。
総代さんや婦人会の皆様の活躍により、無事行事を終えることができた。
皆様、ありがとうございました。

参拝制限を行った3年間であったが、今年はようやく通常開催となった。
参拝する習慣が途切れてしまったので、どれくらいの方が集まってくださるか心配だった。
だが、大勢お集まりいただいてありがたかった。
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世の中、見渡せば不安要素に溢れている。
しかし、怯えて生きるなんて馬鹿らしいではないか。

私たちの命は、この宇宙が生まれた時から、一度も途切れずに先祖が繋いできた命である。
その途方もない時間の中には、様々な困難があったはずだ。

私たちの先祖は、そんな困難を全て乗り越えてきたのだ。
そして、その情報は私たちの遺伝子の中にある。

先祖供養というのは、そういう情報と縁を結ぶことである。

私たちは一人で生きているのではない。
それを先祖供養を通じて体感していただきたい。

先祖供養をして何になる?と思う方もおられよう。

何か得することがあるの?
給料が上がるんかい?

さあ、それはわからない。
だが、きっと、こう思えるはずだ。

なんとなく、大丈夫な気がする・・・

今の時代に必要なのは、この感覚なのではないだろうか。
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