洞泉寺住職の日常

長野県伊那市美篶の曹洞宗 洞泉寺のブログです。

洞泉寺のホームページもご覧ください。
www.tosenji.jp

お寺の行事としては、圧倒的に参加者の平均年齢が低いのが涅槃会(ねはんえ)である。

保育園の子供達がお参りしてくれるのだ。
涅槃会というのは、お釈迦さまのご命日に行われる。
お釈迦さまが亡くなられたのは2月15日とされている。
洞泉寺では月遅れで3月15日に行っている。

法要を行った後に、子どもたちにお話をする。
しかし、涅槃会である。
「死」をテーマにするのがスタンダードである。

だが、保育園の子にそれは難しい。
実に難しいのである。

毎年、苦心してきたが、別に涅槃会の話じゃなくてもいいんじゃないか?と思いはじめている。
もちろん、目の前には涅槃像か掲げてあるので、それには触れる。
でも、「死」というテーマにはこだわらなくてもいいはず。

お寺に行って、和尚さんと喋ってきた、というだけでいいじゃないか。
そんなふうに思うようになってきた。

毎年、子供達には木魚を打たせてあげている。
そういう体験をするだけでも、この行事の意味があると思う。

それにしても、子供というのは反応が良い。
やっぱり、引きずるものがないせいだと思う。

大人は過去をズルズル引きずりながら生きている。
だから、反応が鈍くなるのだ。

結局、どう足掻いても過去に生きることはできないのだ。

じゃあ過去は必要がないのかというと、そういうわけではない。
過去に縛られる必要はない。
過去を利用すれば良いのだ。

まあ、難しいことは考えなくても、人間はもっと自由でいい。
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先日、足つぼ療法を体験した。

痛かったよう・・・

痛いとは聞いていたが、想像を上回った。
まあ、それだけ悪いところがあるというわけだ。

ここが硬いですね。
これを砕きますよ。

ギャー!

その先生は、内臓の状態を診るだけでなく、いわゆる霊的な影響なども視える。
私のような立場の人間にとっては無視できない内容でもある。

幸に私は、霊的な影響を受けていないとのことだった。 
ほとんどの住職は影響を少なからず受けているらしい。
だから、影響を受けていないのは珍しいらしい。

だからと言って、私に問題がないかといえば、そういうわけでもない。
今のところ、病を発症するところまではいっていないが、諸々アドバイスをいただいた。

食事についても色々教えていただいた。
これから取り入れていきたいと思う。

それから、「住職さんは、良い意味でも悪い意味でも優しすぎる」と言われた。
どうやら、一人で抱え込み過ぎる傾向にあるらしい。
溜め込まないように、吐き出しなさい、と言われた。

あとは、若い愛人を作るといいですよ、と言われた。
いやいや、そういうわけにはいかないでしょ。

なんでも、陰陽でいうと、陽が足りないようだ。
それで陽の極みである若い愛人ということらしい。

まあ、確かに普段交流しているのは、主に死者と高齢者である。
先生の言わんとしていることは分からんでもない。
同じ意味で、食事も陽のものを多く摂るようにとのアドバイスをいただいた。

それ以外にも、ここでは書けないような貴重なお話を沢山伺った。
とりあえず、やれることからやっていこうと思う。

確かに、自分一人で抱え込む傾向はある。
住職という立場がそうさせる部分もある。
背負うものは軽くはない。

とはいえ、そんなことで健康を害してもいけない。
なので、なるべく誰かに任せられることは頼むことにしようと思う。

とりあえず、使い切ったトイレットペーパーを見ても放っておくことにしよう。
なんだか、いつも私が補充しているような気がするのだ・・・
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まあ、そりゃそうですな。

雪かきをせずに冬を乗り越えられるわけがない。
いや、正直に言おう。
もしかしたら・・・と考えてはいた。

今年はいいぞ、と内心ほくそ笑んでいたのだ。

年齢を重ねるほどに、雪かきは辛くなる。
とはいえ、いなし方も上手くなる。

昨日の午後から降り出した雪は、みるみる積もっていった。
会合出席のため外出する予定があったのだが、雪で中止になった。

ならば雪かきをしようではないか、と思った。
だが、まだまだ降り続く予報である。
まあ、焦ることもない。
夕方まで待って雪かきをすることにした。

夕方になった。
なんだか風が強い。
まるで吹雪である。

・・・・まあ、そんなに無理することはない。
これから来客があるわけでもないし・・・

そう、無理は禁物である。
頑張ってはいけないのである。
だいたい、雪なんてやつは春になれば溶けるのである。
ここまでくると、ただの怠け者である。

さて、ここからは怠け者の自己正当化である。

ある人が、こう言っていた。

「頑張る」という言葉の意味は「やりたくないことを無理してやることである」

やりたくないことに人生を奪われてはならない。
頑張り屋さんね!なんて言われてその気になっていては、取り返しがつかないことになる。

さて、この吹雪の中、私は雪かきをしたいのだろうか?
いや、やりたくない。

じゃあ、やめよう。

幸いに、ここで雪かきをしなくても誰も困らない。
だって、こんな雪の夜、誰も訪ねてこないのだから。
来るのは、雪女ぐらいである。

雪女のために雪かきをする必要はない。
いや、雪かきなんぞしたら雪女に迷惑だ。

ということで、雪かきを怠けることにしたのだった。
そして、朝を迎えた怠け者の目に映った光景が、これである。
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ブラボー!
心優しき総代さんである。

住職の怠け癖を知ってか知らずか、愚痴ひとつ言わずに雪かきをしてくださった。
ありがたいのである。

こうして洞泉寺は、今日も護られたのである。
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雪かきは大変ではあるが、こういう景色も悪くはない。

歌心があれば、一首詠むところである。
犬であれば、勇んで駆け回るだろう。

同じ風景でも、見る者によって世界は変わる。

世界は見る者によって作られるのだ。
つまり、世界は自分なのだ。

とはいえ、春が恋しいのである。

まさに不安の時代である。

経済、政治、環境、どれを見ても先が見えない(ように見える)
お先真っ暗である(ように見える)。 
なぜこんなことになったのだろう。

だが、こういうときこそ落ち着かなくてはならない。
一休さんだって、「あわてない、あわてない」と言っていたではないか。

みなさん、しばらく情報遮断してみてはどうだろう。 

不安は、どこからきているのか。
たいがい外からきている。

テレビ報道は心配を煽るものばかりだ。
どうやら、そういうものの方が視聴率が取れるらしい。

難しい顔をして、世界はこんなに深刻なんです、と言えば知識人と思われるようだ。
まあ、大丈夫ですよ、なんて緩んだ顔で言っても尊敬されない。

いわゆる知識人に言わせると、世の中はますます悪くなるらしい。

じゃあ、どうすればいい?

有効な対策はないらしい。

アホらしい。
どこが知識人なのか。

怖い怖いって言ってるのは、子供だってできる。
そこに道を示せなくて、何の価値があろうか。

そんな話は一切無視しよう。
情報断食をしよう。

そうすれば、案外大丈夫だということがわかる。

人の本質は、そういうものだ。
ほっとけば幸せになるのだ。

人は幸せになるようにできている。
余計な情報に惑わされてはならない。

自分の内側に耳を傾けよう。
答えはそこにある。

知識人と言われるような先生方は答えを知らない。
ただ自分の不安を吐き出しているだけだ。

どれだけの情報を外からかき集めても、必要なものは得られない。
それは、自分の中にあるのだ。

不幸は外からくるが、幸福は内にある。
内にある幸福に気がついたとき、外の不幸は揺らぐ。

大丈夫、怖がることはない。
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人が来ると、本尊さまが喜ぶ

これが、昨日の「新年のお寺参り」を終えた感想である。

仏像は木材である。
そんなことを言っては元も子もない。

元も子もないが、それも事実である。
だが、単なる木材ではないことは、言わずもがなである。

もちろん、私は「仏」というものを擬人化して捉えているわけではない。
だから、「本尊さまが喜ぶ」という表現は、ちょっと違うのかもしれない。

木材と捉えるのは唯物論である。
そういう立場はとらない。

「仏」とはある種の「働き」であると思う。
それは、喜ぶとか悲しむとか、そういう階層を超えたものであるはずだ。

ではあるが、そう感じたのだ。

この辺りはあまり突っ込まないでおこう。
また、訳のわからんことを、と思われるのがオチだ。

いずれにしても、お寺に人が来るのは良いことだ。

まあ、本尊さまも毎日同じ顔ばかり見ていてもつまらぬだろう。

って、思いっきり擬人化してるし・・・

ああそうか、喜んでいるのは、私なのか。
ということで、住職が喜ぶので、皆さんお参りしてください。
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