お寺の行事としては、圧倒的に参加者の平均年齢が低いのが涅槃会(ねはんえ)である。
保育園の子供達がお参りしてくれるのだ。
涅槃会というのは、お釈迦さまのご命日に行われる。
お釈迦さまが亡くなられたのは2月15日とされている。
洞泉寺では月遅れで3月15日に行っている。
法要を行った後に、子どもたちにお話をする。
しかし、涅槃会である。
「死」をテーマにするのがスタンダードである。
だが、保育園の子にそれは難しい。
実に難しいのである。
毎年、苦心してきたが、別に涅槃会の話じゃなくてもいいんじゃないか?と思いはじめている。
もちろん、目の前には涅槃像か掲げてあるので、それには触れる。
でも、「死」というテーマにはこだわらなくてもいいはず。
お寺に行って、和尚さんと喋ってきた、というだけでいいじゃないか。
そんなふうに思うようになってきた。
毎年、子供達には木魚を打たせてあげている。
そういう体験をするだけでも、この行事の意味があると思う。
それにしても、子供というのは反応が良い。
やっぱり、引きずるものがないせいだと思う。
大人は過去をズルズル引きずりながら生きている。
だから、反応が鈍くなるのだ。
結局、どう足掻いても過去に生きることはできないのだ。
じゃあ過去は必要がないのかというと、そういうわけではない。
過去に縛られる必要はない。
過去を利用すれば良いのだ。
まあ、難しいことは考えなくても、人間はもっと自由でいい。
保育園の子供達がお参りしてくれるのだ。
涅槃会というのは、お釈迦さまのご命日に行われる。
お釈迦さまが亡くなられたのは2月15日とされている。
洞泉寺では月遅れで3月15日に行っている。
法要を行った後に、子どもたちにお話をする。
しかし、涅槃会である。
「死」をテーマにするのがスタンダードである。
だが、保育園の子にそれは難しい。
実に難しいのである。
毎年、苦心してきたが、別に涅槃会の話じゃなくてもいいんじゃないか?と思いはじめている。
もちろん、目の前には涅槃像か掲げてあるので、それには触れる。
でも、「死」というテーマにはこだわらなくてもいいはず。
お寺に行って、和尚さんと喋ってきた、というだけでいいじゃないか。
そんなふうに思うようになってきた。
毎年、子供達には木魚を打たせてあげている。
そういう体験をするだけでも、この行事の意味があると思う。
それにしても、子供というのは反応が良い。
やっぱり、引きずるものがないせいだと思う。
大人は過去をズルズル引きずりながら生きている。
だから、反応が鈍くなるのだ。
結局、どう足掻いても過去に生きることはできないのだ。
じゃあ過去は必要がないのかというと、そういうわけではない。
過去に縛られる必要はない。
過去を利用すれば良いのだ。
まあ、難しいことは考えなくても、人間はもっと自由でいい。