昨日(1/13)、『洞泉寺新年祈祷』が行われた。
例年通り無事に・・・
いや、例年以上にお参りいただいて、賑やかであった。
人間というものは、「願う」生き物である。
そして、それは叶うべきものである。
それが生きるということだ、と思う。
素直な「願い」は叶う。
もし、叶わない「願い」があるのなら、自分の本心に聞いてみるといい。
自分は、それを本当に望んでいるのか?
たぶん、何かが違うはずだ。
たとえば・・・
Aという「願い」があるとする。
なぜ、Aを願うのか?と自分に問うてみる。
すると、そのAの奥にBという「願い」があることに気づく。
次に、なぜBを願うのか?と、さらに自分に問うてみる。
何も出てこなかったら、そのBが、本当の「願い」である。
もし、Bの奥にCという「願い」があれば、Bは本当の「願い」ではない。
私たちが叶えるべき「願い」というのは、その本当の「願い」なのである。
その手前の偽物に惑わされてはいけない。
そして、本当の「願い」は叶うようにできている。
それは、そういうシステムなのだから心配はいらない。
『洞泉寺新年祈祷』は、その偽物の「願い」ごと吹き飛ばすものなのだ。
だから、もう素直になるしかない。
もう本当の「願い」しか持てなくなる。
だから、もう大丈夫である。
おめでとうございます。
例年通り無事に・・・
いや、例年以上にお参りいただいて、賑やかであった。
人間というものは、「願う」生き物である。
そして、それは叶うべきものである。
それが生きるということだ、と思う。
素直な「願い」は叶う。
もし、叶わない「願い」があるのなら、自分の本心に聞いてみるといい。
自分は、それを本当に望んでいるのか?
たぶん、何かが違うはずだ。
たとえば・・・
Aという「願い」があるとする。
なぜ、Aを願うのか?と自分に問うてみる。
すると、そのAの奥にBという「願い」があることに気づく。
次に、なぜBを願うのか?と、さらに自分に問うてみる。
何も出てこなかったら、そのBが、本当の「願い」である。
もし、Bの奥にCという「願い」があれば、Bは本当の「願い」ではない。
私たちが叶えるべき「願い」というのは、その本当の「願い」なのである。
その手前の偽物に惑わされてはいけない。
そして、本当の「願い」は叶うようにできている。
それは、そういうシステムなのだから心配はいらない。
『洞泉寺新年祈祷』は、その偽物の「願い」ごと吹き飛ばすものなのだ。
だから、もう素直になるしかない。
もう本当の「願い」しか持てなくなる。
だから、もう大丈夫である。
おめでとうございます。