表題の言葉は、私が常に問いかけているものです。

少々乱暴ですが、私にとってお寺というものは無批判に維持してゆく対象ではないのです。
こんな言い方をすると、檀家の皆様からご批判を受けそうですので、少しご説明いたします。

お寺で生まれたわけではない私にとって、お寺というものは「あたりまえ」の存在ではありません。
例えば、多くの場合、生まれたときにそこに親がいてくれて、私たちは親が存在することが「あたりまえ」となります。
そのような状況で育つと、無意識に親がいない世界というのを想像すらしなくなります。

私にとって、お寺はそういう存在ではありません。
ご縁を頂いて僧侶になってからも、常に疑問を持ち続けていました。

お寺は必要なのか?
僧侶は必要なのか?

葬儀は何のためにあるのか?
供養とは何なのか?

お寺に何ら希望を見出せない時もありました。
自分が僧侶であることに、ある種の後ろめたさを感じていた時期もありました。

そんな私でしたが、結果としてお寺を離れることなく、僧侶を辞めることもなく現在に至っています。
それどころか、住職という立場にまでなってしまいました。

そして今思うことは、永きに亘ってお寺、あるいは僧侶が担ってきた役割は現代においても誰かが何らかの方法において受け持たなくてはならない、ということです。
誤解を恐れずに申し上げるならば、それは必ずしも仏教寺院でなくても良いと思います。

されども仏教寺院には歴史的な情報の蓄積があり、それは大きな財産です。
しかしそれ故の汚れもあります。
檀家制度には弊害もありますが、先祖代々の供養というのは檀家制度との親和性が高いという側面もあります。

これらのことを踏まえて、私はお寺は必要だという結論に至っています。
ただし、本来の機能を果たすことができるのならば…
という条件付きです。

さて、洞泉寺はその条件を満たすことができるのか?

これは簡単にYESと言うことは出来ません。
今のままではダメなこともあります。

しかし私はそれに向かって進んでいますし、さらに加速していくつもりでおります。

もちろん皆様のご理解ご協力がなければなし得ないことでございます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。