2007年01月10日

 ある人が迷子になった。約束の時間はとうに過ぎ、もう待ち合わせ相手は帰ったかもしれない...と絶望的になる。もう、このまま帰ってしまおうか。そうだ。そうしよう。相手のは謝っておこう。
 妻が夫から暴力を受ける。DVの保護機関に電話をする。当たったひとがDVに理解が乏しく「あなたがこの場はおれなさい」とか「少し夫をたてるようにしては」と言われてしまう。どうしていいか分からず絶望的になる。「どうせ、私のことなんて誰も聞いちゃくれないのね」人生の迷子のいなった妻はそのまま夫のいる自宅に戻っていく。悪くもないのに口が勝手にいう。「ごめんなさい」
 もし、子どもが迷子になったら私はこういうだろう。
 「迷子であるということを叫びなさい。もし、その場に手を差出す人がいなくても、いつかは現れるから、それを信じて叫び続けなさい。100人ぐらいいたら一人ぐらいはあなたと共に歩いて探してくれるかもしれない」
 叫び続ける大切さは今回身をもって知った。家庭内の見えない暴力は気の遠くなる程の長い年月封印されてきた。そして児童虐待も。まず言葉がなかった。DVだって、いまだにDVなのだ。「配偶者による家庭内暴力」なんて固い言葉になってしなうし、暴力だって、肉体、精神、性的、経済的と様々。
 そして、DVの被害者みずからそんな自分を恥じた。殴られている自分を世間様に知られることを恐れた。
知られたらもっとひどく殴られるかもしれない。親戚からは血祭りにあげられるかもしれない。DVの責任はなぜかすべて被害者側の責任になる。
 私の母は叫ぶ声を持たなかった。それは時代のせいでもあるのだが、彼女の弱さでもあった。
 その娘である私は叫び続けることを止めなかった。もう、DV劇場はここで千秋楽をむかえたかったから。
 必死で叫んだ。中傷も浴びた。間接的に差別も受けた。でも、100人に一人ぐらいは側にきて声ぐらいはかけてくれるかもしれない。いいえ、その数が1万人だったとしても、いえ、この日本中にたった一人でもいるんじゃないかって思った。
 願いは届いた。ちゃんと届くものなんだ。Yさんに出逢い、Mさんに出逢い、BBSの仲間に出逢い、話を聞いてもらいささくれた心を抱き締めてくれた。
 今、苦しんでいる人がいたら、諦めないで叫ぶ続けてほしい。それによって更に傷付いてもそれでも止めないでほしい。誰かが白馬にまたがってやってきて、救ってくれるなんて夢ゆめ思わないで欲しい。その白馬の男もいつかはDV加害者に変身するかもしれない。そうやって、行動を起こさず、待っていたらいつまでたってもDVの渦中からは抜け出せない。
 あらゆる動物は環境が悪化し、苦痛を感じるとより快適な場所を求めて移動してゆく。留まっていたら死を意味する。
 人間だって、苦痛を感じる環境は切り捨てたって何の咎めを受ける筋合いはないんじゃないかなあ。

(14:09)

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