スプリングボード

2020年06月10日

落日燃ゆ

落日燃ゆ 城山三郎(著)

【レビュー】記;1974/06/28
新鮮な問題意識を提起してくれる。
そもそも 戦争とは 何だろうということ。
その推進力の 分析が必要だ。
この作品は 経済の分析が 弱いのではないかと思う。
全く財界、財閥が浮かんでこない。

軍隊と政治の関係で描かれている。
天皇の思想が どうだったのか。
その形成過程、主義、素顔、人間性など。
つまり まわりの人々の 意見をまとめた 天皇イズムでなく。
軍隊の上層部が なぜ暴走していったのか。
戦争犯罪人を裁いた裁判。そして、戦犯とされた人たち
について、もっと知りたい。

参考文献
吉田茂 回想十年 毎日新聞社
木戸幸一日記 東京大学出版会
昭和史の天皇   読売新聞社
重光葵   巣鴨日記 文藝春秋
滝川政次郎  東京裁判を裁く 上下 東和社

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2019年01月27日

青春讃歌のノート

名護の家を 整理していたら、
日記が見つかった。

それを、とりあえず 少しづつ 入力していくとしよう。
ノートの 名前が 「青春讃歌」
タグを 青春讃歌 とした。

随分と 肩に力が入っていて
学生のままの 残渣が 実に愛おしい。
学生の頃に書き散らした ノートは
もうなくなってしまった。

でも、1974年1月27日 から始まっている。
実に 45年ぶりのノートだった。

雑草ノートは、さらに遡っていた。
私が、18歳の時だから、1967年のことだった。
ふーむ。
若いなぁ。
「ベトナム」をどう受け止めるのかが、
捉えようとしているのが、面白い。


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雑草ノート(4)

私の18歳の 8月5日。

「ベトナム、ベトナム、ベトナム。
まったく 日本から遠くにある。
しかし、今日もたぶん日本の基地から
爆弾をつんだB52が飛んでゆく。
そんなことを考えると
ボクはどんな顔をしていいのかわからなくなる。

ベトナムの本を読む。
それが真実か?と疑いたくなるようなことが載っている。
たぶん嘘だろう。
また アカのデマじゃないかな、
なんて思いたくなるが、どの本を読んでみても
同じようなことが書いてある。

俺たちがベトナムに何をしてやれるんだ。
また、どうして、しなくちゃならないのか。
まったく 日本から遠くにあるのに。

今日までの生活。
いつまでもずるずるべったんな生活。
明日こそは、明日こそは。という言葉が。
そして、今日はいつも、怠惰な、怠惰で、怠惰でしょうがねぇボク。
そのまえに、今から、今から始めるホウがいいのに。
どうも、それが、俺にはわからないらしいヨ。
困っちゃうナ。
この、バカな人間が。超人?

【ぼくが涙を流すのは、絶望のためじゃない。
ただ自分の流した涙で幸福を感ずるためにすぎない。
つまり、自分で自分の感動に酔おうというのだ。
ぼくはねばっこい春の若葉やるり色の空を愛するのだ。
それだけのことなんだ。
ここには、知識も論理もない。
ただ内発的な愛があるばかりだ。
自分の若々しい力に対する愛があるばかりだ。】
カラマゾフの兄弟

今日は、なんか無理矢理に書いている感じ。
なんか、ボクの心を、今ここであらわそうとするのは難しい。
今、ボクはボクの心の中はピョンピョンとはねている。
なにか、嬉しいんだ。
どうしてか知らないけど。
そして、ちょっぴり、自分に対して「ちくしょう」とでも言いたいのかな。
8月5日。
暑い季節になったもんだ。」

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雑草ノート(3)

雑草ノートから

18歳の私が書く
「ボクのちっちゃな頃から、芽生えていたもの。
それを、ぼくは大事に育ててきた。さも、得意げに。
今、先天的、後天的という問題は問題とならない。
現に 俺があるから。
どうしようもない俺が。
これをやっと最近 つぶそうと思った。
そして、あるものに飛び込んだ。
それが潰れてしまうことを期待して。
失望の連続、あらゆるものと事故に対しての失望。
反対に、俺に対しての失望が、
俺のカラッポな心の中でひびく、
だけど、
何しろ、なんとかしなくちゃ。」

ボク、ぼく、俺。
人称が、変わりながら、自分を語ろうとする。
ここで飛び込んだ「あるもの」って、なんだったろう。

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雑草ノート(2)

雑草ノート(私が 18歳の頃)

岡本太郎はいう
「たしか、その時人間は孤独だった。
だが己の限界に直面して、これを戦闘的に肯定し、
悔恨を転じて力とする。
悲劇的肯定をもって、苛酷に反逆的に、
自然に対して立ち向かった。運命に逆行して
自分を賭けて行くことが生き甲斐であり、
それによって生命を打ち開くということを直観して。
危機はいつでも、あれかこれかの2者択一を迫る。
安易なルートと、そしてむしろ滅亡を予感させる抵抗の道
人間は後者を意志した。」

その頃の私は、「孤独」という言葉に反応し、
「反逆」「逆行」「抵抗」という言葉の意味を
掘り下げようとしていた。
この頃のモヤモヤとした想いにとらわれながら、
発展して行くのである。

岡本太郎はいう
「つまり 人間がはじめて自分自身のうちに
己を超える妖怪を発見したとしたら
恐怖に悶絶するだろう」

自分の中にある 妖怪の存在を感じていた。
その自分の中にある 妖怪が凶暴性を持っている
ことを 感じたのだろう。
その妖怪と付き合いながら、今まで至っている。
そして、妖怪をいまだに捕まえることをできない。

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雑草ノート

雑草ノートから

太宰治はいう
「ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当に良いところがある、と思った。
花の美しさを見つけたのは人間だし、花を愛するものも人間だもの」

女生徒
「けさの小杉先生は綺麗。私の風呂敷みたいに綺麗。
美しい青色の似合う先生。胸の真紅のカーネーションも目立つ。
「つくる」ということが、無かったら、もっともっとこの先生すきなのだけれど。
あまりにポオズをつけすぎる。どこか、無理がある。
あれじゃあ疲れることだろう。
性格も、どこか難解なところがある。
わからないところをたくさん持っている。
暗い性質なのに、無理に明るく見せようとしているところも見える。
しかし、なんといっても魅《ひ》かれる女のひとだ。
学校の先生なんてさせて置くの惜しい気がする。
お教室では、まえほど人気が無くなったけれど、
私は、私ひとりは、まえと同様に魅《ひ》かれている。
山中、湖畔の古城に住んでいる令嬢、そんな感じがある。
厭に、ほめてしまったものだ。
小杉先生のお話は、どうして、いつもこんなに固いのだろう。
頭がわるいのじゃないかしら。悲しくなっちゃう。
さっきから、愛国心について永々《ながなが》と説いて聞かせているのだけれど、
そんなこと、わかりきっているじゃないか。
どんな人にだって、自分の生まれたところを愛する気持はあるのに。
つまらない。
机に頬杖ついて、ぼんやり窓のそとを眺める。
風の強いゆえか、雲が綺麗だ。お庭の隅に、薔薇の花が四つ咲いている。
黄色が一つ、白が二つ、ピンクが一つ。
ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。
花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。」

言葉を抜き取って、その言葉を 自分のものにすることが
重要かもしれない。


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2013年01月06日

スプリングボードのメッセージ

若い頃に書いた『スプリングボードのメッセージ』という雑文。
パソコンにあったものを、Dropboxにいれて、
iPadで、最初から読み直してみた。

わかいなぁ。
と感じたけど、一つの健気なスジが通っていると思った。
『反骨』なのだろうか。
『矜持』なのだろうか。
弱さ、頼りなさの中に、芯の強さみたいなものが、
どっしりしている。

醸造試験場に行ってから、酒を飲むことを覚えて、
少し、変わったけど、今とは少し違うのだ。

今、こうやって老人になって、それを受け継ぎたいとおもった。
若かった時の息吹を、先生として仰ぎ見ながら、
もう一度、やり直すのだ。

キクオさんがいう 『土下信人ではなく、つちしたのぶひと』になることだ。
そう納得した。
それが、私にとって、意味のあることだ。

何を始めるべきか?
ということが、少しづつ見えてきた。
自分の能力を磨くだけでなく、
自分のチカラが発揮できる環境を作って行くことだとおもう。
それがわかって、チカラが湧いてきたのだ。

1974年からはじまる日記 『青春讃歌』も、スキャンしてとってあったので、
今、それを、読み返している。
いやー。感じるのは、iPadのすごさだ。
そのことを、深く、ジョブスに感謝したい。
エライぞ。あっぱれだ。ジョブス。


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1996年04月06日

心の裂け目

何ともいえぬ心の裂け目。
不思議なくらい心が痛い。
いったい何をしているのか
という想いが心を痛ませている。
自分で好んだこの仕事が、
何という低い水準で苦しんでいるのだろうか。
いま何を考えて何を明らかにしようとしているのか。

本を整理しながら考えている。
(1)農業・・・どのような方向に進むのか。
そしてどの思想を武装しているのか。
もっと植物のことを知ることが仕事になってくるだろう。

(2)仕事の効率に関する本
超整理術なるものがでてきて、驚く。
知的作業は、つねに個人的である。

(3)脳の働き・・どのような思考方法で組み立てていくのか。
時代はつねに新しいことを提案している。
狂牛病・・プリオンというタンパク質のいたずら。
それを食べると人が感染するという。
想像もできないことがおこってくる。

(4)気象に関して、そして水のことに関して
水のことを真剣に考えることとした。

「青春讃歌」をどういうわけか、
本棚を整理している最中に読んでみた。
何のといえぬつらく悲しい人生やなと思う。
誠実に自分の心情にもとづいて
生きてきたことが、唯一のささえかもしれない。

私は、いっぱい人間の中を歩いてきたように思える。
しかし、実に申し訳ないことばかりしているようで、
残念に思う。


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1978年06月06日

哲学的テーマ

哲学の勉強をし始めようと決意をした頃の
メモを 整理して書いてみる。
①哲学の発展は、なぜ自然科学の発展と密接不可分か?
②真理という概念は、認識論の問題か?
③一般に、自由とは、制約されないことである
と言われているが、正しい意味での自由とは何か?
→ハンデューリング論
④人格とは何か?
「労働力諸能力の総和」と言われるが。
⑤国家とは何か?
国家は、どのように発生し、
どのように発達してきたか?
歴史的な関連、歴史の段階からとらえること。
⑥疎外とは何か?
自由と関係がないととらえられているが、
「労働した利潤が 自分に戻ってこない」ということか?

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1975年04月10日

ぬるま湯

いつしか 日はたつ。
ぬるま湯につかった ままのような 生活態度。
新たな生活に向かって 新たな決意でのぞむこと。

五木寛之 青春の門 放浪篇 上 読了

自動車免許を取る・・・
自動車学校費 88000円。

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1975年02月01日

農学とは

どうも「農学」の考え方が 間違っていた。

もっと 人間生活 産業へのアプローチが必要だ。

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1975年01月07日

問題意識の発展

『文学とは現実の評価』であるという
宮本顕治 の言葉はすぐれている。

その時代 現実を正確に把握することなくして、
正しい評論はできないと思う。
その イデオロギー的背景を
敏感にキャッチできる能力を養うこと。

五木寛之 大江健三郎を対象としたのは
昭和 70年代 という時代の中で
現存する作家の中で 注目されている作家だからだ。
また 同時代に生活しているからこそ
その時代の課題とともにすすめると言う
特徴がある。
サブとして 中里喜昭 李恢成 がある。

当面 日本文学の主流
私小説的傾向をどう把握するかが 
興味ある次第です。

ひとりひとりの生き方が
時代と深くかかわり合うということを
認識することができのは 
なにによって もたらされるのだろうか?
学ぶこと 働くこと 遊ぶこと そして 生活すること

この営々として 続く行為が 
どのように 時代という壁にぶつかるのだろうか
時代 歴史 政治



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文芸評論をしたい

1975年の年の始まりには、「文芸評論家」になりたいと考えていた。
それは、平野謙に刺激されている。
そして、対象を 五木寛之 としていた。

その問題意識をまとめると
1 歴史・・・とりわけ 日本の近代史 の理解
2 社会思想史  ファシズムへの道 日本型ファシズム
3 文芸評論
  五木寛之 大江健三郎
  平野謙の 徹底分析
4 モノー 「偶然と必然」をめぐって
5 最近の武谷三男の動向をめぐって
  技術論

一つの方向性として
「文芸評論」を書きたい という要求がとてもある。
何故か それは 現在の段階では あまり 明確に言えないが
小説というものが とても好きだったから
ともいえる。
僕の成長過程に 読書は欠かせないものであったと言っていい。
そして その小説が なぜいいのか も
わからずに 読んだと思う。

よかった。
しかし なぜよかったのか 
その基準の不鮮明さを明らかにする必要があると思う。
やっぱし 作家でいうならば
ドストエフスキー 中里喜昭 なんかがいいと思う。
また 「青春の歌」は
僕にとって 多大な影響を与えた本だと言える。

よい作品の評価の基準を確立するために
また 文学とは何かという 問題を考えるために
一つのアプローチをしたいと思う。
これは 息の長い仕事だ。

批評家として 宮本顕治 蔵原惟人 などが あげられるし
近代文学の批評家 平野謙 や 小林秀雄 江藤淳 などを
対照とする必要があろう。
これは 夏休みに 読み続けるといいと思う。

r文学とは現実の評価」であるという、宮本顕治の言葉はすぐれている。
その時代、現実を正確に把握することなくして、
正しい評論はできないと思う。
その「イデオロギー的背景」を敏感にキャッチできる能みやしなうことだ。

五木寛之、大江健三郎を対象にしたいのは、昭和ー70年代と言う
時代の中で、現存する作家の中で「注目」されている作家だからこそ、
また同時代に生活しているからこそ、その時代の課題と共に歩める
という特徴があるので。

サブとして、中里喜昭、李恢成なんかをおさえておこうと思う。
当面、日本文学の主流「私小説」的傾向をどう把握するかが興味のある次弟です。

一人一人の「生き方」が
時代と深しかかわりあうということを認識することが
できるのは、なにによってもたらされるのだろうか。

学ぶこと、働らくこと、遊ぶこと、そして生活すること。
この営々として常つづく行為が、どのように時代という壁にぶつかるのだろうか。
時代、歴史、政治

五木
民族・芸術一音楽、Jazz, 海でみていたジョニー
カットグラス・霧のカレリア
青春 放浪 スペインの絵画 「パブロ・ロペス』
ノルウェー ムンクの絵画一夏の怖れ

想像力 夏の怖れ、ムンクの叫び。テーマからのイマジネーション。
人の悲劇性への共鳴がある。その中での人間性の模索があるのか?!
挫折の中でも強く生きる姿。


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2074年12月31日

しめかざり屋で

今日は とても面白い日だった。
『注連飾り屋』へ アルバイトに行ってきた。
師走を感じなかった ボクが 
堀田橋のふきっさらしの中で 年が暮れていくのを知った。
ゆったりとした中に 慌ただしさと
次のあたらしい年を準備する ゆとりのまじった
複雑な情景。

さまざまな人が 正月だけの生命の 注連飾りを買いに来る。
なんとなく 実感できたのは 「高いなぁ」といって
立ち去る人たちだった。
しかし 高いなぁ といって 隣の店で買うのはいただけない。
その言葉は 若い人たちが多かった。
そして ボクも買えないだろうから 共感があった。

買う意味があるのか ないのか 
ということを問いかけるでもなく
何となく「買いたいな」という意識の中で 
「買えない」という意識がのぞく。

大きなおなかを抱えた 女性たちが
ゆったりとして歩く人 お腹を抱えながら歩く人
多彩である。
それは なんとなく ユーモラスな動作 だった。

「自慢できる息子」といいものだとつくづく知った。

先輩の家で 食事をいただく。
柔らかいルームライトの中で
やわらかい 二人のしぐさに
心のかたさも ほどけた。

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2074年08月18日

青春の肖像

青春の肖像 吉開那津子(著)

【レビュー】
柴田麻子を中心とした ロマン民主文学
女性にとって 結婚とは 重大事なのだろう。
封建的結婚と現代的結婚との差を浮き上がらせようとする。
しかし、恋愛があまりにも 希薄すぎる。

菊代の兄を選んだ時に 
「一人の青年を愛情の対象に選ぶ時に何という安直さ」
と告白しなければならない状況である。
絆 そのものの描き方。選択の基準の不鮮明さ。
麻子の 共産党入党前、入党の動機、入党後。
入党前は 鋭利な女性がうまく描かれているが、
入党後の党の活動が 会議が中心になってしまっている。

touxia at 14:29|PermalinkComments(0)

2074年08月17日

お父さん

若くして、まだ働きうるお父さんへ

しかし、お父さんとは、一体なんだろう。
生活の中に感じない お父さん 
というのが、あるのだろうか。
ただ、思考の中にある。

ただあるのは 暗い思い出のみ。
父の放蕩。
寛大すぎる父。
些細なことへ怒る父。
父とは、一体なんだろうか。

そして、それに甘えねばならない息子。

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2074年06月06日

忘れ物

忘れ物

創造主としての神 創造物としての神。
天上の極楽が、地上において実現される。

忘れ物


もはや、25歳となった。
この年齢に驚かざるを得ない。
みずからの生をイタヅラに 浪費してはならない。
我が生活 全てを闘争としなければならない。

思想をさらに強固に
実践をさらに頑強に
そして 学習を さらに さらに 強力に。



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パルタイ

パルタイ 倉橋由美子(著)

共産主義の理念・理想がなく
共産主義者らしき人々の活動の断片の存在。

冷えた女性の傍観的人生観。
裏かえしの文学。

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2074年06月05日

セルゲイエセーニンに

セルゲイエセーニンに   マヤコフスキー

仕事は多い ひたすら急ぐこと
必要なのは 生活を徹底的に作り変えること
いつ どこで どんな偉い人間が
これより楽な 歩きやすい道を選んだ。
行進だ。時間はうしろで 弾丸に砕けろ。
必要なのは 喜びを未来から奪い取ること。
この人生で 死ぬことは難しくない。
人生を作ることは はるかに難しい。

touxia at 13:56|PermalinkComments(0)

未来の歌

未来の歌  アラゴン

人間だけが 夢を持つものだから
自分の抱いた夢が ほかの人たちの手で
自分の歌った歌が ほかの人たちの唇で
自分の歩いた道が ほかの人たちの足で
自分の愛さえが ほかの人たちの腕で成就され
自分の蒔いたタネを ほかの人たちが
摘みとるために 人は死をも辞さない
人間だけが 明日の日のために生きるのだ。


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2074年05月16日

青春の門 自立編

青春の門 自立編 五木寛之(著)

【レビュー】
誠実に 自らの行くべき道を模索する青年の姿。伊吹信介。
生くべきための自らの思想の確立を求めて
あらゆる経験を得ようとする。
プロレタリアートという言葉の響きによって、すべてを覆い尽くそうとする。
大学が大学の本来的機能として存在するのではなく
青年の人間集団としての存在。
価値ある生き方への模索。
共産党員の経験を持ちながらも、家族への失意、愛への失意
など 不明確な失意に彩られながら
カオルという女性にあうことによって、激しく変化し、
新たな出発を期す人間。

青年のくぐる門は どこにあるのか。
青年としての体験、性であり、失意であり、誠実さだった。
現実の社会を傍観的に見ながら、
その渦にまきこまれず、人の生き方として描く。
価値なき価値ある人生への確かなものへの模索。

久しぶりに 小説を読んだ。
内灘夫人が、やけに人気ある。
デラシネとしての 自分の認識。

大江健三郎を少しかじってみよう。
彼の誠実さが
五木寛之は、もっと読もう。

touxia at 10:23|PermalinkComments(0)

2074年04月06日

桜の色めかしい

なぜ 好きなのか?
と言う問いに答えをだすことは、むつかしい。
人の恋愛を見ながら、客観的な立場を装い
分析することは、おもしろいかもしれないが、
なすべき行為ではない。

恋愛と個人の評価は分離すべきである。
しかし その個人の評価によって 規定される恋愛観だ。
政治的であってはならぬ。
その混同は、避けるべき問題だ。

春について

季節とは奇妙だ。何故ならば、人の心をかえる。
春は 好きな季節ではない。
ほかほかしすぎ。

日本の花は 桜。
桜は おもしろい。大げさな花だから。
一つの花だけでなく 集団の花。

日本では 杉の美しさが忘れられている。
しかし、夜の桜は その光の角度によって
色めかしい。


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2074年04月03日

春の乱気流

春の乱気流

いつしか若者たちは、結婚を考えた。
二人の愛情の到達点から必要だと。
確かめあったものを 結実させるために
不明確なものでなく 確かな形態を。

正常な恋愛関係を発展させるために
互いの成長のために
そして 豊かな潤いのある生活のために

しかし、若者たちは、学生だった。
世に言う 扶養家族。
経済的に見ても、社会的に見ても、
不安定な青年だった。

なんとしても、解決したいために
互いに、必死に話し合った。
そして、親の納得も得ようとした。

しかし、若者たちは、
不純な心でなくて、すがすがしい顔をしていった。
「ぼくたちの愛を見て欲しい」

たじろがずに こたえたものはいなかった。
振り向いて、こたえた。
「学生なのに」と。

春の乱気流。
暖かな太陽のもとで
愛らしい花は、ポッと咲いた。
あまりにも、寄り添い、
可能性は一人のものよりも二人のものとして。

【メモ】
視野が狭く、そして、自分にも降りかかってくるとは。

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2074年02月27日

負けんぞー

2月27日

負けんぞー。負けんぞー。
決して 弱さに 負けないぞ。
もっと 強い意志を。

【メモ】
この頃は、精神的に、一番辛い時期だったと思う。
大学は、卒業できず、いろいろ抱えてしまった時期。
その時に考えていることが、
まだ 地面に足がついていない。
まるで、空を飛んでいるような雰囲気がある。

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2074年02月21日

さかさま

いつかは その人に会わなければならないのだろう。
そして、離れていくのだろう。
いつかは さみしさを感じるだろう。
そして、離れていくのだろう。
いつかは 涙をながすだろう。
そして、離れていくのだろう。
いつかは いつかは 苦しむだろう。
しかし、終わるだろう。いつかは。

好きであるということは、一体どういうことだろう。
疑うことのできない世界なのだろうか。
世界へぼくを運んでっておくれよ。
この未熟児を。
そして、この甘ったれ坊主を。

…だろう。
…だろう。
そして、
…だろう。
…だろう。
そして、終わるのだ。

今日は、頭の構造が、さかさまだ。
どうしてだろう。
だろう。
だろう。
それ、さかさまだ。

あったかい 湯気のたつご飯と
しじみの味噌汁と
白菜の漬物を
本当に味わったのはいつのことだったろう。

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主体性。

「厳しさ」とは、例えようもないほど強いものである。
自らを 強靭な人間へと如何に形成するのかが
鍵を握っている。
主体性という重み。

闘いつつ学ぶ。学びつつ戦う。

困難性が覆いかぶさってくる。
ひたすらに、遠すぎる。
わかった評価は、明確に誤りだ。
まだまだ 距離がある。
ローマは一日にして成らず。
しかし、ローマを作ることを決心することはできる。
この距離は、単純なものではない。

高い頂上を見て、じっと立ち尽くす。
しかし、指を舐めて、たたずむことは許されない。

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2074年02月18日

ぼくは海を行こうと思う。

2月18日  のぶひとのメルヘン

ぼくは 海に行こうと思う。
海のかおりを 眼でいっぱい嗅ぐのだ。
海のおとを 体で 聞くのだ。
海の風を 耳で 感じるのだ。
そして 塩あさり焼きを 腹一杯食うのだ。

ぼくは 海を行こうと思う。
あまりの大きさゆえに ぼくをよせつけない海。
いくら叫んでも、
いくら石を投げても、
いくら眼をかっぴらいても、
誰も よせつけない海。
しかし 海は、ぼくの期待を裏切っても静かだ。

ぼくは 海を行こうと思う。
はるか遠くの国を 見ようとして、
今も ファシストがのさばっているチリを
今も アメリカ軍が 爆撃しているベトナムを
怒りの炎が 海を越えて 届いてくる。
海が 真っ赤に燃えている。そんな海を。

ぼくは 海を行こうと思う。
必ず この海を越えて 
新たな人生を築く決意を
海に どんと見せてやりたいのだ。

海よ!
ゴーリキーの海のように 吹き荒れろ!
われ 「海燕」たらん!
ぼくは 海を行こうと思う。

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2074年02月17日

不治の病

2月17日  朝刊より

日経新聞を読んだ。
とても、衝撃の事件だった。
子供が 不治の病 だったので、自殺したという。

中日新聞の報道では述べられていないが
東京の医者は「左半身」が 不随と書いてあった。

なんという悲劇だろう。
医学とは、その到達点は?
現在も「原因不明」があるのだ。

「静かなる死」
「悔しい科学の力」
我と人々に もっと輝く科学の力を
そして、わずかな勇気を。

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2074年02月16日

偶然と必然

2月16日 よる 土曜日  とても静かな夜。

最近の問題意識の整理、および方向性と課題。

自然科学は、自然=物理的自然を対象とする。
自然科学の中に、自然の法則をどのように正しく反映させるかが、
重要であり、その過程が科学の実践である。
→ 科学・自然科学・自然

科学をめぐっての階級闘争と階級闘争の中での科学の役割。

生物化学・生化学・化学生物学・分子生物学の相互関連。
生命現象解明の到達点と課題。
生命科学・ライフサイエンスとは。

Monodの「偶然と必然」をめぐって、その哲学観の解明
→ エンゲルスを批判している。
ウニベルシタスの自然概念も、エンゲルス批判に似ている。

確実に読みこなすべき本
オパーリン 生命の起源
バナール 科学の社会的機能
エンゲルス 自然の弁証法
モノー 偶然と必然
ワトソン 二重らせん
ジャコブ 生物の論理



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2074年02月13日

夜の地下鉄

2月13日 (よる)  水曜

雪が降る。ほんの少しだけど。
とにかく、寒さを感じさせる。
雪山では、雪崩が起きて、名古屋YMCAの三人が死んだ。
ほんの少しの脅威。

アルバイトの帰り。
夜の地下鉄は、嫌いだ。
疲れた ぼっこのサラリーマン。赤ら顔の土建屋風。
何を考えているのか、わからない パート風のおばちゃん。
トロシンパのうつろな眼。みんな よどんだ顔つきだ。
僕の鋭い目つきは、地下鉄のガラスに突き刺さる。
怒ってはいないんだ。しかし、とても嫌いだ。
夜の地下鉄は。

明日は、バレンタインデー。
長い歴史を持つ 男と女の日。
レシチンの入ったチョコレートが、チョコレート屋の大宣伝のために
愛 愛 愛に大変わり。
チョコレートの大売りの日。
しかし、温もりが生まれたって?
あぁ。なんと商業主義に 乗っかっていることやら。

しかし、明日はバレンタインデー
25歳になる俺も、きいろい歯をむき出して
「俺はもうこねぇだろうな」っていうのも、
あまり 様にならない お話。

あーあ。わずかな雪がまた降り出した。
おやすみ。健康のために。

touxia at 13:40|PermalinkComments(0)

2074年02月07日

自由

君は、束縛が嫌いだ。
自由でありたいと思っている。
しかし、自由とはなんだろうか。

ヘーゲルは「自由とは必然への洞察」と述べている。

僕は、もっと君に望みたい。
自由であること。自由というものに固執すること。
中途半端な抑圧は拒むことを。
そして、もっと自由であれ。
何よりも、自由は尊いものであるからこそ。


touxia at 13:27|PermalinkComments(0)

農学評論

農学評論とは、いかにして「農学」「評論」となりうるか?
創刊号を読んだ 若干のメモ

農学の現実の立脚点であるべき農業は、
世界的規模で急速に破壊されつつあり、
特に日本の農業の破壊は、眼を覆うばかりである。
逆に言えば、農学はその存在基盤を失いつつある。

農学評論の意義は
「科学と社会の有機的関連」を把握し、
科学の社会的役割と社会において科学者の役割を明確にしながら、
全面的に発達した 科学者への自己変革する上での
「不断の実践と理論的な究明」の場である。

創刊号にふさわしい 真の農学確立への模索への第一歩である。
模索らしく
「農学者は、農業の寄生虫である」
「農学栄えて、農業滅ぶ」「農学の本質を忘れた農学部」
という現実の告発から出発している。

その中で考えねばならないことは
「農学とは何か」という問題である。

農学は、単純に「農民のための農学」であることだけを
モットーにすることは、現実に立脚し得ない考え方であると思う。

学問の対象と大学の目的と研究方法と
学問の成果の還元は、どうあるべきなのかは、
もっと総合的な視点で考慮されねばならないのではないだろうか。
そして、不可分の農業のあり方を考えねばならないのでは。
理学部の改組という考えは、なぜ起こるのだろうか。
確かに、農学はどこへ行くのか 不明確である。

touxia at 13:23|PermalinkComments(0)

敗戦直後の記憶から

古在由重(著) 「敗戦直後の記憶から」74年世界2月号

古い存在であるべき人である古在氏が
なんと新しい感覚を持ち生きているのだろう。

まず歴史観と自らの存在観について。
「およそ 歴史は、我々の狭い展望を超えて創造的だ。」
という意見は、風雪に鍛えぬかれた 
マルクス主義者として、重要な展開である。
しかし、さらに続けて
「理論はいつでも新しい現実、そして過去よりは
さらに複雑な状勢にぶつからざるを得ないのではないか?
しかも、この創造的な現実の事態による厳しい試練に
耐え抜き、新しい未来の到来を先取するということ。
まさに、このことにこそ 科学的な理論の力、
科学的世界観の使命ではなかったのか?」
と述べ
「過去における自己への確信へのもたれかかり」
を厳しく自己点検している。

哲学者の存在基盤は、現実であり、現実を変革しうる力である。
現代に生きるという複雑な条件でも、さししめす科学の力に対する確信を。
「現実と変革の科学」の重みをいまこそ感じることである。

touxia at 13:07|PermalinkComments(0)

濃霧よ 立ち去れ

2月7日 夜。二日続いての雨。
「自然」の扉をコツコツとたたく。
その不可解な扉を。ー「たたけよ。さらば開かれん。」
自然の中に包含される「生物」そして、奇妙なる「生命現象」
神は、人間の英知と理性によって切り刻まれ、崩壊せしめた。
神の偶像を我々は拒否する。
だが しかし「人間の力」はまだ足らないのだ。

新たなる闘争は、この間の自らの生活の全否定であり、
「確実な知識」こそ未来を開くがスローガンである。
24歳から25歳へと移行する時期に
自らの価値は、すべて崩壊させざるを得ない。
自らの頭脳は emptyである。
しかし、次の次の次の斗争のために、
最大限立ち向かわなくてはならない。

嵐は、今の僕にはわからない。
どこから、どのように、吹いているかさえも、
そして 道しるべさえもない。
だけれども、嵐に向かって突き進むこと。
その勇気は持っている。
早く、早く 濃霧よ 立ち去れ。
広く広がる 視野をよこせ。
たとえ 荒野であったとしても
そして 真正面に嵐を受けたとしても。

touxia at 12:39|PermalinkComments(0)

2074年01月31日

壮大なゼロ

壮大な「ゼロ」からの出発。

よろこぶべきだ この厳しさ。
悲しむべきだ この不勉強。
突き進め、
この課題に向かって。

【メモ】
不思議だな。
失意の時に 青春とは何かを 考えている。
方向が、違うような気がする。

touxia at 12:11|PermalinkComments(0)

2074年01月27日

群像の讃歌

青春讃歌とは、なんと尊大な表題だろう。
「青春とは、青年とは」という問題は、
次の時代と内包する萌芽が隠されている。
それは、甘ったるい甘えん坊といたづらっぽいガキ大将が
複雑に入り混じりながら、
うつむき加減で、肩をまるめて歩くときもあれば、
嬉々として、友に語りかける時もある。時期である。

青春とは、僕だけのものではない。
その時代の制約がありながらも、
英知と情熱は、それを打ち破る力をたくわえるだろう。
そのエネルギーを忘れてはならない。
ノートに閉じ込めてはならない。
青春讃歌は、僕一人で歌ってはならない。
群像の讃歌でなければならない。
雄々しく変革する青年の讃歌でなければならない。

わずかな感情を正しく評価し、
積極的な側面を正確に把握できうること。
進歩のモメントを引き出しうるものでなければならない。
未来と過去から、青春を捉え
現在を歩み出すこと。それが僕の任務である。

古在由重氏が「人間讃歌」を73年1月31日に発売する。
彼の鋭利なメスは、
戦中、戦後、新たな時代に立ち向かっている。
年老いたマルクス主義者の思想をかじるだけであってはならない。
決して。

touxia at 11:44|PermalinkComments(0)

青春讃歌

この「青春讃歌」を書き綴るにあたって

「くやしさ」とは、若さゆえのものだろうか。
それとも、成長する段階において、
乗り越える過程での軋轢なのだろうか。

反動のプログラムと民主のプログラムの対決に
発展しつつある段階において、創造と模索は、
私にとって、必要なものであり、私自身の課題である。

何度も「乗り越える課題」を設定し、
乗り越えるための努力をはかってきた。
しかし、自らの歴史的弱点は、乗り越えようとしても
乗り越えぬことのできぬ
歴然たるものとして登場し、壁として立ちふさがっている。
なにゆえなのか、それは僕に突きつけた疑問である。
その疑問は、避けてとうることができない問題である。

自らの「頭脳と心」を余すところなくくみつくしてこそ
僕は、僕自身たりうるのである。

僕にとって、73年とは、なにだったのか?
そして、74年とは、どうしなければならないのか?

自己改造への一歩を。着実な一歩を。
今こそ、切り開いて行くために。

【メモ】
これを日記から、書き写しているのは
2019年1月27日。
今から、45年まえの 日記なのである。


touxia at 11:29|PermalinkComments(0)