マイケルサンデル
2013年06月21日
それをお金で買いますか
大澤真幸はいう
(転載)
『 ■市場は道徳をときに締め出すことがある
お金で買えないものはあるか。もちろん、ある。ほとんどの人は、そう断言するだろう。
しかし、お金で買えないものは、最近ではあまり多くはない。今や、ほとんどのあらゆるものが売りに出されているからである。その傾向は、特にアメリカでは強い。そして、アメリカで起きたことは、たいていほかの国でも、少し遅れて現れる。
アメリカ社会の実情から、「今ではこんなものまで買えるのか」という例をいくつか列挙してみよう。
・インドの代理母に妊娠をアウトソーシングすると6250ドル。
・アメリカ合衆国の永住権が50万ドル(50万ドル投資して、失業率の高い地域に10の就職口を生み出した外国人は、グリーンカードをもらえる)。
・額(ひたい)などの身体の一部を広告用に貸し出すと(入れ墨で「そうだ、ニュージーランドに行こう」とかスローガンを書くのを認めると)777ドル。
・民間軍事会社の一員としてアフガニスタンなどで戦うと月給250ドル~日給1000ドル。
・ロビイストのために連邦議会議事堂の前の行列に徹夜で並ぶと、時給15~20ドル。
・生徒が本を一冊読むと2ドル(成績不振の生徒に報奨金を出して読書を奨励する学校がある)。
・肥満体の人が4カ月で14ポンド(約6・4㎏)痩せると378ドル(医療保険会社などが減量などの健康的生活に報奨金を出す)。
・公立高校のフットボール場の命名権が10万~100万ドル(企業は、宣伝のために、自社名やブランド名を組み込んだフットボール場にしたい)。
・1トンの炭素を大気中に排出する権利は13ユーロ(これは欧州連合[EU]の炭素排出市場のケース)。
……と、もうきりがないので、このくらいにしておく。
しかし、このように列挙してみると、何かが根本的に間違っている、という気分にならないだろうか。いや、全然問題ない、これでいいのだ、と言う人もいるだろう。だが、何かがおかしい、と感じる人の方が多いはずだ。
われわれは、今、すべてが市場での売り物になる社会に向かっている。そのことに問題はないのか。倫理や正義といった、人間と社会にとって最も重要な価値にかかわる問題はないのか。本書で、世界一講義の上手な哲学者マイケル・サンデルが、この問題に挑んでいる。
サンデルは、こう言っている。われわれの社会は、市場経済をもつ状態から、市場社会である状態へと転換した、と。市場経済とは、生産活動・交換活動を統制する道具である。市場社会というのは、人間の営みのすべての側面に市場価値が浸透している生活様式である。市場社会では、すべての社会関係のひな型が、市場での取引になる。本書の問いは、要するに、われわれが望んでいるのは市場経済なのか、市場社会なのか、ということである。
*現金の贈り物?
本書は、夥(おびただ)しい数の例をあげながら、この問いをめぐり考察している。いろいろなことが書かれているが、最も重要な論点だけ、かいつまんで紹介しておこう。最も重要な点とは、「市場による道徳の締め出し」と呼ばれている現象である。別の言い方としては、「商品化効果(商品化にともなう道徳的腐敗)」などとも呼ばれている。
あまり極端ではない事例から入ってみよう。贈り物という例である。近年、商品券やギフトカードを贈るのが流行(はや)っている。これらは、特定の物を贈ることと現金を贈ることの中間形態であると言える。つまり、贈り物という慣行が、現金化の方向へとかなり引っ張られているのだ。
われわれは皆、贈り物によって、相手を喜ばせたいと思っている。つまり、相手の満足度、幸せな気持ちを高めたい、と。そして同時に、欲しかった物をもらい、自分も満足したいと願っている。とすれば、市場の論理からすると、贈り物としては常に、現金がベストであるということになる。まさに自分が欲しい物が贈られる、などということはほとんどないからである。
実際、人々の効用(満足度)を最大化するために、贈り物は現金であるべきだ、と主張している経済学者もいる。その経済学者によると、贈り物として受け取った品物の価値を、受け取る側は、平均して20%低く評価するのだそうだ。つまり、1万円の品物をもらっても、その人は、「1万円は高過ぎだろう。まあ8千円くらいだったら買ってもいいが」と感じるということである。したがって、アメリカで年に650億ドルがクリスマスで使われるわけだが、そこから得られる満足度は500億ドル相当にとどまる、ということである。そこで件の経済学者は、アメリカ人は130億ドル分の価値破壊の乱痴気(らんちき)騒ぎでクリスマスを祝っている、と主張することになる。その無駄をなくすためには、現金そのものをプレゼントすればよい。
だが、それならばどうして、われわれは実際にはクリスマスや誕生日に現金を贈り合う、ということをしないのだろうか。状況(日本の場合だと、結婚披露宴に持っていく祝儀や香典など)によっては、現金を贈ることもあるが、しかし多くの場合、われわれは現金の贈り物にどこか嫌悪感を覚える。商品券やギフトカードは妥協の産物である。相手が欲しくない物をあげるリスクを避けたいが、現金も避けたい、というわけである。この贈り物というありふれた行為を見ただけでも、市場の論理、経済学の論理には何か見落としがあるのではないか、ということが示唆される。サンデルは、このように論を進める。
*赤ん坊の取引
今度は、もっと極端な例を引用してみよう。赤ん坊を売る、という例である。養子に出される赤ん坊の割り当てを市場によって決めるのだ。「法と経済」という名前の運動の中心人物、リチャード・ポズナー判事は実際に、このような方法を提案したそうである。もちろん、買い手である将来の親に魅力的だと見なされた赤ん坊には高値がつく。だが明らかに、現行の養子縁組制度より自由市場の方が、効率的に赤ん坊を割り当てるという。
ところが、ポズナーのこの提案には多くの反論が出た。市場による割り当ての何がいけないのだろうか。市場で割り当てられたからといって、赤ん坊の価値、つまり赤ん坊の善さ(引き取った親に与える幸福の度合い)が変化するわけではない。赤ん坊にしても、市場を使えば、自分を最も高く評価してくれる親に効率的かつ正確に引き取られることになるはずだ。誰一人として、これで満足度が下がることはない。では何がいけないのか。
有力な反論は、規範を腐敗させる、というものである。子どもに値札を付けると、親の無条件の愛という規範が腐敗する。また、子どもには価格差がでるので、子どもの価値が、人種とか、性別とか、知的・身体的能力とかによって決まるという、よからぬ価値観を強化する。このように、ある種の道徳的・市民的善は、市場で売買されると傷つき腐敗してしまうという議論がある……と、サンデルは(好意的に)紹介する。「市場による道徳の締め出し」とは、この腐敗の別名である。
*金銭的インセンティブの逆効果
経済学者は「インセンティブ」という語をよく用いる。経済学は「インセンティブの研究」だと言い切ってしまう経済学者もいるほどだ。最近では、「インセンティバイズ」などという動詞まで使われる。インセンティバイズとは、金銭的なインセンティブ(誘因)を与えて、人を動機づけることである。たとえば、一冊本を読めば2ドルを与えよう、という方法は、「インセンティバイズ」の一例である。
このように、インセンティブという語は経済学のキー概念のように言われているが、しかし、経済学の父であるアダム・スミスの本には、「インセンティブ」という語は一度も出てこない。そんな昔まで遡(さかのぼ)らなくても、私が大学生のときに使った教科書、ポール・サミュエルソンの『経済学』にさえも「インセンティブ」は登場しない。インセンティブが経済学の主役になったのはごく最近のこと、1990年以降のことである。
この金銭的インセンティブの効果に関して、本書にはきわめて興味深い実験が紹介されている。この実験は「市場による道徳の締め出し」ということで、サンデルが何を言おうとしているのかを、よく例示している。それは、イスラエルの高校生を対象とした実験である。
イスラエルでは、高校生が毎年、ある指定された「寄付の日」にガン研究とか障害児援助といった有意義な目的のための資金を得るために、家々をまわって寄付を募るのだそうだ。実験では、彼ら高校生を三つのグループに分けた。第一グループは、寄付の重要性を説く短いスピーチを聞かされ、送り出された。第二、第三グループも同じスピーチを聞かされるのだが、同時に、集めた金額に応じた金銭的報酬も出ると告げられた。それぞれ、1%、10%という歩合だった(報酬は、寄付から差し引かれるのではなく、別の財源から提供される)。
さて、どのグループが最も多くの寄付を集められたか。無報酬の第一グループだったのだ! ついで10%の第三グループ、1%の第二グループとなる。第三グループが、第二グループより成績がよかったのは、当たり前に思える。第三グループの金銭的インセンティブの方が大きいからだ。だが、第三グループが第二グループに勝った同じ原因が効いているのであれば、第一グループが最下位なるはずだ。ところが、第一グループが最優秀だったのだ。どうしてなのか。
金銭的な報酬を与えることで、高校生の善行の性質が根本的に変わってしまったからだ、とサンデルは説明する。高校生は、善い目的への使命感をもって行為にとりくもうとしていた。だが、報酬を提供されたとたんに、それは善行ではなく、自分のためのアルバイトに変質してしまったのだ。このケースでは、公共的な善への使命感の方が、アルバイトの報酬よりも強く高校生を動機づけたのである。これこそ、「市場(金銭的インセンティブによって商品や賃労働にすること)による道徳(善なる目的への奉仕という行為の意味づけ)の締め出し」という現象である。
標準的な経済学の見解では、善なるものを商品にしても、その善の性質は変わらない。このケースでは、寄付を集める行為の善さは、その行為に労賃を支払おうと支払うまいと変わらない、とされる。だから、金銭的インセンティブを増やせば、必ず供給も増える、というのが経済学の発想だ。この実験では、奉仕活動にアルバイト代まで出せば、生徒たちはますますがんばるはずである。
しかし、この標準的な理論は、どうやらまちがっているらしい。市場化によって、行為の道徳的な性質そのものが損なわれることがあるのだ。経済学者は、市場は道徳や価値観から中立だ、と言うが、そうではないのだ。これが、本書におけるサンデルの最も重要な主張である。
*地球を汚すことへの許可証
サンデルは、この主張を補強する、興味深い事実をいくつもあげている。やはりイスラエルの、保育所に関する研究が示唆的である。その保育所は、ある問題に直面していた。ときどき、親が子どもを迎えにくるのが遅くなるのだ。そんなとき、保育士一人が子どもと一緒に残らなくてはならなかった。この問題を解決しようと、保育所は、定刻に遅れた親から罰金を徴収することに決めた。するとどうなったのか。なんと、迎えに遅刻する親が増えてしまったのだ。
どうしてこんなことになったのか。お金を払わせることによって、規範と行為の性質が変わってしまったからである。以前は、遅刻する親は後ろめたさを感じ、保育士に申し訳ないと感じていた。しかし、罰金を払うことで、親の後ろめたさはすっかり消えてしまったのだ。親は罰金を、遅刻を許す料金のように扱ったのだ。
この例が非常に重要である。この保育所の対策は、地球温暖化を防止するために二酸化炭素の排出権というものを設定し、それを市場で取引させようという発想と同じだからである。企業は、二酸化炭素をたくさん出すためには排出権を購入しなくてはならない。その分、企業のコストは大きくなる。だから、受け取りようによっては、排出権は、余分な二酸化炭素を出したことに対する「罰金」のようなものである。
イスラエルの保育園では、親は罰金を払うことで、余計に遅刻するようになった。罰金が遅刻を許している、と受け取るからである。同じように、排出権は地球を汚染することを許す、という含意をもつ。排出権をもつことで、企業は心おきなく二酸化炭素を出すことができるようになるだろう。
排出権を市場で取引される商品とするということは、次のような状況と類比的である。たとえば富士山にやってくる登山者のゴミのポイ捨てがひどくて、富士山が汚染されているとしよう。そこで、ポイ捨て権というものを設定する。登山中に、ペットボトルなどを捨てるつもりの人は、このポイ捨て権を購入しなくてはならない。この権利をもたない者は、自分でゴミを持ち帰らなくてはならない。ポイ捨て権の価格を、罰金と考えても、ゴミを捨てるための料金と考えてもかまわない。富士山の管理人は、このポイ捨て権に対して登山者が支払ったお金で人を雇って、富士山を掃除させる。いずれにせよ、ポイ捨て権をもっている人は、良心の呵責(かしゃく)を感じることなく、ゴミを捨てるようになるだろう。
二酸化炭素の排出権にもどろう。排出権というものを設定し、それを市場で取引可能な商品にするということは、よい温暖化対策なのだろうか。よいのかもしれない。この制度が、排出権を無駄遣いしないように、あるいは余分に排出権を購入してコストが高くならないように、企業にさまざまな努力を強いることで、大気に流される二酸化炭素の量は減るかもしれない。だが、排出権は、道徳的にはあまり好ましくない態度を育てることにもなりうる。排出権は、ボイ捨てへの許可証である。この商品は、地球を巨大なゴミ捨て場と見る感受性をかえって育てているとも言えるからである。
イスラエルの保育所のケースには、さらに後日談がある。逆効果に気づいた保育所は、罰金制度をやめにした。しかし、遅刻の頻度はもとに戻らず、高止まってしまったのである。金銭の導入によっていったん変質してしまった規範の性質は、もうもとに戻らないのだ。
*本書の教訓
繰り返そう。サンデルが本書で特に強調していることは、市場は道徳に対して中立ではなく、ときに道徳を締め出してしまう、ということである。高級な価値、高級な善のための行為が、市場化されたり金銭的報酬と関係づけられたりしたことによって、致命的に損なわれることがある。
だからといって、市場化が全面的にダメだと、サンデルは述べているわけではない。ときには、そのような道徳の締め出しがあっても、市場化したほうが望ましい場合もあるかもしれない。たとえば、二酸化炭素排出権の導入によって、結果として、温暖化にブレーキがかかるのであれば、それでよいのかもしれない。企業が、どんな内面的な動機をもっていようと、どんな規範に従っていようと、そんなことはどちらでもよい、ということもありうる。
ただ、われわれは、市場化がこのような道徳的な効果をもつこと、このことを自覚しておかなくてはならない。その上で、二つのことを考慮しなくてはならない。第一に、市場的なルールが非市場的な規範を締め出すとき、その締め出しは、配慮に値する損失なのかどうか。たとえば読書した生徒に金銭的報酬を与えると、ある規範(お金のための読書) が、別の規範(知的好奇心のための読書)を締め出すかもしれないが、その損失は、許容できるものなのか。第二に、その締め出しが、当初の目的にとって逆効果ということはないのか、それとも締め出しがあっても、目的は達成できるのか。たとえば、金銭のために読書をしていれば、やがてきちんと読書の習慣が身に付くのか、逆に、本が嫌いになってしまうということはないのか。
*低級な規範と高級な規範
以上は、本書の最も重要な主張の要約である。これをもとに、もう少しだけ考察を深めておこう。「反論」ではないが、私には、さらに問いたい疑問が、二つある。
サンデルは、市場の規範は低級で、それが高級な規範を押しのける、と論じている。しかし、低級/高級とは何だろうか。これが第一の疑問である。何が、規範の低級と高級を決めているのだろうか。どうして、市場のルールは、低級な規範のように感じられるのだろうか。
第二に、どうして、低級な方の市場的規範が、高級な非市場的規範を締め出すのか。なぜ、高級な方の規範が、低級な規範に、概して負けるのか。高級な規範は、高級なのに踏みとどまることができないのか。
まず、第一の疑問から。サンデルは、アプリオリに高級な規範と低級な規範があるかのように論じているが、規範を低級/高級に見せる原因がある。商品として対象を評価する行為が、常に低級なものに見えるのには、明確な理由があるのだ。
答えはカントが示唆している。倫理についてのカントの公準は、「他者を『手段』としてのみならず『目的』として扱え」というものである。行為の対象やそれが差し向けられている他者が、それ自体、目的になっていて、何か別のことの手段ではない、これが、規範が高級に見えるための(少なくとも)必要条件である。
赤ん坊を養子として引き取るとき、その赤ん坊は、何かの手段ではない。養父母は、奴隷として働かせようとか、老後の世話をさせるために赤ん坊を引き取るわけではない。彼らは、その子どもの存在それ自体が価値ある目的と見なしている。あるいは、寄付金を集める行為は、それ自体で価値のある崇高な行為である。
それに対して、他者や対象を手段として扱う規範は低級なものと感じられる。そして、あるものを商品と見なすことは、必然的に、それを手段として、何かの利益につながりうる手段として扱うことを意味してしまう。だから、市場の規範は、低級で下劣だと感じられてしまうのだ。たとえば、ある赤ん坊を1千万円で引き取ったとする。その瞬間に、その子どもは5百万円の子どもより有用で、2千万円の子どもほどには役立たない道具として扱われたことになる。実際に、その子を働かせて、稼がせるかどうかは別に、商品と見なしたとたんにすでに潜在的に道具である。あるいは、寄付を集める行為が賃労働になった瞬間に、それは、金銭的な報酬のための手段になる。
どうして、商品と見ることが、手段と見なすことを含意するのか。商品の価値は、お金(貨幣)との対応で決まる。商品として見るということは、それを、ある量のお金と等価なものと見なすことだ。お金は、本来は、それ自体としては価値をもたない。それは、何かと交換するための媒体である。お金は、普遍的な交換可能性であり(つまり、市場の中の他の任意の対象と交換可能な媒体であり)、したがって、常に「他の何かXのためのもの」である。つまり、お金は、市場の中では、他の何にでも転換されうる普遍的な手段である。対象を商品と見なしたとたんに、すなわち、それを(一定量の)貨幣と等価であると判断したとたんに、「普遍的な手段」としての貨幣の性質が、その対象にも伝染するのである。
だから、ある対象を、それ自体で「目的」と見なすためには、それが商品でもありうることをカッコに入れ、忘れる必要がある。たとえば、私はこの文章を書くことに、それ自体として価値があるように思っているが、そういう確信を維持するためには、原稿料のことを忘れなくてはならない。原稿料いくらの仕事と見たとたんに、それは、ただの手段に落ちる。
*原発をめぐるスイスと日本
ずいぶん長い書評になってしまったが、最後に、もう一度だけ、サンデルの本文に戻っておきたい。日本人にとって、3・11の原発事故を体験したあとの日本人にとって、実に参考になるある調査が紹介されているのだ。それは、スイスで実施された意識調査である。
スイスは、原子力エネルギーに大きく依存している。そのため、どうしても放射性廃棄物の貯蔵場所が必要だった。だが、そんな危険な廃棄物を抱え込もう、というコミュニティーはほとんどなかった。
検討の末、スイス中央部の人口2千人程度の小さな寒村が、有力な候補地としてあがった。1993年、この問題をめぐる住民投票の直前に、数人の経済学者が、村民の意識調査を実施した。彼らは、村民に、「もし連邦議会がこの村に放射性廃棄物処理場を建設するのが望ましいと決定したら、処理場の受け入れに賛成票を投ずるか」と質問した。この施設はたいへんな迷惑施設だという見解が広まっていたが、ぎりぎり過半数の住民(51%)が、受け入れに賛成であると回答した。
経済学者たちは、続いて次のように質問した。「もし連邦議会が廃棄物処理場の建設を提案するとともに、村民一人ひとりに補償金を支払うことを申し出たとしよう。そのとき、提案に賛成するか」と。賛成の数は増えるはずだ、と思いきや。賛成者の比率は、半減してしまったのである(25%)。
金銭的なインセンティブが加わったせいで、かえって、賛成者が減ってしまった。どうしてだろうか。このスイスの村民は、寄付金集めの活動を行った、イスラエルの高校生と同じ気持ちになったのである。金銭的な報酬が与えられることで、行為の意味がすっかり変わってしまったのだ。
村民たちは、おそらく、最初はこう考えたのだ。スイスに原発が必要ならば、国民の義務として処理施設のリスクを引き受けよう、と。処理場の受け入れは、国民としての崇高な使命である。しかし、補償金が与えられるとしたら、それは、金銭的な報酬を目当てとする卑俗な行為になってしまう。そうなれば、あえてリスクを引き受けることに意欲がわいてこない。その行為に英雄的なところは、全然なくなってしまったからである。
さて、この状況を日本と比べてみよう。すぐに気づくだろう。原発関連の施設を立地している日本のコミュニティーは、このスイスの寒村とはまったく逆の反応を示してきた、と。日本では、多額の交付金が得られるから、つまり金銭的なインセンティブがあったから、地方の自治体が原発とその関連施設を受け入れたのだ。もし金銭的インセンティブがなかったら、原発を受け入れようというコミュニティーはどこにもなかっただろう。ということは、日本には、原発や廃棄物処理場のリスクを引き受けることを、価値ある義務であると感じた人は、ほとんどいなかった、ということになる。とすれば、やはり、原発を造るべきではなかった、と言うほかない。
もし、日本人が、原発をもつことが国民として価値ある国民的プロジェクトであると納得していれば、金銭的なインセンティブ(交付金)などなくても、原発を受け入れたいというコミュニティーがたくさんあったはずだ。いや、それどころか、交付金など要らない、と叩(たた)き返して、原発を受け入れるコミュニティーがあったはずだ。』
(転載)
『 ■市場は道徳をときに締め出すことがある
お金で買えないものはあるか。もちろん、ある。ほとんどの人は、そう断言するだろう。
しかし、お金で買えないものは、最近ではあまり多くはない。今や、ほとんどのあらゆるものが売りに出されているからである。その傾向は、特にアメリカでは強い。そして、アメリカで起きたことは、たいていほかの国でも、少し遅れて現れる。
アメリカ社会の実情から、「今ではこんなものまで買えるのか」という例をいくつか列挙してみよう。
・インドの代理母に妊娠をアウトソーシングすると6250ドル。
・アメリカ合衆国の永住権が50万ドル(50万ドル投資して、失業率の高い地域に10の就職口を生み出した外国人は、グリーンカードをもらえる)。
・額(ひたい)などの身体の一部を広告用に貸し出すと(入れ墨で「そうだ、ニュージーランドに行こう」とかスローガンを書くのを認めると)777ドル。
・民間軍事会社の一員としてアフガニスタンなどで戦うと月給250ドル~日給1000ドル。
・ロビイストのために連邦議会議事堂の前の行列に徹夜で並ぶと、時給15~20ドル。
・生徒が本を一冊読むと2ドル(成績不振の生徒に報奨金を出して読書を奨励する学校がある)。
・肥満体の人が4カ月で14ポンド(約6・4㎏)痩せると378ドル(医療保険会社などが減量などの健康的生活に報奨金を出す)。
・公立高校のフットボール場の命名権が10万~100万ドル(企業は、宣伝のために、自社名やブランド名を組み込んだフットボール場にしたい)。
・1トンの炭素を大気中に排出する権利は13ユーロ(これは欧州連合[EU]の炭素排出市場のケース)。
……と、もうきりがないので、このくらいにしておく。
しかし、このように列挙してみると、何かが根本的に間違っている、という気分にならないだろうか。いや、全然問題ない、これでいいのだ、と言う人もいるだろう。だが、何かがおかしい、と感じる人の方が多いはずだ。
われわれは、今、すべてが市場での売り物になる社会に向かっている。そのことに問題はないのか。倫理や正義といった、人間と社会にとって最も重要な価値にかかわる問題はないのか。本書で、世界一講義の上手な哲学者マイケル・サンデルが、この問題に挑んでいる。
サンデルは、こう言っている。われわれの社会は、市場経済をもつ状態から、市場社会である状態へと転換した、と。市場経済とは、生産活動・交換活動を統制する道具である。市場社会というのは、人間の営みのすべての側面に市場価値が浸透している生活様式である。市場社会では、すべての社会関係のひな型が、市場での取引になる。本書の問いは、要するに、われわれが望んでいるのは市場経済なのか、市場社会なのか、ということである。
*現金の贈り物?
本書は、夥(おびただ)しい数の例をあげながら、この問いをめぐり考察している。いろいろなことが書かれているが、最も重要な論点だけ、かいつまんで紹介しておこう。最も重要な点とは、「市場による道徳の締め出し」と呼ばれている現象である。別の言い方としては、「商品化効果(商品化にともなう道徳的腐敗)」などとも呼ばれている。
あまり極端ではない事例から入ってみよう。贈り物という例である。近年、商品券やギフトカードを贈るのが流行(はや)っている。これらは、特定の物を贈ることと現金を贈ることの中間形態であると言える。つまり、贈り物という慣行が、現金化の方向へとかなり引っ張られているのだ。
われわれは皆、贈り物によって、相手を喜ばせたいと思っている。つまり、相手の満足度、幸せな気持ちを高めたい、と。そして同時に、欲しかった物をもらい、自分も満足したいと願っている。とすれば、市場の論理からすると、贈り物としては常に、現金がベストであるということになる。まさに自分が欲しい物が贈られる、などということはほとんどないからである。
実際、人々の効用(満足度)を最大化するために、贈り物は現金であるべきだ、と主張している経済学者もいる。その経済学者によると、贈り物として受け取った品物の価値を、受け取る側は、平均して20%低く評価するのだそうだ。つまり、1万円の品物をもらっても、その人は、「1万円は高過ぎだろう。まあ8千円くらいだったら買ってもいいが」と感じるということである。したがって、アメリカで年に650億ドルがクリスマスで使われるわけだが、そこから得られる満足度は500億ドル相当にとどまる、ということである。そこで件の経済学者は、アメリカ人は130億ドル分の価値破壊の乱痴気(らんちき)騒ぎでクリスマスを祝っている、と主張することになる。その無駄をなくすためには、現金そのものをプレゼントすればよい。
だが、それならばどうして、われわれは実際にはクリスマスや誕生日に現金を贈り合う、ということをしないのだろうか。状況(日本の場合だと、結婚披露宴に持っていく祝儀や香典など)によっては、現金を贈ることもあるが、しかし多くの場合、われわれは現金の贈り物にどこか嫌悪感を覚える。商品券やギフトカードは妥協の産物である。相手が欲しくない物をあげるリスクを避けたいが、現金も避けたい、というわけである。この贈り物というありふれた行為を見ただけでも、市場の論理、経済学の論理には何か見落としがあるのではないか、ということが示唆される。サンデルは、このように論を進める。
*赤ん坊の取引
今度は、もっと極端な例を引用してみよう。赤ん坊を売る、という例である。養子に出される赤ん坊の割り当てを市場によって決めるのだ。「法と経済」という名前の運動の中心人物、リチャード・ポズナー判事は実際に、このような方法を提案したそうである。もちろん、買い手である将来の親に魅力的だと見なされた赤ん坊には高値がつく。だが明らかに、現行の養子縁組制度より自由市場の方が、効率的に赤ん坊を割り当てるという。
ところが、ポズナーのこの提案には多くの反論が出た。市場による割り当ての何がいけないのだろうか。市場で割り当てられたからといって、赤ん坊の価値、つまり赤ん坊の善さ(引き取った親に与える幸福の度合い)が変化するわけではない。赤ん坊にしても、市場を使えば、自分を最も高く評価してくれる親に効率的かつ正確に引き取られることになるはずだ。誰一人として、これで満足度が下がることはない。では何がいけないのか。
有力な反論は、規範を腐敗させる、というものである。子どもに値札を付けると、親の無条件の愛という規範が腐敗する。また、子どもには価格差がでるので、子どもの価値が、人種とか、性別とか、知的・身体的能力とかによって決まるという、よからぬ価値観を強化する。このように、ある種の道徳的・市民的善は、市場で売買されると傷つき腐敗してしまうという議論がある……と、サンデルは(好意的に)紹介する。「市場による道徳の締め出し」とは、この腐敗の別名である。
*金銭的インセンティブの逆効果
経済学者は「インセンティブ」という語をよく用いる。経済学は「インセンティブの研究」だと言い切ってしまう経済学者もいるほどだ。最近では、「インセンティバイズ」などという動詞まで使われる。インセンティバイズとは、金銭的なインセンティブ(誘因)を与えて、人を動機づけることである。たとえば、一冊本を読めば2ドルを与えよう、という方法は、「インセンティバイズ」の一例である。
このように、インセンティブという語は経済学のキー概念のように言われているが、しかし、経済学の父であるアダム・スミスの本には、「インセンティブ」という語は一度も出てこない。そんな昔まで遡(さかのぼ)らなくても、私が大学生のときに使った教科書、ポール・サミュエルソンの『経済学』にさえも「インセンティブ」は登場しない。インセンティブが経済学の主役になったのはごく最近のこと、1990年以降のことである。
この金銭的インセンティブの効果に関して、本書にはきわめて興味深い実験が紹介されている。この実験は「市場による道徳の締め出し」ということで、サンデルが何を言おうとしているのかを、よく例示している。それは、イスラエルの高校生を対象とした実験である。
イスラエルでは、高校生が毎年、ある指定された「寄付の日」にガン研究とか障害児援助といった有意義な目的のための資金を得るために、家々をまわって寄付を募るのだそうだ。実験では、彼ら高校生を三つのグループに分けた。第一グループは、寄付の重要性を説く短いスピーチを聞かされ、送り出された。第二、第三グループも同じスピーチを聞かされるのだが、同時に、集めた金額に応じた金銭的報酬も出ると告げられた。それぞれ、1%、10%という歩合だった(報酬は、寄付から差し引かれるのではなく、別の財源から提供される)。
さて、どのグループが最も多くの寄付を集められたか。無報酬の第一グループだったのだ! ついで10%の第三グループ、1%の第二グループとなる。第三グループが、第二グループより成績がよかったのは、当たり前に思える。第三グループの金銭的インセンティブの方が大きいからだ。だが、第三グループが第二グループに勝った同じ原因が効いているのであれば、第一グループが最下位なるはずだ。ところが、第一グループが最優秀だったのだ。どうしてなのか。
金銭的な報酬を与えることで、高校生の善行の性質が根本的に変わってしまったからだ、とサンデルは説明する。高校生は、善い目的への使命感をもって行為にとりくもうとしていた。だが、報酬を提供されたとたんに、それは善行ではなく、自分のためのアルバイトに変質してしまったのだ。このケースでは、公共的な善への使命感の方が、アルバイトの報酬よりも強く高校生を動機づけたのである。これこそ、「市場(金銭的インセンティブによって商品や賃労働にすること)による道徳(善なる目的への奉仕という行為の意味づけ)の締め出し」という現象である。
標準的な経済学の見解では、善なるものを商品にしても、その善の性質は変わらない。このケースでは、寄付を集める行為の善さは、その行為に労賃を支払おうと支払うまいと変わらない、とされる。だから、金銭的インセンティブを増やせば、必ず供給も増える、というのが経済学の発想だ。この実験では、奉仕活動にアルバイト代まで出せば、生徒たちはますますがんばるはずである。
しかし、この標準的な理論は、どうやらまちがっているらしい。市場化によって、行為の道徳的な性質そのものが損なわれることがあるのだ。経済学者は、市場は道徳や価値観から中立だ、と言うが、そうではないのだ。これが、本書におけるサンデルの最も重要な主張である。
*地球を汚すことへの許可証
サンデルは、この主張を補強する、興味深い事実をいくつもあげている。やはりイスラエルの、保育所に関する研究が示唆的である。その保育所は、ある問題に直面していた。ときどき、親が子どもを迎えにくるのが遅くなるのだ。そんなとき、保育士一人が子どもと一緒に残らなくてはならなかった。この問題を解決しようと、保育所は、定刻に遅れた親から罰金を徴収することに決めた。するとどうなったのか。なんと、迎えに遅刻する親が増えてしまったのだ。
どうしてこんなことになったのか。お金を払わせることによって、規範と行為の性質が変わってしまったからである。以前は、遅刻する親は後ろめたさを感じ、保育士に申し訳ないと感じていた。しかし、罰金を払うことで、親の後ろめたさはすっかり消えてしまったのだ。親は罰金を、遅刻を許す料金のように扱ったのだ。
この例が非常に重要である。この保育所の対策は、地球温暖化を防止するために二酸化炭素の排出権というものを設定し、それを市場で取引させようという発想と同じだからである。企業は、二酸化炭素をたくさん出すためには排出権を購入しなくてはならない。その分、企業のコストは大きくなる。だから、受け取りようによっては、排出権は、余分な二酸化炭素を出したことに対する「罰金」のようなものである。
イスラエルの保育園では、親は罰金を払うことで、余計に遅刻するようになった。罰金が遅刻を許している、と受け取るからである。同じように、排出権は地球を汚染することを許す、という含意をもつ。排出権をもつことで、企業は心おきなく二酸化炭素を出すことができるようになるだろう。
排出権を市場で取引される商品とするということは、次のような状況と類比的である。たとえば富士山にやってくる登山者のゴミのポイ捨てがひどくて、富士山が汚染されているとしよう。そこで、ポイ捨て権というものを設定する。登山中に、ペットボトルなどを捨てるつもりの人は、このポイ捨て権を購入しなくてはならない。この権利をもたない者は、自分でゴミを持ち帰らなくてはならない。ポイ捨て権の価格を、罰金と考えても、ゴミを捨てるための料金と考えてもかまわない。富士山の管理人は、このポイ捨て権に対して登山者が支払ったお金で人を雇って、富士山を掃除させる。いずれにせよ、ポイ捨て権をもっている人は、良心の呵責(かしゃく)を感じることなく、ゴミを捨てるようになるだろう。
二酸化炭素の排出権にもどろう。排出権というものを設定し、それを市場で取引可能な商品にするということは、よい温暖化対策なのだろうか。よいのかもしれない。この制度が、排出権を無駄遣いしないように、あるいは余分に排出権を購入してコストが高くならないように、企業にさまざまな努力を強いることで、大気に流される二酸化炭素の量は減るかもしれない。だが、排出権は、道徳的にはあまり好ましくない態度を育てることにもなりうる。排出権は、ボイ捨てへの許可証である。この商品は、地球を巨大なゴミ捨て場と見る感受性をかえって育てているとも言えるからである。
イスラエルの保育所のケースには、さらに後日談がある。逆効果に気づいた保育所は、罰金制度をやめにした。しかし、遅刻の頻度はもとに戻らず、高止まってしまったのである。金銭の導入によっていったん変質してしまった規範の性質は、もうもとに戻らないのだ。
*本書の教訓
繰り返そう。サンデルが本書で特に強調していることは、市場は道徳に対して中立ではなく、ときに道徳を締め出してしまう、ということである。高級な価値、高級な善のための行為が、市場化されたり金銭的報酬と関係づけられたりしたことによって、致命的に損なわれることがある。
だからといって、市場化が全面的にダメだと、サンデルは述べているわけではない。ときには、そのような道徳の締め出しがあっても、市場化したほうが望ましい場合もあるかもしれない。たとえば、二酸化炭素排出権の導入によって、結果として、温暖化にブレーキがかかるのであれば、それでよいのかもしれない。企業が、どんな内面的な動機をもっていようと、どんな規範に従っていようと、そんなことはどちらでもよい、ということもありうる。
ただ、われわれは、市場化がこのような道徳的な効果をもつこと、このことを自覚しておかなくてはならない。その上で、二つのことを考慮しなくてはならない。第一に、市場的なルールが非市場的な規範を締め出すとき、その締め出しは、配慮に値する損失なのかどうか。たとえば読書した生徒に金銭的報酬を与えると、ある規範(お金のための読書) が、別の規範(知的好奇心のための読書)を締め出すかもしれないが、その損失は、許容できるものなのか。第二に、その締め出しが、当初の目的にとって逆効果ということはないのか、それとも締め出しがあっても、目的は達成できるのか。たとえば、金銭のために読書をしていれば、やがてきちんと読書の習慣が身に付くのか、逆に、本が嫌いになってしまうということはないのか。
*低級な規範と高級な規範
以上は、本書の最も重要な主張の要約である。これをもとに、もう少しだけ考察を深めておこう。「反論」ではないが、私には、さらに問いたい疑問が、二つある。
サンデルは、市場の規範は低級で、それが高級な規範を押しのける、と論じている。しかし、低級/高級とは何だろうか。これが第一の疑問である。何が、規範の低級と高級を決めているのだろうか。どうして、市場のルールは、低級な規範のように感じられるのだろうか。
第二に、どうして、低級な方の市場的規範が、高級な非市場的規範を締め出すのか。なぜ、高級な方の規範が、低級な規範に、概して負けるのか。高級な規範は、高級なのに踏みとどまることができないのか。
まず、第一の疑問から。サンデルは、アプリオリに高級な規範と低級な規範があるかのように論じているが、規範を低級/高級に見せる原因がある。商品として対象を評価する行為が、常に低級なものに見えるのには、明確な理由があるのだ。
答えはカントが示唆している。倫理についてのカントの公準は、「他者を『手段』としてのみならず『目的』として扱え」というものである。行為の対象やそれが差し向けられている他者が、それ自体、目的になっていて、何か別のことの手段ではない、これが、規範が高級に見えるための(少なくとも)必要条件である。
赤ん坊を養子として引き取るとき、その赤ん坊は、何かの手段ではない。養父母は、奴隷として働かせようとか、老後の世話をさせるために赤ん坊を引き取るわけではない。彼らは、その子どもの存在それ自体が価値ある目的と見なしている。あるいは、寄付金を集める行為は、それ自体で価値のある崇高な行為である。
それに対して、他者や対象を手段として扱う規範は低級なものと感じられる。そして、あるものを商品と見なすことは、必然的に、それを手段として、何かの利益につながりうる手段として扱うことを意味してしまう。だから、市場の規範は、低級で下劣だと感じられてしまうのだ。たとえば、ある赤ん坊を1千万円で引き取ったとする。その瞬間に、その子どもは5百万円の子どもより有用で、2千万円の子どもほどには役立たない道具として扱われたことになる。実際に、その子を働かせて、稼がせるかどうかは別に、商品と見なしたとたんにすでに潜在的に道具である。あるいは、寄付を集める行為が賃労働になった瞬間に、それは、金銭的な報酬のための手段になる。
どうして、商品と見ることが、手段と見なすことを含意するのか。商品の価値は、お金(貨幣)との対応で決まる。商品として見るということは、それを、ある量のお金と等価なものと見なすことだ。お金は、本来は、それ自体としては価値をもたない。それは、何かと交換するための媒体である。お金は、普遍的な交換可能性であり(つまり、市場の中の他の任意の対象と交換可能な媒体であり)、したがって、常に「他の何かXのためのもの」である。つまり、お金は、市場の中では、他の何にでも転換されうる普遍的な手段である。対象を商品と見なしたとたんに、すなわち、それを(一定量の)貨幣と等価であると判断したとたんに、「普遍的な手段」としての貨幣の性質が、その対象にも伝染するのである。
だから、ある対象を、それ自体で「目的」と見なすためには、それが商品でもありうることをカッコに入れ、忘れる必要がある。たとえば、私はこの文章を書くことに、それ自体として価値があるように思っているが、そういう確信を維持するためには、原稿料のことを忘れなくてはならない。原稿料いくらの仕事と見たとたんに、それは、ただの手段に落ちる。
*原発をめぐるスイスと日本
ずいぶん長い書評になってしまったが、最後に、もう一度だけ、サンデルの本文に戻っておきたい。日本人にとって、3・11の原発事故を体験したあとの日本人にとって、実に参考になるある調査が紹介されているのだ。それは、スイスで実施された意識調査である。
スイスは、原子力エネルギーに大きく依存している。そのため、どうしても放射性廃棄物の貯蔵場所が必要だった。だが、そんな危険な廃棄物を抱え込もう、というコミュニティーはほとんどなかった。
検討の末、スイス中央部の人口2千人程度の小さな寒村が、有力な候補地としてあがった。1993年、この問題をめぐる住民投票の直前に、数人の経済学者が、村民の意識調査を実施した。彼らは、村民に、「もし連邦議会がこの村に放射性廃棄物処理場を建設するのが望ましいと決定したら、処理場の受け入れに賛成票を投ずるか」と質問した。この施設はたいへんな迷惑施設だという見解が広まっていたが、ぎりぎり過半数の住民(51%)が、受け入れに賛成であると回答した。
経済学者たちは、続いて次のように質問した。「もし連邦議会が廃棄物処理場の建設を提案するとともに、村民一人ひとりに補償金を支払うことを申し出たとしよう。そのとき、提案に賛成するか」と。賛成の数は増えるはずだ、と思いきや。賛成者の比率は、半減してしまったのである(25%)。
金銭的なインセンティブが加わったせいで、かえって、賛成者が減ってしまった。どうしてだろうか。このスイスの村民は、寄付金集めの活動を行った、イスラエルの高校生と同じ気持ちになったのである。金銭的な報酬が与えられることで、行為の意味がすっかり変わってしまったのだ。
村民たちは、おそらく、最初はこう考えたのだ。スイスに原発が必要ならば、国民の義務として処理施設のリスクを引き受けよう、と。処理場の受け入れは、国民としての崇高な使命である。しかし、補償金が与えられるとしたら、それは、金銭的な報酬を目当てとする卑俗な行為になってしまう。そうなれば、あえてリスクを引き受けることに意欲がわいてこない。その行為に英雄的なところは、全然なくなってしまったからである。
さて、この状況を日本と比べてみよう。すぐに気づくだろう。原発関連の施設を立地している日本のコミュニティーは、このスイスの寒村とはまったく逆の反応を示してきた、と。日本では、多額の交付金が得られるから、つまり金銭的なインセンティブがあったから、地方の自治体が原発とその関連施設を受け入れたのだ。もし金銭的インセンティブがなかったら、原発を受け入れようというコミュニティーはどこにもなかっただろう。ということは、日本には、原発や廃棄物処理場のリスクを引き受けることを、価値ある義務であると感じた人は、ほとんどいなかった、ということになる。とすれば、やはり、原発を造るべきではなかった、と言うほかない。
もし、日本人が、原発をもつことが国民として価値ある国民的プロジェクトであると納得していれば、金銭的なインセンティブ(交付金)などなくても、原発を受け入れたいというコミュニティーがたくさんあったはずだ。いや、それどころか、交付金など要らない、と叩(たた)き返して、原発を受け入れるコミュニティーがあったはずだ。』
2013年04月12日
これから正義の話をしよう(16)
これから正義の話をしよう マイケルサンデル(著)
ケネディは 1968年3月18日 カンザス大学で、演説した。
『アメリカのGNPは、今や年間8000億ドルを超えている。
だが、そのGNPの内訳には、大気汚染、タバコの広告、高速道路から多数の遺体を撤去するための救急車も含まれる。玄関のドアにつける特性の錠と、それを破る人たちの入る監獄も含まれる。
セコイヤの伐採、節操なく広がる都市によって失われる自然の驚異も含まれる。
ナパーム弾、核弾頭、都市の暴動で、警察が出動させる装甲車も含まれる。
それに、子供達にオモチャをうるために暴力を美化するテレビ番組も含まれる。
それなのに、GNPには、子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上は関係しない。詩の美しさ、結婚の強さ、市民の論争の知性、公務員の品位は、含まれない。我々の機知も勇気も、知恵も、学識も、思いやりも国への献身も、評価されない。要するに、GNPが評価するのは、生き甲斐のある人生のすべてだ。そして、GNPは、アメリカのすべてを我々に教えるが、アメリカ人であることを誇りに思う理由だけは、教えてくれない。』
ケネディは 1968年3月18日 カンザス大学で、演説した。
『アメリカのGNPは、今や年間8000億ドルを超えている。
だが、そのGNPの内訳には、大気汚染、タバコの広告、高速道路から多数の遺体を撤去するための救急車も含まれる。玄関のドアにつける特性の錠と、それを破る人たちの入る監獄も含まれる。
セコイヤの伐採、節操なく広がる都市によって失われる自然の驚異も含まれる。
ナパーム弾、核弾頭、都市の暴動で、警察が出動させる装甲車も含まれる。
それに、子供達にオモチャをうるために暴力を美化するテレビ番組も含まれる。
それなのに、GNPには、子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上は関係しない。詩の美しさ、結婚の強さ、市民の論争の知性、公務員の品位は、含まれない。我々の機知も勇気も、知恵も、学識も、思いやりも国への献身も、評価されない。要するに、GNPが評価するのは、生き甲斐のある人生のすべてだ。そして、GNPは、アメリカのすべてを我々に教えるが、アメリカ人であることを誇りに思う理由だけは、教えてくれない。』
touxia at 14:08|Permalink│Comments(0)│
これから正義の話をしよう(15)
これから正義の話をしよう マイケルサンデル(著)
・ 正義へのアプローチは3つある。
①功利主義者のアプローチで、福祉、すなわち社会全体の幸福を最大化する方法を考えることで、正義を定義し、なすべきことを見極める。
➡正義と権利を原理ではなく、計算の対象としている。
➡人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平にならして、個々の質的な違いを考慮しない。
②正義を自由と結びつける。
これはリバタリアンを例に考えるとわかりやすい。リバタリアンは、完全な自由市場で財とサービスを自由に交換することが、収入と富の公正な分配につながると考える。市場を規制することは、個人の選択の自由を侵すことになるので公正ではない。
➡尊重に値する権利を選び出すことはせず、人々の嗜好をあるがままに受け入れる。
③道徳的な観点から見て人々にふさわしいものを与えることー美徳に報い、美徳を促すために財を与えることを正義と見なす。これはアリストテレスの考えと同様に、正義を善良な生活に関する考えと結びつける。
・ 正義へのアプローチは3つある。
①功利主義者のアプローチで、福祉、すなわち社会全体の幸福を最大化する方法を考えることで、正義を定義し、なすべきことを見極める。
➡正義と権利を原理ではなく、計算の対象としている。
➡人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平にならして、個々の質的な違いを考慮しない。
②正義を自由と結びつける。
これはリバタリアンを例に考えるとわかりやすい。リバタリアンは、完全な自由市場で財とサービスを自由に交換することが、収入と富の公正な分配につながると考える。市場を規制することは、個人の選択の自由を侵すことになるので公正ではない。
➡尊重に値する権利を選び出すことはせず、人々の嗜好をあるがままに受け入れる。
③道徳的な観点から見て人々にふさわしいものを与えることー美徳に報い、美徳を促すために財を与えることを正義と見なす。これはアリストテレスの考えと同様に、正義を善良な生活に関する考えと結びつける。
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これから正義の話をしよう(14)
これから正義の話をしよう マイケルサンデル(著)
ジョンローズが、アメリカ占領下の日本で、ヒロシマの惨状を
見ることで、深い衝撃を受け、『正義』ということを考えた。
戦争においても、人間の尊厳と権利は、守られるべきだと
考えたことが、すごいことだ。
ヒロシマの原爆投下に対して、正確に批判していることは、
大切であり、そのようなアメリカ人がいることに、気づかされた。
少なくとも、日本の戦争は、非人間化していたが、
その非人間化という問題を、正面据えて考えねばならないだろう。
アメリカの奴隷制に関して、今の世代が、奴隷を雇ったこともない
ということから、今でも、そのことを謝罪しなければならないのか?
というテーマは、日本と中国の関係に深く関わってくる。
戦争を起こし、中国を占領し、残虐な行為をした日本軍のことを、
戦争後に生まれた日本人は、どのように謝罪すべきなのか?
中国の持つ多様で少数民族がある国は、アメリカと似た部分がある。
しかし、それは、アメリカと中国の方法論はずいぶんと違う。
中国には、基本的人権が、確立されていない。
マイケルサンデルはいう
『自分を拘束する責務はすべて自分で決める。』312ページ
この言葉は、ずいぶんと重い。
ジョンローズが、アメリカ占領下の日本で、ヒロシマの惨状を
見ることで、深い衝撃を受け、『正義』ということを考えた。
戦争においても、人間の尊厳と権利は、守られるべきだと
考えたことが、すごいことだ。
ヒロシマの原爆投下に対して、正確に批判していることは、
大切であり、そのようなアメリカ人がいることに、気づかされた。
少なくとも、日本の戦争は、非人間化していたが、
その非人間化という問題を、正面据えて考えねばならないだろう。
アメリカの奴隷制に関して、今の世代が、奴隷を雇ったこともない
ということから、今でも、そのことを謝罪しなければならないのか?
というテーマは、日本と中国の関係に深く関わってくる。
戦争を起こし、中国を占領し、残虐な行為をした日本軍のことを、
戦争後に生まれた日本人は、どのように謝罪すべきなのか?
中国の持つ多様で少数民族がある国は、アメリカと似た部分がある。
しかし、それは、アメリカと中国の方法論はずいぶんと違う。
中国には、基本的人権が、確立されていない。
マイケルサンデルはいう
『自分を拘束する責務はすべて自分で決める。』312ページ
この言葉は、ずいぶんと重い。
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これから正義の話をしよう(13)
これから正義の話をしよう マイケルサンデル(著)
わかりやすい事例が、述べられて、それを多面的に考察する。
そのことによって、功利主義、自由至上主義を説明し、
カント、ジョンロールズ、アリストテレスに分け入って行く。
正義とは、正しいとは、と常に問いかける。
ある意味では、アメリカが訴訟社会であるからこそ、
その腑分け作業が、明確にされるのかもしれない。
ケイシーマーティンの訴訟が、
ゴルフの本質を、明らかにする。
障害があることで、カートを使うことは、不公平なのか?
アファーマティブ・アクションは、逆転差別なのだろうか?
日本では、考え及ばない アメリカの国の多様性が、
浮き彫りになっている。
いやー。マイケルサンデルは、議論の天才なのだ。
わかりやすい事例が、述べられて、それを多面的に考察する。
そのことによって、功利主義、自由至上主義を説明し、
カント、ジョンロールズ、アリストテレスに分け入って行く。
正義とは、正しいとは、と常に問いかける。
ある意味では、アメリカが訴訟社会であるからこそ、
その腑分け作業が、明確にされるのかもしれない。
ケイシーマーティンの訴訟が、
ゴルフの本質を、明らかにする。
障害があることで、カートを使うことは、不公平なのか?
アファーマティブ・アクションは、逆転差別なのだろうか?
日本では、考え及ばない アメリカの国の多様性が、
浮き彫りになっている。
いやー。マイケルサンデルは、議論の天才なのだ。
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2013年04月11日
これから正義の話をしよう(12)
これから正義の話をしよう マイケルサンデル(著)
正義とは何か。
そのことを考えて行く上で、アリストテレスが言ったことが、
意味がある。
アリストテレスはいう
正義は、目的に関わる。
正しさを定義するには、問題となる社会的営みの『目的因』(目的、最終目標、本質)を知らなければいけない。
正義は名誉に関わる。
ある営みの目的因について考えるーあるいは論じるーことは、少なくとも部分的には、その営みが賞賛し、報いを与える美徳は何かを考え論じることである。
正義とは何か。
そのことを考えて行く上で、アリストテレスが言ったことが、
意味がある。
アリストテレスはいう
正義は、目的に関わる。
正しさを定義するには、問題となる社会的営みの『目的因』(目的、最終目標、本質)を知らなければいけない。
正義は名誉に関わる。
ある営みの目的因について考えるーあるいは論じるーことは、少なくとも部分的には、その営みが賞賛し、報いを与える美徳は何かを考え論じることである。
touxia at 22:18|Permalink│Comments(0)│
2013年04月10日
これから正義の話をしよう(11)
これから正義の話をしよう マイケルサンデル(著)
アメリカは、契約と訴訟社会だ。
日本では、このような事件は起こらないだろう。
子供が生まれない夫婦が、代理母親と契約を結んだ。
精子は、夫のもので、卵子は代理母親のもので、
産んだら、一万ドルの費用を払うとした。
ところが、代理母親は、子供を産んだら、子供と一緒に逃げてしまった。
その二人は、見つけられたが、訴訟となった。
第一審は、契約は神聖なもので、気が変わったといって、
変えることはできない。といって、代理母親は、全面敗訴。
代理母親は、最高裁に上告。
最高裁は、契約そのものを無効とした。
子供は、夫に親権が確認され、代理母親には訪問権が与えられた。
文明社会では、金で買えないものがあると判事は言った。
ところが、科学が進み、卵子も 妻のものが使われるようになり、
受精卵を 代理母親に、植え付けることで、母親の遺伝的な絆は、
なくなった。
精子、卵子、産む母親は、別にすることができた。
さらに、アメリカでは、コストがかかるというので、
インドで、アウトソーシングする仕組みができたという。
4500ドルで、請け負う仕組みで、月25ドルの女性にとって、
十分な報酬で、その仕事が広がっているという。
ふーむ。
何か、とんでもないことになっている。
アメリカは、契約と訴訟社会だ。
日本では、このような事件は起こらないだろう。
子供が生まれない夫婦が、代理母親と契約を結んだ。
精子は、夫のもので、卵子は代理母親のもので、
産んだら、一万ドルの費用を払うとした。
ところが、代理母親は、子供を産んだら、子供と一緒に逃げてしまった。
その二人は、見つけられたが、訴訟となった。
第一審は、契約は神聖なもので、気が変わったといって、
変えることはできない。といって、代理母親は、全面敗訴。
代理母親は、最高裁に上告。
最高裁は、契約そのものを無効とした。
子供は、夫に親権が確認され、代理母親には訪問権が与えられた。
文明社会では、金で買えないものがあると判事は言った。
ところが、科学が進み、卵子も 妻のものが使われるようになり、
受精卵を 代理母親に、植え付けることで、母親の遺伝的な絆は、
なくなった。
精子、卵子、産む母親は、別にすることができた。
さらに、アメリカでは、コストがかかるというので、
インドで、アウトソーシングする仕組みができたという。
4500ドルで、請け負う仕組みで、月25ドルの女性にとって、
十分な報酬で、その仕事が広がっているという。
ふーむ。
何か、とんでもないことになっている。
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これから正義の話をしよう(10)
これから正義の話をしよう マイケルサンデル(著)
アメリカは、やはり、発想が違うなぁ。
南北戦争に時に、徴兵制だったが、
お金で、身代わりを立てても良かった。
そのことから、300ドル払えば、徴兵制を免除することが、
できることになったらしい。
それで、兵隊は、徴兵制、お金で代替え徴兵制、志願兵の
3つの方法がある。
一番公平に見えるのが 志願兵である。しかし、給与などが高くなる。
問題は、国民の義務ということに抵触する。
志願兵がさらに進んで、傭兵制となる。
2007年7月 イラクで、アメリカ政府が契約している民間人 18万人。
アメリカ軍駐留部隊が、16万人という。
契約した民間人は、後方支援業務の担当が多い。5万人は、警備部隊。
イラクでは、民間人 1200人以上が殺された。
民間軍事企業のブラックウォーター社は、10億ドル超で、戦争業務を受託した。
軍隊の作り方も、実にアメリカらしい。
アメリカは、やはり、発想が違うなぁ。
南北戦争に時に、徴兵制だったが、
お金で、身代わりを立てても良かった。
そのことから、300ドル払えば、徴兵制を免除することが、
できることになったらしい。
それで、兵隊は、徴兵制、お金で代替え徴兵制、志願兵の
3つの方法がある。
一番公平に見えるのが 志願兵である。しかし、給与などが高くなる。
問題は、国民の義務ということに抵触する。
志願兵がさらに進んで、傭兵制となる。
2007年7月 イラクで、アメリカ政府が契約している民間人 18万人。
アメリカ軍駐留部隊が、16万人という。
契約した民間人は、後方支援業務の担当が多い。5万人は、警備部隊。
イラクでは、民間人 1200人以上が殺された。
民間軍事企業のブラックウォーター社は、10億ドル超で、戦争業務を受託した。
軍隊の作り方も、実にアメリカらしい。
touxia at 18:27|Permalink│Comments(0)│
これから正義の話をしよう⑼
これから正義の話をしよう。
を、読み始めて、違う本ばかり読んでいたので、
今週中に、本を返さなくてはいけないので、読み始めた。
しかし、この本は、そう簡単には、読めない。
格差という問題について、トピック的に取り組んでいる。
マイケルジョーダンの収入が多いことを、どう公平にするのか?
ということについて、取り組んでいる。
確かに、格差 ということを、明らかにしている。
格差社会というテーマは、その設定が正しいのだろうか。
問題の設定が、どうも正しいと思えないのだが。
『アメリカの金持ち上位1%が、国中の富の3分の一以上を保有し、
その額は、下位90%の世帯の資産を合計した額より多い。
アメリカの上位10%の世帯が、全所得の42%を手にし、
全資産の71%を保有している。』とマイケルサンデルはいう。
多くの収入を得ている人の資産を分配するという方法で、
解決するのだろうか。
何もすることができない としたら、私のものは、私のものだ。
たとえば、腎臓を売ったり、自殺をしたり、
自分を売って、食べられてしまうというようなことを、どう見るのか?
自分の体と命は自分のものだから、自分の好きなように使って構わない。
を、読み始めて、違う本ばかり読んでいたので、
今週中に、本を返さなくてはいけないので、読み始めた。
しかし、この本は、そう簡単には、読めない。
格差という問題について、トピック的に取り組んでいる。
マイケルジョーダンの収入が多いことを、どう公平にするのか?
ということについて、取り組んでいる。
確かに、格差 ということを、明らかにしている。
格差社会というテーマは、その設定が正しいのだろうか。
問題の設定が、どうも正しいと思えないのだが。
『アメリカの金持ち上位1%が、国中の富の3分の一以上を保有し、
その額は、下位90%の世帯の資産を合計した額より多い。
アメリカの上位10%の世帯が、全所得の42%を手にし、
全資産の71%を保有している。』とマイケルサンデルはいう。
多くの収入を得ている人の資産を分配するという方法で、
解決するのだろうか。
何もすることができない としたら、私のものは、私のものだ。
たとえば、腎臓を売ったり、自殺をしたり、
自分を売って、食べられてしまうというようなことを、どう見るのか?
自分の体と命は自分のものだから、自分の好きなように使って構わない。
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2013年01月21日
正義(3)マイケル・サンデル
マイケルサンデルの講義をyoutube でみて、
その卓越した 講義の やり方に、感心した。
質問し、発言させる。
その核心をついて、反対意見を求める。
今の中心的な問題に、ざっくりと切り込んで行く。
そして、その核心的なテーマは、『正義』。
正義の根拠を、幸福、自由、そして、美徳におく。
そこから、価値がぶつかって行く。
カントだったら、アリストテレスだったら。
徳、道徳というところに、視点を据えることで、
ニンゲンの本質に迫ることができる。
正しいことをしよう。
という呼びかけは、様々な価値のぶつかりの中で、
民主主義を形成し、自分で考えることが、できるようになる。
自分で考えねばならないのである。
今、その本を、読んでいるが、ちょっと読みにくい。
切れ味が、あまり良くない。文というのは、そういう性格なのか。
編集力が足りないのだろうか。
その卓越した 講義の やり方に、感心した。
質問し、発言させる。
その核心をついて、反対意見を求める。
今の中心的な問題に、ざっくりと切り込んで行く。
そして、その核心的なテーマは、『正義』。
正義の根拠を、幸福、自由、そして、美徳におく。
そこから、価値がぶつかって行く。
カントだったら、アリストテレスだったら。
徳、道徳というところに、視点を据えることで、
ニンゲンの本質に迫ることができる。
正しいことをしよう。
という呼びかけは、様々な価値のぶつかりの中で、
民主主義を形成し、自分で考えることが、できるようになる。
自分で考えねばならないのである。
今、その本を、読んでいるが、ちょっと読みにくい。
切れ味が、あまり良くない。文というのは、そういう性格なのか。
編集力が足りないのだろうか。
touxia at 23:27|Permalink│Comments(0)│
マイケルサンデルの講義に参加して⑷
小飼弾はいう。
(転載)
『早川書房様のご招待により、マイケル・サンデル特別講義に行って来た。
そこで出た入試の話。「ある有名校に、出来がイマイチの子供の親が、「2000万ドル寄付するのでウチの子も入れてくれ」と言って来た。入れるのは正義か否か」という話題に、私はこう答えた。
「入れるべき。2000万ドルあれば、その子を入れるだけではなく、教員や校舎や奨学金を拡充して、実力はあってもお金がない子の枠も増やせる。どちらも受け入れられるではないか」
おかげでサンデル教授に「ダン学校」がさんざん再利用される羽目になったのは想定の範囲として、
「ダン学校」の運営方針のどこに問題があるのか、自ら答えてみようと思う。
その前に、「ダン学校」の運営方針が別に私の独創でもなんでもなく、およそ私塾であればどこでもやっていたことは指摘しておく必要があるだろう。虎眼先生も例外ではない。
着想も悪くない。実績もある。だとしたら一体どこに問題があるのか。
「誰でも入れるようになる」、そのこと自体が「問題」なのではないか。
金持ちの寄付で学校を拡充して入学枠を増やして行けば、いずれは学校は「誰もが入れる」ものになるだろう。s/寄付/税金/gとすれば、それは公立学校ということにもなる。こうすると誰が困るのか?
学校にブランドを期待する人々である。
学校が「誰もが入れる」になってしまったら、「○×学校卒」はもはや差別化要因ではなくなってしまうではないか。だとしたら誰が苦労して受験対策などするだろう。
そのとおり。
それでよいではないか。
そもそも学校とは「できない子をできるように」するための「高速道路」であって、「できる子」に「卒業生」というブランドを配布する場所ではないはずである。元々できる子だけを集める学校は、学校というものの機能を考えれば「良い学校」とはとても呼べない。学校はできない子をできるようにしてなんぼなのではないか?
もちろん高速道路を利用するためには運転免許が必要なように、高校や大学も「ここで学ぶのにあらかじめここまでは学んでおかなくてはならない」を設定し検査する必要はあるだろう。「うちの子はまだ九九が出来ないけど大学に入るのは当然の権利だ」という主張は私にも受け入れられない。しかしそれをクリアーした人であれば本来誰でも受け入れるのが学校のあるべき姿だと私は思うし、そうなっていれば「受験勉強」などという本末転倒もなくなると思うのだがいかがだろうか?
Webはすでにそうなっている。ぐぐるのに入試はいらない。iTunes Uの受講はすでに三億件を突破したそうだ。学ぶ気になればいつでもどこでも学べる時代がもう来ている。そう。学校に行かなくても。
そういう時代にあって学校を運営するとはどういうことなのか。
それこそが、サンデル教授の本当の問いなのではないだろうか。』
(転載)
『早川書房様のご招待により、マイケル・サンデル特別講義に行って来た。
そこで出た入試の話。「ある有名校に、出来がイマイチの子供の親が、「2000万ドル寄付するのでウチの子も入れてくれ」と言って来た。入れるのは正義か否か」という話題に、私はこう答えた。
「入れるべき。2000万ドルあれば、その子を入れるだけではなく、教員や校舎や奨学金を拡充して、実力はあってもお金がない子の枠も増やせる。どちらも受け入れられるではないか」
おかげでサンデル教授に「ダン学校」がさんざん再利用される羽目になったのは想定の範囲として、
「ダン学校」の運営方針のどこに問題があるのか、自ら答えてみようと思う。
その前に、「ダン学校」の運営方針が別に私の独創でもなんでもなく、およそ私塾であればどこでもやっていたことは指摘しておく必要があるだろう。虎眼先生も例外ではない。
着想も悪くない。実績もある。だとしたら一体どこに問題があるのか。
「誰でも入れるようになる」、そのこと自体が「問題」なのではないか。
金持ちの寄付で学校を拡充して入学枠を増やして行けば、いずれは学校は「誰もが入れる」ものになるだろう。s/寄付/税金/gとすれば、それは公立学校ということにもなる。こうすると誰が困るのか?
学校にブランドを期待する人々である。
学校が「誰もが入れる」になってしまったら、「○×学校卒」はもはや差別化要因ではなくなってしまうではないか。だとしたら誰が苦労して受験対策などするだろう。
そのとおり。
それでよいではないか。
そもそも学校とは「できない子をできるように」するための「高速道路」であって、「できる子」に「卒業生」というブランドを配布する場所ではないはずである。元々できる子だけを集める学校は、学校というものの機能を考えれば「良い学校」とはとても呼べない。学校はできない子をできるようにしてなんぼなのではないか?
もちろん高速道路を利用するためには運転免許が必要なように、高校や大学も「ここで学ぶのにあらかじめここまでは学んでおかなくてはならない」を設定し検査する必要はあるだろう。「うちの子はまだ九九が出来ないけど大学に入るのは当然の権利だ」という主張は私にも受け入れられない。しかしそれをクリアーした人であれば本来誰でも受け入れるのが学校のあるべき姿だと私は思うし、そうなっていれば「受験勉強」などという本末転倒もなくなると思うのだがいかがだろうか?
Webはすでにそうなっている。ぐぐるのに入試はいらない。iTunes Uの受講はすでに三億件を突破したそうだ。学ぶ気になればいつでもどこでも学べる時代がもう来ている。そう。学校に行かなくても。
そういう時代にあって学校を運営するとはどういうことなのか。
それこそが、サンデル教授の本当の問いなのではないだろうか。』
マイケルサンデルの講義に参加して⑶
マイケルサンデルの講義に参加して
(転載)
『サンデル教授は「指揮者」だった
黒板なし、スライドなし、テキストもなし。サンデル教授は壇上をぐるぐると歩き回るだけ、とてもシンプルなスタイルの講義だ
サンデル教授の講義の特徴はソクラテス型の対話方式にある。アカデミーヒルズには約500人の“学生”(おそらくほとんどは社会人)が参加していたが、講義のほとんどの時間は、教授と学生との対話に使われる。
最後、サンデル教授が講義のまとめを語り終えると、学生たちはみな立ち上がり、大きな拍手を送っていた。大学の講義で、しかも大教室の授業で、終わったあとに学生がスタンディングオベーションというのは初めて見る光景だ。
講義の時間は約2時間。その間、気がそれることも、飽きることもまったくなく、ずっと講義の内容に没頭していた。筆者は講義中Twitterで実況中継していたので他の人以上に集中していたという事情はあるものの、私語をしたり退屈しのぎに携帯をいじったりしている人は、見回した限りいなかったはずだ。自分が大学時代に受けた大教室の講義を振り返っても、これほど“一体感”があった授業は思い出せない。
しかしこの“一体感”が、一般的な大学の講義ともまた違うような気がしたのも事実だ。この違和感は何だろう? と考えて至った結論は「これは“ライブ”であり、サンデル教授は指揮者のようだった」というものだった。
一定のストーリーと用意された結論に沿って、会場の聴衆を巻き込みながら講義という名のライブが進んでいく。ときどき指名される学生の答えは、オーケストラのソロパートのようなものだ。考えが面白かったり独特だったり、感動を呼ぶものであれば――つまりソロパートの演奏が秀逸であれば、ライブはさらに盛り上がる。
もしかしたら、もっと「白熱」したかもしれない
冒頭にも書いたとおり、ハーバード大での講義のようすは、日本では『ハーバード白熱教室』というタイトルでテレビ放映された。しかし正直に言って、8月27日のこの講義が「白熱」していたかと問われると、ちょっと疑問符が付くのも事実である。
2時間の講義のなかでサンデル教授は約20名の学生を指名したが、ほとんどの人は“当てられて答えを述べる”という話し方をしていた。発言する言葉が短いのだ。最初に短く意見を述べ、その後サンデル教授に促されると考えながら言葉をつないでいく人が多かった。教授に矛盾を指摘されると話しながら悩んでしまう人もいた。
はっきりとした自分の立ち位置があり、その上で理論的に意見を述べていたのは、小飼弾さんだけだったと思う※。そのほかで筆者が強く印象に残っている人は、サンデル教授とのやりとりの中で気づきがあったキミコさんと、理論的ではないが信念の筋が通っていたカメ医師、「親は驚くべき」というシンプルな意見がストレートに本質を突いていたゴーヘイさんの3人くらいだ。
小飼さんは米国の大学にいた経験があるので、自分の立ち位置を明確にして意見を述べることに慣れているのだろう。これはディベートという行為の基本だ。英語で直接スムーズにやりとりができるというアドバンテージを差し引いても(この日の同時通訳は非常に的確だった)、小飼さんとサンデル教授のやりとりは非常に盛り上がっていた。しかしほとんどの人は学校で先生に当てられたときのように「正しい(と思う)答えをシンプルに答えること」を目指していたように見えた。
自分自身を含め、日本人の多くはディベート慣れしていない。ロジカルに意見を述べるよりも、感情論や場の雰囲気に流されがちだ。サンデル教授の“指揮者”ぶりは本当に見事だったが、逆に議論らしい議論がなく、「白熱教室」と呼ぶにはスムーズすぎた気がするのだ。英語教育だけでなく、日本人にはディベート教育も必要なのではないか。指名された学生がもっと自分の立ち位置に沿った意見を展開していたら、そして感情論に流れることなくロジカルに答えていたら、もっと白熱したのではないか……この記事を書きながら、今はそんなことを思っている。』
(転載)
『サンデル教授は「指揮者」だった
黒板なし、スライドなし、テキストもなし。サンデル教授は壇上をぐるぐると歩き回るだけ、とてもシンプルなスタイルの講義だ
サンデル教授の講義の特徴はソクラテス型の対話方式にある。アカデミーヒルズには約500人の“学生”(おそらくほとんどは社会人)が参加していたが、講義のほとんどの時間は、教授と学生との対話に使われる。
最後、サンデル教授が講義のまとめを語り終えると、学生たちはみな立ち上がり、大きな拍手を送っていた。大学の講義で、しかも大教室の授業で、終わったあとに学生がスタンディングオベーションというのは初めて見る光景だ。
講義の時間は約2時間。その間、気がそれることも、飽きることもまったくなく、ずっと講義の内容に没頭していた。筆者は講義中Twitterで実況中継していたので他の人以上に集中していたという事情はあるものの、私語をしたり退屈しのぎに携帯をいじったりしている人は、見回した限りいなかったはずだ。自分が大学時代に受けた大教室の講義を振り返っても、これほど“一体感”があった授業は思い出せない。
しかしこの“一体感”が、一般的な大学の講義ともまた違うような気がしたのも事実だ。この違和感は何だろう? と考えて至った結論は「これは“ライブ”であり、サンデル教授は指揮者のようだった」というものだった。
一定のストーリーと用意された結論に沿って、会場の聴衆を巻き込みながら講義という名のライブが進んでいく。ときどき指名される学生の答えは、オーケストラのソロパートのようなものだ。考えが面白かったり独特だったり、感動を呼ぶものであれば――つまりソロパートの演奏が秀逸であれば、ライブはさらに盛り上がる。
もしかしたら、もっと「白熱」したかもしれない
冒頭にも書いたとおり、ハーバード大での講義のようすは、日本では『ハーバード白熱教室』というタイトルでテレビ放映された。しかし正直に言って、8月27日のこの講義が「白熱」していたかと問われると、ちょっと疑問符が付くのも事実である。
2時間の講義のなかでサンデル教授は約20名の学生を指名したが、ほとんどの人は“当てられて答えを述べる”という話し方をしていた。発言する言葉が短いのだ。最初に短く意見を述べ、その後サンデル教授に促されると考えながら言葉をつないでいく人が多かった。教授に矛盾を指摘されると話しながら悩んでしまう人もいた。
はっきりとした自分の立ち位置があり、その上で理論的に意見を述べていたのは、小飼弾さんだけだったと思う※。そのほかで筆者が強く印象に残っている人は、サンデル教授とのやりとりの中で気づきがあったキミコさんと、理論的ではないが信念の筋が通っていたカメ医師、「親は驚くべき」というシンプルな意見がストレートに本質を突いていたゴーヘイさんの3人くらいだ。
小飼さんは米国の大学にいた経験があるので、自分の立ち位置を明確にして意見を述べることに慣れているのだろう。これはディベートという行為の基本だ。英語で直接スムーズにやりとりができるというアドバンテージを差し引いても(この日の同時通訳は非常に的確だった)、小飼さんとサンデル教授のやりとりは非常に盛り上がっていた。しかしほとんどの人は学校で先生に当てられたときのように「正しい(と思う)答えをシンプルに答えること」を目指していたように見えた。
自分自身を含め、日本人の多くはディベート慣れしていない。ロジカルに意見を述べるよりも、感情論や場の雰囲気に流されがちだ。サンデル教授の“指揮者”ぶりは本当に見事だったが、逆に議論らしい議論がなく、「白熱教室」と呼ぶにはスムーズすぎた気がするのだ。英語教育だけでなく、日本人にはディベート教育も必要なのではないか。指名された学生がもっと自分の立ち位置に沿った意見を展開していたら、そして感情論に流れることなくロジカルに答えていたら、もっと白熱したのではないか……この記事を書きながら、今はそんなことを思っている。』
マイケルサンデルの講義に参加して⑵
つづき
『デザイナーベビーは、親の権利の濫用なのか
サンデル 「道徳という言葉が出ましたね。別の例を挙げて考えてみましょう。知能レベルが高い子ども、ハンサムな子ども、運動能力が高い子ども、音楽の才能がある子ども……将来、新しい遺伝子工学の発展によって、こういう能力がある子どもを生めるようになったらどうしますか? 親が子どもに高い知能や優れた運動能力、容姿を求める、それは自然なことです。親が子どもをコントロールすることは、どこまで許されるのでしょう? もし将来、親が遺伝子工学を使って、より知能の高い、よりハンサムな子どもを生むことができるようになったとしたら? これも親の権利の濫用になるのでしょうか」
ノブ 「ノブです。お金があれば、親がそういうことを選択できるのはいいことではないでしょうか」
サンデル 「さっきの公平性の話に戻りましたね」
次の意見は「お金がある人だけ産み分けができて、ない人は産み分けができないとしたら、それはアンフェアだ」というものだった。それを聞いてサンデル教授はこう続ける。
サンデル 「ではこうしたらどうでしょう? 補助金制度を設けるのです。貧しい人には補助金を与えて、そういう産み分けができるようにするんです。それでも反対の人はいますか?」
レナ 「レナです。遺伝子工学のそういう考え方そのものがいけないと思います。親が子どもの将来を、生まれる前に決めてしまうんですよね? 私はいま、将来自分が何になるかを自分で決めることができる。その自由がなくなります」
サンデル 「なるほど。親が子どもの将来を決める、これは子どもの自由を損なうことになるでしょうか?」
タカフミ 「性別を判断していくことには反対です。子どもをどちらの性で生むかというのは、自己愛に沿った行為だと思うからです。デザイナーベビーは……知能を上げたり、運動神経が良い子どもを生むのも同じことです」
サンデル 「なぜ知能を上げて生むことはいけないのですか? 親が子どもをいい学校に入れたいと願う、もっと頭が良くなってほしいと考えて家庭教師を付ける……それはしてはいけないことではないですよね。ではなぜ、遺伝子工学でそれをしてはいけないのか? 頭がいい人が増えたら、もっといい社会になると思いませんか? 遺伝子工学で頭がいい子を産むのはいけなくて、入学試験に受かるよう親が望むのはいけなくない、これはなぜなのでしょうか?」
ある人はこう答えた。「よりよい子どもを遺伝子技術でつくれるようになったら、多くの人がそれを望むでしょう。すると逆に、子どもに対して遺伝子技術を使わないということが、生まれる前から子どもにハンデを与えることになってしまう。それは最終的に、遺伝子工学で子どもの能力を高めるよう(すべての親に)強制することになりませんか?」
またある人は“生まれる前”であることに着目した。「生まれる時点でそれを決定してしまうことが問題なのではないかと思います。生まれたあとで良い学校に行かせるのとは違う問題だと思うんです。でも……どうして違うんだろう……ええと、人間が“生まれる”ということに違いがあるのではないでしょうか。遺伝か環境か、という違いなのでは?」
ここまでで、講義開始から2時間近くが経っていた。この記事ではできるかぎり学生の意見を載せているが、細かい部分はかなり省略し、整理したコメントに編集している。実際にはこれだけのやりとりにはかなり時間がかかるのだ。残り少ない時間で、サンデル教授は今まで出た意見を振り返りながら講義のまとめに入る。
サンデル 「議論に参加してくれた人たち、ありがとう。反対の人も、賛成した人もいましたね。『お金がない人はどうするんですか?』という人もいました。
公正さがまたここでも話題になりました。“誰もが同じようにアクセスできなくてはならないものがあるのではないか”。これが公正さについての議論です。この話題は、医師についての議論でも出ました。あまりにも不平等だと選択の自由を害するのではないか、という考え方です。しかしもう一方で、チケット売買のように、公平さということが話題にならなかったケースもあります。
それでは、子どもの産み分けのケースはどうでしょう? 親が性別を選んで子どもを生むのはいけないことなのか。この場合、子どもに、自分で性別を選んで生まれてくる自由があるわけではないですよね。……このように、自由や公正さでは結論が出ないことがあるのです。
遺伝子操作のことを考えましょう。一部の人は『親がそういう能力を持ってはいけない』と考えていました。通常私たちは、あらゆる手を子どもに尽くしてあげる親、それが良い親だと思っています。しかし“良い親には節度が必要”ということも言えます。あまりにも子どもの人生をコントロールしすぎようとするのは良くない、という節度。これは美徳につながります。
『親は驚くべきだ』と言っていた人がいましたね。ゴーヘイ。彼の言ったことはとても大切なことに引っかかっていました。人間はキャリアや経済などのなかで、(対象となるものを)強くコントロールをしようとします。しかし財によっては、我々が支配力(コントロール)を強くしすぎてはいけないものもあるのです。
親になる、親であるということには、根本的に予測不可能なことが入ってきます。親が子どもを選ぶことはできない、(どんな子どもが生まれてくるか)予測不可能である……親になるということは、人間が生きていく中で数少ない、『予測不可能なことを受け入れること』『我々に与えられたことをそのまま受け入れること』が求められることでもあります。コントロールしよう、支配しようということ、そういう支配欲、権力欲を押さえて、あるがままを受け入れるということです。
でも、親と子の関係においては、欲を押さえる必要がある。これが美徳につながる。
クルマを注文するときだったら、自分が望んだ構成になっていなかったら、怒って部品を交換してもらいますよね。でも、親になるということは違う。デザイナーベビーをつくるということは、親の野心につながるのです。このように、あるがままを受け入れるという美徳、これが最初に言った3つの哲学のポイントにどうつながってくるのでしょうか?
同じように技術や原理を使っても、それがいい場合と悪い場合があるようでした。例えば、市場という原理は、マドンナのチケットには適用していいといえます。しかし、医療ということには適切でないという意見が多かったですね。医療に市場原理を適用することは、人間の尊厳を損なってしまうかもしれないからです。
人間の善、美徳を尊重すべき――これはアリストテレスの考え方です。正義とは美徳であると言うこと。私たちは、この最後の点をよく見落としがちです。
今日は、市場とテクノロジーについて議論しました。表面をなぞっただけですけれど、それでも難しかったですね。市場の道徳的な限界をどこに見るのか。技術の適切な利用の限界はどこにあるのか――これからますます問題になっていくと思います」
サンデル教授がこう語り終えると、会場には大きな拍手がわき起こった。学生たちはみな立ち上がり、しばらくの間拍手が鳴り続けていた。
大学の講義で、終わったあとに学生がスタンディングオベーション、というのは初めて見る光景である。なかなか鳴りやまない拍手を聞きながら、筆者が真っ先に抱いた感想は「面白かった!」だった。
講義の時間は約2時間。その間、気がそれることも、飽きることもまったくなく、ずっと講義の内容に没頭していた。ほかの人たちも同様だったと思う。自分が大学時代に受けた大教室の講義を振り返っても、これほど“一体感”があった授業は思い出せない。しかしこの“一体感”が、一般的な大学の講義ともまた違うような気がしたのも事実だ。この違和感は何だろう?』
『デザイナーベビーは、親の権利の濫用なのか
サンデル 「道徳という言葉が出ましたね。別の例を挙げて考えてみましょう。知能レベルが高い子ども、ハンサムな子ども、運動能力が高い子ども、音楽の才能がある子ども……将来、新しい遺伝子工学の発展によって、こういう能力がある子どもを生めるようになったらどうしますか? 親が子どもに高い知能や優れた運動能力、容姿を求める、それは自然なことです。親が子どもをコントロールすることは、どこまで許されるのでしょう? もし将来、親が遺伝子工学を使って、より知能の高い、よりハンサムな子どもを生むことができるようになったとしたら? これも親の権利の濫用になるのでしょうか」
ノブ 「ノブです。お金があれば、親がそういうことを選択できるのはいいことではないでしょうか」
サンデル 「さっきの公平性の話に戻りましたね」
次の意見は「お金がある人だけ産み分けができて、ない人は産み分けができないとしたら、それはアンフェアだ」というものだった。それを聞いてサンデル教授はこう続ける。
サンデル 「ではこうしたらどうでしょう? 補助金制度を設けるのです。貧しい人には補助金を与えて、そういう産み分けができるようにするんです。それでも反対の人はいますか?」
レナ 「レナです。遺伝子工学のそういう考え方そのものがいけないと思います。親が子どもの将来を、生まれる前に決めてしまうんですよね? 私はいま、将来自分が何になるかを自分で決めることができる。その自由がなくなります」
サンデル 「なるほど。親が子どもの将来を決める、これは子どもの自由を損なうことになるでしょうか?」
タカフミ 「性別を判断していくことには反対です。子どもをどちらの性で生むかというのは、自己愛に沿った行為だと思うからです。デザイナーベビーは……知能を上げたり、運動神経が良い子どもを生むのも同じことです」
サンデル 「なぜ知能を上げて生むことはいけないのですか? 親が子どもをいい学校に入れたいと願う、もっと頭が良くなってほしいと考えて家庭教師を付ける……それはしてはいけないことではないですよね。ではなぜ、遺伝子工学でそれをしてはいけないのか? 頭がいい人が増えたら、もっといい社会になると思いませんか? 遺伝子工学で頭がいい子を産むのはいけなくて、入学試験に受かるよう親が望むのはいけなくない、これはなぜなのでしょうか?」
ある人はこう答えた。「よりよい子どもを遺伝子技術でつくれるようになったら、多くの人がそれを望むでしょう。すると逆に、子どもに対して遺伝子技術を使わないということが、生まれる前から子どもにハンデを与えることになってしまう。それは最終的に、遺伝子工学で子どもの能力を高めるよう(すべての親に)強制することになりませんか?」
またある人は“生まれる前”であることに着目した。「生まれる時点でそれを決定してしまうことが問題なのではないかと思います。生まれたあとで良い学校に行かせるのとは違う問題だと思うんです。でも……どうして違うんだろう……ええと、人間が“生まれる”ということに違いがあるのではないでしょうか。遺伝か環境か、という違いなのでは?」
ここまでで、講義開始から2時間近くが経っていた。この記事ではできるかぎり学生の意見を載せているが、細かい部分はかなり省略し、整理したコメントに編集している。実際にはこれだけのやりとりにはかなり時間がかかるのだ。残り少ない時間で、サンデル教授は今まで出た意見を振り返りながら講義のまとめに入る。
サンデル 「議論に参加してくれた人たち、ありがとう。反対の人も、賛成した人もいましたね。『お金がない人はどうするんですか?』という人もいました。
公正さがまたここでも話題になりました。“誰もが同じようにアクセスできなくてはならないものがあるのではないか”。これが公正さについての議論です。この話題は、医師についての議論でも出ました。あまりにも不平等だと選択の自由を害するのではないか、という考え方です。しかしもう一方で、チケット売買のように、公平さということが話題にならなかったケースもあります。
それでは、子どもの産み分けのケースはどうでしょう? 親が性別を選んで子どもを生むのはいけないことなのか。この場合、子どもに、自分で性別を選んで生まれてくる自由があるわけではないですよね。……このように、自由や公正さでは結論が出ないことがあるのです。
遺伝子操作のことを考えましょう。一部の人は『親がそういう能力を持ってはいけない』と考えていました。通常私たちは、あらゆる手を子どもに尽くしてあげる親、それが良い親だと思っています。しかし“良い親には節度が必要”ということも言えます。あまりにも子どもの人生をコントロールしすぎようとするのは良くない、という節度。これは美徳につながります。
『親は驚くべきだ』と言っていた人がいましたね。ゴーヘイ。彼の言ったことはとても大切なことに引っかかっていました。人間はキャリアや経済などのなかで、(対象となるものを)強くコントロールをしようとします。しかし財によっては、我々が支配力(コントロール)を強くしすぎてはいけないものもあるのです。
親になる、親であるということには、根本的に予測不可能なことが入ってきます。親が子どもを選ぶことはできない、(どんな子どもが生まれてくるか)予測不可能である……親になるということは、人間が生きていく中で数少ない、『予測不可能なことを受け入れること』『我々に与えられたことをそのまま受け入れること』が求められることでもあります。コントロールしよう、支配しようということ、そういう支配欲、権力欲を押さえて、あるがままを受け入れるということです。
でも、親と子の関係においては、欲を押さえる必要がある。これが美徳につながる。
クルマを注文するときだったら、自分が望んだ構成になっていなかったら、怒って部品を交換してもらいますよね。でも、親になるということは違う。デザイナーベビーをつくるということは、親の野心につながるのです。このように、あるがままを受け入れるという美徳、これが最初に言った3つの哲学のポイントにどうつながってくるのでしょうか?
同じように技術や原理を使っても、それがいい場合と悪い場合があるようでした。例えば、市場という原理は、マドンナのチケットには適用していいといえます。しかし、医療ということには適切でないという意見が多かったですね。医療に市場原理を適用することは、人間の尊厳を損なってしまうかもしれないからです。
人間の善、美徳を尊重すべき――これはアリストテレスの考え方です。正義とは美徳であると言うこと。私たちは、この最後の点をよく見落としがちです。
今日は、市場とテクノロジーについて議論しました。表面をなぞっただけですけれど、それでも難しかったですね。市場の道徳的な限界をどこに見るのか。技術の適切な利用の限界はどこにあるのか――これからますます問題になっていくと思います」
サンデル教授がこう語り終えると、会場には大きな拍手がわき起こった。学生たちはみな立ち上がり、しばらくの間拍手が鳴り続けていた。
大学の講義で、終わったあとに学生がスタンディングオベーション、というのは初めて見る光景である。なかなか鳴りやまない拍手を聞きながら、筆者が真っ先に抱いた感想は「面白かった!」だった。
講義の時間は約2時間。その間、気がそれることも、飽きることもまったくなく、ずっと講義の内容に没頭していた。ほかの人たちも同様だったと思う。自分が大学時代に受けた大教室の講義を振り返っても、これほど“一体感”があった授業は思い出せない。しかしこの“一体感”が、一般的な大学の講義ともまた違うような気がしたのも事実だ。この違和感は何だろう?』
マイケルサンデルの講義に参加して
マイケルサンデルの講義に参加して
(転載)
『そのサンデル教授が8月末に来日し、2回の特別講義を行った。筆者は幸運にも、8月27日に行われたアカデミーヒルズ タワーホール(六本木ヒルズ)での特別講義に参加することができたので、その様子を本記事でお伝えしようと思う。
サンデル教授の授業とはどのような内容なのか。そして、私たちが知っている大学の授業とどこが違うのだろうか?
黒板もパワーポイントもない授業
冒頭に登場した早川書房の早川浩社長によれば、通常、ハーバード大の授業には1200人もの学生が集まるという。アカデミーヒルズの定員はたったの500人なので、「いつもより親密な感じですね」ということだった。会場を見渡すと席はすべて埋まっている。「Justice」の講義はソクラテス型の対話方式で進むことが特徴と聞いていたのだが、500人の聴衆(以下、学生と記す)を相手に、果たして対話方式の授業は成り立つのだろうか。
早川氏の紹介でマイケル・サンデル教授が登場すると、会場は大きな拍手に包まれた。意外に思ったのは、黒板もスライドもなし、という点だ。サンデル教授は壇上をぐるぐると歩き回りながら話をし、時々手を挙げた学生を当てて立たせ、学生と話し合うだけ。非常にシンプルなスタイルである。
まず最初に、サンデル教授から今日の講義のテーマについて説明があった。今日の講義では大きく3つの思想について、2つのトピックを例に話を進めていくという。3つの思想とは、
(1)幸福の最大化、最大幸福原理(功利主義的、ベンサムの哲学)
(2)人間の自由や尊厳、選択の公平性について(カントの思想)
(3)美徳を尊重し、よき生き方を培う(アリストテレス)
という哲学である。そして2つのトピックについても、先に示されていた。1つめの例は「市場の果たす役割について」。そしてもう1つは「バイオテクノロジー、特に遺伝子工学にまつわる話題」である。
『これからの「正義」の話をしよう』では、これら3つの思想についてそれぞれ第2章、第5章、第8章で語られている。本を読了している人であればすでにサンデル教授の基本的なスタンスは理解しているはずだし、そうでなくても、ベンサム、カント、アリストテレスがどういうことを考えていた人なのか、大まかに知っている人は多いだろう。
聴講した感想からいうと、これらの思想を知っていたほうが――言うなれば“予習”していった方が――サンデル教授の授業をより深く理解できると思った。そう、この授業は新しいことを覚えるのではなく、すでに知識として知っていることを前提に、それを学生みんなに考えさせることを目的としている。これら(昔の)政治哲学を現代のさまざまな問題に照らしたときに、現代に生きる我々はどう考えるべきか? を対話していくのが授業のテーマなのだ。
ダフ屋は許される職業か
マイケル・サンデル教授
サンデル教授の授業の大きな特徴は、学生と対話しながら進んでいくことにある。サンデル教授は英語で話しているが、会場には同時通訳がいるので、学生は日本語で答えても英語で答えてもいいことになっている。学生が日本語で答えた場合は、同時通訳を通して対話が進んでいくことになる。
まず1つ目のトピックである「市場」について、サンデル教授は非常に身近な例から話を始めた。
サンデル 「私は、(大リーグの)レッドソックスが大好きです。今年は残念ながら低迷していますが、数年前にはワールドシリーズに出ました。そのときはたくさんのダフ屋がいました。彼らはどこからか現れてチケットを仕入れ、市場の何倍もの、ものすごく高い値段で売ります。私はダフ屋は嫌いですよ。でも、ダフ屋という商売が成立しているのは事実です。野球だけではありませんね。例えばマドンナやマイケル・ジャクソンのコンサートに行きたいと思う人がいれば、ダフ屋は高い値段でそのチケットを売ります。買う人がいれば取引は成立します。ダフ屋がチケットを売るのは、正しいことだと思いますか? それとも売るべきではないでしょうか? 手を挙げてください」
では医者は?
生徒に挙手させると、ダフ屋がチケットを売ってもよいと考える人と、売るべきではないと考える人はほぼ半々。その結果を見て、サンデル教授は話を続ける。
サンデル 「ここに来る途中に聞いたのですが、今日のこの(アカデミーヒルズの聴講)チケットが、ネットオークションで売られていたそうですね! うわさでは5万円で売られていたと聞きましたよ。これには何か、いけないことがありますか?……もう少し真面目な例を挙げてみましょうか。春に私は中国に行きました。中国の大都市では、医師が不足していて、大きな病院の前には毎日長い行列ができます。これは医師に面会する順番を待つ行列で、時には数日前から並ぶ人もいます。ある人が、ホームレスを雇ってこの行列に並ばせました。ダフ屋は安い賃金をホームレスに払って行列に並ばせ、得た医師に会う権利を病人に利益を付けて売るのです」
この行為についてどう思うか、サンデル教授は再び学生に手を挙げさせる。すると、賛成とした人はダフ屋のときよりずっと少なく、反対とした人が多かった。
サンデル教授は、この行為を弁護する学生に手を挙げさせ、名前を名乗り意見を述べるよう促す。
ヨウスケ 「ヨウスケといいます。僕はこの行為は公正だと思います。まず、ダフ屋は最初にホームレスの賃金を払うなど、リスクを取っている。そしてそのチケットを買う人がいるということは、商売が成立しているということになります。だからこれは、公正な取引と言えます」
サンデル 「買い手と売り手、自由な合意が成り立って交換が成りたっているのだから、市場として公正であるという意見ですね。でも手を挙げた人数を見ると「そうではない、反対だ」という人のほうが多かったですね。反対の人、意見を言ってください」
キミコ 「キミコです。確かに、ダフ屋とお金を払ったお客の間では取引は成立しているということになります。でも、そのほかの人たち――例えば、貧しくてチケットを買えない人にとっては不公平ではないですか。チケットを買えない人、でも医者の診察が必要な人はどうしたら良いのでしょうか?」
サンデル 「キミコのこの意見について、ヨウスケはどう思いますか?」
ヨウスケ 「貧しい人も、長い時間行列に並べれば医者に診てもらえます。あるいは、少しのお金を払えばホームレスを雇えるかもしれない」
サンデル 「ヨウスケが言っているのは、つまり、選択の自由があるということですね。そこにこの価値があると。しかしキミコが言っているのは『貧しい人にはチケットを買うという権利がない』ということですよ?」
ヨウスケ 「貧しい人であっても、何か商売をしてお金を儲けられれば、チケットをもらえる機会はある。その点で公正だと考えます」
扱うモノの“質”が違う
サンデル 「ヨウスケは『もっとお金を儲ければいいではないか』という意見ですね。キミコはどう思いますか?」
キミコ 「選択の自由という観点でいえば、これは公正ではないと私は思います。同じダフ屋といっても、コンサートやワールドシリーズのチケットと、医者に診察してもらう権利とでは、質が違います」
サンデル 「キミコは『質が違う』と言いました。新しい要素が入ってきましたね。今ここで取引されている財の重要性です」
キミコ 「命にかかわることは、全体的にすべての人が平等であるべきではないでしょうか。ダフ屋がチケットを売ることも良いこととは思わないですが、娯楽と医療とでは質が違うと思うんです」
サンデル教授が「キミコ、つまりこの講義のチケットは娯楽と同じと言うことだね」と言うと、会場にどっと笑いが広がった。そのままサンデル教授は話を進めていく。
サンデル 「ヨウスケの意見、これは3つの哲学のうち、2つめに当たります。選択の自由、公平性ということです。キミコの意見も公平性についてですからやはり2つ目の公平性に当たりますが、解釈が違います。改めて考えてみましょう。『選択の自由とはなにか?』後段部分でキミコは違うことを言いました。人間の命に関わる根本的なところだから、娯楽とは分けて考えなくてはならない。扱われる財が何なのか、その性格を考えるべきだ、そう言いました」
次にサンデル教授が挙げた例もやはり医療について、しかし今度は中国ではなく、米国の医者についての話題だ。米国でもやはり、医者に面会し、診断してもらうのにはとても時間がかかる。時には数週間前から予約を取らなくてはならないという。そこで米国では、「コンシェルジェ制度」という方式を採る医者が現れた。コンシェルジェドクターは、限られた人数しか見ない代わりに高い年会費を取る。治療にかかるお金とは別に毎年5000ドルの年会費を払ってくれる人に対しては、すぐに診察するし、携帯の番号も教えてあげる……という仕組みだという。
「これは北京の問題とは違いますか?」と問いかけ、再びサンデル教授は学生に手を挙げさせる。すると、中国の病院の例のときよりも、「(コンシェルジェ制度は)よいことだ」とする人が多かった。
トモエ 「トモエです。米国には病院の選択肢がたくさんある。コンシェルジェドクターを選べない人でも、ほかの普通のドクターにならかかれる。人それぞれに選択ができるのだからいいと思います」
もう1人指名した学生も、「『見てもらえる』ということに関しては平等な立場だからよい。5000ドルを払えない人も、時間をかければ見てもらうことができる」という意見だった。
医師はもうけてはいけない職業なのか
サンデル教授は、コンシェルジェ制度に反対とする意見を募る。ある女性はこう答えた。「中国と米国は豊かさが違うように思うかもしれませんが、格差の大きさでいけば似ています。まあ、日本も似てきていますが……。つまり、米国と中国とで大きな違いはないと考えます。医者はライセンスが必要なもの。命を扱う仕事は、公的なサービスを提供すべきです。医師や病院が儲けすぎてはいけないのではないでしょうか」
サンデル 「報酬を与えるのはいいことだが、医師は過大な報酬を受けるべきではないということですね。反対意見の人はいますか?」
ヒロシ 「ヒロシといいます。米国と中国の例は少し違うと思います。中国の場合と違い、米国では外に並んでいる人たちはいない。実際に並んでいる人たちが見えるのと、コンシェルジェドクターとは少し違うと思うのです」
もし小飼弾さんが私立学校の校長だったら
医療に続き、サンデル教授が例に挙げたのが「教育」だった。
サンデル 「ある私立の学校があるとします。非常に有名な学校で、入学するには非常に高い得点をとらなくてはならない学校です。ある裕福な親が、子どもをぜひこの学校に入れたいと思いました。でも、子どもはその得点に届かない。そこで親はあることを思いつきました。寄付をすることにしたのです。『2000万ドル寄付をしましょう。私の子どもを入れてくれたらね』と持ちかけたのです。この親のオファーを受けて、寄付を受ける代わりに得点に届かない子どもを入学させるのは正しいことでしょうか?」
この質問に答えた次の“学生”は、ブログ「404 Blog Not Found」の書き手として知られる小飼弾さんだった。
ダン 「ダンといいます。私には本当に娘が2人いるのですけれど……私なら、寄付をしてぜひ自分の娘を入れたいですね! その学校の校長の立場に立ってみましょうか。2000万ドルの寄付があったら、定員数よりも、もっとたくさんの学生を入れられますよね。試験で入るはずだった人数は全部入れた上で、私の娘を入れればいい。そうすれば、代わりに落ちる子はいません。そして、寄付金を使って施設を増やしたり、良くしたり、新しく先生を雇ったり……寄付金のおかげでもっとよい教育ができるようになるでしょう? 誰も損はしない。むしろ得をするのだから、いい提案のはずですね」
サンデル 「ダンは面白い提案をしましたね。確かにそれなら、誰も自分の娘を入れたからと言って犠牲になる人はいない。これは正しくない、という人の意見を聞いてみましょう」
アキヒロ 「アキヒロです。私は反対です……寄付をすれば点が届かなくても入れる、そういうことにしてしまったら、それは、入れない生徒が出てくるということです」
サンデル 「それはダンは分かっていましたよ。ダンは先回りをして、2000万ドルのお金でもっと学生を取ればいいといいました」
アキヒロ 「それはそうですが……でも……うーん、学校の品格が落ちると思います」
サンデル 「どうでしょう、ダンは反対するでしょうね。だって奨学金を与えるのだから、貧しくて優秀な学生をとれるようになる。……ほかの人は?」
カン 「カンといいます。道義の問題だと思います。お金を払えば入れると言うことになれば、ルールを破ることになる」
サンデル 「ルールですね。ではどうでしょう、ダン校長の学校のルールは「普段は成績の良い生徒を入れる。だけどときどきは、それほど成績がよくなくても、お金がある人の子どもを入れる」というものなんです。寄付金をもらって生徒を入れても、ルールを破ったことにはなりませんよ?」
ヒロミ 「ヒロミです。アメリカは資本主義の世界なのだから、大学も資本主義になるのはある程度仕方ないことなのかもしれません。でも、学力をモノサシにして学校に入れるかどうかを決めるのは公平なことだと思うのです」
サンデル 「ある調査があります。年収が1200万~1500万円ある豊かな親を持つ学生グループと、親の年収が200万円以下の学生グループを比べると、豊かな親を持つ学生たちのほうが約30%学力がいいというのです。親が裕福かどうかで子どもの学力が決まっている、その学力で学校に入れるかどうかを決めるのは、すでに公平ではないと言えませんか?」
ヒロミ 「……その事実は認めます。それは公平ではないけれど事実です。でも、学校の入学をできるだけ純粋に学力に基づかせるということは、公平さを保つために必要で、守るべきことではないでしょうか?」
ジュンコ 「ジュンコといいます。基本的なことをまだ話していないと思います。それは、金(カネ)のことです。金が違いを生み出し、多くの問題を起こします。これはアンフェアだと思うのです。最初のチケットの例はいいと思うのです。私は、お金をどう使うかということが大事だと思うからです。お金を使った人が満足していればいい。しかし、教育のことや命のことは、お金以外でなんとかすべきことではないでしょうか。豊かさで何でも買えるということになったら……将来、金があれば延命できるようになるかもしれない、永遠に美を持たせることができるかもしれない。それはアンフェアではないでしょうか?」
だいたい意見が出そろったと見て、まとめに入った。
サンデル 「今までの議論をまとめてみましょう。チケットなど娯楽については、あまり反対がいないようでした。市場が成り立ってさえいればいい、と。逆に医療は反対する人が多かった。教育はその中間に位置するようでした。医療など、命や人間の繁栄に関わることは、市場で売買することを何でもよしとしてはいけないということですね」
男女の産み分けは許されるか?
サンデル 「それでは、もう1つのテーマに移りましょう。男女の産み分けができるようになってきました。不妊治療の一環で、スクリーニングができるようになったのです。ほとんど100%、男の子も女の子も望んだ子どもを生めるようになったのです。みなさん、これは間違っていると思いますか?」
ゴーヘイ 「ゴーヘイです。僕は、産み分けは間違っていると思います。親は生まれるまで(子どもの性別を)知らなくていい。赤ちゃんが生まれてきたときに、男の子だ、女の子だと驚くべきじゃないでしょうか」
サンデル 「なるほど、ゴーヘイは驚きたいんですね(笑)。でもねゴーヘイ、産み分けたいと願う人はたくさんいるんですよ。男の子しか欲しくない、女の子しか欲しくない、そういう人はたくさんいます。それでもなぜ産み分けはいけないと思うのでしょうか?」
次に答えた人は、親それぞれではなく社会全体に着目して発言していた。男女の産み分けを認めるのは、個人にとっては良いかもしれないが、全体で考えるととても恐ろしいことである。例えば男性ばかり生ませて軍隊を作ったり、女性ばかり生ませて組織的に売春をさせたり……もしそんな社会が実現したとしたら、それはとても恐ろしいことだ、という意見だ。
サンデル 「自分に子どもができたときに、そこまで親は考えるでしょうか? では、法律によって禁止するというのはどうでしょう?「男ばかり生ませて軍隊を作ったり、女ばかり生ませて売春婦にしたりしてはいけない」という法律を作って禁じるのです。それならそんな社会にはならないし、実際には、男の子を欲しい人も女の子を欲しい人もいるでしょうから、そう極端なことにはならないでしょう。親が自由に選択できては、なぜいけないのでしょうか?」
学生と対話をしながら講義は進んでいく
エイジロウ 「エイジロウです。(産み分けを許せば)親の選択の自由は実現できているかもしれないが、胎児には自由がありません。男で生まれたいとか女で生まれたいとか、親が決めてしまったら、生まれてくる子供に選択の自由がなくなります」
サンデル 「エイジロウ、あなたは生まれてくるときに『男に生まれたい!』と願って生まれてきたの?(笑)ほかの意見も聞いてみましょう。誰かいますか?」
カメ 「カメタニといいます。医師です。男女の産み分けは、人間の世界でしてはいけない『殺す』につながります。男を望む、女を望む、ということになれば、そうではない場合は(胎児を)殺すことになります」
サンデル 「産み分けを超音波でする方法があります。多くの国では超音波を使って胎児の性別を見分け、望んでいない性別のばあいは中絶させてしまうということをしている。カメ、これが殺すという例ですか?」
カメ 「ええ」
サンデル 「ではもう1つ、中絶をしなくていい男女産み分けの方法があります。胚のスクリーニングをするのです。受精後、まだ胚の状態のときに(胎児にはなっていない)、男の子になる胚か女の子になる胚かを選びます。残りの胚は捨てるようにする、カメ、これも殺すということになりますか?」
カメ 「はい、そう思います」
サンデル 「では、違う産み分けの方法を紹介しましょう。男性の精子の段階で染色体をみて選別するのです。これだと胚を捨てたり殺したりしなくていい。これでも殺したことになりますか?」
カメ 「(ちょっと考えて)その意味では、殺したことにはなりませんね。ただ私の意見は……産み分けは、人間が性別を決めることは間違っているというという意見なのです。その信念から(染色体選別であっても)反対です」
産み分けは悪いことばかりでもない、という意見もあった。例えば戦争や疫病の流行によって男ばかりの社会や女ばかりの社会になったときに、遺伝子工学を使って男女の比率を整えることが可能になるかもしれない、という考え方だ。
サンデル 「エイジロウ、あなたは自分で男になりたいと思って生まれてきたわけではないですよね?」
エイジロウ 「確かにそうです……でも、親が子どもを選べるのは、道徳的にいけないと思います」』
(転載)
『そのサンデル教授が8月末に来日し、2回の特別講義を行った。筆者は幸運にも、8月27日に行われたアカデミーヒルズ タワーホール(六本木ヒルズ)での特別講義に参加することができたので、その様子を本記事でお伝えしようと思う。
サンデル教授の授業とはどのような内容なのか。そして、私たちが知っている大学の授業とどこが違うのだろうか?
黒板もパワーポイントもない授業
冒頭に登場した早川書房の早川浩社長によれば、通常、ハーバード大の授業には1200人もの学生が集まるという。アカデミーヒルズの定員はたったの500人なので、「いつもより親密な感じですね」ということだった。会場を見渡すと席はすべて埋まっている。「Justice」の講義はソクラテス型の対話方式で進むことが特徴と聞いていたのだが、500人の聴衆(以下、学生と記す)を相手に、果たして対話方式の授業は成り立つのだろうか。
早川氏の紹介でマイケル・サンデル教授が登場すると、会場は大きな拍手に包まれた。意外に思ったのは、黒板もスライドもなし、という点だ。サンデル教授は壇上をぐるぐると歩き回りながら話をし、時々手を挙げた学生を当てて立たせ、学生と話し合うだけ。非常にシンプルなスタイルである。
まず最初に、サンデル教授から今日の講義のテーマについて説明があった。今日の講義では大きく3つの思想について、2つのトピックを例に話を進めていくという。3つの思想とは、
(1)幸福の最大化、最大幸福原理(功利主義的、ベンサムの哲学)
(2)人間の自由や尊厳、選択の公平性について(カントの思想)
(3)美徳を尊重し、よき生き方を培う(アリストテレス)
という哲学である。そして2つのトピックについても、先に示されていた。1つめの例は「市場の果たす役割について」。そしてもう1つは「バイオテクノロジー、特に遺伝子工学にまつわる話題」である。
『これからの「正義」の話をしよう』では、これら3つの思想についてそれぞれ第2章、第5章、第8章で語られている。本を読了している人であればすでにサンデル教授の基本的なスタンスは理解しているはずだし、そうでなくても、ベンサム、カント、アリストテレスがどういうことを考えていた人なのか、大まかに知っている人は多いだろう。
聴講した感想からいうと、これらの思想を知っていたほうが――言うなれば“予習”していった方が――サンデル教授の授業をより深く理解できると思った。そう、この授業は新しいことを覚えるのではなく、すでに知識として知っていることを前提に、それを学生みんなに考えさせることを目的としている。これら(昔の)政治哲学を現代のさまざまな問題に照らしたときに、現代に生きる我々はどう考えるべきか? を対話していくのが授業のテーマなのだ。
ダフ屋は許される職業か
マイケル・サンデル教授
サンデル教授の授業の大きな特徴は、学生と対話しながら進んでいくことにある。サンデル教授は英語で話しているが、会場には同時通訳がいるので、学生は日本語で答えても英語で答えてもいいことになっている。学生が日本語で答えた場合は、同時通訳を通して対話が進んでいくことになる。
まず1つ目のトピックである「市場」について、サンデル教授は非常に身近な例から話を始めた。
サンデル 「私は、(大リーグの)レッドソックスが大好きです。今年は残念ながら低迷していますが、数年前にはワールドシリーズに出ました。そのときはたくさんのダフ屋がいました。彼らはどこからか現れてチケットを仕入れ、市場の何倍もの、ものすごく高い値段で売ります。私はダフ屋は嫌いですよ。でも、ダフ屋という商売が成立しているのは事実です。野球だけではありませんね。例えばマドンナやマイケル・ジャクソンのコンサートに行きたいと思う人がいれば、ダフ屋は高い値段でそのチケットを売ります。買う人がいれば取引は成立します。ダフ屋がチケットを売るのは、正しいことだと思いますか? それとも売るべきではないでしょうか? 手を挙げてください」
では医者は?
生徒に挙手させると、ダフ屋がチケットを売ってもよいと考える人と、売るべきではないと考える人はほぼ半々。その結果を見て、サンデル教授は話を続ける。
サンデル 「ここに来る途中に聞いたのですが、今日のこの(アカデミーヒルズの聴講)チケットが、ネットオークションで売られていたそうですね! うわさでは5万円で売られていたと聞きましたよ。これには何か、いけないことがありますか?……もう少し真面目な例を挙げてみましょうか。春に私は中国に行きました。中国の大都市では、医師が不足していて、大きな病院の前には毎日長い行列ができます。これは医師に面会する順番を待つ行列で、時には数日前から並ぶ人もいます。ある人が、ホームレスを雇ってこの行列に並ばせました。ダフ屋は安い賃金をホームレスに払って行列に並ばせ、得た医師に会う権利を病人に利益を付けて売るのです」
この行為についてどう思うか、サンデル教授は再び学生に手を挙げさせる。すると、賛成とした人はダフ屋のときよりずっと少なく、反対とした人が多かった。
サンデル教授は、この行為を弁護する学生に手を挙げさせ、名前を名乗り意見を述べるよう促す。
ヨウスケ 「ヨウスケといいます。僕はこの行為は公正だと思います。まず、ダフ屋は最初にホームレスの賃金を払うなど、リスクを取っている。そしてそのチケットを買う人がいるということは、商売が成立しているということになります。だからこれは、公正な取引と言えます」
サンデル 「買い手と売り手、自由な合意が成り立って交換が成りたっているのだから、市場として公正であるという意見ですね。でも手を挙げた人数を見ると「そうではない、反対だ」という人のほうが多かったですね。反対の人、意見を言ってください」
キミコ 「キミコです。確かに、ダフ屋とお金を払ったお客の間では取引は成立しているということになります。でも、そのほかの人たち――例えば、貧しくてチケットを買えない人にとっては不公平ではないですか。チケットを買えない人、でも医者の診察が必要な人はどうしたら良いのでしょうか?」
サンデル 「キミコのこの意見について、ヨウスケはどう思いますか?」
ヨウスケ 「貧しい人も、長い時間行列に並べれば医者に診てもらえます。あるいは、少しのお金を払えばホームレスを雇えるかもしれない」
サンデル 「ヨウスケが言っているのは、つまり、選択の自由があるということですね。そこにこの価値があると。しかしキミコが言っているのは『貧しい人にはチケットを買うという権利がない』ということですよ?」
ヨウスケ 「貧しい人であっても、何か商売をしてお金を儲けられれば、チケットをもらえる機会はある。その点で公正だと考えます」
扱うモノの“質”が違う
サンデル 「ヨウスケは『もっとお金を儲ければいいではないか』という意見ですね。キミコはどう思いますか?」
キミコ 「選択の自由という観点でいえば、これは公正ではないと私は思います。同じダフ屋といっても、コンサートやワールドシリーズのチケットと、医者に診察してもらう権利とでは、質が違います」
サンデル 「キミコは『質が違う』と言いました。新しい要素が入ってきましたね。今ここで取引されている財の重要性です」
キミコ 「命にかかわることは、全体的にすべての人が平等であるべきではないでしょうか。ダフ屋がチケットを売ることも良いこととは思わないですが、娯楽と医療とでは質が違うと思うんです」
サンデル教授が「キミコ、つまりこの講義のチケットは娯楽と同じと言うことだね」と言うと、会場にどっと笑いが広がった。そのままサンデル教授は話を進めていく。
サンデル 「ヨウスケの意見、これは3つの哲学のうち、2つめに当たります。選択の自由、公平性ということです。キミコの意見も公平性についてですからやはり2つ目の公平性に当たりますが、解釈が違います。改めて考えてみましょう。『選択の自由とはなにか?』後段部分でキミコは違うことを言いました。人間の命に関わる根本的なところだから、娯楽とは分けて考えなくてはならない。扱われる財が何なのか、その性格を考えるべきだ、そう言いました」
次にサンデル教授が挙げた例もやはり医療について、しかし今度は中国ではなく、米国の医者についての話題だ。米国でもやはり、医者に面会し、診断してもらうのにはとても時間がかかる。時には数週間前から予約を取らなくてはならないという。そこで米国では、「コンシェルジェ制度」という方式を採る医者が現れた。コンシェルジェドクターは、限られた人数しか見ない代わりに高い年会費を取る。治療にかかるお金とは別に毎年5000ドルの年会費を払ってくれる人に対しては、すぐに診察するし、携帯の番号も教えてあげる……という仕組みだという。
「これは北京の問題とは違いますか?」と問いかけ、再びサンデル教授は学生に手を挙げさせる。すると、中国の病院の例のときよりも、「(コンシェルジェ制度は)よいことだ」とする人が多かった。
トモエ 「トモエです。米国には病院の選択肢がたくさんある。コンシェルジェドクターを選べない人でも、ほかの普通のドクターにならかかれる。人それぞれに選択ができるのだからいいと思います」
もう1人指名した学生も、「『見てもらえる』ということに関しては平等な立場だからよい。5000ドルを払えない人も、時間をかければ見てもらうことができる」という意見だった。
医師はもうけてはいけない職業なのか
サンデル教授は、コンシェルジェ制度に反対とする意見を募る。ある女性はこう答えた。「中国と米国は豊かさが違うように思うかもしれませんが、格差の大きさでいけば似ています。まあ、日本も似てきていますが……。つまり、米国と中国とで大きな違いはないと考えます。医者はライセンスが必要なもの。命を扱う仕事は、公的なサービスを提供すべきです。医師や病院が儲けすぎてはいけないのではないでしょうか」
サンデル 「報酬を与えるのはいいことだが、医師は過大な報酬を受けるべきではないということですね。反対意見の人はいますか?」
ヒロシ 「ヒロシといいます。米国と中国の例は少し違うと思います。中国の場合と違い、米国では外に並んでいる人たちはいない。実際に並んでいる人たちが見えるのと、コンシェルジェドクターとは少し違うと思うのです」
もし小飼弾さんが私立学校の校長だったら
医療に続き、サンデル教授が例に挙げたのが「教育」だった。
サンデル 「ある私立の学校があるとします。非常に有名な学校で、入学するには非常に高い得点をとらなくてはならない学校です。ある裕福な親が、子どもをぜひこの学校に入れたいと思いました。でも、子どもはその得点に届かない。そこで親はあることを思いつきました。寄付をすることにしたのです。『2000万ドル寄付をしましょう。私の子どもを入れてくれたらね』と持ちかけたのです。この親のオファーを受けて、寄付を受ける代わりに得点に届かない子どもを入学させるのは正しいことでしょうか?」
この質問に答えた次の“学生”は、ブログ「404 Blog Not Found」の書き手として知られる小飼弾さんだった。
ダン 「ダンといいます。私には本当に娘が2人いるのですけれど……私なら、寄付をしてぜひ自分の娘を入れたいですね! その学校の校長の立場に立ってみましょうか。2000万ドルの寄付があったら、定員数よりも、もっとたくさんの学生を入れられますよね。試験で入るはずだった人数は全部入れた上で、私の娘を入れればいい。そうすれば、代わりに落ちる子はいません。そして、寄付金を使って施設を増やしたり、良くしたり、新しく先生を雇ったり……寄付金のおかげでもっとよい教育ができるようになるでしょう? 誰も損はしない。むしろ得をするのだから、いい提案のはずですね」
サンデル 「ダンは面白い提案をしましたね。確かにそれなら、誰も自分の娘を入れたからと言って犠牲になる人はいない。これは正しくない、という人の意見を聞いてみましょう」
アキヒロ 「アキヒロです。私は反対です……寄付をすれば点が届かなくても入れる、そういうことにしてしまったら、それは、入れない生徒が出てくるということです」
サンデル 「それはダンは分かっていましたよ。ダンは先回りをして、2000万ドルのお金でもっと学生を取ればいいといいました」
アキヒロ 「それはそうですが……でも……うーん、学校の品格が落ちると思います」
サンデル 「どうでしょう、ダンは反対するでしょうね。だって奨学金を与えるのだから、貧しくて優秀な学生をとれるようになる。……ほかの人は?」
カン 「カンといいます。道義の問題だと思います。お金を払えば入れると言うことになれば、ルールを破ることになる」
サンデル 「ルールですね。ではどうでしょう、ダン校長の学校のルールは「普段は成績の良い生徒を入れる。だけどときどきは、それほど成績がよくなくても、お金がある人の子どもを入れる」というものなんです。寄付金をもらって生徒を入れても、ルールを破ったことにはなりませんよ?」
ヒロミ 「ヒロミです。アメリカは資本主義の世界なのだから、大学も資本主義になるのはある程度仕方ないことなのかもしれません。でも、学力をモノサシにして学校に入れるかどうかを決めるのは公平なことだと思うのです」
サンデル 「ある調査があります。年収が1200万~1500万円ある豊かな親を持つ学生グループと、親の年収が200万円以下の学生グループを比べると、豊かな親を持つ学生たちのほうが約30%学力がいいというのです。親が裕福かどうかで子どもの学力が決まっている、その学力で学校に入れるかどうかを決めるのは、すでに公平ではないと言えませんか?」
ヒロミ 「……その事実は認めます。それは公平ではないけれど事実です。でも、学校の入学をできるだけ純粋に学力に基づかせるということは、公平さを保つために必要で、守るべきことではないでしょうか?」
ジュンコ 「ジュンコといいます。基本的なことをまだ話していないと思います。それは、金(カネ)のことです。金が違いを生み出し、多くの問題を起こします。これはアンフェアだと思うのです。最初のチケットの例はいいと思うのです。私は、お金をどう使うかということが大事だと思うからです。お金を使った人が満足していればいい。しかし、教育のことや命のことは、お金以外でなんとかすべきことではないでしょうか。豊かさで何でも買えるということになったら……将来、金があれば延命できるようになるかもしれない、永遠に美を持たせることができるかもしれない。それはアンフェアではないでしょうか?」
だいたい意見が出そろったと見て、まとめに入った。
サンデル 「今までの議論をまとめてみましょう。チケットなど娯楽については、あまり反対がいないようでした。市場が成り立ってさえいればいい、と。逆に医療は反対する人が多かった。教育はその中間に位置するようでした。医療など、命や人間の繁栄に関わることは、市場で売買することを何でもよしとしてはいけないということですね」
男女の産み分けは許されるか?
サンデル 「それでは、もう1つのテーマに移りましょう。男女の産み分けができるようになってきました。不妊治療の一環で、スクリーニングができるようになったのです。ほとんど100%、男の子も女の子も望んだ子どもを生めるようになったのです。みなさん、これは間違っていると思いますか?」
ゴーヘイ 「ゴーヘイです。僕は、産み分けは間違っていると思います。親は生まれるまで(子どもの性別を)知らなくていい。赤ちゃんが生まれてきたときに、男の子だ、女の子だと驚くべきじゃないでしょうか」
サンデル 「なるほど、ゴーヘイは驚きたいんですね(笑)。でもねゴーヘイ、産み分けたいと願う人はたくさんいるんですよ。男の子しか欲しくない、女の子しか欲しくない、そういう人はたくさんいます。それでもなぜ産み分けはいけないと思うのでしょうか?」
次に答えた人は、親それぞれではなく社会全体に着目して発言していた。男女の産み分けを認めるのは、個人にとっては良いかもしれないが、全体で考えるととても恐ろしいことである。例えば男性ばかり生ませて軍隊を作ったり、女性ばかり生ませて組織的に売春をさせたり……もしそんな社会が実現したとしたら、それはとても恐ろしいことだ、という意見だ。
サンデル 「自分に子どもができたときに、そこまで親は考えるでしょうか? では、法律によって禁止するというのはどうでしょう?「男ばかり生ませて軍隊を作ったり、女ばかり生ませて売春婦にしたりしてはいけない」という法律を作って禁じるのです。それならそんな社会にはならないし、実際には、男の子を欲しい人も女の子を欲しい人もいるでしょうから、そう極端なことにはならないでしょう。親が自由に選択できては、なぜいけないのでしょうか?」
学生と対話をしながら講義は進んでいく
エイジロウ 「エイジロウです。(産み分けを許せば)親の選択の自由は実現できているかもしれないが、胎児には自由がありません。男で生まれたいとか女で生まれたいとか、親が決めてしまったら、生まれてくる子供に選択の自由がなくなります」
サンデル 「エイジロウ、あなたは生まれてくるときに『男に生まれたい!』と願って生まれてきたの?(笑)ほかの意見も聞いてみましょう。誰かいますか?」
カメ 「カメタニといいます。医師です。男女の産み分けは、人間の世界でしてはいけない『殺す』につながります。男を望む、女を望む、ということになれば、そうではない場合は(胎児を)殺すことになります」
サンデル 「産み分けを超音波でする方法があります。多くの国では超音波を使って胎児の性別を見分け、望んでいない性別のばあいは中絶させてしまうということをしている。カメ、これが殺すという例ですか?」
カメ 「ええ」
サンデル 「ではもう1つ、中絶をしなくていい男女産み分けの方法があります。胚のスクリーニングをするのです。受精後、まだ胚の状態のときに(胎児にはなっていない)、男の子になる胚か女の子になる胚かを選びます。残りの胚は捨てるようにする、カメ、これも殺すということになりますか?」
カメ 「はい、そう思います」
サンデル 「では、違う産み分けの方法を紹介しましょう。男性の精子の段階で染色体をみて選別するのです。これだと胚を捨てたり殺したりしなくていい。これでも殺したことになりますか?」
カメ 「(ちょっと考えて)その意味では、殺したことにはなりませんね。ただ私の意見は……産み分けは、人間が性別を決めることは間違っているというという意見なのです。その信念から(染色体選別であっても)反対です」
産み分けは悪いことばかりでもない、という意見もあった。例えば戦争や疫病の流行によって男ばかりの社会や女ばかりの社会になったときに、遺伝子工学を使って男女の比率を整えることが可能になるかもしれない、という考え方だ。
サンデル 「エイジロウ、あなたは自分で男になりたいと思って生まれてきたわけではないですよね?」
エイジロウ 「確かにそうです……でも、親が子どもを選べるのは、道徳的にいけないと思います」』
マイケルサンデル 人生の話
マイケルサンデルの人生の話
(転載)
『11歳で正義について考えた
私は小さい頃から議論をすることが大好きな子供でした。野球も好きでしたが、政治にも夢中になっていました。高校に入学して校内のディベート・チームに入り、やがて生徒会長にも選ばれました。
当時、私はロサンゼルスに住んでいましたが、カリフォルニア州知事は、後に大統領となるロナルド・レーガンでした。彼はすでに共和党内で頭角を現していましたが、私の高校は公立でリベラルな学校だったので、レーガンの考えに賛同する生徒はほとんどいませんでした。
あるとき私は、レーガンをディベートに招待するというアイデアを思いつき、彼のオフィスに招待状を送りました。ところが、うんともすんとも返事がない。困って母親に相談すると、「レーガンはジェリービーンズが好物だと何かの本に書いてあった」と教えてくれたので、私はこれを利用することにしました。6ポンドのジェリービーンズを買ってきて、招待状と一緒に彼の自宅の郵便受けに入れたのです。すると2〜3日後、電話がかかってきてディベートに出席するという返事がもらえました。
当日、2400人の生徒が講堂に詰めかけました。私はレーガンに負けまいと、考え得るもっとも難しいテーマを用意して、彼の横に座りました。ベトナム戦争や国連におけるアメリカの役割、18歳で選挙権を与えるべきか否かについて議論することにしたのです。レーガンはたとえば18歳での選挙権付与に反対でしたが、うちの生徒はみんな賛成でした。
こんな状況で、生徒のほとんどが彼の意見に同意しなかったのに、私はディベートに勝てませんでした。レーガンが独特のチャーミングさで、会場のみんなを魅了したからです。
彼は相手の意見を尊重しながら、それでいてきちんと反論していた。これこそがレーガンの最大のチャームポイントだったのです。生徒たちは議論の結果に納得したわけではありませんでしたが、私は彼のこの魅力こそが後に彼を大統領にする力となったと思っています。
それほどまでに私は若い頃から議論好きだったのですが、高校生の時点ではまだ将来何をしたいのか、はっきりしませんでした。
もっとも得意で関心があった科目は歴史で、次は政治と経済でした。哲学ではありません。ブランダイス大学に進学しても哲学をまともに勉強しませんでした。1年のときには、プラトンやアリストテレスの哲学を学ぼうとしましたが、あまりに抽象的で理解できませんでした。
自分が、選挙など現実の政治に関心があることはわかっていたのですが、とりあえず政治、歴史、経済をきちんと勉強しておこうと思いました。
私の読書体験は野球選手の伝記から始まります。というより小学校5〜6年の頃はこれしか読んでいません。ミッキー・マントル、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグなどの伝記を次から次へと手にしていました。そしてとうとう先生に「もうこれ以上野球の本を読んではいけない」と叱られたのです。
たしか11歳のときでした。私は「僕が読みたいのは野球の本なんだ」と反論しましたが、先生は「いくら野球についてのレポートを書いても単位をあげない。他の本を読みなさい」と聞かない。私はそのときアンフェアだと思った。これが世の中のjustice(正義、公正)について、考えさせられた最初の体験でした。政治や選挙に対する興味も強かったので、テレビや新聞でその種のニュースをいつもチェックしていました。その影響からか、大学生になる頃には将来、政治記者になるか、議員になろうかと考えたくらいです。
私の人生を決めた「4年間」
でも結局はその道は断念しました。きっかけは21歳のときに、ジャーナリストになることを視野に入れて、「ヒューストン・クロニクル」(テキサスで最大の新聞)のワシントン支局でインターンシップをやった際の出来事です。1974年の夏でした。ちょうどウォーターゲート事件が起きていて、新聞社はてんやわんやでスタッフが足りないほどだった。
ところが夏が終わると、支局長が私にこう言ったのです。「これほどおもしろい事件はもうないだろう。おれはこれをカバーしたら、もう引退する。これより興味深い事件は起きないだろうから、記者をやっていても仕方ない」。支局長はまだ50代半ばでした。
その言葉に驚いた私はたずねました。「ジャーナリズムの世界はもう頂点に達して、あとは落ちる一方という意味でしょうか」。支局長はそれを否定しませんでした。そのとき、私はジャーナリストへの道には進まないことを決意したのです。
大学を卒業しても自分が何になりたいか、はっきりしなかった。そこでローズ奨学金をもらい、(イギリスの)オックスフォード大学に行って社会政治理論を学ぶことにしました。この間は将来の仕事のことを何も考えずに授業に出たり読書したりすることができた。その時点で私は初めて哲学を勉強しました。哲学の講座をとり、読書三昧の日々を過ごしていたのです。
一時は法律を学ぼうと考えたこともあります。しかし、政治哲学をやればやるほどはまっていき、アリストテレス、カント、スピノザ、ヘーゲルや現代の政治哲学者について研究しました。結局4年いて、博士号を取得した。そのときの論文が後に私の最初の本となります。だから、私の人生の転換期はこの大学での4年間だと言えるでしょう。
自分なりの答えは持っている
1980年から、助教授としてハーバードで教えることになりました。私は大学生のとき、哲学を理解できませんでした。だから自分が学生だったら、どのように授業を進めたらわかりやすいかを考えながら講義内容を構成していくことにしました。
最初は学生が100人しかいなかったので、小さい教室で教えていましたが、2年目には300人にもなった。そこで少し大きめな教室に移り、3年目には500人に増えたので、この講堂に移らざるを得なくなりました。いまは800~1000人の学生がこの講座に登録しています。
この授業で私は学生に自分で深く考える力を身につけてほしいと思っています。いろいろな立場の哲学者の考えを知ることで、学生たちの思考は深まるはずです。自分で考えることがどれくらい難しいのかを、教えることも授業の目的のひとつです。
学生たちは私の授業でメモを取っていますが、ただ文字を書いているだけではありません。彼らは哲学者と議論しています。お互いの意見を尊重しながら、私とも議論し、学生同士でも議論しています。それが民主主義社会ではとても重要なことなのです。とくにお互いに意見を異にするとき、その意見を尊重し合うことは重要だと思います。
議論するテーマはもちろん私が決めています。そのために日頃からニュースに耳を傾け、新聞や雑誌に目を通します。政治哲学のテーマとして適していると感じたものがあれば、すぐにメモを取る。たえず問題意識を持っていなければなりませんが、それはとても楽しいことでやりがいのあることです。
昔の問題ではなく、いま起きている問題を扱うことが重要だと考えています。そういった問題には、学生たちがすでに直面している、あるいはこれから直面する可能性があるから、彼らがよけいに真剣に取り組むと思われるからです。
ディベートのテーマに、たとえば正義や公正のような難解なものを選ぶのは、学生を刺激して、自分の力で深く考えさせるためです。私が授業で扱うテーマについては、必ず自分なりの答えを持っています。それを学生に隠そうとは思っていません。
私が講義の最後に意見を述べるのは、自分がニュートラルであるふりをしたくないからです。自分の考えに対しては正直でありたいからです。でも、私がそれを明らかにする頃には学生たちは自分の考えがすでに固まっていて、私の考えに賛同するかどうか自ら判断することができるようになっています。
私が「白熱教室」を続けているのは、みなのディベートのレベルを上げていきたいと考えているからです。そうすれば世の中で起こっている問題について議論した際、必ず共同体や社会のためになる優れた結論を導けるようになると思っています。
実は日本で私の本がここまで受け入れられるとは考えていませんでした。哲学についての本がこれほど多くの人に読まれるとは想像もしなかった。
2010年の夏に訪日したときに感じたのは、社会の大きな問題について議論したいという日本人の意欲でした。ディベートに対する飢えのようなものを感じたのです。だから私の本が読まれているのだと思います。正義とは何かだけでなく、いろいろな価値観について深く議論したい気持ちが日本人に元々あったのでしょう。この本はそれを始めるきっかけになったのかもしれません。
東京大学では「白熱教室」を実演しましたが、訪日の前に日本人の友人たちに「日本人は議論下手だから、講義で質問しても反応がないかもしれない」と忠告されていました。そのことを信じていいかどうかわかりませんでしたが、実際にやってみて友人が言ったほど日本人は議論下手ではないことがわかりました。
しかも議論のレベルそのものも非常に高い。もうひとつ驚いたのは、彼らにはお互いに意見を異にしてもきちんと相手の話に耳を傾ける姿勢があったことです。それにはとても感心しました。
ハーバードの学生と東大の学生との差もあまり感じられませんでした。3年前にハーバードを卒業した私の息子も東大の講義に参加しましたが、感想を聞いたら、「ハーバードの学生の反応と東大の学生の反応は同じだ」と話していました。
いま一番関心のあるテーマ
私は議論好きですが、もちろんいつも議論ばかりしているわけではありません。授業や研究の合間には妻と映画を観にいきます。私が好きなのはアルフレッド・ヒッチコックの作品のようなサスペンスやスリラーです。ゴッドファーザーも気に入っている映画の一つです。
野球も好きで、ソフトボールの試合を毎週日曜にやっています。旅行にもよく出掛けます。子どもがまだ小さいときはいろいろな土地を旅しました。インドやオーストラリア、それから京都にも行きましたが、古いお寺や日本庭園の美しさはいまでもよく覚えています。
実は我が家は日本とは縁があります。妻の父親は在日米軍にいたことがあり米軍の歴史について研究していた人で、妻が生まれたときはちょうど日本占領について調べていました。両親が日本に対して親近感を抱いていたので、娘ができたときに日本名をつけたいと思ったそうです。それで日本の象徴である「菊」を意味する「キク」と名づけました。
いま一番関心があるのは、リーマンショックによって、私たちはどんな教訓を得たのか、それによって今後どういう世界になるのかということです。この危機が起きる前の30年間は、市場に任せておけば、結果的に公共の利益は守られるとずっと信じられていました。市場放任の考え方に対して私たちが批判的になることはありませんでした。
しかし、財政危機に見舞われて、この考え方にみんなが疑問を持ち始めている。それで市場の役割は何かについて再考しなければならなくなりました。これは現在、私たちが直面している最大の問題だと思います。
最後に「正義」「公正」とはどんなものなのか---この難しい問いについて考えてみましょう。この問題を解くことはたやすくありません。私のもっとも端的な答えは、「人間にその人が得るに値するものを与えるということ」です。
この考えに反対する人はほとんどいないと思いますが、誰が何を得るに値するのか、それはなぜかという問題は常に議論を巻き起こします。でもその議論がなければ政治哲学という分野は存在しなくなります。そうなると結局、私の職業も存在しないことになってしまうのです(笑)。』
(転載)
『11歳で正義について考えた
私は小さい頃から議論をすることが大好きな子供でした。野球も好きでしたが、政治にも夢中になっていました。高校に入学して校内のディベート・チームに入り、やがて生徒会長にも選ばれました。
当時、私はロサンゼルスに住んでいましたが、カリフォルニア州知事は、後に大統領となるロナルド・レーガンでした。彼はすでに共和党内で頭角を現していましたが、私の高校は公立でリベラルな学校だったので、レーガンの考えに賛同する生徒はほとんどいませんでした。
あるとき私は、レーガンをディベートに招待するというアイデアを思いつき、彼のオフィスに招待状を送りました。ところが、うんともすんとも返事がない。困って母親に相談すると、「レーガンはジェリービーンズが好物だと何かの本に書いてあった」と教えてくれたので、私はこれを利用することにしました。6ポンドのジェリービーンズを買ってきて、招待状と一緒に彼の自宅の郵便受けに入れたのです。すると2〜3日後、電話がかかってきてディベートに出席するという返事がもらえました。
当日、2400人の生徒が講堂に詰めかけました。私はレーガンに負けまいと、考え得るもっとも難しいテーマを用意して、彼の横に座りました。ベトナム戦争や国連におけるアメリカの役割、18歳で選挙権を与えるべきか否かについて議論することにしたのです。レーガンはたとえば18歳での選挙権付与に反対でしたが、うちの生徒はみんな賛成でした。
こんな状況で、生徒のほとんどが彼の意見に同意しなかったのに、私はディベートに勝てませんでした。レーガンが独特のチャーミングさで、会場のみんなを魅了したからです。
彼は相手の意見を尊重しながら、それでいてきちんと反論していた。これこそがレーガンの最大のチャームポイントだったのです。生徒たちは議論の結果に納得したわけではありませんでしたが、私は彼のこの魅力こそが後に彼を大統領にする力となったと思っています。
それほどまでに私は若い頃から議論好きだったのですが、高校生の時点ではまだ将来何をしたいのか、はっきりしませんでした。
もっとも得意で関心があった科目は歴史で、次は政治と経済でした。哲学ではありません。ブランダイス大学に進学しても哲学をまともに勉強しませんでした。1年のときには、プラトンやアリストテレスの哲学を学ぼうとしましたが、あまりに抽象的で理解できませんでした。
自分が、選挙など現実の政治に関心があることはわかっていたのですが、とりあえず政治、歴史、経済をきちんと勉強しておこうと思いました。
私の読書体験は野球選手の伝記から始まります。というより小学校5〜6年の頃はこれしか読んでいません。ミッキー・マントル、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグなどの伝記を次から次へと手にしていました。そしてとうとう先生に「もうこれ以上野球の本を読んではいけない」と叱られたのです。
たしか11歳のときでした。私は「僕が読みたいのは野球の本なんだ」と反論しましたが、先生は「いくら野球についてのレポートを書いても単位をあげない。他の本を読みなさい」と聞かない。私はそのときアンフェアだと思った。これが世の中のjustice(正義、公正)について、考えさせられた最初の体験でした。政治や選挙に対する興味も強かったので、テレビや新聞でその種のニュースをいつもチェックしていました。その影響からか、大学生になる頃には将来、政治記者になるか、議員になろうかと考えたくらいです。
私の人生を決めた「4年間」
でも結局はその道は断念しました。きっかけは21歳のときに、ジャーナリストになることを視野に入れて、「ヒューストン・クロニクル」(テキサスで最大の新聞)のワシントン支局でインターンシップをやった際の出来事です。1974年の夏でした。ちょうどウォーターゲート事件が起きていて、新聞社はてんやわんやでスタッフが足りないほどだった。
ところが夏が終わると、支局長が私にこう言ったのです。「これほどおもしろい事件はもうないだろう。おれはこれをカバーしたら、もう引退する。これより興味深い事件は起きないだろうから、記者をやっていても仕方ない」。支局長はまだ50代半ばでした。
その言葉に驚いた私はたずねました。「ジャーナリズムの世界はもう頂点に達して、あとは落ちる一方という意味でしょうか」。支局長はそれを否定しませんでした。そのとき、私はジャーナリストへの道には進まないことを決意したのです。
大学を卒業しても自分が何になりたいか、はっきりしなかった。そこでローズ奨学金をもらい、(イギリスの)オックスフォード大学に行って社会政治理論を学ぶことにしました。この間は将来の仕事のことを何も考えずに授業に出たり読書したりすることができた。その時点で私は初めて哲学を勉強しました。哲学の講座をとり、読書三昧の日々を過ごしていたのです。
一時は法律を学ぼうと考えたこともあります。しかし、政治哲学をやればやるほどはまっていき、アリストテレス、カント、スピノザ、ヘーゲルや現代の政治哲学者について研究しました。結局4年いて、博士号を取得した。そのときの論文が後に私の最初の本となります。だから、私の人生の転換期はこの大学での4年間だと言えるでしょう。
自分なりの答えは持っている
1980年から、助教授としてハーバードで教えることになりました。私は大学生のとき、哲学を理解できませんでした。だから自分が学生だったら、どのように授業を進めたらわかりやすいかを考えながら講義内容を構成していくことにしました。
最初は学生が100人しかいなかったので、小さい教室で教えていましたが、2年目には300人にもなった。そこで少し大きめな教室に移り、3年目には500人に増えたので、この講堂に移らざるを得なくなりました。いまは800~1000人の学生がこの講座に登録しています。
この授業で私は学生に自分で深く考える力を身につけてほしいと思っています。いろいろな立場の哲学者の考えを知ることで、学生たちの思考は深まるはずです。自分で考えることがどれくらい難しいのかを、教えることも授業の目的のひとつです。
学生たちは私の授業でメモを取っていますが、ただ文字を書いているだけではありません。彼らは哲学者と議論しています。お互いの意見を尊重しながら、私とも議論し、学生同士でも議論しています。それが民主主義社会ではとても重要なことなのです。とくにお互いに意見を異にするとき、その意見を尊重し合うことは重要だと思います。
議論するテーマはもちろん私が決めています。そのために日頃からニュースに耳を傾け、新聞や雑誌に目を通します。政治哲学のテーマとして適していると感じたものがあれば、すぐにメモを取る。たえず問題意識を持っていなければなりませんが、それはとても楽しいことでやりがいのあることです。
昔の問題ではなく、いま起きている問題を扱うことが重要だと考えています。そういった問題には、学生たちがすでに直面している、あるいはこれから直面する可能性があるから、彼らがよけいに真剣に取り組むと思われるからです。
ディベートのテーマに、たとえば正義や公正のような難解なものを選ぶのは、学生を刺激して、自分の力で深く考えさせるためです。私が授業で扱うテーマについては、必ず自分なりの答えを持っています。それを学生に隠そうとは思っていません。
私が講義の最後に意見を述べるのは、自分がニュートラルであるふりをしたくないからです。自分の考えに対しては正直でありたいからです。でも、私がそれを明らかにする頃には学生たちは自分の考えがすでに固まっていて、私の考えに賛同するかどうか自ら判断することができるようになっています。
私が「白熱教室」を続けているのは、みなのディベートのレベルを上げていきたいと考えているからです。そうすれば世の中で起こっている問題について議論した際、必ず共同体や社会のためになる優れた結論を導けるようになると思っています。
実は日本で私の本がここまで受け入れられるとは考えていませんでした。哲学についての本がこれほど多くの人に読まれるとは想像もしなかった。
2010年の夏に訪日したときに感じたのは、社会の大きな問題について議論したいという日本人の意欲でした。ディベートに対する飢えのようなものを感じたのです。だから私の本が読まれているのだと思います。正義とは何かだけでなく、いろいろな価値観について深く議論したい気持ちが日本人に元々あったのでしょう。この本はそれを始めるきっかけになったのかもしれません。
東京大学では「白熱教室」を実演しましたが、訪日の前に日本人の友人たちに「日本人は議論下手だから、講義で質問しても反応がないかもしれない」と忠告されていました。そのことを信じていいかどうかわかりませんでしたが、実際にやってみて友人が言ったほど日本人は議論下手ではないことがわかりました。
しかも議論のレベルそのものも非常に高い。もうひとつ驚いたのは、彼らにはお互いに意見を異にしてもきちんと相手の話に耳を傾ける姿勢があったことです。それにはとても感心しました。
ハーバードの学生と東大の学生との差もあまり感じられませんでした。3年前にハーバードを卒業した私の息子も東大の講義に参加しましたが、感想を聞いたら、「ハーバードの学生の反応と東大の学生の反応は同じだ」と話していました。
いま一番関心のあるテーマ
私は議論好きですが、もちろんいつも議論ばかりしているわけではありません。授業や研究の合間には妻と映画を観にいきます。私が好きなのはアルフレッド・ヒッチコックの作品のようなサスペンスやスリラーです。ゴッドファーザーも気に入っている映画の一つです。
野球も好きで、ソフトボールの試合を毎週日曜にやっています。旅行にもよく出掛けます。子どもがまだ小さいときはいろいろな土地を旅しました。インドやオーストラリア、それから京都にも行きましたが、古いお寺や日本庭園の美しさはいまでもよく覚えています。
実は我が家は日本とは縁があります。妻の父親は在日米軍にいたことがあり米軍の歴史について研究していた人で、妻が生まれたときはちょうど日本占領について調べていました。両親が日本に対して親近感を抱いていたので、娘ができたときに日本名をつけたいと思ったそうです。それで日本の象徴である「菊」を意味する「キク」と名づけました。
いま一番関心があるのは、リーマンショックによって、私たちはどんな教訓を得たのか、それによって今後どういう世界になるのかということです。この危機が起きる前の30年間は、市場に任せておけば、結果的に公共の利益は守られるとずっと信じられていました。市場放任の考え方に対して私たちが批判的になることはありませんでした。
しかし、財政危機に見舞われて、この考え方にみんなが疑問を持ち始めている。それで市場の役割は何かについて再考しなければならなくなりました。これは現在、私たちが直面している最大の問題だと思います。
最後に「正義」「公正」とはどんなものなのか---この難しい問いについて考えてみましょう。この問題を解くことはたやすくありません。私のもっとも端的な答えは、「人間にその人が得るに値するものを与えるということ」です。
この考えに反対する人はほとんどいないと思いますが、誰が何を得るに値するのか、それはなぜかという問題は常に議論を巻き起こします。でもその議論がなければ政治哲学という分野は存在しなくなります。そうなると結局、私の職業も存在しないことになってしまうのです(笑)。』
共同体主義
共同体主義とは
『共同体主義(きょうどうたいしゅぎ、英: communitarianism)は、20世紀後半のアメリカを中心に発展してきた共同体(コミュニティ)の価値を重んじる政治思想。コミュニタリアニズムとの表記も一般的である。なお、これに立脚している論者をコミュニタリアン (communitarian) という。
共同体主義は、現代の政治思想の見取り図において、ジョン・ロールズらが提唱する自由主義(リベラリズム)に対抗する思想の一つであるが、自由主義を根本から否定するものではない。
共同体の価値を重んじるとは言っても、個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わない、というような全体主義・国家主義の主張ではなく、具体的な理想政体のレベルでは自由民主主義の枠をはみ出るラディカルなものを奨励することはない。むしろ、共同体主義が自由主義に批判的であるのは、より根源的な存在論レベルにおいてであり、政策レベルでは自由民主制に留まりつつも自由主義とは異なる側面(つまり共同体)の重要性を尊重するものを提唱する。
イギリスの社会学者ジェラード・デランティの整理によれば、共同体主義には、自由主義的共同体主義(リベラル・コミュニタリアニズム)、ラディカル多元主義、公民的共和主義、統治的共同体主義(ガヴァメンタル・コミュニタリアニズム)の四潮流があるという。』
『共同体主義(きょうどうたいしゅぎ、英: communitarianism)は、20世紀後半のアメリカを中心に発展してきた共同体(コミュニティ)の価値を重んじる政治思想。コミュニタリアニズムとの表記も一般的である。なお、これに立脚している論者をコミュニタリアン (communitarian) という。
共同体主義は、現代の政治思想の見取り図において、ジョン・ロールズらが提唱する自由主義(リベラリズム)に対抗する思想の一つであるが、自由主義を根本から否定するものではない。
共同体の価値を重んじるとは言っても、個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わない、というような全体主義・国家主義の主張ではなく、具体的な理想政体のレベルでは自由民主主義の枠をはみ出るラディカルなものを奨励することはない。むしろ、共同体主義が自由主義に批判的であるのは、より根源的な存在論レベルにおいてであり、政策レベルでは自由民主制に留まりつつも自由主義とは異なる側面(つまり共同体)の重要性を尊重するものを提唱する。
イギリスの社会学者ジェラード・デランティの整理によれば、共同体主義には、自由主義的共同体主義(リベラル・コミュニタリアニズム)、ラディカル多元主義、公民的共和主義、統治的共同体主義(ガヴァメンタル・コミュニタリアニズム)の四潮流があるという。』
これから正義の話をしよう⑻
マイケルサンデル はいう。
アフガニスタンのヤギ飼い
『さて、実際に生じた道徳的ジレンマについて考えてみよう。これは暴走する路面電車の架空の話にいくつかの点で似てはいるが、事態がどう進展するかがはっきりわからない点でもっと込み入っている。
二〇〇五年六月、アフガニスタンでのこと。マーカス・ラトレル二等兵曹は、米海軍特殊部隊のほかのメンバー三人とともに、パキスタン国境の近くから秘密の偵察に出発した。任務はオサマ・ビン・ラディンと親交の深いあるタリバン指導者の捜索だった。情報によれば、目標とする人物は一四〇ないし一五〇人の重武装した兵士を率いており、近寄ることの困難な山岳地帯の村にいるとのことだった。
特殊部隊が村を見降ろす山の尾根に陣取ってまもなく、一〇〇頭ほどのヤギを連れた二人のアフガニスタン人農夫と一四歳くらいの少年に出くわした。武器は持っていないようだった。
米兵たちは彼らにライフルを向け、身振りで地面に座るよう命じ、どうすべきか話し合った。
このヤギ飼いたちは非武装の民間人らしい。とはいえ、もし解放すれば米兵の存在をタリバンに知らせてしまうリスクがあった。
どんな方策があるかを考えながら、四人の兵士はふとロープを持っていないことに気づいた。
そのため男たちを縛りあげ、新たな隠れ家を見つけるまでの時間を稼ぐことはできなかった。
選択肢は、男たちを殺すか解放するかのどちらかしかなかった。
ラトレルの戦友の一人は殺すことを主張した。「われわれは敵陣に潜んで作戦を遂行中だ。ここには上官の命令で送り込まれた。自分たちの命を救うためなら、あらゆることを行なう権利を持っている。軍人として何を決定すべきかは明らかだ。彼らを解放するのは間違っている」。
ラトレルは迷った。「心のなかでは彼が正しいとわかっていた」とラトレルは回想記に書いている。「どう考えてもヤギ飼いを解放するわけにはいかなかった。しかし困ったことに、私にはもう一つの心があった。キリスト教徒としての心だ。それが私にのしかかっていた。武器を持っていないこの男たちを冷酷に殺すことは間違っていると、何かが心の奥でささやき続けていた」。
キリスト教徒の心とは何を意味するのか、ラトレルは述べていない。だが結局、彼の良心はヤギ飼いたちを殺すことを許さなかった。ラトレルは解放すべしというほうに事態を決する一票を投じた(三人の戦友のうち一人は投票を棄権した)。ラトレルはその一票を悔やむことになる。
ヤギ飼いたちを解放して一時間半位した頃、四人の兵士はAK48自動小銃や携行式ロケット弾で武装した八〇人から一〇〇人ほどのタリバン兵に包囲されていることに気づいた。その後の激しい銃撃戦で、ラトレルの三名の戦友は全員戦死した。そのうえ、ラトレルたちシールズ・チームを救出しようとしたヘリコプターも撃墜され、一六人の兵士が命を落とした。
ラトレルは重傷を負ったが、かろうじて生き延びた。山腹を転がり落ちると、一二キロメートル近くを這ってあるパシュトゥーン族の村にたどり着いたのだ。村人たちは救助が来るまでラトレルをタリバンから守ってくれた。
当時を振り返り、ラトレルはヤギ飼いたちを殺さないとした自分の投票を責めた。「これまでの人生において、最も愚かで、馬鹿馬鹿しく、間の抜けた判断だった」と、ラトレルはその出来事について書いている。「頭がおかしかったに違いない。墓穴を掘るとわかってる一票を実際に投じてしまったのだから……とにかく、いまはその時をそんなふうに思い出している……決定票を投じたのは私だ。東テキサスの墓地に安らぐまで、その事実は私をさいなむことだろう」
兵士たちのジレンマを難しくした要因の一部は、アフガン人を解放したらどうなるか、はっきりしないことにあった。彼らはそのままヤギを追っていくだけか、それともタリバンに知らせるか、その点が不明だったのだ。だがラトレルが、ヤギ飼いを解放すれば悲惨な戦闘を招くことになり、結果として一九人もの戦友が命を落とし、自分も負傷し、任務は失敗すると知っていたらどうだろうか。ラトレルは違う決定を下していただろうか。
いま考えれば、ラトレルにとって答えは明らかだ。ヤギ飼いたちを殺すべきだったのだ。その後の惨劇を考えれば、異議を唱えるのは難しい。数の点から見ると、ラトレルの選択は路面電車の例に似ている。三人のアフガン人を殺せば、三人の戦友と、救出にきた一六人のアメリカ兵の命は助かっただろう。だが、路面電車の物語のどれに似ているだろうか。ヤギ飼いを殺すことは路面電車のハンドルを切るほうに似ているだろうか、それとも、太った男を橋から突き落とすほうに似ているだろうか。危機を予期していながら、それでも武器を持たない民間人を冷酷に殺す気になれなかったという事実は、突き落とす例により近いだろう。』
アメリカが、アフガニスタンまで、戦争に行くということが
正義から外れている。あくまでも、アメリカの正義だ。
つまり、皆殺し的な考えしか成り立たなくなってくる。
そして、アフガニスタンの村人に、命を助けられたことは、
感謝の言葉もない。
この村人の人も皆殺しにしてしまおうと思わなかった
だけ、良かったと言える。
路面電車のケースと次元が違いすぎる。
アフガニスタンのヤギ飼い
『さて、実際に生じた道徳的ジレンマについて考えてみよう。これは暴走する路面電車の架空の話にいくつかの点で似てはいるが、事態がどう進展するかがはっきりわからない点でもっと込み入っている。
二〇〇五年六月、アフガニスタンでのこと。マーカス・ラトレル二等兵曹は、米海軍特殊部隊のほかのメンバー三人とともに、パキスタン国境の近くから秘密の偵察に出発した。任務はオサマ・ビン・ラディンと親交の深いあるタリバン指導者の捜索だった。情報によれば、目標とする人物は一四〇ないし一五〇人の重武装した兵士を率いており、近寄ることの困難な山岳地帯の村にいるとのことだった。
特殊部隊が村を見降ろす山の尾根に陣取ってまもなく、一〇〇頭ほどのヤギを連れた二人のアフガニスタン人農夫と一四歳くらいの少年に出くわした。武器は持っていないようだった。
米兵たちは彼らにライフルを向け、身振りで地面に座るよう命じ、どうすべきか話し合った。
このヤギ飼いたちは非武装の民間人らしい。とはいえ、もし解放すれば米兵の存在をタリバンに知らせてしまうリスクがあった。
どんな方策があるかを考えながら、四人の兵士はふとロープを持っていないことに気づいた。
そのため男たちを縛りあげ、新たな隠れ家を見つけるまでの時間を稼ぐことはできなかった。
選択肢は、男たちを殺すか解放するかのどちらかしかなかった。
ラトレルの戦友の一人は殺すことを主張した。「われわれは敵陣に潜んで作戦を遂行中だ。ここには上官の命令で送り込まれた。自分たちの命を救うためなら、あらゆることを行なう権利を持っている。軍人として何を決定すべきかは明らかだ。彼らを解放するのは間違っている」。
ラトレルは迷った。「心のなかでは彼が正しいとわかっていた」とラトレルは回想記に書いている。「どう考えてもヤギ飼いを解放するわけにはいかなかった。しかし困ったことに、私にはもう一つの心があった。キリスト教徒としての心だ。それが私にのしかかっていた。武器を持っていないこの男たちを冷酷に殺すことは間違っていると、何かが心の奥でささやき続けていた」。
キリスト教徒の心とは何を意味するのか、ラトレルは述べていない。だが結局、彼の良心はヤギ飼いたちを殺すことを許さなかった。ラトレルは解放すべしというほうに事態を決する一票を投じた(三人の戦友のうち一人は投票を棄権した)。ラトレルはその一票を悔やむことになる。
ヤギ飼いたちを解放して一時間半位した頃、四人の兵士はAK48自動小銃や携行式ロケット弾で武装した八〇人から一〇〇人ほどのタリバン兵に包囲されていることに気づいた。その後の激しい銃撃戦で、ラトレルの三名の戦友は全員戦死した。そのうえ、ラトレルたちシールズ・チームを救出しようとしたヘリコプターも撃墜され、一六人の兵士が命を落とした。
ラトレルは重傷を負ったが、かろうじて生き延びた。山腹を転がり落ちると、一二キロメートル近くを這ってあるパシュトゥーン族の村にたどり着いたのだ。村人たちは救助が来るまでラトレルをタリバンから守ってくれた。
当時を振り返り、ラトレルはヤギ飼いたちを殺さないとした自分の投票を責めた。「これまでの人生において、最も愚かで、馬鹿馬鹿しく、間の抜けた判断だった」と、ラトレルはその出来事について書いている。「頭がおかしかったに違いない。墓穴を掘るとわかってる一票を実際に投じてしまったのだから……とにかく、いまはその時をそんなふうに思い出している……決定票を投じたのは私だ。東テキサスの墓地に安らぐまで、その事実は私をさいなむことだろう」
兵士たちのジレンマを難しくした要因の一部は、アフガン人を解放したらどうなるか、はっきりしないことにあった。彼らはそのままヤギを追っていくだけか、それともタリバンに知らせるか、その点が不明だったのだ。だがラトレルが、ヤギ飼いを解放すれば悲惨な戦闘を招くことになり、結果として一九人もの戦友が命を落とし、自分も負傷し、任務は失敗すると知っていたらどうだろうか。ラトレルは違う決定を下していただろうか。
いま考えれば、ラトレルにとって答えは明らかだ。ヤギ飼いたちを殺すべきだったのだ。その後の惨劇を考えれば、異議を唱えるのは難しい。数の点から見ると、ラトレルの選択は路面電車の例に似ている。三人のアフガン人を殺せば、三人の戦友と、救出にきた一六人のアメリカ兵の命は助かっただろう。だが、路面電車の物語のどれに似ているだろうか。ヤギ飼いを殺すことは路面電車のハンドルを切るほうに似ているだろうか、それとも、太った男を橋から突き落とすほうに似ているだろうか。危機を予期していながら、それでも武器を持たない民間人を冷酷に殺す気になれなかったという事実は、突き落とす例により近いだろう。』
アメリカが、アフガニスタンまで、戦争に行くということが
正義から外れている。あくまでも、アメリカの正義だ。
つまり、皆殺し的な考えしか成り立たなくなってくる。
そして、アフガニスタンの村人に、命を助けられたことは、
感謝の言葉もない。
この村人の人も皆殺しにしてしまおうと思わなかった
だけ、良かったと言える。
路面電車のケースと次元が違いすぎる。
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2013年01月20日
正義(1)
私の中にある
どうも、正義という概念が、マンガチックなのだ。
悪役がいて、それをやっつけるのが、正義の味方というような
勧善懲悪スタイルのイメージで、そこから出ない貧困な正義だ。
また『小さな正義を振り回して』という揶揄するような言葉が好きだ。
マイケルサンデルが、言おうとしている正義は
どうももっと幅が広いような気がする。
正義は、どこからくるのかということを、
きちんと提示しようとする。
最大多数の最大幸福。自由。そして、尊厳。
それから考えた場合に、正しい行動とは何かを、提示しようとする。
個人としての行動と、社会としての行動。
多数決で解決できないものがある。当然、お金でも解決できない。
アリストテレスだったら、カントだったら。
と考えることは、正しいという規範が、時代と共に変化し、
価値観によって、変化するからだ。
マイケルサンデルは、そのような手法を用いることで、
民主主義というものの深淵さをかみくだこうとしているのだろう。
どうも、正義という概念が、マンガチックなのだ。
悪役がいて、それをやっつけるのが、正義の味方というような
勧善懲悪スタイルのイメージで、そこから出ない貧困な正義だ。
また『小さな正義を振り回して』という揶揄するような言葉が好きだ。
マイケルサンデルが、言おうとしている正義は
どうももっと幅が広いような気がする。
正義は、どこからくるのかということを、
きちんと提示しようとする。
最大多数の最大幸福。自由。そして、尊厳。
それから考えた場合に、正しい行動とは何かを、提示しようとする。
個人としての行動と、社会としての行動。
多数決で解決できないものがある。当然、お金でも解決できない。
アリストテレスだったら、カントだったら。
と考えることは、正しいという規範が、時代と共に変化し、
価値観によって、変化するからだ。
マイケルサンデルは、そのような手法を用いることで、
民主主義というものの深淵さをかみくだこうとしているのだろう。
touxia at 12:15|Permalink│Comments(0)│
これから正義の話をしよう⑺
〇これからの「正義」の話をしよう 全体要約
(転載)
◆導入
何が正義かという議論に結論が出ない一つの理由は、人によって正義に求めるものが異なるからである。ある社会が公平・公正かどうか、すなわち正義を問う場合、幸福、自由、美徳 (道徳)の3つのアプローチが存在する (第一章)。
◆功利主義
幸福に重きを置くのは、ジェレミー・ベンサム (Jeremy Bentham)の提唱した功利主義である。功利主義は、あらゆる良い要素を「効用」という単一の指標に置き換え、社会の中でそれが最大化されることを目指すものである。
これは大変明快な発想だが、実際はあらゆる要素を効用に置き換えることなど不可能である。また、社会の効用を継続的に高めるためならば、個人を犠牲にしかねないという危険性を有している (第二章)。
◆リバタリアニズム
では、自由はどうだろうか。人間を「束縛されない自由な自己」とみなし、他者に迷惑をかけない限り、あらゆる選択は本人の自由を尊重すべきであるという立場はリバタリアニズムと呼ばれる (第三章)。
しかし、迷惑をかけない限りあらゆる自由を認めると、市場の原理に基づいて、町をあげて代理出産を産業化するなど、直感的には容認しがたい行為まで認めることになる (第四章)。
◆正義と自由
ジョン・ロールズ (John Rawls)など、自由を尊重する立場の特徴は、何が善・幸福かという「道徳の原理」と何が公平公正かという「正義の原理」を独立させて考えることだ (第六章)。
我々は多元的な社会の中に生きており、何が道徳的に正しいかということを決定することはできない。むしろ、人はそれぞれ自分の善を自由に選ぶことができるべきである。そして、そのような自由な選択を実現する公平な制度こそが正義だということである。
代理出産を産業として認めるかどうかは、倫理や道徳に関する領域である。こうした論争には結論が出ないのだから、特定の考えを押し付けるのでなく、各人が自由に自分にとっての道徳を選ぶことができなくてはならない。
◆正義と道徳
しかしサンデルは、こうした自由に基づいて正義を論じる立場に反対の意を示す。我々は決して、自主的に同意した義務しか負わない訳ではない。我々はコミュニティの中を生きている。人間は「自由で負荷なき自己」などではなく、コミュニティの中で生じる「連帯の義務」を同時に負っているのである。
そのため、何が正義かを考える時は、コミュニティにおける善・道徳を考慮しない訳にはいかない。我々は共通のコミュニティの中を生きているのだから、コミュニティの中で何が善・幸福であるかについて、考えなくてはならない (第九章)。
◆これからの「正義」の話をしよう
民主党はケネディ以降、宗教的信念を政治に持ち込まないという立場をとってきた。これは、行政府が国民に道徳を押し付けることのない中立的な立場である。
しかし実際は、公共の領域において、個人的な道徳的・宗教的信条を持ち込まないことは不可能である。このような表面的な中立性からは真の相互尊重は生まれない。
原理主義的に押し付けることなく、また宗教間の争いに移行することなく、コミュニティにおける共通善を政治に取り入れていくには、市民の一人一人が考え、我々の善い生き方というものについて、今こそしっかりと向き合うべきである。
つまりサンデルは、全ての市民に向けてまさに、「これからの正義の話をしよう」と呼びかけているのである (第十章)。』
(転載)
◆導入
何が正義かという議論に結論が出ない一つの理由は、人によって正義に求めるものが異なるからである。ある社会が公平・公正かどうか、すなわち正義を問う場合、幸福、自由、美徳 (道徳)の3つのアプローチが存在する (第一章)。
◆功利主義
幸福に重きを置くのは、ジェレミー・ベンサム (Jeremy Bentham)の提唱した功利主義である。功利主義は、あらゆる良い要素を「効用」という単一の指標に置き換え、社会の中でそれが最大化されることを目指すものである。
これは大変明快な発想だが、実際はあらゆる要素を効用に置き換えることなど不可能である。また、社会の効用を継続的に高めるためならば、個人を犠牲にしかねないという危険性を有している (第二章)。
◆リバタリアニズム
では、自由はどうだろうか。人間を「束縛されない自由な自己」とみなし、他者に迷惑をかけない限り、あらゆる選択は本人の自由を尊重すべきであるという立場はリバタリアニズムと呼ばれる (第三章)。
しかし、迷惑をかけない限りあらゆる自由を認めると、市場の原理に基づいて、町をあげて代理出産を産業化するなど、直感的には容認しがたい行為まで認めることになる (第四章)。
◆正義と自由
ジョン・ロールズ (John Rawls)など、自由を尊重する立場の特徴は、何が善・幸福かという「道徳の原理」と何が公平公正かという「正義の原理」を独立させて考えることだ (第六章)。
我々は多元的な社会の中に生きており、何が道徳的に正しいかということを決定することはできない。むしろ、人はそれぞれ自分の善を自由に選ぶことができるべきである。そして、そのような自由な選択を実現する公平な制度こそが正義だということである。
代理出産を産業として認めるかどうかは、倫理や道徳に関する領域である。こうした論争には結論が出ないのだから、特定の考えを押し付けるのでなく、各人が自由に自分にとっての道徳を選ぶことができなくてはならない。
◆正義と道徳
しかしサンデルは、こうした自由に基づいて正義を論じる立場に反対の意を示す。我々は決して、自主的に同意した義務しか負わない訳ではない。我々はコミュニティの中を生きている。人間は「自由で負荷なき自己」などではなく、コミュニティの中で生じる「連帯の義務」を同時に負っているのである。
そのため、何が正義かを考える時は、コミュニティにおける善・道徳を考慮しない訳にはいかない。我々は共通のコミュニティの中を生きているのだから、コミュニティの中で何が善・幸福であるかについて、考えなくてはならない (第九章)。
◆これからの「正義」の話をしよう
民主党はケネディ以降、宗教的信念を政治に持ち込まないという立場をとってきた。これは、行政府が国民に道徳を押し付けることのない中立的な立場である。
しかし実際は、公共の領域において、個人的な道徳的・宗教的信条を持ち込まないことは不可能である。このような表面的な中立性からは真の相互尊重は生まれない。
原理主義的に押し付けることなく、また宗教間の争いに移行することなく、コミュニティにおける共通善を政治に取り入れていくには、市民の一人一人が考え、我々の善い生き方というものについて、今こそしっかりと向き合うべきである。
つまりサンデルは、全ての市民に向けてまさに、「これからの正義の話をしよう」と呼びかけているのである (第十章)。』
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これから正義の話をしよう⑹
○第八章 誰が何に値するか?…アリストテレス
(転載)
◆アリストテレスの政治哲学
アリストテレスの政治哲学の中心には2つの観念がある。
一つ目は
1:正義は目的にかかわる。正しさを定義するには、問題となる社会的営みの「目的因 (テロス)」を知らなければならない
というものだ。ものや営みにはすべて固有の「存在する目的」である「目的因 (テロス)」がある。そして、各々のものや営みが有する目的因にふさわしいものを与えることが正義である。
例えば、「世界で最も良い笛」は誰に与えるべきだろうか。そのためには、笛の目的因を明らかにする必要がある。笛は上手く吹いてもらい、良い音楽を生み出すために存在する (これが目的因)。そのため、その笛はそれをもっとも上手く吹く者に与えられるべきである。
2つ目の観念は
2:正義は名誉にかかわる。ある営みの目的因について考える-あるいは論じる-ことは、少なくとも部分的には、その営みが賞賛し、報いを与える美徳は何かを考え、論じることである。
というものである。笛をうまく吹く者に、笛を与えるということは、単にふさわしい者にふさわしい物をあてがうという機械的な行為ではない。笛を与えるということは、部分的には、その人が「笛を持つに相応しい美徳を持つ」という名誉を与える行為である。
つまり、その営みの目的因は何かと考えることは、その営みがどのようなどのような美徳を賞賛するのかという面が伴う。笛の目的因は何かと考えることは「この笛にふさわしい名誉、美徳を持つ者は誰か」という名誉や美徳について考えることを含む。
つまり、アリストテレスの考えは、まず「目的因」があり、それに基づいて権利や名誉、報酬などが分配されるべきであるとするものである。
この考えはいささか物事を簡単に捉えすぎているように見えるかもしれない。アリストテレスの理論が生まれた時代は、「炎が上方へと立ち上るのは本来の居場所である天に帰ろうとするからだ」といった、素朴な目的論的発想が容認されていた時代である。アリストテレスに言わせれば、政治にすら明確な目的因が存在する。それは「善き市民を養成し、善き人格を養成すること」である。
しかし、現代的な感覚から考えれば、特定の営みについて目的因を決定することなど容易でないことは明らかである。現代において政治という営みの目的因について簡単に意見が一致するとは思えない。
そういう意味では、カントやロールズが、目的自体は各人が自由に選ぶべきであるとして、目的 (道徳の原理)と公正の方法 (正義の原理)とを分離させたことは、もっともなことである。しかしながら一方で、そのような分離も実際は容易ではない。
◆本質と公正さをめぐる問題
循環系の疾患のせいで片足に障害のあったプロゴルファーのケイシー・マーティンは、試合中にゴルフカートでの移動の許可を求めたが、プロゴルフ協会は「ルール上認められない」としたため、判断は裁判所に持ち込まれた。
マーティンの主張の根拠は、活動の本質を変えないことを条件に、障害を持つ者に妥当な便宜を図るよう求める米国障害者法である。一方、協会側の大御所たちは、ゴルフ中の移動による疲労も試合の重要な要因であり、カートの使用は不公平になると主張した。
単に正義だけを、つまり公平さだけを問題にするなら、全員がカートを使用することにすれば問題は解決する。しかしながら、一流のゴルファーたちはこうしたルール変更には賛成しないだろう。なぜなら本当に争われているのは、公正さだけでなく、ゴルフにまつわる名誉の問題だからである。
ここで問題となっているのは、ゴルフという営みの持つ目的、ゴルフが賞賛する美徳の中身だ。もしカートを使用するようなことになれば、ゴルフというスポーツの持つ美徳や、一流のゴルファーとしての名誉が損なわれると、大御所たちは考えたのである。
つまり、これは「ゴルフの本質とは何か」そして「ゴルフにおける善とは何か」という議論である。最終的に裁判所は、カートの使用はゴルフの本質を変えるものではなく、不公平にもならないとして、カートの使用はゴルフの根本的な特性と矛盾しないという判決を下した。
ここで扱いたかった問題は、ゴルフの本質に対する正しい解釈が何かということではない。ある営みにおける公平さ、正義と権利についての論争は必然的に、その営みの目的、本質、賞賛される美徳、つまり「その営みにおいて何が善なのか」をめぐる論争になることが多いということだ。
結局、社会における善の本質を議論しないことには、社会において何が正義か決めるのは不可能なのかもしれない。
○第九章 互いに負うものは何か?…忠誠のジレンマ
◆国家は歴史上の過ちを謝罪すべきか
ここまでで、本書における主張の土台となるあらかたの題材は出そろった。サンデル自身の主張を述べるにあたり、本章でまず話題とするのは、国家は歴史上の過ちを謝罪すべきだろうかということである。
ナチスドイツのユダヤ人虐殺、日本軍の慰安婦問題、オーストラリアの先住民差別、アメリカ国内のWW2時における日系アメリカ人の収容や奴隷制等の問題など、国家による歴史上の過ちとされる問題は多い。
国家はこうした歴史上の過ちを謝罪すべきだろうか。謝罪が社会にとってプラスに機能するかマイナスに機能するかかは時と場合による。しかし本章で考えたいのは、こうした損得の有無ではない。
◆「自由な自己」が負うべき責任
謝罪するということは何らかの責任を取るということである。従って現存する世代が、過去の世代による過ちや不正について謝罪するということは、多少なりとも過去の世代の過ちの責任が自らにあることを認めるということだ。
しかし素朴に考えれば、自分がしなかったことに対しては謝罪のしようがない。上に挙げたような問題を謝罪するのに批判的な人は、現在の世代が先祖の罪に対して道徳背的責任を持つという考え方を拒否する。
特にこうした道徳的責任を否定するのは、人間の自由を重んじる人々である。何故なら自由であるとは、「自らの意思で背負った責務のみを引き受けること」だからだ (これを道徳的個人主義と呼ぶ)。
自由を重んじる人々は、共同体の一員としてのアイデンティティを、自分から切り離す。過去の世代の罪は過去の世代の罪であり、私のものではないのである。
このように共同体から自由だからこそ、人間は自らの善、幸福を選ぶことができる。つまりこの国家による謝罪の問題は、正義に関する議論であると同時に、これは自由への問いであるといえる。
自由を重んずる人々が認める義務は、人間に本来つきものの自然的義務 (人を殺さないなど)と、契約等によって合意の上で受け入れる自発的義務のみだ。
ロールズの考えは、こうしたリベラル派の自由の構想に基づくものであった。これまで述べてきたようにロールズは、一人一人を自由で独立した自己とみなし、道徳の原理には踏み込まず、中立的な正義の原理を構想した。
◆「自由」の概念の再考と連帯の義務
しかしサンデルはこうした「自由の概念には欠陥がある」と考える。我々は自分たちの社会生活の基本的特徴について考え直す必要があるのである。
人間には、リベラル派が認める自然的義務と自発的義務以外に、「連帯の義務」があると、サンデルは考える。人間は生まれながらにして重荷を負った自己であり、自ら望まない道徳的要求を受け入れる存在であると考えなくてはいけない。
我々は家族や国家といったコミュニティにおいて、忠誠心や一体感という絆で同胞と結ばれている。そしてそのようなつながりから生まれる義務は確かに存在する。
例えば、犯罪を犯した兄を警察に引き渡すべきか、かくまうべきかというジレンマが生じるのは、忠誠や連帯の要求が、犯罪に対する道徳的要求と対比しうるものであるからだ。もし忠誠や連帯の要求が取るに足らないものならば、このようなジレンマは生じない。
つまり我々は自らの身に対して責任を負う自由な自己であるとは言えず、連帯の義務を負ったコミュニティの一員でもあるのである。
コミュニティの一員として連帯の義務を負うならば、何が公平かを考える際に「コミュニティにとっての善」を考慮しない訳にはいかない。こうした立場は、リベラリズムを批判する「コミュニタリアン (共同体主義者)」と呼ばれるようになった。
コミュニタリアンは、道徳の原理と正義の原理を独立させた自由主義者とは異なり、道徳の原理を排しては、正義の原理を論じることはできないと考える。こう考えるならば、アリストテレスの理論も一考に値する。
◆物語る存在
(この部分はいきなり構成主義的な話になり、正直、サンデルの本だけではすぐには理解しがたいので、かなり勝手に言葉を足しながらまとめます。間違いがあればご指摘ください)
アラスデア・マッキンタイアは、著書「美徳なき時代」において人間を「物語る存在」とみなす。これは、「コミュニティの中で連帯の義務を持つ存在としての人間」観を支えるアイディアだ。
「物語る存在」とはどいうことか。我々は、ある程度のまとまりと首尾一貫性を持った、自らの物語の中を生きている存在だということだ。
人間は誰もが自らの物語の中を生きている。人生は単なる客観的事実の積み重ねではない。人間は、自らの人生を一つの物語として生きることで、過去・現在・未来が一つのまとまりを持つのである。
「多少の山や谷はありつつも平凡な人生」「過去に大きな苦労をしながらもそれを乗り越えた人生」「一貫性のない行き当たりばったりな人生 (これも一つの一貫性だ)」こうした全体としてのまとまりを自分の人生の中に見出すことによって、それぞれの出来事が自分の人生の中で意味づけられていく。
コミュニタリアンがこの「物語る存在」に注目するのは、人生の物語はアイデンティティの源であるコミュニティの物語の中に埋め込まれているからである。
我々は一定のコミュニティの歴史を他者と共有しながら生きている。そして、この「私の人生の物語は他人の物語とかかわりがある」という認識が道徳的な重みの源となる。
我々のアイデンティティは決して社会から独立して存在するものではないのだ。そのため、「物語る存在」としての自己観は、「自由な存在」としての自己観とは相容れない。
◆道徳をめぐる議論は可能か
このように「物語る存在」として人間を見るならば、従来の自由の概念は再考すべきであるし、正義を考えるにあたって、コミュニティの善を考えざるを得ない。
「正義」の支配する公共の領域において、個人的な道徳的・宗教的信条を持ち込まないことは、寛容と相互尊重を確保するための一法に見えるかもしれないが、そうした中立性の確保は達成不能である。
我々は、正義をめぐる論争によって、道徳をめぐる本質的な問いに否応なく巻き込まれるのである。しかし、宗教的な対立などに移行せずに道徳・善について考えることは可能だろうか。そのような公的言説とはどのようなものだろうか。
これは単に哲学上の問いではない。我々の政治的言説を活性化し、市民生活を一新しようとする試みの中心にある問いなのだ。
○第十章 正義と共通善
◆ケネディからオバマへ
1960年、カトリック教徒であるジョン・F・ケネディは、大統領選挙において「宗教は私的な事柄であり、公的責任とは何の関係もない」と明言した。
ケネディの目的は、それまで大統領に選ばれたカトリック教徒は一人もいなかったアメリカ合衆国において、自分がカトリックの宗教的信念を国民に押し付けるようなことはないと、国民に安心してもらうことだ。
以来民主党は、「大統領は宗教的見解を自分自身の私的な事柄とすべきだ」というケネディの言葉を引き継ぎ、中絶や同性愛など生殖に関する領域で道徳を法制化すべきでないと主張してきた。
しかし46年後の2006年、同じく民主党のバラク・オバマは、党の大統領候補に指名される直前、ケネディとは逆の立場を表明した。
ケネディとオバマの共通善をめぐる思想は共通する部分がある。しかし、二人の宗教に対する立場は真逆だ。オバマ曰く、「公共の場に出る時は宗教から離れるよう求めるのは間違っている」。この間に一体何があったのだろうか。
◆リベラリズムと宗教
ロールズが『正義論』においてケネディの構想を哲学的に擁護したのが1971年のことだ。対立する道徳的・宗教的教義の間で不偏不党を保つには、政治的リベラリズムは、道徳的なテーマに取り組むべきではないという。
しかし1980年には、ロールズの思想の根底にある「自由な選択と負荷なき自己」という観念に、コミュニタリアンが疑問を呈した。
同年、共和党のドナルド・レーガンが大統領選挙に勝利して以降、共和党内でキリスト教保守派の声が目立つようになった。彼らは、国内の道徳的緩みと戦うとして、ポルノや妊娠中絶、同性愛に法規制をかけようとした。
対する民主党はこれに反論したが、彼らの基本的立場は、彼らの主張に大きな制限をかけることになってしまった。
行政府の中立という基本的立場を取るならば、何が道徳的なのかという論争は許されなくなる。そのため反論するには当然、道徳的な問題に行政府が介入すべきでない、と言うしかない。
これらの反論は誠実なものだが、ポルノや妊娠中絶、同性愛そのものへの是非が論じられない以上、議論には有利とはいえない。このような構造によって、民主党はしばらくの間、雌伏の時期を過ごすことになる。
その結果民主党は、国内に広まる道徳的・精神的渇望に応えることはできなかった。そこへ登場したのがバラク・オバマである。
彼は、「ほんのわずかであっても宗教の匂いを嫌う進歩主義者のせいで、我々は道徳的な言葉で効果的に問題に対処することができなくなってしまった」として、より度量が大きく信仰に好意的な形の公共的理性を持つべきと主張した。
そもそも「我が国の法律は、その定義からして道徳を法典化したものであり、道徳の大部分はユダヤ教とキリスト教の伝統に基づいている」のであり、法律は宗教的観念と本質的に結びついている。
我々が本当に、人々の置かれた状況について話したいと思うなら―我々の希望と価値観を、彼ら自身の希望と価値観につながるような形で伝えたいと思うなら―、進歩主義者である我々は、宗教的言説の分野を切り捨ててはいけない
という言葉に見られるように、オバマは宗教的・道徳的議論を政治的議論の中に受け入れようとしたのだ。
◆正義と善良な生活
これまでの章で述べたように、そもそも、中立性と選択の自由に基づいて、道徳的・宗教的議論には踏み込まないということは不可能だ。
例えば妊娠中絶の問題を考えてみよう。カトリックは、受胎の瞬間から、胎児は人であるとして、妊娠中絶に反対する。
それに対して、道徳的議論はせず、中絶は選択の自由に任せるとすることは、結果的に「受胎の瞬間から、胎児は人である」という教えに暗に賛同していないことになる。なぜならば、胎児を殺すこと自体は認めることになるからだ。
正義は結局、正しい分配にかかわるだけでなく、ものごとに対する正しい評価にも関わってくるのだ。公正な社会は、善良な生活について判断することとともに成り立つのである。
◆共通善に基づく政治
もちろん。オバマが表明した道徳や市民をめぐる主張が、共通善に基づく新たな政治にうまく転換されるかはまだわからない。しかし今後の政治には、美徳の概念や共通善を真摯に受け止め、取り入れることが必要なのである。
最後にサンデルは、これから取り上げられるべき、共通善に関する新たな政治のテーマとして以下の4つを挙げている。
一つ目は、「市民権、犠牲、奉仕」に関するもの、コミュニティの共通善に対する献身をもたらすような、公民教育の方法についての議論である。
二つ目は「市場の道徳的限界」についてだ。市場は生産的活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が市場によって変えられることがある。そのため市場以外の価値のうち、どれを市場の価値から守るべきかについて議論がなされるべきである。
三つ目は「不平等、連帯、市民道徳」に関するものだ。貧富の差があまりに大きいと民主的な市民生活が必要とする連帯が損なわれ、公共領域の衰退が生じる。我々は、不平等の公民的悪影響とそれを払拭する方法についての議論する必要がある。
そして最後は「道徳に関与する政治」についてだ。道徳と宗教に関する意見は一致しないものだ。行政府が、不一致について中立性を保つことは不可能だとしても、それでもなお相互尊重に基づいた政治を行うことは可能だろうか。
サンデルはこれを「可能だ」と主張する。だがそのためには、我々が慣れてきた生き方と比べ、もっと活発で積極的な市民生活が必要になる。
我々はこれまで、こうした道徳的議論への関与を回避してきた。しかし、道徳的不一致に対する公的な関与が活発になれば、相互的尊敬の基盤は弱まるどころか、強まるはずだ。
もちろんその結果、不一致が同意に至るとは限らないし、相互尊重が本当に生まれる保証もない。しかし、やってみないことにはわからない。
道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。』
(転載)
◆アリストテレスの政治哲学
アリストテレスの政治哲学の中心には2つの観念がある。
一つ目は
1:正義は目的にかかわる。正しさを定義するには、問題となる社会的営みの「目的因 (テロス)」を知らなければならない
というものだ。ものや営みにはすべて固有の「存在する目的」である「目的因 (テロス)」がある。そして、各々のものや営みが有する目的因にふさわしいものを与えることが正義である。
例えば、「世界で最も良い笛」は誰に与えるべきだろうか。そのためには、笛の目的因を明らかにする必要がある。笛は上手く吹いてもらい、良い音楽を生み出すために存在する (これが目的因)。そのため、その笛はそれをもっとも上手く吹く者に与えられるべきである。
2つ目の観念は
2:正義は名誉にかかわる。ある営みの目的因について考える-あるいは論じる-ことは、少なくとも部分的には、その営みが賞賛し、報いを与える美徳は何かを考え、論じることである。
というものである。笛をうまく吹く者に、笛を与えるということは、単にふさわしい者にふさわしい物をあてがうという機械的な行為ではない。笛を与えるということは、部分的には、その人が「笛を持つに相応しい美徳を持つ」という名誉を与える行為である。
つまり、その営みの目的因は何かと考えることは、その営みがどのようなどのような美徳を賞賛するのかという面が伴う。笛の目的因は何かと考えることは「この笛にふさわしい名誉、美徳を持つ者は誰か」という名誉や美徳について考えることを含む。
つまり、アリストテレスの考えは、まず「目的因」があり、それに基づいて権利や名誉、報酬などが分配されるべきであるとするものである。
この考えはいささか物事を簡単に捉えすぎているように見えるかもしれない。アリストテレスの理論が生まれた時代は、「炎が上方へと立ち上るのは本来の居場所である天に帰ろうとするからだ」といった、素朴な目的論的発想が容認されていた時代である。アリストテレスに言わせれば、政治にすら明確な目的因が存在する。それは「善き市民を養成し、善き人格を養成すること」である。
しかし、現代的な感覚から考えれば、特定の営みについて目的因を決定することなど容易でないことは明らかである。現代において政治という営みの目的因について簡単に意見が一致するとは思えない。
そういう意味では、カントやロールズが、目的自体は各人が自由に選ぶべきであるとして、目的 (道徳の原理)と公正の方法 (正義の原理)とを分離させたことは、もっともなことである。しかしながら一方で、そのような分離も実際は容易ではない。
◆本質と公正さをめぐる問題
循環系の疾患のせいで片足に障害のあったプロゴルファーのケイシー・マーティンは、試合中にゴルフカートでの移動の許可を求めたが、プロゴルフ協会は「ルール上認められない」としたため、判断は裁判所に持ち込まれた。
マーティンの主張の根拠は、活動の本質を変えないことを条件に、障害を持つ者に妥当な便宜を図るよう求める米国障害者法である。一方、協会側の大御所たちは、ゴルフ中の移動による疲労も試合の重要な要因であり、カートの使用は不公平になると主張した。
単に正義だけを、つまり公平さだけを問題にするなら、全員がカートを使用することにすれば問題は解決する。しかしながら、一流のゴルファーたちはこうしたルール変更には賛成しないだろう。なぜなら本当に争われているのは、公正さだけでなく、ゴルフにまつわる名誉の問題だからである。
ここで問題となっているのは、ゴルフという営みの持つ目的、ゴルフが賞賛する美徳の中身だ。もしカートを使用するようなことになれば、ゴルフというスポーツの持つ美徳や、一流のゴルファーとしての名誉が損なわれると、大御所たちは考えたのである。
つまり、これは「ゴルフの本質とは何か」そして「ゴルフにおける善とは何か」という議論である。最終的に裁判所は、カートの使用はゴルフの本質を変えるものではなく、不公平にもならないとして、カートの使用はゴルフの根本的な特性と矛盾しないという判決を下した。
ここで扱いたかった問題は、ゴルフの本質に対する正しい解釈が何かということではない。ある営みにおける公平さ、正義と権利についての論争は必然的に、その営みの目的、本質、賞賛される美徳、つまり「その営みにおいて何が善なのか」をめぐる論争になることが多いということだ。
結局、社会における善の本質を議論しないことには、社会において何が正義か決めるのは不可能なのかもしれない。
○第九章 互いに負うものは何か?…忠誠のジレンマ
◆国家は歴史上の過ちを謝罪すべきか
ここまでで、本書における主張の土台となるあらかたの題材は出そろった。サンデル自身の主張を述べるにあたり、本章でまず話題とするのは、国家は歴史上の過ちを謝罪すべきだろうかということである。
ナチスドイツのユダヤ人虐殺、日本軍の慰安婦問題、オーストラリアの先住民差別、アメリカ国内のWW2時における日系アメリカ人の収容や奴隷制等の問題など、国家による歴史上の過ちとされる問題は多い。
国家はこうした歴史上の過ちを謝罪すべきだろうか。謝罪が社会にとってプラスに機能するかマイナスに機能するかかは時と場合による。しかし本章で考えたいのは、こうした損得の有無ではない。
◆「自由な自己」が負うべき責任
謝罪するということは何らかの責任を取るということである。従って現存する世代が、過去の世代による過ちや不正について謝罪するということは、多少なりとも過去の世代の過ちの責任が自らにあることを認めるということだ。
しかし素朴に考えれば、自分がしなかったことに対しては謝罪のしようがない。上に挙げたような問題を謝罪するのに批判的な人は、現在の世代が先祖の罪に対して道徳背的責任を持つという考え方を拒否する。
特にこうした道徳的責任を否定するのは、人間の自由を重んじる人々である。何故なら自由であるとは、「自らの意思で背負った責務のみを引き受けること」だからだ (これを道徳的個人主義と呼ぶ)。
自由を重んじる人々は、共同体の一員としてのアイデンティティを、自分から切り離す。過去の世代の罪は過去の世代の罪であり、私のものではないのである。
このように共同体から自由だからこそ、人間は自らの善、幸福を選ぶことができる。つまりこの国家による謝罪の問題は、正義に関する議論であると同時に、これは自由への問いであるといえる。
自由を重んずる人々が認める義務は、人間に本来つきものの自然的義務 (人を殺さないなど)と、契約等によって合意の上で受け入れる自発的義務のみだ。
ロールズの考えは、こうしたリベラル派の自由の構想に基づくものであった。これまで述べてきたようにロールズは、一人一人を自由で独立した自己とみなし、道徳の原理には踏み込まず、中立的な正義の原理を構想した。
◆「自由」の概念の再考と連帯の義務
しかしサンデルはこうした「自由の概念には欠陥がある」と考える。我々は自分たちの社会生活の基本的特徴について考え直す必要があるのである。
人間には、リベラル派が認める自然的義務と自発的義務以外に、「連帯の義務」があると、サンデルは考える。人間は生まれながらにして重荷を負った自己であり、自ら望まない道徳的要求を受け入れる存在であると考えなくてはいけない。
我々は家族や国家といったコミュニティにおいて、忠誠心や一体感という絆で同胞と結ばれている。そしてそのようなつながりから生まれる義務は確かに存在する。
例えば、犯罪を犯した兄を警察に引き渡すべきか、かくまうべきかというジレンマが生じるのは、忠誠や連帯の要求が、犯罪に対する道徳的要求と対比しうるものであるからだ。もし忠誠や連帯の要求が取るに足らないものならば、このようなジレンマは生じない。
つまり我々は自らの身に対して責任を負う自由な自己であるとは言えず、連帯の義務を負ったコミュニティの一員でもあるのである。
コミュニティの一員として連帯の義務を負うならば、何が公平かを考える際に「コミュニティにとっての善」を考慮しない訳にはいかない。こうした立場は、リベラリズムを批判する「コミュニタリアン (共同体主義者)」と呼ばれるようになった。
コミュニタリアンは、道徳の原理と正義の原理を独立させた自由主義者とは異なり、道徳の原理を排しては、正義の原理を論じることはできないと考える。こう考えるならば、アリストテレスの理論も一考に値する。
◆物語る存在
(この部分はいきなり構成主義的な話になり、正直、サンデルの本だけではすぐには理解しがたいので、かなり勝手に言葉を足しながらまとめます。間違いがあればご指摘ください)
アラスデア・マッキンタイアは、著書「美徳なき時代」において人間を「物語る存在」とみなす。これは、「コミュニティの中で連帯の義務を持つ存在としての人間」観を支えるアイディアだ。
「物語る存在」とはどいうことか。我々は、ある程度のまとまりと首尾一貫性を持った、自らの物語の中を生きている存在だということだ。
人間は誰もが自らの物語の中を生きている。人生は単なる客観的事実の積み重ねではない。人間は、自らの人生を一つの物語として生きることで、過去・現在・未来が一つのまとまりを持つのである。
「多少の山や谷はありつつも平凡な人生」「過去に大きな苦労をしながらもそれを乗り越えた人生」「一貫性のない行き当たりばったりな人生 (これも一つの一貫性だ)」こうした全体としてのまとまりを自分の人生の中に見出すことによって、それぞれの出来事が自分の人生の中で意味づけられていく。
コミュニタリアンがこの「物語る存在」に注目するのは、人生の物語はアイデンティティの源であるコミュニティの物語の中に埋め込まれているからである。
我々は一定のコミュニティの歴史を他者と共有しながら生きている。そして、この「私の人生の物語は他人の物語とかかわりがある」という認識が道徳的な重みの源となる。
我々のアイデンティティは決して社会から独立して存在するものではないのだ。そのため、「物語る存在」としての自己観は、「自由な存在」としての自己観とは相容れない。
◆道徳をめぐる議論は可能か
このように「物語る存在」として人間を見るならば、従来の自由の概念は再考すべきであるし、正義を考えるにあたって、コミュニティの善を考えざるを得ない。
「正義」の支配する公共の領域において、個人的な道徳的・宗教的信条を持ち込まないことは、寛容と相互尊重を確保するための一法に見えるかもしれないが、そうした中立性の確保は達成不能である。
我々は、正義をめぐる論争によって、道徳をめぐる本質的な問いに否応なく巻き込まれるのである。しかし、宗教的な対立などに移行せずに道徳・善について考えることは可能だろうか。そのような公的言説とはどのようなものだろうか。
これは単に哲学上の問いではない。我々の政治的言説を活性化し、市民生活を一新しようとする試みの中心にある問いなのだ。
○第十章 正義と共通善
◆ケネディからオバマへ
1960年、カトリック教徒であるジョン・F・ケネディは、大統領選挙において「宗教は私的な事柄であり、公的責任とは何の関係もない」と明言した。
ケネディの目的は、それまで大統領に選ばれたカトリック教徒は一人もいなかったアメリカ合衆国において、自分がカトリックの宗教的信念を国民に押し付けるようなことはないと、国民に安心してもらうことだ。
以来民主党は、「大統領は宗教的見解を自分自身の私的な事柄とすべきだ」というケネディの言葉を引き継ぎ、中絶や同性愛など生殖に関する領域で道徳を法制化すべきでないと主張してきた。
しかし46年後の2006年、同じく民主党のバラク・オバマは、党の大統領候補に指名される直前、ケネディとは逆の立場を表明した。
ケネディとオバマの共通善をめぐる思想は共通する部分がある。しかし、二人の宗教に対する立場は真逆だ。オバマ曰く、「公共の場に出る時は宗教から離れるよう求めるのは間違っている」。この間に一体何があったのだろうか。
◆リベラリズムと宗教
ロールズが『正義論』においてケネディの構想を哲学的に擁護したのが1971年のことだ。対立する道徳的・宗教的教義の間で不偏不党を保つには、政治的リベラリズムは、道徳的なテーマに取り組むべきではないという。
しかし1980年には、ロールズの思想の根底にある「自由な選択と負荷なき自己」という観念に、コミュニタリアンが疑問を呈した。
同年、共和党のドナルド・レーガンが大統領選挙に勝利して以降、共和党内でキリスト教保守派の声が目立つようになった。彼らは、国内の道徳的緩みと戦うとして、ポルノや妊娠中絶、同性愛に法規制をかけようとした。
対する民主党はこれに反論したが、彼らの基本的立場は、彼らの主張に大きな制限をかけることになってしまった。
行政府の中立という基本的立場を取るならば、何が道徳的なのかという論争は許されなくなる。そのため反論するには当然、道徳的な問題に行政府が介入すべきでない、と言うしかない。
これらの反論は誠実なものだが、ポルノや妊娠中絶、同性愛そのものへの是非が論じられない以上、議論には有利とはいえない。このような構造によって、民主党はしばらくの間、雌伏の時期を過ごすことになる。
その結果民主党は、国内に広まる道徳的・精神的渇望に応えることはできなかった。そこへ登場したのがバラク・オバマである。
彼は、「ほんのわずかであっても宗教の匂いを嫌う進歩主義者のせいで、我々は道徳的な言葉で効果的に問題に対処することができなくなってしまった」として、より度量が大きく信仰に好意的な形の公共的理性を持つべきと主張した。
そもそも「我が国の法律は、その定義からして道徳を法典化したものであり、道徳の大部分はユダヤ教とキリスト教の伝統に基づいている」のであり、法律は宗教的観念と本質的に結びついている。
我々が本当に、人々の置かれた状況について話したいと思うなら―我々の希望と価値観を、彼ら自身の希望と価値観につながるような形で伝えたいと思うなら―、進歩主義者である我々は、宗教的言説の分野を切り捨ててはいけない
という言葉に見られるように、オバマは宗教的・道徳的議論を政治的議論の中に受け入れようとしたのだ。
◆正義と善良な生活
これまでの章で述べたように、そもそも、中立性と選択の自由に基づいて、道徳的・宗教的議論には踏み込まないということは不可能だ。
例えば妊娠中絶の問題を考えてみよう。カトリックは、受胎の瞬間から、胎児は人であるとして、妊娠中絶に反対する。
それに対して、道徳的議論はせず、中絶は選択の自由に任せるとすることは、結果的に「受胎の瞬間から、胎児は人である」という教えに暗に賛同していないことになる。なぜならば、胎児を殺すこと自体は認めることになるからだ。
正義は結局、正しい分配にかかわるだけでなく、ものごとに対する正しい評価にも関わってくるのだ。公正な社会は、善良な生活について判断することとともに成り立つのである。
◆共通善に基づく政治
もちろん。オバマが表明した道徳や市民をめぐる主張が、共通善に基づく新たな政治にうまく転換されるかはまだわからない。しかし今後の政治には、美徳の概念や共通善を真摯に受け止め、取り入れることが必要なのである。
最後にサンデルは、これから取り上げられるべき、共通善に関する新たな政治のテーマとして以下の4つを挙げている。
一つ目は、「市民権、犠牲、奉仕」に関するもの、コミュニティの共通善に対する献身をもたらすような、公民教育の方法についての議論である。
二つ目は「市場の道徳的限界」についてだ。市場は生産的活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が市場によって変えられることがある。そのため市場以外の価値のうち、どれを市場の価値から守るべきかについて議論がなされるべきである。
三つ目は「不平等、連帯、市民道徳」に関するものだ。貧富の差があまりに大きいと民主的な市民生活が必要とする連帯が損なわれ、公共領域の衰退が生じる。我々は、不平等の公民的悪影響とそれを払拭する方法についての議論する必要がある。
そして最後は「道徳に関与する政治」についてだ。道徳と宗教に関する意見は一致しないものだ。行政府が、不一致について中立性を保つことは不可能だとしても、それでもなお相互尊重に基づいた政治を行うことは可能だろうか。
サンデルはこれを「可能だ」と主張する。だがそのためには、我々が慣れてきた生き方と比べ、もっと活発で積極的な市民生活が必要になる。
我々はこれまで、こうした道徳的議論への関与を回避してきた。しかし、道徳的不一致に対する公的な関与が活発になれば、相互的尊敬の基盤は弱まるどころか、強まるはずだ。
もちろんその結果、不一致が同意に至るとは限らないし、相互尊重が本当に生まれる保証もない。しかし、やってみないことにはわからない。
道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。』
touxia at 11:50|Permalink│Comments(0)│
これから正義の話をしよう⑸
○第七章 アファーマティブ・アクションをめぐる論争
(転載)
アファーマティブ・アクション (積極的差別是正措置)とは、弱者集団の不利な現状を、歴史的経緯や社会環境を鑑みた上で是正するための改善措置のことである。
アメリカの大学では、アファーマティブ・アクションを採用し、マイノリティの出願者を優遇する措置を設けることがある。このことは逆に言えば、自分の方が成績が良いにもかかわらず、人種が原因で不合格になる可能性があるということだ。
このような経緯でテキサス大学のロースクールに不合格となった女性が、自分よりも成績の低いアフリカ系アメリカ人やメキシコ系アメリカ人が合格するのは不当だとして訴訟を起こした。
一体、アファーマティブ・アクションは公正と言えるのだろうか。
◆擁護論1 過去の過ちの補償
一部のアファーマティブ・アクション支持者は、かつて虐げられた人々への補償のために、人種的・民族的要因を考慮するべきだと言う。
しかし、アファーマティブ・アクションは虐げられた人々への直接の補償を行う訳ではない。また、補償のしわ寄せとして不合格を言い渡される者が、直接彼らを虐げたわけではない。
この問題はまた別の大きな問題を提起する。すなわち、過去の世代が犯した過ちを、我々は償う道徳的責任があるのかということだ。
我々は、個人としてのみの責任を負うのだろうか。それとも歴史的アイデンティティを持つコミュニティの成員として負うべき義務があるのか。
この問題は非常に重要な部分だが、この章ではこれ以上深入りせず、第九章で改めて扱う。
◆擁護論2 社会的目的の達成
アファーマティブ・アクションを支持する意見のもう一つは、アファーマティブ・アクションが、大学が自らの社会的目的を果たすための手段になるということだ。
「法治社会を実現するには、市民が法の判断を進んで受け入れるような社会を作らなくてはならない」そのためには「あらゆるグループの成員が司法に参加しなければならない。」テキサス大学はこのような理由から、アファーマティブ・アクションを採用しているという。
法哲学者のドナルド・ドゥウォーキンは「大学は、このように自らの社会的目的に基づいて、独自の選考基準を定めるものである。従って、大学入学資格はそもそも学業成績のみで判定されるものではない」とする。
つまり、学生の学業成績と、どの学生が入学を許可されるかは厳密には別の問題だということだ。実はこの議論は、前章で述べたロールズの考えに通じるものである。
ロールズは、努力に報酬が与えられるべきかどうかは、努力というものの持つ価値ではなく「努力した者には報酬を」というルールの有無に依存するとした。
同様に、学業成績の高い者に合格が出されるべきかどうかは、学業成績自体の価値ではなく「学業成績の高い者に合格を与える」というルールの有無に依存するのである。
ロールズはこのように、努力や学業成績といった道徳的功績の価値と、分配の正義や権利とを切り離して考えることで、中立的な立場から正義と権利のよりどころを見つけようとしていたのである。
◆道徳的功績と分配の正義の独立は可能か
しかし、社会全体の共通善を達成するために、合格者を独自の選考基準に基づいて判断してよいのなら、学生の選び方そのものは大学が自由に決めて良いということになる。
それならば、大学入学枠の一部を売りに出したらどうだろうか。社会的目的を達成するためには、経営・研究のための資金が必要だ。入学枠の一部を売りに出すことはそのための資金獲得に貢献し、ひいては社会的目的の達成を助けるという論理も成り立つ。
しかし多くの人は、このような行いは純粋に「大学の堕落」だと考えるだろう。ではなぜ、合格の権利を売りに出すことが「大学の堕落」になるのだろうか。ロックコンサートのチケットがオークションで高値をつけても、誰も堕落とは思わない。
入学枠を売るというようなことになったら、大学の質は下がり、結果的に大学が掲げる社会的目的の達成をかえって妨げるという意見もあるかもしれない。これは功利主義的立場からの反論だが、「堕落」というのは、功利主義的な立場とはまた違う視点からの批判である。たとえ大学が社会的目的を果たし続けたとしても、「堕落は堕落である」と言われるだろう。
ここには大学の持つ、そしてロックコンサートにはない品位の問題がある。大学はある種の社会的目的 (共通善)を追求するものなのだから、その手段 (学生の選抜)もそれにふさわしいやり方でなくてはならない。
ロールズのアイディアを借用するならば、学生の学業成績の高低と、大学入学の権利の有無とは別の問題として扱うことができる。
しかし、大学には大学たるべき品位が存在するのならばやはり、大学入学の権利付与に際し、道徳的功績である学生の学業成績を切り離して考える訳にはいかないのである。
では、ロールズやカントのように、中立的な立場から正義や権利のよりどころを確立することはできるのだろうか。
○勝手な補足 第八章に入る前に
次の第八章において、マイケル・サンデル自身の主張を導き出すための材料がほぼ出そろうことになる。サンデル自身の主張の前提となる土台は「アリストテレスvsカント、ロールズ」という構図だ。
そのため、第八章におけるアリストテレスの位置づけを知るためには、これまで説明してきたカントやロールズの立場について改めて明確にする必要がある。
そこで、第八章に入る前に、カントとロールズの共通部分についてここで勝手に解説する。
カントとロールズは正義の原理と、道徳の原理とを独立させて考えた。そもそも正義と道徳はどう違うのか。日本語だとニュアンスの違いは難しいが、Oxford Advanced Learner's Dictionaryによれば、
○正義…juscice
人々への公正な扱い…the fair treatment of people
○道徳…morality
正不正や善悪に関する原理…principles concerning right and wrong or good and bad behaviour
とされる。このように、英語で言うjusticeは日本語の正義と違って、善悪といったニュアンスはあまり含まれない。
つまり、道徳は「幸福や善悪、正不正とは何か」という広大な問題を扱うのに対し、正義は「公正とは何か」という狭い範囲の問題を扱うと言える (私は哲学や政治学は門外漢なので用法として間違っていたら是非ご指摘ください)。
カントとロールズの共通点は、「道徳の原理 (つまり善・あるいは幸福)は人によって異なると考えた」という点、そして一方で、「人間の自由を非常に重んじた」という点だ。人間はそれぞれ自らの善を自由に選ぶことができるのである。
カントは人間の自律性に多大なる敬意を払った。カントは人間が自らを自律的存在と捉えることにより、定言命法へと至ると考えた。人が善 (自分に合った幸福)を議論するのはそこからだ。曰く「他者の自由を侵害しない限り、人はみな自分に合った幸福を探すことができる」
ロールズは、人がそれぞれ自分の善を自由に選ぶことができるべきであり、そのためにはまず平等な権利を認めるべきであると考えた。
2人は「他者の自由を侵害しない」ことや「平等な権利を認める」ことを正義の原理に定めたが、「何が善 (幸福)か」という道徳の原理には踏み込まず、それは人それぞれの判断であると考えた。
こうすることによって、決着のつかない道徳の原理にとらわれることなく、正義の原理を打ち立てることができる。そして、人間が自分の善を自由に選ぶことができるようになる。
この点と対立する考えが、第八章で述べられるアリストテレスの正義論だ。アリストテレスは、正義の原理と道徳の原理を切り離すことはせずに、政治の在り方について論じている。
「アリストテレスvsカント、ロールズ」という基本的な対立構造があることを踏まえ、アリストテレスの正義論について見てみたい。』
(転載)
アファーマティブ・アクション (積極的差別是正措置)とは、弱者集団の不利な現状を、歴史的経緯や社会環境を鑑みた上で是正するための改善措置のことである。
アメリカの大学では、アファーマティブ・アクションを採用し、マイノリティの出願者を優遇する措置を設けることがある。このことは逆に言えば、自分の方が成績が良いにもかかわらず、人種が原因で不合格になる可能性があるということだ。
このような経緯でテキサス大学のロースクールに不合格となった女性が、自分よりも成績の低いアフリカ系アメリカ人やメキシコ系アメリカ人が合格するのは不当だとして訴訟を起こした。
一体、アファーマティブ・アクションは公正と言えるのだろうか。
◆擁護論1 過去の過ちの補償
一部のアファーマティブ・アクション支持者は、かつて虐げられた人々への補償のために、人種的・民族的要因を考慮するべきだと言う。
しかし、アファーマティブ・アクションは虐げられた人々への直接の補償を行う訳ではない。また、補償のしわ寄せとして不合格を言い渡される者が、直接彼らを虐げたわけではない。
この問題はまた別の大きな問題を提起する。すなわち、過去の世代が犯した過ちを、我々は償う道徳的責任があるのかということだ。
我々は、個人としてのみの責任を負うのだろうか。それとも歴史的アイデンティティを持つコミュニティの成員として負うべき義務があるのか。
この問題は非常に重要な部分だが、この章ではこれ以上深入りせず、第九章で改めて扱う。
◆擁護論2 社会的目的の達成
アファーマティブ・アクションを支持する意見のもう一つは、アファーマティブ・アクションが、大学が自らの社会的目的を果たすための手段になるということだ。
「法治社会を実現するには、市民が法の判断を進んで受け入れるような社会を作らなくてはならない」そのためには「あらゆるグループの成員が司法に参加しなければならない。」テキサス大学はこのような理由から、アファーマティブ・アクションを採用しているという。
法哲学者のドナルド・ドゥウォーキンは「大学は、このように自らの社会的目的に基づいて、独自の選考基準を定めるものである。従って、大学入学資格はそもそも学業成績のみで判定されるものではない」とする。
つまり、学生の学業成績と、どの学生が入学を許可されるかは厳密には別の問題だということだ。実はこの議論は、前章で述べたロールズの考えに通じるものである。
ロールズは、努力に報酬が与えられるべきかどうかは、努力というものの持つ価値ではなく「努力した者には報酬を」というルールの有無に依存するとした。
同様に、学業成績の高い者に合格が出されるべきかどうかは、学業成績自体の価値ではなく「学業成績の高い者に合格を与える」というルールの有無に依存するのである。
ロールズはこのように、努力や学業成績といった道徳的功績の価値と、分配の正義や権利とを切り離して考えることで、中立的な立場から正義と権利のよりどころを見つけようとしていたのである。
◆道徳的功績と分配の正義の独立は可能か
しかし、社会全体の共通善を達成するために、合格者を独自の選考基準に基づいて判断してよいのなら、学生の選び方そのものは大学が自由に決めて良いということになる。
それならば、大学入学枠の一部を売りに出したらどうだろうか。社会的目的を達成するためには、経営・研究のための資金が必要だ。入学枠の一部を売りに出すことはそのための資金獲得に貢献し、ひいては社会的目的の達成を助けるという論理も成り立つ。
しかし多くの人は、このような行いは純粋に「大学の堕落」だと考えるだろう。ではなぜ、合格の権利を売りに出すことが「大学の堕落」になるのだろうか。ロックコンサートのチケットがオークションで高値をつけても、誰も堕落とは思わない。
入学枠を売るというようなことになったら、大学の質は下がり、結果的に大学が掲げる社会的目的の達成をかえって妨げるという意見もあるかもしれない。これは功利主義的立場からの反論だが、「堕落」というのは、功利主義的な立場とはまた違う視点からの批判である。たとえ大学が社会的目的を果たし続けたとしても、「堕落は堕落である」と言われるだろう。
ここには大学の持つ、そしてロックコンサートにはない品位の問題がある。大学はある種の社会的目的 (共通善)を追求するものなのだから、その手段 (学生の選抜)もそれにふさわしいやり方でなくてはならない。
ロールズのアイディアを借用するならば、学生の学業成績の高低と、大学入学の権利の有無とは別の問題として扱うことができる。
しかし、大学には大学たるべき品位が存在するのならばやはり、大学入学の権利付与に際し、道徳的功績である学生の学業成績を切り離して考える訳にはいかないのである。
では、ロールズやカントのように、中立的な立場から正義や権利のよりどころを確立することはできるのだろうか。
○勝手な補足 第八章に入る前に
次の第八章において、マイケル・サンデル自身の主張を導き出すための材料がほぼ出そろうことになる。サンデル自身の主張の前提となる土台は「アリストテレスvsカント、ロールズ」という構図だ。
そのため、第八章におけるアリストテレスの位置づけを知るためには、これまで説明してきたカントやロールズの立場について改めて明確にする必要がある。
そこで、第八章に入る前に、カントとロールズの共通部分についてここで勝手に解説する。
カントとロールズは正義の原理と、道徳の原理とを独立させて考えた。そもそも正義と道徳はどう違うのか。日本語だとニュアンスの違いは難しいが、Oxford Advanced Learner's Dictionaryによれば、
○正義…juscice
人々への公正な扱い…the fair treatment of people
○道徳…morality
正不正や善悪に関する原理…principles concerning right and wrong or good and bad behaviour
とされる。このように、英語で言うjusticeは日本語の正義と違って、善悪といったニュアンスはあまり含まれない。
つまり、道徳は「幸福や善悪、正不正とは何か」という広大な問題を扱うのに対し、正義は「公正とは何か」という狭い範囲の問題を扱うと言える (私は哲学や政治学は門外漢なので用法として間違っていたら是非ご指摘ください)。
カントとロールズの共通点は、「道徳の原理 (つまり善・あるいは幸福)は人によって異なると考えた」という点、そして一方で、「人間の自由を非常に重んじた」という点だ。人間はそれぞれ自らの善を自由に選ぶことができるのである。
カントは人間の自律性に多大なる敬意を払った。カントは人間が自らを自律的存在と捉えることにより、定言命法へと至ると考えた。人が善 (自分に合った幸福)を議論するのはそこからだ。曰く「他者の自由を侵害しない限り、人はみな自分に合った幸福を探すことができる」
ロールズは、人がそれぞれ自分の善を自由に選ぶことができるべきであり、そのためにはまず平等な権利を認めるべきであると考えた。
2人は「他者の自由を侵害しない」ことや「平等な権利を認める」ことを正義の原理に定めたが、「何が善 (幸福)か」という道徳の原理には踏み込まず、それは人それぞれの判断であると考えた。
こうすることによって、決着のつかない道徳の原理にとらわれることなく、正義の原理を打ち立てることができる。そして、人間が自分の善を自由に選ぶことができるようになる。
この点と対立する考えが、第八章で述べられるアリストテレスの正義論だ。アリストテレスは、正義の原理と道徳の原理を切り離すことはせずに、政治の在り方について論じている。
「アリストテレスvsカント、ロールズ」という基本的な対立構造があることを踏まえ、アリストテレスの正義論について見てみたい。』
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これから正義に話をしよう⑷
○第五章 重要なのは動機…イマヌエル・カント
(転載)
◆定言命法 対 仮言命法
ジェレミー・ベンサム (Jeremy Bentham)が「道徳と立法の諸原理序説」を著した5年後の1985年、イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は「道徳形而上学原論」を発表し、独自の道徳原理を打ち立てた。
カントは、人間は理性を持って自由に行動することのできる自律的な存在であり、尊厳と尊敬に値すると考えた。そのため人間は、人間の持つ特別な尊厳を尊重した行動 (道徳的な行動)をしなくてはならない。
では、カントの言う道徳的な行動とはいかなるものか。カントによれば、人間は仮言命法ではなく、定言命法 (Kategorischer Imperativ: Categorical Imperative)という命法に基づいて行動すべきであるという。
仮言命法とは「○○したいならば××せよ」という形式の命法のことである。例えば「幸福になりたいならば、嘘をつくな」は仮言命法だ。
一見「嘘をつかない」は正しい行動のように見える。しかし、ここでの「嘘をつかない」は単に「幸福になる」という結果を得るための手段であって、「嘘をつかない」自体が正しい行動かどうかは考慮されていない (これはカントの批判した功利主義的発想だ)。
そのためカントは、このような動機に基づく行動は正しくないとする。たとえ結果的に幸福になれなかったとしても、「その行動が正しいから」という動機で「嘘をつかない」のであれば、それこそが正しい行動なのだ。
◆定言命法が命じるもの
カントは、幸福など、何かの目的のために行動するのでなく、「ただその行動を行うことが正しいから」という理由で行動をせよと言う。そして、そのような行動を命じるのが定言命法だ。定言命法とは、他の動機を伴わずに、それ自体として絶対的に適用される実践的な法則であり、他に考慮すべき目的や依存する目的を一切持たずに何らかの行動を命じるものである。
定言命法には3つの公式がある (本書では2つのみ紹介している)第一公式は「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と言うものだ。大ざっぱに言うのならば、自分の行う行動を、他の人全員が行ったとしても矛盾が生じないような原則のみに従えということだ。
第二公式は「何時の人格においても、あらゆる他者の人格においても、人間性を単なる手段としてでなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」と言うものだ。最初に述べた通り、カントは人間は理性を持って自由に行動することのできる自律的な存在であり、尊厳と尊敬に値すると考えた。そのため、人間性を手段としてでなく目的として扱わなくてはならない。
例えば、自分が幸福になるために他者を助けるという行動は、助ける対象である他者を、単に幸福になるための手段として扱っている。これでは、他者の人間性を尊重しているとは言えない。他者を助けるにしてもそれは、自らがそれによって何かを得るためではなく、他者の持つ人間性を尊重するという目的のために行う必要があるのである。
我々はこのような定言命法に従って行動する必要があるのである。
◆道徳と自由
カントは、この定言命法に従って自律的自由を実践することこそが道徳的な行いであるとした。しかしながらここで疑問が生じる。自律的であるのに「定言命法に従う」とはどういうことか。定言命法の命令に「従う」のならば、それは自律的とは言えないのではないか。
カントは「自律的」という言葉を独自の意味で用いている。カントの考えでは、人間が自分のしたいことを選択するだけでは自律的とは言えない。我々は通常、自らの意思で行動しているように見える時でも、生理的欲求と欲望との奴隷である。店でドリンクを選んでいるのは自由に行動しているのではなく、渇きに服従しているに過ぎない。またそもそも我々は、物理法則など自然の法則に従って行動せざるを得ない。
カントの考える自律的行動とは、欲望や自然の命令、社会的因習に従うのでなく、自分の定めた法則に従って行動することである。つまり、外部に押し付けられた法則ではなく、自らが自分自身のために定めた法則に従って行動することが、自律的な行動なのだ。
◆自律的に従うということ
しかし、外部に押し付けられた法則ではなく、自らが自分自身のために定めた法則に従って行動することなど可能なのだろうか。人間にはそれが可能だとカントは考える。
我々が物事を判断する際には、感性界と英知界という2つの観点がある。自然界の生物としての人間は、自然法則と因果律の支配する「感性界」という視点から物事を判断する。一方理性は、感性界に起因する判断から独立したものの見方、理性のみを根拠とするような法則に従って物事を判断することができる。このような判断が、「英知界」という視点からの判断だ。
人間は理性を持つ素晴らしい存在だ。そして、感性界的な見方に縛られるのではなく理性の力を用いることによって、従うべき普遍的法則を誰もが自らの力によって打ち立てることができる。しかも、純粋実践理性を用いている限り、すべての人は同じ普遍的法則、すなわち定言命法に到達するとカントは考える。
誰にも命じられず、ただ自らの理性の力を発揮することで自らのための定言命法を打ち立てる。そして、その自ら作り上げた定言命法に従って行動すること、それが道徳的に正しい行動なのだ。
◆カントと正義
カントは、このようにして道徳に関する議論を打ち立てた。これらは、我々一人一人がどのように行動すべきか、様々な示唆を与えてくれるが、一方で個人ではなく、政治や法律がどのようにあるべきかについては余り多くは述べていない。しかし、いくつかの小論を通して、彼の正義感を推し量ることはできる。
彼の考えの一つ目は、公正な憲法とは個人の自由を全員の自由と調和させるようなものであるべき、ということである。これはこれまでの個人の自律を尊重する考えと整合するものである。
カントの考える正義に関する2つ目の考え方は、正義と権利は社会契約 (Social Contract)に由来しているというものだ。ただしカントは、ジョン・ロック(John Locke)のように、歴史のある時点で実際に社会契約が結ばれたとは考えない。そのような証拠を探すことは難しいし、そもそも過去にある集団が同意したからと言って、その憲法が公正なものとみなすことはできない。
そのためカントは、社会契約は実在のものでなく、仮想上のものだと言う。しかし、なぜ実在するわけでもないのにわざわざ社会契約を扱う必要があるのか。それはその契約が、仮想上のものでありながらも、実際に人々に対して「それに同意した」とみなす義務を負わせるような実在性を有しているからである。
だが、仮想上の契約がどのようなもので、それはどのような正義の原理を生み出すのだろうか。カント自身はその点について語っていない。そのような疑問に200年後に答えようとしたのが、次章で解説するジョン・ロールズ(John Rawls)である。
○第六章 平等をめぐる議論…ジョン・ロールズ
法と政治についてカントは、「仮説上の同意」という論理を編み出し、その国民全体が同意しうるものなら、その法は公正だと考えた。しかし、どうして仮説上の同意が実際の社会契約と同じ道徳的仕事を果たせるのだろうか。
ジョン・ロールズ (John Rawls)は、独自の理論ながらもこの点について考え抜き、説得力のある主張を展開した。
◆無知のベール (the veil of ignorance)
契約を考える出発点としてロールズはまず、もし人々が共同体を律する原理を結ぼうと話し合ったとしたら、どのような原理が選ばれるかを考えた。メンバーにはそれぞれ利害や立場があるから、中々意見は一致しないだろう。
また、最終的には交渉力のある者が自分に有利な原理を通すかもしれない。言うまでもなく、そのようにして選ばれた社会契約は公正なものとは言えない。となると、個人の利害が対立する限り、真に公正な社会契約は成立しそうにもない。
ここでロールズは、一つの思考実験をする。もし人々が「無知のベール」を被っていたらどんな原理を選ぶだろうか。無知のベールによって、自らの立場や利害、交渉能力が一切わからなかったとしたら、どのような原理が選ばれるだろうか。
これは、カードを配り終えた直後、各人が自分の手札を確認する前に、勝負のルールを話し合って決めるようなものだ。各人の手札は異なっているが、みな自分の手札の確認ができない以上、自分に有利なルールなど提案のしようがない。
そのため、もし全員が無知のベールを被っていたとしたら、実質的には全員が平等の原初状態で選択を行うことになる。全員の条件が同じである以上、人々が同意する原則は公正なものとなるはずだ。
◆公正と言える契約とはどのような内容のものか
では、公正と言える契約とはどのような内容のものか。言い換えれば、無知のベールを被った人々はどのような原理を選ぶのか。
自分の手持ちのカードがわからない状態では、個人の人権が踏みにじられる恐れのある功利主義や、大きな格差を是認するリバタリアニズムが選ばれることはないだろう。
ロールズは、このような状況からは以下の2つの原理が選ばれると考えた。「言論の自由や信教の自由といった基本的自由をすべての人に平等に与える」というものだ。
2つ目の原理は、「社会的・経済的不平等は次の二条件を満たすものでなければならない。『格差原理:それらの不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすること』『機会均等原理:公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと』というものである。
重要なのは格差原理、「社会で最も不遇な人々の利益に資するような社会的・経済的不平等だけを許容する」というものだ。例えば医師の報酬を上げることによって、過疎地にも医師が生まれるならば、そうした賃金格差は肯定される。
ロールズは、手札のわからない人々は、自分自身が極貧に陥るリスクを回避するためにこのような格差原理を採用すると考えた。しかしこれには多くの反論がある。端的に言えば、「本当にそんな原理が選ばれるのか」ということだ。
実際の所、現在はこのようなロールズの考え方は主流ではない。しかしここで、もう一つ重要な考え方を見てみたい。ロールズの持論に過ぎないと言えばそうなのだが、その先の問題を検討するためには、参考にすべき考え方である。
◆平等であるということ
無知のベールのもとでは「社会で最も不遇な人々の利益に資するような社会的・経済的不平等だけを許容する」という格差原理が選ばれるのならば、功利主義や自由主義は選ばれないだろう。
それならば封建制度やカースト制度が選ばれる可能性はなお低い。これらの制度は、生まれが完全に身分を規定してしまうからだ。このような恣意的・偶然的な要素によって格差が生まれることは避けなくてはならない。
「恣意的な要素によって生まれる格差の解消」自体はそう悪くは聞こえないが、この発想を徹底すると、幾分不自然に感じられるような原理に行きつく。
例えば、実力主義は一見平等だが、生まれ持った才能や、十分に実力を育む環境に生まれるか否かは、偶然に左右される。ロールズによれば、このような偶然によって生まれる格差も認めるべきではないとする。
しかし当然これには反論が生まれる。特に重要な反論はこのようなものだ、「いくら才能や家庭環境が偶然に左右されるものだとしても、才能を伸ばすために本人が行った『努力』は、本人のものだ。そのため、努力したものにはそれに見合う報酬が認められるべきである。」
しかしながらロールズに言わせれば、「努力できるかどうか」も才能の一つであり、つまり偶然性に左右される要因である。やはり、そのような要因による格差は認められない。
ロールズの言う平等主義とはかくも徹底したものである。反対者はなおも言うだろう、「努力した者に報酬を期待する権利はないのか?」
この重要な問いに対するロールズの考えこそが、次章以降の問題を検討する上での重要な観点となる。
◆報酬を期待する権利とルール
ここで、今まで曖昧にされてきた部分が一つ整理される。「努力した者に報酬を期待する権利はないのか?」ロールズに言わせれば、この問いはそもそも意味をなさない。
それは何故か、「努力した者に報酬を期待する権利はないのか?」という問いには、「努力した者は報酬を得る権利がある」という前提が存在する。しかしながら、「努力した者は報酬を得る権利がある」かどうかは、ルールが決まって初めて決まることだ。
もし仮に、手元にロイヤルストレートフラッシュになる手札あったとしても、「自分の勝ちだ」と言えるかどうかは、選ばれたルールがポーカーの時だけだ。選ばれたルールがババ抜きならば、「自分の勝ちだ」という判断は誤りである。
つまり、配られた手札が勝利にふさわしいものかどうかは、手札内容そのものではなく「どのような手札に勝利を与えるか」というルールに依存する。
同様に、努力に報酬が与えられるべきかどうかは、努力というものの持つ価値ではなく「努力した者には報酬を」というルールの有無に依存する。
努力に価値がないといっているのではない。ただ、努力のような美徳的価値 (道徳的功績)の有無と、それに報酬が与えられるべきか否かは厳密には別の問題だということだ。
しかしながら、この区別は大きな問題を提起する。道徳的功績の有無と富の配分を別の問題として完全に切り離すことなどできるのだろうか。つまり、我々が直感的に道徳的価値と感じるものを考慮せずに、富の配分のルールを決めることなどできるのだろうか。
この点こそが次章以降の問題点であり、マイケル・サンデル自身の主張へとつながるものなのである。』
(転載)
◆定言命法 対 仮言命法
ジェレミー・ベンサム (Jeremy Bentham)が「道徳と立法の諸原理序説」を著した5年後の1985年、イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は「道徳形而上学原論」を発表し、独自の道徳原理を打ち立てた。
カントは、人間は理性を持って自由に行動することのできる自律的な存在であり、尊厳と尊敬に値すると考えた。そのため人間は、人間の持つ特別な尊厳を尊重した行動 (道徳的な行動)をしなくてはならない。
では、カントの言う道徳的な行動とはいかなるものか。カントによれば、人間は仮言命法ではなく、定言命法 (Kategorischer Imperativ: Categorical Imperative)という命法に基づいて行動すべきであるという。
仮言命法とは「○○したいならば××せよ」という形式の命法のことである。例えば「幸福になりたいならば、嘘をつくな」は仮言命法だ。
一見「嘘をつかない」は正しい行動のように見える。しかし、ここでの「嘘をつかない」は単に「幸福になる」という結果を得るための手段であって、「嘘をつかない」自体が正しい行動かどうかは考慮されていない (これはカントの批判した功利主義的発想だ)。
そのためカントは、このような動機に基づく行動は正しくないとする。たとえ結果的に幸福になれなかったとしても、「その行動が正しいから」という動機で「嘘をつかない」のであれば、それこそが正しい行動なのだ。
◆定言命法が命じるもの
カントは、幸福など、何かの目的のために行動するのでなく、「ただその行動を行うことが正しいから」という理由で行動をせよと言う。そして、そのような行動を命じるのが定言命法だ。定言命法とは、他の動機を伴わずに、それ自体として絶対的に適用される実践的な法則であり、他に考慮すべき目的や依存する目的を一切持たずに何らかの行動を命じるものである。
定言命法には3つの公式がある (本書では2つのみ紹介している)第一公式は「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と言うものだ。大ざっぱに言うのならば、自分の行う行動を、他の人全員が行ったとしても矛盾が生じないような原則のみに従えということだ。
第二公式は「何時の人格においても、あらゆる他者の人格においても、人間性を単なる手段としてでなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」と言うものだ。最初に述べた通り、カントは人間は理性を持って自由に行動することのできる自律的な存在であり、尊厳と尊敬に値すると考えた。そのため、人間性を手段としてでなく目的として扱わなくてはならない。
例えば、自分が幸福になるために他者を助けるという行動は、助ける対象である他者を、単に幸福になるための手段として扱っている。これでは、他者の人間性を尊重しているとは言えない。他者を助けるにしてもそれは、自らがそれによって何かを得るためではなく、他者の持つ人間性を尊重するという目的のために行う必要があるのである。
我々はこのような定言命法に従って行動する必要があるのである。
◆道徳と自由
カントは、この定言命法に従って自律的自由を実践することこそが道徳的な行いであるとした。しかしながらここで疑問が生じる。自律的であるのに「定言命法に従う」とはどういうことか。定言命法の命令に「従う」のならば、それは自律的とは言えないのではないか。
カントは「自律的」という言葉を独自の意味で用いている。カントの考えでは、人間が自分のしたいことを選択するだけでは自律的とは言えない。我々は通常、自らの意思で行動しているように見える時でも、生理的欲求と欲望との奴隷である。店でドリンクを選んでいるのは自由に行動しているのではなく、渇きに服従しているに過ぎない。またそもそも我々は、物理法則など自然の法則に従って行動せざるを得ない。
カントの考える自律的行動とは、欲望や自然の命令、社会的因習に従うのでなく、自分の定めた法則に従って行動することである。つまり、外部に押し付けられた法則ではなく、自らが自分自身のために定めた法則に従って行動することが、自律的な行動なのだ。
◆自律的に従うということ
しかし、外部に押し付けられた法則ではなく、自らが自分自身のために定めた法則に従って行動することなど可能なのだろうか。人間にはそれが可能だとカントは考える。
我々が物事を判断する際には、感性界と英知界という2つの観点がある。自然界の生物としての人間は、自然法則と因果律の支配する「感性界」という視点から物事を判断する。一方理性は、感性界に起因する判断から独立したものの見方、理性のみを根拠とするような法則に従って物事を判断することができる。このような判断が、「英知界」という視点からの判断だ。
人間は理性を持つ素晴らしい存在だ。そして、感性界的な見方に縛られるのではなく理性の力を用いることによって、従うべき普遍的法則を誰もが自らの力によって打ち立てることができる。しかも、純粋実践理性を用いている限り、すべての人は同じ普遍的法則、すなわち定言命法に到達するとカントは考える。
誰にも命じられず、ただ自らの理性の力を発揮することで自らのための定言命法を打ち立てる。そして、その自ら作り上げた定言命法に従って行動すること、それが道徳的に正しい行動なのだ。
◆カントと正義
カントは、このようにして道徳に関する議論を打ち立てた。これらは、我々一人一人がどのように行動すべきか、様々な示唆を与えてくれるが、一方で個人ではなく、政治や法律がどのようにあるべきかについては余り多くは述べていない。しかし、いくつかの小論を通して、彼の正義感を推し量ることはできる。
彼の考えの一つ目は、公正な憲法とは個人の自由を全員の自由と調和させるようなものであるべき、ということである。これはこれまでの個人の自律を尊重する考えと整合するものである。
カントの考える正義に関する2つ目の考え方は、正義と権利は社会契約 (Social Contract)に由来しているというものだ。ただしカントは、ジョン・ロック(John Locke)のように、歴史のある時点で実際に社会契約が結ばれたとは考えない。そのような証拠を探すことは難しいし、そもそも過去にある集団が同意したからと言って、その憲法が公正なものとみなすことはできない。
そのためカントは、社会契約は実在のものでなく、仮想上のものだと言う。しかし、なぜ実在するわけでもないのにわざわざ社会契約を扱う必要があるのか。それはその契約が、仮想上のものでありながらも、実際に人々に対して「それに同意した」とみなす義務を負わせるような実在性を有しているからである。
だが、仮想上の契約がどのようなもので、それはどのような正義の原理を生み出すのだろうか。カント自身はその点について語っていない。そのような疑問に200年後に答えようとしたのが、次章で解説するジョン・ロールズ(John Rawls)である。
○第六章 平等をめぐる議論…ジョン・ロールズ
法と政治についてカントは、「仮説上の同意」という論理を編み出し、その国民全体が同意しうるものなら、その法は公正だと考えた。しかし、どうして仮説上の同意が実際の社会契約と同じ道徳的仕事を果たせるのだろうか。
ジョン・ロールズ (John Rawls)は、独自の理論ながらもこの点について考え抜き、説得力のある主張を展開した。
◆無知のベール (the veil of ignorance)
契約を考える出発点としてロールズはまず、もし人々が共同体を律する原理を結ぼうと話し合ったとしたら、どのような原理が選ばれるかを考えた。メンバーにはそれぞれ利害や立場があるから、中々意見は一致しないだろう。
また、最終的には交渉力のある者が自分に有利な原理を通すかもしれない。言うまでもなく、そのようにして選ばれた社会契約は公正なものとは言えない。となると、個人の利害が対立する限り、真に公正な社会契約は成立しそうにもない。
ここでロールズは、一つの思考実験をする。もし人々が「無知のベール」を被っていたらどんな原理を選ぶだろうか。無知のベールによって、自らの立場や利害、交渉能力が一切わからなかったとしたら、どのような原理が選ばれるだろうか。
これは、カードを配り終えた直後、各人が自分の手札を確認する前に、勝負のルールを話し合って決めるようなものだ。各人の手札は異なっているが、みな自分の手札の確認ができない以上、自分に有利なルールなど提案のしようがない。
そのため、もし全員が無知のベールを被っていたとしたら、実質的には全員が平等の原初状態で選択を行うことになる。全員の条件が同じである以上、人々が同意する原則は公正なものとなるはずだ。
◆公正と言える契約とはどのような内容のものか
では、公正と言える契約とはどのような内容のものか。言い換えれば、無知のベールを被った人々はどのような原理を選ぶのか。
自分の手持ちのカードがわからない状態では、個人の人権が踏みにじられる恐れのある功利主義や、大きな格差を是認するリバタリアニズムが選ばれることはないだろう。
ロールズは、このような状況からは以下の2つの原理が選ばれると考えた。「言論の自由や信教の自由といった基本的自由をすべての人に平等に与える」というものだ。
2つ目の原理は、「社会的・経済的不平等は次の二条件を満たすものでなければならない。『格差原理:それらの不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすること』『機会均等原理:公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと』というものである。
重要なのは格差原理、「社会で最も不遇な人々の利益に資するような社会的・経済的不平等だけを許容する」というものだ。例えば医師の報酬を上げることによって、過疎地にも医師が生まれるならば、そうした賃金格差は肯定される。
ロールズは、手札のわからない人々は、自分自身が極貧に陥るリスクを回避するためにこのような格差原理を採用すると考えた。しかしこれには多くの反論がある。端的に言えば、「本当にそんな原理が選ばれるのか」ということだ。
実際の所、現在はこのようなロールズの考え方は主流ではない。しかしここで、もう一つ重要な考え方を見てみたい。ロールズの持論に過ぎないと言えばそうなのだが、その先の問題を検討するためには、参考にすべき考え方である。
◆平等であるということ
無知のベールのもとでは「社会で最も不遇な人々の利益に資するような社会的・経済的不平等だけを許容する」という格差原理が選ばれるのならば、功利主義や自由主義は選ばれないだろう。
それならば封建制度やカースト制度が選ばれる可能性はなお低い。これらの制度は、生まれが完全に身分を規定してしまうからだ。このような恣意的・偶然的な要素によって格差が生まれることは避けなくてはならない。
「恣意的な要素によって生まれる格差の解消」自体はそう悪くは聞こえないが、この発想を徹底すると、幾分不自然に感じられるような原理に行きつく。
例えば、実力主義は一見平等だが、生まれ持った才能や、十分に実力を育む環境に生まれるか否かは、偶然に左右される。ロールズによれば、このような偶然によって生まれる格差も認めるべきではないとする。
しかし当然これには反論が生まれる。特に重要な反論はこのようなものだ、「いくら才能や家庭環境が偶然に左右されるものだとしても、才能を伸ばすために本人が行った『努力』は、本人のものだ。そのため、努力したものにはそれに見合う報酬が認められるべきである。」
しかしながらロールズに言わせれば、「努力できるかどうか」も才能の一つであり、つまり偶然性に左右される要因である。やはり、そのような要因による格差は認められない。
ロールズの言う平等主義とはかくも徹底したものである。反対者はなおも言うだろう、「努力した者に報酬を期待する権利はないのか?」
この重要な問いに対するロールズの考えこそが、次章以降の問題を検討する上での重要な観点となる。
◆報酬を期待する権利とルール
ここで、今まで曖昧にされてきた部分が一つ整理される。「努力した者に報酬を期待する権利はないのか?」ロールズに言わせれば、この問いはそもそも意味をなさない。
それは何故か、「努力した者に報酬を期待する権利はないのか?」という問いには、「努力した者は報酬を得る権利がある」という前提が存在する。しかしながら、「努力した者は報酬を得る権利がある」かどうかは、ルールが決まって初めて決まることだ。
もし仮に、手元にロイヤルストレートフラッシュになる手札あったとしても、「自分の勝ちだ」と言えるかどうかは、選ばれたルールがポーカーの時だけだ。選ばれたルールがババ抜きならば、「自分の勝ちだ」という判断は誤りである。
つまり、配られた手札が勝利にふさわしいものかどうかは、手札内容そのものではなく「どのような手札に勝利を与えるか」というルールに依存する。
同様に、努力に報酬が与えられるべきかどうかは、努力というものの持つ価値ではなく「努力した者には報酬を」というルールの有無に依存する。
努力に価値がないといっているのではない。ただ、努力のような美徳的価値 (道徳的功績)の有無と、それに報酬が与えられるべきか否かは厳密には別の問題だということだ。
しかしながら、この区別は大きな問題を提起する。道徳的功績の有無と富の配分を別の問題として完全に切り離すことなどできるのだろうか。つまり、我々が直感的に道徳的価値と感じるものを考慮せずに、富の配分のルールを決めることなどできるのだろうか。
この点こそが次章以降の問題点であり、マイケル・サンデル自身の主張へとつながるものなのである。』
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これから正義の話をしよう⑶
○第三章 私は私のものか…自由至上主義 (リバタリアニズム)
(転載)
「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだ」という立場をリバタリアニズム (libertarianism:自由至上主義)と呼ぶ。
彼らは、人間の自由は不可侵な自然権であると主張する。そのため、個人的な自由と経済的な自由とを最大限尊重することこそが正義なのである。
自由を何よりも尊ぶ彼らは、政府による「安全のためにヘルメット着用を義務づける法律」のようなパターナリズム、売春や同性愛の禁止といった道徳的観法律、所得や富の再分配を拒否する。
これらはいずれも自由という基本的権利が侵害されるため、不公正であるというのである (決して自由の侵害が経済にとって不利益だからという功利主義的考えに基づいているのではない)。
ロバート・ノージック(Robert Nozick)は、ある人が経済活動によって得た富が、市場での自由取引や他人からの贈り物によって築いたものであり (移転の公正)、その元手が合法的に入手されたものである (初期財産の公正)ならば、その人は自分の所有物に正当な権利があり、国家は合意なしにそれを取り上げることはできないと主張した。
彼らの思想は「人間は自分自身を所有しており、したがって自らの労働とその成果も所有している」という自己所有権の考えに由来する。そのため彼らは、どのような目的のためであれ、政府による富の再分配に反対する。例え公共の福祉のためであれ、強制的に働かせることは許されない。しかるに、どのような理由であれ強制的に所得の一部を徴収することは許されないというのが彼らの主張だ。
こうしたリバタリアニズムへの主な批判 (というか富の再分配反対論への批判)とその反論には以下のようなものがある(一部のみ抜粋)。
批判1:貧しい者ほどお金が必要なのだ。
反論1:貧しい者への自発的な慈善行為は当然行ってよい。しかし、お金をより必要としているからと言って、他者の所有物を強制的に使用する権利はない。
批判2:成功するためには必ず協力者が必要である。全てが個人の成功に帰するわけではないため、自ら成功による富の独占は許されない。
反論2:もちろん、協力者は存在する。しかし協力者は協力の過程で、通常協力に見合う対価の支払いを得ているものである。
批判3:成功には生まれ持った才能も必要であり、そうした才能の獲得は本人の手柄ではない。したがって、獲得したと身がすべて本人に帰するべきではない。
反論3:そもそも個人の身体や能力、才能を所有するのは誰か。自己所有権を否定し、自らの能力はその個人ではなく共同体だとでも言うのか。
多くの人にとって、富の再分配否定論は非常に偏ったものであると感じられるかもしれない。しかし、最後の反論における「身体や能力、才能」は難しい部分である。反論の根拠となる自己所有権の考え方は、リバタリアニズムに批判的な人であっても、別の場面では自らの主張の根拠に用いることがあるからである。
経済的な自由放任主義に反対する人でさえ、ある場面では人が自分の身体をどうするかを決定する権利はその人自身にあると考える。例えば、性と生殖に関する女性の自由が主張されるその根拠は、まさに「自分の身体をどうするかを決定する権利」が自らにあるというという考えである。
この延長で考えた時、「自分の身体をどうするかを決定する権利」はどこまで許されるのだろうか。自らの臓器の販売、末期がん患者の自殺幇助、果ては同意に基づいた成人間の食人 (2001年に実際にあった事件らしい…日本でも部分を食べるなら最近イベントがあった)などは全て、自己所有権が常に尊重されるならば容認されるべきである。
しかしながら、リバタリアニズムの主張をすべて受け入れるならば、貧しい者を救済するために、税金を徴収することも、同意の上とはいえ食人を行った者を罰することもできないのである。
〇第四章 雇われ助っ人…市場と倫理
正義をめぐる議論が白熱すると、必ず自由市場の話になる。自由市場は公平なのか。お金で買えないもの、買ってはならないものはあるのだろうか。もしあるとしたらそれは何であり、なぜ売買してはいけないのか。
自由市場の擁護論は大きく2つの視点がある。一つは自由の重視に基づくもの、もう一つは福祉の重視に基づくものだ。すなわち、自己所有の原理に基づき、経済活動もまた自由が尊重されるべきだという考えと、社会の経済的発展にとって最も望ましい市場の在り方が自由市場であるという考え方である。前者はリバタリアン的立場から、後者は功利主義的立場からそれぞれ自由市場を擁護していると言える。
サンデルは自由市場の在り方について、兵役と代理出産という全く異なる2つの問題に基づいて考える。
軍隊を必要とする国にとって、どのような方法で兵士を集めるかは重要な問題だ。その方法には、大きく「徴兵制」「自分が兵役に就く代わりに身代わりを雇って良いとする条件付きの徴兵制」自由市場方式に基づく志願兵制」の3つがある。
リバタリアン的観点に立つならば、最も望ましいのは言うまでもなく志願兵制だ。また、兵役に志願する側と雇用側とが自発的取引を行うことによって、当事者双方が得をするのであれば、功利主義的観点からも志願兵制が最も望ましいと言える。
次に代理出産について考えてみよう。医療技術の発達により、ある女性が、別の女性の卵子で受精した子を、さらにまた別の女性の子宮で育て、出産後に自分の子として引き取ることが可能になった。つまり、養育者、卵子の提供者、子宮の提供者がすべて違うのである。
こうした事柄も、リバタリアン的観点からは当然批判されるべきでない。また、当事者同士が合意の上で行い、3名の女性がいずれも得をするならば、功利主義的観点からも肯定される。
しかしながら、こうした事柄には大きく次のような2種類の反論が生まれる。
1つ目は、金銭的に恵まれないなど、限られた選択肢しかない人間にとっては、自由市場はそれほど自由ではないということだ。つまり、兵役に志願する者や、母胎を提供する女性が、経済的な事情から仕方なくそのような役割を望んだのだとしたら、その選択は本人の自由に基づくものとは言えない。
自由市場は結果的に、引き受け手の少ないような負担の大きい役割を、経済的に恵まれない人々が「自発的に引き受けるよう強いる」ことになる危険性がある。実際、2004年のニューヨーク市の志願兵の70%が黒人かヒスパニックで、低所得者が多い地域の出身だった。
今挙げた反論は、自由市場擁護者の言う「自由の尊重」が、必ずしも自由市場によって達成されるとは限らないという指摘である。一方次に挙げる反論は、自由とは別の観点、すなわち道徳的な観点からの反論である。
しっかりと仕事さえしてくれれば、どこの誰が祖国を守っても構わないという人は少ないだろう。また、インド西部の町、アナンドのように、代理出産の需要の高まりに応じて、多くの女性が代理母を引き受け、代理出産を産業とするような町には、直感的に顔をしかめる人も多いであろう。
兵役はただの仕事でなく市民の義務である。兵役を商品扱いすることは、兵役の理念を支える市民の理念を腐敗させる危険性をはらんでいる。また、赤ん坊や女性の生殖能力を商業的に扱うことは、人間の尊厳を貶めはしないだろうか。
このように自由市場の有り方を突き詰めると、前章の結論と同様、単に自由を尊重するだけでは何かが不十分であることがわかる (サンデル自身はここまでは断言していないが)。お金で買えない、買ってはならない美徳は存在するのかという問題に直面するのである。』
(転載)
「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだ」という立場をリバタリアニズム (libertarianism:自由至上主義)と呼ぶ。
彼らは、人間の自由は不可侵な自然権であると主張する。そのため、個人的な自由と経済的な自由とを最大限尊重することこそが正義なのである。
自由を何よりも尊ぶ彼らは、政府による「安全のためにヘルメット着用を義務づける法律」のようなパターナリズム、売春や同性愛の禁止といった道徳的観法律、所得や富の再分配を拒否する。
これらはいずれも自由という基本的権利が侵害されるため、不公正であるというのである (決して自由の侵害が経済にとって不利益だからという功利主義的考えに基づいているのではない)。
ロバート・ノージック(Robert Nozick)は、ある人が経済活動によって得た富が、市場での自由取引や他人からの贈り物によって築いたものであり (移転の公正)、その元手が合法的に入手されたものである (初期財産の公正)ならば、その人は自分の所有物に正当な権利があり、国家は合意なしにそれを取り上げることはできないと主張した。
彼らの思想は「人間は自分自身を所有しており、したがって自らの労働とその成果も所有している」という自己所有権の考えに由来する。そのため彼らは、どのような目的のためであれ、政府による富の再分配に反対する。例え公共の福祉のためであれ、強制的に働かせることは許されない。しかるに、どのような理由であれ強制的に所得の一部を徴収することは許されないというのが彼らの主張だ。
こうしたリバタリアニズムへの主な批判 (というか富の再分配反対論への批判)とその反論には以下のようなものがある(一部のみ抜粋)。
批判1:貧しい者ほどお金が必要なのだ。
反論1:貧しい者への自発的な慈善行為は当然行ってよい。しかし、お金をより必要としているからと言って、他者の所有物を強制的に使用する権利はない。
批判2:成功するためには必ず協力者が必要である。全てが個人の成功に帰するわけではないため、自ら成功による富の独占は許されない。
反論2:もちろん、協力者は存在する。しかし協力者は協力の過程で、通常協力に見合う対価の支払いを得ているものである。
批判3:成功には生まれ持った才能も必要であり、そうした才能の獲得は本人の手柄ではない。したがって、獲得したと身がすべて本人に帰するべきではない。
反論3:そもそも個人の身体や能力、才能を所有するのは誰か。自己所有権を否定し、自らの能力はその個人ではなく共同体だとでも言うのか。
多くの人にとって、富の再分配否定論は非常に偏ったものであると感じられるかもしれない。しかし、最後の反論における「身体や能力、才能」は難しい部分である。反論の根拠となる自己所有権の考え方は、リバタリアニズムに批判的な人であっても、別の場面では自らの主張の根拠に用いることがあるからである。
経済的な自由放任主義に反対する人でさえ、ある場面では人が自分の身体をどうするかを決定する権利はその人自身にあると考える。例えば、性と生殖に関する女性の自由が主張されるその根拠は、まさに「自分の身体をどうするかを決定する権利」が自らにあるというという考えである。
この延長で考えた時、「自分の身体をどうするかを決定する権利」はどこまで許されるのだろうか。自らの臓器の販売、末期がん患者の自殺幇助、果ては同意に基づいた成人間の食人 (2001年に実際にあった事件らしい…日本でも部分を食べるなら最近イベントがあった)などは全て、自己所有権が常に尊重されるならば容認されるべきである。
しかしながら、リバタリアニズムの主張をすべて受け入れるならば、貧しい者を救済するために、税金を徴収することも、同意の上とはいえ食人を行った者を罰することもできないのである。
〇第四章 雇われ助っ人…市場と倫理
正義をめぐる議論が白熱すると、必ず自由市場の話になる。自由市場は公平なのか。お金で買えないもの、買ってはならないものはあるのだろうか。もしあるとしたらそれは何であり、なぜ売買してはいけないのか。
自由市場の擁護論は大きく2つの視点がある。一つは自由の重視に基づくもの、もう一つは福祉の重視に基づくものだ。すなわち、自己所有の原理に基づき、経済活動もまた自由が尊重されるべきだという考えと、社会の経済的発展にとって最も望ましい市場の在り方が自由市場であるという考え方である。前者はリバタリアン的立場から、後者は功利主義的立場からそれぞれ自由市場を擁護していると言える。
サンデルは自由市場の在り方について、兵役と代理出産という全く異なる2つの問題に基づいて考える。
軍隊を必要とする国にとって、どのような方法で兵士を集めるかは重要な問題だ。その方法には、大きく「徴兵制」「自分が兵役に就く代わりに身代わりを雇って良いとする条件付きの徴兵制」自由市場方式に基づく志願兵制」の3つがある。
リバタリアン的観点に立つならば、最も望ましいのは言うまでもなく志願兵制だ。また、兵役に志願する側と雇用側とが自発的取引を行うことによって、当事者双方が得をするのであれば、功利主義的観点からも志願兵制が最も望ましいと言える。
次に代理出産について考えてみよう。医療技術の発達により、ある女性が、別の女性の卵子で受精した子を、さらにまた別の女性の子宮で育て、出産後に自分の子として引き取ることが可能になった。つまり、養育者、卵子の提供者、子宮の提供者がすべて違うのである。
こうした事柄も、リバタリアン的観点からは当然批判されるべきでない。また、当事者同士が合意の上で行い、3名の女性がいずれも得をするならば、功利主義的観点からも肯定される。
しかしながら、こうした事柄には大きく次のような2種類の反論が生まれる。
1つ目は、金銭的に恵まれないなど、限られた選択肢しかない人間にとっては、自由市場はそれほど自由ではないということだ。つまり、兵役に志願する者や、母胎を提供する女性が、経済的な事情から仕方なくそのような役割を望んだのだとしたら、その選択は本人の自由に基づくものとは言えない。
自由市場は結果的に、引き受け手の少ないような負担の大きい役割を、経済的に恵まれない人々が「自発的に引き受けるよう強いる」ことになる危険性がある。実際、2004年のニューヨーク市の志願兵の70%が黒人かヒスパニックで、低所得者が多い地域の出身だった。
今挙げた反論は、自由市場擁護者の言う「自由の尊重」が、必ずしも自由市場によって達成されるとは限らないという指摘である。一方次に挙げる反論は、自由とは別の観点、すなわち道徳的な観点からの反論である。
しっかりと仕事さえしてくれれば、どこの誰が祖国を守っても構わないという人は少ないだろう。また、インド西部の町、アナンドのように、代理出産の需要の高まりに応じて、多くの女性が代理母を引き受け、代理出産を産業とするような町には、直感的に顔をしかめる人も多いであろう。
兵役はただの仕事でなく市民の義務である。兵役を商品扱いすることは、兵役の理念を支える市民の理念を腐敗させる危険性をはらんでいる。また、赤ん坊や女性の生殖能力を商業的に扱うことは、人間の尊厳を貶めはしないだろうか。
このように自由市場の有り方を突き詰めると、前章の結論と同様、単に自由を尊重するだけでは何かが不十分であることがわかる (サンデル自身はここまでは断言していないが)。お金で買えない、買ってはならない美徳は存在するのかという問題に直面するのである。』
touxia at 11:06|Permalink│Comments(0)│
これから正義の話をしよう⑵
これから正義の話をしよう マイケルサンデル(著) 要約
(転載)
〇第一章 正しいことをする
正義に対する普遍的な回答は勿論存在しない。例えば、2004年のハリケーンチャーリーによる災害の後、家屋の修理業者や生活必需品の販売者は、災害後の高需要に付け込んで、平時よりもはるかに高い価格設定を行った。これは正しい行為と言えるだろうか。
ある者はそうやって値段が高くなった方が結果的に多くの業者が参入し、復興が早くなると答える。またある者は、そもそも価格の設定はあくまでも個人の自由であり、自由とは人間の不可侵な自然権であると答える。そしてある者は、いかなる理由があれ、そのような行いは不道徳なものであると答える。
正義を論じる際は、人によって重きを置く部分が異なる。ある社会が公正かどうかを問う時の、正義へのアプローチは上に挙げたような幸福、自由、美徳の3つが存在するのである。そしてこうしたそれぞれの理念は、しばしば互いに衝突する。また、そもそも何をもって幸福、自由、美徳とするかというように、各理念の内部ですら、一定の基準を定めることは難しい。そのため、何が正義かという議論には当然結論がない。
本書ではまずこの幸福、自由、美徳という3つの考え方について検討していき、正義についての諸問題を考察していく。
〇第二章 幸福最大原理…功利主義 (Utilitarianism)
ジェレミー・ベンサム (Jeremy Bentham)の提唱した功利主義の基本理念は非常に明快だ。「最大多数個人の最大幸福」で知られるように、「『正しい行い』とは、「効用」を最大化するあらゆるものだ」とされる。
「効用」とは要するに「あらゆる要素を総合した幸福度」のことである。例えば、労働で得た「財産」や、余暇活動による「喜び」など、幸福に関するあらゆる要素は、「効用」という単一の指標に変換される。それによって、全ての政策や行いが「どれだけ効用を高めるか」という単一の物差しの上で比較できるようになるのである。
ベンサムはこの「効用を最大限に高める」という観点に基づき、パプティノコンの設計など様々なアイディアを提出し、社会の諸問題を解決しようとした。しかしながら、このような考え方に当然すぐに反論が生まれる。
1884年、南太平洋の沖合で沈没した船から、4名のイギリス人が救命ボートで脱出した。4名の内3名は、発見されるまでのひと月近い期間を命からがら生き延びた。残る1名の雑用係を食料とすることで、ぎりぎり命をつないだのだ。
3名の行いは人道上の観点から厳しく非難されたが、雑用係を殺さなければ、全員が間違いなく死んでいた。そして、幸福の最大化という観点から見れば、4名が死ぬより1名だけが死ぬ方が望ましいということになる。このように功利主義は、「最大多数個人の最大幸福」を達成するためならば、時に個人の権利を踏みにじることを正当化するという危険性をはらんでいる。
ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)は、こうした功利主義の問題点を克服すべく、効用の量だけでなく質にも注目した。すなわち、単に効用の量だけを扱うのでなく、やはり個人の権利は尊重されるべきであり、快楽についても単純な量の大小とは別に、質の良し悪し(高尚な快楽と低俗な快楽)があり、質の良い快楽をより追求するべきであるとした。ミルのこうした考え方は、ベンサムに比べてより人間的なものであると言える。
しかしながら、効用の量以外に権利や質の良し悪しといった観点を加える発想は、「全ての幸福を効用という単一の指標に変換する」という功利主義の基本的な原理からは外れることになる。あるいは権利や質の良し悪しが結果的に効用の最大化に資するのだと考えることもできるが、その場合、権利や質の良し悪しは、本質的に尊重されるべきものという訳ではなく、単に効用を最大化する上で重視すべき要素に過ぎないということになる。
いずれにせよ単に効用の最大化という観点で物事の正しさを説明することはできない。それは、最終的な結果の良しあしのみを問題することになり、個人の権利侵害へと容易に発展しうる。結局、正しさを考えるには、効用とは別次元の道徳的理念に訴えざるを得なくなるのである。
○補足説明
とはいえ功利主義もそこまで単純なものではない。本書には無い用語もあるが、以下にもう少し細く補足する。
◆ 行為功利主義と規則功利主義
どれだけ批判を受けようとも、残る1名を犠牲にすることによって、3名の船乗りが死を回避することができたのは事実である。しかし、仮に生き延びるために他者を犠牲にすることが正当化されることが公になれば、おそらく船乗りのなり手がいなくなり、結果的に社会全体の効用は減少する。このように、今まさに置かれている状況の中で利益をもたらす「行為」と、(自らのために他者を犠牲にすることは許されないのような)皆が従うことによって利益をもたらす「規則」とは必ずしも一致しない。前者を基準にするものを行為功利主義と呼び、後者を基準にする者を規則功利主義と呼ぶ。
◆ 自然効用と期待効用
行為が直接もたらす効用は「自然効用」と呼ばれる。船乗りの例でいうならば、1名を犠牲にし、3名の船乗りが生き残ることによって得た効用のことである。一方、生き延びるために他者を犠牲にすることが許されるようになれば、人々が船乗りになることを回避するようになる。そうなれば海運業は縮小し、将来的には社会の効用は減少する。
このように、将来的に増減するであろう効用は「期待効用」と呼ばれる。ベンサムによれば、効用を計算すると、「期待効用」は「自然効用」よりもはるかに高くなる。従って、多数者の利益のために少数者を犠牲にすることは、効用の枠内で見ても、望ましいとは言えないということができる。
◆ 幸福の単一尺度化は可能か
しかしそもそも、幸福を「効用」という単一の尺度に置き換えることなど、誰も達成していない。当のベンサムも、幸福の計算方法は紹介しても実際の計算は行っていないのである。それは何よりもまず、計算が非常に複雑になるからだが、その他の事情も存在する。
例えば「1万円もらえる」ことが嬉しいかどうかは、その人がどの程度資産を所有しているかによって異なる。このように、などある特定の快楽がもたらす効用は、文脈によって異なるのである(近年の経済学はそれでもこうした効用の変動まで含めて計算しようとしているが)。
また、「効果の法則」で有名な心理学者エドワード・L・ソーンダイク (Edward L. Thorndike)は、代償としていくらもらえれば「歯を引き抜く」「指を切除する」といったことを受けるかと言うことを調査した。これは様々な苦痛を金額という単一の指標の変換しようとした試みであるが、回答者の3分の1近くは「いくら貰っても嫌だ」、つまり、金額には換算不能であると回答した。ミルが効用の量だけでなく質に訴えざるを得なくなったように、全てを「効用」という単一の指標で測ること自体が(少なくとも現代の我々の計算能力では)そもそも不可能なのである。』
(転載)
〇第一章 正しいことをする
正義に対する普遍的な回答は勿論存在しない。例えば、2004年のハリケーンチャーリーによる災害の後、家屋の修理業者や生活必需品の販売者は、災害後の高需要に付け込んで、平時よりもはるかに高い価格設定を行った。これは正しい行為と言えるだろうか。
ある者はそうやって値段が高くなった方が結果的に多くの業者が参入し、復興が早くなると答える。またある者は、そもそも価格の設定はあくまでも個人の自由であり、自由とは人間の不可侵な自然権であると答える。そしてある者は、いかなる理由があれ、そのような行いは不道徳なものであると答える。
正義を論じる際は、人によって重きを置く部分が異なる。ある社会が公正かどうかを問う時の、正義へのアプローチは上に挙げたような幸福、自由、美徳の3つが存在するのである。そしてこうしたそれぞれの理念は、しばしば互いに衝突する。また、そもそも何をもって幸福、自由、美徳とするかというように、各理念の内部ですら、一定の基準を定めることは難しい。そのため、何が正義かという議論には当然結論がない。
本書ではまずこの幸福、自由、美徳という3つの考え方について検討していき、正義についての諸問題を考察していく。
〇第二章 幸福最大原理…功利主義 (Utilitarianism)
ジェレミー・ベンサム (Jeremy Bentham)の提唱した功利主義の基本理念は非常に明快だ。「最大多数個人の最大幸福」で知られるように、「『正しい行い』とは、「効用」を最大化するあらゆるものだ」とされる。
「効用」とは要するに「あらゆる要素を総合した幸福度」のことである。例えば、労働で得た「財産」や、余暇活動による「喜び」など、幸福に関するあらゆる要素は、「効用」という単一の指標に変換される。それによって、全ての政策や行いが「どれだけ効用を高めるか」という単一の物差しの上で比較できるようになるのである。
ベンサムはこの「効用を最大限に高める」という観点に基づき、パプティノコンの設計など様々なアイディアを提出し、社会の諸問題を解決しようとした。しかしながら、このような考え方に当然すぐに反論が生まれる。
1884年、南太平洋の沖合で沈没した船から、4名のイギリス人が救命ボートで脱出した。4名の内3名は、発見されるまでのひと月近い期間を命からがら生き延びた。残る1名の雑用係を食料とすることで、ぎりぎり命をつないだのだ。
3名の行いは人道上の観点から厳しく非難されたが、雑用係を殺さなければ、全員が間違いなく死んでいた。そして、幸福の最大化という観点から見れば、4名が死ぬより1名だけが死ぬ方が望ましいということになる。このように功利主義は、「最大多数個人の最大幸福」を達成するためならば、時に個人の権利を踏みにじることを正当化するという危険性をはらんでいる。
ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)は、こうした功利主義の問題点を克服すべく、効用の量だけでなく質にも注目した。すなわち、単に効用の量だけを扱うのでなく、やはり個人の権利は尊重されるべきであり、快楽についても単純な量の大小とは別に、質の良し悪し(高尚な快楽と低俗な快楽)があり、質の良い快楽をより追求するべきであるとした。ミルのこうした考え方は、ベンサムに比べてより人間的なものであると言える。
しかしながら、効用の量以外に権利や質の良し悪しといった観点を加える発想は、「全ての幸福を効用という単一の指標に変換する」という功利主義の基本的な原理からは外れることになる。あるいは権利や質の良し悪しが結果的に効用の最大化に資するのだと考えることもできるが、その場合、権利や質の良し悪しは、本質的に尊重されるべきものという訳ではなく、単に効用を最大化する上で重視すべき要素に過ぎないということになる。
いずれにせよ単に効用の最大化という観点で物事の正しさを説明することはできない。それは、最終的な結果の良しあしのみを問題することになり、個人の権利侵害へと容易に発展しうる。結局、正しさを考えるには、効用とは別次元の道徳的理念に訴えざるを得なくなるのである。
○補足説明
とはいえ功利主義もそこまで単純なものではない。本書には無い用語もあるが、以下にもう少し細く補足する。
◆ 行為功利主義と規則功利主義
どれだけ批判を受けようとも、残る1名を犠牲にすることによって、3名の船乗りが死を回避することができたのは事実である。しかし、仮に生き延びるために他者を犠牲にすることが正当化されることが公になれば、おそらく船乗りのなり手がいなくなり、結果的に社会全体の効用は減少する。このように、今まさに置かれている状況の中で利益をもたらす「行為」と、(自らのために他者を犠牲にすることは許されないのような)皆が従うことによって利益をもたらす「規則」とは必ずしも一致しない。前者を基準にするものを行為功利主義と呼び、後者を基準にする者を規則功利主義と呼ぶ。
◆ 自然効用と期待効用
行為が直接もたらす効用は「自然効用」と呼ばれる。船乗りの例でいうならば、1名を犠牲にし、3名の船乗りが生き残ることによって得た効用のことである。一方、生き延びるために他者を犠牲にすることが許されるようになれば、人々が船乗りになることを回避するようになる。そうなれば海運業は縮小し、将来的には社会の効用は減少する。
このように、将来的に増減するであろう効用は「期待効用」と呼ばれる。ベンサムによれば、効用を計算すると、「期待効用」は「自然効用」よりもはるかに高くなる。従って、多数者の利益のために少数者を犠牲にすることは、効用の枠内で見ても、望ましいとは言えないということができる。
◆ 幸福の単一尺度化は可能か
しかしそもそも、幸福を「効用」という単一の尺度に置き換えることなど、誰も達成していない。当のベンサムも、幸福の計算方法は紹介しても実際の計算は行っていないのである。それは何よりもまず、計算が非常に複雑になるからだが、その他の事情も存在する。
例えば「1万円もらえる」ことが嬉しいかどうかは、その人がどの程度資産を所有しているかによって異なる。このように、などある特定の快楽がもたらす効用は、文脈によって異なるのである(近年の経済学はそれでもこうした効用の変動まで含めて計算しようとしているが)。
また、「効果の法則」で有名な心理学者エドワード・L・ソーンダイク (Edward L. Thorndike)は、代償としていくらもらえれば「歯を引き抜く」「指を切除する」といったことを受けるかと言うことを調査した。これは様々な苦痛を金額という単一の指標の変換しようとした試みであるが、回答者の3分の1近くは「いくら貰っても嫌だ」、つまり、金額には換算不能であると回答した。ミルが効用の量だけでなく質に訴えざるを得なくなったように、全てを「効用」という単一の指標で測ること自体が(少なくとも現代の我々の計算能力では)そもそも不可能なのである。』
touxia at 10:46|Permalink│Comments(0)│
これから正義の話をしよう⑴
極東ブログでいう。
(転載)
『[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)
読みやすく面白い。昨晩熱中して半分読み、今日後半を読み終えた。政治哲学をこれだけわかりやすく説明する書籍は希有ではないか。
これからの「正義」の話をしよう
本書巻末謝辞を見ると、「本書は講義として誕生した」とある。講義は「ハーバード白熱教室」というタイトルで現在、NHK教育放送中らしい。私は見たことがない。
政治哲学というと厳めしいイメージがあるが、サンデル教授は卑近な例、日常的な問題、社会ニュースの話題など馴染みやすい切り口からそれらの問題の持つ本質的なことを解き明かしていく。
例えば、あなたは時速100kmのスピードで路面電車の運転しているとする。その走行中に、ブレーキ故障に気が付く。直進すると前方の工事作業員5人をひき殺すことになるが、横の待避線入れば1人の作業員を巻き添えにするだけで済む。どうすべきか? やむを得ないのであれば1人の方へハンドルを切るという答えもあるだろう。では、第2問。前方5人は変わらずだが待避線はない。あなたは運転手ではなく線路を見下ろす橋にいる。そしてデブ男の後ろいる。デブ男を待避線上に突き落とせば、デブ男1人の死体で電車は止まり、5人が救える。どうすべきか? サンデル教授はおそらく「塩狩峠」を読んだことはないし、デブ男でないと自動車は止まらないらしい。
この話は有名であり、いろいろバリエーションもあるが、本質は同じだ。5人が救えるからといってデブ男を突き落とす人はいないだろう。だがこの二問は、功利主義の考えからすると、最初の問いの1人の選択と同じになる。
そしてサンデル教授は、功利主義批判を易しく展開する。功利主義とは、幸福の最大化ということだが、最大化には計量化が含まれ、人命も数値で換算され合理性が問われることになる。この奇妙な例はあくまで説明上のものだが、現実社会でも人命が功利主義的に考えられることがあることも、サンデル教授は解き明かしていく。
人命を数値にして合理性を求める。それでよいのか? なにが正しいか。正義とは何か。本書のオリジナルタイトルが「Justice: What's the Right Thing to Do?(正義:何が正しい行為か?)」にはそうした含みがある。余談だが、英語では"Do the Right Thing(正しいことをなせ)"という言い回しもあり、スパイク・リー監督の同タイトルのアイロニカルな映画もある。映画は正義の持つ危険性をよく批判していて興味深い。
本書は、政治的な課題や社会正義を考える立場として、功利主義の他に、自由の尊重と美徳の2つが提示される。2番目の自由の尊重は、ロックやカントに由来する古典的な自由主義と、現代のリベラリズムの基礎となるロールズの自由主義、さらにリバタリアニズムが問われる。特にカントとロールズの解説がわかりやすい。カントというと難しい哲学のようだが、サンデル教授は見事なほどわかりやすく実践的に解き明かしていく。リバタリアニズムについては、それらに比較してやや薄い解説に留まっている。
3番目の美徳によって基礎づけられる正義の概念が、まさにサンデル教授の訴えたいところだ。思想の分類からすると、コミュニタリアニズムと呼ばれているものだ。日本では共同体主義とも訳されることから、伝統的かつ制約的な共同体や全体主義と誤解されがちだが、基本的にはリベラリズムのもつ問題点を克服するために提起された考え方だ。このため、リベラリズム、特にロールズの自由主義の考え方の対比が実践的に語られるのが本書の特徴である。その意味では、本書はわかりやすいロールズ批判とも呼べるものになっている。
読んでいて興味深いのは、ロールズ批判でありながら、ロールズにのみ焦点を置くのではなく、正義を美徳で基礎づける考え方としてアリストテレスの哲学に深く踏み込んでいく点だ。サンデル教授の議論はどれもきちんと限界付けらていて他分野には及ばない。だが、経済範疇まで広げることは可能だろう。アリストテレス再考は経済学者田中秀臣氏の「需要(クレイア)の経済学」とも重なる点があり、知的な興味を誘う。
本書の思想的な意義は、「ロールズかサンデルか」という問いを突きつけている点にある。だが、そのように定式化される以上に、現代日本人にも現実的な課題を投げている。その一例が、本書でも触れられている戦時慰安婦問題である。歴史的不正をどのように考えたらよいのか。先祖の罪を償うべきか? もちろん、これは難問である。公式謝罪について、その利点を挙げた後、サンデル教授はそれでも、状況しだいだと語る。
これらのことが謝罪の根拠として十分かどうかは、状況しだいである。ときには、公式謝罪や補償の試みが有害無益となることもある。昔の敵意を呼びさまし、歴史的な憎しみを増大させ、被害者意識を深く植え付け、反感を呼び起こすからだ。公的謝罪に反対する人びとはそうした懸念を表明する。結局、謝罪や弁償という行為が政治共同体を修復するか傷つけるかは、政治判断を要する複雑な問題なのだ。答えは場合によって異なる。
常識的な受け止め方でもあるだろう。だが、原理的に考えるとき、歴史的不正とはどのように問われるのだろうか?
サンデル教授は、古典的な自由主義であれリバタリアニズムであれロールズのリベラリズム思想であれ、人間を自由で独立した自己と見るかぎり、こうした責は問えないとしていく。そしてそれでよいのだろうか、ということで、コミュニタリアニズムとして連帯の責務の議論を第三の責務として展開していく。
この議論は本書の白眉として、第9章と最終章である第10章で展開され、とてもスリリングではあるものの、それまでの章のような明晰さは欠落していると私には感じられた。
なぜか。連帯の責務は、サンデル教授の議論の展開からしてそうなのだが、兄弟愛や国家愛と接合していくからだ。愛国心には普遍性があるとしてこう彼は語る。
したがって、愛国主義に道徳的根拠があると考え、同胞の権利に特別の責任があると考えるなら、第三のカテゴリーの責務を受け入れなければならない。すなわち、合意という行為に帰することができない連帯あるいは成員の責務である。
歴史的不正への集団的謝罪と補償は、自分が属さないコミュニティに対する道徳的責任がどのようにして連帯をからつくりだされるかを示す例だ。自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法だ。
つまり、ある国家が別の国家に歴史的な罪を謝罪すること自体がナショナリズムに基礎を置いていることになる。ナショナリズムがその罪責を生み出したのだから、それを償わせるのもナショナリズムなのである。
私はサンデル教授の思想に違和感を覚える。私は、ナショナリズムが生み出した罪責はナショナリズムの解体を志向する方向で償わなければ、それ自身がナショナリズムを強化するし、また被害の側に転倒されたナショナリズムを強化することになると考える。歴史的不正がないとは言わない。だが、サンデル教授の理路は、違うのではないか。
この違和感は、私のロールズのリベラリズムに対する違和感にも通じる。社会的な公平さを基礎づけるロールズの議論は、つまるところ、国家の内側に閉じている。ロールズは社会契約の暗黙的な合意を丁寧に議論するが、契約の内容が国家になることにおいて限界を持っている。人を差別することないようにする正義の女神の目隠しのような「無知のヴェール」も、すでにその国家の内側の構成員であり、その公平性は国家構成員内の限界を持つ。やはり、ロールズの公平もナショナリズムである。
私はどちらかといえばリバタリアニズムを信奉するリバタリアンである。人は世界のどこに生まれても人権が保証されなければならず、そのために正義が行使されなければならないと考える(この考えはオバマ大統領と同じ)。
そしてそのために、日本国憲法が明記するように、国家をその正義のための道具としなければならない、国家を正義の側に開いていく運動なくしてナショナリズムを克服することはできない、と考える。
サンデル教授の議論では、国際化する現代に問われている正義の問題は解決できないのではないだろうか。』
(転載)
『[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)
読みやすく面白い。昨晩熱中して半分読み、今日後半を読み終えた。政治哲学をこれだけわかりやすく説明する書籍は希有ではないか。
これからの「正義」の話をしよう
本書巻末謝辞を見ると、「本書は講義として誕生した」とある。講義は「ハーバード白熱教室」というタイトルで現在、NHK教育放送中らしい。私は見たことがない。
政治哲学というと厳めしいイメージがあるが、サンデル教授は卑近な例、日常的な問題、社会ニュースの話題など馴染みやすい切り口からそれらの問題の持つ本質的なことを解き明かしていく。
例えば、あなたは時速100kmのスピードで路面電車の運転しているとする。その走行中に、ブレーキ故障に気が付く。直進すると前方の工事作業員5人をひき殺すことになるが、横の待避線入れば1人の作業員を巻き添えにするだけで済む。どうすべきか? やむを得ないのであれば1人の方へハンドルを切るという答えもあるだろう。では、第2問。前方5人は変わらずだが待避線はない。あなたは運転手ではなく線路を見下ろす橋にいる。そしてデブ男の後ろいる。デブ男を待避線上に突き落とせば、デブ男1人の死体で電車は止まり、5人が救える。どうすべきか? サンデル教授はおそらく「塩狩峠」を読んだことはないし、デブ男でないと自動車は止まらないらしい。
この話は有名であり、いろいろバリエーションもあるが、本質は同じだ。5人が救えるからといってデブ男を突き落とす人はいないだろう。だがこの二問は、功利主義の考えからすると、最初の問いの1人の選択と同じになる。
そしてサンデル教授は、功利主義批判を易しく展開する。功利主義とは、幸福の最大化ということだが、最大化には計量化が含まれ、人命も数値で換算され合理性が問われることになる。この奇妙な例はあくまで説明上のものだが、現実社会でも人命が功利主義的に考えられることがあることも、サンデル教授は解き明かしていく。
人命を数値にして合理性を求める。それでよいのか? なにが正しいか。正義とは何か。本書のオリジナルタイトルが「Justice: What's the Right Thing to Do?(正義:何が正しい行為か?)」にはそうした含みがある。余談だが、英語では"Do the Right Thing(正しいことをなせ)"という言い回しもあり、スパイク・リー監督の同タイトルのアイロニカルな映画もある。映画は正義の持つ危険性をよく批判していて興味深い。
本書は、政治的な課題や社会正義を考える立場として、功利主義の他に、自由の尊重と美徳の2つが提示される。2番目の自由の尊重は、ロックやカントに由来する古典的な自由主義と、現代のリベラリズムの基礎となるロールズの自由主義、さらにリバタリアニズムが問われる。特にカントとロールズの解説がわかりやすい。カントというと難しい哲学のようだが、サンデル教授は見事なほどわかりやすく実践的に解き明かしていく。リバタリアニズムについては、それらに比較してやや薄い解説に留まっている。
3番目の美徳によって基礎づけられる正義の概念が、まさにサンデル教授の訴えたいところだ。思想の分類からすると、コミュニタリアニズムと呼ばれているものだ。日本では共同体主義とも訳されることから、伝統的かつ制約的な共同体や全体主義と誤解されがちだが、基本的にはリベラリズムのもつ問題点を克服するために提起された考え方だ。このため、リベラリズム、特にロールズの自由主義の考え方の対比が実践的に語られるのが本書の特徴である。その意味では、本書はわかりやすいロールズ批判とも呼べるものになっている。
読んでいて興味深いのは、ロールズ批判でありながら、ロールズにのみ焦点を置くのではなく、正義を美徳で基礎づける考え方としてアリストテレスの哲学に深く踏み込んでいく点だ。サンデル教授の議論はどれもきちんと限界付けらていて他分野には及ばない。だが、経済範疇まで広げることは可能だろう。アリストテレス再考は経済学者田中秀臣氏の「需要(クレイア)の経済学」とも重なる点があり、知的な興味を誘う。
本書の思想的な意義は、「ロールズかサンデルか」という問いを突きつけている点にある。だが、そのように定式化される以上に、現代日本人にも現実的な課題を投げている。その一例が、本書でも触れられている戦時慰安婦問題である。歴史的不正をどのように考えたらよいのか。先祖の罪を償うべきか? もちろん、これは難問である。公式謝罪について、その利点を挙げた後、サンデル教授はそれでも、状況しだいだと語る。
これらのことが謝罪の根拠として十分かどうかは、状況しだいである。ときには、公式謝罪や補償の試みが有害無益となることもある。昔の敵意を呼びさまし、歴史的な憎しみを増大させ、被害者意識を深く植え付け、反感を呼び起こすからだ。公的謝罪に反対する人びとはそうした懸念を表明する。結局、謝罪や弁償という行為が政治共同体を修復するか傷つけるかは、政治判断を要する複雑な問題なのだ。答えは場合によって異なる。
常識的な受け止め方でもあるだろう。だが、原理的に考えるとき、歴史的不正とはどのように問われるのだろうか?
サンデル教授は、古典的な自由主義であれリバタリアニズムであれロールズのリベラリズム思想であれ、人間を自由で独立した自己と見るかぎり、こうした責は問えないとしていく。そしてそれでよいのだろうか、ということで、コミュニタリアニズムとして連帯の責務の議論を第三の責務として展開していく。
この議論は本書の白眉として、第9章と最終章である第10章で展開され、とてもスリリングではあるものの、それまでの章のような明晰さは欠落していると私には感じられた。
なぜか。連帯の責務は、サンデル教授の議論の展開からしてそうなのだが、兄弟愛や国家愛と接合していくからだ。愛国心には普遍性があるとしてこう彼は語る。
したがって、愛国主義に道徳的根拠があると考え、同胞の権利に特別の責任があると考えるなら、第三のカテゴリーの責務を受け入れなければならない。すなわち、合意という行為に帰することができない連帯あるいは成員の責務である。
歴史的不正への集団的謝罪と補償は、自分が属さないコミュニティに対する道徳的責任がどのようにして連帯をからつくりだされるかを示す例だ。自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法だ。
つまり、ある国家が別の国家に歴史的な罪を謝罪すること自体がナショナリズムに基礎を置いていることになる。ナショナリズムがその罪責を生み出したのだから、それを償わせるのもナショナリズムなのである。
私はサンデル教授の思想に違和感を覚える。私は、ナショナリズムが生み出した罪責はナショナリズムの解体を志向する方向で償わなければ、それ自身がナショナリズムを強化するし、また被害の側に転倒されたナショナリズムを強化することになると考える。歴史的不正がないとは言わない。だが、サンデル教授の理路は、違うのではないか。
この違和感は、私のロールズのリベラリズムに対する違和感にも通じる。社会的な公平さを基礎づけるロールズの議論は、つまるところ、国家の内側に閉じている。ロールズは社会契約の暗黙的な合意を丁寧に議論するが、契約の内容が国家になることにおいて限界を持っている。人を差別することないようにする正義の女神の目隠しのような「無知のヴェール」も、すでにその国家の内側の構成員であり、その公平性は国家構成員内の限界を持つ。やはり、ロールズの公平もナショナリズムである。
私はどちらかといえばリバタリアニズムを信奉するリバタリアンである。人は世界のどこに生まれても人権が保証されなければならず、そのために正義が行使されなければならないと考える(この考えはオバマ大統領と同じ)。
そしてそのために、日本国憲法が明記するように、国家をその正義のための道具としなければならない、国家を正義の側に開いていく運動なくしてナショナリズムを克服することはできない、と考える。
サンデル教授の議論では、国際化する現代に問われている正義の問題は解決できないのではないだろうか。』
touxia at 10:38|Permalink│Comments(0)│
マイケルサンデル 格差
マイケルサンデル 格差
(転載)
『先日放送された「マイケル・サンデルの究極の選択・許せる格差・許せない格差」について書きたいと思います。
今回は富の分配に関して「運」という問題に焦点を置きたいと思います。
政治哲学、公共哲学というものをサンデル教授の白熱教室で知り、『サンデル教授の対話術』に見られるような視点と公共性という問題にも深く興味を持つことができました。
自分自身哲学や政治の世界には全くの素人ですし、あくまでも知識として講義内容にかかわることはすべて学ぼうと思っています。
特に社会参加という視点で番組を観るとまた新たな視点の先が見えてきます。
番組は「許せる格差・許せない格差」ということで、世界的に問題視される格差社会についての多くの問いかけと議論でした。
格差がある。是正を叫ぶ声がある。そこで富の分配が問題となる。
・優秀な野球選手とそうでないものとの年俸の格差。
・製品開発成功企業の社員への利益の分配。
・富の分配における所得税と消費税どちらが正義か。
・派遣労働者と正社員の給与格差
等の問題が提示され、「誰もが納得できる正義や公平さの基準」を皆がどのように考えるかです。
納得とは相手の主張に対する折り合いで、そこには負担の了解が含まれています。サンデル教授のコミュニティにおける「負担ありき自己」という認識の大切さでもあるわけででもあるにおいては格差という差異の認識における自分の俯瞰的視点の必要性を問うものでした。』
日本の教師の平均年収は 45万ドル。
イチローは、1800万ドル。
バラクオバマは、400万ドル。
その格差を どう思うのか?
という問いかけは、おもしろい。
(転載)
『先日放送された「マイケル・サンデルの究極の選択・許せる格差・許せない格差」について書きたいと思います。
今回は富の分配に関して「運」という問題に焦点を置きたいと思います。
政治哲学、公共哲学というものをサンデル教授の白熱教室で知り、『サンデル教授の対話術』に見られるような視点と公共性という問題にも深く興味を持つことができました。
自分自身哲学や政治の世界には全くの素人ですし、あくまでも知識として講義内容にかかわることはすべて学ぼうと思っています。
特に社会参加という視点で番組を観るとまた新たな視点の先が見えてきます。
番組は「許せる格差・許せない格差」ということで、世界的に問題視される格差社会についての多くの問いかけと議論でした。
格差がある。是正を叫ぶ声がある。そこで富の分配が問題となる。
・優秀な野球選手とそうでないものとの年俸の格差。
・製品開発成功企業の社員への利益の分配。
・富の分配における所得税と消費税どちらが正義か。
・派遣労働者と正社員の給与格差
等の問題が提示され、「誰もが納得できる正義や公平さの基準」を皆がどのように考えるかです。
納得とは相手の主張に対する折り合いで、そこには負担の了解が含まれています。サンデル教授のコミュニティにおける「負担ありき自己」という認識の大切さでもあるわけででもあるにおいては格差という差異の認識における自分の俯瞰的視点の必要性を問うものでした。』
日本の教師の平均年収は 45万ドル。
イチローは、1800万ドル。
バラクオバマは、400万ドル。
その格差を どう思うのか?
という問いかけは、おもしろい。
touxia at 08:04|Permalink│Comments(0)│
格差は許されないことなのか
サンデル教授はいう
『格差の差は許されないことなのか。
私たちの社会は、あるべき正しい世界から遠ざかろうとしているのか。
あるいは許される格差もあるのか。
会社の給料や野球の選手に差があるからこそ人々はやる気を高め、努力をし成果を達成しようとする。
それが社会全体にとってより良い結果を引き出している。そう言い切れるのか。
大きな哲学的な問題にもぶつかった。
「何が正義かは立場によって決まる。」という意見があった。
かつてソクラテスはこう考えた。「正義とは最も力のある人間が決めるというものではなく、経済力や軍事力とは無関係に存在しているはずだ。
自分の立場を超えて、誰もが納得できる、正義や公平さの基準があるはずだと!
近代になってこの考え方を進めた人がいた。ジョン・ロールズ(1921〜2002)という哲学者だ。
彼は「無知のベール(verl of ignorance)」という考え方を称えた。それぞれの社会的地位や立場、お金の有る無しとは関係なく共通の正義を見い出そうという考え方だ。
それはこういうものだ。
「あなたが無知のベールに覆われ、自分の立場も相手の立場も、能力、周囲の状況も何もわからないと想像してみよう。自分が金持ちなのか、貧乏人なのか、健康なのか病気なのか、情報がなのもない状況で“正義”が何かと問われた時、そのときのあなたの答えこそが正義についての真の答えだ。」
というものだ。このようにお互いにとって共通のルールを導き出そうとするときは、今自分がいる社会的立場から一歩離れ、他人の視点に立ってものを見る、というのが一つの方法だ。
これにはあなたの想像力を発揮する必要がある。もし自分が打率わずか2割の野球選手だったら、もし貧しい家に生まれていたら、移民労働者だったらその時、人生についてどのように感じるか考えてみてほしい。』
『格差の差は許されないことなのか。
私たちの社会は、あるべき正しい世界から遠ざかろうとしているのか。
あるいは許される格差もあるのか。
会社の給料や野球の選手に差があるからこそ人々はやる気を高め、努力をし成果を達成しようとする。
それが社会全体にとってより良い結果を引き出している。そう言い切れるのか。
大きな哲学的な問題にもぶつかった。
「何が正義かは立場によって決まる。」という意見があった。
かつてソクラテスはこう考えた。「正義とは最も力のある人間が決めるというものではなく、経済力や軍事力とは無関係に存在しているはずだ。
自分の立場を超えて、誰もが納得できる、正義や公平さの基準があるはずだと!
近代になってこの考え方を進めた人がいた。ジョン・ロールズ(1921〜2002)という哲学者だ。
彼は「無知のベール(verl of ignorance)」という考え方を称えた。それぞれの社会的地位や立場、お金の有る無しとは関係なく共通の正義を見い出そうという考え方だ。
それはこういうものだ。
「あなたが無知のベールに覆われ、自分の立場も相手の立場も、能力、周囲の状況も何もわからないと想像してみよう。自分が金持ちなのか、貧乏人なのか、健康なのか病気なのか、情報がなのもない状況で“正義”が何かと問われた時、そのときのあなたの答えこそが正義についての真の答えだ。」
というものだ。このようにお互いにとって共通のルールを導き出そうとするときは、今自分がいる社会的立場から一歩離れ、他人の視点に立ってものを見る、というのが一つの方法だ。
これにはあなたの想像力を発揮する必要がある。もし自分が打率わずか2割の野球選手だったら、もし貧しい家に生まれていたら、移民労働者だったらその時、人生についてどのように感じるか考えてみてほしい。』