2016年08月16日
中国マネーのタイ流入加速
「彼らは不動産に投資しているだけでなく、東南アジアにおけるビジネスの足掛かりとしてタイを使おうとしているのだと思う」と同氏は語った。「彼らはここをセカンドホームとして泊まったり、働いたりできる。ビジネス拡大の第一歩となる」
バンコク爆破事件(2)
バンコク爆破事件
・タイの主要株価指数は18日の寄り付き直後、2.6%下落。観光関連銘柄の売りがきつく、セントラル・プラザ・ホテルは9%、エアポーツ・オブ・タイランドは7%下がった。
2016年03月06日
タイの新幹線
インフラ輸出を成長戦略の柱の一つに掲げる安倍政権は、新幹線のトップセールスに力を入れている。マレーシアやインド、米国などとも話を進めている。
2014年02月08日
血の水曜日事件
2013年12月27日
ラーマ4世
タイのクーデター
(転載)
☆⇒仏暦2468(西暦1925)年、国王「ラーマ7世」の即位
<仏暦(西暦)年> <↓クーデターに連番を付け、達成例に※を添えてみた>
★2475(1932)年6月24日 ※①クーデター;立憲革命
★2476(1933)年6月20日 ※②クーデター;軍部内閣の誕生
◆2476(1933)年10月11日、(③クーデター/未遂)
☆⇒仏暦2478(西暦1935)年、国王「ラーマ8世」の即位
2482(1939)年、国名改称;従来の「シャム」から「タイ」へ
☆⇒仏暦2489(西暦1946)年、国王「ラーマ9世」の即位
★2490(1947)年11月8日 ※④クーデター;ピブン、権力を掌握
★2491(1948)年4月、ピブン政権の誕生(ピブン首相就任)
◆2491(1948)年10月1日、(⑤クーデター/未遂)
◆2492(1949)年2月26日、(⑥クーデター/未遂)
◆2494(1951)年6月29日、(⑦クーデター/未遂)
★2494(1951)年11月29日 ※⑧クーデター;軍部の勢力抗争
★2500(1957)年9月16日 ※⑨クーデター;サリット、ピブン政権を打倒
★2501(1958)年10月20日 ※⑩クーデター;サリット、憲法廃止、ピブン国外亡命
▽2506(1963)年12月、タノム政権、誕生(サリットの病死後)
★2514(1971)年11月 ※⑪クーデター;軍政復帰(対「共産主義」)
★2516(1973)年10月17日、学生革命<憲法制定等を要求>;タノム政権、打倒/崩壊
<短期間ながら、いったんは、議会民主制の時代に移行>
★2519(1976)年10月6日 ※⑫クーデター;「血の水曜日」が発端(対「共産主義」)
軍によるクーデターで、再び独裁政権始まる
<民主化運動に対する軍の無差別発砲で200人以上の死者>
《付記》仏暦2514(西暦1971)年11月17日、当時のタノム首相による憲法や政党の廃止などを宣言したクーデターが起こる。73年の血の日曜日事件の弾圧によってタノム首相は退陣しアメリカへ亡命するが仏暦2519(西暦1976)年に帰国、そして大勢の被害者を出した10月6日の血の水曜日事件が起きた。
◆2520(1977)年3月26日、(⑬クーデター/未遂)
★2520(1977)年10月20日 ※⑭クーデター;クリアンサク政権の誕生へ
▽2523(1980)年3月、プレム政権の誕生。<以降、8年余に渡る長期の政権担当>
◆2524(1981)年4月1日、(⑮クーデター/未遂)
◆2528(1985)年9月9日、(⑯クーデター/未遂)
▽2531(1988)年7月、「プレム首相」の引退。
▽ 8月 「チャーチャイ政権」の誕生。一応の「軍政」終幕。
★2534(1991)年2月23日 ※⑰クーデター;陸・海・空の3軍と警察による/無血!
▽ 3月6日、アナン暫定内閣、発足。
▼2535(1992)年3月22日、総選挙の実施。
▽2535(1992)年4月、スチンダーの首相就任(7日;スチンダー内閣、発足)
★ 5月18~21日、「5月(流血)事件」 <「血の民主化弾圧」事件>
5月20日、国王陛下(スチンダ首相とチャムロン氏を王宮に呼び)仲介
5月24日、スチンダ首相、辞任。<スチンダー・47日政権の終幕>
▼2535(1992)年9月13日、下院総選挙 ⇒「民主党」が最大議席(79議席)を獲得!
▽ 9月29日、チュアン内閣、発足。
▼2544(2001)年2月 総選挙 ⇒「タイ愛国党」が第1党に ⇒ タクシン政権発足
▼2548(2005)年2月 総選挙 ⇒「タイ愛国党」が圧勝 ⇒ 第2次タクシン政権発足
▽2549(2006)年2月24日 タクシン首相が下院解散!
▼ 4月2日、下院総選挙 ⇒「タイ愛国党」が得票率57%を獲得!
<主要3野党↑ボイコット> (バンコクは50%を下回る)
▽ 5月8日、憲法裁判所が下院選挙の無効!判断 ⇒ やり直し!
★ 9月19日 ※⑱クーデター;ソンティ陸軍司令官ら/無血!
<軍主導の改革団が「憲法」を停止し、全国に「戒厳令」を布告>
⇒「タクシン政権」の崩壊!
振り返ってみると、先般(仏暦2549/西暦2006年)のクーデターは、国民の支持は<長引く政局混迷の正常化に対する期待とも相まって>得られたものの、せっかく続いてきた民主的な文民政治路線に対しては陰りを残すような出来事と言えるのではあるまいか?
■追補:クーデター後の経過メモ
▽2549(2006)年10月1日、スラユット元陸軍司令官を暫定首相に指名
▽2549(2006)年10月9日、スラユット(第24代首相)暫定政権発足
<スラユット暫定政権:仏暦2549(西暦2006)年~2551(2008)年>
▽2550(2007)年5月30日、憲法裁が「タイ愛国党」に対して「解党」の命令!
<タクシン氏が率いる「タイ愛国党」に「解党」命令>
※政党法違反で有罪。党役員ら111名に5年間の公民権停止
▽2550(2007)年8月19日、新「憲法」の国民投票 ⇒ 賛成多数で承認!
▼2550(2007)年12月23日、下院総選挙 ⇒「国民(市民/人民)の力党」が第1党に!
<タクシン前首相(支持)派の主流勢力政党が勝利!>
2551(2008)年1月29日、サマック首相就任(第25代の首相)
▽2551(2008)年2月6日 サマック(第25代首相)政権発足
<サマック政権:仏暦2551(西暦2008)年1月~同年9月>
9月9日 サマック首相、憲法違反で失職!
▽2551(2008)年9月24日 ソムチャイ(第26代首相)政権発足
<ソムチャイ政権:仏暦2551(西暦2008)年9月~同年12月>
12月2日、憲法裁がソムチャイ政権の与党3党に「解党」の命令!
<司法クーデターか?!/与党3党の解党で政権崩壊>
12月17日 アピシット首相就任(第27代の首相)
▽2551(2008)年12月20日 アピシット(第27代首相)政権発足
<アピシット政権:仏暦2551(西暦2008)年~2554(2011)年>
2554(2011)年5月10日 アピシット首相が(約半年の任期を残して)下院を解散
▼2554(2011)年7月3日、下院総選挙 ⇒「タイ貢献党」が(逆転で)第1党に!
8月8日 インラック首相就任(第28代の首相)
<タイ国で初の女性首相/タクシン元首相の実妹>
▽2554(2011)年8月10日 インラック(第28代首相)政権発足
2012年06月25日
アクセス急増
突然 アクセスが 急増。
なにに アクセスしているかと思ったら・・・
タイ 農業大学の制服 だった。
ページビューが 491 になっていました。
ふむ。
中国では 画像が見えないのですが・・・
農業ランキングで
1 大きな国で
3 微笑みの国で
4 雑草の都合
14 うろたえる紙魚は泳ぐ
と 20位以内に 4つも入っていることになった。
すごいことです。
ムラカミハルキの鼻毛も
最近 オーム関係で アクセスが増えている。
古い記事でも 見ることになるんですね。
2011年09月04日
かごの屋 バンコク進出
「かごの屋」 タイに進出
(転載)2011年6月28日
『外食産業のキンレイ(大阪市)が8月にタイ・バンコクで和食レストランをオープンする計画を進めていることが6月27日、わかった。関西、首都圏で展開する「かごの屋」の屋号で出店し、年間1億2千万円の売り上げを目指す。同社の海外進出は初のケースで、アジア展開に本腰を入れる。
バンコク1号店は住宅地のショッピングセンター内で開店。座席数は90席で、すしや天ぷら、鍋物などを提供する。1人あたりの客単価は1500円程度を想定。来年3月にはバンコクで2号店もオープンする。
同社では今月、今回の海外進出に合わせて国際事業部を発足させており、「タイでは今後、バンコク中心に10~20店舗を出し、中国にも出店する計画。平成32年には海外で約50店舗体制としたい」(中川晃成取締役)考えだ。
日本貿易振興機構(ジェトロ)バンコク事務所によると、「日本食ブームでバンコク市内だけで3年間に和食レストランが500店舗も増えた」(山田宗範所長)という。バンコクに進出する日本企業は約7千社、登録在留邦人も4万5千人とされる。』
2011年08月22日
ヤンマー クボタの後を追う
『ヤンマーはタイで農業機械の現地生産を拡大する。合弁子会社のヤンマーSP(YSP、バンコク)で2月にトラクターの組み立てを始めたほか、早ければ2011年に耕運機とコンバインも生産する。
タイを中心とする東南アジアではクボタが先行し、中国勢の追い上げも強まっている。現地生産によるコスト低減や生産機種の拡充により、競争力の向上を図るヤンマーの戦略を探った。(大阪・田井茂)
「タイでは品質と生産力を高め、近隣国にも輸出する」。山岡健人ヤンマー社長は4日にYSPで開いたトラクター工場の完成式で、こう決意表明した。トラクターは代表的な農機。タイではクボタが09年から現地で組み立てており、約70―80%と圧倒的なシェアを握る。一方、ヤンマーは約10%にとどまる。「生産コストも含む商品力ではクボタにかなわなかった」(中満重廣YSP社長)のが実情だ。』
2011年07月04日
タクシン派の勝利
タイ総選挙:タクシン派が勝利-インラック氏、初の女性首相へ
(転載)
『7月4日(ブルームバーグ):3日投開票されたタイ総選挙は、タクシン元首相派の野党・タイ貢献党が下院で過半数を獲得した。過去3回の選挙では、反タクシン派が選挙結果を覆すのに成功したが、今回は貢献党の圧勝のため、そうした事態に持ち込むことは難しい状況だ。
開票率約97%の段階で定数500議席のうち、貢献党が264議席を確保。タクシン元首相の妹で、同党の首相候補であるインラック氏が同国初の女性首相となる見込みだ。アピシット首相率いる民主党の獲得議席は160にとどまった。同首相はインラック氏の「次期首相就任」に祝意を述べ、プラウィット国防相は軍が選挙結果を受け入れると語った。
今回の選挙結果は、タクシン元首相を君主制への脅威と見なす支配エリート層に対する拒絶と、10年にわたって国を二分してきた対立の中心にあったタクシン氏の是認を意味する。貢献党が明確な勝利を収めたことにより、選挙後の政治不安に対する投資家の懸念は後退する可能性がある。ただ、同党は最低賃金引き上げなどを公約しており、財政規律が緩む恐れもある。
チュラロンコン大学安全保障国際問題研究所のティティナン所長は、「タクシン氏への支持票というよりは、2006年以降にみられた操縦、支配、抑圧への反対票という意味合いが強い」と指摘。反タクシン派は、「前回のようにタクシン派を追い落とすことはできない。そうした場合、貢献党に投票した有権者の強い反発を買い、壊滅的な事態を招くだろう」と説明した。
「クーデター起こさない」
プラウィット国防相は3日夜、06年のように軍がクーデターを起こすことはないとの立場をあらためて示した。インラック氏は首相就任後に「軍と協議する」との考えを明らかにした。
「レッドシャツ」として知られるタクシン氏の支持者らは、中小政党が08年の議会での首相指名投票でアピシット氏支持にくら替えした後、議会解散・総選挙を求め過去2年間バンコク市内にバリケードを築いてきた。この抗議行動により、昨年は91人の死者が出ている。
プラユット陸軍司令官は3日の投票前に有権者に対し、選挙で「同じ」選択を行わないよう求めた。過去4回の選挙はいずれもタクシン支持派が勝利している。タクシン氏は、出口調査で貢献党勝利の見通しが伝えられた後、タイPBSテレビに対し、選挙結果が尊重されなければ「タイは平和を実現できない」と語った。
タイ貢献党の勝利により、08年の出国後、主にドバイに滞在するタクシン元首相(61)の帰国の可能性が高まった。
インラック氏(44)は3日夜、タイ貢献党の選挙公約である最低賃金の1日300バーツ(約790円)への引き上げや、学生へのタブレット型端末配布などの実行を言明した。』
手を振る インラックさん
タクシン派 はおもに 北部の貧しい人たちによって 支えられている。
今回のタクシン派の 勝利によって
また 混乱が やってくるかもしれない。
そして公約が 最低賃金 1日 300バーツ。
貧しい人たちは 拍手喝采だろう。
富裕層の経営者は
苦々しい 顔をしていることだろう。
しかし タイ人の多くの心配は
国王の 健康状態にある。
国王が 長生きしてほしいと言う願いがどこまで届くのか。
そちらの方が タイ人にとっては
重要な 出来事になるのかもしれない。
2011年06月15日
タイ首相「総選挙結果、尊重を」
タイ首相「総選挙結果、尊重を」
(転載)
『タイのアピシット首相が14日、7月3日の総選挙を前に朝日新聞など海外の報道陣と会見した。各種世論調査では、アピシット政権と対立するタクシン元首相派の最大野党・タイ貢献党が優勢だが、アピシット氏は「全員が結果を尊重すべきだ」と述べた。
アピシット氏は自身が率いる民主党の苦戦を認めた上で、過半数をとる政党はないとの見方を示し、「第1党が連立政権を作れなければ、第2党が試みる」と発言。現状と同様に、他党との連立で民主党政権の継続を探る考えを示した。
タイでは2006年にタクシン元首相がクーデターで追放されて以降、元首相支持派と反元首相派が互いに相手を非難し、デモを繰り広げてきた。タクシン派が政権を握っていた08年には、反タクシン派が空港などを占拠。アピシット政権下の昨年はタクシン派がバンコク中心部を占拠し、軍と衝突するなどして約90人が死亡した。』
2011年04月28日
タイの原子力政策の変化
『日本の福島第一原発で放射性物質の漏洩によって、世界各地では核エネルギーの開発に対する反対の声が高まっています。タイでは2020年に5カ所の原発を建設するという計画が実現であるかどうかが危うくなってきました。専門家は「エネルギー政策が不確定になったことは、今後10年のタイの電力供給不足という危機を引き起こすだろう」としています。
タイの電力開発計画によりますと、2020年から2025年まで5年内に5カ所の原発を建設しますが、この原発による総出力はタイの電力供給量の約の10%を占めており、この計画の実施は天然ガスへの依頼度を下げることを目的としていたものです。
しかし、このたび、国民がその建設に反対したことにより、タイのアピシット首相は原発の建設を延期することにしました。また、タイの選挙がまもなく行われるため、この件は次期政府によって決定される可能性があります。』
2011年04月27日
チェンライで撃たれ死亡
日本人男性、撃たれ死亡 タイ北部、別の邦人も負傷
(転載)
『タイ北部チェンライ郊外で4月26日早朝、日本人男性(43)が銃で撃たれて死亡した。一緒にいた別の日本人男性(59)も負傷し病院で治療を受けているが、命に別条はないという。同行のタイ人ガイドが撃った可能性もあるとみて、地元警察はガイドの身柄を拘束し、事情を聴いている。地元警察や在チェンマイ日本総領事館が明らかにした。
警察によると、日本人2人とガイドはチェンライ市から車で移動中、市中心部から25キロ前後の地点で停車。何らかのトラブルがあったとみられ、車外で撃ち合いになったという。』
撃ちあい?
日本人も銃を持っていた…?
麻薬取引がらみ?
『当局によると 、日本人2人はこのガイドを雇って郊外に出ていたという。
当局は現場から逃走したガイドを拘束し、事情を聴いている』
『少なくとも2丁の銃が使用されたとみられるが、所有者などは不明。現場には薬物や現金1万ドル (約80万円)が入ったかばんが残されていたという。日本人2人は旅券を所持していなかったため、警察は不法滞在や銃の不法所持の疑いもあるとみて負傷した男性からも事情を聴く方針で、身元や詳しい経緯を調べている。ラオス国境に近いチェンライには、自然豊かな山岳地帯に多くの少数民族が暮らし、トレッキング客にも人気が高い。』
『タイ北部チェンライ郊外の山中で4月26日 に日本人男性2人が撃たれ死傷した事件で、警察に身柄を拘束されたタイ人の地元ガイドが、2人を銃撃したと認める供述をしていることが27日、警察当局者への取材で分かった。
拘束されたのはアピチャート・インピサック容疑者(41)。2人を山中の村に1泊するトレッキングツアーに案内していた際に口論となり「日本人の1人が先に撃ってきたので撃ち返した。その人が倒れた後、もう1人が銃撃してきたので逃げた」と供述しており、警察が裏付け捜査を進めている。
日本人男性(43)は頭などを撃たれて死亡、もう1人の男性(59)も銃撃され入院している。警察は日本人2人についても不法滞在や銃の不法所持の疑いがあるとみて、負傷した男性の回復を待って事情を聴く方針。現場に残された所持品などから白い粉が見つかり、警察は薬物とみていたが、調べた結果、粉末洗剤と判明した』
白い粉が 洗剤とはねぇ。大げさすぎる。すぐにわかるだろう。
日本人が最初に 撃った?
ふーむ。よくわからん事件だ。
2011年04月24日
タイとカンボジアの衝突
タイとカンボジアの連日衝突
『領有権を巡って対立しているカンボジアとタイの国境地帯で、双方の軍隊が4月22日に続いて23日も衝突して死傷者が出ており、国境地帯では緊張がさらに高まっています。
2011年03月10日
ワーイ
なんだか 嬉しくなる。
とても 優しい気分にしたることができる…
でも。ねぇ。
そのワーイは 私にしているのではなく
もっと遠くの部分にされていることが
わかるようになった。
私の背後にあるもの・・・
人間というより 尊敬すべき対象
ともいうべきものだろう。
彼女らは 釈迦 もしくは 仏様 に対して
敬虔な気持ちを持ち
それに対して ワーイ をしている。
それを 目の前の人にすることで
同じような思いをしているのだろう。
そう考えると
いままでの 微笑の国のワーイの
謎が解けたような気になる。
こういう躾をする 微笑の国の人たちは
優れたものを持っているに違いない。
2011年02月04日
1月16日 メイサイから
1月16日 ミヤンマーはこれでいいと思った。
10時を過ぎていた・・・
イミグレーション をぬけて タイへ。
15日間の 観光ビザを発行してもらう。
タイは 実に 観光ビザに対しては厳しい。
30日間の 観光ビザを発行すればいいとおもうが・・・
メイサイの寺院を 一つは行ってみたい。
ところが その階段の厳しさ・・・
あまりにも 多すぎる。
階段で4回休んで 寺院までも届くが
もう息が続かぬ。
身体の衰えを こんなところで感じるとは・・・。
寺院を降りてから バンドをかおうとしたが
180バーツという
100バーツ といったら
応じてくれなかったので・・・・
2軒とも同じだった。談合しているのか。
ストリートに出て ソンテウ のところに行ったら
のせてくれた・・・・
メイサイは バスターミナルが 離れている。
都市計画の方法が 途切れている
点の開発で 線の開発がなされていない。
もう。
ふたたび メイサイ には来ないだろうな
という 予感が あった。
バスターミナルの直前 で
チェンマイ行の バスに出会う。
それに 乗る・・・・
ソンテウは 15バーツ。
ちょうど 11時。
のりかえて 35バーツ。チェンライまで。
12時半に チェンライに 到着。
約 70km のところを 1時間半をかけてすすむ。
とにかく おんぼろバスなのである。
それでも バスガイドは なかなかの働き者。
お客さんを どんどんと乗せていく。
途中 2回も ポリスが 荷物チェック。
いつもの ネットカフェ に行く。
ネット接続の調子が悪い。
スイート&サワー チキンシチュー &ライス。
いや。ここのソースは 美味しい。
隣のアメリカ人が
nice,good,cheap のホテルがないかと聞く。
知らない・・・というと・・・ふーんといって、
日本人は グループ で旅行するので
そういうことは 知らないのだねと言われる。
このカフェも 3回利用したので 少し流れがわかる。
ママさんが 実に英語がうまいし 客あしらいもうまい。
でも なんか 客に対して 親切ではない。
チェンライは それで 時間が過ぎていく
チェンマイらしい
その街の成り立ちから わかりやすく
そして その伝統は 受け継がれてきている。
雲南らしい を考えてみたが
中国の都会つくりは 類型化しすぎている。
そこには 歴史の浅さが 感じられる。
なぜ 中国は 歴史をこれほどまでに
破壊してしまったのだろうと考えざるを得ない。
城壁に囲まれ
水は ゆるりと街を 取り囲む
そこで生活する 僧侶たち・・・
ひっそりと息づく 寺院・・・
ゆたかな気候がはぐくむ 植物たち
人を敬うという躾のある 微笑
そういうものが 街を覆っている・・・
そこに・・・街のチカラがある。
チェンマイの中で感じたのは
生活の中で 水 というもののの 存在。
さまざま な・・・水のカタチが。
2011年01月28日
10kg分 オーバーチャージ
重さの調整と いらないものの処分。
紙と本は ホントに重いですね。
パソコンとスキャナーのカバン
本だけのバックパック・・・
そして いつも使っているカバン。
を 背中と両手に持ち
荷物用のカバンが 2個。
はぁ。
空港で 重さはかったら 35kg
25kgまでは 免除なので ちょうど 10kg オーバー
1kg 135バーツだった。
あれ。国際線なのに 意外と安いですね。
それでも 1350バーツを とられた。
ふーむ。
それで 昆明まで。
夜の8時発だったので
時間があったので空港の前のタイレストランで最後の晩餐。
CHANGの生ビールと トムヤムクン。
辛すぎて くしゃみは出るわ 鼻水はでるは
汗が出るわで… 大騒ぎ。
最後に ぺーっと。
うれしいのは 見送り をしてくれる人が
いたことだ…。
なんか 情 がありますね。
ほほえみの国に 再度いけるかな。
それでも よく いろんなところを見て回った。
ほほえみの国のイメージが 鮮明となった。
寺院をかなり よく見て回ったので
宗教と信仰について 考えさせられたのは
意味がありますね。
2011年01月27日
ラムドゥアンのカオソイ
本日 食べて
ほほえみの国から 脱出。
最後の食事は カオソイ ですね。
トムヤムクン にするかどうか
迷いましたが 足を延ばして・・・
そこまで 行きました。
あのカレー味が 何とも言えず スパイシー
でおいしかったです。
さぁ。
これで 区切り つきました。
日本は 鳥インフルエンザとか
火山の爆発とか・・・・
始めは 桜島 だと思ったのですが・・。
なぜか 大変になっていますね。
2011年01月26日
ちゃ~お
は チェンマイのディープな情報が満載で
大変ためになる。
もっと ホームページも 充実してほしい。
今まで187号も出してきたのだから
情報が いっぱいあるのに・・・
ペーパー媒体 だけになっているのが
もったいない。
気になる食べ物
北タイの食材を味わう
この二つは 見どころありですね。
不覚の酔っ払い
あほかよ。
ずい分酔っぱらって 覚えていないのだ。
不思議なくらい 何も覚えていない。
忍者ラーメンで 呑んだくれて それから
すし次郎に いったとさ。
まるっきり 覚えがないです。
よく 家 に戻れましたね。
やっていることが 意味ないね。
さて ほほえみの国に 戻ることができるのか?
どうも 可能性はないね。
でも ずいぶんと 精神的にはよかった。
問題は これから・・・どうするのかですね。
それに 画像も アップしておかないと
中国では できないですからね。
荷物が 増殖してしまった。
ホテルに移動。
荷物が やたら増えているのには 驚いた。
いったい どれだけ どこから 持ってきたのだろう。
処分をするが しきれない。
こまったなぁ。
ホテルに行っても 荷物を 再構成。
とにかく 軽くしない限り・・・
オーバーチャージ 覚悟であるが。
服も処分する必要があるかな。
ホテルは チェンマイ・オーキッド。
ホテル 1時間 100バーツのインターネット代。
おい。おい。
ホテル代の中に含めろよ。
遅れすぎ…。
まぁ。雰囲気はいいので 満足であるが。
2011年01月25日
Yaba
『Other names;Ice
Derived from synthetic amphetamines, its ingredients include salt, household cleaning products and lithium from camera batteries. It is usually a red or orange tablet although it can sometimes be green.
Yaba causes powerful hallucinations and can keep the user awake for many days.
Regular use is linked to lung and kidney disorders and can cause paranoia.
Yaba is addictive and habit forming. Coming off of the drug can lead to severe depression and suicidal urges.』
Speed Demon
Yaba
KEBG
『K』⇒『コカイン』
本来なら『C』と呼ぶべきなんでしょうが、タイでは何故だか
『K(ケー)』と呼んでいます。
タイ価格 1包(小)300バーツ(大)500バーツ
『E』⇒『MDMA』
白・緑・青・ピンク・オレンジなどの色があるのですが、
何が違うのかは未だに分かりません。がタイ人の中ではピンクが
一番人気。話によるとSEX向きだからだそうです。
タイ価格 1錠500バーツ
『B』⇒『ヤ~バ~』(アンフェタミン) 「薬馬」ともいう。
とても不評なこの薬。けれども常用者はビックリするほど大勢。
老若男女問わず好まれています。蔓延の原因は価格ではないかと
思われるのですが、もちろん不眠不休効果、それから痩せ薬
としての効果も原因に有ると思います。
ちなみにバービア、置屋、立ちんぼ、コーヒーショップなどにいる
お姉様方の常用率は非常に高い一方、
ゴーゴーバーや風呂屋のお姉様方の常用率は低いです。
理由は価格です。
タイ価格 1錠100バーツ
『G』⇒『ガンジャ』・『マリファナ』・『大麻』
タイでの呼び名は『ガンシャア~』と少し間抜けな発音ですが、
化学薬品か何かを混ぜてるんじゃないの?と言う位強烈です。
他の板の書き込みを見ていると、タイのガンジャの評判が
良くないですが、決してそんな事は無いと思います。
個人的に思うのですが『B』とのチャンポンは最悪です。
タイ価格 1包(100g位)150バーツ
『基本的な副作用は社部と親戚なだけにほぼ類似していて、
食欲減退、口・のどの渇き、体重減少、指先の震え、性交中の中折れ、
記憶力減退、言語能力減退、重度の被害妄想癖などが挙げられます。
その他特徴として、色の種類は3パターン有り、
赤(スィー・デェーング)、オレンジ(スィー・ソム)、緑(スィー・キィアオ)
を 確認しています。
その中で一番質が良いとされているのが「緑」で、
赤・オレンジが1錠100バーツに対して、
緑はその倍の200バーツで 取引されています。
さて服用方法ですが、殆どの人が自家製水パイプで服用しています。
ガンジャの水パイプのように直接火をつけて吸うのではなく、
タバコの銀紙から作ったアルミホイルで炙り、気体化したものを
水パイプを通して吸引します。 』
ヤーパー錠
警察が しつこく バスの乗客の荷物を調べた。
ヤーパー錠 というものの摘発とか
『ヤーバーはアンフェタミン系覚せい剤の一つであり、アンフェタミン硫酸塩、メタンフェタミン、メタンフェタミン塩酸塩の三種が配合される。現在、タイ国内においてはほとんどのものにメタンフェタミン塩酸塩が含まれる。典型的なヤーバーの主な含有成分はメタンフェタミン30%、カフェイン60%、その他10%という構成。
ヤーバーは、配合物などによってさまざまな呼び名があり、ヤーアイスなどもヤーバーの一種である。
形状、大きさ、色彩にはさまざまなものがある。大きさは直径7ミリのものから3ミリのものまである。色彩はオレンジ、水色、紫、ピンク、茶、黄、緑など。刻印は「ฬ」「m」「M」「PG」「R」「WY」、星型、三日月の刻印が打ってあるものがある。
品質は様々でほとんどが経口投与用、もしくは吸入用に製造されている。ラオスからのもので注射器で摂取するものもある。この混合違法薬物はタイでは特にポピュラーなもので、隣国のミャンマーから輸入している。近年は移民のアメリカ住民間で使われており、MDMAに代わるクラブドラッグとして使われることもある。
摘発されるのは 女性で 女性器の中に 隠すという。
つかまっているのを見ると 2,000錠 というから
1錠300バーツならば 60万バーツほどになる。
ちゃーお 187号によれば
ウッタラディット市で 男子が 195錠所持していて逮捕された。
ヤーパーを2000錠 22万バーツで注文。
1月9日
チェンライからのバスに 女子二人が 女性器に 1000錠
づつ 入れているのが捕まった。
山岳民族で リス族21歳 と ラフー族28歳
12月25日
チェンライ県メーチャンで 2人の女子が 女性器に 1000錠
づつ 入れていたので逮捕された。モン族の女子。
第4友好橋 2012年完成
2015年完成と聞いていたが
報道によると ファイサイ大橋 2012年完成とのこと。
大きく変わりますね。
第4友好橋
『第4友好橋で、ラオスとタイが署名
ソムマート公共事業運輸相は第四友好橋建設で、
ソーポンタイ交通相と署名した。
2010年5月14日ラオスとタイとの第4友好橋建設に
関する合意が締結され、
また同日建設請負に関する契約式が
両国担当局とCR 5 –KT JOINT VENTURE
(中铁五局China Railway No.5 Engineering Group Co.,ltd社
(บริษัท ไชน่า เรเวย์ นัมเบอร์ 5)と
タイのクントンエンジニア社Krungthon Engineer Co., Ltd
(บริษัท กรุงธนเอ็นจิเนียร์)とのJV)。
建設総額は16億2400万バーツ、2012年に完成予定。
(2010/5/17 パサソン紙)』
中州 をうまく使って作るのですね。
これで ファイサイの街は 大きく変わりそうです。
第4友好橋
『総額16億バーツ余りの建設費をタイと中国で折半して計画されているのが、メコン河を挟んでタイ側チェンコーンとラオス側ファイサーイを結ぶタイ・ラオス第4友好橋。その橋の建設地であるが、ラオス側はファイサーイの町から約9キロ離れたドーンキーノック村、タイ側はチェンコーンの町から約10キロ離れたシードンチャイ地区ドーンマハワン村と決定した。また、早くも橋の完成後を見通しての中国側の投資も始まっている。タイ側の橋の基点となるシードンチャイ地区では、中国側資本が300部屋を有する8階建てのホテルを建設中となっている。いずれにせよバンコクとラオス、そして中国南部昆明を結ぶR3aハイウエーは、物資や人を運ぶ大動脈になりつつある。』
2011年01月24日
タイの美人
ふーむ。
なるほど・・・
すごいです・・・・
この美人たち みんな ニューハーフ とは。
チェンライから チェンマイの バスに乗りました。
4人組・・・はぁ。とても美人のヒトがいました。
私の前の席に 2人。
私の横の席に 1人。
私の後ろの席に 1人。
その美人が 前の席から 身を乗り出して
私の横のオトコノコのようなものに 話をしだした。
声が オトコだった。
身体の形を変えることができても・・・
声は 変えられないのだと思いました。
3時間ほど 実に不思議なにおいの中に包まれて
身動きできないほど でした。
タイ農業大学 制服
2011年01月21日
FTA 中国タイ
『タクシン首相率いるタイ政府は、アセアン自由貿易圏(AFTA)交渉下での 、タイ・中FTA交渉では時間がかかるとみなし、2003年2月の中国訪問での朱鎔基首相と の会見以来、中国との二国間交渉を公式に開始しました。その結果、アーリーハーベス トのリスト中、例えば果物および野菜は、2003年10月1日以降、貿易関税をゼロとする ことが決められました。
◆ タイ小規模農家の崩壊
タイ農業経済オフィスによると、中国からの野菜・果物輸入自由化の9か月後には、そ の輸入量は180%増加しました。タイへ輸入される主な野菜はニンニク、玉ねぎ、ニン ジン、じゃがいもで、他方、輸出品の90%はタピオカですが、輸入価格が輸出価格をは るかに凌いでいます。
果物に関しても、タイの主な輸入品はりんご、西洋ナシ、ブドウ、オレンジなどで、主 な輸出品は乾燥ロンガン(竜眼)、新鮮なロンガン、ドリアンおよびザボンなどですが 、輸出が78%の成長に過ぎないのに対し、輸入が伸びて、これもタイの142%の赤字 です。中国から輸入された野菜や果物は、タイ産の平均3分の1ほどの価格なので、中 国産の商品がタイの市場に浸透するのも当然です。
2003年10月1日の貿易自由化施行直後に、タイの農業・協同組合省は、中国から圧倒的 安価な農産物が市場に流入したことを理由に、ニンニク、赤玉ねぎ(シャロット)、お よび玉ねぎの作付面積を縮小する計画を発表しました。農業経済オフィスによれば、中 国との市場自由化前は、平均25.64バーツ/kgだった乾燥ニンニクの価格が、自由化後は 18.35バーツ/kgに落ち、2004年には15-16バーツ/kgに低下しました(1バーツ約3円)。
タイのニンニクの作付面積はかつて2万8千ヘクタールありましたが、自由化が始まっ た後、農業・協同組合省による補助金制度もあって、8千ヘクタールに減少しました。 補助金として、農民は、ニンニクの代わりに多年生樹木を植えれば1ライ(0.16ヘ クタール)につき2千バーツ(約6千円)が支払われ、他の野菜に替えれば1ライにつ き500バーツ(約1500円)だけが支払われるとされました。
低価格で生活苦のニンニク農家は、2005年、政府に対し、乾燥ニンニクの価格とし て1キロ30バーツを保証するように請願しました。それに応じて、通商省は県の通商 担当に対し、要求価格を保証するようにとの通達を出しましたが、しかし実際は、20 05年は18バーツだけを保証され、残りの12バーツは次年度にニンニク及び他の作 物(赤玉ねぎ、玉ねぎ、レイシ、ロンガン、タンジェリン)の作付けを放棄したものに 対し支払われるとされました。これでは、農民には将来はありません。
果物に関しても、価格は低迷を続け、果物生産者の状況は今もますます悪くなっていま す。タイ政府は、国内で果物の消費促進キャンペーンなどを行っていますが、その一方 で、市場原理の問題に取り組まず、少数の輸出業者による果物市場の独占を容認してい ます。要するに、タイ政府は、工業とサービスセクターがFTAから利益を得るために、 小規模農民を犠牲にしたのです。』日本の農業機械が・・
日本の農業機械がタイで・・・
『日本の農業機械の販売はピークだった1970年代の年間販売台数は、田植機が約33万台、トラクターが約20万台、コンバインが約17万台だった。一方、農業の機械化が約5年前から進みだしたタイでは2008年時点で年間販売台数はトラクターが約5万台、コンバインが約3,500台、田植機が約250台にとどまっている。しかし、最近は乗用トラクターの売れ行きが順調で、1970年代の日本のような形相を呈してきているようだ。タイの水田面積は約1,020万ヘクタールと日本の約7倍の規模であり、さらに二期作だけに農業機械需要の成長ポテンシャルは高い、と農機メーカー各社は期待している。
タイのトラクター市場は、日本勢が強く、なかでも先陣を切って参入したクボタがシェア7割程度を抑え、首位に立つ。次いで、ヤンマーや井関農機、三菱農機などが競合している。クボタはタイの田植え機のシェアでも90%以上と他社を圧倒している。クボタが出資する現地法人サイアムクボタ社の歴史は古く、1978年7月に設立された。その製品がタイ国内に広く普及したことから、耕耘機の呼び名までがタイでは「クボタ」と普通名詞化しているほどだ。競合する欧米メーカーが文化的背景の異なりから稲作用農機のノウハウを持たないため、日本勢は高い競争力を有し優位性がある。また、日本車同様、高性能で故障が少ない点も、日本製の農機が注目されている理由の1つだ。
近年はクボタや井関農機が農業機械のトラクター販売を伸ばしている。特にクボタは、2005年に5,000台だったタイでのトラクターの販売台数が、その後毎年順調な伸びを見せ、3年後の2008年には、その5倍の25,000台を突破した。現在、日本国内向けのクボタの年間販売台数が25,000台程度のため、タイでは今後それを大きく上回ることになる。その背景には、タイの経済発展に伴って農村部から出稼ぎに来ていた人たちが都市部に定職を持って定住を始めたことから、農村から都市へ農業人口が流出し、農村部の人手不足が深刻化してきていることがある。タイの農業人口は都市化の進展などにより1990年代の2,000万人前後から2004年には1,363万人と大幅に減少している。その人手不足を補うために機械化が加速し、トラクター需要が高まっている。また、タイの農村部から都市に働きに出た若者は実家に仕送りするので地方の農家の所得が増え、農業の担い手が減るのと引き換えに購買力が向上し、農機の需要が生まれている。その結果、タイでは以前は日本の中古乗用トラクターの輸入が多かったが、近年は新品の乗用トラクターの需要が急速に膨らんできており、日系農機メーカーに熱い期待が寄せられている。そのため、日本の農機メーカーも、世界同時不況の影響で日本国内や欧米市場では売り上げ減が避けられないなか、タイなどアジアに活路を見出す計画だ。
タイでのクボタの快進撃の理由は、金融サービスにもある。タイでは金融機能が十分ではなく、潜在需要があっても、新車購入に踏み切れない農家が少なくない。このため、独自の小売り・金融サービス子会社「サイアムクボタリーシング(SKL)」を2006年に設立。収穫時期に応じて支払いスケジュールを組んだり、支払い能力に応じて、金額や期間の設定を柔軟に行えるよう工夫し、自己資金の少ない人でも新車を購入出来るようにした。また、提携先の地元財閥の販売網を生かし、大規模農家向けのシェアを拡大。その結果、トラクターの販売は、すでに日本国内の売り上げに匹敵する市場となっている。さらに、現状ではディーラー社員がカタログで品番を調べて発注しているメンテナンス部品の受発注をITで効率化する受発注システムを2010年にも導入し、ディーラー社員の業務を効率化することで、販売網の強化とIT化を同時に進め、営業基盤を固める。こうした取り組みで、タイでの農機売上高を2013年には1,800億円と、2008年比約2.3倍に伸ばす計画だ。「世界経済の落ち込みの影響は少なく、農機の生産体制強化に追われている」と、クボタの富田哲司専務は、タイで販売攻勢をかける。
こうした状況を踏まえて、クボタは同社の農業機械の最大の消費地であるタイに新工場を完成させ、2009年3月から年間25,000台のトラクターの製造設備が稼働している。(1)自動車産業の拡大に伴い関連協力会社が多数進出しており、部品調達面の優位性があること、(2)工場建設予定地が港湾まで至近で、周辺諸国への展開が容易であること等も、クボタが最終的に同国での生産拠点設立を決定した要因だという。今後のタイ国内市場拡大に伴う販売増のみならず、将来のインド、ベトナムなど周辺国への販売拡大にも備えた供給体制を確立するため、将来的には2倍の年間50,000台への増産を予定している。クボタには農業先進国タイをアジア向けの農業機械の生産・輸出拠点にする構想があり、用途の広いトラクターをタイで生産し、農業の機械化が進むアジア全域での需要を取り込む戦略だ。将来的には、欧米への安価なトラクター輸出も視野に入れているという。2010年3月にはコンバインの現地生産も始める。クボタの益本康男社長は「世界的な経済危機にあって農業機械の需要は落ちていない。タイやインド、ベトナムを中心としたアジア市場はまだまだ拡大できる」と語る。同社では金融危機の影響で売り上げが落ちる欧米分をアジア向けの需要増でカバーしたい考えだ。』
ACFTAの功罪
そのことによって タイと中国は 無関税となった。
ACFTAの功罪
『ASEAN(東南アジア諸国連合)と中国の間で自由貿易協定(FTA)が発効し、人口規模で世界最大の自由貿易圏が誕生した。これにより、タイの消費者や企業は、多くのチャンスに恵まれると同時に脅威にさらされる。
ASEANと中国間のFTA(ACFTA)における域内人口は19億人。この自由貿易圏から主に恩恵を受けるのは消費者で、農家や一部の国内産業は、自国の農産物や製品を保護する輸入関税が撤廃されるため、新たな試練に直面することになる。
対中貿易で関税を撤廃したタイなどのASEAN6カ国にとっては新しい時代が始まった。6カ国の消費者は一様に低価格の恩恵を受けるだろう。
新たな自由貿易圏においては、商品の多様性が増す一方、生産者の分業化や専門化によって商品の価格は下がっていく。
タイ通商代表部のキアット・シティアモン代表は、「タイの消費者はゼロ関税によって間違いなくACFTAの恩恵に預かるだろう。しかし、タイの国内産業は輸入製品との激しい競争にさらされる」とし、「(AFTAが発足した)1993年以降、電子機器や電化製品、衣料品や繊維、自動車といった産業は、(その新たな時代に生き残るため)様々な適応策を講じてきた。(競争力という点から言えば)最も努力してきたのは自動車産業だが、その他の一部の輸入産業はこの先も打撃を受けるだろう」と分析する。輸入農産物の影響を受けた好例はニンニクだ。数年前、中国産の安価なニンニクがタイ市場に大量に入ってきたことで、タイのニンニク畑は減少。その結果、市場に出回る国産ニンニクが激減し、市場価格は高騰した。一方、中国産ニンニクは食感や味の違いからタイ市場ではあまり売れないことが分かってきた。
つまり、タイ産のニンニクは少量ながら高値で取引されるようになり、結果的に中国産に対して競争力を持ったのだ。』中国ではニンニクが 投機の対象となり 高値を維持している。
チャンスは そんなところにもおとづれる。
タイの農業者の減少
古いニュース(2008年3月)であるが…
『タイ農業従事者、10年で15−20%減少
タイ国内の農業従事者が全人口あたり10年前の55−60%から、
現在40%まで落ちてきていることを明らかにした。
現在(2008年)の農業従事者は約2520万人で
今後も2013年まで減少が続く見通し。
農業従事者への保護政策が十分ではないことから、
先行き不透明な農業ではなく、第二次産業、第三次産業に
仕事を変える人が増えている。
今後も2013年には全人口の37%まで減少すると予想されており、
食料自給率の低下には危機感を持っていると述べた。』
なるほどねぇ。
2011年01月19日
宗教が生活に融けこむ
よくつかめない。
それは日本人である私にとって 宗教と信仰 というものが
どんなものであるのか と自問しても 明確な回答はない。
少なくとも 青年時代は 無神論者 であった。
カールマルクスの
『宗教はアヘンである』という言葉が すんなりと
身体の中にはいった。
しかし、形式としての仏教は 生活の中で
当たり前のように とりはからうことに 抵抗もなかった。
私は 初詣 が好きで 日本にいた時には
かかさなかった。当然のような顔をして拝んだ。
よく考えれば キリスト教が 一神教で
日本人は 八百万の神 を信じているという
対置のようなものがあった。
私は 無神論者よりも 万物に神が宿る
という考えの方が 自然と受け入れられるような気がしていた。
照葉樹林文化 というものがはぐくんだ 八百万の神。
自然に接していると そのほうが アタマも身体も
何となく受け入れられるのである。
でも 一神教というのは キリストだけ・・・
という単純なものではなく 「聖書」という 信仰のための
マニュアルが あることが 宗教心を つちかううえで
重要じゃないか と思った。
それに引き替え 仏教には そのようなマニュアルが
存在しない。
もともと 宗教 というものを 理解する機会を
持ちえていない 日本人は 確固とした主義による
無神論者ではなく 宗教について 知らない もしくは
無関心 という ことが 大きなことかもしれない。
オウム真理教に 傾斜していったのは 心の救済であり、
その心の救済に 悪しきリーダーが 導きいれた世界だった。
宗教と信仰の空白に グルが 悪しき色を塗ったということだろう。
私は なぜ寺院を回るのか?という自問に
まだよく何らかの回答を 見いだせないが
タイの寺院を めぐっている。
僧侶たちが 仏教的な生活を
タイではまじかに見ることができ
托鉢という行為も いまだに続けられている。
よく考えたら 日本では 僧侶が托鉢してあるく
という行為は見たことがない。
タイ人にとって 信仰は 寺院である。
ワットロンクンを みて 私は 鳥肌が立つような 感じを受けたが
それは 仏教画を描いている チャルーンチャイのプロデュース
ということにも おどろいた。
タイでは 自分勝手に 寺院を建設できるのだろうか?
タイのヒトは 寺院 の仏像があれば 熱心に参拝する。
それは どんな若い人でも 同じように 敬虔に参拝する。
チェンライのメンライ王の像にも 参拝していた。
いたるところで 参拝するのが当然だと言うように参拝する。
日本の奈良や京都の神社や寺を見学し 手を合わせる
というものと比べれば タイの宗教的な敬虔さはちがう。
それは タイ人が お墓を持たない ということも
一つの宗教生活となっている。
先祖を崇拝する というものがないようだ。
宗教が 生活の中に寄り添って生きているのが
タイなのだろう。
メコン河
メコン河のほとり
感じ方が こうも違うのか と思う。
私が 好きになった 場所が メコン河のほとりだ。
揚子江というか 長江を見た時 雄大だとは
想いもしたが 河の水が汚れている と思った。
でも なぜかメコン河は ちょっと違う。
日本の川 は透明感があふれ
何故かせせらぎの音も おしゃれである。
メコン河は 土と一緒に流れているので
河の色は 水色とは言い難く 泥色だ。
よく考えれば 川の水が透明なのがおかしいのかもしれない。
そして そんな泥水の中でも 魚たちが泳いでいる。
泥水が 蜿蜒と流れているのだが
その蜿蜒が 滔々 という言葉に変わる。
メコン河は瀾滄江であり 中国を通ってきたものだが
工業化されていない地帯を通ってきているとおもうのか
長江の長い道のりでの工場排水と畜産排水の想いが
アタマの中で駆けめぐり 重金属汚染された水
とか 窒素過多の水 と考えてしまうので
汚いというか 汚れている と思うのだろう。
また 中国人は 汚すことに関して
天才的な器量を発揮する。
一番の象徴が トイレである。
タイは どんな田舎に行っても トイレがきれいだ。
それが一番の 違いと感じる。
自然に抱かれているというイメージや雰囲気
自然というものの癒す力を メコン河に感じる。
母なる河 と言ってもよさそうだ。
そして 河の持つ なにもないという
チカラ強さ。軽やかさ。
河のほとりに いるだけで なぜか 気持ちがいいのだ。
ファイサイの河のほとりで・・・なぜか 至福にしたることが
できるのは 不思議だ。
この風景に 何とも言えず 時間が過ぎていく。
2011年01月17日
チェンマイへの提案
もっと 公共バスの 有効利用がないのかな
と思ってしまう。
観光でチェンマイが生きていくとしたら
移動手段を 何とかせい といいたい。
たとえば 低速でもいい 城壁を 外まわりする道路と
城壁を 内回りする 道路に 電気自動車を配置して
ぐるぐる回らせればいい。
1回乗ったら 10バーツ ホントは 5バーツでもいい。
中国雲南 昆明の公共バスは 初乗りが 1元で
市内の大体のところに行ける。中国 1元は5バーツだ。
そのクルクル回る 電気自動車で
市内の周辺を山手線みたいにすれば・・・
実に楽だ。
いちいち 赤バス ソンテウに 行き先を告げて
行ける のよりも 外国人が 使いやすいだろうに。
できたら ちんちん路面電車 を つくってもいい。
そうすれば だいたいのところに いけるじゃないか。
チェンマイ市 はもっと ヒトの移動手段を
合理的効率的に 考えてもいいのじゃないですか?
乞食ビジネスと僧侶
コジキビジネスもあるという。
身体的な障害を持ったもの
子供たち
老人 たちが コジキビジネスの スタッフである。
同情を買いながら 賽銭をめぐんでもらう。
昆明では 圓通寺 の物日に そのコジキが
いっぱい集まる。
コジキビジネスのメインエベントのような気がする。
タイにも 確かに コジキがいるが
それを防いでいるのが 坊さん という。
飯が食べることができなければ
坊主になれば 食べていける というのは
実にタイ的でいい。
坊さんが 30万人いると言うが 実際はもっといるだろう。
寺院で学校もあるので 小さな子供が 坊主になっても
教育を受けることができる。
坊主の托鉢にたいして 人々が 寄与する
という構図は コジキビジネスよりも はるかに
社会システムとして 評価できる。
ヒトに与える という贈与の仕組みが
僧侶および僧侶見習い に与える ということで
功徳を受けることができる・・・
というのは コジキに賽銭やるよりも
はるかに気高いが どうも 自分への因果応報を
願っているのが ちょっとさもしい。
なぜ寺院めぐりをするのか?
その理由は なぜこんなに沢山の寺院があるのだろう?
という素朴な疑問から始まった。
この沢山の寺院が 一体何によって 支えられているのか
歴史的 経済的 文化的な背景を 知りたいと思った。
まず最初に 旅行会社に頼み タイ人の日本語ガイドさんを
つけてもらって 半日づつ 2日間 寺院を巡った。
彼は 30代後半の青年で
顔の色は浅黒いが 凛々しい顔立ちをしていた。
目元が爽やかだった。
彼はチェンマイの教育大学を出て その後 2年間兵役につき
僧侶として 5年間修業したという
不思議な経歴を持つ人だった。
ニンゲン的にも魅力のある人で 私の質問にも丁寧に
答えてくれた・・・実に 濃密な時間を過ごした感じがある。
ワットプラシン ワットチェディルアン ワットチェンマン
と ワットドイステープ を見て回った。
そのなかで 私の中にある日本の仏教のイメージと
かなり違うことが わかった。
釈迦の転生の話
髪の毛で洪水をおこす女神・・・このことをもっと知りたい。
ランナータイの王朝というか王様に支えられている寺院
メンライ王 ラムカマヘーン王 など チェンマイを建都した
王であるが・・・あまり詳しくは 知られていないようだ。
銅像があって 祈りの対象にもなっているが・・
1292年 メンライ王が チェンマイに王国を樹立した時
日本では 足利幕府 のころだった。
そのころ タイでは レンガを焼き 城を作り 寺院を作った。
日本では レンガではなく 石を組み立てて 城を作ったのだが・・・
そういえば 日本の城は いつからよく作られるように
なったのだろう・・・。
いずれにしても ランナータイ王朝では 武力と宗教が
かみ合いながら 権力を掌握していった。
武力だけでは 人心をつかめなかったともいえそうだ。
タイは いたるところに 池や川があり 噴水がある。
最近になっても チェンマイのナイトバザール周辺が
洪水に見舞われたと言うが タイは『洪水』の多い国だ。
この国は 洪水をどう防ぐかが・・・
国王の大きな役目だったかもしれない。
チェンマイの城の周りに 堀を つくったのも
治水のために考案された…と思う。
ワットチェディルアンが 1545年に 大きな地震で 倒壊した
というのも興味がある。地震がある。
タイ北部には 多くの温泉もある。
そうやって 王様によってつくられた寺院を
朝からの散歩の日課として 歩くようになった。
いくつかの寺院をまわり インターネットで調べるが
情報が不確かなものが多く 間違った情報もあり・・・
混乱しながら このブログで 整理を始めている。
だいぶ 整理できてきたように思える。
ゴールデントライアングルで しりあった タイの政府のヒトと
ランナータイ王朝のことを話し合うことができ
日本の仏教とかなり違いことも意見交換できた。
彼は 日本に5回も行き 奈良・京都に行っている。
奈良の大仏には 感激したと言う。
話は戻るが タイの文化の基層は ランナータイ王朝の
頃だと思う・・仏教文化が 隆盛して 寺院の建築技術
彫刻 仏像製造技術 などの
総合的な技術発展があったと考えられる。
銅精錬技術を上げるのは 仏像がいいし・・・
それが武器製造技術にもつながるはずだ。
水晶仏像や大理石仏像も 工芸品を作る上での
大きな技術の発展につながる・・・と思う。
大きな堂は おおきなチーク材で柱が作られ
模様も芸術的だ。壁画も 意味のある 芸術に発展する。
チェンマイのレンガの城壁は ムラカミハルキの
世界のワンダーランドを 想起させられる。
四角く壁に囲まれた街に いたるところに寺院がある
というのは 物語が生まれそうな気もする。
日本の老人たちがチェンマイには多いが
寺院ではあまり見かけない。
彼らは ゴルフ場や カラオケ屋にでも行っているのだろう。
アメリカ人やフランス人が多く・・・・
欧米の若い人たちが このオリエンタルな国の中に
不思議を感じて 寺院をめぐっているのだろう。
一神教のキリスト教から見ると 多様な仏像が
そして高名な僧侶の仏像などに・・・
神秘性を感じるかもしれない。
十字架に貼り付けられたおじさんよりも
おだやかに微笑んで座っているおじさんのほうが
悟り という点では 勝っているに違いない。
チェンマイの寺院では
ワットチェディルアン ワットロックモーリーと
ワットジェットヨート が風格があって 好きな寺院だ。
寺院は キンキラキンになっていて・・・
権力者の加護による というのが みえみえで
どうも じっとして落ち着いておられない
居心地の悪さを感じてならない。
悠久さや永遠性がない。
仏像も 表情に品性がなく 慈愛も感じることができる
仏像がすくない・・・
ロウ人形の技術には驚かされるが・・・
高僧がロウ人形にかなって飾られるのも
なぜか 居心地の悪さを感じる。
そんな形で残すべきではない といいたい。
とりわけ ワットドイステープのキンキラキン趣味は
何とかならんか・・・
その成金趣味に 腹立たしくもなる。
余計なおせっかいであるが
タイ人の美的センスが もっと健やかに育ってほしい。
中国人には好みかもしれないが…
さて なぜ寺院めぐりをするのか?
その答えを探るためにも もっと 寺院を見ることにしよう。
見ることなくして 語っても 意味がない。
自分で感じたまま旅をする
画像があるので もっと したいのだが・・・
しかし、もっと 旅の中で考えたことを
書いていかないと 意味がないような気もする。
はい、これを見てきました。
という 小学校の 絵日記のようなものだ。
確かに 旅行の画像を上げるウェブサイトもあるが
なんか 疑似旅行 をさせるために
意味があるかもしれない。
画像だけで 伝わるものも多いことは確かだ。
ただそれは カメラ旅行であって カメラが
旅行しているに過ぎない。
ニンゲンが旅行しているには
どこまで言葉で表現するかが ポイントとなる。
旅行記とは そういうものだが…
最近 あまりいい旅行記に合わないのは
旅が簡単になり へき地や辺境もなくなって
日本人が行かないところはない 時代になっている。
珍しいとか 秘境とかいうレベルは越えて
危険やリスクもあまりない 簡単な旅行ができることが
旅行の持つワクワク感を 減らしてしまうのである。
私は なるべくならば 事前にあまりに調べもせず
その場で感じたことで判断して 行動する方が
楽しい。マニュアル化された旅行やパッケージ化された
旅行は楽しくない。
世界の歩き方 などという本を持って 歩いているヒトが
いるが なんか 情けなくなる・・・
もっと自分で感じたままで 動いて
自分の印象に残ったところを
残していけばいいのである。
そして それから その地域に 一体何があるのか?
インターネットで調べて なるほど そういうところもあったのか
と感心すれば 自分でまた違った 旅行が
ヴァーチャルにできるわけだ。
そういう楽しみが 続いていくことが何よりも たのしい。
旅行とは 自分の感性で 構成されるものだ。
そうしたら ブログにもっと感じたままが
表現されないと 意味がないのですね。
ちょっと 反省をしているのである。
Chalermchai Kositpipat
1997年から 建設され始めたという。
そして それを作っているのが
チェンライ出身の仏教神話を 書いている
Chalermchai Kositpipat(チャルーンチャイ)というヒトである。
入口に 変な写真が飾られているので
それは タイで有名な コメディアンか 俳優だと思った。
ふーむ。様相は コメディアン風だ。
こんなような絵を描いている ひとらしい。
こんな絵も描いたりする・・・。
ふーむ。面影はありますね。
1955年2月15日 チェンライ 生まれ
シノタイの家族に生まれる。
Silpakorn University を卒業
ワットロンクン
これは 画像を見るなら 見に行った方がいい。
寺院で これだけの 完成度があるのは 他にない。
噴水が 彩りを そえる。
うまいねぇ。
入口に 象牙のオブジェ。
水 噴水 そして 白の中に溶けていく・・・
装飾を 白で統一すると ちがうねぇ。
ヒトの大きさからも 大きいことがわかる。
荘厳たる ワットロンクン。
仏塔は 現在制作中。
横から見た ワットロンクン。
本堂の中は 撮影禁止。
御本尊 は 落ち着きのある 品のいいもの。
でも 壁絵 が少し変わっていた…
一生懸命書いている のであるが・・・
スパイダーマンや ドラエモン が書かれていた。
どうなることやら…
ワットロンクンの画像は ここ がいい。
うまいなぁ。撮影技術が・・・。
チェンライ ワットロンクン
チェンマイの方向に向かったところに
ワットロンクン がある。
これは 写真で見ただけど
どうしても行きたいところだった。
チェンライについて 日曜日なので
チェンマイ行のバスは 満員で 17:30に
しかキップがとらなかった。
時間は それまで5時間もあった・・・
とりあえず 昼ご飯を食べて・・・から
考えて やっぱり ワットロンクンに行きたいとおもった。
でも 街から離れているので
どうやってワットロンクンに 行くのか
わからなかった。
バスセンターの案内所・・・ここの女のヒトは実に親切。
八番のバスに乗って・・・行けば 20kmのところ。
というので・・・バスがいたので のった。
運転手は若い青年で 元気よく 客を呼び込んでいた。
ジーンズは 破れジーンズで
若い乗客は知り合いが多かった。
呼び込みが勇ましく・・・2時出発 という時には
私を含めて3人しかいなかった。
結局 30分ほどで 満席となり 出発。
おんぼろバスで 今までの経験だと 20kmは
小1時間ほど かかる。
それで 心配したら ワットロンクンには 3時過ぎについた。
1号線を まっすぐ南下していくだけなので・・・
渋滞もなく・・・途中いくつかのバスストップに停まったが
ワットロンクンに到着。降りる人は私一人だった。
バス代金は 20バーツとられた・・・ちょっと高め?
道路の角には 国王様が おられた。
想像を超えて 素晴らしい作り・・・ワットロンクン。
雪が降ったような 寺院。
熱い国の タイ 北部は 寒いので 有名であるが・・・
城は つめたさとあわせて 清涼さもある。
池の 水とのバランスも良い・・・ワットロンクン。
気品がある。言葉が見つけることができない。
オブジェは 芸術的でもある。
水に うつった ワットロンクン。
池に かわれている サカナが 白ばかりなのには驚いた。
徹頭徹尾なのだ。
本堂に向かう・・・
ナーガのウロコが・・・
しかし そのナーガ像が・・・
ナーガ像は 現代的な 武者。
迫力がある・・・そのうえ 白いので 不気味だ。
しかし 驚いたのは その前にある 池にある オブジェ。
驚いた・・・この ワットロンクンは 哲学があるようにも見えた。
割れ目から 手が たくさん伸びている。
それが なにかを求めるように・・・・
このツボの中に お賽銭が入れられていた。
なんだろう イメージは 白い地獄から伸びている 手。
いやはや。
ちょっと 感動しましたね。
このシチュエーション・・・
現在的な アプローチ。
ワットロンクンの伝えるメッセージは。
ちょっと トリハダモノ でした。
ミヤンマー タチレク雑感
寺院を 3つまわって それぞれの画像を ブログアップした。
バザールみたいなものがあるが なにか
ごみが並んでいると思うばかりで 買う気もしない。
もう 土産なんぞ要らないのだ・・・
そうすると その土地の文化に接したほうがよい。
本当は 食生活が一番いいのだが…時間がなくて
今回は ミヤンマー料理を食べることができなかったのが
残念である。
そういえば 市場に行けばよかった。
私は 市場が好きだ。そこにあるさまざまな食の素材が
奔放に並べられているのが楽しく ワクワクする。
市場に行かなかったのも 残念だ。
市場で 物価が ある程度分かる。
言葉が通じたらの話であるが・・・
確かに 2時間であれば その所の表層的な部分しか
味わうことしかができないが その場に立ち上がる
雰囲気を感じることができる。
それにしても 今回は 歩いていると
日本人という言葉をよく投げかけられた。
私はあまり日本人にみられず 韓国人やベトナム人
に見られるのであるが・・・。
タチレクの街の風景として 女子たちが 民族衣装的な
スカートをはいているのが 印象的だった。
タイでは もう民族衣装などは あまりつけていない。
それに 顔に 土のようなものを塗っている。
日焼け止めなのかな・・・若い子も 子供たちも。
あれをなんていうのだろう・・・
それを調べたいな。
自転車 バイクが主流で それを直す 修理屋さん
が 街に多かった。
ふむ。修理するって どこまでできるかわからないが・・・
寺院が 予想外にひっそりしていた。
タイは 地域に支えられているのが よくわかるが
ミヤンマーは そうではない感じがする。
あくまでも 感じであるが・・・。
パゴダは 聖なる場所で 履物を脱ぐのが・・・
やっぱり すごいなぁ。
ミヤンマーでも 携帯が発達していて 若い子たちも
携帯を持っていた。コミュニケーションの仕方が
貧しい国だから ということではなく 世界的に
携帯電話が普及する 時代なんですね。
バイクタクシーはオレンジ色の服を着ていて
番号がおおきくプリントされているので・・・
わかりやすい。一人で旅するには 狭い範囲なので
バイクタクシーで十分である。
クルマも あまり走っていない感じだ。
ミヤンマー タチレクで 感じたことはそんなことだ。
パコダの少年
多くは 頬に 黄色い土のようなものをぬっている。
ポーズを とってもらった・・・
ハイチーズにあたる言葉が わからないので 笑顔なし。
目鼻立ちのしっかりした コドモ だった。
眼が とても澄んでいる・・・
この少年 と別れ・・・
イミグレーションに戻ることとする。
路上の屋台で 食事するヒトタチ
バイクが 3人乗りなのは タイともあまり変わらない・・・
しかし、タイよりも のどかである。
バイクタクシーに乗って イミグレーションまで 20バーツ。
ミヤンマーのイミグレーションに行って パスポートを
受け取り タイに入国し 15日間の観光ビザをもらう。
チェンコーンも メイサイも 日本人の観光ビザは
現在 15日しか認められていない。
以前は 30日だったが・・・
パゴダ つづき
このパゴダには 面白いものが多かった。
門が 塔の重層式 になっている。
これが ミヤンマー様式なんでしょうね。
ちいさな 祠 があった。
ちょっと 上むいているのである。
Township Dhammayon Tachilek にもあった。
やはり天を見上げて 傾いている・・・
雨乞いをしているのか?
流星群を見ているのか?
それとも スーパーマンだ といっているのだろうか?
首がずいぶん 疲れるだろうに。
もう一つ不思議な 御釈迦さんがいた。
オンナのヒトが 祈っているのであるが
御釈迦さんは ハスの花を持って
スーパーマンのように 足と腕で 身体を支えている。
なにか いわれがあるだろうに・・・
ずいぶんと体力のいる 献花のこと・・・
ひょっとして いまはやりの フラワーバレンタイン?
釈迦に続く 托鉢行列も 初めて見る。
表情が 一緒なので 怖い気もする・・・
パゴダに向かうと 不思議な構図が・・・
下には スーパーマンになった 御釈迦様がいて・・・
パゴタ にむかって 歩いている 托鉢の行列。
ソンテウ
ソンテウとは ウィキペディアによれば・・・
『ソンテウ(タイ語: สองแถว, songthaew)とは、
タイ国内で広く普及している、
小型トラックの荷台を改造した乗り合いバスの名称。
バンコクを除くほとんどの都市と
その周辺の農村地帯で運行されている。
ソンテウとはタイ語で「2列」を意味する。
これは、ソンテウの客席がトラックの荷台部分に
向かい合わせで配置されており、2列になっているためである。
ソンテウの運行形式は主に2種類あり、
路線バスのように決められたルートを往復するものと、
タクシーのように客の指示する目的地に向かうものがある。
バス式ソンテウは主に地方都市と
その周辺の農村部を結ぶ役割を果たしており、
全国に路線網が張り巡らされている。
タクシー式ソンテウはチエンマイなど一定の規模を持つ地方都市に
見られ、市内の移動に利用されている。
いずれも一般庶民のもっとも日常的な交通手段として使われており、
料金も安価である。』
チェンマイ市内では 事前に決めたりするが
タイ人の中では 20バーツとされている。
行き場所をきちんと言えると 20バーツですむ。
ヒトがのっているので・・・どうも なかなか 20バーツで
言えないと気がある。
タイの中にある 外国人価格 というもので
トクトクは 最初から 外国人価格ともいえる。
ミヤンマー タチレクの ソンテウ。
なぜか 中国語が・・・
メイサイ タチレク リンク
いろいろな人が ブログを書いているので・・・
リンクしてみよう・・・
アジアを旅しよう 2号館
2008年12月12日 ミヤンマーのタチレク情報
チェンライ、メイサイ及び ゴールデントライアングル
国境の町 メーサイ
ミヤンマーにようこそ
チェンライから 約60kmのところに メイサイ タチレクがある。
ミヤンマー タチレク
ミヤンマーとタイとは時差が 30分。小刻みである。
アジアを旅して 全力旅行記 タチレク イミグレーション
タイ最北の町 メーサイ
3D Buddha, Township Dhammayon, Tachileik, Myanmar
たしかに 3D といえば 3Dですね。
掘り込んで浮かび上がらせるという技術がすごい。
Visit to Myanmar
このページの画像は うまくとってある。