農民にできるだけの利益を黒を詠む(9)

2009年03月08日

戦争が遺したもの・・・第二芸術

「戦争が遺したもの」・・・の対談の中で

2日目の夜の食事のときに 俳句について話題となる。
上野千鶴子が 俳句集を出している ということを知らなかった。
鶴見俊輔は 上野千鶴子の俳句集「黄金郷」を高く評価する。

桑原武夫の敗戦直後の俳句について 「第二芸術」といったことに対して
小熊英二は鶴見俊輔に質問する。
桑原武夫は鶴見俊輔を拾ってくれたヒト 恩師である。

小熊英二はいう
『戦争中の金属供出運動に鮮やかにスローガン俳句を提供した俳人が
 戦後もやはり俳句のボスをやっている。
俳句というのはそういう前近代的なジャンルなのだと。
あれは 鶴見さんはどう評価なさいますか。』
という質問に対して

鶴見俊輔はいう
『桑原さんは 俳壇のことを批判するかたちで、日本社会の権威主義を批判したんですよ。
 芭蕉なんかくだらないとか、そういうことは言っていないんだ。』という

『第2芸術論』の桑原武夫の視点を確実につかまえている鶴見俊輔が面白い。

上野千鶴子は言う
『俳句で戦争協力はできないですよ。短歌のほうがやりやすいと思う。俳句はシニシズムを含んでいますから。シニシズムで戦争に参加できません。・・・俳句は陶酔もできないような詩型ですから戦争を煽れません。・・・文体と記述という問題を考えていくと、極限まで切りつめた表現の領域になれば、何を指示対象にしているのかが問題でなくなる。文体それ自体が自立してしまうんです。俳句なんてそういうものなんです。「言葉はモノである」と思わざるをえなくなります。』

それに対して小熊英二はいう
『桑原さんの「俳句=第二芸術」論というのは、まさに俳句というのは思想や内容が関係ない表現様式であって、だから思想的には簡単に転向できるのだ。という話ですよ。』

そのことに対して 上野千鶴子は反論しなかったが
上野千鶴子の思っている俳句論は 実際俳句を詠むものが感じることであり、
小熊英二は 俳句を外から見ているから 違う評価ができるのだろう。
私は 上野千鶴子の俳句の評価が 面白い。
意外な、側面が ポロリと出た 対談ならではのできごと。

この対談には そのような話が満載である。

(補遺)
『シニシズム【cynicism】
(1) キニク学派(キュニコス派)の主張。現世に対して逃避的・嘲笑的な態度をとる。犬儒学派。シニスム。
(2) 社会風習や道徳・理念などを冷笑・無視する生活態度をさす。犬儒主義。冷笑主義。シニスム。 (新辞林より)

シニシズムとは「本当はそれが嘘であることを知っている。 しかしだからこそ、彼らはそれを信じるふりを止められない」という姿勢
(スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』p298〜299)』

(補遺2)桑原武夫の第二芸術 昭和21年9月雑誌「世界」

桑原武夫は言う
『日本の明治以来の小説がつまらない理由の一つは、作家の思想的社会的無自覚にあって、そうした安易な創作態度の有力なモデルとして俳諧があるだろうことは、すでに書き、また話した』

この最初の言葉が 一番重要なポイントといえそうだ。
思想的社会的無自覚・・・ということだ。

桑原武夫は言う
『わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものでは、もとよりないが、作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというものでなければ芸術の意味はない。現代俳句の芸術としてのこうした弱点をはっきり示す事実は、現代俳人の作品の鑑賞あるいは解釈というような文章や書物が、俳人が自己の句を解説したものをも含めて、はなはだ多く存在するという現象である。風俗や語法を異にする古い時代の作品についてなら、こういう手引きの必要も考えられぬことはないが、同じ時代に生きる同国人に対してこういうものが必要とされるということは、そして詩のパラフレーズという最も非芸術的な手段が取られているということは、よほど奇妙なことといわねばならない』

さらに続けて桑原武夫は言う
『こういうことを言うと、お前は作句の経験がないからだという人がきっとある。そして『俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである』という(水原秋桜子「黄蜂」二号)。ところで私は、こういう言葉が俳壇でもっとも誠実と思われる人の口からもれざるを得ぬというところに、むしろ俳句の近代芸術としての命脈を見るものである」「十分近代化しているとは思えぬ日本の小説家のうちにすら、『小説のことは小説を書いて見なければわからなぬ』などといった者はいない。ロダンは彫刻のことは自分で作ってから言えなどとはいわなかったのである。映画を二三十本作ってから『カサブランカ』を批評せよなどといわれては、たまったものではない。しかし、俳句に限っては、『何の苦労もせずして、苦労している他人に忠告がましい顔をして物を言うことはないと思う』(秋桜子、同上)というような言葉が書かれうるのは、俳句というものが、同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事だということをよく示している』

ふーむ。
俳句の形式を十分に楽しむには
誰でもできるので、自分でつくってから言え というのだろう。
小説や彫刻はそう簡単にできない。
俳句の楽しみ方は 簡便なのである。

桑原武夫は 非常に巧みな方法を使う。
著名な俳人と無名な俳人の句を 15句あげて、
どれがよい俳句なのかを問う。

これは明らかに ルール違反である。
つまり 松尾芭蕉の作る俳句が すべて受けいれられると言うわけではない
よい俳句と限らない。うけとるひとによって、違い 
よい句は 時代の流れとともに変化していく。
その時代のながれていく風雪にも生き残るものもある。

芭蕉だって、自分にとって会心の句もあれば 難渋の句もある。
よい俳句の基準を どうつくり、判断するのか?
そのことが難しいのは 言うまでもない。

その当時の俳人たちは 桑原武夫の手法に 衝撃を受けた。
つまり、俳壇のボスが いいといったものが言いとされる体質を
批判したのであるが・・
そして、ボスの社会的思想背景を問題にしたのであるが・・・
15句の選抜方法がどこにあるのだ に目を奪われてしまった。

芸術に 第一芸術も 第二芸術もあるわけない。
しかし、それを詠むことによる姿勢が ちょっとおかしいぞ?
といういみで 第二芸術といわれれば・・・毅然と立ち向かうことは
ありうる話で・・・。
小説も含めて桑原武夫は論じていて 俳句はモデルとしている。
俳句そのものが 第二芸術ではないことが確かだ。
というより 桑原武夫のお墨付きがいる わけでもない。

(補遺 3)参考
「俳句第二芸術論再考」 向井未来
「遥かなり第二芸術」 田沼文雄
「第二芸術再読」夢幻と勇源

「第二芸術論について」坂口安吾


坂口安吾は言う
『第一芸術、第二芸術、あたりまへの考へ方から、見当のつきかねる分類で、一流の作品とか二流の芸術品とかいふ出来栄えの上のことなら分るが、芸術に第一とか第二とかいふ、便利な、いかにも有りさうな言葉のやうだが、実際そんな分類のなりたつわけが分らない言葉のやうに思はれる。むろん、俳句も短歌も芸術だ。きまつてるぢやないか。芭蕉の作品は芸術だ。蕪村の作品も芸術だ。啄木も人麿も芸術だ。第一も第二もありやせぬ。俳句も短歌も詩なのである。詩の一つの形式なのである。』


touxia at 07:45│Comments(0)TrackBack(0) 戦争 | 詩 短歌 俳句

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