鐵羅漢玄龍の神社仏閣参拝

幼少から神佛を崇敬し屡々、御神氣を感ずること夢告を受けること多く、不可思議この上無い

DSCN6433_1【ご本尊】不動明王

【ご縁起】江戸時代の初め、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸庶民の間で高まった。これを受けて、元禄16年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳」(現代風にいえば「秘仏特別公開」)が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりである。江戸における成田不動の出開帳は安政3年(1856年)まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となった。
DSCN6434 永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となり、旧境内は深川公園となった。しかし不動尊信仰は止むことがなく、1878年(明治11年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められた。境内地は、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することが認められたものである。1881年(明治14年)に本堂が完成。その後本堂は関東大震災・東京大空襲と2度にわたって焼失したが、本尊は役僧たちが命がけで運び出したことにより焼失を免れた。永代寺は門前にあった塔頭・吉祥院が1896年(明治29年)に再興され、名跡を継いだ。なお、地名「門前仲町」は「永代寺の門前町」という意味である。
今日はお不動様の御縁日だった。

久しぶりに(10年ぶりか?)富岡八幡宮に参拝。深川全体がお祭りで盛り上がっていた。活気が戻って善かった。
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【ご本尊】歓喜天

【ご縁起】1624年(寛永元年)、長盛の開山により永代島に創建された。江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄え、深川一帯でも指折りの広大な寺院であった。明治初年の神仏分離により廃寺となり[1]、跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになった。その後、1896年(明治29年)に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたのが現在の永代寺である。当地の地名・門前仲町はこの旧永代寺の門前という事で名付けられた。
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寒川神社に参拝。
明日夜に催される相模薪能の舞台設営で、拝殿近くまで寄れず残念。
また9月上旬まで、客殿(御祈祷申込所)1階の改修工事中だった。
お御籤は末吉。
神嶽山神苑の手水に「右まんじ」を見つけた、ヒンドゥーの影響であろうか?
20260814相模薪能の設営DSCN6413DSCN6421DSCN6423DSCN6422

DSCN6404DSCN6405土曜の丑の日に大熊町杉山神社に参拝。
一転俄かに掻き曇り、激しい雨となったが、予報より早いが禊の雨か…。
ワテも日本酒を奉じたが、持ち帰った。

DSCN6394【ご祭神】天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 天照大御神 豊受大神 倭姫大神
国常立尊 大国主命 少彦名命 鐃速日命
底筒男命 中筒男命 表筒男命 伊久魂大神
水天宮大神 正一位稲荷大神 菅原大神

【ご由緒】明治15年5月15日に大中臣家の65代の後裔で伊勢神宮の(筆頭)禰宜であった芳村正秉(まさもち)が、「神社の神官は人を教え導いてはならない」という方向に政府方針を変更したことに危機感を抱きました。
 神代より脈々と受け継がれる古式神道を蘇らせるためお祭りだけを行う神社でなく、御祭儀もしながら人々に対する布教をもしっかりとできるように明治天皇より勅許を得て、教派神道十三派の一派を立てました。
 名称は伊勢神宮の禰宜時代に倭姫命神託によって授かった「神習いの教」としました。
 以来、当宮は古式神道を受け継ぐ大神の宮として、また教えの本山として親しまれています。
社殿は明治16年東京市神田に創建。明治後期には「病気治し」「火伏せ」の神徳があると多数の人が参詣しました。
 また外務省の紹介により多くの外国人が参詣に訪れ、鎮火式(火渡り)や探湯式(熱湯を浴びる)の神事に参加しています。
大正8年に「西の方角へ直ちに移転せよ」との神託により現在地である世田谷に移転しました。神田界隈の関東大震災による被害は大きなものでしたが、この移転により災害から免れることができました。
 また、第二次大戦時も無事戦災から免れ、「災難よけ」でも崇敬を受けております。
本殿に向かって右手に小祠あり、南面はその昔、御神田ではなかったか…、そんな印象を受けた。
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DSCN6393梅雨は未だ正式には開けていないようだが、暑くなってきよった。そこで鶴見總持寺に参拝。
ふと「旧成願寺跡地」という石碑を発見。
大本山總持寺が明治31 年4 月13 日の火災全焼を機に、当地へ移転を企画し、明治40 年に実現されました。その際、成願寺が境内及び所有地の大半を寄附してその達成となり、比地は旧成願寺の中央となっております。
また、この度、御本山のご厚意により、旧跡地碑の建設をいただきました。
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【ご祭神】鶴ケ峯稲荷大神
【ご由緒】1950年(昭和25年)に、横浜中央卸売市場(伏見市場稲荷大神)より勧請。
現在、MLB(Major League Baseball)で大活躍の大谷翔平選手のお母様の実家に近いそうで、子供の頃、大谷翔平選手がお参りしていたという噂がある。
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DSCN6367【ご祭神】宇迦之御魂命(倉稲魂命) 三峯山神社大神 菅原道真公
【ご由緒】当神社の創建は不詳であるが、弘化三年二月当時上草柳村であった当地の氏神熊野神社が御祭神を勧遷した祭熊野神社の 鬼門除けとしてこの地に桜木を植樹して稲荷社を奉斉し五穀蚕繭豊穣を祈願したと古老が伝えている 更に嘉永六年四月 火難除の守護神三峯産大神 勤労の祖 菅原道真公を奉斉して村民の生活の安穏を祈願した 以来当神社は産業繁栄・除災 招福・家内安全・長寿延命の守護神として御神徳を敬仰され 昭和三十二年二月八日宗教法人桜森稲荷神社として独立社 となった
社殿は明治四年十一月十八日新たに造営し、明治二十年二月昭和二十七年三月にそれぞれ改築されたが昭和五十五年社殿 再建を決意し氏子の総意を結集して直ち着工、翌五十六年七月完成した。同年十月三日改めて各御祭神総社の御分霊を勧遷して 古式に則り御遷座式を斉行 翌四日造営遷座奉祝の大典を盛大に挙行した
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毎年、春分の日前後に御影供で昇殿参拝するのだが、今年は故あって延び延びになっていた。梅雨入りしたが晴れたので、めずらしく午後、昇殿参拝した。さすがに空いていた。
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【ご祭神】素盞嗚尊、大国主命

【ご由緒】神功皇后が三韓征伐より帰朝し、住吉大社から敷津の浜を航行していると海岸に荒波が打ち寄せており、渚に松を3本植えて、ここより潮が満ちないよう祈願し、その松の下に素盞嗚尊を祀ったのが由緒とされている。
 摂社・大国主神社は延享元年(1744年)2月に神託があり、出雲大社の神を勧請して建立された。以来、今宮戎神社と並んで大阪市街からの参拝が多い神社となり、甲子の日には大変な賑わいを見せた。また、戎橋の由来と同様に、道頓堀川に架かる大黒橋は当社への参道に由来する。大国主神社は大阪七福神の一社でもある。
境内には木津川と現在の浪速区や大正区にあたる地域の開発に尽力した木津勘助(中村勘助)の像がある。西成郡木津村の北部(関西本線以北)が大阪市へ編入された後、当社由来の「木津大国町」のほか、勘助由来の「木津勘助町」という町名も誕生している。1980年(昭和55年)に現行町名に変更されるまで存在した。
楠稲荷社(ご祭神:宇迦之御魂神)と白龍明神社(巳さん)がピ〜〜ンとくるでぇ。
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【ご祭神】撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)(天照大神の荒魂)

【ご由緒】詳しい創建年代は不明であるが、神功皇后が三韓征伐から戻ってくると忍熊王が反旗を翻していた。皇后は王を避けて難波に上陸しようとしたが、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこに廣田の地に天照大神の荒魂を祀るようにとの神託が降りたので、皇后は天照大神の荒魂・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を祀るや船が動き出したという。
 約170メートル南方にえびすを祀る今宮戎神社が鎮座する。なお、兵庫県西宮市においても廣田神社の約2キロメートル南方にえびすを祀る西宮神社が鎮座し、距離は異なるものの同じような位置関係にある。
 約1キロメートル東方の上町台地上に位置する四天王寺の鎮守とされ、今宮村では古くから正月には御所へ新鮮な鯛を2尾貢いだという。
 1872年(明治5年)、村社に列す。1906年(明治39年)、神饌幣帛料供進社に指定される。
 昔は西方に紅白2種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていた[2]。現在も町名・萩之茶屋として残る。
 痔疾の平癒を祈り、全快の報賽に神使であるアカエイ(アカエ)の絵馬を捧げる。この神使は土地を守る神で、地と痔と音が通じることから痔疾平癒を祈るものとなったという。
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【ご祭神】天照坐皇大御神 事代主命 素盞鳴命 月読命 稚日女命

【ご由緒】今宮戎神社は大阪市浪速区恵美須西一丁目に鎮座し、本殿に天照皇大神・事代主命・素盞嗚命・月読命・稚日女命を奉斎、大国社に大国主命・五男三女八柱神を奉斎、稲荷社に宇賀御魂神を奉斎し、その創建は皇紀1260年(西暦600年)推古天皇の御代に聖徳太子が四天王寺建立に当り、同地西方の守護神として鎮齋せられ、市場鎮護の神として尊崇せられたと伝えられています。
戎様は、左脇に鯛を右手に釣竿をもっておられるお姿がよく描かれています。そのお姿は、漁業の守り神であり海からの幸をもたらす神を象徴しています。当社の鎮座地もかつては海岸沿いにあり、平安中期より朝役として一時中断があるものの宮中に鮮魚を献進していました。
またこのような海辺で物資の集まりやすい土地では、海の種々の産物と里の産物、野の産物とが物物交換される、いわゆる「市」が開かれますが、当社でも四天王寺の西門に「浜の市」が平安後期には開かれるようになり、その市の守り神としても当社の戎さまが祀られるようになりました。
時代が経て市場・商業の発展に伴い、いつしか福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神としても厚く信仰されるようになりました。
室町時代以降庶民の信仰はより厚くなります。また大阪の町も発達し大阪町人の活躍が始まり、今宮戎神社も大阪の商業を護る神様として更に篤く崇敬されるようになりました。江戸元禄時代には、十日戎の神事も今日と同じような祭礼となり、当時の記録地誌等にも盛大な様子が伝えられています。
このように現在も、多くの崇敬・参詣がみられる十日戎の神事は、1月9・10・11日の三日間斎行され、商売繁昌・福徳円満の守り神として賑わいをみせています。
時代とともに十日戎の祭礼も盛大になってゆきますが、それは古代から大阪の人々が戎さまを親しく崇敬し、親近感のある神様として尊崇した歴史であり、まさしく大阪の庶民生活の積み重ねが十日戎に投影されたもののように思われます。
♪「商売繁盛で笹持ってこい」で有名やな…。
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【ご本尊】毘沙門天王
【ご由緒】浪速寺は明治年間(1868年 - 1912年)に實乗和尚により創建。
昭和20年(1945年)の戦災で消失し、現在の本堂は昭和25年(1950年)に再建された。
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【ご祭神】少彦名命 炎帝神農
【ご由緒】ここ大阪道修町(どしょうまち)は豊臣時代頃から薬種取引の場として薬種業者が集まるようになっていました。
薬は 人命に関わるものであり、その吟味は大変難しいものがあります。
そこで 神のご加護によって職務を正しく遂行しようと安永9(1780)年京都の五條天神より少彦名命を仲間の寄合所にお招きし以前よりお祀りしていた炎帝神農とともにお祀りしたのが少彦名神社の始まりです。
江戸末期の文政5年(1822)大坂でコレラ(虎狼痢)が流行した際、虎の頭骨などの和漢薬を配合して作ったのが「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」です。
病名と薬に「虎」の字が当てられていたことから「張り子の虎」がお守りとして薬とともに配られました。
それ以来、張り子の虎は家内安全無病息災の当社独自のお守りとして全国に広まりました。
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【ご祭神】倉稲之魂之大神 伊邪那岐之大神 伊邪那美之大神 諏訪大神 日本武命

【ご由緒】 天文二年(1533)九月二十七日稲荷之大神を神社に奉斎。
以来此の地の総社として鎮祭、新宿の発展と共に重要なる地位を与えられ由緒ある歴史をもつ神社として篤く信仰されております。
寛永年間、徳川幕府が「鉄炮組百人隊」を(現在の新宿区百人町)に駐屯させてより「鉄炮組百人隊」は、旗本や上下の士に篤く信仰され、また町名も百人町と名づけられました(百人町の由来)。
当時、鉄炮組与力が射撃の研究に精魂を傾けておりましたが、なかなか思うに任せず、一夜煩悶のまま眠りに落ち入りましたところ、稲荷之大神が夢枕に立たれ霊符を示されました。
翌朝不可解なまま社頭にお参りを済ませ、大矢場にて射撃を試みたところ百発百中、全て的中、見事な進境に驚いたとのことであります。
これを目のあたりに見た旗本の士が競って霊符を受け射撃をしたところ、みな百発百中的中したと伝われます。
この話が、近郷近在に伝わり、唯射撃のみでなくさまざまな願いごとをする参詣者が日増しに多くなり、不思議な神託霊夢など幾多の霊験あらたかなものがあり、世人はこの神社を「皆中(みなあたる)の稲荷」と称えるようになり、それ以後「皆中稲荷神社」と云う名で呼ばれるようになりました。
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約10年ぶりで稲荷鬼王神社に参拝。
ちょっと「妖」の氣があるようで、怖いと感ずる参拝客もおるやろな。
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約10年ぶりで抜弁天に参拝。
社の交差点側で、西向天神社の例大祭がおこなわれていた。
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【ご本尊】釈迦如来
【ご縁起】永福寺は曹洞宗の寺院で、慶安元年(1648)創建といわれている歴史あるお寺です。永福寺の門を入ると、新宿区には珍しい露座の大日如来像と地蔵菩薩像(ともに区指定文化財)とが静かに迎えてくれます。
嘉永年間、植木師をしていた鈴木源蔵が、信州善光寺に参詣した帰り道、犀川の岸辺で福禄寿に似た奇石を拾いました。
源蔵は深く喜びこの石を家宝とし、日々礼拝供養を怠らずにいると、日ごとに家は栄え、現在の地に居を移しました。
昭和9年に秘宝を公開することにして、豊香園より永福寺に福禄寿を移転し安置しました。
【新宿山ノ手七福神(福禄寿)】永福寺は長寿の神様、福禄寿を祀っています。
福禄寿は中国出身の神様。南極星の化身で、短身・長頭の姿をしています。
年齢も数千年を越すほど保持しているといわれていることから、長寿の神として親しまれています。
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DSCN6307【ご縁起】慶長三年(1598)に当時は武蔵国豊島郡市ヶ谷田町と呼ばれていたところ(現・新宿区市谷田町)に、尊重院日静上人という僧によって開創されました。 江戸時代も元禄年中(1688〜1703)に入ると、物見遊山を兼ねた寺社詣でが盛んになります。 経王寺の開運大黒天が世に知られだしたのも、この頃です。経王寺は檀信徒とともに寺門を守り続けました。 つづく享保十年(1725)には青山久保町からの出火で経王寺は類焼し、所蔵諸書の悉くが灰燼と帰してしまいましたが、諸堂宇は直ちに再建され、火難を逃れた大黒天像をはじめ諸尊像は無事に安置されました。
 日静上人については、越中国(富山県)または甲斐国(山梨県)の人で、寛永七年(1630)七月十七日に示寂したことのほか、一切が不詳です。ただ、日蓮聖人の高弟である中老僧・日法上人作の大黒天像を身延山から江戸に移し、経王寺に安置したことは古記録に明らかです。 明暦三年(1657)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)がきっかけとなって、寛文五年(1665)頃から、江戸城を火災から護るための外濠の開削、見附の普請が着工されました。 このため、寛文八年(1668)に経王寺境内地は「御堀御用地」となり、市ヶ谷川田久保町に移転しています。
 享保十四年(1729)には、堂舎、諸尊の再建、改修が為されています。 天保七年(1836)、雑司が谷鼠山(現・目白台一帯)二万八千余坪の地に、豪壮な長耀山感應寺が建立されました。時の十一代将軍・徳川家斉の還暦祝賀のための造立でしたが、天保十二年(1841)に「天保の改革」の一環として、この大寺は政治的に廃寺と決まり、いわゆる「感應寺廃寺事件」が起こりました。 市ヶ谷田町に住み、熱心な日蓮宗信者であった畳職人・小嶋太兵衛は、この廃寺事件に悲憤し、永年にわたって寺社奉行にその再建を訴えつづけました。しかしその訴えは取りあげられず、ついに文久三年(1863)一月二十五日に、太兵衛は菩提寺である経王寺において、愛用の畳包丁で割腹自害して果てました。太兵衛の壮烈な死は衝撃を起こし、幕末の混乱期にあった寺社奉行は感應寺の再建を許し、筑土・感應寺が再建されましたが、この寺もほどなく潰寺となってしまいました。
 慶応四年(1868)、江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立すると、神仏分離令が発令され、全国に廃仏毀釈運動が広まります。多くの寺院や仏像、仏具が破壊され、廃寺や無住となる寺院が続出しました。 しかし、この困難な時期も、経王寺は檀信徒とともに寺門を守り続けました。明治十年(1877)四月十二日に、経王寺はまたまた回禄の厄に遭い、諸堂宇はすべて灰燼と帰してしまいました。しかし幸い、大黒天像をはじめとする諸尊像は難を逃れています。 その後、経王寺は歴代住職と壇徒家の尽力によって、罹災の打撃から立ち直り、大正・昭和の時代を経て、現在も檀信徒と共に生きるお寺として新たな歴史を歩んでいます。新宿山ノ手七福神の一つ。
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【ご本尊】薬師如来
【ご縁起】天台宗東京教区によれば、安養寺は平安時代初期、慈覚大師円仁によって開山されたという。一方『牛込区史』によれば、年代も開山も開基も不明としている。
1591年(天正19年)、徳川家康の江戸城拡張工事に伴い移転、1683年(天和3年)に現在地に移転した。
当寺の通称「神楽坂聖天」の由来となった歓喜天像は、第234世天台座主大椙覚宝が拝した由緒正しい歓喜天といわれている
*門を入って右側、聖天堂手前に祀られているのが宝生弁財天。ご利益は芸事、学業、金運。銭洗弁天で、弁天洗心宝生水でお金を洗います。
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DSCN6300【ご本尊】三宝尊

【ご縁起】善國寺は桃山時代末の文禄4年(1595年)に創設され、現在から約400年の歴史を誇ります。初代住職は佛乗院日惺上人であり、池上本門寺の十二代貫首を務めた経歴を持ちます。上人は二条関白昭実公の実子であり、徳川家康公とは父を通じて親交がありました。上人は京都での学びの後、本門寺貫首として迎えられ、天正18年(1590年)、家康公が江戸城に移った際に再会を果たしました。
そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。 それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となられた。 ここに毘沙門天を奉安する、名刹・善國寺が誕生したのである。 徳川家の中で、法華経への信仰が厚いといえば、それは黄門様で有名な水戸光圀公である。 光圀公も、善國寺の毘沙門天様に信をお寄せになり、寛文10(1670)年に焼失した当山を麹町に移転し、立派に再建されたのである。 この縁由により、爾来当山は徳川ご本家、並びにご分家の三郷のうちの田安・一橋家の祈願所となったのである。 当山はその後も享保、寛政年間と類焼の厄にあい、殊に寛政4(1792)年の火事により、当、神楽坂へ移転してきた。 今から約二百年前のことである。 尚麹町の遺跡は、今の日本テレビ通り、麹町三丁目交差点の脇の歩道に建てられている黒御影の『善國寺谷跡』の石碑により、往時を偲ぶことができる。
毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門天》の威光は倍増していった。 当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、善國寺の移転に伴い、麹町より、よしず張りの店が九軒当寺の門前に移転するなど、除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。 明治・大正初期には、泉鏡花、尾崎紅葉、北原白秋など多くの文人・墨客達がこの辺りを闊歩し、大いに賑わった。 特に縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたし、山の手銀座と呼ばれるほど有名を馳せ、その混雑ぶりはまさに東京の縁日の発祥の地にふさわしいものであった。 昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には地元各位を始め、有縁の方々のご賛助により、威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである。 毘沙門天は、インド出身の神様で、仏様、ないし仏法を守る役目を担い、四天王の随一として北方守護を司る。 また、多聞天とも号し、文字通り、参詣者の願い事を《多く聞いて》下さり、七福神のお一人として、日々福を授けて下さっている。
ちょうどこの日は、神楽坂楽座〜講釈場、街角ライブで賑わっておったわいなあ。地元の人に大切にされちょる、有難いことや。
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DSCN6290【ご祭神】五社稲荷大神(倉稲魂尊、素戔嗚尊、神大市比売、大巳貴大神、四大神)
【相殿】恵比寿大神

【ご由緒】藤原秀郷が平将門の乱鎮定のため戦勝祈願し、戦後白銀の狐像を奉納したとされる。文正元年(1466年)には太田道灌が雨乞いに霊験があったとして山城国稲荷山五社大神を勧請して祀った。
江戸時代には江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、庶民だけでなく松平信綱や松平頼隆といった諸大名からも崇敬を集めるようになった。寛文年間には吉川惟足が大巳貴大神の託宣を受けて恵比寿大神を祀った。
社殿は関東大震災で焼失し、昭和6年(1931年)に鉄筋入り耐震構造で再建された。
 椙森神社の社標に東郷平八郎元帥の揮毫を見つけた。江戸時代に行われてい富籤を偲んで大正8年(1919年)に建てられた富塚の碑がある。今年は5月16日(土曜)が3年に一度の例大祭のようで神輿渡御が執り行われる。
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末廣神社に参拝。
ここは人形町で一番好きな神社や。
この社の前の通り、末廣通りに入ると気分がエエ。
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ほぼ3年ぶりに小網神社に参拝。
社務所が開く前から長蛇の列ができていた。
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DSCN6272【ご本尊】大曼荼羅

【ご縁起】江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』を始め、多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わう。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるが、当寺の日蓮宗寺院としての本尊は帝釈天ではなく、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。
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DSCN6266寒川神社で昇殿参拝。
例年、春分の日前には昇殿参拝にはせ参じているが、今年は所用あり4月になってしまった。
厄年は終わっているが、仕事柄「厄」が集まりやすく八方除は必須ではないか?
そして今朝方「神社参拝に赴く」夢を見た。
土日は混むので平日朝イチで参詣、お神籤は吉だが「万事休す、しかし助けが現われる」とのこと。
帰りに東名高速で逆方向に乗ってしまう失策。続きを読む

【ご祭神】富士浅間大神
【ご由緒】新編武蔵風土記稿に「除地、三畝、南の方にあり、この邊を字大いか谷と云、一間半四方の社なり」とある。
元々この地にあった亀甲山の上に鎮座されておられたが、首都高速横浜環状北線の工事に伴い山が削られ、現在の位置に移設されたという。亀甲山は貝塚だったのではなかろうか…。鎮守の森もなくなり真新しい社がポツンと鎮座している。
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厚木市小野に鎮座する小野神社 (閑香明神社 / かんかみょうじんやしろ)に7年ぶりに参拝。
ちょうど桜が満開だった。
この近くを通っていたのは、もう40数年前となる、感謝。
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DSCN6226【ご本尊】 十一面観世音菩薩

【ご縁起】飯山観音長谷寺(ちょうこくじ)は、丹沢山地からのびる尾根の白山中腹に位置する高野山真言宗の寺院です。坂東三十三観音霊場の第六番礼所として知られ、「飯山観音」の名称で地元の方々に親しまれて来ました。奈良時代の神亀2年(725年)に行基菩薩によって創建され、大同2年(807年)に弘法大師が教場したことから領主・飯山権太夫が信仰し伽藍を建立したと伝えられています。源 頼朝公が秋田城介義景に命じて造営された観音堂には十一面観世音菩薩が安置され、行基自ら手彫りで施した胎内仏が納められています。坂東三十三ヶ所霊場の札所としてこの地に長年、時代と共に訪れる巡礼者をあたたかく見守って来たお寺です。
🌸桜の名所で本日は桜まつりだった。
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DSCN6220DSCN6215【ご祭神】警固大神すなわち、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、神直毘神(かんなおびのかみ)、大直毘神(おおなおびのかみ)の三柱

【ご由緒】神功皇后による三韓征伐の際、皇后の船団を守護し勝利に導いた警固大神を福崎(現在の福岡城本丸周辺)の地に祀ったのが始まりとされる。慶長6年(1601年)福岡城築城の際に下警固村(現在の福岡市中央区天神周辺)に移され、慶長13年(1608年)に福岡城主黒田長政によって現在の場所に社殿が造営された。大正5年(1916年)、県社に列格した。
警固神社の社名及び周辺の地名である『警固』はかつて鴻臚館にあった役所『警固所』に由来する。
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2015年4月に境内にある今益稲荷神社のキツネの石像4体が破壊される事件が報道された。とんでもない罰当たり、お稲荷さんの怖ろしい祟りを知らない外国人異教徒の所業であろうか…。

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