イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

希望もあるけど……

言うまでもなく私はマイナーな絵描きだ。まったく無名ではないけど、もう先がない。67歳からのメジャー昇格は望めない。禅の教えはメジャー志望を犯罪扱いにする。特に道元には厳しく断罪されちゃう。
もちろん私は超俗人だからメジャーになり裕福になれるなら、それはそれでまったく文句はない。嬉しい。
でももう無理そうなので、禅の教え(=富貴栄達の禁)を結果オーライで全面的に受け入れている。
世間の片隅でそっと描かせていただく。いいね。とってもいい感じ。
モランディ(1890〜1964)も結果としてそういう暮らしだった。私と大きくちがうのは、モランディは世間から何度もお呼びがかかった点。モランディはずっと拒み続けたらしい。そこがとても偉い、というか真似が出来ない。私にはお呼びがかからないから拒むかどうかわからないけど、多分シッポ振って出てゆくだろうな。
でも大丈夫。このままモランディ道元路線で死んでゆくと思う。ご安心ください。
今の家計はかなり苦しいけど誤魔化しながら大量の絵を描いている。今もごっそり地塗り済みキャンバスが用意してある。さらに2〜3倍ぐらい準備する予定。これで10月の豊橋展まで持つか。ま、豊橋展までは無理でも夏までは行けそうだ。
道元も怖いけど、モランディの写真を見ると、顔がけっこう厳しいよね。怖い顔している。生涯独身で絵ばかり描いていたわけでしょ。私なんて孫がいるからヘニャヘニャ爺だ。丸くなっちゃって話にならない。平和なら何でもいいって感じだもん。
ま、希望を言えばギリシアに行きたい。もう一度大英博物館のエルギンマーブル(古代アテネのパルテノン彫刻群)を見たい。台北にも行きたいか? ナポリの美術館にあるシヌエッサのアフロディーテも見たい。切がないね。こういうのも欲望だよ。見なくていいと思えば見なくても済む。どうということはない。
200号とかも描きたいけど、100号を2枚繋げればM200号よりでかいのだ。今年の等迦展の絵なんてまさに繋がっていた。

今日は日曜日で非番。午前中、孫と遊んで夕方からは25m中学開放プール(行きは歩き帰りは車)。何もしないで1日が終わった。相撲やドラマはちゃんと見た。
天気:薄曇りときどき晴れ
作品:2枚繋げた100号『ミューズたち』と『ニンフたち』
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集中時間の上限

昨日の作品画像はイマイチ。本物と全然ちがう。致し方ない。本物より写真のほうがいい場合もある。しかし、それは困る。どっちかというと、個展会場で「DMより本物のほうがずっといい」と思われたい。
昨日の続きだけど、私の経験で集中の限界は最高3時間と思っている。そのなかでも特上の集中は45分間ぐらいではないか。ま、人間は微調整ができるし、耐久力もある。そういう訓練も込めて水泳でも泳ぎ始めたらとにかく続けて800m泳ぐようにしている。また、人間は目先が変わり興味が湧けば集中も続くように思う。だから私がやっていた塾は45分授業を2回にした。塾をやっているときはそっち方面の本(集中とか効率系?)をけっこう読んでいたから、どこかで読みかじったのかもしれない。実生活でも45分は妥当だ。ま、個人差もあり、私の場合は長続きしないほうだと思う。
絵の場合、風景や静物は最初の45分が命。物凄く大切だ。ほとんどここで決まる。私の絵の場合は20号とか15号を描く時間。でも、その後の小品を描くためのウォーミングアップでもある。風景や静物の構造を把握する時間でもある。
裸婦も20号や15号は初めの20分ポーズで描く。こっちは完全なウォーミングアップ。だけど元気がいいから上手くゆく確率も高い。次の20分は10分ポーズが2回で10号とか8号。一番大切なのは3番目の20分。5分ポーズが4回。このときの絵が上手くゆく可能性が高い。主に4号を描く。10回の2分ポーズを墨で描いてフラフラ。余力でSMを4枚。6号や8号を2枚描く。生きているのが不思議なくらいに疲れる。ま、余力で描くといっても筆もこなれてくるし、そのころにはモデルもリラックスしているから終わりの数枚の絵に期待できないでもない。

今日もマンション勤務の遅番。がっつり寝坊した。午前中に少しキャンバスを裁断して地塗りをやった。
天気:晴れ

作画理念のちがい

私は偉そうに「年間600枚の油絵を描く」と豪語するけど、描いている時間は長くない。毎日8時間キャンバスに向かうと言うサラリーマンみたいな画家もいる。20歳代の後半に美術研究所に通っていたころでも、私は毎日3時間ぐらいしか描いていない。勤めもあったから限界だけどね。でも土日も描いていた。
30歳以降の私の描き方は、いっぺんに6枚前後の絵を描いてしまう。裸婦だと13枚。だから月2回のクロッキー会と絵画教室(私は講師なのに6枚ぐらい描いちゃう)だけで30数枚描く計算。自分で4回ぐらいスケッチに行けばすぐ50枚になっちゃう。で、年間600枚。たぶん5月はもう50枚以上描いていると思う。
これを時間にするとけっこう短い。だってそんなに集中来るか? 将棋の棋士だって対局は週に1度ぐらいだ。プロの将棋の対局ほどじゃないだろうが、絵を描いている時間は密度濃いものね。
私には毎日8時間は信じられない。本心言うと信用できない。無理だよ。おそらく絵を描く理念が全然ちがうのだと思う。それはどっちが優れているという話ではない。作画をどのような作業と捉えるかのちがいだ。
この前もバラ広場に4時間いたけど、1時間以上見て回っていたもの。気を溜めているというとカッコいいけど、自分の意識は絵になる場所を探している感じ。グルグルぐるぐる回っちゃう。実質描いている時間は2時間ぐらいだと思う。絵画教室でも初めの1時間ぐらいは描かない。絵画教室では生徒さんの邪魔にならないように私も描くだけだ。綺麗な花や果物の静物を描かないのはあまりにももったいないし。
というわけで、これから数日はオフ。キャンバス張りの予定。
いや、本心、オンオフの調整も楽じゃない。トレーナーがいるわけじゃないからね。全部自分でやる。ま、それも気楽でいい。ひとりは悪くない。絵ってそういう分野だよね。

今日は午前中に0歳児の孫の子守りを少しやって午後からはマンション勤務だった。
夜はホームページの更新をした。
天気:雨
作品:SM「赤いバラ」24日(水)に描いた最新作。
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ダメ元絵画

それにしてもバラ広場は気持ちいい。三方がでっかい森。抜けている西方向には多摩丘陵が重なる。鶯も鳴いている。ここに3〜4時間いるだけでハッピーだ。昨日は午前11時からスシローによって腹いっぱい食ってしまったので、まずは昼寝をした。いい気持ちだった。手持ちのポットのコーヒーで目を覚まして15号からSMまで5枚描いた。その後50m室内プールというフルコースの贅沢さ。いやいや、50m室内プールはバラ広場に近いから行かないともったいない感じもある。夕方からは全終(ぜんおわ)でダーダーだった。
全終と言えば、今年のバラ自体、昨日で終わったかも。一応6月上旬まで見ごろと言うけど、昨日が限界か。
もう少し描きたいけどね。
私の絵ってムチャクチャだよね。ほとんどスポーツ。ダメ元だもの。デタラメにじゃんじゃん描いちゃう。見られるものが残ったら幸運。何も考えていない。いやいや本当はなけなしの髪の毛と脳みそで必死こいて考えてもいる。いろいろやってもみる。とにかくダメ元なんだから自由自在だ。それでもデ・クーニングのムチャクチャさに比べれば私のほうがずっと穏健、か?
一つの現場でいっぺんに5〜7枚描く私のやり方はかなりユニークなのかもしれない。この描き方がユニークだってこと自体、自分でも気が付かなかった。ま、油絵で裸婦のクロッキーを描くのも珍しいと思う。クロッキーが直接タブローだもんね。類を見ないかも。
絵って仕事なのかなぁ? 仕事だとすれば私はかなり熱心だ。絵ばかり描いていて世間の人に申し訳ないといつも思ってきたから、やっぱり仕事とは言えないかも。けっこう善良だったりして。

今日はマンション勤務の早番。早起きをした。夕方から6歳と3歳の孫たちと遊んでフラフラになった。怪我させられないから子守りは疲れる。
天気:雨のち曇り

手と腕で写し取る

うまくいかないねぇ。
昨日もバラ広場でヒーヒー言った。最後に描いた6号がよかったかもしれない。その6号は数日前から言っている新画法には無関係な絵。「新画法」なんてダメなのだ。絵っていうのは1回1回が新画法、なのかね。厭だね。
同じバラでも毎年毎年感動が違う。
われわれは絵を仕上げているのではない。絵を仕上げて、その絵でなんとかしようなどと考えてはいない。考えてはいけない。そういうセコい考えはダメ。貧しくてさもしい。
昨日も『なんでも鑑定団』を見た後、日本洋画の画集をパラパラ捲っていたけど、画集の後ろのほうのモノクロの参考図版にパスキンの半裸の女性像があった。やっぱりいい。日本人の洋画と全然ちがう。描きたくて描いている。美術展に入選しようとか受賞しようとか褒めてもらう買ってもらう、そういうさもしい根性はない。パスキンは、言ってみればヤケクソか?
『ヴュイヤール』(ギィ・コジュヴァル/遠藤ゆかり訳・創元社「知の再発見」双書)の「ヴュイヤールと彼のコダック」(p141)にボナールが「カラー写真の成果に驚嘆し、困惑さえしていた」とあり、いっぽうヴュイヤールは「絵筆を持ったままこう答えた。『手で制作されるという理由で、絵画はつねに写真よりすぐれている』」と一蹴したとあった。まったく、そのとおり。私は写真を悪く言うつもりはない。バラ広場でもみなさん一生懸命に接写している。それはそれでバラの美しさを焼き付けたいのだろう。
私は、たとえばバラの新芽、そこに勢いよく伸びる無数の小枝。そういう生態を自分の腕で写し取りたい、キャンバスにこっちも勢いよく筆を走らせたいと思ってしまう。葉っぱが重なり、全体的にもっこりと膨らんだ感じ。なかなか描けないね。もちろん、花があるから楽しいのだ。花があるから描きたいのだ。だけど幹と枝と葉っぱなんだよねぇ〜。
バラの伸びようとする勢いがこっちのキャンバスにも素手で写し取れたらと思う。

というわけで、今日もバラ園に行った。明日給料日なのでスシローによってからバラ広場に向かい、さらに50m室内プールにも行ってしまった。ムチャクチャな暮らしである。
おそらく今日の絵も全滅かも。楽させてくれない。
天気:晴れ
作品:F6「午後のバラ」昨日最後に描いた6号
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誤魔化されてはいけない

たぶん「陰のなかを描け」ということだと思う。「陰のなかを描け」と言われても、若いころ描いていた木炭デッサンでは意味不明。陰のなかは真っ黒だ。
ヴュイヤールの絵を見ていると「陰のなか」の意味がわかってくる。《秘密の室内》という小さな絵は陰だらけ。陰のなかに赤があったり青があったりする。黒一色の木炭じゃないから油絵だったら好き勝手に「陰のなか」に色を置ける。
私も絵の下のほうとか、部分的にはよくやってきた描き方だ。赤とか青と言っても派手な赤とか青じゃなく深い色をさりげなく置くのだ。濃い緑も効果的。
というかバラの葉っぱだったら緑だらけか。いやそうでもない。葉っぱのなかにいろいろな色がある。赤い葉っぱも少なくない。
まったく春のバラは艶やかな葉っぱとグングン伸びる小枝だよね。それを支えている太い幹もたくましい。花に誤魔化されてはいけない。いやいや、もちろん花が描きたいんだけどね。
裸婦だってオッパイは魅力だ。だけど、オッパイを支えている肋骨や背骨が大事なのだ。お尻に惑わされてもいけない。骨盤がしっかり描けていないと気持ち悪い絵になる。よく美術解剖などとむずかしい言葉を訊くけど、人体解剖を、ただそれだけ学ぶのはあまりにも辛い。裸婦を描きながら有機的な骨格を理解するべきだと思う。みんな繋がっているんだよね。もちろん動きにも連動している。

今日は朝から野津田のバラ広場に行って20号、15号など5枚描いた。小さな絵は明日描く予定。新画法とは言ってもなかなか思うようにはいかない。帰りに50m室内プールによって1550m泳いだ。バラ広場を歩き回ったので、ウォーキングと水泳は十分だと思う。
天気:晴れ。午後から風あり。

新画法の裸婦

少し前に『天使の卵』という映画をレンタルDVDで見た。画学生の市原隼人と年上の小西真奈美の恋物語。中身はほとんど忘れた。ただ画学生の市原が小西の肖像を鉛筆で描くとき、鉛筆の芯の粉を紙面に大量に置く。それを手でさっと広げて形をとって行く。わがイッキ描き裸婦みたいなやり方。もちろん当方は油絵だけどね。面白いなと思った。思いつくことは同じか。ま、実用新案の年次で争うなら私のほうがずっと早い。そんな方法のあとさきより出来上がった絵の画面勝負でしょ。……と、作品の出来には拘らないんだっけ? つい忘れてしまう。
しかし、1週間前から始めた新画法はバラの葉っぱで裸婦方式を取り入れ、ついこの前の裸婦クロッキーではさらに大胆にやってみた。

今日はマンション勤務の早番。頑張って早起きした。早番は起きてなんぼ、と思っている。起き上がっちゃえば仕事の半分は終わり。水浴があるから真冬は桁外れに辛いけど、今の時期はもう楽だ。でもやっぱり眠い。
しようがないよ。生きている限り、朝は起きる。筆洗いやキャンバス張りと地塗りに追われるのだ。死ぬまでやるんだな、これが。もう諦めています。この歳でやっと、か。
天気:晴れ
作品:F10「薫風」
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見習うだけ

集中した長い呼吸を繰り返して気を十分に溜め、たっぷり溜まったところで今度はそれをイッキに開放する。
坐禅と言えば水墨画だ。梁楷(1200年前半活躍)や牧谿(1280頃活躍)の墨跡には素晴らしい筆触が感じられる。お手本がそのまま生で残っている。また、それはヨーロッパのデッサンにもそのままある。何度も言うけどミラノにあるラファエロ(1483〜1520)の『アテネの学堂』のカルトンは超ド級のお宝だ。そういう巨匠の筆触は小さな紙片にもたくさん残されている。弟子たちが絵具で上からなぞってしまったタブローよりずっと魅力的。水墨画やデッサンには修練を積んだ画人たちの筆の跡が生々しく息づいている。
われわれはその心意気を真似ているだけ。
いやいや描いているときは牧谿もラファエロもない。目の前のバラや裸体に熱中している。目の前には生命の躍動がある。引力に逆らうように上に伸び、時の流れに逆行しようと頑張る生命力がみなぎっている。こっちの筆も踊っちゃう。
その踊りが独り善がりにならないように繰り返しクラシックを見かえす必要がまたある。いつも見習っていなければならない。というか、それは大きな楽しみだ。
グイと力強く筆をねじ込む、さっと素早く走らせる。じっくり丁寧に塗ってみる。やさしく点々で色を置く。
先人の筆の跡を慕い、自分もやってみるだけのこと。
クソバカ個性は要らない。

今日は日曜日なのでマンション勤務は9時5時。ジジイ筋トレもウォーキングもたっぷりやった。
天気:晴れ。昼間は30℃以上の暑さ。

絵は個性、じゃないと思う

いま読んでいるのは『太陽の棘<とげ>』(原田マハ・文芸春秋)。終戦直後の沖縄駐留アメリカ軍の軍医エドから見た若い沖縄の洋画家タイラの話。まだ半分ぐらいしか読んでいない。半分ぐらいだけど、絵描きとしてはトンチンカンな描写が多い。致し方ない。原田がいくら絵に詳しくても画家ではないのだから、そんなこと文句言っていたら小説は読めない。
タイラは東京美術学校(現・芸大)を出てサンフランシスコ・アート・インスティテュート(sfai<スファイ>)に2年間留学した美術エリートだ。sfaiでは「絵は個性」と教えるらしい。「絵は筆触」なのにねぇ〜。
それにしても個性はダサい。うっかりしていると「自分探し」なんて言われかねない。

昨日の相撲の解説は元関脇魁輝の友綱親方だった。この前まで審判部長をしていた人。この審判部長は立ち合いの手つき不十分として何度も待ったをかけている。見ていて力士同士の呼吸がぴったり合っているのに待ったをかけた場面もある。私は「自分が現役のときは手なんてついていなかったのに」とテレビ桟敷で悪態をついていた。その証拠ビデオが昨日はいっぱい流れた。「やっぱりね!」って感じ。横綱を倒した自慢話より手つき不十分の立ち合いを謝罪しろよ、と性格悪くののしってやった。

今日はマンション勤務を代わってもらって朝から孫の運動会。とても疲れた。小学校への往復などで歩数十分になった。夕方から25m中学開放プールに行った。
夜はボクシングの村田戦をしっかり見た。判定負けは信じがたい。
天気:晴れ。
作品:F3「バラ」新画法パート2
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1回勝負

思い出してみると、6年ぐらい前まで2年間、全日空の機内誌『翼の王国』に美術記事を寄稿させてもらったことがあるが、そのときの一貫した主張も「筆触」だった。
筆触は画家の鼓動であり呼吸である。描きたいという欲求の叫びである。筆触にこそ絵画の喜びが見える。
塗り重ねは危険だ。私に言わせると厳禁。最初の感動が消えてしまい、下手をすると絵画の光まで失う。塗り重ねが出来ない以上、1回で描き上げなければならない。その場で仕上げなければならない。だから必死なのだ。集中していないとダメになる。瞬間に力を発揮する集中の方法が求められる。
これは中国や日本では古代の昔から探求され続けてきた。普段の暮らしにも密接に係わる東洋の方法だ。具体的には相撲の立会にもっとも顕著に見られる。陸上や水泳のスタート、野球のバッティング、ゴルフのパットも同様かも。テニスのサーブのとき会場が静まり返るあの瞬間。
集中のことをしっかり教えてくれる師は坐禅だ。もっと簡単に言うと呼吸だ。長く吐く呼吸を身に付けるべきである。

今日はクロッキー会だった。一昨日M邸のバラでやってみた新画法を裸婦でためした。裸婦はやっぱり難敵だった。むずかしい。この新開発は当分続きそうだ。
天気:晴れ
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