イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2008年11月

離散

中学に入ると、両親の仲も少しよくなって家庭が安定し、勉強もした。中1と中2の成績は中の上ぐらいだったと思う。生徒会活動も頑張った。スポーツの部活はやらなかったが、町道場で剣道をやった。昨日述べたようによい先生や友人もいてとても充実していた。
だが、家に金はない。ひどい貧乏である。そのうえ、父はフランスへ1年間行ってしまった。これでわが家は崩壊した。中学3年になりかかるころで、14歳〜15歳。時期としては最悪のタイミングだった。
もちろん本人は不良になったつもりはない。実際なっていないと思う。服装などもごく普通に汚かった。だけど乱れてはいない。
父はフランスへ行っても大ブレイクするわけでもなく、まだまだ苦しい生活が続く。
フランスから帰ってきた父は、日本人は肉を食わないから体力で負けるんだ。と言い張って、肉やてんぷらの料理を作った。だけど、それもつかの間で、母と大喧嘩をして家を出た。「女房と子供に400万円をくれてやった」とよく言っていた。
両親の喧嘩の判定はわからない。だけど、父はこの後住むところもなく、路頭に迷う。私は高校1年になっていた。
ああ、キャンバスが全然ない。ロールはまだある。木枠も少しある。張らなければ。画溶液も危ない。
天気:晴れ

暗黒の時代

dc20e6fb.jpg図画工作は大好きだった。成績は低学年のころはよかったが、だんだん下降した。でも、図画も美術も好きには好きだった(当たり前だが)。
やはり親の素行は子供の学業に影響する。自分のバカを親の素行のせいにはしたくないけど、思い出してみるとどうも私の両親は厳父賢母というわけにはいかなかった。しかし、父が長期入院しているころの母の年齢は30歳前後なのだ。すごく若い。自分が58歳になって考えれば、致し方ないか、という気もする。いっぽう父も西多賀療養所ではいろいろあったみたいだ。夫婦がお互い遥かな遠隔地で元気だったわけだけど、子供への影響はよいはずがない。
というわけで、私の小学4年生ごろからしばらくは暗黒の時代だったかもしれない。それでも中学に入るころにけっこう落ち着く。また、学校では適当にやっていた。
5年生の冬に田無に移り、中学高校と過ごす。
父は「学校なんか行ってもしょうがない。真の友人なんて世の中にはいない」と言うが、私は中学でよい先生たちにめぐり合い、塾ではないがグループ学習を見てもらった学芸大学の学生T先生(その後小学校の先生になり一昨年お目にかかった)にもお世話になり、小学校で知り合い、そのまま中学をともに過ごした友人は今でも音信がある。たまには顔も見る。
作品:F0「快晴の富士」
天気:晴れ(家内入院中で洗濯を3杯やった)

病院には無理

小学4年生ごろになると、嫌な思い出もたくさんある。もう分別があるから困る。面白かったのは遠い親戚からコリー犬をもらって、飼っていた。よく羽根木公園まで散歩に行った。その後も犬はたくさん飼った(実はその前も)。
小学校生活は可もなく不可もない。臨海学校などへ行っても私は泳ぎが下手で遠泳にも参加できなかった。いま水泳三昧オヤジになっているのが信じられない。夏の水泳大会で、25mが泳ぎきれずにプールの真ん中で立ってしまったことがあった。あのときはもう小4なのだ。だらしない。ま、泳げなければ泳ぐこともない。プールで無理をすると死ぬ。
父の絵は少しは売れるが、まだ全然食えない。それでも、お医者さんに絵を教えたりして頑張っていた。そういうお医者さんたちの応援でフランスへも行った。確か父が42歳のころだったから、もう世田谷にはいなかった。そのころは田無に住んでいた。
田無の家には私の部屋があり(今思い出せば、南向きのいい部屋だった)、襖に父の絵が直に描いてあった。「月花や49年の無駄歩き」と一茶の俳句が大書してある。一茶が薪に文字を描いている絵が付いていた。これを貼っておけと渡されたポスターはブリューゲルの「村の婚礼」の絵。前景の子供の帽子の羽飾りが床の絨毯の継ぎ目に見えていた。机の上には広重の東海道五十三次のうちの「由比」が飾ってあった。この2枚の絵はよく覚えている。
今日は宇都宮市立美術館に取材に行った。とは言ってもマグリットが目当てではない。学芸員の先生と話が弾んでしまい、栃木県立美術館も見てきたので、思っていたより遅くなった。県立美術館にお目当てのターナーはなかった。だが、コローの傑作があった。
昨日はプールで泳いでから妻の病院へ行った。けっこう元気そうだった。私は病院にいてはいけないぐらい元気。大また歩きだし、泳いだばかりなのでまだハーハー言っていたかも。
天気:雨のち晴れ

緊急入院

4b9b31e0.jpg子供の幸福は両親の仲による。私の両親は結局離婚するが、それはまだまだ先の話。両国の家(最寄の駅が両国駅のなでこう呼ぶ)にいたころはまだ平和だった。
父は35歳のときに国画会の会員になる。国画会は会員が最高位で、同時に審査員も兼ねる。このころは私は7歳か8歳でまだギリギリ両国にいた。確かこの年に父は銀座で初めての個展をやった。この後、何度も銀座で個展を開く。もちろん、家族も総出。私は松坂屋百貨店でよく遊んだ。屋上には動物売り場があって、けっこう飽きない。
吉田という蕎麦屋はいまもあるが、50年前もあった(と思う)。登亭は鰻屋。いまも繁盛している。そのころは土間になっていたような記憶がある。てんぷらは天一ではなく天国で食べさせてもらった。
父が会員になったころ、世田谷の代田2丁目に引っ越す。ここに小学3年生の5月から5年生の12月ごろまでいた。金はもちろんなかったが、まだ平和だった。母が人形屋をやっていた。父は仙台の西多賀療養所に長期入院をしていた。墨田病院の近藤先生が西多賀療養所の所長だったからだと思う。私も小4のころ仙台に行ったことがある。
母の人形屋はリアルな西洋人形で、浅草橋のおもちゃ問屋に卸していた。母は洋裁が得意でその後もスカート屋などもやった。男性のズボンは難しいらしい。母は働き者だったと思う。
今日はたいへん面倒なことがあった。家内が1週間入院となってしまった。1週間ぐらいいつも豊橋に行っているので支障がないが、個展前なので大変かも。病名は急性胆嚢炎で、命に別状はない(と思う)が、本人はとても痛い(らしい)。胆石のこと(だと思う)。
作品:SM「霊峰」
天気:雨のち曇り

8名でも盛況

最初のガールフレンドはマチコちゃんという名だった。幼稚園が一緒。私の幼稚園は神明幼稚園という神道の幼稚園だった。小学校の彼女はかっちゃん。小学3年生の1学期まで下町にいたが、将来は結婚、と言われるほど仲がよかった。
下町の祭りも賑やかだ。幼いころは山車を引っ張る。小学2年生になると子供神輿が担げる。私は一夏だけ神輿を担いだ。夏祭りなので神輿には水が掛けられる。それが威勢がいい。小学校の近くのかっちゃんの家の前でいっぱい水を浴びた。50年以上も昔の話だ。あの嬉しい感じはよく覚えている。
他に、父とよく釣りに行った。自転車で遠くまで行った気がする。二つの川が土手を隔てて平行して流れていたから荒川放水路ではないか? 隣が中川だと思う。
(いまグーグルマップで見てみたらやっぱり荒川と中川だった。びきちゃんとたけしちゃんの家はちゃんとある。相撲部屋は九重ではなく三保ヶ関部屋だった。住所も違っていた)
度胸試しもあった。近所のお寺でやった。グーグルマップで見ると要津寺とある。妹の行った幼稚園は弥勒寺幼稚園。こちらはお寺系の幼稚園だ。グーグルマップで見ると、お寺は健在。ここでは縁日があった。10日に一度だったと思う。ちゃんと写る小さなカメラを買ってもらった覚えがある。あれは震災記念堂の震災記念日だったかもしれない。
今日はクロッキー会だった。会員が8名見えた。これはわが会としては久しぶりに盛況。
天気:晴れ

幼児体験

c30a186f.jpg向嶽寺の境内でもずいぶん遊んだ。いま考えてみれば禅宗寺院の立派な庭園である。戦後でまだ寂れていたが、瓢箪池などもあり、ちゃんとした格式を持っていたと思う。その寺の土塀は上杉謙信が武田信玄に贈った塩が埋め込まれていたという。少し先に「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言いながら焼け死んだ快川和尚の慧林寺がある。
塩山山は低い山だ。すぐ頂上に行ける。麓からでも遠くに富士が望めた。
母の実家は地主だったが、戦後の農地解放で多くの土地を失った。それでも、まだ近隣の農家から尊敬をもらっていた。それで、果物のもらい物も多かったのだと思う。おじいさんはよく働いていた。豚やヤギも飼育していた。豚は臭くて凄い迫力だった。もちろん犬もいた。猫もいたかも。私がよく動物を描くのはこういう幼児体験が大きいかもしれない。
高校のとき、母と喧嘩して自転車で塩山まで行ったことがある(母と喧嘩して母の実家に行くというのもガキ)。そのときもおじいさんにたいへんよくしてもらった。おじいさんはそのすぐ後に亡くなった。
作品:F8「華」
天気:曇りのち晴れ

ふざっぽい

父は戦争でもらったカリエスのため、しょっちゅう入院し大手術をしていた。胸骨カリエスなので胸を開ける。父の胸には凄まじい手術の跡があった。そういう時は母が働く。私は母の実家がある山梨の塩山に預けられる。母は第一子の長女で、母の下には6人の兄弟姉妹がいた。私にとっては叔父さん叔母さんがわんさかいることになる。アキラおいしゃんと結婚したおばさんもまだ実家にいた。
私は初孫なので、珍しいこともあり、とても可愛がられた。おじいさん、おばあさん、曾おばあさんもいた。塩山は山梨県だから海がなく当然魚もない。江戸時代から貧しい土地柄であまり美味いものはない。だけど、柿、梨、葡萄、桃、李など季節の果物は豊富。現在は豊かな県になっている(と思う)。
山梨弁はまったく使えないが、たとえば、洗濯物が完全に乾いていない状態を「ふざっぽい」という。実にぴったりした表現である。平べったいものを半分にした場合は「はんぺた」。これも上手い言い方だ。おばあさんに連れられて町に買い物に行く。そういう場合は「やべ!」と言われる。「早く来い」とか「行くぞ」というような意味だろう。
母の実家の後ろには塩山山(えんざんやま)があって、そのふもとには向嶽寺がある。禅宗寺院だ。所蔵されている「達磨図」は確か国宝である。もちろん美術全集などにはしっかり掲載されている。
今朝、横浜展のDMをすべて投函した(と思う。おそらくきっと)。
天気:曇りのち雨

名勝負!

9f2f01aa.jpgたけしちゃんたちとの大冒険はもっと遠い。ずっと南のほうにある清澄庭園だ。ここに入るにはお金が要るが、下町の悪ガキは塀に抜け穴がある。あの庭園はものすごく遠く感じがした。他に浜町公園もあった。明治座がある。1回だけ新国劇の「宮本武蔵」を見に連れて行ってもらった。最初の関が原の場面だけ覚えている。多分すぐ寝てしまったのだと思う。相撲の国技館も近かった。今の国技館とは違い、日大講堂を使っていた。ねずみ小僧のお墓が近くにあった。相撲も1回だけ見に行った記憶がある。升席ではなく、後ろの立ち見だったと思う。栃若時代の全盛期だった。わが家は母が贔屓の栃錦派だった。
父が絵を描きながら鼻歌で歌っていたのは『上海帰りのリル』だったが、他にも「愛ちゃんは太郎の嫁になる」という歌とか「もしもしベンチでささやくお二人さん」というお巡りさんの歌などが流行っていた。
それにしても、今日の白鵬vs安馬の優勝決定戦は凄かった。ああいう相撲を見ると、モンゴル人も日本人もない。人間が精一杯勝負する姿は感動的だ。相撲界には八百長もあるのかもしれないが、今日の優勝決定戦みたいな勝負がある限り相撲は廃れない。
作品:F4「富士」
天気:晴れ

仁義なき戦いか?

びきちゃんとかっちゃんと私の3人で森下町から両国駅のほうに大冒険に出かけたこともある。途中の銀行で貯金箱をもらう。昔は銀行に行くと貯金箱をくれたのだ。両国駅の先には震災記念堂がある。ちょっとした庭園もあり、池もある。私はこの池で見知らぬ子供と大喧嘩をして溺れて死にそうになったこともあった。その子は2歳年上だった。私は昔から大柄だったが、ひょろっとしていて全然強くない。だけど、下町には縄張りやグループがあって、余所者は戦わなければならなかった。小学校でも、われわれ3人はいつも一緒。大柄な私がシールドとなっていた。
父は戦争中にカリエスになっていていつも入院していた。この前、救急車を受け入れなかったことで問題になった墨東病院の常連だった。昔は墨田病院と言った。そこの先生たちもよく可愛がってくれたし、父の絵を買ってくれる先生もいた。田口先生とか近藤先生だったか?
びきちゃんやかっちゃんの家の方向に、一軒ひっそり暮らしている老夫婦がいた。たまに寄るとお菓子をくれた。オバヤシの駄菓子じゃない。なんか美味かったなぁ。
今日はけっこうたくさん横浜展DMを出した。
天気:晴れ

アジャブ、カイセイ

cbe63a0c.jpg「アジャブ、カイセイ」が私が目指す高校だった。麻布、開成のことだ。「あざぶ」と発音できないころからの第一志望。私はご近所の星だった。電車ゴッコで駅名を書くときは私が借り出された。文字を書けるのは私だけだった。ちなみに私の名前は「おしゃちゃん」。「おさむ」の「さ」は東京弁では「しゃ」となる。だから、「さけ」は「しゃけ」、「さかんや(左官屋)」は「しゃかんや」、「おじさん」は「おいしゃん」となる。アキラおいしゃん(父の弟)は結婚して八名川小学校の先に引っ越した。学校帰りには家と反対方向に向かって走ったものだ。だって、結婚相手は母の妹でこっちもれっきとした本物のおばさんなのだ。
私の子供時代は、たくさんの大人に囲まれていて、ものすごく幸せだった。アキラおいしゃんは、木を削って潜水艦を作ってくれた。鉛が入っていてちゃんと潜水する。しかも、アキラおいしゃんの家は貸し本屋。マンガが自由に読めるのだ(もっとも私がマンガを読み始めるのは小学4年以降)。店の奥の部屋にはステレオがあった。ベートーベンの『月光』を初めて聴いた。びっくりした。
今日はDMを少し出した。
作品:F8「富士山」
天気:晴れ。気温は上がったが北風があって寒い。
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