イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2009年03月

30年若かったら・・・

006b09fc.jpg牧谿の兄弟弟子にも凄いのがゴロゴロいる。法系図を見てぱっと目に付くのが、無学祖元(むがくそげん1226〜1286)、兀菴普寧(ごったんふねい1197〜1276)、円爾弁円(えんにべんえん1202〜1280日本人)の3人。これらの禅傑と同列に牧谿の名がある。
まず、無学祖元は蒙古兵に囲まれ、まさに首をはねられようとした。そのときの偈(禅的な漢詩、七言絶句)を聞いて元兵は去っていった。このような修羅場をくぐりぬけた男が日本に渡り、多くの禅僧を育ててくれたのだ。
兀菴普寧も日本に来た中国僧だ。鎌倉の建長寺の住職に就いた。建長寺の本尊は地蔵菩薩。自分は印可を受け、悟りを開いた仏(=如来)だから格下の菩薩を礼拝する必要はないと一切礼拝しなかった。これは普通に考えれば傲慢な話だが、当時の命懸けの禅の修行はそれほど厳しいものだったということ。
円爾弁円は6年間宋で修行した日本僧。この人の話はまた明日。
今日も金井画廊でいろいろな人に出会った。私が30年若かったらぶん殴っていた年配の男性(自称美術評論家)もいた。私の前で文化勲章の話はしないほうがいいと思う。でも年間300万円は欲しいよな。
写真:金井画廊3
天気:晴れ

最高のエリート

ae2043fe.jpgこの『芸術新潮』の記事を書いているのは山下裕二先生。いろいろな東洋の絵の企画展示をしてくれるありがたい美術史家だ。この当時は明治学院大学の准教授だった。
私の意見とはだいぶちがう。
「牧谿の絵は、余分な哲学や精神性などをくっつける必要のないきわめて高いクオリティを持ったものです」とおっしゃる。
別にこっちで哲学や精神性をくっつけているわけではない。もともとくっついている。もちろん絵としてのクオリティの高さは大前提である。問題は牧谿の意識がどこにあったか、だと思う。
牧谿は無準師範という臨在禅第一級の禅僧の弟子だ。無準師範(むじゅんしはん?〜1249)がどれぐらい偉大で、その弟子たちがどれぐらい凄いか、また南宋末期当時の禅の活況振りを述べないと、牧谿の禅僧としての自覚はご理解いただけない。だから、当分そういう話になってしまう。
とにかく、当時最高のエリートは禅僧だったのだ。今で言うと、WBCの野球選手とか宇宙飛行士か? 
写真:金井画廊2
天気:晴れ

芸術は宣伝部

10eabc3a.jpg今日は個展会場に行った。
で、牧谿の話。その『芸術新潮』は1997年の1月号。
P28で「(牧谿は)絵が本職といっていいでしょう」
と述べている。この『芸術新潮』では、牧谿を本職の画家にしたい、牧谿の絵を禅の宗教性などはなく、純粋な造形として見たい、見る価値がある、と一貫して主張している。
これは私とは正反対の意見である。
私は美術という独立した分野を認めていない。美術だけでなく文学や音楽などすべての芸術に言えることだが、そういう独立したジャンルはないはず。だってまず人がいて迷いがあって悩みが生じ死の不安がある。これが先だ。それを何とかしようようというのが宗教とか哲学である。そのわかりやすい説明に音楽や美術や文学が役立っているだけ。宗教株式会社の宣伝部が芸術だと思う。
写真:金井画廊の個展1
天気:晴れ

ちょっとした思い

金井個展の真っ最中だ。だけど、ここ3日ほど会場に行っていない。
個展中は、自分がおかしくなる。少しは絵も買ってもらえるし、だいたいの人は褒めてくれる。何も言わずに、絵も碌に見ずに数秒で出て行ってしまう冷たいお客様もいるけど、無言でじっくり見てくださるお客様も多い。
そうすると、やっぱり自惚れる。
絵は描いているその瞬間に価値があり、出来上がった絵は自分の手を放れた別物である。上手くゆこうが失敗しようが知ったこっちゃない。
これが原則だ。
だけど、やっぱり自分の絵には、愛着とまでは言わないけど、ちょっとした思いが残る。
ここ三日間で読んだ古い『芸術新潮』は牧谿の話。どうもいろいろ意見が合わない。これから当分その話になるかも。
天気:曇り

しなやかな線描

e10b0046.jpgどう考えても、ギリシア彫刻の太ももは素晴らしい。あの線は頭から離れない。しなやかな線描だ。しなやかであり、力がある。懐かしくて、それなのにエキゾチックだ。優美で端整。性的魅力にも富んでいるけど、近づきがたい気品がある。
あの太ももはたまらない。太ももを上にたどると、腰がありウエストがあり乳房があり肩から首に来て、理知的で魅惑に富む顔容にいたる。太ももの下にはかわいい膝があり、強靭なすねがあって、キュッと締まった足首の下に身体を支える足がある。足は大きく、足の指も長い。一本一本変化に富んでいる(大英博物館の柱少女の足は壊れている)。
これがパルテノン神殿の柱の少女だ。とても大きい。身長2.5メーター弱はあると思う。
最近のテレビタレントの女の子の太ももはすごく細くて気持ち悪い。
作品:F4「ラプソディ」
天気:晴れ。寒い。

どうすりゃいいの?

今日からまたマンションが始まる。金井画廊には3日間行けない。
やっぱり、いい絵を見ないといけないと思う。もちろん、彫刻や陶磁器も含めてだ。100円ショップのプラスチック製品ばかりに囲まれていては目は肥やせない。目だけではなく、身体の細胞の一つ一つがプラスチックになってしまう。チャチで壊れやすく、なくしても未練がないような品だ。これに対して、どっしりして長持ちする一生物といわれるような調度品は愛着も湧く。人の手が感じられ、温かみがある。だけど、ブランド物というのもあまりにブランドにこだわりすぎるといただけない。ブランド物ばかり身に着けているような人は「いったい、お前は何者なんだ!?」と聞きたくなる。裸になったときはブランドゼロだよ。
ブランドになる前のグッチを捜し出さなければならない。これは至難の業だけど、それこそ真なるコレクターというものだ。そういう目の肥えた粋な通人もなかなかいない。とは言っても白洲正子も鼻につく。
どうすりゃいんだよ!
天気:曇りのち晴れ。起きたときは雪が舞っていた。

明るく健康的

12547d18.jpgだいたい、偉大な文化は異文化との衝突で生まれる。ルネサンスはマルコポーロが中国文化を移入したことで大きく花開き、盛期ルネサンスを生んだ(と思う)。モナリザのバックが中国の山水画なのではという指摘は以前からある。古代ギリシア文明もエジプトやペルシャの文明が交流して生まれたと思う。
日本の飛鳥、白鳳、天平文化、また鎌倉文化なども中国、朝鮮の影響が大きかった時代に誕生した。昨日述べた話も南蛮文化の影響のことだ。
で、日本の浮世絵から影響を受けていない印象派の画家がもう一人いた。セザンヌだ。正確には後期印象派に入る(らしい)。ま、セザンヌとかルノアールはヨーロッパかぶれかも。聡明そうに見えるのは、ドガ、ロートレック、マネ、モネ、ゴッホだけどネ。もちろんヨーロッパ文化は惚れ惚れするぐらい素晴らしい。日本なんかの影響は無用かもしれない。
しかし、古代ギリシアの彫像がヨーロッパ文明か、というとこれも「?」。
だって、ケルトとかゲルマンはギリシアに比べるとあまりにも異質だ。『ハリーポッター』の世界? ギリシアはもっと明るく健康的で開放されている。
今日は一日金井画廊にいた。
作品:F4「ロンド」(昨日のクロッキーで描いた絵。金井画廊に展示中)
天気:曇りときどき小雨。寒い。

誰だ、そいつは!?

画廊にいるとこのブログをご覧になっている方が結構見えるので、びっくりする。で、なかにこんなに激しいブログはめったにないとおっしゃる方もいた。私としては普段の10%も本性を見せていないつもりだったが、けっこうばれているのか? それとも、10%でも十分激しいのか? これからも気をつけよう!
と思ったとたんに、画廊で「フランスの印象派は、本当に日本の浮世絵から影響を受けているのか?」と話題になった。「ほとんど影響はない、むしろ日本の浮世絵師が西洋の遠近法などを学んで影響を受けた」といっている学者がいると言う。私は思わず本性むき出しになり、「誰だ、そいつは! ここに連れて来い」などと口走ってしまった。ああ、なんと品のない人間なんだろうか?
確かに、江戸時代には思いのほかヨーロッパが入っている。イソップ物語は「伊曽保物語」として入っているし、絵もかなり影響を受けている。北斎が遠近法などを取り入れているのも事実。
だけど、印象派が浮世絵を研究したことは紛れもない真実だ。影響の大きさも計り知れない。特に、マネ、モネ、ドガは熱心だったし、ゴッホは浮世絵を模写した。ロートレックも影響大。あまり関心がなかったのはルノアールぐらいか。印象派以降もボナールやヴィイヤールなども日本趣味だった。マチスも。マルケの風景の水平線が高い構図(鳥瞰図)は完全に北斎、広重のパクリだ。
今日はクロッキー会があった。会員私を含めて4名。会がつぶれちゃうよ。と思ったが、WBCとぴったり重なっていたのでは敵わない。もっとも、最後の8回からのクライマックスは私も見られた。夜はプールに行った。
天気:曇り。寒い。

これだけかよ

4638a775.jpgパンフレットを見る限り、私の絵の筆の跡は物凄くいい加減だ。離して見るとけっこうバラや海とわかる。この描法だとたいへん危険が多い。失敗が多い。本当によく失敗する。だけど、上手くゆくと、不思議な感じを受ける。こんな塗ったくったような絵具の跡がヨットに見えたり、水面に見えたりする。こういう絵ってけっこうないと思う。新しいかもしれない。もちろん、パンフレットには1年分のなかでましな絵を選ぶ。DMと重ならないようにしてあるけど、何百枚も描いてこれだけかよ、と言うぐらい少ない。情けない。
だけど、こういう描法が日常のマトリックスから真実の世界に私を連れて行ってくれるのだ。真実の世界は映画『マトリックス』のような廃墟ではない。永遠と無限の深層世界だ。
今日は金井展の初日。さすがに金井画廊はお客さんが多い。いつも一人だからとても疲れた。
作品:F4「椿」
天気:晴れ。風強し

09年パンフレット

09年度のパンフレットを作った。その小文は「油絵を始めて40年以上になる。/私にはもうこの画材しかない。/だが、画材は画材、所詮、道具だ。/しかし、この道具が連れて行ってくれる。/絵具まみれ、油まみれになって、/意識が深い森の中に入ってゆく。/「永遠」のバイオリズムか?/宇宙のダイナミズムか?/キーワードは/新鮮、喜び、感動、自然への恭順。」というもの。
最近のブログやホームページで書いていることを要約したつもりだが、この文だけでは何を言っているのかわからないだろう。ま、深い本当の悟りは開けそうもないが、絵を描き始めると、「とき」がなくなる。これが永遠というものだと思う。おそらく仏教の悟りもそういう心境に近いものだと察する。もうこの歳ではそう思い込むしかない。
で、パンフレットの自分の絵をじっと見てみると面白いことに気がつく。それはまた明日。
今日もプールへ行った。明後日の火曜日も行けそう。それから12日間行けない。金井展とマンションが重なる。
天気:終日風雨(雨は少ない)。
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