イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2009年05月

人は死なない2

5c3e03ab.jpg人は死ぬと同時に意識がなくなる。意識がないということは何の認識もないということだ。好きも嫌いもない。見栄も外聞もない。何にもない。自分でカッコつけることもないし、他人をカッコいいと思うことない。尊敬も軽蔑もない。何にもなくなる。痛くも痒くもない。この世から自分がいなくなる。自分がいなくなってもこの世は続くのだろうが、自分がいないのだから、残ったこの世なんかどうでもいい。あってもなくてもいい。もちろん、残った家族や友人や知り合いのことは気にかかるが、そんなこと気にかけてもどうしようもない。気にかけているのは生きているとき、死んでしまえば気にかけることもできない。それが死だ。病気になるかもしれないとか歳をとるとか死ぬとか、気にしているのは生きている自分だ。生きているから気になる。死んでしまえば気にしたくても気に出来ない。「死」を気にかけている人は生きている人だ。気にかけている限り生きている。間違えなく生きている。私の父も死ぬ間際に「俺、死ぬのかなぁ」と言っていたが、そのとき父は間違えなく生きていた。
だから、生きている人に死はない。死の心配があるだけ。死そのものはない。生きている人は永遠に死を体験できないのだ。道元の言う薪と灰のたとえは以上のようなことだと思う。
すなわち、生きている人は死なない!
今日は午後プールへ行った。
インターネット美術館(グーグルで検索してください)の企画展の09年6月(現在すでにアップ中)は、私の風景画。最近の富士山などの絵をアップしていただいた。
作品:F6「黄金のバラ」
天気:薄曇りのち一時雨

人は死なない

死について考えた。人は死なないと思う。人は絶対に死なない。しかも老いない。病気にもならない。今健康な人は永久に健康である。もちろん、いま健康な人も病気になる可能性はある。死ぬかもしれない。さらに、10年後には10歳が増す。しかし、いま健康な人は健康なのだ。もっとも健康といっても、厳密に完全な健康人はいない。私だってほぼ健康だが、足が痛かったり、首を回すと右のところに違和感があったりする。ササクレもしょっちゅう出来る(今のところササクレはない)。
とにかく、人は死なないのだ。だって死んだ人は自分が死んだって自覚しないもの。ここのところをよくよく考えていただきたい。道元も説明しているし、落語の『粗忽長屋』もここがテーマだ。「死んでいるのは確かに俺だが、この死んだ俺を抱いているのはどこのどいつだ?」という疑問。
道元は『正法眼蔵』第1「現成公案」で、舟に乗っているときのことや薪が燃えて灰になることなどを例に説明している。また、生きて活動していることの意味を『正法眼蔵』第22「全機」で説明している(と思う)。つまり、薪が燃えて灰になるのだが、薪と灰は別なもの、薪は薪、灰は灰、という考え。(明日に続く)
今日はクロッキー会だった。不調だった。息子が車を売ってしまい、足がなかったが、絵画教室の望月さんが参加してくれて連れて行ってくれた。
天気:朝のうち雨のち曇り

大雑把な方向

2312d6db.jpg絵のいい悪いって何だろう? 絵がモノになるとは何だろう?
たとえば、私が「えっ!? この絵?」というような絵が高額で売買されている。父の言う「最近のヤツの絵」だ。個展会場で私の絵を熱烈に褒めてくれる方の絵を見てがっかりする場合も多い。いっぽう、牧谿が全然わからないという人もいる。超細密描写は大好きな人と大嫌いな人に二分される。フェルメールが嫌いな人は滅多にいない。熱狂的に好きな人は多い。
多種多様。まったくわからない。
やっぱり信仰みたいなものなのだろうか? 人それぞれがそれぞれまったくちがう宗教を生涯をかけて信じ込み、信仰のために命を捨てる場合だってある。不思議だ。
そういう世間の様子を全部ひっくるめて考えても、私は絵画の真実というのはあると思っている。それを究めるために絵を描いている。それは描いている瞬間にあるというところまではわかっているつもりだ。
けっこういい線行っていると自分で勝手に思い込んでいる。
もちろん、迷ってはいるが、大雑把な方向はこんなものだろうと思っている。だいたいが能天気だ。
古典絵画をよく見ること、自然をよく見ること、たくさん描くこと。
今日はホームページの更新日だ。
作品:F3「赤い野バラ」
天気:雨

「本物」を見る!

中二のときに近所の公立の道場で剣道を始めた。70歳前後の先生が教えてくれていた。凄くいい先生だった。いま思うとおそらく警察OBだと思う。その道場でも、初めは素振りばかりだった。立会いなんてもちろんない。防具もなかなか貸してくれなかった。日本の習い事には見習う方法があるように思う。習い事だけでなく、大工や板前など職人が仕事を覚える場合でも見習い期間がある。不合理のようだし、ちょっと考えると非合理だ。どんどん道具を使って手取り足取り教えたほうがよく覚えるようにも思う。だけど、「あの道具は何だろう?」とか先輩の仕草を見て興味をもち、自分でもやってみたいと欲するのは物凄く有効だと思う。興味が湧けば飲み込みのスピードは倍増する。
また「最近のヤツの絵」(父はこういう言い方をした)を見てはいけないと言う。目が悪くなると言う。見るなら美術館で本物を見るようにと教えてもらった。「本物」というのはヨーロッパや中国や日本の古典絵画だ。それから、ヨーロッパに行く前に奈良を十分見ておくようにとも言われ、私は自転車で奈良へ行って、10日間奈良のお寺を走り回った。奈良にはかなり詳しい。
父の教えがどうだったか、私は全面的に信用してはいない。それが証拠には自分の子供には父のような方法は取っていない(というかほったらかしだ)し、私の絵は依然としてモノにならない。
今日は勝手に取材として日本の美術館展に行って「本物」を見てきた。夜はプールへ行った。
天気:雨

見習い

a0545e72.jpg父は安定した生活をしたらましな絵は描けない、と言っていた。父は私の師だから、けっこうその教えを守ってきた。しかし、この歳になって、振り返ってみると、「ましな絵」に対する代償はあまりにも大きい。大きすぎる。普通ではない。まさに狂気の沙汰だ。
いま振り返ってみると、他にもいろいろ気がつく。いいか悪いかは分からないが、いったいどうしてああいう方針が正しいと思ったのだろうか?
たとえば、美大に進学してはいけないと言う。このことは今までも言ってきた。
また、公募展に出品するのも禁止だった。
ただひたすらデッサンをせよと言う。
写生などには連れて行ってくれるし、静物や人体を描くときも同席させられるが、油絵はいっさい使わせてくれなかった。
私が初めて油絵を使ったのは17歳のとき。そうとう遅い。だけど、不思議に使い方が分かるし、凄くなじんでいる。今でも使いやすい。もしかすると、油絵の具で描きたいとずっと思っていたからかもしれない。
父はよく「見習い」と言っていた。そういうことは本当にあるのかもしれない。
今日は20枚近くのニューキャンに地塗りをした。
作品:F4「願い」
天気:晴れ。

なぜか腹が立つ

なぜか腹が立つ。無理だよ。何もないところに絵を描いたり、文を書いたり。キャンバスも原稿用紙も、このワードの画面も真っ白だもの。しかもそれを売ろうと言う。話にならない。そんなものに誰が金を出すんだろう。お金は食い物や住むところに出すものである。つまり衣食住だ。それがお金というものだ。バラを見て、その感動した気持ちにお金をもらおうというのは、Miだっけ? ミッションインポッシブル。不可能な指令ということだ。
全然話にならない。
マンションの管理人は衣食住で言えば「住」に関する大切な仕事だ。だから、ちゃんと働けばちゃんとお金がもらえる。
絵や文章は本当に難しい。
それにしても、歳をとればいいというものではない。さっきテレビに高齢の洋画家が映っていた。絵も映っていた。富岡鉄斎というわけにはいかない。だけど、あのお歳で元気に頑張っているだけでも立派だと思った。私の倍だ。だって、20歳までは計算に入らない。そうすると、私で40年弱生きてきた。さらに40年生きると100歳だ。だから、100歳の方は私の2倍頑張ったという計算になる。
天気:晴れ。暑いが湿度はない。

時間も金も・・・2

f0df9823.jpg画材の費用も膨大だが、それを保管するのにも金がかかる。出来た絵も取っておかなくてはならない。それから画集。これがたいへんだ。私は一般的な画集はほとんど持っている。美術出版社、集英社、小学館、講談社、中央公論などなど、美術全集のほとんどを持っている。さらに日本の美術や水墨画の画集も揃えてある。いつでも見られるように、目の前にずらりと並んでいる。これらの本はほとんどが古本で、若いころから一冊ずつ買った。40年間にわたって買い溜めて来た。私は公立学校の先生でもないし、大学教授でもないから、すべて自分で働いて自分で買った。これは普通当たり前。この2年間は『翼の王国』のおかげで全日空さんにけっこう買ってもらった。だけど保管場所までは提供してくれない。絵の保管もハンパじゃないが、画集の保管もバカにならない。
作品:F4「想い」
天気:曇り一時雨、午後から晴れ。

金も時間も・・・

しかし、人間は生きてゆかなければならない。キャンバス張りと言ったって、キャンバスと木枠と釘を買わなければ出来ないのだ。当たり前だが、描くとなれば、絵具、画溶液、筆が必要だ(ボロキレは超必須)。すべて天から降ってくるわけじゃないし、地から湧いてくることもない。お金がかかる。
その前に、絵を描く時間がいる。絶好調の体調でキャンバスに向かうとなれば、その調整も簡単ではない。ふらふらヨレヨレでキャンバスに向かっても生気あふれる傑作は出来ない。
「この絵は何時間ぐらいで出来るんですか?」
とよく聞かれる。私は正直に5分か10分と答えているが、正直「全生涯をかけて描いています」と答えたい。
まったく「一目見れば分かるでしょ」と言いたい。
本当に分かる方もいる。ほとんど質問もせずに黙って買ってくださるもの。目の利く人っているものなのだ。まこと、金も時間もかかってます。
今日はプールへ行った。1週間ぶりだったのでけっこう苦しかった。
天気:雨

昨日も今日も

3a3e5d88.jpg絵はいっぱい描かないと上手くならない。ものすごくいっぱい描かないとダメだ。文章もいっぱい書かないとモノにならないみたいだが、同時にいっぱい読まないといけない。私にはこれがしんどい。本は嫌いじゃないけど、私は読むのが遅いから大仕事になる。義務として読むのは辛い。好きな本でもなかなか進まない。
絵も描くと同時に見ることも大切だ。だけど、見るのは楽しい。本を読むみたいに骨が折れない。絵を見ると言っても、趣味で描いているそこらのグループ展の絵ではないから、くれぐれもお間違いのないように願いたい。私の言っているのは美術館などにある絵だ。本だと、素人の同人雑誌を読む人はほとんどいない。活字は何万部何十万部と印刷されるし、文筆業は厳しい世界だから、十分鍛錬されたプロの文章を読むことになる。これは有効だ。それでも、小説家を目指すなら日本も含めた世界の古典文学を読破しなければならないだろう。山本周五郎が小説家の修業をした頃の話を読んだことがあるが、それは厳しいものである。
絵でも、古典絵画の原画に当たるとなれば相当の努力が要る。絵描きになるなら、いっぱい見ていっぱい描かないとならない。いっぱい描くと言っても、びっくりするぐらいいっぱいだ。とにかく、昔の画家たちはうんざりするほどいっぱい描いている。2年間の『翼の王国』の取材で改めて気がついた。物凄い分量の絵を描いている。100年ぐらい前の画家の絵と伝記を比べると「これだけ描いてもこの程度かよ」と思える人もいる。
で、私の分量だが、私でもギリギリセーフって感じ。ちなみに、私は年間600枚は描く。まだまだだ。なかなか「これでいい」とはいかない。昨日も今日もキャンバス張り。
とにかく、美術論ばっかりやってほとんど描かない絵描きは話にならない。まず見ること、そして腕を動かすこと。ここから始まる。
作品:F4「若草」
天気:晴れ

生きる糧

絵は描いているときが一番楽しい。バラ園で汗びっしょりかいて、キャンバスと格闘している瞬間が最高。実に気持ちいい〜。だが、絵はモノとして残る。ここが面倒だ。残ちゃうから、上手いとか下手とか、褒められるとか、売れるとか、いろいろな尾ひれが付く。まさに、そんなの関係ねぇ〜、のだ。
描いている瞬間、これを私は「暮らしの微分」と思っている。いま自分が何をやっているか、この瞬間を確認するのだ。そして強く意識する。これが暮らしの微分だ。われわれの最高の喜びはここにある。北島康介なら泳いでいる瞬間だろう。北京のプールで金メダルを目指して泳いでいるその瞬間が最高なのだと思う。プールから上がってインタビューを受けているときとか、表彰台に上がっているときなんかどうでもいいのではないか。というか悪い気はしないだろうが、最高ではないと思う。
人は誰でも自分の瞬間を持っていると思う。それが生きる糧だと思う。
道元さんは坐禅をしている瞬間は誰もみな仏様だと言った。
天気:晴れ。風あり。
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