イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2012年12月

チョー肉体労働

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生気が漲っていて、覇気があり、元気いっぱいなのは午前中だ。せいぜい持って3時間。クロッキー会も絵画教室もこの3時間を使う。私の絵はほとんど午前中に出来る。バラや芙蓉も午前中の2時間ぐらいで描く。これから挑む等迦会の100号も午前中を使う。こっちは1枚コア1時間で仕上げないと絵具の無駄になる。キャンバスは潰せば使える。絵具は使い捨てだ。私の絵具は高価なのだ。だから、和尚の留守のお寺に襖に水墨画を描いた長谷川等伯みたいな緊張した気持ちで描かないともったいない。大理石を彫る彫刻家みたいにやり直しなしの切羽詰った気持ちで描かないとダメだ。
この秋に挑戦した夕方の風景だと、午前中に描くのは無理。10分ぐらい寝てから描く。10分と言っても30分ぐらい横になる。もちろん午前中の勢いはないけど、そうとう回復する。
ま、私の絵は以上のように体力勝負であり、肉体労働である。短時間で描くけど、体調を十分整えるには数日かかる。最高のコンディションで臨む。
運動(歩行、水泳、体操)、食事、体重をいつも気にしている。ある画商が「こんな絵は描きかけだ」と罵ったけど、「あんたじゃ、絶対描けないよ」と言いたかった。
子供のころから古典絵画を見続け目を肥やし、線を引き続け腕を磨かないと出来ないのだ。
30歳からずっと午前中を我がものとしてきた私はなんと幸運な人間なんだろう!
今日は息子の新車を運転して江ノ島方面に行った。夜は紅白をしっかり聴いた(スパイダーソリティアをやっているのでよく見ていない)。
作品:F6「大地」(今日のブログみたく啖呵を切った後で自分の絵を出すのはとても厭だ)
天気:晴れ

鑿の歓喜

パルテノン「柱状少女」
まったく、古代ギリシアの彫刻は素晴らしい。自分画集に収録したパルテノンのイリス(12月20日アップ)と柱状女性(本日アップ)がA4ファイルの見開きになっているのだが、そこを広げてずっと見ていると、まったくその威容に、あらためて驚嘆する。
まことに立派である。
堂々としている。
どうやってあの存在感を創り出したのだろうか?
わが町田市にもあちこちに彫刻が置いてある。豊橋市にも町中に彫刻がある。しかし、最近の彫刻にパルテノン彫刻の威容はない。
古代ギリシアはどうしてあんなに立派なんだろう? 私の思い込みだろうか? いいと思い過ぎなのだろうか?
勢いがあり、作家の息吹が漲っている。しかも細かいところまで彫ってある。素晴らしいリアリズムだ。硬さが全然ない。自然な動きを見事に表出している。あんな大理石の彫刻。取り返しがつかない一発勝負で作るのだ。凄いね。
人体の筋肉やバランスを知り尽くしている。こう動くとこう盛り上がるなどなど、解剖学とか医学とは別の、美術家の目でしっかり掴んでいる。
いやいや、そういう細かい五月蝿いジジイみたいなことではなく、創る喜びがあり、彫刻の鑿の歓喜が伝わってくる。
でっかい彫像なのだ。
われわれはあの鑿の喜びを味わい、伝えてゆかなければならない。う〜ん、でも、足元にも及ばない。しかし、死ぬまで追うなぁ〜、やっぱり。
画像:パルテノン「柱状少女(カリアティード)」
天気:雨

芸術至上主義について

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ニーチェが「芸術は至上である」言ったのと、一般的な芸術至上主義はちょっと違うようだ。深く考えると、根源的には同じようにも思うけど、やっぱり違う。
だって、一般的な芸術至上主義は、芸術に目的はなく芸術は芸術のためにだけ存する、つまり、「芸術のための芸術」だという主張だ。ニーチェは「芸術は生きることを可能ならしめる偉大なもの」と言っている。
私などの絵画観は、もう初めから芸術至上主義的だ。たとえば、絵は教会に捧げるものでもないし、王様や貴族の慰めものでもない、という主張だし、当然現代ではそんな要求もない。私がいつも述べている「描きたいものを描きたいように描く」というのは本来の芸術至上主義にとても近い。
しかし、多くのクラシック美術を見る限り、現代の芸術至上主義が絶対正しいとは言いがたい。ほとんどの素晴らしいヨーロッパ古典美術が、教会の要請や王様や貴族の欲求から生まれているからだ。
現代では、芸術至上主義にならざるを得ない。教会や権力者という強大なパトロンがいないからだ。
ここのところは、もうちょっとちゃんと考えないと難しいかも。だけど、イッキ描きで絵を描く分には、何の問題もない。何にも関係ない。何の拘束もない。
ただ、私の不見識から「芸術至上主義」を間違っていただくと申し訳ないので、ここに記した。もっとも「ニーチェ」を出したら、ほとんどの人は黙ってしまう。たいていの人はニーチェが凄い哲学者だとは知っていても、その中身は知らないからだ。しかし、そういう権威主義が一番危険である。
12月28日、なぜかこのブログのアクセス数が200を越えた。かつてない訪問者。どうしたんだろう。ラジオ出演のときより多い。
作品:F4「路地」
天気:晴れ

首から肩の線

クニドスのデメテル
名古屋で個展をやったとき、師弟みたいな、年配の男性と青年の男性が入ってきた。私の裸婦を見て、「首から肩の線はこうやって処理するものだよ」と説明している。もちろん全然知らない人たちだ。
私の絵をお手本にして人体の描き方を教えているらしい。
「あれ? 俺の絵ってお手本になるほど立派なのか?」
と思ったけど、悪い気はしない。
二人が帰った後、ひとり自分の絵を見て「へぇ〜、首から肩の線はこうやって描くものなのか」と私自身も自分の絵を見直した。
これは、きっと自慢話だと思う。すっかり忘れていたけど、26日のクロッキー会のときに急に思い出した。もう7年も昔の話だ。
画像:クニドスのデメテル(私の初恋の古代ギリシア像。最盛期より100年ほど下るBC330年ごろ)
天気:曇りのち雨

潔く散る

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全世界の人が温めた布団から起き出している。それは、南国の人にとっては温かい布団になど何の未練もないだろう。だけど、とても多くの人が寒いところで暮らしている。ヨーロッパなんてムチャクチャ寒い。
全世界の朝の布団の温もりを全部集めたら相当な熱量になる。膨大なエネルギーだろう。それをみんな捨てて起き出す。潔い。気風がいい。
こういう気風のよさを人間は生まれ持っている、と思う。万国博覧会は莫大な金をかけて行うけど、終わったら全部片付けてしまう。そこが万博の魅力でもある。だから、万博後に少し施設を残して公園にする、なんていうのは万博精神に反する。しみったれた、貧しい根性だ。
人類の存在自体が、そういう、パッと咲いてスゥーっと退く、みたいな、桜が咲いて散るみたいな運命を持っている。地球滅亡後もイスカンダルを目指す、なんていうのは邪道なのだ。本当の人類は、宵越しの銭は持たないのだ。
われわれは滅亡する運命にある。お釈迦様も「形あるものは壊れる。生あるものは死す」と言ったではないか。
私が中学時代に勘違いした「やりたいことをやる」という考えはそれほど間違っていなかったかもしれない。
だけど、生きている限り、ちゃんと計画的にきちっと生活しなくてはいけないかも。ラテンは危険だ。ノーテンキはダメ。私みたいなのは例外である。結局バカだと思う。
今日は150枚の蛇を描いた。明日年賀状が出せるか?
夜は歩いてプールに行った。とても寒かったので、いつもより1時間早く行った。普通に泳げた。今日が今年最後のプールだ。
作品:SM「バラ」
天気:晴れ。とても寒い

十分気をつける

精神状態が良好だからと言って、悟りを開いているわけではない。周りのいろいろな人が死んでゆくのを見ると自分もいつかは死ぬ。これは怖い。だから悟りを開いてはいない。朝起きるのもつらく嫌だ。この歳でも、せっかく温めた布団を去るのはもったいないだろが! と思ってしまう。しかし、起きないと腰が痛くなる。ま、その前に1日が始まらない。もちろん偉そうに言えるほどの1日でもないけどね。
死については、「自分は死なない」説なので、一応落ち着いている。やりたいこともいっぱいやったから、ま、いい。男女の性愛は少ないけど、恋愛はとても多く、片思いは果てしなく多い。何度も書くが、男女のことは相手がいるから難しい。犯罪者にはなりたくない。特に、歳をとっている今は資格もない。
芸能界などで、年寄りが若い女性と結婚して、子供まで作っているけど、医学的にはとても危険だ。そういうことは知らないといけない。生まれてくる子供は第三者なのだから、無責任なことは出来ない、というのが倫理上の建前である。
とにかく、私は悟りからは程遠い。絶対無理だということを悟っている。
で、大切なのは人事を尽くすことだというのも知っている。
だけど、とても危うい。犯罪者になりかねない。道で美人とすれ違うと、振り返ってしまうし、喧嘩したくなるほど頭に来る奴もいる。まったく殴ってやりたい弱いものイジメ野郎だ。だけど、そんな奴とかかわって犯罪者になったり負傷者になったりするのは馬鹿馬鹿しい。わかちゃいるけど、頭に来る。とても危うい。
ちゃんと死ぬまで十分気をつけて、絵を描こう! 犯罪者になって刑務所に入ったら、油絵は描けないと思う。キャンバス張り(=刑務所の作業)だけはしなくてはならない。最悪だ。
天気:晴れ

人事だけ尽くせるか?

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中学生のころ、父が「人事を尽くして天命を待つ」と墨書してくれた。壁に貼ってあった。
いま思うと、大切なのは「人事を尽くすこと」であって「天命」はどうでもいい。待つ必要もない。気にすることはない。人事だけ尽くせばいい。
で、現在の私は人事を尽くしているだろうか?
実際、こういうものには基準がないから何とも言えない。80歳の三浦雄一郎は、エヴェレストを目指している。マンガ『ドラゴンボール』の悟空みたく足や腕に重りをつけて暮らしている。62歳の私は歩くだけでもヒーヒー言っているのに、足に何十キロかの重りを巻いて歩いている。
私は毎日1万歩歩くようにしているけど、週に2日ぐらいはサボっている。水泳は週2回40分弱で1500m泳ぐだけ。これだけでも相当な負担だ。
絵だけはたくさん描いているけど、私のイッキ描きは速いので合計時間は長くない。
自分ではけっこうグータラ人間だと思っている。少なくとも、偉そうに、他の人に人事を尽くせなどとは言えない。
ま、毎朝水をかぶって、江戸時代みたく年賀状を、墨を磨って手書きしている。そういうところは珍しい。ギリギリ健康も維持している、か? 
天命を待ったり、富貴栄達を願ったりすることはない。落ち着いている。若いころよりずっと落ち着いている。精神状態はとても良好かも。
作品:F3「聖夜」
天気:晴れ。とても寒い。

共通の線

昨日の日曜美術館の白隠(1668〜1768)はよかった。雪舟を禅僧というより画家だったと断じていた美術史家の先生も、白隠ばかりは禅僧ということを否定していなかった。否定できない。生粋の禅僧だもの。
私は雪舟もちゃんとした禅僧だったと考えている。
牧谿ももちろん禅僧である。牧谿などは住職にもなった人だし、ちゃんと禅の系譜に名がある。来日して禅を伝えてくれた無学祖元や兀菴普寧(ごったんふねい1197〜1276)と同列の兄弟弟子だ。
白隠の線はピカソを思い出す。ピカソの晩年の線と共通している。80歳になるとああいう線が引けるのだろうか? いや、誰でも引けるというものではない。描きに描いていないと引けないと思う。画壇に君臨していたのでは、ああいう線は引けない。
あの、墨をいっぱい吸った大きな筆で奔放に引いた線だ。ピカソは油絵でいっぱい引いている。王様の顔とかをいっぱい描いている。浜松美術館のピカソ展で見た。
今日は知り合いのお通夜に行った。カソリックのキリスト教だった。はからずも聖夜に賛美歌を3〜4曲も歌った。
天気:曇り。とても寒い。

時空を超えた真諦

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絵を描くことによって、線描や色彩の絶妙な響きを味わうことが出来る。
もちろん見るだけでも楽しい。
描きながら見れば味わいはさらに深まる。
古典の画家や彫刻家と線描や色彩の会話が出来る。無論、その会話に言語は不要。線描の会話は、古代ギリシア人ともインド人ともカンボジア人とも中国人とも自由自在だ。たくさんのことを教えてもらえる。厳しい造形の妙が伝わってくる。それは厳父にも似ているし、懇切丁寧な師ともなり、優しい母ともなる。
一番肝心なことが何なのか、いつも語ってくれる。
何度も言うけど、われわれは、クラシック美術の共通点を探っている。全世界のクラシック美術に低通する真諦を見極めたい。出来れば自分も再現したい。少なくとも同じ気持ちで筆を執りたい。
美術史家はクラシック美術の違いを指摘する。
絵描きは共通点を見つけ出している。それは現生人類の感動であり、願いであり、行動だと思う。それはちゃんとあるのだ。正義とは言わない。社会正義みたいなものではない。もっと幽かで儚い淡い何かだ。でも確かにある。
今日は、昼間に歩いてプールに行った。
作品:SM「気配」
天気:曇り

人類史上最高の油彩画家

ティツアーノ「ニンフと羊飼い」
この前、自分なりの絵画論をまとめておきたいと画集から画像をスキャンして自分画集を作っていたら、そのクラシック画集作りに熱中してしまい、次々にティツィアーノやルーベンスや古代ギリシアの彫刻写真を集め始めた。その分け前として、このブログにも、画像をアップしている。
で、つくづくティツィアーノの晩年の絵を見直してみると、やっぱりいい。不思議な絵なのだ。ミケランジェロがティツィアーノのデッサン力を非難したが、確かに裸婦のポーズなどに無理がある、ようにも見える。ミケランジェロはティツィアーノの色彩や油彩画の技術に一目置いている。それで、自分は彫刻家であると居直ったのかもしれない。ま、実際物凄く偉大な彫刻家だけどね。
私は最高の油彩画家はティツィアーノだと思っている。ルーベンスでも及ばない。特にティツィアーノの最晩年の油彩画は人類史上誰も到達できない域に達したと考えている。たとえば、私が絶対絵画とも判定しているフランスのブグローなど足元にも及ばない。考えていることがまったくちがう。レベルがちがう。美意識がちがう。確かにブグローは素晴らしい油彩画家だが、とんでもない勘違いをして、その方向での最高峰になった。でもそれは本道ではない。絵画の本質とは別な栄光だった。ブグローよりもドガのほうがずっと本質に向かっている。まっすぐに向かっている。わき目も振らずに突き進んでいる。
人の一生は一度しかない。取り返しがつかない。絵描きの一生も一度だけだ。脇道に入って、絵画の本質から離れてしまっては悔やんでも悔やみきれない。
いつも、ティツィアーノに帰り、古代ギリシアを想い、牧谿を慕い続けなければいけない。
今日は息子夫妻に子守り料として寿司をおごってもらった。公務員夫婦は金持ちだね。子守りは好きでやっているだけだけどね。
画像:ティツィアーノ「ニンフと羊飼い」(このヘンチョコリンなお尻が堪らなくいい)
天気:雨のち曇り
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