イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2013年02月

光と影より塊を

絵は調子を追いすぎると暗くなる。冴えがなくなる。冴えを狙うと色が飛ぶ。絵具が付いていない状態になる。絵具がしっかり付いていて、冴えも切れもある画面、となるとゴッホの絵か。
そういう造形上の極当たり前のことも知らない人がたくさん油絵を描いている。写真を見て写真のように描けると思っている。そういう人は、超初心者だ。それなのに絵を発表する。一般的には、ある程度腕を磨いて、描けるようになってから発表するのが順番だけど、今の展覧会場事情では、誰でも発表できる、らしい。とても民主的で平等だけど、これってダーダーなだけなのでは?
絵具が付いていて冴えもある絵が描きたかったら、大量に描くことだと思う。だけど、真剣に集中して描かなければならない。古典絵画をたくさん模写してデッサン力を高めなければならない。
写真のこともよく知るべきだ。よく「レンブラントの光と影」なんて言うけど、レンブラントの肉付けを学ぶべきだ。レンブラントは塊を描いている。ものの塊だ。光と影も利用しているけど、人体の骨格を掴み、きっちり肉付けをして、肌の質感を描ききっている。ま、神業だけどね。結果として絵具が付いて冴えのある画面が出来上がる。至難の業だ。
絵具に馴染み、筆に精通しなければ生まれない絵画だ。われわれは少なくとも絵具に馴染み、筆をいつも使う習慣を持つべきだ。これなら誰でも出来る。それを10年やってから世間に絵を発表して欲しい。
私の父は私に公募展出品禁止。個展禁止指令を出し続けていた。私が個展をやったのは30歳を過ぎてからだ。公募展に出し始めたのも28歳ぐらいだったか? 落選ばかりだったけどね。
初めて銀座で個展をやったのは46歳のときだった。
今日は、午後から町田に行った。ブックオフで美術出版社の『巨匠の世界』シリーズを2冊買った。だって、定価が6800円だった本が300円だったのだ。信じられない。他に小泉清の画集(巻末のスナップ写真に父が写っていた)と「日本の仏教」(渡辺照宏・岩波書店・105円)を買った。持っているけど相当ぼろいので。
夜は歩いてプールに行った。暖かかったせいかけっこう人がいた。7人ぐらい。
とても疲れた。オーバーワークだったかも。
天気:晴れ。15度前後。

しっとり落ち着いた・・・

130211sm個展会場は一つの大きな作品である。最近の言葉で言えば、インスタレーションか? 金井画廊の個展では飾りつけは金井さんが一人でやるから、金井さんの作品でもある。私の絵は素材に過ぎない。がさつな素材で申し訳ない。
10月にやる豊橋の個展は、私が飾り付ける。だから、個展会場も私の作品かも。もっとも、凄くいい加減。でかい絵は真ん中。左右に小さくしてゆく、とか。額縁の下の線をあわせる、など。でも、父の個展の飾りつけなども見ているし多少は手伝ったから、子供のころからいろいろな基礎的な飾りつけ方法を知ってはいる。一応知っていたほうが有利かも。
それにしても、私の会場はしっとり落ち着いたシックな空間とはいかない。ま、個展会場のことを考えながら絵を描いているわけではないから、致し方ないけど、会場が心休まる平穏な場になって欲しい、ぐらいは願っている。
なかなかそういう個展会場ってない。
昔の偉い人の個展でも難しい。長谷川利行展など、次から次と見たいから会場の雰囲気なんて忘れている。ヴュイヤールとかドガの個展会場なら、期待できそうだけど、作品にばかり目が行って会場のムードなんて覚えていない。ゴッホ展など、私の会場よりガサツかも。もちろんゴッホの絵はガサツではない。会場の雰囲気とか言う前に人が多すぎて息も出来ない。苦しくなる。ダメだ。
宋元の書画が並ぶ東京国立博物館の一室なら多少は心休まる、というか背筋が伸びる。道場みたいだ。厳しいねえ〜。
今日はクロッキー会だった。予報どおり朝は雨だったが、9時30分ごろには上がっていた。助かったぁ〜。
作品:SM「陽光」
天気:晴れ

盲亀浮木・梵天糸

この世に(文字が理解できる)人として生まれるのはとても難しい。人として生まれても、その人が仏法と出会うのもまた難しい。仏教に入信するのはさらに難しい。悟りを開くのはもっともっと難しい。というのが盲亀(もうき)の浮木の教え。大海で目の不自由な亀が浮いている木片に出会うほど難しい。その木片の小さな穴にその亀が首を入れるらしい。
芸能界でデビューするのも難しい。若い女の子が15歳から22歳ぐらいまでの間に、CDを出さなければならない。なかなか出してくれない。顔が可愛くてスタイルがよくて歌も上手い。最近では踊りのキレも必要らしい。ヒットするのは至難。ブレイクするのはさらに難しい。まさに盲亀の浮木だ。それが、松任谷由美とかサザンオールスターズみたくなるのは奇蹟中の奇蹟。さらにモーツァルトやベートーベンのように歴史に残るとなれば気が遠くなるような低い確率だ。
仏教には盲亀の浮木のような例えとして「梵天より糸を下げて大地の針の目に入る」という物凄いのもある。
絵でも、18歳までに石膏デッサンを修めるのは難しい。美大に合格するのも至難。卒業後、純絵画を描き続けるのはほとんど不可能。日展入選の壁も厚く、難関在野団体に入選するのも難しい。さらに受賞したり、特選を取るのは年末ジャンボ宝くじに当たるより困難。その会の最高賞を貰うのも並大抵のことではない。いっぽう、銀座で個展を開くのも、度胸と実力が必要。画商に認められるのは日展特選より難しいかも。絵で飯が食えるなど、夢のまた夢。ただ、若い人が歌手デビューする猶予期間は数年だけど、絵描きは数十年の猶予がある。その間も、もちろん怠けていては話にならない。頑張り続けなければならない。これまた超至難。
で、絵で飯が食え、大きな美術団体の幹部になれても、ちゃんとした純絵画を続けている絵描きは滅多にいない。自分は絵画の正道を歩んでいると思っていても、世界の美術界はとんでもない方向に行っちゃっている場合だってある。
ピカソのように、最先端で人気もあり、歴史に残る、なんていうのは盲亀浮木、梵天糸レベル。そんな画家はゼロに近い。
だけど、絵を始める以上、誰でも世界の大画家、美術史の大巨匠を目指すのは極当然。
いいんじゃないの。
で、現実問題だけど、好きなものを好きなように描けばいいのだ。人の評価なんて関係ない。ブレイクなんて考える必要もない。ただ、昔の偉い画人もでかい絵を描いたから自分もでかい絵を描く。たくさん描いたから自分もたくさん描く。ただそれだけのことだ。
天気;晴れ

借りて読んでから・・・

130211sm-b「『死ぬのが怖い』とはどういうことか」(前野隆司・講談社・1575円)を書いた目的は「生きているのが楽しくて仕方ない」ということを人に伝えるため、とのこと。私の絵画の目的と同じかも。それなら本より絵のほうがずっと優れたメディアだ。しかし、本には説得力がある。特に、この本の先生は慶応大学の教授だ。理工系の偉い人らしい。茂木健一郎に近いけど、最近の茂木はなんか怪しい(らしい)。それに対して前野は(今のところまだ)信用が置ける、との評判。また、仏教に造詣が深く、それも、私の信じる方向に似ている。死後の世界や輪廻は信じていない。死も幻想だと言い切る。すべてが幻想で、実在するのは「現在」だけ、という思想。人生には意味もないけど、「今」を情熱的に生きれば死は怖くないらしい。恋愛も幻想にちがいない。それよりも「今」の自分を全うすることだろう。
で、書評ではなく宣伝のところにあった「宇宙にはなぜ我々が存在するのか?」(村山斉・講談社ブルーバックス・840円)。こっちが読みたい。今の財政状況なら買える金額だけど、しばらくたってから図書館で借りて読んで、面白かったら買おうと思う。
今日は、昨日金井さんが見えてプールに行けなかったので、歩いてプールに行った。家内が買った100円均一の万歩計があったので、付けて行ったら往復で4700歩ぐらいだった。おそらく4キロ弱あると思う。今日は非番だったけど、合計で1万歩は歩いたと思う。
作品:SM「ラプソディ」
天気:晴れ。とても寒い。

地道にコツコツ

こんなに晴れが続いているのに、今度の水曜日(=クロッキー会の日)だけは雨が降るらしい。ああ、天気予報、はずれてくれ。ま、ずっと先の予報だからはずれると思う。
昨日の続きだけど、キリスト教にだって賛美歌がある。
芸術を宗教から切り離すのは不可能。芸術は宗教から生まれた。しかし、もともとの宗教は芸術を嫌っている。ここのところをしっかり理解しないといけない。
では、どのように嫌っているのか。
夏目漱石は、自分の娘たちがちゃらちゃらと歌舞伎座になんかに通うようになったら長塚節の『土』を読めと薦めるというような一文を読んだことがある。で、私は25歳のときフランスに『土』を持っていって読破した。本当に大変だった。『大地』の最初のところもちょっと似ているかも。
宗教というのは、地道にコツコツしっかり頑張る。地味に暮らすという教えだ、と思う。派手はいけない。華やかなホテルのパーティー会場でワイングラスを片手にチョウザメの卵なんかを摘むのは正しくないのだ。
人間の真の喜びは日々の地道な暮らしの中にある。ああ、ミレーの絵だ。『晩鐘』だ。『落穂ひろい』だ。
それはとても正しい。歌舞伎町はちがう。サイバラ(=西原理恵子)はおかしい。
で、幼子はわれわれに大きな幸福をくれる。その仕草、言葉、まなざし。すべてが新鮮で楽しい。地道な暮らしのなかにこそ真の喜びがある。
みんな、頭を冷やしたほうがいい。
今日の夜は金井画廊の金井さんが見えた。3月末の個展のために70点以上の絵をお持ちになった。そのうえ、私はまだまだ描くつもりだ。まだ1ヶ月ある。
今日の朝日新聞の書評に「『死ぬのが怖い』とはどういうことか」(前野隆司・講談社・1575円)が紹介されていた。紹介者は横尾忠則。私は読む予定はないけど、書評を一読する限り、私とまったく同意見だと思った。
天気:晴れ。とても寒い。

悲惨な構造

130221mito20芸術は宗教の僕(しもべ)。その大元の宗教が偶像崇拝禁止なんだから、絵は初めから禁止事項だろうが!(かなりサイバラが入ってしまっている)。
絵や彫刻は偶像なんだから当たり前だし、歌舞音曲を宗教が許すはずもない。だけど読経も音楽的だし、神道の行事には雅楽が付き物だ。
でも、芸術は原則禁止のはず。
そういう劣等感を前提に、私は絵を描いている。こういう私みたいな絵描きも珍しい。だいたい絵描きは芸術家ぶって威張っている。私から見ると大馬鹿だ。何も知らない。
絵は、宗教のためにと思って、頑張ってきたのに、宗教のほうでは要らないと言っている。いわば、慕っている相手から嫌われているという、もっとも悲惨な構造だ。情けない。
いいけどね。嫌われたって気にしない。あたしゃ、熱心な信者じゃないもん。
本当の宗教ではないけれど、もう絵画教という宗派に入信してしまっている以上、このまま進むしかない。いまさら改宗する気もない。
イッキ描き理論でやってゆくしかない。すなわち、「描いているときが至福のとき」という教義だ。
今日の午前中はたくさん仕事をした。キャンバス張りだけはしていない。次のクロッキー会はなんとか間に合わせる。致し方ない。モデルのシーツも洗濯して干した。取り込んでたたんでくれたのは家内だ。
作品:F20「風わたる」
天気:晴れ

細々と、しかし脈々と

<2月22日分>
世界の優れた宗教の多くが偶像禁止を普通のこととしていることからも、絵画は大したものじゃない。男子一生の仕事ではないかもしれない。
しかし、絵画には人類3万年の歴史がある。その歴史は決して平坦ではなかった。絵画の真髄からはずれ、絵画を道具とした多くの画人がいた。それでも、絵画の真実は脈々と続いた。真実を維持するために頑張った絵描きがいたからだ。
ま、頑張るといっても大袈裟なことではない。好きなものを好きなように描けばいい。その本道を伝えて行かなければならない。細々とでも残して行かなければならない。
私も息絶え絶えだけど、なんとかやっている。とにかく死ぬまでこの方針でやる予定だ。
今朝書いておいたブログが消えてしまった。それで、夜中の12時にも遅れ、文章も短くなった。
天気:晴れ

なにがイッキ描きだ!

130114sm昨日は絵画教室だった。画題は見事な蘭が二鉢。他にスイートピーも。春だね。私は7枚(F12、F8、F6、F4、F3、SM、F0)描いた。いつも言うけど、ヘンな講師だ。自分ばかり描いている。
絵画教室やクロッキー会の日はほとんど運動しない。歩かないし、ジジイ体操もしない。腕立て伏せも腹筋もしない。運動ゼロ。
ホームページの整備も全然やっていない。アクセス数が徐々に落ちている。イッキ描き放送局では新しい企画を始めている。どうしてもメンテナンスはおろそかになる。新しい企画に精を出してしまう。ま、精を出すといっても、とてもゆっくりだ。なかなか始動しない。グータラなうえにジジイだし、絵も描いているからなかなか出来ない。でも、金井展も近づいているし、もう少しいろいろ頑張らないとまずいかも。
今日は突然どこかにドライブに行くことになり、やっぱり海か、三戸か。で、また三浦半等の三戸に行った。もちろん絵も描いた。F20、F8、F4、SM、F0と5枚描いた。よく描くね。こんな風にまとめて何枚も絵を描く絵描きっているのだろうか? 父も描いていただろうか? 私はいつからこんな描き方になったのだろうか? まったくキャンバス張りと地塗りが追いつかない。泣きたくなる。「何がイッキ描きだ!」と叫びたくなる。
帰ってから歩いてプールに行った。例年の冬とは比べものにならないほどお客さんがいたけど、よく泳いだ。どうも運動しないと収まらない。私は中学も高校も落語部でろくに運動をしていなかったけど、高校の片道6キロに及ぶ自転車通学のおかげで、その後、水泳などにも凝り、すっかり運動野郎になってしまった。よかったかもしれない。
作品:SM「パンセ」
天気:晴れ

「新しさ」再考

新しい絵という妄想は、多くの画家を悩まし続けている。「新しい絵」というのは困ったものなのだ。
たとえば、フォーヴはマチスやブラマンクが始めた新しい絵画だけど、20歳台に数年間やっただけ。その後の長い絵画人生は、当然フォーヴから離れた。マティス(1869〜1954)はよく知られた画家だからみなさんご存知だろう。最後は切り絵のようなシリーズも手がけている。フォーヴからはほど遠い。ヴラマンクもバラや雪景色を描いている。激しいタッチはフォーヴを想わせるが、ほとんど色彩のない暗い絵になっている。いい悪いは知らない。画面にけっこうクラッシュ(亀裂)があって、問題あるかも。
ドランは古典絵画に進んだ。古典絵画の空間を早いタッチで作り上げた。私は評価している。マルケも一時期の油絵はフォーヴ調と言えなくもないけど、全体的に見渡すと、フォーヴからは一歩離れたところにいたように見える。
とにかく、「新しい絵画」には用心が必要だ。絹谷幸二の若いころの絵やその後の変化を概観すると、絵画の道も楽じゃないと感じた。
NHKに映っていた極最近の仏像。般若心経なんかを画面に書き入れたりして、ちょっと頂けない感じ。よく分からない。私は仏教入門ばかり読んできたけど、ああいうのって仏教絵画だろうか? とても苦しそうに見えた。
お若い方に言いたい。新しさには十分気をつけたほうがいい。とても危ない。苦しい。
天気:晴れ

写真は悲しい

130207fuji4写真を見ながら描けば、デッサン力なんてなくても、油絵なら必ず描ける、モノになる、とお考えの方がとても多い。世の中そんなに甘くない。まったく描けない。鉛筆でいいからデッサンを繰り返すことが肝心である。木炭デッサンならさらに油絵に近い。広く塗れるし、ボロ布で消せる。パンや練りゴムで消す方法も油絵に似ている。
現在、美術雑誌に名を売っている細密描写の大巨匠たちも、ほとんどの人は写真を見て描いている。だけど、彼らは驚くほどデッサン修業をしたから写真の感じが見えない。デッサンなしの素人が写真を見て描くと明らかに分かってしまうのだ。
どっちにしても、古典絵画からはほど遠い、感動の息吹のない、つまらない絵だ。
絵は、実際に目の前にある空間のなかのものを見て、またはその記憶から、その美しい視覚を画面に焼き付けたいという欲望であるべきだ。でっかい、測れないような、広大な風景を、30cm四方の写真に撮って、絵に出来るはずがない。でっかい景色の中に自分も立って、風と戦いながら描くのが風景画だ。人の視覚情報は写真など比べものにならない分量なのだ。しかも、景色は動いている。絵にしにくいけど、そこがいいのだ。動いているから素晴らしいのだ。実際に実物を見ることがどれぐらい凄いか、嬉しいか、みんな知っているはずだ。
だから、みんな海外旅行に行くのだ。写真で済めば、旅行なんか行く必要ないもん。
何度も言うけど、私は写真芸術を否定するつもりはない。写真を見ながら絵を描くことを拒絶している。だけど、みんな描いている。みんなやっている。わが絵画教室の人もやっている。いいよ。悲しいけどね。絵の描き方はあくまでも自由だもん。
写真から絵を作るのはとてもむずかしいということが簡単に分からない。自然から描くイッキ描きの味はなかなかご理解いただけない。そこがイッキ描きの深いところかも。
作品:F4「寒風富士」
天気:雨のち雪のち曇り
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