イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2013年06月

地道な作業も

6月はまあまあ絵を描いた。6月は30日しかないのにマンションの仕事が18日もあった。その割にはたくさん描いた。7月は31日あって、マンションは16日しかない。いやというほど描けるはず。ロールキャンバスもあるし、木枠もある。
ただ、キャンバス張りや地塗りなど地道な作業を続けなければならない。地塗り済みキャンバスもほとんどなくなっている。
絵の先生などと威張っている暇はない。もちろん、私はたぶんおそらく威張っていないと思う。威張るにしては昔の本当に偉い画家をたくさん知りすぎている。きっとおそらく私は死ぬまでペーペーだ。
だけど、キャンバスを張り、地塗りをすること、筆を洗うこと(この前私の筆の洗い方を酷評されたけどね)などは禅寺の作務みたいなもの。道元禅師の「典坐教訓」の教えどおり、しっかり地道にやり続けなければいけない。
毎月50枚張ったって、1日換算にすれば2枚で余る。まったく問題じゃない。私は若いころキャンバスメーカーにいて、張りキャンバスばかりやっている人も知っているけど、それこそ毎日50枚張っていいた。現在は機械張りがほとんどだと思う。
そういえば、刑務所の作業でもキャンバス張りがあり、私も府中刑務所に指導に行ったなぁ〜。私は一般人よりは刑務所に少し詳しいかも。
天気:曇りのち晴れ

不便のほうがいいか

昨日「正法眼蔵」を音読してみた。なぜかわかりやすい感じがした。と威張るほど、たくさん読んだわけではない。あちこちに持ち歩いているが全然進まない。「弁道話」「現成公案」「摩訶般若波羅蜜」までしか読んでいない。現在は「仏性」。これは長いのでなかなか進まない。もっと長いのは「行持」。昨日、この「行持」を少し音読した。
なかなかいい。身が引き締まる。
道元はいいかも。
「正法眼蔵」はたくさんあるので、ずっと読み続ければ、ずっと身が引き締まるかもしれない。
まったくよい時代だ。文庫版だから小型で持ち歩きも自由。もし、越後の良寛さまが知ったら、どれだけ羨ましがるだろう。江戸時代は少し見るだけでも大変苦労したらしい。だから書き移したりする。文字も上手くなるし、意味もよくわかったかもしれない。うん、そうすると、不便な江戸時代のほうがいいか。
私なんて持ち歩いているだけで、ほとんど開かない。ダメだぁ〜。
天気:曇りのち晴れ
作品:「水墨裸婦’13」
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突き放し期間

昨日のアジサイがどんな絵か、自分で描いたのによく見ていない。とにかく、描きたての絵は臭いので部屋に入れない。外のヨドの物置に置いてある。3〜4日経って臭くなくなったら、入室許可が下りる。冬だと1週間ぐらいかかる。
しかし、この脱臭期間は自分の絵を客観的に見られる、突き放し期間にもなる。描いた直後はどうしても情が移る。いいと思い込んでいる。とても危険なのだ。ニーチェも言っているように「人が本当に愛せるのは自分の子供と自分の作品だけ」らしい。ちょっと思い当たる節もある。
溺愛は危険である。特に子供の場合は迷惑千万だ。下手すると壊れてしまう。しかし、子供の場合は放置のほうが危険らしい。人は親の愛でバランスを保っているのかも。
私の両親はむちゃくちゃな人間だったけど、子供のころは、とにかくよく面倒見てくれた。おかげで、私も不良にならずに済んだか? 私も赤ん坊は十分可愛がろうと心がけている、というか、赤ん坊は可愛いから自動的に可愛がるけどね。
絵は描いた後可愛がらなくてもいいから、手間がいらない。デジカメに撮って、そこらに置いておくだけだ。ただ、膨大な量だから、本当に置き場所に困る。まったくどんどん増える。イッキ描きも楽じゃない。
天気:晴れ。まだ真夏の暑さではない。

美しすぎる

ドガの裸婦は筋肉美を追っている。ルノワールの裸婦は肌の美しさを表そうとしている。
で、筋肉派と肌美派に分けてみると、ロートレックは筋肉派、ルーベンスは肌美派か。レンブラントは筋肉派かも。ミケランジェロは当然筋肉派だ。ティツィアーノはどっちだろう?
私自身は筋肉を見ていると思う。よくわからない。モデルは肌もきれいだ。
ドガの最晩年のパステル裸婦は筋肉や肌の域を出ている。絵が美しい。ロートレックは37歳で死んじゃったのに、本当に美しい画面を作りだした。石版画の薄い緑と淡いピンクの取り合わせは奇跡かとも思えるほど綺麗だ。63歳ギリギリ前の62歳のジジイ絵描きが必死で真似ているけど、あんな画面はできない。裸婦も、ああいう風に描けると気品がある。もちろん、ロートレックは本当の貴公子なんだから、われわれ水のみ貧乏ジジイにロートレックの気品がにじみ出るわけがない。私は本当に水道水ばかり飲んでいるけれど、昨日ブルーマウンテンをもらった。
いやいや、ドガやロートレックに迷ってはいけない。あくまでもティツィアーノの大画面を慕わなくては。古代ギリシアの造形を求めなくては。いや、その前に目の前のモデルの肢体に打ちのめされてしまっているけどね。生身の若い肉体は、年寄りには刺激が強すぎるかも。
今日は午後から相模原北公園にアジサイを描きに行った。時間が経つのを忘れてF10からF0まで5枚描いた。
夜は歩いてプールに行った。
作品:F6「立ち葵」
天気:晴れ
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ジョギングはいい。絵はどうか?

24日に前野隆司をちょっと批判するようなことを書いたけど、前野先生はとてもいい線行っている。読む価値があると思う。わかってからの詰めが甘いけど、全体として悪くはない。
で、ジョギングはいいけど、絵はどうかという話だけど、絵は危険である。絵も三昧境に入れる。集中すればとても楽しい。だけど、いつも作品の出来が付き纏う。ここが危険だ。というか致命傷だ。「絵の出来具合」を捨て切り、絵画三昧の世界に浸り切れるか。
だけど、私の場合、危険も蜂の頭もない。いいも悪いもない。絵を描くしかない。
ダイジョブ、ダイジョブ。
昔の偉い禅の坊さんもみんな絵を描いている。牧谿も雪舟も雪村も風外も白隠も仙僂癲みんな描いている。心配いらない。
そういえば、昨日マンションの見回りの時に思い出した。22日に書いた90歳画家の中にピカソを入れ忘れた。ピカソも凄い。
で、音楽はどうかというと、音楽家は若い時に物凄い才能を発揮する。90歳の名曲の噂はめったに聞かない。ただハイドンは長命だったはず。・・・と、今ウィキペディアで調べてみたら、1732〜1809年とあった。77歳だからそれほど長命ではない。でも、交響曲106番なんていうのもあるらしい。
今日は雨のクロッキー会だった。大変だった。
天気:雨

ジョギングは?

太ももを鍛えることがすべてに通じるかもしれない。
太ももを鍛えるにはジョギングがいい。自転車も有効。私がとてもお利口なのは若いころ自転車ばかり乗っていたからだ。でも、自転車は危ない。特に私みたいな暴走野郎は命にかかわる。お利口になるために交通事故であの世に逝ったのでは、やっぱりバカだ。
iPS細胞の山中慎弥も小説家の村上春樹(1冊も読んでいない)もタモリも、みんな走っている。
私の水泳は喘息予防だから致し方なくやっている面もある。マンションの見回りは仕事だから、これまた致し方ない。
もし私がジョギングを始めれば、これは本当にカッコいい。ジョギングこそ知識人の仲間入りだ。真なるセレブだ。エリートだ。
58歳では、まったく走れなかった。信号が変わりそうになってもいつも諦めていた。今は軽く走れる。マンション見回りのおかげだ。毎日1万歩ぐらい歩くから、ちょっとした走りもできるようになった。
ゆっくりしたジョギングなら十分可能だ。
ま、これから夏になるから止めておいたほうがいい。「あのバカ、悟りを開くためにジョギングを始めて、熱中症で死んじゃった」と言われたくない。
だけど、ジョギングを始めたら、とてもお利口になり、絵もぐっと良くなるかもしれない。ま、そういう我慾が執着を生み、煩悩を増長する。
作品:SM「大地」
天気:曇り
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悟りの順番

三法印というのは仏教教理の根本で、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つだけど、普通一般に考えれば、左から順に理解して最後の「涅槃寂静」に至りつく。
ま、「諸行無常」は歳をとれば誰でもわかる。それも、天文学として理解するとなると厄介だけど、宇宙の本を読むと諸行無常が秒単位で進んでいることを知る。太陽のスピードは秒速250kmらしい。「カチッ」で東京から名古屋。こうしている間にもどんどん移動している。凄いことだ。気持ち悪くなる。私の計算だと、地球の公転スピードも秒速30kmだった。
「諸法無我」が最大の難関で、これは死ぬまでわからないと思っていた。それが、この3月末に『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(前野隆司・講談社)を読み、それから関連の本を2〜3冊読んで、一応納得できたような感じがする。いまでも、繰り返し読み返している(=トイレに置いてある)。
で、最後の「涅槃寂静」だけど、これがけっこう手ごわい。
「涅槃寂静」なんて問題じゃない。前の二つがわかってしまえば終わりだろうと思っていた。ところが、前野隆司も「涅槃寂静」を勘違いしている。数日前にも書いたとおり、「風呂に入っていい気持ちだと思うこと」だと言っている。それは違うと思う。
道元は、三法印を涅槃寂静から導いているように思う。涅槃寂静は修行によって得られる。修行というのは、ま、仏道修行だけど、われわれが学校に行ったり、会社に行ったりすることも修行だと思う。嫌なことは修行だ。前頭葉との闘いなのだ。
私のマンションの巡回とかプールとか、絵を描くのも、描き始めれば楽しいけど、始めるのは面倒だ。特に私みたいな怠惰な前頭葉は、クロッキー会や絵画教室、また、バラや桜が咲かなければ絵なんて描かない。家で南佳孝を聞きながらスパイダーソリィティアを1日中やっている。腰が痛くなるまでパソコンで遊んでいる。
だけど、巡回のウォーキングが私の体調を激変させ、60歳で絶好調になった。58歳の時だ。びっくりした。苦痛の中に涅槃寂静はあるのだ。
それを道元は「典座(てんぞ)教訓」のなかで示している。そして修行の中に悟りがあるのだ(修証一如)と教えている。
今朝は50mプールに行った。月曜の朝なので空いていた。昨日水泳大会があったため、水量も多かった。でも波立って全然泳ぎやすくなく、期待はずれだった。7月からは外プールが始まる。
天気:曇りのち晴れ

田舎だからいいのに

中央公論社の『世界の大画家・プッサン』のなかで、高階秀爾は中世のイタリアとフランスの文化程度を同等に語っている。私にはそういう感じはしない。とはいっても、私に大量のデータがあって言っているわけではない。高階は、ゴシックはフランスから来たと述べている。フランスを「当時の技術先進国」と言っている。
中世だからルネサンス前か。ふぇ〜、フランスがねぇ〜。技術先進国。イタリアにゴシック建築を指導したらしい。
こと絵画に関しては、イタリアから始まる。だいたいヨーロッパ美術はギリシア彫刻が起源ではないのか。ま、もっと言えばエジプト彫刻だという主張もあるけど、私には、エジプト彫刻とギリシア彫刻は別のもののように見える。偉そうに言うほどエジプト彫刻を見ていないけどね。
私は好きなものを見ているだけだもの。いい加減だ。いい加減で大雑把だけど、近視眼的ではないかも。
ふつう、文化はギリシアからイタリアと来て、フランスに行った感じだ。
確かにフランス人はラテン系にしては理論好きではある。機械にも強い興味を持っている。超音速ジェット機のコンコルドやフランス鉄道(SNCFやTGV)など、フランス人は絶大な支持をしているし、自信もある。大好きみたいだ。自動車もシュトレイン、プジョーなどカッコいい。カッコいいけど、私なら買わない。怖くて乗れない。
機械技術はドイツだと思う。というか日本だけどね。もちろん、北イタリアの自動車も素晴らしい。アルファロメオだっけ?
シーザーが『ガリア戦記』で、フランスを田舎扱いしたから、そのせいで、私が思いこんでいるのかもしれない。
去年行った南フランスは今でも十分田舎だった。田舎だから絵がたくさん描けた。田舎はいい。
今日はプールの日だったが、行けなかった。明日行きたいけど、明日もダメかも。
作品:SM「マリーナ」
天気:晴れ
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途方もない目標

何度も言うように、私は90歳に憧れてきた。20歳代のころから90歳になりたかった。もちろん、90歳まで生きるのは、それだけでも難しい。だから当然、自分が90歳になるだけでも無理である可能性はとても高い。
だけど、90歳だと、すぐに死ぬ。これは怖い。怖いけど、90歳じゃないと出来ないから、90歳になるしかない。
それは、90歳が描いた絵や作った彫刻が凄いからだ。自分もああいう絵を描きたい。しかし、それはとても難しい。ほとんどの90歳の絵はよくない。ほとんどの画家は画力が落ちる。ほんの一部の大画家だけが90歳にとてつもない画境を示す。しかし、そういうのを見てしまった以上、一度しかない人生なら、それを目指すのが人情というものだ。
目指すといっても、途方もない道だ。ずっと絵を描き続けて、精進努力を怠ってはならないのだ。無理だ。いま私は62歳で、自分で勝手に判断すると、今までのところはギリギリセーフかもしれない。
90歳といっても厳密には85歳以上で大丈夫かも。
何度も実例を挙げているが、私の目標とする芸術家は、富岡鉄斎、ティツィアーノ、ミケランジェロ、モネ、葛飾北斎、雪舟、雪村、一休、白隠、仙僉そのほか、禅僧が死ぬ間際に書く遺偈の書が凄い。
ああいう造形を見ると、禅の教えは効率が高いかも。やっぱり悟りか?
ま、寿命は自分ではどうにもならない。死ぬまで生きるだけだ。それまでできるだけ頑張るしかない。上記の先人がいる限り、楽しく目指すしかない。ノイローゼになることはない。目指すといっても大学入試や資格試験のような富貴栄達の道ではない。もっともっとでっかい目標だ。それを知っているだけでも幸福である。
今朝はユーチューブのためにプッサンの絵を調べた。若いころのように強い意欲がわかない。困ったもんだね。
天気:晴れ一時雨

何からも自由

造形とは何だろう?
たとえば、私は一般的には現在具象画家だと思われている。確かに花を描いたり、海を描いたり、富士山を描いたり、裸婦を描いているのだから具象画家だ。
しかし、ルーベンスやレンブラントに比べると、とても具象画家とは言い難い。あのバロックの画家が大画面で歴史画を描くときには、時代考証など負うべき責務は数限りない。そのうえ、造形上の約束も守る。そういう負担や緊張感が魅力的な表現を生んだ原動力にもなっているのかも。
われわれは、本当に自由だ。そして、私の場合、その「現代という自由」からも自由だ。現代アートにも縛られていない。描きたいものを描きたいように描いている。それがわがイッキ描きだ。
いくらでも造形で遊べるわけだ。
ここ数年嵌まっているのは発色か。図々しくも自分から「線描の画家」と言っているのに、発色に嵌まっては道に外れるけど、線描は描いてさえいれば鍛えられる。というか、描かなくなったら終わる。頭で気にしてもどうにもならない、腕の試練なのだ。頭で考えられるのは発色や色の対比など。ボナールも語り、ゴッホも実践したように、色彩は論理なのだ。
花を描きながら、発色を試み、線描で戯れる。絵って本当に面白い。一人遊びの極致だ。
昨日はプールに行かなかった。今朝50m室内プールに行った。明日から水泳大会があるので、水位が高く泳ぎやすいという情報を得たからだ。でも、午前中だったためか、いつもと同じ浅いプールだった。
作品:SM「午睡」
天気:曇り
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