イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2013年08月

本音で格付け

絵の良し悪しって、本当にむずかしい。上手い下手のほうがわかりやすいけど、いい絵なのかつまらない絵なのか、まったく見当もつかない。私の頭のなかには、確かに画家の格付けがある。でも、本当にその格付けどおりに評価しているのか、怪しい。好き嫌いだってある。実際、私は好き嫌いで絵を判断するのは危険だと思っている。このブログでもなるべく「好き」という言葉は使わないように注意している。
たとえば、ドガとロートレックでは、明らかにドガのほうが上手い。だけど、ロートレックの魅力はあまりにも大きい。上手さで言ったら、ヴュイヤールだってドガなどには及ばない。でも私はヴュイヤールが大好きだ。「好き」という言葉で表すしかない。
ルーベンスとティツィアーノ。絵画的な魅力を客観的に言えば、圧倒的にティツィアーノだ。私は、ティツィアーノを人類史上最高の油彩画家と思っている。だけど、申し訳ないけど、私はルーベンスが好きだ。人間的にはルーベンスのほうが好きかも。
もちろん中国の水墨画でも、私の父は梁楷を最高と讃えていた。私はご存じのように牧谿が贔屓だ。
そういう話を本音でやって行ったら切りがない。止まらない。
では、自分の絵はどうなのか? 誰より上手くて誰より魅力的なのか?
どうでもいい。ただ、たくさん描きたい。それだけだ。もちろんたくさん描きたいからと言って、むやみやたらに描きまくるわけではない。
もし私に24時間365日自由時間をくれたら、年間6000枚の油絵だって描けるかもしれない。単純に時間計算し、むちゃくちゃな、昨日話題にしたスコッチテリアみたいな絵でもいいなら、不可能ではないかも。きっと食傷気味になって、絵が大嫌いになると思うけど、計算上は不可能ではない。
今の私のローテーションはとても理に適っていると思っている。今のローテーションを崩さずに、ちゃんと真面目に描きたい。評価なんてどうでもいい。
天気:晴れ。酷暑。
作品:SM「酔芙蓉」
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悪戦苦闘の跡

目の前に生後4か月のスコッチテリアの絵がある。私が描いた。F4の油絵だ。酷い絵だね。下手だ。スコッチテリアというより、映画『スターウォーズ』のソロ船長の相棒のチューバッカみたい。
だけど、ちょろちょろ動く幼い犬を見ながら描くのは至難の業だ。悪戦苦闘の跡が見える。そこが面白い。
毛むくじゃらのなかに骨格を探すのも楽じゃない。犬などは触りながら描くこともできる。仔犬ならなおさらナゼナゼ出来る。だけど、柵の向こうにいて触れない。もちろん裸婦のモデルにも触れないから、条件は同じか? 違うか!
とにかく、この絵はとっておこう。けっこうおもしろいようにも見える。
絵は上手すぎてもつまらないのだ。悪戦苦闘の跡がなくては絵具の厚みも出てこない。
夜、車でプールに行った。物凄く混んでいた。でも、図々しく全メニューを消化した。今日で、恐怖の夏プールは終わり。これからだんだん空いてくる。
天気:晴れ

腹を立てても

『シャイロックの子供たち』はやっぱり前半短編仕立てでよかったのだ。「解説」にちゃんと書いてあった。でも、一つの大きな話ではある。
今日読み終わったので、次の『鉄の骨』も買ってしまった。金が全然ないのによく新本を買うね。家内が金をくれた。文庫本なので1000円以下だ。『鉄の骨』は650ページぐらいあるからお買い得かも。
ところで、秋の個展が続けて迫っているこの時期に、ホームページやブログに過激なことばかり書いてしまった。バカでした。池井戸潤なら「莫迦」と表記する。
つまらないことに腹を立てたものだ。他人のことなんて関係ない。
この前、健康診断でウエスト89cmで腹を立て、文句を言ったら70cmという診断結果が来た。あの医院は信用ならない。だけどこれからも行くけどね。もっとも私はたまに喘息の予防薬をもらいにゆく程度だ。
腹を立ててもロクなことはない。
私も等迦会の東京多摩支部長なんてものを仰せつかっちゃって、本当に困る。そんな仕事ができるわけがない。私はただのフーテンである。好きなことばかりやってきた能なしである。ちゃんとしたことなんて何も出来ない。事務能力もないし、支部をまとめる度量なんてまるでない。
お釈迦様の三法印の言葉の意味は納得しても、悟りからは程遠い。話にならない。
何度も言うけど、私は100号を描くために等迦会に絵を出しているだけの人間なのだ。からっぽ男なのだ。申し訳ありません。
天気:晴れ
作品:F0「酔芙蓉」
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なすべきこと

今朝も池井戸潤の銀行小説『シャイロックの子供たち』を読んでいた。長原支店が舞台だ。
長原は私のチョー短いサラリーマン人生(4年半)の最初の降車駅だった。西武新宿線の田無から高田馬場まで行って山手線で五反田まで行きそこから東急池上線に乗り換えて長原となる。1年ぐらいは通勤したはずだ。その後、目黒の美術研究所に入り、研究所の近所にアパートを借り、そこから5kmの自転車通勤になった。
でも長原はとても懐かしい。実は父親と二人で1年ぐらい住んでいたこともある。私は18歳ぐらいで、父は46歳という計算か。若かったねぇ〜。レンブラントに熱中していたなぁ〜。今も熱中しているけどね。
今朝読んでいたところは、野球少年が銀行員になる話。
「全てを自然に、あるがままに受け入れ、自分がすべきことをやり通す。結果はあくまでついてくるものだ。最初から評価を考えて仕事はしない。━これは野球だけではなく、仕事にも共通した鉄則である」(p178)
小説って、100ページ読んで3行ぐらいいいことが書いてある。仏教の入門書だと、いいことが書いてある確率ははるかに高い。だから小説は面倒なのだ。
しかし、「評価を考えて仕事をしない」という鉄則は素晴らしい。道元の修証一如にも通じる。競泳の心得も同じ。周りの選手に気を取られていては自分の泳ぎが出来ない。肩の力を抜いて自分の泳ぎをしないと自己ベストは出ない。ほとんどの選手は自己ベストを出せば大会では入賞できる実力を持っているのだ。
もちろん絵も同じだ。評価ばかり言う人にはウンザリする。ま、ほとんどの人が評価で頭がいっぱいだ。致し方ない。上手くなろうと思うより、少しでも多く描こうと心がけることである。
セザンヌの枚数を描かなければ、絶対にセザンヌは超えられない。世の中そんなに甘くない。才能より努力だ。まずやりにやって、描きに描いてから評価に期待すべきだ。それだけ描けば評価なんて気にならない。真剣に描くなら100枚に1枚いい絵が出来ないはずもない。
セザンヌの枚数を描いてセザンヌの世界に入れる。その喜びもわかる。ゴッホも同じ。他人の評価なんて関係ないのだ。セザンヌもゴッホも幸福だったと、私は確信している。
今日はクロッキー会だった。
今夜はHPの更新日。かなり過激なことを書いたかも。絵画界の常識は世間の常識とは違うのかもしれない。
このごろとても疲れる。今朝のNHKで本当の夏バテはこれからと言っていた。私も夏バテかもしれない。でも、まだ当分休めない。とは言っても、細かくうたた寝はしている。
天気:晴れ

息も出来ない

池井戸潤の小説は極端だと思う。銀行員てあんなに大変なのか? 世の中真っ暗闇だ。行内の役職にきゅうきゅうとして、少しでも多くのお金を貸したいけど、貸す相手が倒産してしまったら困る。優良企業に貸したい。少しでも高金利で貸したい。そういう目標があって毎月頑張る。家も社宅とかマンションとか一軒家とかランクがある(らしい)。雨風が防げればいい、というわけではない。
実につまらない。世の中ってそんなにつまらなかったっけ?
もっとおもしろいことがあるように思う。山や海に行ったって楽しい。いい空気がいっぱいだ。そこで絵を描くとなればなおさら面白い。海だったらついでに泳いじゃう。放射能汚染が心配だけど、もうこの状況ではどうしようもない。
この度買った『シャイロックの子供たち』は短編集らしい(もしかすると話がつながっているかも。途中なので不明)。短編集はますますつまらない。『下町ロケット』は書店に並んでいないから『鉄の骨』にすればよかった。池井戸潤の描く世界はありえないほど切羽詰まっていて息も出来ないけど、話は面白い。勧善懲悪だ。読み終わるとスカッとする。
もちろん『半沢直樹』の原作本は読まない。ドラマを見ているのに先を読んでしまったらドラマの楽しみが半減する。
今日は午前中に50mプールに行った。なぜかとても疲れた。歳かなぁ?
天気:晴れ
作品:F3「花瓶のユリ」
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衣装の襞

古代ギリシア彫刻には裸像が少ない。逆だと思っている人もいるらしいけど、実際の彫像を思い浮かべると、ほとんど薄い衣服を着ている。
ミロのヴィーナスは半裸だ。
また、大論争になっているシヌエッサのヴィーナスは全裸である。シヌエッサのヴィーナスは全裸だからギリシア盛期ではない、という主張もある。
澤柳大五郎はギリシア盛期だと言っている。だから、ギリシア盛期でいいのでは。
ま、私にはどうでもいい。とにかく素晴らしい大理石像だ。
イタリアのナポリにある。一般にはナポリを見て死にたいらしいけど、私はナポリのヴィーナスを見て死にたい。
で、ギリシア彫刻の衣服の細かい縦長の襞だけど、これが美しい。
この模様を何と呼ぶか。
私は気楽に「えもん」と思っていた。「衣紋」と書くと思い込んでいた。でも、これは国語辞典にも漢和辞典にも記載がない。意味が違う。
澤柳大五郎の『ギリシア美術』(岩波新書)には「衣文」(p191)とあった。言われてみれば、紋は文が妥当だろう。中尾是正の『図説パルテノン』(グラフ社)は傑作写真集だけど、この中では「流れるような衣装の襞」(p28)と回りくどい言い方で無難に乗り切っている。
ちなみに、中尾はノルウェーの近代彫刻家ヴィーゲラン(1869〜1943)の紹介者としても有名。ヴィーゲラン彫刻の写真集『輪廻の彫刻』はド高かったけど、私は持っている。
今日は悠遊展の飾り付けだった。力仕事要員として私も飾り付けに参加した。絵画教室の講師なのに力仕事要員であるところが悲しい。そこが私の自慢なのだが、ここのところがなかなかご理解いただけない。そこらの威張りんボの絵画講師の百倍の実力と知識を持っていることが分からない。
分からなければ致し方ない。相撲や将棋のようにはっきり分からないのだ。そこが絵のいいところでもある。
ちなみに、小生、力仕事は嫌いじゃない。
天気:曇り

ブールデル

ギリシアの太ももを知っていたのはブールデル(1861〜1929)だ。「ペネロープ」という彫像。作品の主題も古代ギリシアから。逞しい女性のお話らしい。
ギリシア彫刻のような衣装をまとって腕を組んで立っている。右脚が少し前に出ていてその衣服の下の太ももはたくましい。腰もしっかり大きい。
ブールデルの作品群を見渡すと、粗いがガムシャラにギリシアを追慕している。鑑賞者のことなどお構いなし。褒められようが貶されようが、「俺は、何が何でもギリシアだ!」と言い張っている。もちろん口で言っているわけではない。彫像が叫んでいるのだ。実にすばらしい制作者の姿勢だと思う。どんなに貧乏でも世に認められなくても、私もブールデルのような作家でありたい。あの粗さがブールデルの信用だ。
ま、ブールデルは十分有名だし、きっとお金もあったと思う。
ざっと経歴を調べてみると、南フランスのモントーバンの家具屋の息子らしい。決して裕福ではない。若いころから才能を認められて、モントーバンが全市で支援したと書いてあった。しかし、パリ郊外にすんだとき隣家の彫刻家ダルー(私はまったく知らない。もちろん作品も見たことない)の影響で反アカデミズムになり、美術学校も止めてしまう。受賞などを「ひとときの虚栄」と言い切る。
しかし、私が読んだ経歴(集英社「現代世界美術全集」富永惣一)には古代ギリシアへの言及はなかった。
今日は等迦会の運営委員会だった。千葉の浦安まで行った。帰りに本屋で池井戸潤の『シャイロックの子供たち』(文春文庫)という本を買った。夜はもちろん『半沢直樹』を見た。この前読んでいた『空飛ぶタイヤ』もとても面白かった。まだ当分池井戸潤ブームは続きそうだ。今日もプールは休止中。明日から再開とのこと。明日の昼間に行く予定だ。そのあと、悠遊展の搬入がある。これがちょっと心配。泳ぎ疲れで居眠り搬入にならないだろうか?
天気:雨のち曇り。湿度は高いが暑くはない。
作品:F4「フローラ」
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まだ生きてるもんねぇ〜

22日のブログに「表現されていなくったってかまわないかも」と書いたけど、これは全く意味不明かもしれない。
「表現されなければ始まらないだろが!」と、ふつう思う。
だけど、表現は二次的なことだ。彫刻家の木内克(きのうちよし)も言っている。
「仕事としては彫刻のほうが重みがあるとしても、感覚的にはデッサンのほうが進んでおり、作者の精神の深奥に、より近づいている。更にいうならば、デッサンよりもそれ以前のロダンの精神のほうが、なおすばらしかったろうと推測されるのだ」と。
まず、「綺麗だ」とか「可愛い」という気持ちが大事だ。次に「描きたい」となる。このときの精神状態はギリシア彫刻にもミケランジェロにも負けない、少なくとも現生人類に共通した情熱であり意欲である。これがなかったら始まらない。
初めから、褒めてもらいたい、上手いと言われたい、入選したい、受賞したい、買ってもらいたいなどと思っていて、ましな絵が出来るはずがない。ドつまらないクソ絵画になってしまう。
ここのところを徹底しないと「私の人生、何だったんだろう?」となってしまう。
描きたい気持ちがあり、筆と絵の具とキャンバスが目の前にある状況に感謝しなければいけない。「ああ、ありがたい」と心の底から思わなければいけない。この幸せをたっぷり感じ取らなければいけない。
これは生きているから感謝できるのである。いくらレンブラントでももう感謝できないのだ。死んじゃったら感謝したくても出来ない。生きている生身のわれわれだけが味わえる喜びなのだ。
私は、絵を描いているとき、宿敵でもある自分の父親に毒づく。「まだ生きてるもんねぇ〜」
まったく、性格の悪い人間である。だけど、描けるのは現に生きているわれわれだ。むかしの画家がいかに偉大でも、その点ではわれわれの勝ちだ。
天気:曇りときどき小雨。蒸し暑い。

ギリシアの太もも

出来た絵は結果にすぎない。重大なのは「可愛いなぁ〜」とか「綺麗だなぁ〜」と思う気持ちだ。その気持ちをキャンバスにぶつける。その気持ちが最初のエネルギー源だ。売れるとか受賞とか入選などではない。当り前だけど、勘違いだらけの絵が充満している。
絵を描くことは楽しい作業だ。その最初の目的が何であれ描き始めてしまえば我を忘れて没入できる。
だけど、最初の動機はとても大切なのだ。そして、いつも最初に帰ることが肝心だ。下手な作意は要らない。
ギリシア彫刻などはどうなんだろう? 国家的プロジェクトとして彫刻家に依頼する。彫刻家もそういう気持ちで制作したと思う。
だけど、あのギリシアの衣紋の下に脈打つ女性の太ももはどうだ。誰がどう見たって生命力溢れる女性の太ももだ。自ら歩き、赤ん坊を生み、育てるために赤ん坊を抱いて歩ける逞しくも魅力的な太ももではないか。
あの表現が国家的プロジェクトにビビっているとは思えない。「ああ、再現したい」という彫刻家の意欲に満ち満ちている。
それにしても最近のアイドルの太ももは貧弱だねぇ〜。世の男どもは本当にあの細い太ももが好きなのかねぇ。不思議だよ。
天気:曇り
作品:F4「寛」
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表現されてなくたって・・・

イッキ描きとは言っても、けっこう一期一会なんだよね。その時その時真剣に描かないと、再度の出会いは望めない。あの生後4か月のスコッチテリアにももう会えないと思った方がいい。
考えてみればこっちの精神状態もその時その時ちがう。
何度も言うけど、われわれの場所は宇宙座標で考えれば、こうしている間にも毎秒数百キロの速度で位置を変えている。実際にもっとすさまじいスピードかもしれない。
仔犬だって可愛いと思うときと五月蠅いと思うときがある。可愛いと思うときに描かなければ可愛い絵はできない。何度も言うけどわれわれの絵は「可愛いなぁ〜」とか「綺麗だなぁ〜」という気持ちを描いているのである。ドッピロイ(=とても広い)海に行けば「海は広くて気持ちいいなぁ〜」という気持ちを描いている。そこが最も大切なのだ。色とか線とか構図とか、そんなことはたいした問題じゃない。手段にすぎない。最初の感動が表現されていればどんな方法だっていいのだ。表現されていなくったってかまわないかも。
これが、ヨーロッパが19世紀に到達した絵画理念であり、中国だったら1000年も前からわかっていた作画姿勢だ。牧谿が一つの手本を残してくれた。雪舟も雪村もその精神を受け継いだ。ただ、狩野派はそういう技を重要視して生活の手段とした。狩野派が良い訳がないのだ。そこのところの構造を知るべきである。
もちろんヨーロッパ絵画だって同じ。クールベや印象派がやったことをよくよく見直さなければならない。モネの「印象・日の出」をよ〜くじっくり鑑賞しなければならない。すみずみまで見ることも悪くはないけど、息を吸い込んで大きな目で見て欲しい。モネが何を描きたかったのか、パリの朝の空気を味わってもらいたい。
今日も中学室内25mプールがお休みなので、夜50m室内プールまで行って泳いだ。
天気:曇り
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