イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2014年02月

線描芸術の実際

ピカソの晩年の100号などの顔の絵は凄まじい線描だ。箱根の彫刻の森のピカソ館にあった。また、そのピカソ館で見た闘牛シリーズも素晴らしかった。闘牛シリーズはそれだけの画集が出ている(確か岩波書店)けど、びっくりするほど高価で手が出ない。図書館で借りて一度目を通した。
ロダンのクロッキーはあちこちの画集やカタログで見られる。『ロダン エロティックデッサン』(リブロポート)は私も持っている。男子中学生には見せられない。線描芸術として理解出来れば見せてあげたいけど、その前に鼻血が出るのでは。
因陀羅の画集も単独のものはないけど、講談社の水墨美術大系には『梁楷・因陀羅』という巻がある。私もでっかい画集を持っている。
線描芸術は書の世界にも共通する。少し前に述べた江戸時代の慈雲尊者とか良寛とか切りがない。鎌倉時代の禅僧の墨跡を追って行ったら、いくらでも出て来る。とりあえず、『原色日本の美術』(小学館)とか『日本美術全集』(学研)などの「書」の巻を捲るしかないか。昭和46年初版の中央公論社の『書道芸術』シリーズは高価な本だ(アマゾンなら安いかも)。そのくせモノクロばかり。私は『良寛』と『大燈国師 一休宗純』の2冊を持っている。そのほか毎日新聞社の『書と人物』シリーズもある。
何度も述べている『遺偈の書』(毎日新聞社)は鬼気迫る。
そういう書や絵は天才の業ではない。修行を積んだ爺さんの本物の「大人の味わい」である。年寄りにしか到達できない筆の跡だ。富岡鉄斎の絵もそういう絵だと思う。
私は若い頃から知っていて、ずっと憧れてきた。きっと父親からの遺産だと思う。
今日は、めくらめっぽうに平塚美術館に行った。つまらなかった。夜はプールに歩いて行った。客は多かったけど、体調はまあまあ。よく泳げた。
天気:晴れ。暑いぐらいの気温。

絶対造形

10万枚に拘るのは、ピカソの晩年の油彩画の線描が素晴らしいからだ。その線描は白隠の書画にも共通する。私はピカソより白隠のほうがさらに凄いと感じている。ロダンのクロッキーも素晴らしい。中国の因陀羅の水墨画も見事だ。そういう線描の造形はとにかくたくさん描かないと絶対に達成できない大人の業なのだ。20歳代の天才ではなし得ない線描なのだ。
大人の味わいというか爺の業というか、東洋では昔から尊ばれている造形だ。
造形のキッカケは愛欲でも反戦でも布教でも何でもいいのだ。とにかく真剣に、山のように描かないと到達できない境地なのだ。
そういう意味でも雪舟は偉大であり、雪舟を慕った雪村も同じ思いだったと推察できる。
富岡鉄斎も知っていた画道の目標である。
空間描写も質感も量感も、色彩も調子も構図もすべて絵画の大切な要素だ。しかし、線描だけは描かないと手に入らない、絶対造形だ。絶対音感なら生まれ持っての能力だろうが、絶対線描は描きまくって到達できる万人に平等な業だ。しつこく頑張れば誰でも手に入る。何歳からでも、誰でもやろうと思えば始められることだ。始められるが、到達するのは至難の業。そういう造形を手に入れた絵や書の達人は、人類史上でも100人はいないかも。
そういう意味で、われわれはみんな大平原を旅する修行者だ。発展途上の未熟者だ。徒弟だ。だけど方向を見失ってはいけない。
世の中には、雪舟やピカソを批判する人もいる。まったく造形の妙味が分からないのだ。気の毒な人たちだ。
そういえば、昨日の夕方、公園の隅にまだ少し残っている雪で裸婦像を作ってみた。私は彫刻が好きかも知れない。写真に撮ればよかったか、な。要らねぇ〜〜〜。
天気:小雨
作品:F4「雪降る街」
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10万画家2

10万枚描くとなると、よほど健康でないと難しい。夭折の天才では無理だ。これは自分が天才ではないヒガミかもしれない。しかし、私の10万は目標なのだから、途中で折れるのはどうしようもない。手の打ちようがない。10万目標を掲げて頑張るのは誰でも出来る。万人が目指せる平等な方法だ。絵画姿勢だ。
才能なんてものに惑わされず、さらに世間の評価なんて無視してどんどん描くのが10万主義だ。
マネはルノワールに「君は絵の才能がないから画家を目指すのは無理だ」と言ったそうだが、これこそ大きなお世話である。下手の横好きという言葉もある。やりたいことをやればいいと思う。人生は一度しかないのだ。
そう思って、思い焦がれる女性にやたらと抱きついたら犯罪者になってしまう。自己完結の中で一度の人生を満喫しなければならない。
10万枚の絵を目指して画家になるというのは、実に合理的で、素晴らしい方法だ。誰にでも実行できる。描けばいいのだ。
だけどいい加減な絵ではダメ。ちゃんと描かなければならない。昔の偉い画家を真似てちゃんと精進しての10万枚だ。
そのために、公募展を利用したり、個展をやったりするのは悪いことではない、というより、そうやって描いて行くしか方法はないと思う。そうしないと真剣に描かない。いくら自己完結とはいっても、われわれは社会に生きている社会的動物なのだ。
しかし、グループの中で、あまり汲々として地位や受賞を求めるのは情けない。目的が変わってしまう。日本の代表的な画家は文化勲章を目指しているらしいけど、あれもおかしい。上がおかしいからでかい公募展は軒並み腐ってしまう。頭を冷やしたほうがいい。
今日は絵画教室で蘭や野菜を6枚描いた。夜、管理会社の健康診断結果が来た。自分では健康と思っていたが、今年はC評価が2つもあった。C評価は再診の必要はないけど、要注意というもの。自慢できる健康体ではない。
天気:晴れ

10万画家

この2月11日のブログに「10万枚(真剣に)描いた画家の筆の跡は、そう滅多に見られるものではないのだ」と書いた。10万画家と命名したい。具体的には葛飾北斎とかピカソのことだ。
褒められる、入選する、受賞する、絵を買ってもらうなどというのは自分ではどうしようもないことだ。他の人の心の動きである。これらは一見絵画の目的のように思われるけど、こんな他の人の意向を気にしていては自由な絵は描けない。本当の絵は描けない。
で、私は10万画家を提唱したい。
10万画家は、正確には生涯10万枚の絵を描いた絵描きだけど、実際に、これに届くのは至難の技だ。どこかで聞いた話だけど、モネ8千枚、ドラクロワ9千枚、ターナー2万枚など。北斎でも3万枚とか4万枚という説もある。
絵の枚数も残っている絵の数と描いた絵の数は一致しない。潰したり破り捨てたりした絵も多いと思う。私の10万枚はそういう絵も含めての大目標だ。大雑把な数字だ。モネとかターナーは10万枚を超えていたか、それに迫っていたと思う。
私自身、64歳の今、ざっと数えて2〜3万枚は描いていると思う。これだけ描いていれば、お売りしても罪にはならないだろう、と勝手に弁解している。
10万画家は、「絵は描けば描くほどよくなる、上手くなる」という前提に立っている。
で、10万に達しない以上、画家としてはまだ発展途上にあると自覚しなければならない。
私は姿勢、意識、理念として10万画家を目指す。
今日はクロッキー会だった。夜は歩いてプールに行った。暖かかったからか、客がたくさんいた。真夏ほどではないので、十分泳げた。明日は絵画教室だ。
天気:晴れ
作品:F4「芳春」
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連続群像

パンフレットには9点の絵が必要だ。裸婦、花、風景をバランスよく配置したい。静物も欲しい。さらに大きさもいろいろな種類で揃えたい。こう考えると、絵の選定がとても難しい。
この絵は外せない、という絵から選ぶ。表紙は縦の裸婦にしたい。一番大きな風景はパンフを開いたときのメインだ。
今年の絵は海の風景がとても多い。花が少ない。もちろん、いっぱい描いたのだが、残る絵が少なかったという意味だ。でも今年の秋バラはイマイチだった。夏が暑すぎたせいらしい。ま、南フランスの絵だけのパンフもあるのだから、今年のパンフが海の風景だらけになっても別にかまわない、か?
パンフなんて、人気作家だったら、誰かが作ってくれるんだろうけど、私みたいなマイナーな絵描きは自分で作る。それもまた楽しいね。
4〜5日前の道端には真っ白な雪がたくさん積んであった。足で蹴ってみるとけっこう固い。この雪で100mに渡る雪の裸婦の群像寝ポーズ彫刻を作ったら楽しいだろうな、なんて考えていた。でも、ケッサク彫刻が数日で融けてしまうのはあまりにも悲しいか。
今は道端の雪も小さくなって、薄汚くなってしまっている。
天気:曇り

わが家の大晦日

今日は金井さんが見えた。この日はわが家の大晦日みたいなもの。大掃除をしてお待ちする。金井さんから見ると、どこを掃除したのかわからないかもしれない。でも、わが家としては大掃除なのだ。
で、1年分の絵をお見せして、そのうち70点ぐらいの絵を選んで持ち帰る。展示するのはそのうちの50〜60点ぐらい。大量の絵が残る。これらが全滅というわけではない。金井さんが選ばなくても、自分でいいと思う絵は残す。しかし、自分がこの絵なら文句ないでしょうと思う数点の絵は、金井さんの選択とぴったり一致する。そういう絵を今年のパンフレットにする。だから、毎年本当にいい絵は10点ぐらいなのだ。
今日はマンション勤務が中番で9時〜5時。金井さんが7時前に見えて、2時間かけて絵を選んだ。いまはフラフラだ。凄く疲れている。今晩はきっとぐっすり眠れると思う。これぐらい疲れ手も眠れなかったら本当の不眠症だ。
天気:曇りのち晴れ
作品:SM「フーガ」
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幸運は突然来て、潮のごとく去る

永遠の安楽はない。安楽のパスポートはない。あえて言えば死ぬことだ。だけど死が安楽じゃ話にならない。そんな当たり前の話は前提として成り立たない。死ではダメ。
生きていて安楽でありたい。しかし、安楽はない。金があったら楽しいだろうと思うけど、健康はどうする? 私は金(と髪の毛)はないけど、今のところとても健康だ。しかし、もちろん安楽ではない。いま健康と言ったって、この歳ではいつ癌に罹るかわからない。私の両親とも肺癌で、親戚も癌ばかり。私が癌になる可能性はとても高い、と言うか100%に近い。それがいつ来るかの問題にすぎない。
だけど、63歳で今現在はとても健康である。金はないけど、一応生きている。とても喜べる状況ではないけど、もっと不幸な人は山ほどいるだろう。
生きていて安楽を掴むのは不可能である。そういう前提をまず思い知るべきだ。
しかし、幸福のときはある。今日も生後3か月の孫を30分ほど独占して可愛がることが出来た。普通は不可能なことなのだ。私は3歳男児の子守り担当で、下の女児をじっくり見ることも許されない。3歳男児がいつも見張っている。もちろん、3歳の孫も可愛いけど、生後3カ月は得難い宝物なのだ。ま、それは諦めるしかない。欲張ってはいけない。
とにかく、そういう幸運は突然来る。安定した幸せはないけど、幸せの時間はあるのだ。もらえるのだ。
永遠の幸福を求めて生きるのは止めておいた方がいい。無駄だ。それより、毎日を地道に暮らしたほうが賢明だと思う。仏の教えとはそういうことだと思う。
天気:晴れ。午前中は寒かった。

ジューシーイズム

マンション勤務の夜はちゃんと眠れる。昨夜もトイレ0だった。新聞の広告にでっかく「頻尿」などと書いてある。薬で治すのが大前提みたいな風潮。馬鹿げている。昼間ダラダラして夜眠れないのは当然。それでトイレの回数も増える。睡眠薬を飲んで、頻尿の薬を飲んで、さらにダラダラの暮らしを続ければ、100%老化する。薬漬けになってしまう。
ほとんどの老人病は運動して食を控えれば解消する(たまにダメな場合もあるから要注意)。
3日後に金井さんが絵を取りに見える。絵の整備をしなければならない。だいたい新作は分けてあるけど、1年分だから、裸婦などいつ描いたのか分からなくなる。
で、従心主義だけど、言葉はとてもいいように思う。「自分に正直にやりたいようにやるけど則を超えない」なんて、とても素晴らしいではないか。私は少し耳が遠い(私のは本当。障害者手帳も貰っていない)からジューシー主義みたく聞こえる。美味しい果物みたいでさらによい。しっとり厚みのある油絵を連想する、か?
今日は、記憶と小さなスケッチを元に14日の雪の街を描いた(8号と4号)。夜はプールに歩いて行った。とても寒かったが客が5〜6人ぐらいいた。
天気:晴れ
作品:F8「海辺の街」
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ジジイだねぇ〜

昨日は非番だった。プールもお休み。まったく歩いていない。絵も描いていない。ちょっとした作業をしただけ。そういう夜は何度も目が覚める。トイレに何回行ったか数えきれない。プールに行くと夜中のトイレは0回だ。マンションの見回りもかなり有効。人の身体は、というか私の身体は運動しないと不調になるように出来ている。それが分かっているのにダラダラしていたい。
で、3つの課題だけど、全然できない。昨日の朝はこのブログの文章を書いて、ホームページの文章を書いたら、もうギブアップ。ホームページの文の最後のところは朦朧としていた。ジジイだねぇ〜。こんな短文が2本書けないなんて。
何としても早めに3つの課題を克服しなければ、ますます出来なくなる。
自分の体調を知って上手くコントロールすればいいのだけど、63年以上やってきて、今もコントロールできないこと自体、おかしいっしょ。
ところで、『長谷川利行』(矢野文夫・美術出版社)が読み終わったので、『ターナー』(ジャック・リンゼー 講談社)に移った。少しずつ読んでいる。『櫂』(宮尾登美子)を読破したのだからどんな本でも読み切れる!
天気:晴れ

三つの課題

裸婦のクロッキーが1回だと絵を描く回数も枚数もガクンと減る。今月は絵画教室も1回しかなかった。そのうえ、雪で車の遠出が出来ない。物流さえもストップしているのに、絵を描きに車を出したらバカだ。
お手上げ状態。待つしかない。
それにしても、私の暮らし振りは若い頃からずっと進歩がない。やるべきことをちっともやらない。たとえば、キャンバスの価格表を早くアップしなければいけないのに、半年以上やっていない。やり始めたら3時間で終わる。注意深くやればまず失敗はない。何のリスクもない。ただやれば多少の利益になるだけだ。一方的な利益だ。本だって自由に買えるし、プール券に窮することもない(現在も回数券が切れている)。スシローにも行きたいときに行ける。
また、ホームページの最低限の整備もやっていない。もうすぐ金井画廊展が始まるのだから、ホームページを整備してパンフレットも作らなければならない。
さらに、You Tubeの『絵を比べてみる』シリーズも滞っている。これはやってもすぐにどうということはない。だけど、20歳代のころからやりたかったテーマ。現在はYou Tubeという無料のメディアがあるのだから、やってもマイナスリスクはないのだ。上手くゆかなくても、どんどんやって、下手なものは削除してやり直せばいいのだ。古典絵画を比べて主観を述べるだけなんだから、あちこちから文句が来ることもないはず。
毎日、1時間も頑張れば1ヶ月後にはバラ色の人生になる。
ああ、いつも若い頃からそう思っていた。ダメ爺だ。
そんななかで、絵だけは描いてきた。なんとかキャンバスも張って、地塗りもやってきた。そこだけは偉い。水かぶりも水泳もやっているし、マンションの勤めも可もなく不可もない、はず。見回りはウォーキングだからまじめにやっているし、そのほかの業務も言われたことだけはやっている。時給仕事だから、それ以上やっても管理会社も困ると思う。そういう点もギリギリ合格だろう。
学習塾をやっていた頃も23年間授業に穴はあけていない。自分の塾なんだから当り前か。
とにかく生きている。生きてきた。
でも、ダメだ。初めに書いた価格表、ホームページ、You Tubeの三つをクリアしなければ立派ではない。毎日1時間で十分だろう。週2回集中した3時間でも大丈夫。すぐ終わる。
で、今日も上の三つは何もやらずに一日が終わった。ただ金魚の水槽の掃除、等迦展から帰ってきた100号の額はずしをしてシートにしっかりくるんだ、ぐらいで疲れた。ホームページの最低限の更新はこれからやる予定。
天気:晴れ
作品:F0「遠く微かな富士」
140131mito0
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