イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2015年11月

意識レベルの問題だ

自分が絵を描いているときの意識のレベルがどの程度のものか、他の人と比べられないから永遠にわからない。禅僧などは、けっこう自信に満ちている。あの自信が嫌だけどね。
絵の場合は、けっきょく作品で判定するしかない。自分自身のことはわからないけど、古典絵画ならその意識のレベルを推し量ることができる。
絵では作品の出来が悪魔なのだが、過去に偉大な人たちの痕跡を一目でわかるというところは、実にありがたい。まさに一目瞭然なのだ。
晩年のモネのバラや藤なら、その開花の喜び、美しさへの感謝や感動をいかに画面にぶつけ、造形化したか、そのときのモネの精神状態まで推測できる。意識のレベルがわかる。
絵画とはライフルで絵具の固まりを撃つことではない。新しさや奇抜さは要らない。
絵画では、人々は何千年も昔から同じことをやっている。その意識レベルを競っているだけだ。いやいや競っているわけではない。深いレベルに達した画家は自分が幸福なだけ。そりゃ勿論出来た作品も素晴らしいけど、それは副産物に過ぎない。
作品を追ってはいけない。無間地獄に陥る。
集中することの幸福を求めるべきだ。この集中度のレベルは限りなく深い。それを味わえるためには、相当量の作画が必要である。絵にのめり込む覚悟が要る。
ライフルの女性作家も、晩年の彫塑は面白い。あの域に達するのは相当描いたり作ったりしたのだと思う。結果としてけっこうなレベルに達した。
今日は朝プール(50m室内)に行って、午後はマンション勤務。筆洗いもやった。さらなる地塗りキャンバスの準備は明日から。またそろそろ100号の準備にも入る予定。自分のなかの奥深い深層意識に到達すべく着々と進んでいる。ンなわけないか。
天気:曇りのち晴れ

覚醒と言えるか?

絵を描いているときの頭の中ってどうなっているのだろうか?
あの色あの絵具と具体的なことを考えている。太さや形など筆の種類も多い。それらを統括しなければならないからかなり忙しい。それは当然意識してやっている。覚醒している。しかし、いっぽう無我夢中になってもいる。下意識とか無意識と言われる部分が働いている感じもある。いつも言うように時間が飛んでいる。それが幸福感を生むのかもしれない。常習性も生んでいるのかも。有酸素運動としての水泳にも近い。
ただ、絵は作品ができてしまうから、そこが悪魔のささやきになってしまう。
まったく無念無想の素晴らしい境地が瞬間的に破壊されてしまう。いくつになっても、下心で胸が張り裂けそう、か?
そうでもない。かなり諦めている。
ところで、最近の民放テレビがあまりにもつまらないから、Eテレを見てしまう。白熱教室は『数学ミステリー』。中学数学を23年間教えてきたこともあり、けっこう理解できる。面白いかも。
また、この前はサルトルもやっていた。とても懐かしい。実存主義は人間の悲惨さを示してくれた。ただ、だからどうしろ、というところが弱い。
今日は午後から浦安で等迦会の実行委員会があった。朝から行って、旧江戸川風景を油絵で4枚描いた。前から狙っていた場所。大きい絵に描きたかったけど、電車なので6号以下で妥協した。ここのところ3日連続で描いている。よく描くねぇ〜。
夜はプールに行く予定だったが、遅くなってしまい、行けなかった。ウォーキングは40分ぐらい歩いたはず。
天気:晴れ。朝はわが町からも富士山くっきりだった。
作品:F4「フルーツ」
151118fruits4

脳内現象か?

朝の水浴が厳しくなってくると、プールが空く。いよいよわが季節って感じ。
風景も凄いことになっている。昨日の三浦半島も素晴らしかった。三戸という漁村を遠望する。あの漁村もとてもいい。なんか椿三十郎が歩いていそうな小さな集落だ。もちろん近代的な倉庫なども見えるけど、そんなに大きくない。いつも言うけど、地面の起伏、地勢は太古から変わらない。
海の向こうに富士山がでっかい。富士山はでっかいね。何度見ても「こんなにでかかったっけ?」と感嘆する。ティラノザウルスだったころのDNAが騒ぐよ。きっと恐竜たちも惚れ惚れと見とれた風景なんだろう。
太平洋の輝きもハンパない。吉永小百合の『光る海』っていう映画は桁外れの駄作だったけど、三浦半島から見る光る海にはほんと驚嘆する。その見渡す広さは数百キロ以上か?
左には伊豆大島が浮かび、太平洋があって(ここが光っている)、伊豆半島の天城峠が見える。伊豆半島を北上して行くと十国峠があって、その次にドンと富士山がかまえている。さらに箱根の山塊があって、小さく江の島も見える。湘南の海岸が遠くに光り、三浦半島の山々が重なる。
昨日は強風で絵を描くには苦労したけど、最高の見晴らしだった。この冬にあと2回ぐらいは行きたいね。高速代などで3000円は吹っ飛ぶけど、やっぱ行きたいよ。
以前読んだ茂木健一郎の本に、確かイギリスのストーンヘンジのあたりの広大な風景を見てこれは自分の小さな脳内で感じているだけなんだ、という件があったけど、でっかい風景のなかでの感動は単なる脳内現象ではないだろう。全身でその場所を感じている。間違いなくその大地に立っている。それは物凄く確かな現実だ。頭の中では反芻できない。コピーできない。いくら富士山をでかいと思っていても、実際に見るとさらにでかい。現実は脳内には収まらない。だから何度も足を運びたくなるのだ。
今日は朝柿の絵を2枚描いて、午後からマンション勤務。絵もウォーキングも合格か。
天気:快晴

本当の教え

図書館で『仏教、本当の教え』(植木雅俊・中公新書)を借りてきた。少し読んで、これは買いたいと思ったけど、アマゾンでもまだ1円ではなかった。
仏教への私の思いがずらずら書いてある。
これでまた『勘の研究』(黒田亮・講談社学術文庫)がお休みになってしまう。『勘の研究』を読んでも、わがイッキ描きが変わる可能性はない。むしろ裏付けみたいなもの。イッキ描きでは勘がとても大切。その勘をどうやって十分に働かせるか、作品の良否はそこにかかっている。しかし、作品の良否に拘り過ぎてはいけない。ややこしい。ま、とにかくキャンバスに向って絵具だらけで戦わなければ良否も蜂の頭もない。
で、『仏教、本当の教え』だけど、その最初のころの12ページに「第一に、仏教は徹底して平等を説いた」と来る。これも私の思ったとおり。あのカーストという身分制度の最盛期とも言える2500年前にインドで平等を説くなんて凄すぎる。
「第二に、仏教は迷信やドグマや占いなどを徹底して排除した」と書いてあった。いいね。だから、今の日本の葬式仏教は信用ならない。いろいろな装飾をぶら下げて、お経も歌みたいになっちゃっている。ま、それはそれで文化としてみれば悪くはないのかもしれないけど、お釈迦様の思いからは遥かに遠い。ちがうだろが! と叫びたくなる。
「第三に、仏教は西洋的な倫理観を説かなかった」とある。ここらへんになると、私の頭ではすっと理解できない。鼻たれのバカ爺だ。ま、わからないところは後回し。なんか悪い感じはしない。
もうこれだけ読んでもお釈迦様って素晴らしいと思ってしまう。これからゆっくり読み進む。読むのはとても遅いよぉ〜。
今日は海に行った。いつものところ。三浦半島の先のほう。三戸という漁村が見える丘。凄かった。富士山が目の前に迫っていた。太平洋も光っていた。桁外れの大パノラマ。あの場所は凄いね。M氏が発見した場所だ。あそこはテレビでもやらない。地塗りキャンバスが乾いていなかったので、8号ほか4枚しか描けなかった。ま、風が強すぎて大きなキャンバスは無理だったけどね。
パソコンは不調のまま。薄暗い画面で頑張っている。買い替えなければならないかも。
天気:晴れ
作品:SM「小春日」
151120sm

肩書ではなく絵をよく見るべきだ

YMは大きな公募団体を創設した大巨匠である。代表作の大きな絵は高校の美術の教科書にも載っている。もうずっと以前に亡くなった画家だ。若いころ、その画家の個展を見たことがある。銀座を歩いていて偶然やっていたから入った。びっくりするぐらいつまらない個展だった。普段絵を描いている感じさえもしなかった。私みたく何百枚も描いて、そのなかから選んだ50点じゃない。やっと描いた50点。「ふぇー、これかよ。描いてねぇ〜〜」とマイナスのほうでびっくりした。
他にも、デパートの印象派展を見たあと、階下のギャラリーで日展の巨匠、確か文化勲章ももらっている人の裸婦の小品を見た。その画家も日展系の公募展の親分だった。ルノワールのあとだったからなおさらだけど、まったくひどい裸婦。ぶったまげる価格が付いていた。あれ買う人いるのか!?
日本画壇は腐っている。バカばかり。絵を描くために生まれてきて、こんな絵か。画壇で威張って、それが何だと言うのだろうか?
ドガやモネも晩年はフランス画壇の大巨匠になったけれど、威張っている感じはない。ドガはとても不機嫌だったらしいけど、それは目が不自由になってしまったからだ。
モネの晩年の絵具の冴えを見ても、あれだけ描くとなると、威張っている暇はなかったと思う。晩年のモネに会った日本人の記録がいくつかあるけど、それらを読むと威張ったところはまったくない。エネルギーに満ちていたとある。
魅力的な絵を描く人は魅力的なんだ。いやいやゴッホの絵は魅力的だけど、ゴッホには会いたくないね。長谷川利行にも。
今日はマンションの早番で夜はプールに行った。運動は完璧。
天気:雨のち晴れ

巧拙は重要ではない

モネは若いころから絵が巧い。絵描きなんだから誰でも絵は巧いだろうとお思いだろうが、実際に下手の横好きも多い。下手の代表格はゴッホ。ルソーは桁外れに下手。クールベにもびっくりするぐらい下手な絵がある。
日本の画家で巧いと言えば小磯良平だ。次に思い浮かぶのは日本画の川合玉堂。巧いという点では日本人画家は多いかもしれない。古くは浅井忠がいた。鹿子木孟郎の裸婦の背中にも驚嘆した。他に宮本三郎や麻生三郎などの若いころの絵はホント巧い。
私自身、巧い下手は最重要事項だと思っていたけど、所詮、巧拙は真なる画道には無関係とわかる。誰が見たってゴッホの絵は魅力的だ。絵画の魅力は巧拙ではない。
そう言えば、巧いと言えば、マンガ家にもたくさん巧い人がいる。浦沢直樹が代表格。鳥山明も十分巧い。私が子供のころ巧いと思っていたのは白土三平。
将棋だって切れ味が鋭い棋士と負けない棋士は別。タイトルを取る棋士は当然負けない棋士だ。でも、見ていたいのは切れ味の良い将棋。いやいや、最近は、歳のせいで粘りも弱くなり、棋譜も読めない。5秒で眠くなる。
以外かもしれないけど、私は藤田嗣治も巧いとは思わない。なにか近視眼みたいな絵だ。だけど魅力的ではある。もちろんいい絵だ。
モネは巧いけど、その巧さを問題にしないぐらい素晴らしい画家になった。75歳以降が凄い。
何度も言うけど富岡鉄斎だって巧くない。長谷川利行も巧いとは言い難い。雪舟も巧くないと思う。
巧さなんか関係ないのだ。続けること、たくさん描くこと、いい絵をたくさん研究することが重大なのだ。それが幸せなのだ。面白いのだ。
今日は歩いて図書館に行ってからカラオケで4時間歌いまくった。ウォーキングとカロリー消費はたっぷり。食事も2回だけだったので、明日の朝は減量していると思う。
天気:曇り。とても寒い。
作品:F10「秋景」
151113aki10

幸福論

今日はキャンバスを張る予定。しかし、肝心なロールがあまりにも減ってきた。なくなっちゃう。実に困る。等迦会の100号はどうなるのだろうか? とにかく、100号を2枚ぐらいなら描ける(出来れば10枚、少なくとも5〜6枚は描きたい)。その前に、等迦会の絵の題名を決めなくてはならない。11月いっぱいが締め切りだ。今年は「平安」と「調和」かな。世界中が物騒だから平和路線で行くか。しかし、図柄はまったく決まっていない。描き始めるのは早くて12月の上旬だ。真冬は100号三昧に入る、つーわけ。
100号三昧のなかでの小品は上手くゆく確率が高い。だから小品の地塗り済みキャンバスも最低30枚ぐらいは用意したい。現在9枚しかない。あと20枚どうやって絞り出すか。本心、40〜50枚欲しい。それだけ用意しておけば、クロッキー会も、秋から冬への澄んだ風景もガンガン描ける。この歳だと、描けるときに描いておかないといつ描けなくなるかわからない。中村彜状態なのだ(=中村彜は結核だったので、調子の良い日に描いた。いつ発作が出るか、または死んでしまうかわからなかった)。
でも、彜は一画工として生き死んでいった。一つの理想だ。われわれもそうありたい。画壇に君臨して威張っているバカもいるけど、ろくに絵も描かないで、理事も総長もねぇだろうが。アホか。一生は一度。本当にやりたいことをやるべきである。65歳が言うのだから嘘はない。われわれは絵筆を持っているときが一番ハッピーなのだ。こういう、真なるハッピーを知っている人間になれた、これもとてもハッピー。本当にゴメン。
今日はキャンバス張りと地塗り、今までの在庫を合わせて20枚用意した。さらに20枚絞り出す、予定。100号も何とかする、必ず。
で、1時間強のウォーキングもやった。秋の夕べを満喫した。
天気:多少雲もあるが概ね晴れ=キャンバス張りと地塗り日和=けっこう張って地塗りもした。私は努力家かもしれない。

初めからイッキ描き

昨日のNHKの『印象派巨匠モネ10選』は、まったくわがイッキ描きの解説版。イッキ描きそのまま。地塗りはするけど、木炭などで下絵は描かない。油絵具でそのままバンバン描いて行く。別に新しい手法ではない。
ああ、「手法」という言葉を使ってしまった。NHKの日曜美術館で腐るほど使うから大嫌いになった言葉。その他、わがブログの禁止言葉は「私は〜が好き」「感性」など。絵の木炭や写真同様、私が勝手に嫌っているだけだから、私の趣味を他に方に強要するつもりはない。絵画教室でも、みなさん木炭をお使いである。多分、家に帰れば写真も。もちろんみんな自由。イッキ描きの大原則は「描きたいものを描きたいように描く」なんだから、自由に決まっている。
ただし、わがイッキ描きは、けっこう凄い。モネは西洋美術史上では異端かもしれないけど、東洋の水墨画は1000年以上前からイッキ描きだ。西洋美術でも、モネより古いドーミエもおそらく下絵はない。レンブラントの『沐浴する女』(ロンドンナショナルギャラリー蔵)もイッキに描いていると思う。ロートレックの大画面もドガのパステルも下書きはないはず。レントゲン写真なんか撮らなくたって、一目でわかるべ。ヴラマンク、マチス、ピカソ。誰だって下絵なんて描いていない。
もしかすると、ベラスケスもイッキ描きかもしれない。ベラスケスは巧いよぉ〜。
そう言えば、下絵の効果を生かした画家一人だけいた。昨日取り上げたパスキンだ。
昨日のブログにパスキンの裸婦を画像を付けたので、そっちもご覧ください。
私は新しがっているわけではない。むしろ古い。古がっている。新新古典主義だ。そういえば、高校のころ『新新英文解釈研究』っていうわけのわからない参考書にヒーヒー言ったなぁ。なんだったんだ、あれ?
ついでに、ミケランジェロのシステナ礼拝堂の天井画や壁画もイッキ描きだと思う。西洋美術史はルネサンスからイッキ描きだったのかも。
今日もマンション勤務の中番(9時〜5時)。ウォーキングは十分。水泳はなし。
天気:曇りのち雨
作品:F3「秋の公園」
151113aki3

パスキンの苦しみ

パスキンはエルミーヌとルーシーの間で苦しむ。パスキンがエルミーヌと結婚したのはルーシーに出会った後なのだ。第一次世界大戦が始まることもあって、パスキンはエルミーヌとアメリカ旅行に行き(=ルーシーからも離れる)、アメリカで結婚する。
22歳でエルミーヌと知りあい、26歳でルーシーと知り合い、29歳でアメリカに行き、少し遅れて来たエルミーヌと33歳で結婚。35歳で別の男性と結婚していたルーシーと再会。39歳ごろにはエルミーヌとルーシーの間で悩みアルコール中毒になった、とある。43歳、44歳のころにはルーシーとアメリカやスペイン、ポルトガルに旅行している。で、45歳に自殺。
パスキンの絵を世に広めたのは、ルーシーとその息子とのこと。ルーシーの息子はパスキンの子ではない。ややこしい。
自殺の際には血文字で「さようなら、ルーシー」と書いたらしい。
あまりにも劇的。映画にならないのが不思議だ。
ちなみに、ルーシーも女子画学生だった。モデルもやっていた。格好のいい裸写真も残っている。
パスキンの裸婦のポーズはちょっとお行儀が悪い。あれを見ると、私も行儀の悪いポーズの裸婦もどんどん発表していいのか、というか、けっこう発表しちゃっているけどね。私は普通の爺さんなので、つい遠慮してしまう。ああいうポーズはなぜか上手くゆく場合が多い。ジジイでも故郷(?)は懐かしいのか? ついつい、熱情が高まる。
今日はマンションの中番でたっぷり歩いて、夜はプールに行って、テレビの『下町ロケット』を見て、録画しておいた『日曜美術館・モネ10選』も見た。イッキ描きの宣伝みたいな番組だったが、肝心なイッキ描きが無名では話にならない。ゴメン。
天気:曇り
図版:パスキン「眠る裸女」(埼玉県立近代美術館 1928年 73.5×92.5僉
パスキン「眠る裸女」

画家の若いころ

マルケの若いころの絵は、ゴッホの若いころほどでもないけど、暗い。のちの絵みたく水彩画みたいな軽やかな画面ではなく、筆触は確かにマルケとわかるのだけれど、重く、暗く、油絵らしい画肌が感じられる。
もちろん、とても魅力的で心惹かれる筆跡である。
ヴュイヤールの若いころの絵は装飾的で平面的。これまた魅力的にはちがいないけど、あれだけで終わっていたらヴュイヤールはつまらない。空間表現を探り始めてから面白くなる。
だいたいヨーロッパの画家は真面目だ。真剣に基礎を学ぼうとする。身につけようとする。ゴッホはもちろん、マルケもヴュイヤールもアカデミックな画技を修得した。
パスキン(1885〜1930)なんてもともと才能だけで10代から名を売った。しかし、すぐ行き詰まることを察知してか、女子画学生のエルミーヌと知りあってからルーブルに通い一からやり直す。と言ってもまだ20歳代の前半だった。そのエルミーヌと結婚する。パスキンはとてもイケメンで、きっと多くの女性にもてたと思う。が、意外と生真面目なのだ。その後、ルーシーという女性と知りあってえらい目に遭うけどね。
最期は自殺だった。
今日はマンション勤務の早番。ウォーキングは十分。
天気:晴れ
作品:F6「野のバラ」 かなりムチャクチャな絵だけど、毎日見ていると悪くもないかも。
151104bara6
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