イッキ描きブログ

菊地理の油絵作品と絵の話

2018年11月

もうすぐセレブかも

(金曜日)
このブログの「拍手」というのは一般の「いいね」のことだと思う。私のブログの「拍手」はほとんど毎回ゼロ。半分ぐらい1。もちろん全然気にしないで書きたいように書かせていただいている。ところが、1か月前ぐらいから「拍手」が20以上のときがある。何を述べたから20になったのか? くれぐれも私自身が自分で「拍手」と打ったのではない。アクセス数とか「拍手」はある程度ないと寂しいけど、私の場合アクセス50前後が妥当。50人の方が読んでくださるなら十分満足である。そう言えば、アクセス数もときどき200とかになる。あれはきっと誰かが過去のブログを読んでいるときだ。私自身も自分の過去のブログをよく読む。とても意見が合う。本人だから当たり前だ。
本は『ティッピング・ポイント』(マルコム・グラッドウェル/高橋啓=訳・飛鳥新社)に入っている。なかなか進まない。内容は興味深い。グラッドウェルの最初の著作だと思う。この後『第1感』と『天才』を出版した。私は『第1感』、『天才』と読んで、最初の『ティッピング・ポイント』に戻った。普通こんな意味不明なカタカナの本は読まない。『第1感』がまあまあで『天才』は私と同じ意見だった。イッキ描きにとても近い思考。で、『ティッピング・ポイント』も読んでみるか、ということになった。内容は物流が急激に広まる秘訣が書いてあるらしい。秘訣をマスターし実践すれば、ついにイッキ描きがブレイクするかもしれない。晩年の私もセレブかも。

今日はクロッキー会だった。そのあと歯科に行った。なんか疲れる。
夜はホームページをアップした。『唇寒』のテーマはムンク(1863〜1944)。
天気:晴れ

偉い人は偉い、のでは?

(木曜日)
NHKの『西郷どん』を見ていると、西郷隆盛(1828〜1877)はとてもいい人ということになっている。いっぽう、こういうのを疑う人が必ずいる。
宮本武蔵(1584〜1645)なんか、もともと剣聖という評価なんだけど、山本周五郎とか司馬遼太郎など多くの人が疑いの目を向けた。
ヨーロッパの偉大な画家にもいろいろな見方がある。
ミケランジェロ(1475〜1564)が稀代の臆病だったとか、同じミケランジェロでもカラバッジョ(1571〜1610)のほうは決闘で人を殺したなど。ま、カラバッジョの場合はかなり本当らしい。そしてみんなホモだった。ま、ホモは関係ない。特に最近は性のあり方は自由だという風潮。
印象派の多くの画家も梅毒?
そういうマイナスの評価ってどうなんだろう?
ここ2〜3日、そのことを考え、あんまり素直に尊敬するのもバカだけど、歴史に名を遺した偉い人って本当に偉いんじゃないか、と思うようになっている。
ミケランジェロが臆病というのは命を惜しんだのであって、大理石に向かったときは寸毫も臆病風はない。大胆不敵。ガンガン踏み込んでいる。彫刻界最大の勇者である。
子供のころから聡明でスポーツも抜群。みんなから好かれる。そういう人が懸命に努力して偉くなったんじゃないか? 
もちろん、歴史の闇は深く、本当のことはわからない。
ただ絵だけ見て画面勝負で見るしかない。今やっているルーベンス展の最初の自画像がルーベンスの真筆ではなく後の人の模写だという話。模写説は信じがたいけどね。それほど素晴らしい筆触、という印象だった。ああ、もう一度見たい。
現在生きている人でもわからないことだらけ。トランプ大統領の知能は小学5年生並みと誰かが言った、と新聞に書いてあったけど、そんな知能であんなに大金持ちになれるか? 第一アメリカ合衆国の大統領になれるものか? ゴルフもとても巧いらしい。ゴルフも頭を使うと思う。
素直に不思議だ。

昨夜は喉が痛かったが今日は治っていた。油断できないが一安心。腰はほぼ回復。しかし危うい感じ。
天気:晴れ
作品:F10「室内」昨日描いた最新作
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昔からあるコピー文化

(水曜日)
印刷の方法。画集で絵を見てもらう方法も昔からある。私たちは印刷物で印象派を知り、ルーベンスを知り、レオナルドを知った。以前にも述べたとおり、昔の大画家も版画による大量複製の方法を模索し続けていた。
印刷で知ったドガでも、実際の実物を美術館で見るとベツモノ。そこで2度目の感動が出来た。とにかく美術館の絵はドガその人が手で描いた絵が直に見られるんだから、奇蹟のような現実だ。考えてみると、絵というのは物凄い伝達手段なのかも。レオナルドの筆触も直に味わえちゃうんだから驚愕だよ。
で、また印刷コピーの話だけど、片岡鶴太郎も、実際の絵は売らず画集だけを売っている、らしい。最近のことは知らないが以前はそうだったと訊く。
でも、このインターネットもコピーなんだよね。私はもうすでに20年以上やっている。ま、やって悪いことはなかったが、驚くほどの効果もない。絵の実力のせいかもしれない。結局そっちかよ。

昨日『青葉繁れる』(井上ひさし・文春文庫)を読み終わった。おすすめではない。仙台にゆかりのある人なら面白いかもしれない。私の父は仙台の郊外の西多賀療養所に長く入院していたので、私も子供のころ行ったこともあり、多少は縁があるが、ほとんど関係ない。高校のときお世話になった先生が仙台出身の方だった、ぐらいか。

今日はチョー久しぶりの絵画教室で、室内画を5枚描いた。「室内画のキクチ」になってきている。誰も言ってくれないから自分で言っちゃう。
午後から鴨居ららぽーとに映画を見に行った。凄くつまらない映画だった。
夜は『あいつ今何してる?』を見たら、11月17日付のホームページで述べたようなことを、チョー天才的高校生が言っていた。前提は同じ(人はみな滅びる)だけど結論がちがっていた。向うは今現在金持ちみたいだから向うに乗りたくなった。
天気:晴れのち曇り

大義のため、なのだ

(火曜日)
大義、大志、世のため人のため。目先の金のためではない。まったく新しい日本画壇を一から創り上げるのだ。別に私が新日本画壇の総統になるわけでもないし重鎮になるわけでもない。そういうの要らない。私の方法をみなさんに真似てもらえばいいのだ。真似てもらうためには、私もある程度「人生の成功者」みたくならないと無理。実際にはだいたい今現在もうすでに人生の成功者なんだけど、それにしてはあまりにも金がなさすぎる。名もない。誰も私の人生は真似たくない。わが子供たちもみんな私とは正反対の公務員だ。
でも、歳とって金って要るか? もちろん生活費は要る。世間では終活とか言うけど、死んじゃうんだから、死後のことはどうでもいいだろう? 死後はどうでもいいから困りきった人は自殺するわけだよね。死んだ後は知ったこっちゃない、わけでしょ。これって、死の尊厳を考えていないよね。立派な葬式してもらわないと……。いやいややっぱり葬式はどうでもいい。墓もどこでもいい。骨は海に撒いてもらいたい。散骨? 海じゃなくても山でもいい。野原でもいい。川も悪くない。
だから、そういうエゴな考えだから恥ずかしい営業活動はしたくないわけ。死後はどうでもいいのに、生きている「己」は惨めな思いしたくない。
わかんねぇ〜〜〜。

今日は朝一で50mプールに行った。堅気の方々の渋滞に巻き込まれ、一台分ご迷惑をおかけした。隣の市のプールは遠いなぁ〜〜。午後からマンション勤務があったので運動はパーフェクト。
天気:曇りのち晴れ
作品:F10「ピンクのバラ」
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爺さんも、大志を抱け!

(月曜日)
『百年目』は残り10分。夜11時を回ったので、やめて風呂に入って寝た。
こんなに気楽な暮らしをしていていいのだろうか? いいわけがない!
自分の画集を売り歩く算段をしなくてはならない。恥ずかしいなぁ。そういう根性では営業は出来ない。己を捨ててゼロになって恥も外聞もなく売り歩かなければいけない。
無理だよね。出来ないよ。
落語家も己を捨てて演じ切る。タレントだって小説家だって己を捨てている。
「己」って何だっけ?
ああ、悟りを開いていないことがこういうところでバレテしまう。

昨日録画した『西郷どん』を見ていて思い出した。印刷による純絵画革命をやるんだった。恥ずかしいとか言っている場合ではない。絶滅する日本画壇を全然別の方向から再生させるのだった。世のため人のためなんだ! 目先の金に無が眩むものね。私腹が第一だよ。ダメだぁ〜〜〜。

午前中に『百年目』を全部見た。20分ぐらい残っていた。思ったよりもずっとよかった。あんなにいい落語だったっけ? 若い頃に聴いているので、いろいろなことがわからなかったのだと思う。68歳にもなると涙なくしては見られないね。

泳がないと体重が少しずつ増えて行く。増えても泳ぐとガクンと減る。いい歳して必死こいて泳いでいるもんね。体重も減るよ。
天気:晴れ

金曜日は落語

(日曜日)
金曜日の夜のテレビはNHKの『昭和元禄落語心中』ぐらいしかない。夜10時からなので、それまでの時間はYou Tubeで三遊亭圓生を聴く。一昨日は『淀五郎』を聴いた。40分弱の長い話。そのうえ、古今亭志ん生の『淀五郎』(こっちは30分ほど)も聴いてしまった。比較文学論じゃなくて比較落語論? 10分ちがうだけだけど、志ん生のほうはダイジェスト版みたく感じた。私は圓生派だ。映画を見ているみたいに『淀五郎』ワールドが広がってゆく。演じ分けも見事だし、昔の華やかな歌舞伎界が目の前に広がる。
前々回はテレビを見た後でYou Tubeの落語を聴いた。あれも圓生だった。『小言幸兵衛』だったか。そうすると、ドラマの落語がオモチャのようにチャッチく見えてしまう。本物はあんなに深刻じゃない。なんと言ってもお笑いの演芸だから、気楽に楽しむものだ。『百年目』が聴きたくなってきた。昔の大店の小僧(丁稚)たちの様子がとても面白い。中学生ぐらいで親元を離れて奉公しているわけだけど悲壮感はない。けっこう楽しくやっている。番頭さんもおっかないけど優しい面もいっぱいある。『百年目』はそういう番頭さんの裏の顔。それがご主人にバレテしまう話。華やかで楽しい噺だ。You Tubeで好きなだけ聴けるんだから凄い時代になったものだ。

きょうは夕方から25mプールに行く予定が釣りになってしまった。まったく釣れないから動物愛護の方もご安心ください。浮きがピクリとも動かない。今日の分のプールをどこかで消化しなければならない。明日は25mも50m室内もお休みだ。
天気:晴れ
作品:F6『黄色いバラ』
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ああ、ルーベンス

(土曜日)
このごろの私の希望はルーベンス展にもう一度行くことだ。歩いて3分以内でフェルメール展もやっているけど、フェルメール展は高額、小品、少作品数、客がいっぱいなので行かない。
いや、ほんと、ルーベンス展に入ってすぐの3点には魅了されたね。最初の《自画像》(ルーベンス以降の画家の模写)、次の娘の絵《クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像》、3点目は西洋美術館所蔵の赤ちゃん《眠るふたりの子供》。筆が活きのいい鯛みたいにぴちぴち跳ねている感じ。絵を描く喜びで沸騰している。途轍もなく素晴らしい。
もう最初の入り口のところで足が動かないもの。ずっと見ていたい。通り過ぎてもまた戻ってしまう。
ルーベンスって自惚れていない。自分の力量を知っている。つまりクラシックの凄さを理解しているのだ。憧れている。古代ギリシアの彫刻やルネサンス絵画に心の底から心酔している。自分自身が未熟な探究者だと自覚している、感じがする。
しかし、永久に届かない芸術に向かって突き進む勢いはハンパない。その勢いが嬉しい。その勢いをもう一度見たい。
まったく理想の大先輩だよね。ああいう姿勢で絵を描き続けたい。ルーベンスは名をあげ、弟子をいっぱい持ってからもティツィアーノを正確に大画面で模写している。ティツィアーノは西洋油彩画史上最大の画家だけど、ルーベンスはいつも上を目指して芸術の真実を追い求めた求道者だよね。そのすぐ後にプッサン(1594〜1665)がいて、こっちも素晴らしい。まったく凄い時代だった。さらにその後ろにレンブラント(1606〜1669)が控えているんだからグーの音も出ない。もう一人ベラスケス(1599〜1660)もいたのだぁ〜〜〜。
もうこの四人の油彩画の真筆を見るだけでも、自分が油彩画の徒弟であることに感謝しちゃう。
上野には今ルーベンスがズラズラ並んでいる。奇蹟のような現実だ。
少し前の時代の戦後日本の画家たちが「絵具の付き」とよく言っていた。私の父も言っていた。ルーベンスの子供の肖像の絵具の付きこそ、神技と言いたい。惚れ惚れする。
上野に行けばその実物が見られる。
ああ、もういちど見たいぃ〜〜〜〜〜。

今日は30枚近くの地塗りをした。
天気:曇りのち晴れ。

全部要らねぇ〜

(金曜日)
テレビをつけるとゴーンゴーンと言っている。除夜の鐘にしては1か月以上も早い。あんなに金集めて何するんだろう?
私もいろいろ考えた。どピッロイ画室? 自家用の50m室内プール? 剣道場を造って昔取った杵柄ならぬ竹刀で楽しむか。庭に広大な散歩コース。書庫と書斎?
これって学校だよね。
全部要らない。正直、あたくし、学校あまり好きじゃない。ゴメン。
公共施設で十分。私のアトリエは望月邸か美術館付属だし、ほとんどは外。
実際、書庫も書斎も不要。図書館が散歩コースにあるものね。
散歩コースはこの近辺でもまだ全部征服できていない。鎌倉八幡の裏手のコースが数か所ある。いやいやまだあちこちにいっぱい。しかも季節や時間によって散歩コースは別な場所のように変化する。

中学時代のY先生に本を眠り薬にしてはいけないと言われたことがあった。机の前に腰かけて読むのだそうだ。私はいまだに教えに背き寝転がって読んでいる。最高の眠り薬。先生、ゴメン。ま、読まないよりましだと思う。
ゴーン氏は64歳だっけ? 私のように裸婦は描けないよね。それだけでも私のほうがハッピー。金はないけど絵を描く楽しみを知っている。まったく父親の言うとおりになった。私が絵描きになると言ったとき「年取ってからやることがなくて困らないから、描きたきゃ描け」。

で、今日もキャンバス張りと地塗りの予定が午前中釣り見物になってしまい、キャンバス張りだけ。でももう少し金が欲しい。何百億は要らない。
ところで、今日自分の適正睡眠時間がわかったかも。きっと7時間半。
夜はホームページを更新する予定。『唇寒』のテーマは日本画壇の絶滅とまたフェルメールの話。
天気:晴れ
作品:F20「バラ広場‘18秋」11月10日にホームページにアップした絵。
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古典との会話

(木曜日)
《牛乳を注ぐ女》の顔って、見事な描写だけど、図版やネットで見る限り石像みたいな感じがしなくもない。粘土みたい? な。おでことかとても巧いよね。画家の意識がちゃんと頭蓋骨に行っている。当たり前なんだけど、素晴らしい。こういうのを見ると抽象ってつまんない。おでこの会話がないんだものね。具象絵画はおでこだけで400年の時を越えた会話が出来る。それは水墨画や仏像でも同じ。古今東西の壁を越えて自由会話が可能だ。だから私はクラシック美術展によく行く。昔の偉大な芸術家の教えを受けに行く。または絵画や彫刻を通しての会話をしに行く。楽しいね。
もちろん、こっちは未熟だからいろいろわからないままの点も少なくないのだろう。それは致し方ない。ま、50〜60年前の評論家K氏よりずっと深い会話が出来る自信はある。そんなKなんてものを相手に自信を持っても父親に「お前、素人相手にイキガッテ、バカだねぇ」と笑われるけどね。
まったく美術に国境はないよ。どっかの国でけち臭い鉄条網騒ぎをやっている。子供だけでも助けてやれないものか。ま、海に囲まれた日本人が偉そうに言ってはいけないかも。

今日はマンション勤務の後で25mプールに行った。お客さんが少なくとても泳ぎやすかったが最後の75m、ほんと苦しかった。死にそうだった。でもまだ生きている。運動は完璧。腰は不完全だがほんの少しずつよくなっている、感じ。
天気:曇り
写真:豊橋展24(最終回)
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デッサンの基本≪牛乳を注ぐ女≫

(水曜日)
実は2〜3日前からフェルメール(1632〜1675)の《牛乳を注ぐ女》(1660年頃 油彩 キャンバス 45.5×41.0僉.▲爛好謄襯瀬犢駑美術館)に凝っている。
新聞の額絵広告の小さな図版を見ていて、この絵って石膏デッサンで習ったことがそのまま実践してある、と感じた。まさにデッサンのお手本だ。たとえば、「陰のなかを描け」と言われる。絵のなかの女性の顔左半分こそそういう描写。
また、新聞広告の小さな粗い図版で見直してしまったのは女性のスカート左側とバックの処理だ。ここはクッキリ区別してある。こんな胸のすく色分けも珍しい。この画面左側の輪郭線はとても厳しい線描と言える。画家の意気込みが見える。
女性の右側は窓の光に溶け込み、これこそ片ぼかし。片ぼかしはセザンヌに始まったわけではない。ルーベンス(1577〜1640)もレンブラント(1606〜1669)もやっている。というかレオナルド(1452〜1519)の創始か。さらに古い東洋の水墨画にもいっぱい見られる。
それにしてもフェルメールの片ぼかしは明快。気持ちいい。フェルメールでも《牛乳を注ぐ女》の片ぼかしは特上。画像をアップしようと思ったが、「フェルメール展」とネット検索すれば綺麗な《牛乳を注ぐ女》が見られるので、そっちで見てください。
もう1か所、女性の右上の下の処理。右腕と壺とスカートのブーメランみたいな形の空間。ここって後から塗っているよね。なんか飴が塗ってあるみたい。面白い。後世の修復とも思えない。いやいや、私もしょっちゅうやっている空間埋めだ。遠くから見ると自然なのかなぁ。こういう空間穴埋めを見逃さないのも石膏デッサンの大切な修業だった。実物を見てみたい。ああ、上野の2500円か。高額だよね。ま、あたしゃ40年以上前だけど、アムステルダムで本物をじっくり見ているんだよね。貧乏人なのに高貴? みたいな???
ところで、昨日小林秀雄の『近代絵画』を図書館で借りてきてパラパラ読んだけど、デッサンとか色彩とかいろいろ書いてある。ロクに絵も描かない評論家があんなに自由にデッサンなどという言葉を繰り返し使っていいのか? そりゃ、いいに決まっている。民主主義だものね。禁句はないよ。でも、門外漢にあんな風に馴れた感じで使われるとなぜか腹が立つ。こっちは68歳で昨日も裸婦デッサンにヒーヒー言ったばかり。江戸時代の秘伝が懐かしいよ。

昨日もロクに歩かなかったから今日は歩きたかったが、我慢して古い絵の整備をした。キャンバスの裁断をやったがキャンバス張りまでは出来なかった。
天気:晴れ
写真:豊橋23
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