2006年09月

2006年09月13日

中村司コレクション 5  江戸時代の日本地図、世界地図

中村司コレクション 5
 

          江戸時代の医学書など

中村司の書庫には現代の本だけでなく、室町時代、江戸時代からの印刷物、講義録も収蔵されています。

医学書、仏教書、歴史書、文学などです。

周りから「蔵書の内容を教えてほしい」という声を聞くので、すぐにアップできる分のみ公開することとしました。

今日は、目を楽しませてもらえれば、と思います。




最初にご紹介する2つ、「世界萬国の図」と 森川保之による「日本地図」は幕末の素晴らしい美術品でしょう。特にカリフォルニアが島になっていたりと、現在とは大きく異なるアメリカ大陸の地図にユーモアを感じます。



江戸時代後期の世界地図   「世界萬国の図」

 世界地図

 

 










江戸時代の日本地図
   森川保之

日本地図
森川保之は江戸時代後期、幕末の絵師。

天保六年(1835)、信濃国(しなののくに。現在の長野県)大絵図を描いている森川保之による日本地図。

 
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/h271.html

江戸時代、鎖国下の日本において日本地図を国外に持ち出すことは幕府によって固く禁じられていました。国禁を冒した代表例として「シーボルト事件」があり、連座した当事者は幕府高官であっても極刑に処され、家柄は改易(お取り潰し)になりました。

そのようなこともあってか、江戸時代の日本地図はとても少ないですし、世界地図を庶民が目にすることもほとんどなかったのではないでしょうか。



ちなみに、、幕末を含めた江戸時代の日本地図と世界地図をネット上で見つけたのでご紹介いたします。

一番かわいいメルカトール氏の日本地図(1606年頃)
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/h228.html


1658年頃、作者:レランド、オッテンス
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/h229.html

伊能忠敬の正確な九州南部の地図
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/h278.html

文久元年(1861) 世界地図
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/h213.html

寛政8年(1796) 世界地図
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/h215.html

アジア全図
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/h232.html





 一條家(一条家) 文書  (江戸時代中期)

一條家(一条家)は公家で摂関家(五摂家)の1つ

五摂家は藤原道長の直系として摂政・関白職を独占。


 

「譲り渡し家屋の事」 安永6年 (1777)

一條様 御家領内(岡崎村)における家屋敷譲渡証文


  右から2行目冒頭に「一條様」と見える。


一條家 古文書
 

 
「一條家(摂関家)と岡崎村の建物譲渡証文」
            享和元年(1801) 


京都岡崎村
現在の京都大学あたり。
「一條殿地方役人」、多くの庄屋、年寄、百姓が署名・押印する貴重な資料。 

  

一條家 古文書2



 頼山陽 「日本外史」 (らいさんよう/にほんがいし) 

 大槻磐渓
(おおつきばんけい)による自筆書写
 江戸後期

福澤諭吉の師・緒方洪庵(おがたこうあん)の旧所蔵による落款

       
右上「適々斎」は、「緒方洪庵」の号・所蔵印。

緒方洪庵の開いた「適塾」
(てきじゅく)大阪大学医学部の前身。
弟子である若き福澤諭吉は適塾の塾頭でした。



《源頼朝・佐々木高綱に「宇治川の先陣」を求める部分》

ここにおいて、池月を得て以て先登(せんとう)せんと請ふ。頼朝日く、「乞(こ)ふ者多けれども、吾れ与(あた)へざるなり。顧(おも)ふに範頼ら、戦克(か)つ能(あた)はずんば、吾れ且(まさ)に親(みずか)ら往(ゆ)かんとす。これ吾が乗(じよう)なり」と。乃ち磨墨を賜(たま)ふ。諸将士皆発す。明日、佐佐木高綱(たかつな)、近江より来り謁(えつ)す。頼朝問うて曰く、「聞く、汝は近江に在りと。盍(なん)ぞ直(ただち)に軍に従つて京に入らざるか」と。高綱対へて曰く、「臣(しん)如(も)し軍に従はゞ、敢(あえ)て生(せい)を期(き)せず。一たび君に見(まみ)えて訣別(けつべつ)し、且(か)つ指揮を奉ぜんと欲し、馳(は)すること三日にして乃ち達す。臣、唯々一馬のみ。罷(つか)れて用ふべからず。故(ゆえ)に期(き)に後(おく)れてここに在り」と。頼朝喜び、因つてこれに謂(い)つて日く、「汝能(よ)く我がために宇治に先登(せんとう)するか」と。曰く、「能(よ)くせん。臣は河の上(ほとり)に居り、その浅深(せんしん)を識(し)れるなり」と。ここにおいて、遂に池月を出してこれに賜ふ。高綱感喜(かんき)し、謝して日く、君、高綱未だ戦はず・・・・


現代語訳


そこで、梶原景季(かじわらかげすえ)は遠慮もなく進み出て、池月をいただき、「宇治川の一番乗り(宇治川の先陣)」をしたい旨を請うた。頼朝はいうのに、「池月を欲しがる者はずいぶんあるのだが、これだけは遣らないことにしている。ほかでもない、範頼らがもし戦って勝つことができなかった際には、自分はみずから出陣しようと思っている。この池月はそのときの乗料なのである」と。そこで磨墨の方を与えた。こうして将士たちはみな出発した。その翌日、佐々木高綱が近江からやってきて、頼朝にお目通りした。頼朝が問うていうのに、「その方は近江にいると聞いているが、なぜすぐそこから軍に従って京都へ攻めてゆかないのか」と。高綱はこたえていうのに、「臣は軍に従っていくさをします以上は、けっして生きて帰ろうなどとは思いません。それゆえ、ひと目わが君にお目通りしてお暇乞いをし、そのうえで指図をお願いしようと思ったのです。三日間というもの駆け通しでやっとまいりました。臣はたった一頭の馬だけしか持っておりません。疲れきって役に立たなくなってしまいました。それゆえ出陣の期日にも遅れて、ここにまごまごしている次第です」と。頼朝はこれを聞いて喜び、そこで高綱に向かっていうのに、「その方はわたしのために、宇治川の一番乗りをして見せてくれ」と。高綱はいった、「そうしてご覧に入れます。臣は宇治川のほとりに住まっていますので、どのへんが深いか浅いか、よく知っています」と。そこで頼朝はすぐさま池月を出して、高綱に与えた。高綱は大いに感激して喜び、恩を謝していうには、「高綱が戦わ」・・・≪ずにすんだとお聞きになりました。≫


「神名記 上 」  江戸時代後期

東海道 及び 三重・埼玉・千葉の神社の名前と由来

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