2017年03月05日

深尾和泉守・深尾氏の歴史2 関連の城郭・寺社・資料

【深尾和泉守・深尾氏の歴史2】 
調査した関連の城郭・神社と菩提寺・資料



ご先祖様がお城に住んだお殿様やお姫様だったかも、と考えることには夢があります。

ただ、戦乱の時代は大変な状況で、ものすごいご苦労もあったことでしょう。

そんな時代を生き抜き、多大な苦労の中、子孫を育ててくださった、ご先祖様方に感謝を捧げたいと思います。

(滋賀県安土町の佐々木荘から岐阜に移住していく真野系深尾氏の直接の関与が確実と思われる部分を赤、明白でないものを青としました)



『城郭・場所』−−−−−−−−−−



0.総本家にあたる 沙沙貴神社(滋賀県安土町)

1.苗字発祥の地 深尾谷
  (三重県いなべ市藤原町鼎/かなえの辺り。真野系深尾氏が住居した証拠はないらしい) 

2.浅小井城/無双山湖月城 
  (滋賀県安土町/深尾加賀守は浅小井氏であり、親族)

3.太郎丸城/旭城 (岐阜県岐阜市野田)

4.佐川居館 (高知県佐川町)




『関係神社・お寺・菩提寺』−−−−−−−−−−


1.沙沙貴神社      平安時代ころに関係

  近江源氏/宇多源氏の「佐々木」総本家といえる

  宇多天皇、敦実親王、源雅信を祖とする 源氏→佐々木氏

  →六角、京極、朽木、高島、浅小井、真野などに分家

  後に浅小井、真野、他1家?が深尾谷に因み「深尾」を名乗る(深尾谷の謎※)


【要約】 宇多天皇→敦実親王→源雅信(藤原道長の妻・倫子の父)→佐々木→真野→深尾



深尾谷の謎※=平安末期、佐々木源氏の「浅小井氏」は、平家による源氏追討から逃れるため、三国の国境である山深い深尾谷に一時隠れ住んだという。

ただ、親族である真野氏が深尾谷に隠れたか文献に残っておらず、深尾姓を名乗る必要があったのかが不明で、研究者が頭を悩ますところらしい。

また鎌倉期に、深尾氏は執権北条氏(大佛/おさらぎ家だったか?)と姻戚関係を結んだと記録がある。

(あくまで勝手な推定ですが、深尾姓に勢いがあった時期、権威性をつけるため改姓したのかもしれません。。。)




2.安顕寺(あんけんじ/三重県いなべ市)     鎌倉・室町期ころ関係

  苗字発祥地(深尾谷)に近接。深尾安顕に因む

  住職は先祖の姓に復し、佐々木さん。

  岐阜の深尾さんの改姓の順序は、「佐々木氏→真野氏(沙沙貴神社の神職)→美濃(岐阜)の深尾氏」であると断言してくださった。




3.龍翔寺(りゅうしょう禅寺/岐阜県岐阜市野田)   

戦国時代に関係か。太郎丸城跡に近接、深尾三代の墓に近接



4.般若寺(はんにゃじ/岐阜県山県市大桑/おおが)  江戸時代に大桑の本家と関係



5.青源寺(せいげんじ/高知県佐川町)  
江戸時代・佐川深尾家の菩提寺。墓域の全ては深尾代々のお墓でうめ尽くされる


6.深尾神社(景粛宮/けいしゅくぐう/高知県佐川町) 

江戸時代末期に、深尾和泉守が、佐川深尾家に祟りをもたらしたようで、
神様にする/神上げすることで許してもらおうとしたらしい。

実は、深尾和泉守は一万石を実子に譲れずに憤死したとも言われる。
その恨みを土佐藩主家や山内の血を引く佐川深尾家が恐れたのだろうか。


7.今宮?天満宮(滋賀県安土町)

浅小井城跡のすぐ南にある。大きな天満宮。

推定ではあるが、家紋の「梅鉢紋」はここから採用されたのかもしれない。


※梅鉢紋については、景教やキリスト教との関係も疑われるところ。
実は、近江源氏は「源氏というより古代豪族 秦氏の流れではないか」という指摘があります。

これを最初に指摘したのは、あの司馬遼太郎氏だそうです。  
最初は腰を抜かすほど驚きましたが、今では個人的に納得している部分が多くあります。

このページは個人的な推定を挟まないように書いているので、秦氏の件はいずれ述べる予定です。
(沙沙貴神社の四つ目結び紋を、天界の最高3神のうちエンキ神のシンボルと考える独創的な研究者もいます。私には、四つ目結び紋は、白抜きの十字に見えます)




『原書資料』−−−−−−−−−−−−


(学術的に名称が付けられているものは、できるだけ明記するよう調べ直してみます。しばらく時間かかりますが)



平安・鎌倉時代  

安顕寺(あんけんじ/三重県いなべ市)資料  (佐々木氏・深尾氏)


室町・戦国時代 

深尾三代録(岐阜県)や姻族の山内氏、美濃土岐氏家臣の家系資料など

織田信長公からの書状(岐阜県山県市大桑の本家に保管)

信長公から拝領した刀(一振り/束は白木。一度手に持たせていただいたことあり)
                    (岐阜県山県市大桑の本家に保管)


江戸時代     

土佐藩主とのやり取り資料「(未記入)」
         
           幕府が大名・旗本に対しで先祖調査と報告を指示したため。

土佐藩側(武藤氏?)から贈られた火縄銃/鉄砲一丁(岐阜県山県市大桑の本家に保管)


なぜ土佐藩主、山内の「お殿様」が深尾の調査を岐阜側に依頼し、参勤交代の最中に岐阜で謁見したのかというと、ご先祖の8代藩主・山内豊敷公が佐川領主・深尾家から養子に入ったからです。

江戸初期、岐阜から渡った初代の深尾和泉守/重良しげよし公は、土佐藩/高知藩の家老首座(筆頭家老)として高知県の佐川に一万石を持っていました。
それを継いだ2代目は実子でなく、山内一豊公の弟「(未記入)」の子です。

なので「血の深尾」でなく、「名の深尾」を継いだ子孫が8代藩主となったわけです。
とはいえ、代々深尾を名乗っていた家系として、山内とともに深尾の調査が必要になりました。

 (一豊公の直系/実子は、地震の際にたしか掛川城で亡くなっています。
  また深尾家は江戸末期の土佐藩家老の8家?のうち、半数を占めていました。
  高知市の「ひろめ市場」で知られる家老・深尾弘人?ひろめ公は、岐阜の家系の末裔です。
          たしか家老家の深尾「南家」)
                       


沙沙貴神社にて「佐々木氏族に深尾さんは多い」と聞いています。



ちなみに上記の場所は全て訪れて現地調査しました。






深尾和泉守 重良公・深尾氏の歴史について1 序文

深尾和泉守・深尾氏の歴史3  大筋まとめ

佐々木氏の沙沙貴神社・近江源氏/宇多源氏の謎




toyoigaku at 08:30│Comments(0)clip!

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