中村司コレクション 景粛宮 医学古文書

2007年08月03日

足利尊氏公 古文書


中村司の書庫には、室町時代や江戸時代の医学書や歴史書が数多くあります。

その中に室町幕府を開いた足利尊氏公に関する文献があります。

歴史ある京都・醍醐寺の管理に関わる古文書で、足利尊氏公・自筆のサインが残っています。


数年前、高額な美術品群の処分にはいっていた旧所有者から譲り受ける際、最初に軽自動車が買えるほど高価な希望額が提示された由来があります。

もちろん、あまりに高額では私も払えませんのでお安く譲っていただきました。




足利尊氏公 古文書の公表を控えた理由



有名な人物であるため贋作の疑いが十分ある。


年号が読みにくく、解読できなかった。


そのため背景となる事実関係が解明できないこと。


・・・により公表を控えていました。



それ以来、いくつかの神社・寺院や博物館が所蔵する文献と照合していました。


結果として・・


足利尊氏公のサイン(花押/かおう)に矛盾は見られず

特徴を抑えている。


年号(観応2年/1351年)がようやく特定されたこと。

※ この解読は悩みました。。。


歴史的・時代背景の信頼性が高まったこと。


受け取った人物をほぼ推定できた。



以上により、ネット公開してもよいのではと考えました。



コピー・印刷物であると今までの努力がむだになりますので
一応の確認


相当に古い紙であり、紙の表面が毛羽立っているほど。

墨のはげ具合によってコピーでないことは明白。

という特徴をもっていますので印刷物ではありません。





中村
による解読文です。

難解なくずし文字が多く、なにぶんプロでないので
間違いがあるかと思います。

より正しく、研究者の方のご見解をいただければ
幸いです。


足利尊氏の醍醐寺三宝院宛書状 中村司所蔵







丹波の国 しの村の八幡宮    (たんばの国)

別当職(べっとうしき)の件 (件か事?)

元の如く(もとのことく)

管領(くわんれい)にあるべし
?  (末尾不詳)


○○二  (観応2年/観應 かんのう 1351年と解釈)

十月廿六日 (10月26日)


「尊氏」 足利尊氏花押(サイン)


三宝院僧正 御殿(届?) (醍醐三寶院と解釈)





「尊氏」↓ 花押(サイン)

足利尊氏の書状 花押 中村司所蔵








確実に読み取れる文章


丹波(たんば)の国は現在、主に京都府の一部。

手紙の内容として、場所は「丹波国・しの村」で

「八幡宮」の「別当」に関することが読み取れます。

文末のあて先は「三寶院(三宝院)僧正」ですね。



 ※しの村八幡宮は現在の篠村八幡宮と推定

    三寶院(三宝院)は醍醐寺・三宝院と推定

醍醐寺は豊臣秀吉による醍醐の花見で有名


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おおよその意訳

(醍醐寺)三宝院 代表者様


京都・篠村八幡宮の管理責任の件、

前と
同様、管理お願いいたします。


1351年10月26日

尊氏   (足利尊氏花押)



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京都府・篠八幡宮に残る由来


(篠八幡宮は)「室町時代は将軍足利家の庇護を受け、醍醐三宝院門跡をして当社の別当職を管掌せしめ、多くの社領を寄進されて大いに栄えた。」


↑ 内容は非常に似通っているといえる


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受取人である醍醐寺三宝院 僧正は誰か?


尊氏公の信任篤い醍醐寺65代当主・賢俊(けんしゅん/日野氏)と推定される。(弟子の可能性も)

三宝院賢俊として有名。

僧・賢俊は125代東寺長者を始め、数多く大寺院の管長を兼任した人物。

また足利尊氏の征夷大将軍就任に大きな助力をし、尊氏公の政治ブレーンとして北朝を助けた。

1357年に賢俊が亡くなった時、尊氏が慰霊のために書いた写経が残るが、末尾のサイン「尊氏」および花押が同じ形式である。
(6年の時差はあるが非常に似ているといえる)


翌1358年に尊氏公も亡くなるが「足利将軍の正室は代々、日野家出身者から」という通例があるのは尊氏公と日野賢俊の仲によるものとされる。

将軍以上の権力を持った将軍夫人・日野富子が有名。


※早稲田大学所蔵尊氏公の文献 花押は右と比較。

武田式部大夫への書状の花押はこちら


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尊氏公はなぜ
醍醐寺三宝院宛てに管理を依頼したのか?


鎌倉幕府を倒すために決起した旗揚げの地であったことから足利家は篠村八幡宮を重要視していた。

また八幡宮は源氏の祭神である。

篠村八幡宮での倒幕祈願が叶ったことにより、醍醐寺三寶院の門跡(もんぜき 責任者)に預け、篠村八幡宮を手厚く保護させることとしたというのが今回の文書の内容。


篠村八幡宮での旗揚げについてはこちら


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観応2年/観應2年になぜ再発行されたのか?


「元の如く」が気になるところ。

他の文献では少ない表現かと思う。

「念押し」であることをうかがわせる。



観応2年(1351年)10月に何が起きたのか調べると意外なことが判明した。

尊氏公は将軍になっても南朝や弟・足利直義(ただよし)との戦いに明け暮れており、勝ったり負けたりを繰り返し、何度も京都から逃げ出す事態に追い込まれている。

弟・直義との内部抗争を観応の時期にちなんで「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」という。



この観応2年、1351年に尊氏公は南朝と和睦交渉を進め、降伏している。


尊氏公は弟・南朝との戦いに負け、側近である高師直(こうのもろなお)も2月に暗殺されてしまった。

取り巻く状況が不利になる中で、弟・直義を倒すために南朝との和睦交渉をしていた時期にあたる。


交渉成立が何月か詳しく調べると、なんと10月に南朝に対して降伏していることがわかった。


つまり、この文献は南朝に対して降伏した尊氏公が今後を心配し「状況が変わっても篠村八幡宮の管理は続けてお願いしたい」と10月26日付けで重ねて依頼したと解釈するのが妥当と思われる。


文書の特徴


1.普通の公式文書より漢字が少ないのが特徴かと思うが、大量の手紙発行が必要だったり、祐筆(秘書・代筆者)に時間的余裕がなかったのかもしれない。

逆にいうと公式文書でなかった可能性もある。


2.調べた範囲では花押の上に「尊氏」と書く形式は行政文書には見られなかった。

神社・寺院に対して提出したものの特徴と思われ、神社への奉納文、尊氏が慰霊のために書いた写経の際には「尊氏」および花押という形式をとっているようだ。


3.「件」「事」ともに他の公式文書に出てくる表現でどちらもありえると思われる。

中村
の印象では筆の運びから「件」と読みたい。


4.「観応二」とあり「年」を省略している形式は以下の尊氏公の文書にも見られるので特におかしくはない。

(観応は北朝の元号であり、南朝では正平6年)


加賀国大野庄内藤江・松村両村事、依御辞退被寄進正脈庵造営料所侯、於所残者、一円為当寺領可有御管領候也、恐惶謹言、

建武四

四月廿八日       尊氏御判

(疎石)
臨川寺方丈

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中村司コレクション 7 幕末特集 吉田松陰 新井白石 農業全書 貝原益軒 日本王代一覧

中村司の書庫 景粛宮には現代の本だけでなく、室町時代、江戸時代からの印刷物、講義録も収蔵されています。


医学書、仏教書、歴史書、文学などです。

周りから「蔵書の内容を教えてほしい」という声を聞くので、すぐにアップできる分のみ公開することとしました。

前半部分では吉田松陰 新井白石など歴史上の人物の自筆を多く紹介しました。

今日は、目を楽しませてもらえれば、と思います。


         吉田 松陰


吉田松陰の自筆掛け軸
  

長州藩校・明倫館の兵学教授ののち、松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し明治維新へ導いたとされる吉田松蔭。
伊藤博文、山県有朋、木戸孝允、高杉晋作など明治維新の功労者を輩出。

幼時の苗字は杉。養子となり、吉田矩方(のりかた)。
本姓は藤原。
号は松蔭の他「二十一回猛士」。通称は「寅次郎」


「二十一回」    (二十一回猛士)
 「藤寅」       (本姓の藤原寅次郎)
「吉田矩方」    (落款)

      を記す貴重な書



吉田松陰の書 21回 藤寅 全体 1

 

 

 

 

 

 

 

 

吉田松陰の書 21回 藤寅 下

吉田松陰の書 21回 藤寅 サイン 落款

 

 

 

 

 





吉田松陰の自筆画 (4枚)


 松陰さんは墨画を好んで描いたようです。

吉田松陰の画賛 4枚 軸装 1

吉田松陰の画賛 4枚 軸装 3






 





 





幕末の長州藩士  高杉晋作・筆  号 「東行」

吉田松陰門下の秀才・高杉晋作。 
奇兵隊を指揮し、数に勝る幕府軍を圧倒する。
倒幕の足がかりを作るが肺結核にて27年8ヶ月の命を閉じる。

号「東行」は「西へ行く人を慕いて東行く我心をば神や知るらん」との歌に由来。

高杉晋作   書  肉筆 ★全体高杉晋作   書  肉筆 ★ サイン













第3代 総理大臣 山縣有朋・元帥  

号「含雪(がんせつ)」  長州藩出身 公爵
 
東京・目白にある椿山荘(ちんざんそう)の所有者であった。


山縣有朋 筆 ★ 二行書掛軸 鑑定 極箱 1山縣有朋 筆 ★ 二行書掛軸 サイン・落款・鑑定極箱































幕末の英雄 勝 海舟(かつかいしゅう)
 
一行書(左)  二行書(右)の 2作品

坂本龍馬の師匠でもある勝義邦(かつよしくに)

薩摩藩・西郷隆盛と会談し江戸城を無血開城へ導く

左は「海舟居士」と「勝義邦」の落款  号「海舟」
右は「海舟」と「物部義邦」の落款    号「海舟」



勝海舟 ★一行書 紙本肉筆 箱付 浦寡勝海舟 掛幅 落款 ★二行書 














勝海舟 掛幅 全体 ★二行書 紙本肉筆













 












 西郷 隆盛 (西郷隆永 号・南州) 

 4行書(左)  3行書(右)の 2作品

左・黄色 4行書 (「藤氏隆永」「南州」の落款)
              号・南州 なんしゅう

右・青色 3行書 (「藤氏隆盛」「南州」の落款)


 「総裁局顧問専任」として 実質の第2代宰相。
   (初代は木戸孝允、3代は大久保利通)

幕臣・勝海舟と会談し、江戸城を無血開城に導く。
新政府を主導するも、西南戦争を起こし、自害する。



西郷隆盛の本名は西郷隆永(たかなが)。

「隆盛」という名前はもともと西郷さんの父親の名前。
通称の吉之助(きちのすけ)で呼ばれることが多かったため、友人ですら本名を忘れていた。明治新政府より官位を贈られる際、手違いにより父親の名前「隆盛」とされてしまったことから、以後「隆盛」と名乗るようになった。

おおらかな西郷さんらしいエピソード。


西郷 隆盛 (西郷隆永 号・南州)  4行書西郷 隆盛 (号・南州) 3行書 絹本





 






















 本名「隆永」は珍しいため詳細な写真を追加しました
   ↓クリックすると大きくなります        
              西郷 隆盛 (西郷隆永 号・南州)  四行書 全体     






































            新井 白石


新井白石・自筆

 号 錦屏(きんぺい)山人(さんじん)

新井白石・自筆・五絶詩






新井白石 自筆 全体

 

 

 



新井白石・自筆「折たく柴の記」大槻玄沢旧所蔵

 新井白石「折たく柴の記」 隠岐守 落款入

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 


 

          紫式部日記


「紫式部日記」  
杉田玄白・大槻玄沢 旧所蔵

皇子誕生・母子の平安を勅使を通し天皇へ奏上する藤原道長


伏見宮 貞敦親王(ふしみのみや・さだあつしんのう)自筆

伏見宮家 6代目当主。
中務卿、式部卿。永正元年(1504年)に親王宣下
室町時代・天文12年(1543年)筆

               + + +

伏見宮家(ふしみのみや)は、日本の宮家の一つ。四世襲親王家の一つ。菊の花を裏から見た様子を描いた裏菊を家紋とし、家紋同様、天皇家と表裏一体の存在であった。

北朝第3代 崇光天皇の皇子、栄仁親王(よしひと、なかひと)が始祖。明治維新後に創設された宮家は、ほとんど伏見宮家の系統である。現在の天皇家も伏見宮家の系統であり、伏見宮貞成親王の男系子孫である。

                                                    ウィキペディアより

「紫式部日記」
紫式部が一条天皇の中宮彰子に仕えていた寛弘5年(1008)から書き始め、1年半後の寛弘7年(1010)頃成立。宮廷生活の記録、特に彰子の皇子降誕など、華麗な宮廷行事が描かれている。

               + + +


画像上部に杉田玄白・大槻玄沢の落款(印)

 画像1                画像2
親王筆親王筆 (僧都)























画像1
             

・・・ながらぞ、たひらかにおはします御ありさま(有樣)、そう(奏)せさせ給(たま)ふ。ろく(祿)なども給(たま)ひける、そのこと(事)はみ(見)ず。御ほそ(臍)のお(緒)はとの(殿)の上、御ちつけ(乳附)は橘三位つき子、御めのと、もとよりさぶらひ、むつまじう心よいかたとて、大さゑもん(左衞門)のおもとつか(仕)うまつ・・・・

現代語訳

≪寛弘五年(1008)九月十一日、一条天皇の中宮(彰子)さまが無事、皇子(のち後一条天皇)を出産された。皇子誕生の祝いとして天皇から守り刀の「御剣(みつるぎ)」を賜わる。天皇の勅使に対し、殿(藤原道長)は、立った≫・・・・・まま、母子(彰子と皇子)ともにご平安でいられるご様子を奏上させられる。御楓刀(みはかし)の勅使には禄なども賜わったが、そのことを私(紫式部)は見ていない。若宮(皇子)の御臍(へそ)の緒をお切りする役は殿(藤原道長)の北の方、御乳付(おほんちつけ)の役は橘の三位(橘仲遠の娘・徳子)、御乳母(めのと)は、以前からこのお邸(藤原道長邸)にお仕えしていて、おなじみで気立てがよい人をということで、大左衛門(おおさえもん)のおもと(中宮女房で橘道時の娘)が奉仕・・・・≪する。≫


画像2

・・・そうず(僧都)、ほうむ(法務)そうず(僧都)など、さぶらひて、加持まゐり、院源そうず(僧都)、きのふ(昨日)書かせ給ひし御願書に、いみじき事ども書き加へて、讀みあげ續けたる言の葉のあはれに尊く、頼もしげなる事、限りなきに、殿のうちそへて、佛念じきこえ給ふ程の、頼もしく、さりともとは思ひながら、いみじうかなしきに、人々涙をえ乾しあへず、ゆゝしう、かうなことかたみに云ひながらぞ、えせきあへざりける。人げ多くこみては、いとど、御心地・・・・・
   
現代語訳

《寛弘五年(1008)九月十一の明け方ごろから、一条天皇の中宮(彰子)さまが産気づかれた。定澄》・・・僧都や法務(ほうむ)僧都などがおそばにおつきして、お加持申しあげる。院源(いんげん)僧都が、昨日、殿(藤原道長)がお書きになられたご安産の願文に、さらにたいそうな願いごとどもを書き加えて、朗々と読みあげ続けたその重々しい文言が、身にしみて尊く、また心強く思われることこのうえないのに、さらに殿が声を合わせて仏をお祈り申しあげるときは、頼もしく、いくら何でも、まさかご安産なさらないことはあるまい、とは思うものの、やはりひどく悲しいので、だれもみなあふれ出る涙をおしこめることもできず、「ほんにゆゆしいこと。こんなに泣くなんて」と、お互いにたしなめあいながらも、なお涙をとどめることができないのであった。
こんなに人の気配(けはい)多くたてこんでは、中宮さまのご気分もいっそう・・・《めいるだろうと考えて殿(藤原道長)は、女房たちを東面の間にお出しになられた。》


             天海・大僧正


「法華経」の「薬草喩(やくそうゆ)品(ほん)」 

     天海・大僧正の旧蔵  21枚目の断片


この「法華経」は江戸幕府を開いた徳川家康公のブレーンとして江戸の都市計画に尽力した天海・大僧正の旧蔵。
「法華経」大巻の最終に「天海蔵」の蔵印がある。
(108歳にて没後、朝廷より慈眼大師の称号を贈られる)

度重なる江戸の大火により散逸し、150年を経て蘭学医 杉田玄白・大槻玄沢の手に渡ったもの。

筆者は特定されていないが経蔵でなく、天海・大僧正が個人的に所有していたことから皇室関係者か武家の高位と推定される。

「法華経」の「薬草喩(やくそうゆ)品(ほん)」は、人間を薬草になぞらえており、人間は誰もが心の奥底に仏のいのち(仏性)を持つとの仏教の人間観を「薬草」という名であらわしているという。

天海大僧正 旧蔵の「法華経・薬草喩品」の断片は、21葉に分けられており、手前の20点目は、日本医師会の会長だった故・武見太郎氏(1975年 世界医師会会長。 武見敬三・厚生労働副大臣の父)が所蔵。

シーボルトと大槻玄沢は面識があり、日本医師会がシーボルトに関する記念展示を行った縁で、20点目が当時の日本医師会会長・武見太郎氏の下に寄せられたとされる。

最終21枚目の断片はさらに貴重とされ、裏面に杉田玄白の落款が押されている。

寄贈により、中村司蔵となる。

              +  +  +

続きの「受記品(じゅきほん)」の「受記」とは「仏陀が弟子に与えた預言」であり、「あなたももうすぐ仏になれますよ」という宣言の意味。

シーボルトは著書「江戸参府紀行」で、大槻玄沢(仙台藩医)と桂川甫周(かつらがわほしゅう 将軍家・奥医師)に言及している。

              +  +  +

この「法華経・薬草喩本」はアメリカの南カリフォルニア大学 薬学部などで展示。
裏面に杉田玄白の落款である「玄白」が押捺してあります。
極めて薄く肉眼では見えませんが、米国コロンビア大学において原本裏面の画像感度を上げて処理し、肉眼でも見える画像となりました。


☆「薬草喩本」 21点あるうちの末尾の箇所 1




 

 




 

☆「薬草喩本」 21点あるうちの末尾の箇所 3

 

 

 

 

 

 

 

             頼 山陽

頼山陽(らい さんよう) 墨画・自筆

江戸後期 広島の学者
歴史書「日本外史」や以下に挙げる「日本政記」を著す。
幕末の勤皇志士たちのバイブルとされた。

本名は襄(のぼる)  字は子成  通称 は久太郎

号に 三十六峰外史。 山陽外史

     以下は 「頼 襄」  (らい のぼる)と署名

 頼山陽 江戸後期 山の絵

 

 頼山陽 花押






 

「日本政記」  頼山陽(らい さんよう)著


増補日本政記 頼久太郎著 












  新刊雲上明鑑 下  

   近衛家、九条家など公家の一覧 文政10年 


新刊雲上明鑑 下1冊  江戸期公家武鑑 文政10 1 新刊雲上明鑑 下1冊  江戸期公家武鑑 文政10 2 







  




       江戸時代の地図



   幕末の日本地図と世界地図


日本地図















世界地図















       地理全志 巻一 安政五年


          地球図 と ユーラシア大陸図  


世界地図 安政5年地理全志 巻一 ユーラシア地図 安政五年



 


 



 

野村素軒(のむらそけん)  墨竹画 

 長州藩校・明倫館館長 長州藩士 貴族院議員
         明治の三筆とされる


野村素軒・長州藩士









日本王代一覧

江戸幕府の大老・酒井忠勝が林鵞峰に命じて編纂させた日本の歴史書

           予定

 

 

絵本萬国史略 

世界の地理と歴史 ゾウの絵 明治初期の啓蒙書

萬国史略 一・二 1

 

 

 

 

 

 

 

 

神皇正統記 (南朝 北畠親房) 

神皇正統記 北畠親房 見開き

 

 

 

 


倭史後編 巻一・二 

 栗山潜鋒 儒学者 水戸彰考館総裁


倭史後編 巻一・二 栗山潜鋒 儒学者 水戸彰考館総裁














農業全書十一 附録  天明七年

  養生訓で有名な貝原益軒が著す。 

農業全書十一 附録  貝原益軒  天明七年






 

 

 

遠西医方名物考

遠西医方名物考 蘭学・宇田川榛斎  文政7年(1824)







江戸時代を代表する蘭学者・宇田川榛斎(うだがわしんさい)の名著。文政7年(1824年)
絵入りの蘭学書は珍しい。 「サルビアの図」(右画像)



医方大成論和語 岡本一抱(近松門左衛門の実弟) 

医方大成論和語 巻五・六 岡本一抱 近松門左衛門の実弟 元禄









 



令義解(りょうぎのげ) 
 右大臣・清原夏野が編纂

大宝律令(701年)以来の官位と職制が明らかにされている

鍼博士の記述など「東洋医学の朝廷での位置づけ」

典薬寮に在籍する医師、医博士、針師、針博士、按摩師について記述された貴重な書。
近いうちに解読して発表する予定。

令義解 天皇 文章博士 右大臣清原夏野 鍼師 1

 

 

 



 

針灸書『十四経絡発揮諺解』 巻之三


針灸書『十四経絡発揮諺解』 巻之三   1






 

灸法口訣指南 二

灸法口訣指南 2  東洋医学 表紙

 

灸法口訣指南 2  東洋医学 中身

 

 

 

 






<和蘭 用薬便覧> 医学 薬学資料


<和蘭 用薬便覧>医学書 薬学資料













 

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2006年11月08日

中村司コレクション景粛宮★本館 日本書紀 古今和歌集 杉田玄白 徳川家斉

中村司コレクション 景粛宮

     
室町時代・江戸時代の医学書など


中村司の書庫には現代の本だけでなく、室町時代、江戸時代からの印刷物、講義録も収蔵されています。

皆さんご存知の代表的なものは
 
「日本書紀」「古事記」「万葉集」「古今和歌集」
 
「新古今和歌集」、漢方・鍼灸・蘭学などの医学書

徳川家康公の下で江戸の町を作った天海大僧正蔵「法華経」

歴史上
最も有名な医者・杉田玄白(「宝永3年 外科正宗」)

大槻玄沢、桂川甫周、緒方洪庵の各先生
の蔵書
でしょうか。


その他、自筆としては

幕末の英雄 吉田松陰自筆 勝海舟(かつかいしゅう)自筆

伊藤博文
(初代総理大臣) 山縣有朋(第3代総理)自筆

大塩平八郎(陽明学者)自筆 頼山陽(らいさんよう)画

6代将軍 徳川家宣公の待講 「正徳の治」を主導した

新井白石「折りたく柴の木」本人自筆
(国内に数部現存)

11代将軍 徳川家斉公の長女・淑姫 自筆「古今和歌集」

伏見宮貞敦親王(ふしみのみや・さだあつしんのう)自筆
「紫式部日記(中務卿・式部卿
歴任 室町時代 1543年)
 
一条家(摂関家)関係文書(証文) 

中村天風
哲人の書「道在来」と「ひょうたん図」

「平成」を考案した
安岡正篤 師の書

大槻磐渓自筆「日本外史」(緒方洪庵旧蔵)

華岡青洲「瘍科方筌」多紀安元廣恵済急方」(江戸期写本) 
などがあります。


その一覧を目次としてご紹介いたします。


 哲人・中村天風 書 
 安岡正篤・師の書  
  (歴代首相の指南役 「平成」の考案者)

「真像 太閤記 画譜」
「医学 早合点 巻之下 (安永7年)」
「続・眼科錦のう (天保8年)」
「脾肝薬王圓 (かんひやくおうえん 文久2年)」
「妙法蓮華経 巻 第三 (江戸時代中期)」
「三蔵法師による訳 大乗大集 地蔵十輪経 (延宝九年)」
「頭書 古今和歌集遠鏡 八 本居宣長 著 (天保十四年)」
「宝永3年 外科正宗」
 
「新古今和歌集(1657年)」 二条院讃岐

 
 
古今和歌集の講義録11代将軍 徳川家斉公の長女
淑姫 ひでひめ (尾張藩主・
徳川斉朝公の正室)自筆
将軍家の奥医師(徳川家斉公の侍医) 桂川甫周 旧蔵
 
江戸初期に出版された古今和歌集の序文
  (杉田玄白大槻玄沢の旧蔵印)

医事或問 (下)  吉益東洞 著  東洋医学/漢方

廣恵済急方 抄録  こうけいさい きゅうほう
↑から [原著者] 多紀安元 (徳川幕府・奥御医師 法眼)

寛政元年 医学書『廣恵済急方』上巻
針灸書『十四経絡発揮諺解』巻之三
解説本『仮名讀十四経』巻之中 ■ 東洋医学
江戸期写本 瘍科方筌 華岡青洲
養生弁 後編
新刊 万病回春 巻7  江戸初期
名医方鑑 巻4

訓蒙窮理 くんもうきゅうり 図解 2 福澤諭吉 著
福沢諭吉による「科学のススメ」日本で最初の科学入門書

日本書紀 /にほんしょき 神代巻 1729年 

古今和歌集 全2冊  江戸時代後期

古今和歌集 第20巻  江戸後期

須弥山儀銘並序和解 江戸時代における仏教の世界観

日本紀歌解 (上) (中) (下) 文政2年(1819年)

増補 呪咀調法記大全 安永9年 1780年
江戸時代のまじない、呪詛についての貴重な本

百人一首一夕話
通俗 続三国志
前々太平記
義経記 (三)  江戸時代 / 新板
倭論語 聖徳太子など掲載
草庵和歌集  元禄8年
和歌八代集抄 四冊   江戸中期〜後期  
(古今和歌集   巻四・五・六      一冊 
 後撰和歌集   巻四・五・六・七   一冊 
 後拾遺和歌集  巻十五・十六・十七  一冊 
 千載和歌集   巻一・二・三     一冊)   
和歌八代集 歌集 紀貫之 後白河院 源順 伊勢など
山陽遺稿  頼山陽  幕末 邪馬台国など記述

以下、工事中


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太平記 万治2年 杉田玄白 大槻玄沢 旧蔵



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江戸時代の日本地図、世界地図

江戸時代後期の世界地図 「世界萬国の図」

世界地図















江戸時代の日本地図

日本地図






 






「譲り渡し家屋の事」
 安永6年 (1777)
摂関家一條家領内(岡崎村) 家屋敷譲渡証文

 
「一條家(摂関家)と岡崎村の建物譲渡証文」
享和元年(1801) 


頼山陽「日本外史」(らいさんよう/にほんがいし)

大槻磐渓
(おおつきばんけい)自筆 
江戸後期
福澤諭吉の師・緒方洪庵(おがたこうあん)の旧所蔵による落款

「神名記 上 」  江戸時代後期


 

中村司コレクション景粛宮 6

初代総理大臣 伊藤博文 

大塩平八郎(大塩平八郎の乱) 

中村天風など 自筆


中村司コレクション景粛宮 7

吉田松陰の書・掛け軸  
吉田松陰の自筆画 (4枚)

新井白石・自筆掛け軸 号 錦屏山人
新井白石・自筆「折たく柴の記」

伏見宮 貞敦親王自筆「紫式部日記」  
 室町時代・天文12年(1543年)筆

「法華経 薬草喩(やくそうゆ)品(ほん)」
 天海・大僧正 旧蔵 21枚目の断片

頼山陽(らい さんよう) 墨画・自筆
「日本政記」  頼山陽(らい さんよう)著

新刊雲上明鑑 下   文政10年 

幕末の日本地図と世界地図
地球全図・ユーラシア大陸図  

野村素軒(のむらそけん)  墨竹画 
日本王代一覧
絵本萬国史略 世界の地理と歴史
神皇正統記 (南朝 北畠親房) 
倭史後編 巻一・二  水戸彰考館総裁
農業全書十一附録 天明七年 貝原益軒 

遠西医方名物考 宇田川榛斎の名著。
医方大成論和語 岡本一抱(近松門左衛門の実弟)

令義解(りょうぎのげ) 
鍼博士の記述など「東洋医学の朝廷での位置づけ」

針灸書『十四経絡発揮諺解』 巻之三
灸法口訣指南 二
<和蘭 用薬便覧> 医学 薬学資料
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2006年08月15日

伊藤博文 大塩平八郎 中村天風 自筆

中村司コレクション 景粛宮 6

  
中村司 蔵  室町時代・江戸時代の医学書など

 

伊藤博文 自筆短冊

       

 

   大塩平八郎  (大塩 後素/こうそ)  自筆

江戸後期の儒学者(陽明学者)・大坂町奉行所 与力。

幼名は文之助、名は正高(まさたか)のち後素(こうそ)、字は子起、通称は平八郎は連斎、中軒、中斎(ちゅうさい)。

大坂町奉行所を辞し、陽明学の教授に専念するも1836(天保 7)年、天保の飢饉の際、蔵書5万冊を売り払い、その金を窮民救済に当てる。

困窮に対し、何の救済策も示さない町奉行所に対し、元与力が中心となって反乱を起こしたことにより幕府は大きな衝撃を受けたとされる。
(
大塩平八郎の乱」)

    
  
      

        後素 ↑ (こうそ)の号

 

    中村天風師・自筆画

中村天風先生の瓢箪図

 

中村天風先生の自筆・瓢箪図 2

   ↑ 中村天風師・自筆画の瓢箪(ひょうたん)図。 

                  落款は「天風」 (中村司蔵)



               頼 山陽 自筆   江戸後期





 

  
公爵 正二位 二条 基弘 (にじょうもとひろ)   

  最後の関白・人臣最後の摂政  
     二条斉敬
(にじょうなりゆき)の養嗣子

二条 基弘は、安政6年(1859年)生〜 昭和3年(1928年))没、明治の華族。宮中顧問官、正二位 勲二等 公爵となる。
九条尚忠の8男で、二条斉敬の養子となる。明治23年9月から大正9年1月まで貴族院議員を務める。書を能くした。


二条斉敬について

●摂政、関白。
●左大臣二条斉信の次男。1825(文政7)年に従五位上に叙任。以後、位階累進を重ねるが、1859(安政6)年、折からの安政の大獄により幕府に蟄居を命じられる。しかし程なくして赦免となり、朝政に復帰。専ら公武合体派として朝幕間を奔走した。
●1863(文久3)年8月18日の政変では朝廷より尊攘派公卿を放逐し、同年関白に叙任。引き続き朝幕間の周旋に砕身した。
●1866(慶応2)年12月の孝明崩御に続く、翌年正月の明治天皇即位に当たっては摂政職。しかし、同年12月の王政復古の大号令により摂関職が廃止されたため、摂政を辞任した。
●1878(明治11)年、63歳で没。









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2004年12月02日

3 太平記 万治2年 杉田玄白 大槻玄沢旧蔵

中村司コレクション 3   江戸時代の医学書など  

          中村司コレクション景粛宮 へ

          

太平記  万治2年版  杉田玄白・大槻玄沢 旧蔵

   
  太平記  万治2年  

     杉田玄白  大槻玄沢 旧蔵

室町幕府を開いた足利尊氏公が 正三位 大納言 征夷大将軍に任じられた様子を表す「太平記」の最も重要な一場面。

赤い印鑑は、この太平記が「解体新書」を著した杉田玄白から、弟子の大槻玄沢に譲られたことを証明する「玄白」と「玄沢(玄澤)」の旧蔵印

 

 

         廣恵済急方 抄録  (広恵済急方)

        自筆による写本

徳川将軍家の診療にあたる奥医師 多紀安元は法眼の位置にあり、日本で最初の医学校を設立した。

将軍など高位の人物を鍼灸で治療したことがよくわかる貴重な書物のうち、正確に書き写した写本である。

現代と全く同じ東洋医学のツボの名前と位置を詳しく解説している。

                   江戸後期  肉筆綴じ本


左上に「地倉/ちそう」 右下に「えい風/えいふう」の各ツボの位置を解説

左上に「天枢/てんすう」 右下に「中月完/ちゅうかん」の各ツボを解説

 

 

 淑姫/ひでひめ 自筆   古今和歌集

(十一代将軍 徳川 家斉公 いえなり公 長女 

    尾張藩主 徳川  斉朝公 なりとも公 正室) 



将軍家の侍医 桂川甫周 旧蔵 (かつらがわほしゅう)

 

この古筆は、11代将軍・徳川家斉公の長女である淑姫から将軍家の侍医であった桂川甫周へ譲られ、その証明として「月池」の落款が捺された。

友人である杉田玄白に贈られ、さらに弟子の大槻玄沢に譲られたと推定される淑姫自筆の古今和歌集の講義録。



徳川家斉の姫君の自筆 桂川甫周旧蔵 

左上の「月池」は桂川甫周の所蔵を証明する落款
(らっかん)

 

訓蒙窮理  図解 2  福澤諭吉 著
 
福沢諭吉による「科学のススメ」
  
   日本で最初の科学入門書
 
 
 
 
 
 
画引十体千字文綱目 ■ 寶暦6年 平安書林
 
 京都大学 東京学芸大学 望月文庫のものと同じ
 
 
 
 
 
義経記/ぎけいき  (三)  江戸時代  /  新板

              源 義経の物語
 
 
  

 

 
        本編は こちら
 
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