豊浦彰太郎のMLBブログ ”Baseball Spoken Here”

MLBをフォローして42年目の豊浦彰太郎が、その魅力を判りやすくお伝えいたします。

MLBについて、広く深く書いています。最新情報を詳細に掘り下げるというよりは、ある事実に関する自分なりの考えをお伝えすることに、主眼を置いていきたいと思います。もちろん、愛する日本の野球についても、時おり取り上げます。

沢木耕太郎の講演会に行って来た

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寒さ厳しい週末に、こんなところに行ってきた。
この新聞社のビルに併設されているホールで某旅行会社主催の講演会があったのだ。
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そう、この写真にある通り講師は沢木耕太郎だった。タイトルは「巡礼の旅」だという。

ぼくは若い頃は氏の大ファンだった。もともとボクシングマニアだったので、19歳の時に読んだ、カシアス内藤のカムバックと挫折を描いた「一瞬の夏」には心の底から感動した。そして、「破れざる者たち」「若き実力者たち」「テロルの決算」「人の砂漠」「バーボンストリート」など、彼の著作のほとんどを読み漁った。中でも「一瞬の夏」はぼくにとって座右の書となり、その後も数年に一度は読み返し、毎回魂を揺さぶられた。
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しかし、30代半ばに差し掛かった約20年前あたりから、「一瞬の夏」がひどく胡散臭いものに思え始めてきた。これは、カシアス内藤のカムバックに沢木がマネージャーとして関わった様子を描いたドキュメンタリーだ。書き手がノンフィクションの主人公で、もともとは産経新聞に同時進行ドキュメントとして掲載されたものだ。したがって、内容は迫真そのものなのだが、世の荒波に揉まれた年齢になったぼくは、この企画の成り立ちそのものにインチキ臭さを感じたのだ。書き手が主人公の1人だから、読み物として面白いようにストーリーを変えることが出来るという極めて単純な事実にようやく気付いたのだ。

この物語のテーマは「燃え切れなかった20代への決別」だ。内藤も沢木も30代を目前に控え、内藤のカムバックを舞台として後悔の多かった20代への借りを返すべく奮闘するのだ。その中で、沢木は私利私欲を超越した内藤への関わりを見せる。しかし、それは本のネタだ。沢木はそれを書いて報酬を得るのだ。そう考えると素直に感動できなくなってしまった。

世間一般には「一瞬の夏」を超える沢木の代表作とされる「深夜特急」もそうだ。バックパッカーのバイブルとも評される本書は、沢木がアジアでヨーロッパで見聞きしたものの見聞録ではない。あくまで、彼が主人公のドキュメンタリーなのだ。そうすると、旅先での出来事の展開も結果的にそうなったのではなく、「本にして出版する」前提での彼の意思が作用した結果と考えるべきだろう。

マカオの場末のカジノで長時間の戦いの果てにディーラーの作為行為を見破り、それに対処する場面がある。ここでは何度も繰り返される丁半博打のサイコロの目が詳細に描写されているが、ノートとペンしか取材ツールがない時代に自らがのめりこんだ人勝負事の結果を完璧に記憶できるはずがない。したがって、「深夜特急」は自らを主人公とした旅小説、いわばセミフィクションと解釈すべきだと思っている。

講演会場のホールは300人を越す聴衆で一杯だった。やはり沢木の人気は凄い。ぼくの前に姿を見せた沢木はもう70歳のはずだ。初めて見たその容姿は、数十年前に雑誌や本のカバーの写真で見た若い頃とそう違いはなかった。一般的に加齢を感じさせるものは、体型と頭髪、そして顔のシワだが、最後の1つ以外はイメージの中の沢木そのものだった。しかし、彼が一昔前なら「老人」と呼ばれる年齢に達していることは間違いない。

ぼくの中で沢木はずっと「若者」だった。「一瞬の夏」も「深夜特急」も全て若者なればこその沢木の姿が描かれていたからだ。そんな人物に初めて出会った(聴衆として拝見しただけだが)ら、初老の男だったらというのはちょっとしたショックであり、ぼく自身も歳をとったことを思い知らされた。

はっきり言って、彼の講演自体は大したことはなかった。話の内容は取り止めのないこぼれ話の連続で、旅の奥義を極めた人物ならではのエピソードや哲学的な含蓄はなかった。主催が旅行社ということもあってか、行くあてのない深夜特急的一人旅も添乗員付きツアーも本質的な差はないというような、ちょっぴりがっかりな意見で締めくくられた。また、話し方も意外なほど稚拙だった。文筆家が喋るとなるとそのまま活字にできるくらい整理されているかと思えばさにあらず、まるっきり口語で挿入句が多く、述語を省略することも目立った。論調も聴衆に対しタメ口になったり丁寧語になったりという按配だった。はっきり言って、「沢木耕太郎が1時間しゃべった」ということ以上のものではなかった。書く才能と話すスキルは別物であることを知らされた。

しかし、会場を埋めたのはみんな濃淡の差こそあれ、熱心な沢木ファンだ。ほとんどの人が食い入るように聞き入り、ちょっとしたジョークにも過剰なまでに笑い、中には熱心にメモをとっている人もいた。これは凄いことだと思う。やはり、講演とは話の中身以上に、だれが登壇するかが大事なのだ。世の中がどんどんバーチャル化する中で、音楽をダウンロードして聴くことが一般的になればなるほどライブハウスが盛況になることと同じかもしれない。

帰路、聴衆の多くは満足げだった。ぼくもなんだか自分自身の「一瞬の夏」に区切りをつけることができたような気がした。

プロ野球「申告敬遠」議論の問題点 その2 全体時短戦略見えず唐突感いっぱいの申告敬遠

申告敬遠について、その1ではファンのリアクションについて書いた。今回は時短議論全体について述べたい。今回のNPBによる申告敬遠導入は非常に唐突だ。本来、時短においては、◯年以内に◯分短縮したいという目標があって、それをイニングインターバルや投手交代時間のようなボールデッド状態と、投球間隔などのインプレー中の2つのエリアに分けて 複数の実行案が提案されるべきだ。そして、その複数の案を時短効果とベースボール本来の姿を損なわないことという2つの視点から優先順位を付けて実施していくべきだ。申告敬遠をぼくは必ずしも否定しないが、これはこれで1つの案でしかないはずだ。ところが、これが単独でポーンと出て来ている。この点だけを捉えても、NPBに何ら戦略性がないことが伺える。

そんな視点で評価すれば、申告敬遠はインプレー中の所作に手を付けるという点でもっとも後回しにされるべきことだ。ある意味ではこれは本塁打後のベース一周を割愛することと同レベルだ。その前にイニング間や投手交代時の時間短縮を模索するべきだし、その次は投球間隔だろう。いっそのこと、同一イニング間の投手交代回数を制限しても良いと思う。ここまでは、この競技の本来の姿を変えてしまうものではない。申告敬遠などはその後だ。本末転倒も甚だしい。

また、時短を議論していると「試合自体が白熱していれば時間など長くても問題ない」という意見が必ず出てくる。実際、ぼくが寄稿させていただいている某誌でも1年前にMLBでの申告敬遠導入決定を受けて、各ライターの時短に関する意見を掲載したのだが、その時こともあろうか編集長が「スターが増えゲーム自体がもっと面白くなることが最大の解決策」という主旨のまったく頓珍漢な意見を書いてぼくを大いに狼狽させた。

これはファンサービス策を議論する際に、「勝つことが最大のサービス」と主張するのと同じくらいズレた意見だ。毎日勝てるわけでは無いということが出発点にあり、だから負けた日でもファンにミニマムの満足感を持って球場を後にしてもらうにはどうすれば良いか?ということを考えなばならないのに。

同様なことが時短にも言える。例え4時間掛かっても逆転に次ぐ逆転という展開ならお客は長さを感じないかもしれない。しかし、残念ながら長いシーズンではその何割かは一方的で退屈な展開なのだ。

それと、時短努力にはゴールがないことも認識すべきだ。放っておくと試合時間は現状維持ではなく長くなる。それは年々戦術は進化していくからだ。例を挙げよう。投手交代の頻度は増し、一球ごとにベンチからのサインで野手は守備位置を変える。これらは全て試合時間を長引かせている。場内の演出もそうだ。ぼくは、MLBは本当に時短がやりたいなら、一部の球場では毎試合行われているセブンスイニングストレッチ前の「ゴッド・ブレス・アメリカ」の演奏を止めるべきだと思う。

プロ野球「申告敬遠」議論の問題点 その1 ファン心理「そんなに敬遠暴投が大切か?」

NPBは今季からの申告敬遠の導入を決定した。コリジョンルールや危険スライディング禁止など、NPBはホントにMLB追随が好きだ。真似るべき点はもっと他にあると思うのだが。それはさておき、本制度導入に付いてテーマを分けて所感を述べたいと思う。まずはファンの反応についてだ。

申告敬遠がファンの間で議論される際に必ず言われることがある。「敬遠暴投や敬遠ダマを安打にするなどのドラマがなくなる」。

たまたまここ数年敬遠暴投が続いたが、草野球ならいざ知らず、いやしくもプロの世界でそんなことは本来10年に一度もないことだ。世のプロ野球ファンはそんな場面を求めて敬遠場面を眺めていたのだろうか。

ぼくが申告敬遠導入により「野球がつまらなくなる」と思うのはそんな珍プレーがなくなることではない。大打者ほど、歩かされる場面が絵になると思っている。歩かされても感情を全く出さず淡々と敬遠投球を見送るスラッガー、勝負せよと囃し立てる観客のブーイング、これらは野球観戦のちょっとした醍醐味だし、その打者の風格を印象付けてくれる場面だ。この点では王貞治やバリー・ボンズは本当に絵になった。敬遠四球に対し不満の表情を露わにしたり、反対打席に立ったり、打ちに行こうとする「駆け出し」強打者とは全く違っていた。

また、満塁策を取るための敬遠の場面も好きだ。そこには強打者が相手バッテリーに格の違いをまざまざと見せ付けるドラマはないが、4球ほど投じる時間は満塁策の結果は攻守どちらの勝利となるかに思いを巡らせる心の準備期間として独特も緊張感を提供してくれる。

しかし、そんなシーンが見れなくなることを嘆く声はあまり聞こえてこない。ひたすら語られるのは小林繁のサヨナラ敬遠暴投や新庄剛志の敬遠ダマサヨナラ安打なのだ。近年は球場に集うファンは歌ったり踊ったりすることばかりに熱心なので、行間を読むような観戦をしていないことの表れかなと思ったりする。

したがって、ぼくはここで述べた恍惚的な場面が失われることを嘆いているだけなので、DH制不採用のゲームで次の打順の投手を打ち取ることを目的として8番打者を敬遠する場面には興奮を感じない。速やかに申告制で歩いてもらった方が良いだろう。
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