豊浦彰太郎のMLBブログ ”Baseball Spoken Here”

MLBをフォローして42年目の豊浦彰太郎が、その魅力を判りやすくお伝えいたします。

MLBについて、広く深く書いています。最新情報を詳細に掘り下げるというよりは、ある事実に関する自分なりの考えをお伝えすることに、主眼を置いていきたいと思います。もちろん、愛する日本の野球についても、時おり取り上げます。

アメリカ深南部「ベースボール・バケーション」第4回 シューレス・ジョーはここに眠る

IMG_0159ジョージア州ロイストンで、「球聖」タイ・カッブの薫陶に触れたぼくは、その足で同じ1900~10年代のもう1人の大スター”シューレス”・ジョー・ジャクソンの故郷であるサウス・カロライナ州グリーンビルを訪れることにした。

グリーンビルはロイストンの北東約100キロに位置しており、クルマでものの1時間で到達できるはずだ。ロイストンでの最後の訪問場所であるタイ・カッブの墓がある墓地を見届けたのが午後2時くらいだったので、そこからグリーンビルに移動するのは造作ないことだが、寸前まで悩みに悩んだ。なぜなら、グリーンビルでもっとも訪れたい場所であった「シューレス・ジョー・ミュージアム」と連絡が取れておらず、かつそのミュージアムに隣接するマイナー・リーグ球団グリーンビル・ドライブのゲームはその日は組まれていなかったからだ。「ミュージアムを取材できずゲームもない。それなのに貴重な時間を費やしてまでグリーンビルに行くべきか?」という訳だ。しかし、最終的にはヒュンダイの小型車のノーズを北東に向けた。恐らく今回を逃したら、生涯グリーンビルに足を踏み入れる機会はないと思うし、ミュージアムがNGでもジャクソンの墓を訪れるだけでも価値はあると判断したのだ。それで、ロイストンから再びカントリーロードを走り、この日の朝アトランタから乗った85号線に復帰、グリーンビルを目指した。

ジョー・ジャクソンは、1919年のワールドシリーズでの八百長事件「ブラックソックス・スキャンダル」に連座し、永久追放となった8人の内の1人だ。ギャングからカネを受け取ったことを認めた彼に対し、少年ファンが「ウソだと言ってよ、ジョー!(Say it ain’t so, Joe!)」と叫んだという神話も生まれた(今は、そういう事実はないとする説が一般的)。また、日本のファンには、WP・キンセラの名作「シューレス・ジョー」をもとにした映画「フィールド・オブ・ドリームス」で、ケビン・コスナー演じる主人公が作り上げた「夢の球場」に、野球に未練を残す亡霊として現れた人物としてお馴染みだろう。

彼は紛れもなく、ベーブ・ルース登場によるホームラン時代を迎える前のメジャーリーグを代表する強打者だった。最盛期に永久追放されたこともあり、そのキャリアはフルシーズンで9年と短いが、通算打率.356はカッブ(.367)、ロジャーズ・ホーンスビー(.358)に次ぐ歴代第3位だ(永久追放がなく現役を長く継続すれば、当然もっと低い通算打率となったと思われるが)。また、1911年には打率.408を記録している。

そして、ジャクソンは球史においてももっともミステリアスなスターのうちの1人だ。絶頂期に球界から離れてしまい持てる能力を発揮し尽くしていないこと、本当に八百長行為を行ったのか事実は闇の中であることなどからだ(この事件の解決をミッションとして初代コミッショナーに就任したケネソー・マウンテン・ランディスは、裁判では証拠不十分で無罪となっていたにもかかわらず、ジャクソンを含む8人を永久追放処分とした)。

また、彼がギャングからカネを受け取ったことは事実のようだが、その背景には、生粋のカントリーボーイで文盲であったため(当時のプロ野球選手には珍しくなかった)契約更改時に不利益を被ることが多く、結果的に吝嗇な球団経営者から報酬を低く抑えられていたと言われており、同情の声も少なくない 。

読み書きができないジャクソンは、遠征先の朝食ではメニューを見る「ふり」をして、どこでも必ずある「Ham & eggs」をオーダーし、夕食では周囲の客の注文に耳をそばだて同じものをリクエストしたという。

こんなエピソードもある。

アウエイでのゲームでのことだ。三塁後方の席に陣取った観客が、彼が文盲であることを知った上でひどい野次を浴びせた。「ミニシッピ(Mississippi)のスペルを言ってみろ!」すると、次の打席で三塁打を放ったジャクソンは三塁に滑り込むと、その観客にこう言い返した。「トリプルのスペルを言ってみろ!」。彼は、長ったらしいMississippiとは異なり、トリプルのスペルはtripleと短く簡単であることも知らなかったのだ。

永久追放処分を受けたジャクソンは、南部のセミプロ球団でプレーを続けた。晩年は故郷グリーンビルで酒屋を経営し、糊口を凌いだという。そして、1951年12月5にこの世を去っている。
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グリーンビルに着いた。こじんまりとしているが、マイナーリーグとは言えプロ野球が存在する街だ。その活気はロイストンとは雲泥の差だ。お目当のシューレス・ジョー・ミュージアムは、レッドソックス傘下の1A球団グリーンビル・ドライブの本拠地フルアー・フィールドに隣接している。この博物館はジャクソンの生家を解体&移設したものだ。そのレンガ作りはいかにも19世紀の建築物といった風情で、敷地面積はせいぜい20坪くらいだろうか。平屋のプチハウスなのだ。

残念ながら、このミュージアムは開館日が土曜日の午後だけで、ホームページを見ると「それ以外の曜日での見学希望は事前にご連絡下さい」とある。しかし、渡米前から何度メールしても全く反応がない。「スルーかよ」とその不親切さに落胆していたが、来てみて思った。ぼくが送ったメールも、この小さなミュージアムに職員が出勤しないと確認できない仕組みだったのかもしれない。もし、入館できれば、ジャクソンの幼少期の部屋が再現され、彼のサインボールも展示されていたはずだ。無念だが仕方ない。

お隣のフルアー・フィールドもシューレス・ジョー一色だ。彼の打撃フォームでの銅像が立ち、場内にも大写しの写真が壁にプリントされている。しかし、この球場は美しい。もちろん場内には入れないのだが、「隙間」だらけで美しいコンコースやスタンド、そしてフィールドの芝が外からでもよく見える。それも当然で、2006年オープンのこの球場は、同世代の他のネオクラシックスタイルのボールパーク同様に、大いにチラ見させて興味を引こうという設計なのだ。
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次にそこからクルマで約10分の「シューレス・ジョー・メモリアル・ボールパーク」に移動した。ここはその昔、ジャクソンが13歳でセミプロ球団でのデビューを飾った場所だ。「ボールパーク」と言っても、スタジアムではない。スタンドなどなく、単にフィールドがあるのみだ。当時の名称は「ブランドン・ミル・フィールド」で、要は町工場所有の運動施設だったようだ。また、ここでジャクソンはメジャーリーグのフィラデルフィア・アスレチックスに見出されており、コニー・マック監督との契約に至った記念すべき場所なのだ。現在も手入れはしっかりされている。それもそのはずだ。こことロイストンの「カッブ・フィールド」で、毎年交互にカッブ・ミュージアムとシューレス・ジョー・ミュージアムの両博物館関係者による対抗戦が開催されているのだ。
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また、そのフィールドからほんの数キロの場所にジャクソンが晩年経営していた酒屋の跡地がある。現在は空き家で、周辺はやや荒んだ印象だ。
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ジャクソンゆかりの地、最後は彼の墓地だ。「ウッドローン・メモリアル・パーク」も街の郊外だが遠くはない。メモリアル・ボールパークからは15分のドライブだった。ここは、アメリカ映画などに出てくるような美しい公園墓地で、墓石の代わりに花が添えてある。そして、広い。「東京ドーム(アメリカの片田舎でこの施設を持ち出すのも妙だが)◯個分」という表現を用いるべきと感じるレベルだ。さて、ここでどうやってジャクソンの墓を探そうか?「最後は執念で探し当てた」と言いたいが、そんな非効率なことはしたくなかった。旅先で分からないことは人に聞くに限る。墓地に併設される葬儀場のオフィスを訪ねることにした。そんな厳粛な施設のドアをTシャツ&短パンで叩くことにはもちろん忸怩たる思いがあったが、仕方ない。恐る恐る入って見ると、すぐに受付があった。そこの喪服姿の女性職員はバチ当たりないでたちの東洋人の来場に驚くこともなく、墓地のレイアウト図を持ち出し丁寧に教えてくれた。「このあたりよ、ボールやバットに囲まれているからすぐにわかると思うわ」。Thank you so much.

それで撮れたのがこの写真だ。この下にシューレス・ジョーが眠っているのか。R.I.P.
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アメリカ深南部「ベースボール・バケーション」第3回 球聖タイ・カッブの故郷を訪ねて

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タイ・カッブという人物に対する現代人の評価は以下の2つに大別されるだろう。史上最高の通算打率.367、首位打者12度獲得に象徴される「球聖」の部分、そしてもうひとつは、人種差別主義者だとか性格異常者だとかの「嫌われ者」の部分。

前者は疑いようのない事実で、後者も本当だったのかもしれない。しかし、人間というのは多面性を持つものだ。職場で尊敬されている管理者が、家庭では必ずしも敬愛される存在ではないことはよくあることだ。また、凶悪犯人が残忍性だけではなく、家族を思いやる心も持ち合わせていたとしても少しも不思議ではない。ぼくたちは人のキャラを善悪の両極端に分類しがちだが、実際はそんな単純なものではない。今回のディープサウス野球の旅で訪れた「タイ・カッブ・ミュージアム」はそんなことを再認識させてくれる施設だった。

渡米2日目の8月9日、ぼくは前夜観戦したブレーブスの新本拠地サントラスト・パークから数キロのモーテルの一室で目覚めた。外は雨。それもシトシト降るような情緒あるものではなく、スコールのような豪雨だ。しかも、少々待ったくらいでは小止みになりそうな気配はない。この日の朝は、時差ボケ解消のためジョギングをするつもりだったが、これではとても無理だ。代わりに狭い部屋でのスクワットで活を入れ、予定より早くアトランタを発つことにした。

目的地はアトランタの北西約150キロのジョージア州ロイストンという小さな街だ。そこにある「タイ・カッブ・ミュージアム」を目指すのだ。

この距離ならハイウェイを流れに沿って走っても1時間半くらいだろうと見込んでいたが、郊外に出るまでそれなりに渋滞があり、優秀なスマホのナビアプリの助けを得てもジャンクションで判断を誤り反対方向に進むというお約束のドジもあり、インターステイツ85号線を降りたのは予定から1時間遅れの午前11時だった。

心理的には、ハイウェイから一般道に移れば到着はもうちょいと思いがちだが、実際はそこから目的地まではまだ19マイル(約30キロ)もあることをスマホが教えてくれる。ここからが凄い田舎道だった。両側にまるでスコットランドのような田園風景が延々と続く。放牧されている牛の群れも再三見かけた。民家などほとんど見かけない。当然信号もない。美しいことは間違いないのだが、日が暮れてから走ると不安感に襲われそうだ。

カントリーロードを走りながら頭をよぎったのは、20世紀初頭にどうやってカッブはロイストンの街から物理的に出て行ったのだろうか、ということだ。彼がプロ野球の門を叩いたのは、メジャーデビュー前年の1904年のこと。マイナーリーグ球団のオーガスタと契約したのだ。オーガスタはロイストンの南東約160キロに位置する。当時18歳のカッブ少年は鉄道でオーガスタを目指したのは間違いないだろうが、最寄駅(妙な表現だ)まで、彼はどうやって移動したのだろう。ウィキペディアによると2016年でもロイストンの人口は2500人余りだ。100年以上も前に、そんな小さな街に鉄道駅があったとは思えない。そして、カッブがプロ入りした1904年はT型フォードが生まれる4年前だ。中距離の移動における主要な交通機関は馬車であったことは間違いない。恐らくカッブは徒歩と馬車で駅のある街まで向かい、そこから鉄道を使いオーガスタに到達したのだと思うが、今ならクルマで1時間半の距離のオーガスタが、当時の彼らにとって地の果て(オーバー?)ほどの遠方であったことは想像に難くない。グダグダ述べたが、それほどロイストンが陸の孤島のような片田舎だったということを理解して欲しい。

ようやくカッブ・ミュージアムに着いた。まず、ここで述べておかねばならないのは、ここは彼の栄光に満ちた球歴を讃える野球博物館ではないということだ。決して、クーパースタウン野球殿堂博物館のタイ・カッブ部門ジョージア州出張所ではない。

この博物館は1998年にオープンしたのだが、その建物はもともとは彼が資金を出した病院で、その後総合医療センター(と言っても小さな街なので規模としてはささやかだ)となった施設の一部なのだ。実際、ぼくが訪れた際もミュージアム部分の横から車椅子に乗った地元のお年寄りが出てきた。今なおいわゆるデイケア・センターとして機能しているのだ。その成り立ちを理解すれば、ここの展示物が輝かしい球歴よりも、彼のビジネスマンのとしての側面(コカ・コーラやゼネラルモータースの前身に投資し財を成した)、病院設立や奨学基金の立ち上げなどの社会活動家としての業績、そして人柄(悪人として、という意味ではない)の部分を伝えることを重視していることも自然に理解できる。

彼は嫌われ者だったのかもしれないが、引退後も各種のイベントに引っ張りだこで、その模様を伝える写真も展示されている。それを解説するキャプションを見て「ナルホド」との思いを強くしたのだが、球場でのいでたちも全てスーツ姿で、いわゆるオールドタイマーズ・デイなどでのユニフォーム姿の写真は皆無だ。彼は大変職業意識の高い人物で、引き締まった戦う男の体でない以上、ユニフォーム姿でファンの前に出るべきではないと考えていたという。
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一通り見学した後で、ミュージアムには付き物のスーベニアショップを覗いた。そこで販売されていたのは、ロゴ入りのキャップやTシャツなどが中心で特に目新しいもにはなかったが、店の番をしていたのは80歳前後と思われるエレガントな女性だった。「このミュージアムは撮影自由だし、SNS投稿や記事掲載もご自由に」と言ってくれた。ひょっとして、と思い尋ねてみた。「あなたは、カッブ家の方ですか?」。残念ながらそうではなかったが、「子孫一家とは長~い付き合いよ」とのことだった。また、彼女は「すぐ裏にあるタイ・カッブ・フィールドや、市庁舎前の銅像、お墓なんかもせっかくだから見て行った方が良いわね」と教えてくれた。丁重にお礼を述べ、カッブのボブルヘッド人形(恐らくここでしか買えないものではないだろう、もっとも各個体にシリアルナンバーが付記されていた。手書きだが)を記念に買い、ミュージアムを後にした。

ミュージアム裏には教えてもらった通り、カッブ・フィールドがあった。ここで、シューレス・ジョー・ジャクソン博物館(約100キロ離れた街にある)の関係者との両博物館対抗戦が隔年で開催されるそうだ。
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そこからクルマで2-3分の場所に市庁舎があり、そこには街のヒーローの銅像が設置されている。
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カッブの墓がある墓地もすぐ近くだった。クルマが一般的ではない時代に形成された街であることを実感した。
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アメリカ深南部「ベースボール・バケーション」 アトランタ新球場とターナー・フィールドの今 その2

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ブレーブスは球団発表の公式見解として「駐車場不足」をターナー・フィールドからの転出の理由に挙げていた。確かにこれは事実だろう。そしてこれに拍車を掛けていたのがMARTAと呼ばれる地下鉄の最寄駅から約1マイルも離れていることだ。これでは、せっかくダウンタウンにほど近いエリアに球場がある意義が薄まってしまう。球団はこれを補うために最寄り駅からシャトルバス便を試合の前後に走らせていたが、やはり遠方からのお客にはクルマ利用の際のインフラが必要なのだろう。

しかし、駐車場問題以外にもブレーブスの移転決断を促した要因があった。ターナー・フィールドを保有するアトランタ市は、総額12億ドルと言われるNFLファルコンズの新球場建設に2億ドルを拠出する一方で、ブレーブスから要請されていた同球場の各種リノベーション費用1億5000ドルの提供は断っていたらしい。ターナー・フィールド使用に関するリース契約は16年限りだった。それ以降の延長契約締結に当たって、球場の魅力度アップが期待できそうもない事も引き金になった可能性は否定できないだろう。

これと似たケースが2020年完成と言われているレンジャーズの新球場だ。ここも現在のグローブライフ・パークは1994年オープンと新しい。新球場建設の理由として、レンジャーズは厳しいテキサス夏の暑さを回避するためには開閉式の屋根が必要だということを挙げている。そして、その建設費等の捻出に公費の投入目処がついたのだ。

また、つい先日には、ダイヤモンドバックスとMLBが、フェニックス市対し、1998年オープンのチェイス・フィールドに対しアメニティの充実を中心とする大掛かりなリノベーションを実施しない場合は、他都市に移転すると「脅し」を掛けていることが明らかになった。

ブレーブス、レンジャーズ、ダイヤモンドバックスの球場建設に共通して言えるのは、そのキーポイントはマーケティングだということだ。われわれは、球場の命脈が尽きるのは技術的な耐用年数に達した時と考えがちだが、現実には集客力に限界が見えてきた時なのだ。ボールパークの原点回帰を打ち出し、野球ファンのハートをがっちりつかんだかに見えた新古典主義コンセプトの球場の魅力もせいぜい20年しか持たなかったということだ。

また、ブレーブスの場合はなぜ郊外のカッブ・カウンティに新球場が建設されたのか、ということも押さえておきたい。因みに郡(カウンティ)名は、地元ジョージア州出身の19世紀の上院議員トーマス・ウィリス・カッブに因んだものらしく、残念ながらアトランタと同じジョージア州出身の「野球王」のタイ・カッブではない。そのカッブ・カウンティは、富裕層の多い地域だそうだ。アトランタ市は大都市だがその人口の40%は貧困層と言われ、平均年収は2万3000ドルに過ぎない。一方カッブ・カウンティではそれが8.6%と層6万1000ドルと8.6%という。

また、ブレーブスの調査によると、ターナー・フィールドでも来場者もカッブ・カウンティからが多いと言う。なおかつ、球場の所在地はハイウェイが東西南北に交差する場所で、「カッブ・ギャレリアセンター」という名称の巨大コンベンションセンターが隣接している。また、「バッテリー・アトランタ」というブレーブスとそのビジネスパートナー企業による商業施設もオープンしており、これから整備が進んでいくらしい。

MLBではハイウェイ網の整備を背景に、60年代から球場の郊外移転が本格化した。フットボールと袂を分かった野球場はショッピングモールを併設するようになるのか。無味乾燥なクッキーカッター・スタジアムはボールパークとなったが、その先に待っているのは「モールパーク」化だろうか。

駐車場に着いた。球場の周辺にはそれなりのキャパシティを有する駐車場が数多く存在しているが、その中でもっとも球場に近いと思われるこじんまりとしたそれにヒュンダイを滑り込ませたのだ。球場に近くなればなるほど料金は上がるだろうことは容易に想像できたが、それにしても驚いた。35ドルもする。この日の観戦チケットがかなり良い席で56ドルだったので、割高感は否めない。「お支払いはカードのみね!」と明るく係りのお姉さんに言われ少々狼狽したが、もう引き返せない。この日は25,783人とそれなりの観客が訪れていたが、その割には便利な駐車場が実に容易に確保できたのは、こんな理由があったのだ。

場内に入る。もちろん悪くはない。現代の新球場に求められる要因は、快適性であれエンタテイメントであれ、一通りそろっている。観客の保護用ネットが一三塁側ともベース後方まで回り込んでいるのもご時勢か。しかし特に新しい感動はない。ターナー・フィールドを捨て去ってまでこの球場が必要だったと感じさせるものはなかった。何よりも、博物館がなくなったには残念だ。その分、「モニュメント・ガーデン」という、球団の歴史に関する展示コーナーがあり、それなりに賑わっていたが、展示されているボストン時代からのユニフォームの数々もレプリカだった。マジメなミュージアムではなく、所詮はアトラクションコーナーだと感じた。

翌々日、アトランタを去る前にターナー・フィールドを訪れた。17-18年シーズンからジョージア州立大のフットボール本拠地として生まれ変わるのだは、到着してみると着々とフットボール球場化が進んでいた。ぼくが、FBのプロフィール写真に使っているウォーレン・スパーンの銅像は取り外されていた。ただし、カウンティ・スタジアム跡は残っている。715号落下地点もそのままだったのは救いだ。それを見届けてから次の目的地、アラバマ州のバーミンガムに向かった。

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