こんにちは、trackwordスタッフのギニュー特戦隊です。
いよいよプロ野球のペナントレースも残すところあと1ヶ月ちょっと。プレーオフに進出できるチームはどこか。白熱する試合では、今も昔も、助っ人外国人は、観客の注目の的ですよね。そこで、今回は、伝説と称されるほどの助っ人外国人を調べてみました。
● バース(右投げ左打ちの一塁手、打順は3番)
阪神に1983年入団。1年目から打率.288, 35本塁打、82打点と大暴れ。翌年からの打率は3割を超えさらなる活躍を見せました。
1985年には掛布、岡田と強力クリーンナップを形成。同年4月17日の対巨人戦、若き日の槙原寛己からのバックスクリーン3連発はあまりにも有名です。この年は打率.350, 54本塁打、134打点の成績を残して三冠王に輝き、阪神の21年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献しシーズン・シリーズMVPを受賞しました。また、セントラル・リーグ初の外国人本塁打王となりました。なお、クリーンナップ本塁打数でバース54本、掛布40本、岡田35本で129本塁打という大記録を残しています。
1986年も三冠王に輝き、シーズン長打率.777といった日本記録も樹立。幼少期の怪我により全力疾走ができず、守備に難がありましたが書ききれない程の記録を持つ、最強の助っ人外国人の1人です。
● クロマティ(左投げ左打ちの外野手、主にセンター、打順は3番か4番)
巨人に1984年入団。愛称クロウ。入団1年目からいきなり35本塁打をマーク。1989年には打率3割7分8厘で首位打者(巨人の最高打率)、また4割4分9厘で最高出塁率のタイトルを獲得。20勝を挙げたチームメートの斎藤雅樹を抑えてMVPも受賞しました。
1986年にも3割6分を超える打率をマークするが、同年、バースが打率.389を記録したため、首位打者を獲得できませんでした。3割6分を超えて首位打者になれなかったのは、クロマティだけです。
当時の4番原(現監督)が不調のときは、クロマティが4番を打っていました。メディアに狭い守備範囲と緩慢な返球が問題視されましたが、ファンに愛され、バンザイコールで観客を盛り上げました。「一発か三振か」が多い外国人選手の中で、通算打率.321、シーズン平均本塁打24本、平均打点80と、常に安定した成績を残しました。個人的には、最も記憶に残っている助っ人選手です。
● ブーマー(右投げ右打ちの一塁手、打順は3番か4番)
阪急に1983年入団。本名は、グレゴリー・ドウェイン・ウェルズ。ブームを呼ぶ男の意味を込めて、ブーマで選手登録をしました。2mの巨漢に似合わず器用でゴールデングラブを2回獲得しています。入団1年目から5年連続して3割を記録し、2年目の1984年には打率.355、37本塁打、130打点で来日外国人選手初となる三冠王と、MVPを獲得、リーグ優勝に貢献しました。1987年に再び打点王、1989年には首位打者と打点王の2冠を獲得しています。
また、ブーマーは、ファンを大事にし、サインの求めを決して断らず、サインの下には、カタカナでブーマーと署名していました。意外なことに、お小遣い制で、1日2000円でやりくりしていたようです。
● デストラーデ(右投げ両打ちのDH、打順は5番)
西武に1989年6月入団。愛称はカリブの怪人。シーズン途中のデビュー戦でいきなり本塁打を放つと、左右両打席から32本塁打を量産しました。秋山幸二、清原和博と「AKD砲」を結成し、1991年まで2年連続打点王、1992年まで3年連続本塁打王(42本、39本、41本)と大活躍し、西武の3年連続日本一(1990年~1992年)に大きく貢献しました
また、3年連続の本塁打王は外国人でデストラーデだけで、日本シリーズでの3年連続第1戦の第1打席に本塁打という記録も持っています。そして、以外にも足が速く、二桁盗塁を3シーズン記録しています。
デストラーデは、立ち止まって前に突き出す弓引きガッツポーズを見せた。重要な場面で本塁打を打つと必ず本塁・一塁間でこの弓引きポーズをしてファンを沸かせていました。
● ウインタース(右投げ左打ちのDH、打順は4番)
日本ハムに1990年入団。愛称は、踊るホームラン王。打率は2割7分前後でしたが、入団以来4年連続30本塁打以上という結果を残しました。在籍5年で通算160本塁打を放ちますが、西武にデストラーデ、近鉄にブライアントがいたために本塁打王を一度も獲得できませんでした。しかし、三振を量産するデストラーデ、ブライアントに比べ、ウインタースの三振数は少ないものでした。
愛称に表れているように、野球をエンターテイナーとして捉え、数々のパフォーマンスを披露してくれました。例えば、雨でノーゲームになった時、パントマイムでホームランを放ち、塁を一周し、マットの敷かれた本塁へ水しぶきをあげてヘッドスライディングをするなど常にファンを楽しませようとしてくれました。
このような姿勢が、ファンだけでなく、チームメイト、当時の大沢啓二監督にも気に入られ、不動の4番として起用されました。引退後もファンと一緒に球場で応援しているところが目撃されています。記録には残らない部分で、確実にチームを強くした伝説の助っ人です。
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いよいよプロ野球のペナントレースも残すところあと1ヶ月ちょっと。プレーオフに進出できるチームはどこか。白熱する試合では、今も昔も、助っ人外国人は、観客の注目の的ですよね。そこで、今回は、伝説と称されるほどの助っ人外国人を調べてみました。
● バース(右投げ左打ちの一塁手、打順は3番)
阪神に1983年入団。1年目から打率.288, 35本塁打、82打点と大暴れ。翌年からの打率は3割を超えさらなる活躍を見せました。
1985年には掛布、岡田と強力クリーンナップを形成。同年4月17日の対巨人戦、若き日の槙原寛己からのバックスクリーン3連発はあまりにも有名です。この年は打率.350, 54本塁打、134打点の成績を残して三冠王に輝き、阪神の21年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献しシーズン・シリーズMVPを受賞しました。また、セントラル・リーグ初の外国人本塁打王となりました。なお、クリーンナップ本塁打数でバース54本、掛布40本、岡田35本で129本塁打という大記録を残しています。
1986年も三冠王に輝き、シーズン長打率.777といった日本記録も樹立。幼少期の怪我により全力疾走ができず、守備に難がありましたが書ききれない程の記録を持つ、最強の助っ人外国人の1人です。
● クロマティ(左投げ左打ちの外野手、主にセンター、打順は3番か4番)
巨人に1984年入団。愛称クロウ。入団1年目からいきなり35本塁打をマーク。1989年には打率3割7分8厘で首位打者(巨人の最高打率)、また4割4分9厘で最高出塁率のタイトルを獲得。20勝を挙げたチームメートの斎藤雅樹を抑えてMVPも受賞しました。
1986年にも3割6分を超える打率をマークするが、同年、バースが打率.389を記録したため、首位打者を獲得できませんでした。3割6分を超えて首位打者になれなかったのは、クロマティだけです。
当時の4番原(現監督)が不調のときは、クロマティが4番を打っていました。メディアに狭い守備範囲と緩慢な返球が問題視されましたが、ファンに愛され、バンザイコールで観客を盛り上げました。「一発か三振か」が多い外国人選手の中で、通算打率.321、シーズン平均本塁打24本、平均打点80と、常に安定した成績を残しました。個人的には、最も記憶に残っている助っ人選手です。
● ブーマー(右投げ右打ちの一塁手、打順は3番か4番)
阪急に1983年入団。本名は、グレゴリー・ドウェイン・ウェルズ。ブームを呼ぶ男の意味を込めて、ブーマで選手登録をしました。2mの巨漢に似合わず器用でゴールデングラブを2回獲得しています。入団1年目から5年連続して3割を記録し、2年目の1984年には打率.355、37本塁打、130打点で来日外国人選手初となる三冠王と、MVPを獲得、リーグ優勝に貢献しました。1987年に再び打点王、1989年には首位打者と打点王の2冠を獲得しています。
また、ブーマーは、ファンを大事にし、サインの求めを決して断らず、サインの下には、カタカナでブーマーと署名していました。意外なことに、お小遣い制で、1日2000円でやりくりしていたようです。
● デストラーデ(右投げ両打ちのDH、打順は5番)
西武に1989年6月入団。愛称はカリブの怪人。シーズン途中のデビュー戦でいきなり本塁打を放つと、左右両打席から32本塁打を量産しました。秋山幸二、清原和博と「AKD砲」を結成し、1991年まで2年連続打点王、1992年まで3年連続本塁打王(42本、39本、41本)と大活躍し、西武の3年連続日本一(1990年~1992年)に大きく貢献しました
また、3年連続の本塁打王は外国人でデストラーデだけで、日本シリーズでの3年連続第1戦の第1打席に本塁打という記録も持っています。そして、以外にも足が速く、二桁盗塁を3シーズン記録しています。
デストラーデは、立ち止まって前に突き出す弓引きガッツポーズを見せた。重要な場面で本塁打を打つと必ず本塁・一塁間でこの弓引きポーズをしてファンを沸かせていました。
● ウインタース(右投げ左打ちのDH、打順は4番)
日本ハムに1990年入団。愛称は、踊るホームラン王。打率は2割7分前後でしたが、入団以来4年連続30本塁打以上という結果を残しました。在籍5年で通算160本塁打を放ちますが、西武にデストラーデ、近鉄にブライアントがいたために本塁打王を一度も獲得できませんでした。しかし、三振を量産するデストラーデ、ブライアントに比べ、ウインタースの三振数は少ないものでした。
愛称に表れているように、野球をエンターテイナーとして捉え、数々のパフォーマンスを披露してくれました。例えば、雨でノーゲームになった時、パントマイムでホームランを放ち、塁を一周し、マットの敷かれた本塁へ水しぶきをあげてヘッドスライディングをするなど常にファンを楽しませようとしてくれました。
このような姿勢が、ファンだけでなく、チームメイト、当時の大沢啓二監督にも気に入られ、不動の4番として起用されました。引退後もファンと一緒に球場で応援しているところが目撃されています。記録には残らない部分で、確実にチームを強くした伝説の助っ人です。
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