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趣味というものは、他人に迷惑をかけるのでなければ、何をやってもいいはずです。ただしそれも、度を超してしまうと、やはり後ろめたい気分になるのは避けられません。

たとえばそれが、昔の音楽や映画、小説、あるいはゲームだったらどうでしょうか。それも、自分の成長期と重なる時代のものだったとしたら。

本当に作品そのものが優れていると思うからこそ愛好するのか、それとも若い頃をただ懐かしんでいるだけなのか。

いったい誰がそれを明確に区別できるというのでしょうか。

それでも今はまだ恵まれているのかもしれません。わたしたちは自分の感情を、モノとしてのコレクションに重ね合わせることができます。気持ちを預ける先を、実際に手に取ることができます。ただそれも、これからの時代は、次第に許されなくなるかもしれないのです。

ここでは、そうした問題に関する意見として、あるイギリス人ゲームライターの書いた文章を要約する形でご紹介したいと思います。

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もうずいぶん長いこと、ぼくはある病気にかかっている。そして、そのことを最近になって、ようやく認める気になった。

ぼくは最新のゲームについて書くことを仕事にしている。だが現実のぼくは、きまって昔のゲームに惹かれてしまう。

洗練されたグラフィックやサウンドをもつXBox360向けゲームよりも、古い日本製のメガドライブ用カートリッジを新品同然で確保できたときの方が、ずっと楽しい気持ちになる。

ところが、かつて愛着を持ち、そして失ったゲームを求める気持ちはなぜか、どこまでいっても満たされることがないのだ。どれほどまでにカネをつぎこもうと、古ぼけたカートリッジをいくつ集めようと、けして落ち着くことがない。そして、同じ気持ちを抱いているのは、ぼくひとりでもない。

レトロゲームの売買というビジネスは、いまや巨大な産業であり、しかも成長を続けている。年代物のハードやソフトで動作するものは、ゆっくりとしたペースではあるが、着実に減っている。そして熱心なコレクターは、それぞれ探しているものを厳選して入手する。とりわけ人気のあるアイテムは値を上げており、時代遅れになったはずのゲームに大変な金額が費やされている。

それにしても、レトロゲームに向けられたこの熱気は、いったいどういうことなのだろう。単に昔風のゲームが面白いと思われているのか、それとも何か他に理由があるのだろうか。

ぼくがレトロゲームを集め始めたのは、90年代なかばのことだった。近所の小さなゲーム店で、昔好きだった16ビット時代のゲームが安く売られているのを見つけたのである。店としては、まもなく発売される予定の次世代機のために、棚のスペースを開けておきたいと考え、在庫を一掃しようとしたのだった。

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それからというもの、昔のハードやソフトに収入のいくらかをつぎこむようになり、それはもはや考えたくないほどの金額になっている。過去10年間ほどのメジャーなゲーム機はすべて入手したけれども、年々新たなこだわりの対象が出てきて、収集を続けた。だが、苦労の果てに訪れるものは、いつも同じなのだ。

欲しいアイテムを注文し、楽しみに待つ。ようやく家に届けられると、念願の品を前にしばらくは楽しい気持ちになる。だが数分もすると、避けようのない暗い気持ちに襲われ、その品を棚にしまう。そして、実際にプレイすることはめったにない。

昨年は随分とこのことを考えた。とにかく欲しかっただけで実際には遊ぶわけでもないゲームの数がどんどん増えていったからだ。20年以上前のゲームに、どうしてこんなに夢中になってしまうのか。それでいて、美麗なグラフィックをもち、ネットでさんざん宣伝されている最新作には、さして気持ちが動かないのだ。

別に遊ぶわけでもないと分かっているゲームに、なぜ大金をつぎこんでいるのか。その動機が気になっていた。

答えは簡単だ。それは過去への憧れ、ノスタルジアなのだ。

「ノスタルジアとは、過去を感傷的に想い焦がれることです」

そう教えてくれたのは、ノースダコタ州立大学心理学部のクレイ・ラトリッジ准教授だった。

ラトリッジ准教授は自身も熱心なゲーマーであり、こちらの悩みを解決するにはうってつけの人物だった。ぼくが昔のゲームを自分でも怖いくらいに求めているのは、一種の「安心の毛布」(ライナスの毛布)なのだと説明してくれた。

「ノスタルジックになるというのは、その人自身にとって大切な過去を反芻している状態なんです。そういう思い出というのは、たいてい前向きなものですが、そこには一抹の悲しみのようなものがあったりする。甘美だけれども、すこしばかり苦味がまじっている」

「ノスタルジアは、人間の感情に対してある種の機能を果たしているんです。そうした感情にふけることで、前向きな気分や自己達成感、帰属感、実存意識といったものが高まる。そのことは、研究によって実証されています」

彼はゲームにまつわるノスタルジアに関して、すでにいくつかの研究を実施している。その結果から、古いゲームを集めることの動機は、昔のレコードを買ったり、名作映画をくりかえし観ることと実によく似ているという。

それはつまり、過去と再びつながることで、かつての幸せを思い出したいという欲求なのだ。

「思うに、レトロゲーム趣味というのは、その人が思い入れをもっている特定のゲームソフトだとか、そういうものとはあまり関係がないんです。そうではなく、子供の頃に本当に満たされる気持ちになった、その体験を思い出すためのきっかけとして、昔のゲームに接しているわけです」

「たとえば、わたしにはNESの『ゼルダの伝説』や『スーパーマリオ・ブラザーズ』をとても楽しんでプレイした思い出があります。いずれも名作ですし、ゲームの歴史においても重要な作品です。わたしにとっても、この2作はとても大切に思っているゲームです。ただしその理由は、遊んでみて面白かったから、というだけではありません」

「わたし自身、兄弟や友達といっしょになって、何時間もかけてクリアしたゲームなんです。わたしたちの誰にとっても、それまであんなに夢中になったことはなかったし、あの頃はみんなで一緒になってゲームで遊ぶという自由があった」

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「今では、同じゲームをプレイしたところで、あの頃と同じような体験を得られるわけではありません。それでも、あの気持ちをまた味わいたいと思って、プレイするのです。わたしたちは、レトロゲームをプレイすることで、当時の思い出を追体験するわけですよ」

もちろん、レトロゲームを趣味とする人たちが皆そうだというわけではない。過去の名作ゲームを改めてプレイし直したり、それまで知らなかった昔のゲームを発掘することを純粋に楽しんでいる人もおおぜいいる。

「そのような過去の記憶を思い起こすのは健全なことでしょう。確かに、昔をそっくりそのまま体験しなおすことはできませんが、過去を思い起こすことで満たされた気持ちになりますからね。だからこそわたしたちは、何度もそういうことを繰り返すわけです」

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熱心なコレクターにも、ラトリッジ准教授の意見に賛同する人たちがいる。そのひとりであるジェイク・スミスは、ネット専門の広告制作会社に勤めつつ、レトロゲームを趣味としている人物だ。

「昔のゲームといっても、大したことのないものはたくさんあります。ただ、そういう現実を、ゲームに夢中だった子供の頃の記憶が覆い隠してしまう」

「子供の頃は世の中がずっと単純でしたからね。幼かった時期に結びついている、好ましい記憶がたくさんあるわけです。そういう思い出にふけるのは、そりゃ心地よいですよ」

「むかし夢中になったゲームを探し出して、実際にプレイしてみたらそれほどでもなかった場合は、やっぱり失望しますけどね。ただ率直にいって、ぼくのコレクションの中で、純粋にゲームとして面白いから持ってるってソフトは、全体の15から20パーセントくらいです。大半のゲームは、とにかく手元に置いておきたいから持っているってだけですね」

スミスはすさまじい量のゲームを所有している。それは、昼間の仕事によるストレスを和らげてくれるほか、今のゲームにつきものの、ある種の過剰さから逃れる手段にもなっているのだ。

「今のゲームにも好きなものはたくさんあります。ですけど、とにかく疲れるんですよ」

「グラフィックもサウンドもとにかくすさまじい水準にありますし、そういうものを求める気持ちになることもあります。ただ、8ビットとか16ビットのアクションゲームはずっとシンプルで、だからこそ楽しめる。昼間の仕事では、難しいプログラミングをこなしたり、デザインをいろいろ調整したりして、疲れることが多いですからね。だからこそ、昔のゲームで遊んで、頭の中をほぐしたいんです」

レトロゲーム趣味はまったくの詐欺だというぼくのスタンスに、スミスは全く同意するわけでもないようだった。

「たとえば『ストライダー飛竜』は、確信をもって面白いと言えます。あのゲームがもたらすスリルは、今の水準からしても、やっぱり大したものですよ。だから、ゲームの内容もやっぱり重要ではあるんです。子供の頃にプレイした思い出のあるゲームだけども、今やってみても面白いということは間違いなくあります」

スミスがもうひとつ指摘するのは、ゲームに歴史的な文脈を持ち込もうとする動きのことである。こうした動きこそ、レトロゲーム趣味の人気ぶりを解き明かすものかもしれない。

たとえば、ヒッチコックの全作品を分析したり、思い入れのあるロックバンドの人脈図を作ったりすることに献身的に取り組む人々がいる。それと同じで、一部のゲーマーは、自分たちの趣味により幅広い視点をもたらそうとして、昔のゲームを研究対象にしたのではないか、というわけだ。

「大人になって、ゲームのコレクションを趣味にしたりすると、ゲーム自体のほかに、ゲームにまつわるいろんな事についても面白く思うようになるんじゃないかと思うんですよ」

「たとえば、セガが作ったメガドライブ版の『テトリス』が、店頭に並ぶ前に回収された事情とかね。そういう昔のゲームにまつわるエピソードに、ゲーム自体を探し出すことにも負けないくらい、夢中になってしまうんです。場合によっては、実際のゲームよりも、そういう話の方がよっぽど面白かったりする」

理由は何であれ、コレクターとは常に収集を続けるものだ。ところが、レトロゲーム市場の終わりは、刻一刻と近づいている。ゲーム業界が、従来の物理メディアから、ネット配信へと徐々に軸足を移しているからだ。そしてこの動きは、レトロゲーム収集という、いわばスキマ的なジャンルにとって、決定的な脅威となる。それはまさしく、消滅の危機なのだ。

箱のイラストやパッケージといった要素は、レトロゲーム収集の魅力に大きく貢献している。たとえば、同じソフトでも箱の有無によって価値がまったく違ってしまうことが、それを端的に表している。ところがネット配信では、そういった要素はいっさい無くなってしまう。それはまた、収集にまつわる楽しみの大きな部分も、いっしょに消えてしまうことを意味する。

このことをラトリッジ准教授に聞いてみたところ、こう答えてくれた。

「たとえば、偉大なスポーツ選手のことを忘れないためにも、いろいろな記念品を持っていたりしますよね。あるいは家のあちこちに記念写真を飾っておくのも、そうやって昔の大切な出来事を偲んだりするわけです」

「ゲームについてだと、たとえば昔のゲームをハードディスクとか、それこそクラウドに格納しておくこともできるわけです。ですけど、わたしが思うに、ゲーマーの大半は、手持ちのソフトがぜんぶダウンロード可能になったからといって、昔のカートリッジを捨てたりはしないでしょう」

「これにはいくつか理由がありますが、たとえば過去を懐かしむ気持ちだったり、あるいは自分が好きだったゲームは、モノという形で持っておきたいから、という欲求があると思いますね」

スミスもまた、レトロゲーム趣味という娯楽をデジタルメディアがだいなしにしてしまうのではないか、という不安を抱えているひとりだ。

「16ビット機のソフトを置いているゲーム店に、友達とわざわざ列車で行ったことがあるんです。それこそ両手で抱えるくらいゲームを買いましたね。知りもしないゲームソフトを、友達とそれぞれ交換したりして。それで、帰りの列車では、日本語の説明書とか、箱にある画面写真をじっと眺めては、できるかぎりの情報を得ようとするわけですよ」

「そういう思い出は、今も強く残っているんです。でも、そのような楽しみは、インターネットとネット配信のおかげで、すっかり失われてしまった」

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「ぼくが恐れているのは、モノとしてのゲームというものが、次世代のゲーム機を最後に無くなってしまうんじゃないかってことなんです。もしそうなれば、本当に悲しいことですよ」

ぼくはようやく、自分がレトロゲームにまつわる問題を抱えていることを認める気になった。

だがしかし、自分の子供が、かつてぼくが味わったものと同じ体験を得ることができないかもしれないと考えると、どうしようもない悲しみを確かに感じてしまう。

もっとも、当の子供たちが生きているのは、ゲームというものが使い捨ての気晴らしでしかなく、ちょっとしたお菓子よりも安い値段で、自分の携帯電話にダウンロードして遊ぶものになった時代だったりするのだが。

愛読しているゲーム雑誌の最新号に載った切手大の画面写真を熱心に見つめたり、ソフトを買うためにおこずかいを何週間も取っておいたり、近所の小さなゲーム店の棚をあさっては海外の知られざる傑作を探そうとしたり――そんな思い出は、ゲーマーであるぼくにとって、まさしく宝のようなものだ。

ところが、今のゲーマーにとって、ぼくたちがかつて味わったようなことを体験できる機会は――あるいは、その必要は――乏しくなる一方なのだ。

それでも思うのだ。これまでぼくが、懐かしい記憶を追い求めるために費やした金額を考えると、ぼくの子供たちは、父親と同じ道をたどらないことで、ずっとましな暮らしができるに違いないと。

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これからの時代、ゲームはいよいよ物体としての形を失うかもしれません。

本も音楽も、物理メディアは当分有効でしょう。とりわけ熱心な愛好者に向けたものはそうです。また、音楽には演奏会、作家なら講演や朗読会と、生の形でのイベントもあります。

映画の場合、パッケージ販売はいずれネット配信に取って代わられるでしょう。もともと劇場で観るのが本来の姿とされているだけに、パッケージ販売に対する思い入れは他のジャンルに比べればさほどでもありません。それでも、劇場公開という制度はゆるぎない存在になっています。

ただし、ゲームは事情が違います。ゲーム専用機という存在自体、次の世代が最後になるかもしれません。パッケージ販売もネット配信によって消える可能性は十分にあります。むしろゲームセンターの方が残るかもしれません。

これからの子供たちにとって、ビデオゲームとはスマートフォンで数十円払って入手するアプリか、それとも基本無料を主張するソーシャルゲームだけになる恐れもあります。

そうなれば、ゲーム機やパッケージとしてのゲームソフトは、その役割を終えることになるのでしょう。モノとしてのビデオゲームという、ひとつの世界が、次第に過去に追いやられていくわけです。

デジタル技術はすべての収集趣味を一変させてしまいましたが、ビデオゲームの場合は、とりわけ強い影響を受けることになりそうです。


The Fraud of Retro Gaming by Damien McFerran - Eurogamer.net