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今となっては考えにくいことですが、かつてゲーム開発という仕事は、実に敷居の低いものでした。熱意と能力さえあれば、たとえ未成年の子供であっても職にありつけたのです。もちろんそこには運や状況も関係しているのですが、若くして業界入りした人々は日本にもアメリカにも大勢いました。ここで紹介するレベッカ・ハイネマン氏もそのひとりです。
職業プログラマとして16歳で家を出て自活し、ゲーム会社インタープレイに創業メンバーとして参加。主に名作RPG「バーズ・テイル3」「ドラゴンウォーズ」の作者として知られていますが、その他にも数多くのゲームに関っており、今なお第一線で活躍しています。

ハイネマン氏はハードもソフトもすべて独学、それでいて基幹レベルの開発からこなせる卓越した技術者であり、またプログラマから会社経営まで一通りの立場を経験したというキャリアの持ち主でもあります。一方、私生活でも一時は家庭を持ちながら、名前を変えて女性として生きることを選択するなど、公私共々に波瀾万丈の生涯を送ってきた人物なのです。

現在は自ら設立したゲーム会社「オールド・スクール」(Olde Sküül)でオリジナル作品を手がけつつ、他社作品の開発にも関わっているというハイネマン氏のインタビューを以下にお届けします。元はアメリカのゲームサイト「ゲーマストラ」に2010年に掲載されたものです。

* * *

どのようにしてゲーム業界に入られたのですか。

いつも一緒にゲームで遊んでいた友達がいたんです。わたしはアタリ2600とアップルⅡを持っていましたけど、お金がなかったから、ゲームソフトが買えなかった。その友達はアタリのカートリッジをいっぱい持っていたので、ゲームを借してもらうと、アップルで中身を吸い出してディスクに保存し、遊びたい時には自作のカートリッジに転送していました。一種の開発ツールみたいなものですけど、それを自作していたんです。よくふたりで「スロット・レーサー」や「スペース・インベーダー」をやっていました。

1980年に、アタリが2600版「スペース・インベーダー」の全米大会を開くことになって、それを知った友達の勧めで、出場してみたんです。もうその頃には、嫌になるくらい遊びこんでいたんですけどね。地方予選でのスコアは8万3600点でした。自分でもそれがどの程度のものか分からなかったんですけど、実際には2位に倍以上の差をつけて、勝ち抜いてしまったんです。決勝戦はニューヨークでしたけど、ひとりで行きました(当時ハイネマン氏は14歳)。

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決勝では全国から集まってきたプレイヤーたちと会いました。シカゴから来ていた子は、地元の電気店の後援を受けていて、その店のロゴの入ったTシャツを着ていましたね。

実際の競技では、アタリ2600とテレビが置かれていて、出場者はそれぞれ出身地の名前が入ったTシャツを着せられました。わたしの場合はロサンゼルスでした。みんなが同時にプレイを始めて、一回勝負で競うわけです。自機は3台、難易度は最高に設定してあって、最後まで生き残った者が優勝というルールでした。

開始から1時間45分でシカゴの出場者が脱落したんですけど、その後はしばらく変化がありませんでした。出場者の後ろには取材記者がおおぜい陣取っていましたが、その頃にはみんなイライラしていました。まあ、インベーダーを1時間45分やっているところを見せられても、ただ退屈なだけですからね。

わたしの目当てはアタリ800でした。2位の賞品がそれだったんです。5位が50ドル分の商品券、4位が100ドル分のゲーム関連商品、という感じで。優勝すればインベーダーのアーケード筐体がもらえることになっていました。でもわたしは、筐体なんてどうでもよかった。とにかくアタリ800が欲しかったんです。

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(アタリ800。伝説的な技術者、ジェイ・マイナーが中心になって開発された初期のゲームPCで、「MULE」「アーコン」「スターレイダース」と数多くの傑作を生んだ名機です)

最初に脱落したシカゴは5位で、その次がテキサスでした。それにサンフランシスコが続いて、2位はニューヨークでした。そんなわけで、優勝してしまったんです。でもわたしは、アタリ800が欲しかったので、参ってしまいましたけれども。

ただ、大会で優勝したことでゲーム雑誌の記者と知り合いになれたんです。それがきっかけになって、雑誌にゲーム攻略の記事を書くようになりました。半年経ってから、自分がアタリ2600でプログラミングしていることを伝えたんです。おまえみたいな子供ができるわけないだろ、って感じでしたけどね。でもなにしろ、開発ツールを自作していたくらいでしたから。すると、東海岸でアタリのゲームソフトを作っている会社が人を探しているから、やってみる気はないかって言われたんです。わたしとしては願ってもないことでした。それがアバロンヒルだったんです。

(アバロンヒルはアメリカのボードゲーム会社。ウォーゲームで知られ、ビデオゲームにも早くから進出していた)

それで先方から電話があって、たちまち雇ってもらえることに決まりました。ところできみは18歳だよねと聞かれて、そうですって即答しましたけど、実際は何年かサバを読んでいました。ともかく、そんな感じでゲーム業界に入ったんです。

アバロンヒルではプログラマにアタリ2600のプログラミングを教えました。いくつかのゲームソフトにも関わっています。それからは会社をあちこち渡り歩いて、タイム・ワーナーで働いたりもしました。でも、しばらくするとニューヨークが嫌になって、カリフォルニアに帰りたくなったんです。それで、地元の友達からVIC-20のゲームを作っている会社があって、人を探しているとのことだったので、その話に飛びつきました。その会社で知り合ったのが、ブライアン・ファーゴです。

その会社は結局、事業を畳んでしまったんですが、ブライアンが中心になって、その時の仲間を集めて作ったのがインタープレイでした。たった5人で始めた会社ですけど、自分たちだけでやったほうが、ずっとましなゲームを作れると思っていましたね。結局、インタープレイには11年半いました。


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プログラミングはどのようにして身につけたのですか。


わたしがプログラミングを始めたのは1977年のことで、使ったのはAMES 65という組み立て式のコンピュータでした。通っていた学校にTRS-80があったので、それをいじったりもしていましたね。その後で、アップルⅡを持っている人と知り合ったんです。アップルは当時出たばかりでしたけど、もう夢中になってしまって、その人の家に通いつめました。ほとんど独占しているような状態だったので、行くたびに嫌な顔をされたくらいで。

それで、新聞配達をして作ったお金で中古のアップルを買いました。最初はゲームの入ったカセットテープを集めたりしていたんですけど、やがてミニアセンブラを使うようになりました。その頃、アップルのマニュアル本はプログラマ向けのものしかなかったんですけど、プログラムリストを見て、何だろうって思って、それでプログラミングを勉強するようになったんです。ひたすら、いろんなプログラムを逆アセンブルしていましたよ。

それから電子工作も始めました。ちょっとした手間で、増設メモリカードを作れることに気付いたんです。必要な部品も、ラジオシャックで安く買えるようなものばかりでしたから。

アタリ2600を使うようになった頃、BBSでカートリッジをコピーする方法を見かけたんです。もうメモリカードは作っていましたから、同じ要領でコピー用のカートリッジも作れました。アップルにアタリのカートリッジをつないで、中身を吸い出してディスクに保存するだけです。ゲームで遊びたくなったら、ディスクからコピーカートリッジにデータを転送して、アタリ本体に挿せばいい。

アタリのカートリッジをいじっているうちに、アップルで使い慣れたコマンドが通ることに気付きました。アタリは、アップルⅡと同じ6502のアセンブリ言語を使っていることが分かったんです。それからは、アタリのゲームソフトを逆アセンブルしました。「フリーウェイ」というアクティビジョンのゲームソフトを解析して、バイナリからそれこそ本物と同じくらいのソースリストを作ったんです。すべての行にコメントも付けたくらいで。そうやってアタリのプログラミングを覚えていきました。

アバロンヒルで仕事を始めた頃は、もう本当に夢みたいでしたね。それまで遊びでやっていたことで、お金をもらえるんですから。それからも、ひたすらいろんなことを身につけていって、Power PCやARM、インテル、AMD 64みたいなチップを使いこなせるようになりました。それこそ、大学レベルでいくつも学位が必要になるくらいの知識ですけど、わたしは大学には行ったことがないんです。すべて独学で、資料を調べて、本物に触れることで覚えました。


あなたくらいの技術を身につけるようになるには、どれくらいの時間が必要なんでしょうか。

自分くらい能力のあるプログラマに出会うまでには、ずいぶん長いことかかりました。思い出すのは、ソフトディスクという会社で知り合ったジョン・カーマックですね。いろいろプログラミングの話をしているうちに、手加減なしで話せる相手だなって分かりましたけど、残念なことに、そういう人はほとんどいなかったんです。

今でもそうですけどね。手加減なしでプログラミングの話ができる知り合いは5、6人くらいです。

(ジョン・カーマックは「DOOM」共作者のひとり。ソフトディスクはアメリカのソフト会社で、ゲームソフトやディスクマガジンを主に通販で売っていた)


あなたは「ウィザードリィ」の熱心なファンですよね。ベテランのゲームプログラマにインタビューすると、きまって出てくるのがあの作品なんです。あなたとしては、「ウィザードリィ」の魅力は何だと思いますか。

シンプルなところですね。とにかくそれに徹している。最小限のグラフィクスで物語を表現している。それこそ昔は、テキストアドベンチャーみたいなものしかなかった。そうなると、自分の想像力がすべてなんです。でもテキストアドベンチャーは、どちらかといえば本を読んでいるのに近い。「ウィザードリィ」はもうすこし先を行っていて、ちょっとしたグラフィックスで迷路を描いている。

「ウィザードリィ」にはパーティという概念が取り入れられていました。最初は弱かったキャラクターが、育てるうちに強くなっていく。丹念に鍛えて、レベルを上げていったキャラクターが死んでしまうと、本当に悲しくなってしまう。それが重要なキャラクターで、パーティの誰であっても替えのきかない存在だったりすると、悲しみも相当なものになる。それがまた緊張やストレスを生み出している。

あれだけの緊張感を表現できているゲームなんて、今でもほとんどありません。しかもそれを、本当にささやかなグラフィックスで実現しているのだから、すごいことですよ。


「バーズ・テイル」には、どのようにして関わっておられたのですか。

ブライアン・ファーゴの高校時代の友達にマイケル・クランフォードという人がいて、みんなでしょっちゅう「ウィザードリィ」で遊んでいたんです。クランフォードはテーブルトップRPGの「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(D&D)もやっていて、ゲームマスターを務めていました。

インタープレイでは当初から「打倒ウィザードリイ」という目標がありました。それで、その仕事がクランフォードに与えられたんです。彼は「未知の世界の物語」(Tales of the Unknown)というゲームを作りました。本来はそれがシリーズのタイトルで、Bard's Taleというのはあくまで第1作のサブタイトルだったんです。


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ただクランフォードは、プログラミングはそれなりにこなせたんですが、高度なグラフィックスとなるとお手上げだった。それで、そのあたりはわたしが担当しました。当時のインタープレイでは、わたしはもっぱらゲーム制作のためのツールを作る係だったんです。グラフィックスにサウンド、アニメーションと、いろんなルーチンを作っていました。グラフィックエディタも作りました。「クイックドロー」(Quick Draw)という名前で、後になってアップルが使いましたけど、商標登録しておけば良かったと後悔したものです。

プログラミングの難しいところはわたしがやって、クランフォードはゲームのロジックやテキスト、ディスク回りのルーチンなどをこなしていました。ふたりの使っているアセンブラが違っていたので、それでいろいろあったりもしました。結局はわたしが相手に合わせるかたちになりましたが。

それで、最初の「バーズ・テイル」がいよいよ仕上げの段階に入って、あとはクランフォードがいくつかのバグをつぶすだけという状態になった時、問題が起こりました。マスターディスクはクランフォードが持っていたのですが、その受け渡しを拒否して、ブライアンに契約の見直しを要求してきたんです。応じないとディスクは渡さないということで。会社としてはお金が必要でしたから、ブライアンが折れました。幸いにもゲームはヒットして、インタープレイにもお金が入ってきましたが。

その契約には「バーズ・テイル」の続編はクランフォードの単独作になるという条項も入っていました。ところが、「バーズ・テイル2」の基幹部分は、基本的に前作そのままなんです。クランフォードはシナリオを差し替えただけで、前作のツールやエンジンを使い回している。それはわたしが作ったものなんですけどね。

クランフォードは「D&D」でも、プレイヤーを皆殺しにするようなことをしていました。そうなればダンジョンマスターの勝ちというわけです。でもそれは、D&Dの流儀にまったく反している。そもそもダンジョンマスターはゲーム世界の参加者ではない。あくまでプレイヤーを楽しませ、もてなす役目なんです。「バーズ・テイル2」がひどく難しいゲームになったのも、クランフォードのそういう考えがあったからです。

クランフォードとインタープレイとの契約は、「バーズ・テイル2」で終わりになりました。それでわたしから、「バーズ・テイル3」をやろうと提案しました。シナリオには小説家のマイケル・スタックポールに入ってもらうことにして、コードにしてもクランフォードが作った部分はすべて捨てて、一から自分で作り直したんです。

(この話題についてはいろいろな見方があり、マイケル・クランフォードはインタープレイとの契約についてトラブルがあったことは認めていますが、ディスクの受け渡しを拒否したりはしていないということです。またブライアン・ファーゴは、「バーズ・テイル」でハイネマン氏が大きく関わっているのは他機種への移植版であり、オリジナルのアップルⅡ版ではないとしています)


「ドラゴン・ウォーズ」についてはどうお考えですか。

わたしにとってベストとなる作品だと思います。あれは本当は「バーズ・テイル4」になるはずだったのですが。

「バーズ・テイル」でも2から3にかけて、技術的にかなりの向上がありましたけど、3を作っている段階から、その次のことを考えていたんです。それで3が完成すると、その直後から次の作品に取り掛かりました。

画面のデザイン自体は基本的に前作と同じですが、ポップアップ式のウィンドウを使ったり、時間の経過をグラフィックスで表現したりしています。自動マップ機能では疑似2Dを使っていますが、当初はプリントアウトも出来るようになっていました。なにしろ、当時の主なプリンタにはすべて自分でドライバを書いていましたから、Ctrl-Pで自動的にプリンタの種類を判別して、印刷できるようにしてあったんです。

シナリオ面では、マイケル・スタックポールが自分の小説にかかりきりになっていたので、別のライターを起用しました。ところが、これは「バーズ・テイル3」でもそうだったんですけど、シナリオがまったくの一本道になってしまったんです。わたしとしては、ゲーム世界をまったくのオープンワールドにしたかった。それで、最初の町「パーガトリー」では、町から出る方法を6通りにしたりしました。さらに、そのすべてにまったく違う独自のサブクエストを設定したんです。

「ドラゴン・ウォーズ」での悪の親玉はナムターというんですが、それを倒すには一定の条件を満たせば可能であって、そこに至るまでの過程をなるべく自由なものにしたかった。ただ、これを実現するのは大変でした。上がってきたシナリオに付け足すかたちで、自分でもたくさんテキストを書きました。長編小説1作ぶんくらいはあったと思います。

あの作品には、当時のわたしが考えていた「次世代のゲーム」にあるだろう要素を思いつくかぎり詰め込んであるんです。もしシリーズになって続いていたら、どんどん改良していったと思います。わたしにとって、「ドラゴン・ウォーズ」は本当に会心の一作になりました。


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あなたはそもそも「バーズ・テイル」を続けていきたかったわけですよね。それがどうして「ドラゴン・ウォーズ」になったのでしょうか。


エレクトリック・アーツ(EA)がそれを許さなかったからです。

「バーズ・テイル3」の頃は、インタープレイはゲーム開発の会社で、販売はEAに委託していました。そのため、利益のかなりの部分がEAに回っていたのですが、開発元と発売元の関係とはそういうものなのです。それで、一連の新作を用意していたのですが、これについては流通を別に確保して、販売もインタープレイで行うつもりでした。それでEAとの関係がうまくいかなくなったのです。

インタープレイの新作を扱う権利をめぐって、EAと別の会社とで争奪戦になりました。当時のインタープレイは「ドラゴン・ウォーズ」や「バトルチェス」といった作品を準備していましたが、それについてはEAでない方の会社と組むことにしたのです。EAとしては面白くない結果でしょう。

「バーズ・テイル」の販売契約では、ゲーム自体の権利はインタープレイにありますが、バーズ・テイルという名前はEAが権利を持っていました。つまり、バーズ・テイルという名前のゲームをインタープレイが自社販売するのなら、EAにお金を払って許諾を受けないといけない。ところがEAは許可すら出そうとはしませんでした。その名前を使いたいのなら、ウチから出せというわけです。

それですったもんだのあげく、ブライアンはわたしにこう言ったのです。

「いいか、今からこのゲームはドラゴン・ウォーズだ」

いきなり何を言い出すんだって感じでしたよ。それで言ってやったんです。

「だって、このゲームにはドラゴンなんて出てきゃしないじゃないか」

「いや、とにかくそう決まった」

それで仕方なく、ドラゴンの登場するストーリーを急ごしらえで付け足しました。ただ、エンディングまでは変えられなかった。ドラゴン同士の戦闘を入れようとも思ったのですが、なにせ発売まであと1、2か月しかありませんでしたから。それで発売の前後には社内で「ドラゴンがほとんどでてこないのにドラゴン・ウォーズだなんて」みたいな内輪のジョークが語られたりしたんです。


モンティ・パイソンのコントみたいな話ですね。

まったくです。

「ドラゴン・ウォーズ」は雑誌では高く評価されたのですが、残念ながら知名度がなかった。インタープレイには十分なだけの宣伝をするための資金がなかったんです。利益こそ出ましたが、「バーズ・テイル」のようなヒット作にはなりませんでした。

EAは自分たちで「バーズ・テイル4」を作ろうとしていました。なにせ名前の権利を持っていますからね。でもインタープレイの協力が得られないわけで、それまでの蓄積はまったく使えなかった。結局、4年かけてもものにならず、断念したのです。

実は、わたしも自分で「バーズ・テイル4」の企画を作って、EAに提案してみたことがあるんです。断られましたけど、その理由が、もう古いゲームだからというんですよ。ろくでもない話です。


開発と販売元が別々の会社であることが、ゲーム作りを難しくしているのでしょうか。

そういうところもあるとは言えますね。ただ、わたし自身いくつかの会社で経営者をやりましたけど、やはりビジネスである以上、利益を出さないといけない。

(DOOMを手掛けた)iDソフトウェアみたいに、締め切りを気にせず開発しているところもありますが、たいていの会社にはそんなぜいたくは許されない。特に上場しているような大手だと、株主のことを考える必要がある。四半期ごとに利益を出さないといけないんです。

そうなると、リスクを最小限にして、着実に売れる作品をつくるしかない。例えば、ヒット作の続編とか、世間で人気の作品とのタイアップがそうです。あるいはEAのスポーツゲームみたいに、アメフトとかの運営団体から許諾を受けて作品を作ったりもする。

インタープレイがゲーム業界に与えた功績として、売れるかどうかわからない作品を出し続けたということがあります。われわれは、とにかくリスクを取っていた。他社では考えられないような、変わったゲームを出していましたから。

ただ問題は、そういう作品が多すぎたことでした。結局、インタープレイは資金不足に陥ってしまった。それで潰れてしまったんです。後になって同じ名前の会社が出てきましたけど、あれはもう名前だけで、かつてのインタープレイとはまったくの別物です。

EAみたいな大手だと、売れるかどうか分からないゲームを出すわけにはいかない。よっぽど強力な後ろ盾でもあれば別ですが。売れるかどうか分からないゲームを出して、やっぱり売れなかったら、プロデューサーはクビですよ。だからタイアップとか、既存の人気作の続編に走るわけです。それだったら、たとえ売れなくても、タイアップした作品の人気が落ちていたとか、いろいろ理由をこじつけられますからね。誰だってクビになるのは嫌ですから。

わたしに言わせれば、今ゲームの世界で新しい動きはインディーズで起こっています。そしてそれは無理もないことなんです。なんせインディーズなら、数人で作品がつくれますし、作るうえで他人を説得したり、言い訳をする必要もない。そして新しいことをできる自由がある。むしろ、新しいことをすれば注目を集められるくらいですから。


これまでずいぶんたくさんの機種を使ってこられたと思いますが、8ビットと16ビットで、それぞれお気に入りの機種を教えてもらえますか。

8ビットだとアップルⅡですね。あれほど融通の利くマシンもありませんから。今でもあれを超えるものはない。外部機器をつなぐのも簡単で、わたし自身、2、30くらいの機器を接続して使っていました。その中にはハードディスクのFocusとか、ハンドスキャナーのHarmonyみたいに、製品化されたものもあります。

ゲームの移植作業も、ぜんぶアップルでやっていました。コモドール64にゲームを移植する場合でも、コモドールのディスクドライブをアップルにつないで、コモドールのプログラムをアップルで書いていたんです。

後になってⅡGSにアップグレードしましたけど、それも長いこと使っていましたね。最終的にIBM-PCに乗り換えたのは97年ごろでしたが、とても悲しい気持ちになりました。なにしろ、もうアップルとお別れになってしまうわけですから。

16ビットだとアミーガですね。あれのOSは時代の先を行くものでした。もちろんバグだとか、いろんな問題はありましたけど、それでもよく出来ていたと思います。

今わたしはトロントのUbisoftで、ゲームの基幹エンジンを作る仕事をしています。その前はマイクロソフトでKinectの開発チームにいました。カメラとモーションキャプチャを担当していたんです。


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Kinectについてはどうお考えですか。

あれはすばらしいものですよ。コンセプトデモを見た時から、マイクロソフトはすごいアイデアを持っているんだなと思いました。そういうものに関わることができたのは幸運でした。

わたしが担当したのはカメラ回りで、カメラとモーションコントローラを制御するプログラムを書きました。もう全身全霊をつぎこんて仕事にあたりましたね。あれには100人を超える技術者が関わっていたんです。わたしにとってKinectは、大きな企業がリスクを取るのを実際に目にした数少ない機会になりました。

もうゲーム業界では、わたしはすっかり古株になってしまいました。同じ頃に業界入りした人の大半は隠居するか、別の業界に移ってしまいましたが。

それでもわたしがこの仕事を続けているのは、まだまだ学びたいという意欲があるからなんです。技術者として、人間として、もっと成長したいと思う。それと、次に来るものは何なのか、それを見極めたい。それがわたしの願いです。

* * *

インタビューから5年が経っているわけですが、その間にさまざまな変化がありました。

まずハイネマン氏が始めたゲーム会社Olde Sküülでは、いくつかの企画が進んでいます。そのひとつが、「バーズ・テイル・リマスター」(Bard's Tale Remastered)です。

ブライアン・ファーゴ率いるゲーム会社 InExile Productionsでは、EAの許諾を受けて「バーズ・テイル4」を企画し、すでにキックスターターでの資金公募キャンペーンも成功させ、現在制作が進んでいますが、その出資者向け特典として作られたのがこのリマスター版です。1~3の前作をひとまとめにして、オリジナル版のソースを現在の環境に合わせてビルドしなおしたもので、内容は従来のものと同一とのことです。


(リマスターの映像。完成前のベータ版ですが、オリジナルのアップルⅡGS版、IBM-PC版に続いて、リマスター版が登場します)

そしてもうひとつの企画が、Dragons of the Rip という新作RPGで、これはハイネマン氏によれば「ドラゴン・ウォーズ2」なのだそうです。おそらく権利の関係で名前が使えないのでしょう。

Dragons of the Rip - Facebook

今のところイメージ画が作品のフェイスブックに載っているくらいで、内容については何も明かされていません。また発表時期も未定で、いずれキックスターターで資金公募キャンペーンを実施する予定とのことです。もっともスタッフには「プール・オブ・レイディアンス」などに関わったベテランが加わっているそうで、昔風(オールドスクール)のRPGを愛好する人々にとっては大いに期待できる作品になりそうです。




(SNES版「アウターワールド」。ハイネマン氏が数多く手がけた移植の中でも、とりわけ自信作とのことです。SuperFXなどの特殊チップも、スタティックRAMもない標準の環境でソフトウェアのみによるポリゴン描画を実現しています)


The Burger Speaks: An Interview With An Archmage by Matt Barton - Gamasutra