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日本製ゲームの研究は海外において早くから進んでおり、アーケードや家庭用ゲームにおいては日本のそれを凌駕しているといっていいでしょう。唯一残っていたのが初期のPCゲームだったのですが、それもここ10年ほどでエミュレータとファイル共有によって、成年ゲームも含めて広まっており、最後の未踏地ももはや消滅しようとしています。
ここではその研究成果の一部をお目にかけたいと思います。2017年に海外の大手ゲームサイトが掲載した日本のRPGの歴史についてまとめた記事ですが、海外ならではの独自の視点があり、興味深い内容になっています。

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日本におけるRPGの黄金時代を呼び起こしたのはドラゴンクエストといっていい。だが、そのはるか以前に登場していたのが団地妻の誘惑だった。そこには騎士もドラゴンもいない。避妊具の訪問販売員が、ヤクザや幽霊と戦いつつ、うら寂しい女性の相手を務めるという世界。それがJRPGの原点だった。

あえていうなら、1982年に登場したこの作品こそ、日本における最初期のコンピュータRPGなのだ。

ファイナルファンタジーやクロノトリガー、幻想水滸伝といった作品によって、JRPGには家庭用ゲーム機のイメージが強く結びつけられることになった。

だが実際のところは、そうした作品が世界的な知名度を得る10年も前に、日本のゲーム開発者はPCでRPGを作っていた。そのすべてが団地妻のような成人ゲーム(eroge game)ではないにせよ、これらの作品群はきわめて重要といえる。

16ビット時代の家庭用ゲーム機において全盛となったJRPGは、キャラクターとストーリーに重点を置いたゲームという印象があるが、その基礎を築いたのが、今となっては忘れられてしまった、初期のPCゲームなのだ。


JRPGの原始時代

日本におけるRPGの起源として、たびたび取り上げられるのがウィザードリィである。確かにウィザードリィと、それからウルティマがJRPGに大きな影響を与えたことは事実で、1987年のアメリカのゲーム雑誌も、それぞれの作者であるロバート・ウッドヘッドやリチャード・ギャリオットが日本で有名人になっていると伝えているほどだ。

だが実際のところ、日本においては、この二作が移植される前からRPGらしきゲームが作られていた。

1982年当時、日本のゲーム業界は大変な活況に沸いていた。アーケードではその前年に登場したドンキーコングのような名作によって黄金時代が到来しつつあったが、PCゲームにおいてもNECのPC-8001という機種で、史上初となるJRPGが登場している。

最初のJRPGとは何かということについては、さまざまな見解があるものの、残念ながら、その大半はもはや失われたか、容易にプレイできない状態にある。その一例である、光栄の地底探検やスパイ大作戦はいずれも1982年春に発売された。もっともこの二作、表面上はRPGには見えない。

スパイ大作戦は、RPGにありがちな西洋の中世ファンタジー世界ではなく、現代の諜報活動を題材としている。最初の任務はテープレコーダーによって伝えられ、キャラクターの能力値は乱数で割り当てられ、PCをリセットしない限り変更もできない。団地妻にも精力や知性といった能力値があるが、それが影響する対象は、避妊具の販売や女性を誘惑することだったりする。

これらに比べて、史上初のJRPGと見なすうえでより妥当と思われるのがドラゴン&プリンセスだろう。これも光栄の作品で、1982年12月に発売されている。プレイヤーは5人のキャラクターからなるパーティを率いることができ、王の奪われた財宝を取り戻すという筋書きには、後年のJRPGを思わせるところがある。この作品には2つのモードがあった。テキストベースの移動モードと、見下ろし型の戦闘モードである。戦闘時にはタクティカル画面に切り替わるというのは、RPGにおいてはウルティマ3で一般的になったが、それを先取りしたものといえる。

もっとも、ドラゴン&プリンセスでは、RPGの根本ともいえる要素はすでに備わっていたものの、今となってはプレイする価値はなさそうだ。実際にプレイした人によると、ひどくバランスが悪く、ほとんどゲームになっていないという。

それでも、これらの作品がJRPGの歴史において重要であることには変わりがない。そこでは、粗雑なものではあったとはいえ、後年の作品において描かれる要素がいちはやく形にされていたのだ。


日本におけるRPGの広がり

日本のRPGは出だしこそ順調とは言えなかったが、1983年になると光栄などのソフトハウスはRPGをより明確に理解していたことを示す作品を出すようになった。

たとえば光栄のダンジョンは一人称視点によるダンジョン探検型のRPGだが、ウィザードリィやウルティマといった作品が日本にどれほど大きなインパクトを与えたのかがよくわかる作品になっている。ダンジョンに登場するモンスターは大半がD&Dのルールブックからの明らかな盗用であり、複数キャラクターによるパーティ形式でこそないものの、プレイヤーは戦士や魔術師といった5つの職業から選ぶことが可能で、キャラクターの成長要素も盛り込まれている。その目的は、島に隠された財宝を探すというものである。もっとも、舞台が250x250という巨大なダンジョンであること以外は、これといって目新しい点に欠けた作品だった。

日本初となるRPGのヒット作が登場したのは、1984年1月のことだった。それまでの2年間にも数々のRPGが登場していたものの、日本の熱心なPCゲーマーやプログラマにとっては、RPGはマイナーなものにすぎなかった。皮肉なことに、そんな状況を一変させたのは、日本人ではなかった。

ハワイの大学生だったヘンク・ロジャースが、東京に住む日本人女性を追いかけて、日本に移り住んだのは70年代末のことだった。両親が営む宝石商を手伝うことで生計を立て、日本語もできず収入にも恵まれない日々だったが、意外に思ったのが日本でまったくD&Dが広まっていないことだった。ハワイでの学生時代にはD&Dにあけくれる生活を送っていたロジャースは、1982年になると、何が何でも日本でコンピュータRPGを作ってみたいと考えるようになっていた。

当時すでに光栄がいくつかコンピュータRPGを出していたが、ロジャースには今ひとつ浸透しているようには見えなかった。一方のアメリカでは、RPGはすでに相当の人気を呼んでいたのだ。そしてその点に、ロジャースはチャンスを見い出した。2014年の取材では、こう証言している。

「アメリカにはウルティマやウィザードリィがあった。でも日本にはそういう作品は見当たらない。だったら自分で作ればいいと思ったんだ」

苦心して資金を工面し、NECのPC-8801を手に入れると、ロジャースはさっそく作品づくりに取りかかった。それはまさしく、日本のゲーム文化にRPGを根付かせる試みだった。

ブラック・オニキスは一人称視点のダンジョン徘徊型ゲームであり、その点ではウィザードリィに似ているものの、いくつかの新しい要素もあった。キャラクターの外見を設定できたり、健康状態を色違いの棒グラフで表現したり、NPCを自分のパーティに引き入れたりできるといったことである。

だが出だしは惨敗だった。その理由としてロジャースは、宣伝面においてあまりにもアメリカ的だったので、日本のゲーマーにアピールできなかったためと説明している。発売から2か月で、売れたのはわずか5部だったという。

やむなくロジャースはテコ入れを図った。翻訳者を雇って宣伝をやり直す一方、主なPC雑誌の編集部を訪問し、自らゲームをデモしてみせた。

「編集者のとなりに坐って、あなたの名前は何ですかって聞くわけ。それをゲームに入力して、キャラクターの顔を選んでもらった。それから、そのキャラクターを成長させるってことを説明したんだ。もっとも、教えたのはそこまでで、そこから先はどうそご自分で遊んでみてくださいって言ったけどね」

自分のキャラクターを作って育てるというアイデアに驚いた編集者たちは、さっそくブラック・オニキスを誌面で扱うようになった。それからの2か月で売れ行きは1万部に達し、1年後には15万部となった。

こうしてようやく、日本にもRPGのヒット作が登場し、それによってRPGというものが定着したのである。

一方で日本のゲーム会社も、独特の作風をもつRPGを作っていた。1984年、ナムコはアーケードゲームとしてドルアーガの塔を発表した。これ自体はまったくのRPGではないものの、アクションRPGという新たなジャンルを日本に根付かせるきっかけとなった。

ドラゴンスレイヤーは見下ろし視点のダンジョン徘徊型RPGだが、能力値のあるキャラクターがリアルタイムでモンスターと戦うというものだった。多くの点で、ドラゴンスレイヤーはゼルダやYsにつながる下地を作ったものといえる。

ハイドライドもドラゴンスレイヤーと同じアクションRPGだが、マナという要素(これは後のYsにも受け継がれた)など、数々の新機軸を打ち出した作品として高く評価された。

ブラック・オニキスとはまた別に、ドラゴンスレイヤーとハイドライドはそれぞれ大変な人気作となり、数多くの続編や関連作が登場している。またこの二作の作者は好敵手にもなり、いくつかユーモラスな趣向が凝らされたりもした。たとえばドラゴンスレイヤーの続編ザナドゥでは、キャラクターの名前をハイドライドに設定すると、能力値が最低にされてしまうのだ。

だがこの頃はまだ、日本の主なRPGは、それが意図的であったのかどうかはともかく、なにかしらアメリカの影響を感じさせるところがあった。それがやがて、アニメの要素を取り入れたドラゴンクエストの登場によって、独自の作風を打ち出していくことになるのだが、その背景を説明する前に、ドラゴンクエストの発売元であるエニックスの成り立ちについて触れておきたい。


ゲームプログラムコンテスト

当時の日本のソフトハウスの大半がそうであるように、エニックスもまた別業種からの参入組であり、元々は不動産関係の業界紙を出していた会社だった。社名のエニックスとは、世界初のデジタル式電子計算機といわれるENIACと、不死鳥を表すフェニックスをかけたものという。

エニックスの創業者は、海外を見て回ったことでゲーム開発に将来を見出し、参入したいと思っていたが、困ったことにプログラマのあてがなかった。そこで思いついたのがコンテストだった。

ヒントとなったのはマンガ業界だった。出版社はコンテストなどを通じて、常に原稿募集の窓口を設け、新人マンガ家を集めていた。ドラゴンボールの作者、鳥山明もそうしたルートでデビューしたひとりである。

マンガ業界を参考にして、エニックスもゲームプログラムのコンテストを実施した。1982年のことで、一等の賞金は100万円であり、さらにゲームソフトの売れ行きに応じて印税が支払われることになっていた。

エニックスは、このコンテストの宣伝をPC雑誌のほかマンガ雑誌でも展開した。このような動きもあり、しだいにマンガの世界とゲームが結びつくようになったのである。

コンテストには300点の応募があり、入賞作3点が選出された。その中には当時フリーライターで少年ジャンプにも執筆していた堀井雄二もいた。

その翌年、堀井はポートピア連続殺人事件をヒットさせる。これはPC-6001で動作するアドベンチャーゲームで、後に他の機種やファミコンにも移植された。

ポートピアは、日本のアドベンチャーゲームの歴史において重要な作品である。NPCと会話できるオープンワールド形式であり、複線的なストーリー進行まで実現させていた。そして、RPGですらないこの作品がJRPGの歴史において重要なのは、堀井の次作、ドラゴンクエストにつながるものであるためだ。そのドラゴンクエストこそ、JRPGというジャンルを形作るものになったのである。


JRPGの確立

西洋の伝統にもとづくRPGと、堀井が手掛けたアドベンチャーゲームが一体となった作品が生まれたのは1985年のことだった。

1983年、コンテスト入賞の特典として、堀井はサンフランシスコで開催されるアップルフェスト(アップルⅡ関連の商品見本市)に参加した。同じく入賞者である中村光一も同行していたが、そこでふたりが見たのが、アップルⅡで動いているウィザードリィだった。

衝撃を受けたふたりは、帰国後ひたすらRPGに熱中するようになる。

ふたりには好みの違いがあった。堀井はしだいに世界探検を重視するウルティマに惹かれるようになったが、一方の中村はメニュー形式の戦闘を中心とするウィザードリィにこだわった。

堀井は新しい形のRPGを作ろうと中村を熱心にさそったが、そこでふたりが考えたのが、ウルティマとウィザードリィのそれぞれ良いところを採り入れつつ、ポートピアにあるストーリー要素を重視したものにしようということだった。

こうしてようやく、アメリカのRPGに匹敵する出来のJRPG、ドラゴンクエストが完成したのである。またキャラクターデザインをマンガ家の鳥山明が手がけたことで、JRPGという独特のスタイルも確立されたのだった。

ただし、ドラゴンクエストの対応機種はPCではなくファミコンだった。当時は日本でもアメリカでも、家庭用ゲーム機の人気は高まるばかりだった。そして日本では、PCゲームの退潮が始まっていたのである。

ドラゴンクエストという人気作に続き、ファイナルファンタジーが登場したことで、JRPGの黄金時代が到来し、一方でコンピュータRPGは隅に追いやられた形になった。

それでもなお、初期のコンピュータRPGが、JRPG黄金時代の形成において大きな役割を果たしたことに変わりはない。

高解像のグラフィック機能を持っていたPC-8801などの機種が使えたことで、日本のプログラマは、よりビジュアルを強調した作品づくりが可能になった。また、初期の作品ではRPGの基本的な要素に関してさまざまな実験が行われていた。そうした試みのひとつひとつが重要な取り組みとなり、後に登場するJRPGに取り入れられていったのである。

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本稿もそうですが、海外の日本ゲーム研究者は、こと初期のPCゲームにおいては、団地妻(とオランダ妻)に注目する傾向があるように思えます。彼らにとっては、よほど興味をそそる対象なのでしょう。一方で、RPGに限ってみても、夢幻の心臓やファンタジアンのような、良作かつ影響力のある作品であっても、なぜかあまり扱われないケースもあったりします。海外から見て、目を惹く要素がこれといってないためでしょうか。彼らにとっては、風変わりな日本という異質性を強調するうえで役に立たない作品など、あえて触れるまでもないのかもしれません。

ここに示された見解については異論があるかもしれませんが、海外ではこういう認識が出ているということで、参考にしていただければ幸いです。


The forgotten origins of JRPGs on the PC - PC Gamer


(PC-8801SR版のブラックオニキスですが、有志によって英訳されたものです)