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1983年のゲーム市場崩壊は、ゲームの歴史においてもとりわけ重要な出来事であり、これまで数々の研究が出ていますが、意外に見当たらないのが、当時の主な消費者、つまり子供たちの視点でした。ここではその数少ないひとつを取り上げてみたいと思います。

以下の文章を書いたのは、かつて熱心なゲーマーとしてゲーム市場崩壊を体験し、現在はインディゲーム開発者となっている人物です。そして、長年のゲーマーとしての立場から、かつてゲーム業界が苦境に追い込まれた状況に現在が似ているとして警告を発する目的から書かれています。

ここで例として挙げられているのは、あくまでフルプライスで販売されて、それに課金要素が追加された場合というケースですので、たとえば基本無料で課金要素はあるという作品とはまた話が違いますが、作中での課金要素がいかにゲーム体験を変化させるか、という論点自体は大枠では共通しているように思えます。いずれにしてもなかなかに面白い視点であるため、ここに紹介することとしました。

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1983年に起こったゲーム市場崩壊については、皆さんもよくご存じのことと思う。たとえ当時を知らない若い世代にとっても、いまなお繰り返し語られる出来事になっている。大量の不出来なゲームソフトが廃棄物として埋められたという逸話などは、業界の教訓として使われているほどだ。

ウィキペディアでは、その原因について、家庭用ゲーム機市場の飽和とPCゲームの台頭があったためと説明している。両方とも当たっていると思うが、当時を知るひとりとして、もうひとつ重要な点があったことを指摘しておきたい。

それは、ゲームの質が急激に低下したということだ。

当時のぼくは子供であり、業界のニュースを追っかけていたわけでもない。そもそもゲーム市場崩壊なんて言葉もずっと後になって出てきたものだ。だがそれでも、自分が趣味としていたゲームの世界に、何かとてもおかしなことが起こっているのは気づいていた。


最初は誰も気づいていなかった

ぼくがアタリのゲーム機を手に入れたのは1979年のことで、たちまち夢中になった。誕生日やクリスマスのプレゼントも、欲しいのはとにかくアタリのゲームソフトだった。

問題は、ゲームソフトが高価だということだった。当時の価格で40ドルだから、今の価値に換算すると150ドルほどだろうか(約1万7千円)。新しいソフトはそう気軽に買えるものじゃなかった。だからこそ飽きにくいものを選ぶのが重要になる。

なにかがおかしいと気付いたのは1984年のことだった。当時のぼくは13歳で、今はもうなくなったデパートで、いつものようにアタリ2600のゲームソフトを眺めていた。ふと気づいたことに、新しい家電がずらりと並んでいる売り場のすみに、ぼろぼろになった段ボール箱が置かれていた。そこには見切り品としてゲームソフトが入れられていた。90パーセント値引きとある。つまり1本5ドルということだ。

その時、ぼくはちょうど5ドルを持っていた。1本ゲームソフトを買うことができるのだ。

だが当時のぼくは、新作ソフトの情報は熱心に追いかけていたというのに、なけなしの5ドルを投じてもいいようなソフトを、その箱から選ぶことはできなかった。たとえ9割引でも、どれひとつとして欲しいと思えるものがなかったのだ。

実は、その前に買った数本のソフトは、どれもひどい出来だった。そして箱の中にあったものも、ひとつ残らず、変わり映えがしなかったのである。

アタリの失敗は、ゲームの質など関係ないと思っていたことにある。アタリ2600のゲームソフトは、その数年間というもの、つまらなくなる一方だった。あるいは、面白い作品とそうでない作品の比率が広がる一方だった、というべきかもしれない。だがしばらくの間は、誰もそのことに気づいていなかった。

当時はインターネットが一般に普及する何十年も前であり、ゲーム雑誌もそれほど一般的ではなかった。消費者、とりわけソフトを親にねだるしかない子供たちにとっては、ゲームの面白さを知る方法は、口コミくらいしかなかった。加えて、つまらないゲームがどんどん増えているとあっては、ゲームソフトを買うのはますますリスキーになる一方だったのである。

当初はそう明白なことではなかった。1983年当時は、つまらないゲームばかりで失望したとしても、自分が単に駄作ばかり選んでしまっただけで、他の新作はきっと面白かったのだろうと思うことができた。同じ失敗を何度か繰り返さなければ、けして気付くことはないだろう。つまり、この当時にそもそもゲームソフトを選ぶという行為が、ごみ溜めをあさって金を探し出すようなものだということに。

だがいったんそのことに気づいてしまえば、みんなゲームを買わないようになる。

ここでの教訓は、ゲームといえど質が重要だということだ。当たり前じゃないかと思われるかもしれない。だが、肝心のゲーム会社が、なかなかそのことに気付かなかったりするのだ。


ゲーム会社のあやまち

ゲーム会社は自社製品の売れ行きをなかなか公表しようとはしない。無理もないが残念なことでもある。長く続いている人気のシリーズ作品が急に失速することがあるが、個人的にはその原因は、最新作よりもその前作にあるのではないかと思っている。

個人的には、ゲームを買うにあたってレビューを見ることもせず60ドルなりを支払うという行為は信じがたいが、明らかに世の中にはそれをやってしまう人がかなりいるのだ。

人気シリーズの新作なら、たとえそれが駄作だったとしても、長年のファンなら即座に買うだろう。ゲーム会社もただちに損害を受けるわけではない。だがその次は売れ行きが落ちるだろう。

もちろん、その通りかどうかは証明できない。ただし、どうしてゲーム会社がこれほどまでに誤った判断に対して鈍感なのか、その理由は説明できる。

人気のFPSの新作が世間で大いに問題視されたとしよう。ゲーム会社はそれを一時的な問題と考える。宣伝になったとすら思う。そしてそのFPSの次回作が出て売り上げが落ちたとしたら、ゲーム会社はその原因を、当の次回作を調べることで探ろうとするだろう。その前作に原因があるとは考えないのだ。

どうしてこんな話をするのかというと、個人的な見方として、ゲーム会社は再び、ゲームの質は問題ではないと思うようになってきていると感じるからなのだ。

とりわけ問題なのは、ゲーム会社がガチャやプレイヤーの増加、そして課金要素がもたらす悪影響を直視しようとしていないことだ。

すこし前に、NBA 2K19(人気のバスケゲーム)のプロデューサーがインタビューでこんな発言をしていた。課金でガチャを回すことについて、「現代のゲームにつきものの、不幸な現実」と表現したのだ。さらにはこうも言っていた。「どんなゲームであっても、いずれかの時点で、課金を受け付けるようになり、プレイヤーからさらなる利益を取る手段をさぐるようになるだろう」

このプロデューサーがガチャのことを「不幸」と表現しつつ、その使用を擁護しているところなど、邪悪なまでに笑えることだと思ってしまう。

ここ数年というものの、ゲーム制作にかかる予算は急速に増加している。グラフィックはどんどん精巧なものになっているが、開発者がそれを追い求めた結果の代償としてそうなったのだ。ハードウェアの限界ぎりぎりまでグラフィックの向上に努める一方、ゲームの内容を損ねることは承知のうえで、あえてガチャを追加する。グラフィックには力を入れるのだが、肝心のゲームプレイは、課金による追加収入とひきかえに、損ねられることになる。物事の優先順位が逆になっているのだ。

通常のゲームプレイには、敵をやっつけてレベルを上げるというループがあるが、それに優越するかたちでガチャが追加されると、ゲームの本質が根本的なところから変わってしまう。こうなると、いかにプレイヤーに課金させてガチャを回せるようにするかを考えるようになる。つまり、もはや作り手の目的は面白いゲームを作ることではなくなっている。そうではなく、まずはプレイヤーの邪魔をして、その邪魔から逃れるための手段としての課金を促すことになるのだ。

ゲーム会社はガチャがもたらす追加収入を想定して、それを通常の売り上げの上積み分として考えるようになる。だがもしプレイヤーが、大好きなゲームが単なるスロットマシンになり下がったことに気付いたらどうなるだろう。13歳だったぼくは、要らないゲームはたとえ5ドルでも手を出さなかった。なにか他によっぽどましな使いみちがあると考えたからだ。


課金で何が変わるのか

このプロデューサーは、誰も課金を強制しているわけではないとも語っている。要するに、課金には何の弊害もないといいたいわけだ。

だがもしぼくが、技能に左右されるゲームをプレイしていたとして、せっかく磨いた技能がガチャに追い越されるとしたら、もはやそのゲームに何の魅力も感じなくなるだろう。

ガチャを回してゲームを攻略するかわりに、課金をせずに同じゲームを続けることもできる。ただしその場合、同じゲームの不完全なバージョンをやらされているという感情を抱え込むことになる。課金するにせよ、しないにせよ、とても60ドルなりを支払ってまで味わいたいこととは思えない。そして、近いうちではないかもしれないが、いずれ世間も同じように、あの手のゲームに興味を失い、金を出し渋るようになるだろう。

同じように、たとえばマルチプレイヤーのゲームで、別プレイヤーとの対戦でレベル上げをするような作りになっていた場合、ガチャが新たに追加されたとしたら、もうそれだけで、実際にそれを回すかどうかとは別に、ゲームの面白さ自体が損なわれる恐れがある。

確かにゲーム会社はガチャを熱心に回すユーザーによって大いに潤うかもしれない。ゲームに数千ドルを費やしたなんて人の話はネットでもたびたび出てくる。1千ドルをガチャに使ったプレイヤーがひとりいれば、それだけでゲーム会社は通常プレイヤーの16人分に相当する利益を得られることになる。

あるゲームにおいて、強引な勧誘にさらされる大量のプレイヤーがいたとして、熱心な課金プレイヤーはあくまで(他の参加者を出し抜くことができる)「能力」を手に入れることにしか興味がない。だからこそ、もしプレイヤーの数が減少すれば、課金ユーザーもやがて興味を失うだろう。結果として、ゲーム会社は普通のプレイヤーと熱心な課金ユーザー、その両方を狙おうとしたあげく、両方とも失ってしまうかもしれないのだ。

今のゲーム業界は規模も大きく多様性も進んでいることから、1983年のような市場崩壊が起こることはまずない。だが、そうであってもゲーム会社には一定の配慮がなければならない。業界そのものは盤石でも、個々の作品はそうではないのだ。たとえ人気のシリーズであっても、駄作がいくつか続けば潰れてしまう。

ゲーム会社は一時的な苦境を恐れるべきではない。さもなければ、より根深い問題にさらされることになる。それはつまり、かつてのお客さんからそっぽを向かれてしまうことだ。かつてなら60ドルなりを払ってゲームを買ってくれていたのが、なにか別のことに使おうと思われてしまうことだ。そして、そうしたお客さんはひとたび離れてしまえば、呼び戻すのは相当に難しいのである。


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この記事に対する反応はおおむね肯定的なもので、いろいろ興味深い意見もありました。全体の論調としては課金要素はやむを得ないもので、ただしやり方には工夫の余地がある、というところでしょうか。締めくくりとして以下にいくつか引用しておきましょう。

「作中の課金要素が台無しにするものがふたつある。面白さと没入感だ」

「たとえガチャが大きな問題になったとしても、一方で課金要素のないゲームも普通に作られているわけで、業界全体が完全に駄目になることはないだろう」

「現在の状況を考えれば、ゲーム業界そのものが崩壊することは考えられない。ゲーム制作への参入がどんどん容易になる一方だからだ。たとえ大手ゲーム会社が軒並みつぶれたとしても、障壁がここまで低くなったのだから、参入を考える新興勢力はかならず出てくる」

「課金要素がゲームの内容にどう影響するかについては昔から議論がある。たとえばアーケードゲームのデザインは、完全にその要素が根幹になっていた。アーケードゲームの難易度が概して高いのもそのせいだ。課金要素とゲーム内容は不可分のものであり、両者を切り離して考えることはできない」



Quality Still Matters - the Escapist