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ゲーム機の宣伝といっても色々ですが、当初は子供を相手にしていたと考えていいでしょう。それは日本でも海外でも同じなのですが、その数少ない例外が90年代初頭のイギリスにおけるセガの宣伝でした。

それはもちろん若い世代向けではあるのですが、まったくの子供というよりは、すこし上の年齢層を対象にしたものに見えました。背伸びしたい子供を狙っていたのかとも思えるのですが、実のところは、もっと深い理由があったのです。

また日本ではセガが仕掛けた広告キャンペーンというと、ユーモラスで面白おかしい内容のものが知られていますが、イギリスでははっきりと先鋭的なイメージを打ち出していました。

1992年のイギリスでセガはあるテレビCMを流しています。SF仕立てになっていて、未来世界の床屋に入った青年がなぜかそこで身体を機械に改造され、その状態でメガドライブのゲームを遊ぶという内容で、最後に「ここまで出来るのはセガしかいない」(To be this good takes Sega)なるキャッチフレーズが流れるというものでした。




確かに凝った映像だとは思うものの、正直日本人の目にはなんだかよく分からない内容なのですが、これが当時のイギリスの子供たちに強い印象を与えたのだそうです。実際、これ以降もセガはつぎつぎと意欲的なテレビCMを流し、結果として大きな成果を挙げることになります。

これを仕掛けた当時のセガ・ヨーロッパは、音楽業界の出身者が中心になっていた会社でした。

ゲームと音楽業界のつながりといえば、日本でも似た流れはありました。かつてはビクターやポニーキャニオンがゲームソフトを出していましたし、ソニーなどはゲーム業界を代表する存在にまでなっています。そしてイギリスにおけるセガの場合は、そうした人脈の影響がより色濃く出ていました。

アメリカ人が任天堂を熱心に支持するのと同様に、イギリス人のセガに対する思い入れには一種独特のものがあります。そのような支持を得るようになった下地として、90年代初頭のイギリスで作られたメガドライブのテレビCMが大きな役割を果たしているのです。

その頃のイギリスにおけるセガの宣伝戦略について、海外のゲームサイトが2016年にまとめた記事があります。当時のセガ・ヨーロッパの社長と宣伝担当者に直接取材した貴重なものであり、興味深い内容であるため、以下に抜粋してみました。

* * *

ニック・アレクサンダーは元々ヴァージン・レコードのディレクターだった。1983年にヴァージンはコンピュータソフト流通大手のマスタートロニックを買収しているのだが、そのマスタートロニックはもともとセガ製品のヨーロッパでの販売元だった。

「セガはマスターシステムをヨーロッパ向けに輸出したことがあるんだけど、クリスマスに間に合わなかったんだ」

「怒った小売店はオーダーをいっせいにキャンセルしてきた。おかげでマスタートロニックは資金繰りに困ってしまい、やむなく身売りしたんだ。それを引き受けたのがヴァージンで、ぼくもマスタートロニックに異動になった」

「マスターシステムがクリスマスに間に合わなかった国はイギリスだけじゃなかった。フランスとドイツでも同じことをやっていたんだ。それで、この二か国についてもわれわれが担当することになった」

「当時はNESがアメリカで大変なブームになっていた。だから、この買収についてもチャンスだと思ったよ」

「その後、1991年にヴァージン傘下のマスタートロニックはセガに買収されてセガ・ヨーロッパになった。そして、そのセガ・ヨーロッパで最初の経営責任者に就いたのがぼくだったんだ」


反抗期の子供を狙う

リチャード・ブランソンが一代で築きあげたヴァージン・レコードには、ある種の先鋭的、攻撃的なイメージがつきまとっていた。そのことはセガ製品の宣伝にも現れていた。アレクサンダーは言う。

「90年代初め頃、任天堂が宣伝で打ち出していたイメージは、子供がお父さんお母さんと一緒に家族みんなで楽しく遊べるゲームというものだった」

「ヴァージン・グループの一員だったわれわれとしては、そういうスタンスは取れなかった。そういう子供だって、いずれは変わる。親と一緒にゲームとか冗談じゃねえよ、ってなるはずなんだ」

「そういう子供は、しだいに反抗的になって、何にでもつっかかるようになる。そうなったらもう、楽しく愉快な家族がどうこうって話にはならない。そもそもやってることといえば、生き物を殺したり、街角で喧嘩したり、車を猛スピードで走らせたりすることなんだから」

「それで自然と、われわれの宣伝戦略は家族みんなではなく、ゲーマー個人に向けたものになった。それから年齢層も、まったくの子供だけじゃなく、年長の子供も対象になった」

「小さな子供は、身近にいる年長者にあこがれたりするものだろう。だから、そういう年長者をつかまえておけば、さらに下の層も取り込むことができるんだ」

「そのことが、われわれの広告戦略では中心になっていた。つまり、クールであること。そしてそれは、親みたいになるのはまっぴらごめんだってことでもあった」

セガ・ヨーロッパは、セガの海外子会社としては他の地域と違う独自の立場にあった。

「当時のセガは、日本では任天堂と競合していた。そして、任天堂がやることは何でもやらないといけない、みたいに考えていたんだ」

だが、このアプローチは実を結ばなかった。セガの16ビット機メガドライブは旧式のファミコンが築いた牙城を崩すことが出来ないでいたのだ。

「あの頃の日本市場は85パーセントが任天堂、15パーセントがセガって感じだった。アメリカでも日本とたいして変わらない。でもヨーロッパは違ったんだ。市場でトップだったのはわれわれだった」

「任天堂はイギリスでは販売元を毎年変えているようなありさまで、おかげでこっちはずいぶん助かった。何をやってもうまくいかなくて、しょっちゅう方針を変えていたからね」

それまでZXスペクトラムやコモドール64などのPCに支配されていたイギリスのゲーム市場は、次第にセガのマスターシステムへと移行していた。なにしろマスターシステムなら、アーケードでおなじみのゲームが自宅で遊べてしまえるのだ。


セガはストーンズ

当時セガ・ヨーロッパでアレクサンダーの部下だった人物に、サイモン・モリスがいる。宣伝担当者であった彼は、有名な「ここまで出来るのはセガしかいない」(To be this good takes Sega)のCMキャンペーンを仕掛けた張本人でもあった。そのモリスは言う。

「状況はまだ流動的だった。ゲーム機の市場は任天堂とセガの2社が牛耳っていたけど、われわれは負け組だった。シェアでは明らかにこちらが上だったけどね」

「あの頃はアーケードのものだったゲームを家庭に持ち込むという流れがあった。それで、任天堂はとにかく安全安心というブランドイメージが出来上がっていたし、日本でもアメリカでもめざましい成功を収めていた。任天堂はその家庭向けのイメージとか、スーパーマリオみたいなものを活用するブランド戦略を取っていた」

「われわれとしては、いずれ子供たちだってそんなイメージは受け付けなくなるだろうと見ていた。そういう子供たちを狙うのが、こっちの戦略だったんだ。それを説明するのに、いつも言っていたことがある。つまり、任天堂がビートルズなら、セガはローリング・ストーンズにならないといけないってことだ」

それまで相手にされていなかった若者層に振り向いてもらう必要があった。そうするには、前例のない宣伝戦略を取らなければならなかった。

任天堂が打ち出していたイメージは、テレビの前に家族みんなが揃って、愉快に楽しくゲームで遊ぶというものだった。それはすでに実証済みのアプローチでもあった。なにしろ財布のひもを握っているのは親であり、その親に気に入ってもらうのが一番てっとり早い手口であるとはいえる。

だがモリスは直感的に、本当の対象者、つまり子供たち自身を惹きつけなければならないと思っていた。

「それはつまり、こういうことなんだ。ロックであるということ。反体制であること。そして、親がぜったい気に入ったりしないものであること」

もっとも、媚びてもいけない。気に入られようとするあまり、無理に自分を曲げて相手に近づこうとしてもいけないのだ。その点も気を付けていたという。


本社の不理解に苦しむ

セガがイギリスで数々の挑戦的なテレビCMを打ち出していた頃、アメリカでも年長者を対象にした意欲的なキャンペーンを展開するようになり、そちらも好評を得ていた。だがアレクサンダーによれば、日本の本社にはヨーロッパでの広告戦略の意図がなかなか理解されず、たびたび苦労させられたという。

「率直にいって、日本側はまったく当惑していたと思う」

「営業面では実績をあげていたから、効果があったことははっきりしている。だけど広告の意図はまったく理解してもらえなかったんだ」

「覚えているのは、セガの中山社長がロンドンに出張でやってきた時のことだ。打ち合わせの席で、日本のテレビCMをイギリスでも使ってみたらどうだろうって提案されたんだ。そうすれば経費削減になるだろうってことでね。セガが市場シェア15パーセントしかない国で流れてるCMをだよ」

「それでわたしはていねいにこう答えたんだ。それよりも、ヨーロッパのCMを日本で流した方が良くないですか、ってね」

サイモン・モリスによれば、アレクサンダーが防波堤となって制作現場を日本側の干渉から守っていた。そのおかげで数々の優れた宣伝が展開できたのだという。

やがて任天堂も年長者向けの宣伝を流すようになった。セガが握っていた層を奪いにやってきたのだ。もっともモリスは、その出来には感心しなかったという。

「そもそも、その層はすでにセガが握っていたわけで、それを奪うのはとても難しい。わたしが任天堂の担当者だったら、やっぱり世間の目ってものを考えたと思う。なにせ本来の相手じゃないところを狙っていたんだから」

「ただそれでも、向こうが真似てきたっていうのは気持ちよかったね。こっちのやっていることが正しかったのが証明されたわけだ」

当時のセガが成功していた要因はいろいろある。出来のいいゲームソフトがそろっていたこと。サードパーティのサポートがしっかりしていたこと。値段が手ごろだったこと。だがマーケティングが優れていたのもその一因だったのは確かであり、だからこそセガはイギリスでしっかりとした支持を得ることができた。モリスは言う。

「最初は市場シェアでいえば大したことなかったけど、16ビット時代の末期にはかなりのところまで達していた。一時は75パーセントにまでなったんだ」

「1日で100万本のソフトを売ったのもわれわれが最初だった。ソニック2の発売日なんて、すごい騒ぎになったよ。ネット配信なんて存在しない時代だからね。75万本ものゲームソフトを小売店を通じて売りさばくっていうのは大変なことだった」

「ただ、そういう状態であっても、われわれはカネを浪費したりはしなかった。マーケティングにかけていた費用だって、ネット時代になってからとは違って、会社の収益でまかなえていたしね。その意味じゃ、きちんと統制が取れていたんだ」

だが、何であれ永遠に続くことはない。16ビット時代が終わろうとする頃、アレクサンダーも自分の立場にいらだちを感じるようになっていた。

「日本の本社にまったく理解してもらえなかったんだ。わたしがセガを辞めたのも、そのことが大きな理由ではあった」

(アレクサンダー氏は、さまざまな事業のアイデアを日本の本社に提案したのですが、ことごとく却下されたため、意欲を失ったと証言しています)

モリスも、メガCDが発売になる頃にセガを辞めた。その理由を彼は、なにかと物議を醸しだすようなやり方を好んでいたためと説明する。

その後数々の企業を経て、現在はアマゾン・ヨーロッパでマーケティング部部長という要職にあるモリスだが、長い経歴の中でもセガに居たことがいちばん重要だったと強調する。セガでさまざまなキャンペーンを手がけたことが、その後の成功につながったというのだ。

「セガではいろんなことをやらせてもらったけど、それで学んだことがすべてにおいて大きかった。何であれ明確なビジョンがあれば、何が正しくて何が間違えているのか、即座に見分けることができるんだ」

「それからよく言っていたのが、ビジネスにおいて自分たちのポジションが見えていれば、すべてが納得できるようになる、ということ。それがいろんなプロモーション活動にもつながっていった。つまり、今でいう360度評価とかCRMを、そういう用語がなかった頃から実践していたんだ」


セガが遺したもの

16ビット機の時代が終わってからというもの、ゲーム機をめぐる状況はまさしく一変した。あれだけ激しく競っていた任天堂とセガは友好的な関係になり、一方で32ビット時代になるとソニーが一大勢力として台頭するようになった。

90年代半ばのソニーは、ポップカルチャーに接近する一方で、反抗的なイメージを打ち出すようになった。そうした宣伝にもモリスは大いに見覚えのあるものを感じたという。

「われわれがやっていたことを、そっくり受け継いだのがソニーだった。連中のマーケティング担当者は、セガのキャンペーンを相当に研究していたんだよ。ソニーは有名なクラブやミュージシャンとタイアップしていて、話題にもなっていたけど、同じことをセガは1993年にやっていたんだ」

だが、基礎を作ったのはセガだったとはいえ、その上に一大帝国を築いたのはソニーであり、その立場を20年も守り続けているのだ。

アレクサンダーによれは、その状況こそゲーム業界が90年代初頭からどれほど変わってしまったのかを示しているという。つまり、まったくの混沌だったのが、すっかり安定した状態に落ち着いてしまったのだ。

「今のゲーム業界は、あらゆることがきっちり行われるようになった。わたしたちの頃は、なんでも実地で試すみたいな感じだったからね。でも実際に関わるには、とてもいい時代だったよ」

モリスもその見方に同意する。

「すばらしい遺産を残すことができたからね。ブランドとは人々の意識の中にこそ存在するものであって、広告の中じゃない。個人的には好きな言葉じゃないけど、いわゆる「クール」なブランドとして認知されること、その点には気を配ったんだ。何をするにおいてもね。そのことは、その後で手がけた仕事においても意識してきた。(当時のセガのCMは)率直にいって、ゲーム業界の歴史に残るようなキャンペーンだったと思うよ」

* * *

この記事で明かされているのは、初期のセガ・ヨーロッパで中心となったのが音楽業界の人脈であり、それもヴァージン・レコードの関係者だったということです。

なにしろヴァージン・レコードといえば、インディーズの先駆けであり、独立独歩の精神を体現した存在でした。さらにいうなら、パンクロックの代表格であるバンド、セックス・ピストルズと契約したことで名を上げた会社だけに、どう間違っても任天堂的なスタンスは取れなかったのでしょう。そんな会社の血を受け継いでいたのがセガ・ヨーロッパだったわけです。

それにしても、繰り返しになりますが、正直いって当時のイギリスでどうしてこの宣伝がそんなに効果があったのか、実際のCMを見てもいまひとつ理解できないのですが、そのあたりが文化の違いというものなのでしょう。その意味では日本側の不理解を責めるのも酷な気がします。

この記事は読者にとっても納得できる内容だったようで、熱心なコメントがいろいろ付いていました。締めくくりとして、その中からいくつか挙げておきます。

「セガが任天堂に敗れてゲーム機のビジネスから退場してしまったのは、本当に悲しい出来事だった。任天堂は常に保守的だったのに対し、セガはまったくもって場当たり的だった。でもセガはいつだって早かった。80年代に3Dゲームを、90年代にモーションゲームを出してきたのはセガだったし、オンライン要素だってサターンの時から導入していた。CD-ROMも、開発者がそれで何をすればいいのか迷っていた頃から、セガは手を出していたんだ」

「コモドールもCD32の広告でセガの真似をしていたのを覚えている。まああっちはうまくいかなかったけれども」

「子供の頃、おじさんがマスターシステム推しだったので、ぼくも自然とセガに惹かれるようになった。ただ、熱心な支持者になったのは、やっぱりあの宣伝があったからだと思う。あの頃は、セガが関わっているものなら何でもクールに見えていたくらいだった。でも、それまでなら効いていた宣伝も、サターンからは急にダメになってしまった。

 この記事を読んで思ったのは、日本のセガも、家庭用ゲーム機のビジネスをまったく理解していなかったんだなってことだ。それこそアメリカやヨーロッパ側の意見にもっと耳を傾けるべきだったと思う。サターン以降のセガはすっかりテレビで目立たなくなり、かわりに出てきたのがソニーだった。それこそセガがやるようなことをやっていたんだ」

「当時子供だった身として言わせてもらうと、あの頃のセガの宣伝はまさしく自分のためにあつらえたんじゃないかって思えるくらい響いてきた。映画とか音楽の好みも、あの宣伝に影響されたくらいだ。すごくイギリス的な、尖ったところがあって、そこに魅力を感じていた。

 任天堂の宣伝はいつだって家族向けだった。暴力も爆発も流血もない。マリオじゃ若者の反抗なんて表現できるわけがない。一方のセガは、それより少し大人向けの宣伝をやっていた。イギリスのポップカルチャーに合っていたかどうかってことだと、圧倒的にセガの方が上だった。

 確かにソニーは、セガの後追いをしている感じがあった。それでPS1、PS2の頃までは熱心にソニーを追いかけていた。だけどPS3になって一変した。ソニーは急に家族向けの宣伝をするようになったんだ。そのせいでPS自体に興味がなくなってしまった。もっとも、日本ではずっとそんな感じだったのかもしれないけどね」


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