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1983年のゲーム市場崩壊は、いくつもの要因が組み合わさった結果生じたことであり、特定の原因があって起こったわけではない、というのが現在では定説になっているようです。要はこれといってはっきりした理由は挙げられないというわけですが、明確な見方を示す向きもあります。そのひとりがドン・ダグロー氏です。

ダグロー氏はゲーム業界の草分けとして知られる存在です。70年代前半に大学のコンピュータでゲーム作りを始め、79年にはマテルに入社してインテレビジョンのゲーム作りに参加します。とりわけ、この時期に手がけたユートピア(Utopia)という作品は画期的で、今でいうリアルタイム・ストラテジー・ゲームをいち早く形にしたものと評価されています。その後もEA、ブローダーバンドと渡り歩いたのち、独立してストームフロントというゲーム開発会社を興し、数々のヒット作を出しています。

そして今なおゲーム業界に関わっているダグロー氏なのですが、そんな氏にとっても1983年のゲーム市場崩壊はとりわけ記憶に残る出来事だったようで、インタビューでもたびたび触れています。ここでは2007年に海外のゲームサイトの取材に応じた時の発言を抜粋してみました。

* * *

わたしは本当に運に恵まれていた。これまでの歩みを一言にまとめると、そういうことになる。

70年代、大学でコンピュータというものがようやく普通の学生にも使えるようになったけど、わたしもそのひとりだった。それでゲームだって作れるようになったんだ。もっともそれがお金になるなんて、誰も思っていなかったけどね。

結局そんなことを9年間も続けていた。そしてまた運の良いことに、マテルでゲーム開発者の仕事にありつけたんだ。インテレビジョンのゲームは最初5人の技術者で作っていたんだけど、わたしもその中にいた。おかげで業界の一員になれたんだ。

幸いにも、83年のゲーム市場崩壊の後、エレクトロニック・アーツに雇ってもらうことができた。当時EAは設立されたばかりで、わたしはプロデューサーになったんだ。それから80年代後半にはブローダーバンドに移って、ゲームと教育ソフト部門のトップになった。その後でストームフロントっていう開発会社を始めて、もうかれこれ20年になる(現在は閉鎖)。

とにかくついていたっていうのは、あの83年の市場崩壊のせいで、本当にひどいことになったからなんだ。

たとえば当時、アメリカでゲーム開発の仕事に就いていた人が1万2千人くらいいたと思う。それが崩壊の後は400人ほどになってしまった。

個人的な印象だけど、1984年の時点では、EAに40人、ブローダーバンドに50人、シエラオンラインに75人とか、そんな感じになったんだ。どんどん仕事がなくなっていったけど、それなのにわたしは何とか生き残ることができた。ほんとうに運が良かったよ。

あの事件から今を見ることで、とても重要な教訓を得ることができる。というのも、いま任天堂やソニー、マイクロソフトが家庭用ゲーム機の市場を厳しく取り仕切っていて、そのことに対する不満が多い。一方でPCのソフトウェア市場はまったくの自由だ。でも皮肉なことに、PCソフトの市場はまったくさえないけど、ゲーム機の方は繁栄している。

そうやってゲーム機のメーカーが市場をしっかり取り締まっているからこそ、83年みたいな状態にならなくて済んでいる。というのも、83年には、儲かるってことでどこもゲーム業界に参入しようとしたからなんだ。なんせクエーカーオーツまでゲーム事業部を作ったくらいだからね。

(クエーカーオーツは19世紀半ばに創業したアメリカの食品会社。朝食用シリアルが有名。ウィキペディア

そんな感じで、いろんな会社がアタリ2600、インテレビジョン、コレコビジョンのゲームを出すようになった。おかげで、市場に出回ったゲームソフトの数が急増したんだ。もちろん、その大半はどうしようもない出来だった。出来のいい作品もあるにはあったけど、ほとんどは駄作だった。


数こそが問題

おもちゃっていうのは、基本的に委託販売なんだ。そして業界の人間なら誰だって、そのことが常に頭にある。なにしろ、商品をどれだけ製造するかってことをきちんと見極めないといけないって、絶えず言われていたからね。

ゲームのカートリッジにしても、さかんに市場調査をして、製造数を決めていた。なにしろ、カートリッジを作るには5か月、6か月はかかるんだ。

ゲームが出来上がったら、開発用のROMを作って、製造元であるアジアの企業に送る。まずはカートリッジの試作品を作ってもらうんだけど、それをこっちに送ってもらって、動作チェックする。問題ないとなったら、再びROMをアジアに送って、今度は生産してもらう。それで商品が納品されてくるのが5、6か月後ってことになる。コンテナに入れられて、船便で送られてくるんだ。

製造量をよく考えて決めろって、それこそ何度も言われたんだけど、それにも理由があるんだ。なんせ商品が売れ残ったら、メーカーであるこっちが引き取らないといけないからね。失敗したら、それが自分に跳ね返ってくるわけ。

ゲームソフトが過剰供給されるようになると、小売店も気前よくどんどん仕入れていた。どうせ、売れなかったら返品すればいいんだから。

ところが、新規参入組の小さなゲーム会社は、そんな事情はお構いなしだった。返品って何ですかって感じだし、売れないから返すと言われても困るわけだ。商品が戻ってきたところで、代金だって返せない。だって、そんな金はとっくの昔に使っていたからね。

そんなわけで、その手の会社は返品のせいで破産した。返品して別のソフトをかわりに送ってもらおうにも、そんなソフトはそもそもない。たとえ別のソフトがあったとしても、どうせ売れやしないんだから同じことだ。ゲーム会社はすでに商品代を使ってしまったから、返金もできない。そもそも、ビジネスモデルとして成り立っていないんだ。

困ったのは小売店だ。返品しても代金はもう返ってこない。だったら、手持ちの在庫を叩き売って、すこしでも金に換えるしかない。15ドル、10ドルとどんどん下げていって、最終的に5ドルになった。その値段で、ようやく捌けるようになったんだ。

当時ゲームソフトの値段は定価が39ドル99セント、実売が35ドルという感じだった。ところが5ドルの特価品があるもんだから、売れるのはそっちばかりで、35ドルのソフトはいつまでたっても動かない。

83年の夏には、大変なことが起こっているのは明らかになっていた。あの市場崩壊については、確かにETとかパックマンみたいな問題作もあったけど、結局のところは過剰供給が原因だったというのが、わたしの見方だよ。


豹変した世間

事態に拍車をかけるような要素もあった。たとえば82年には、マスコミはゲームを取り上げてはすばらしいと大騒ぎしていたからね。

当時われわれマテルの技術者は、インテレビジョンの新型機に取りかかっていたんだ。それこそアミーガみたいなマシンだったんだけどね。ところが83年になると、マスコミも小売店も、すっかり気が変わってしまっていた。

マスコミは急に、ゲームは終わったと言い立てるようになった。一過性の流行にすぎないってわけだ。また小売店も、同じ結論に達していた。おもちゃ業界では確かによくあることだからね。そしてゲームを仕入れることも止めてしまったんだ。

結局、新型機の開発は取りやめになった。そのかわりに、インテレビジョン用の外付けキーボードを作ることになった。はっきりいって、まったくの安物だったけどね。

とにかくコストを最優先しないといけなくなった。それなのに何か新製品を出さないといけないってことで、そうなったんだ。当時はパソコンが話題になっていたから、ゲーム機を出していたわれわれも、自社製品をパソコン風に見えるものを出そうとしたわけ。でもそれまでマテルは優れた製品を作っていたのに、そのキーボードときたら、ろくでもない代物だった。

そうするうちに、社員はつぎつぎ首になっていった。くじけないよう頑張ってはいたけど、悪いニュースばかりひっきりなしに入ってくるんだ。なんせ業界全体が急降下していたからね。

あれは誰にとっても、本当に暗い時期だったよ。


返品のトラウマ

(任天堂アメリカの幹部である)荒川さんとハワード・リンカーンは本当に勇敢な人たちだった。なんせ小売店は、ゲームなんて冗談じゃないって感じだったからね。

(ダグロー氏はArakawa sanと日本語で話しています)

ブローダーバンドにいた頃、日本のファミコン用にゲームソフトのライセンスを出すことになった。100万ドルの注文がきて、その信用状にサインしたんだけど、その時は(ブローダーバンドの創業者である)カールストン兄弟のところに相談しに行ったんだよ。

なんせブローダーバンドは、家庭用ゲーム機のソフトを扱った経験がなかったからね。それで、こんなことを話したんだ。任天堂はいい製品を出しているし、うまくやっていると思う。ただ、こういう取引をするとなると、どうしても慎重にならざるを得ない。ものすごい数のカートリッジが返品されてきた時のことをよく覚えているから、とても心配なんだ。これがどういう性質の取引なのか、よく考えておいてもらいたい、ってね。

カールストン兄弟は会社の創業者だし、わたしにとっても上司だから、言い方には気を付けたけど、それでも彼らが家庭用ゲーム機のソフトを扱ったことがないのもまた事実だったからね。一方のこっちは、カートリッジが売れに売れて、そして急にまったく駄目になったところを、ぜんぶ間近に見ていたんだ。

もし任天堂が駄目になったら、取引分がこっちの損失になってしまう。なので、そういうリスクがあるってことはきちんと確認しておきたかった。もちろん、そんなことにはならなかったけどね。

どうしてそんな相談をしたかっていうと、わたしには経験があったからなんだ。思い出が一気によみがえってきてしまった。

たとえば、バーベキューで火をおこそうとしてやけどをしたとしよう。そうなったら、もうそれからはバーベキューをするたびに気をつけるはずなんだ。前にやけどをしたから注意しないといけない、もうあんなことは二度とごめんだから、ってね。あの時のわたしが、まるっきりそんな感じだったよ。

* * *

ダグロー氏はもともと、働きながら趣味でゲーム作りを続けていました。そんなある日、たまたまマテルでゲーム開発者を募集していることを知り、応募して見事採用されたのです。

当時マテルはインテレビジョンを立ち上げるところで、幸運にも氏は新しい機種に最初から関わることができたわけですが、そもそも当初は趣味を仕事にできたことが嬉しくて仕方がなく、それこそ夢のような毎日だったそうです。

そしてインテレビジョンは順調に伸び、アタリを脅かす存在にまで成長します。

ところが、本文にもあるように状況は急変し、氏はまさしく天国から地獄へと突き落とされることになります。

氏はゲーム業界がどん底だった時にあえて参入した任天堂の勇気を称えていますが、氏自身もまたゲーム業界にとどまったわけで、やはりそこにはある種の決意があったことがうかがえます。

今では一大産業となったゲーム業界ですが、その基礎は、こうした人たちの努力によって築かれたものなのでしょう。


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