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アップル2の専門誌というと、アメリカではかなりの数が出ていましたが、その中でも際立って個性的で、もっとも熱心に支持されていたのが「ソフトーク」(Softalk)という雑誌でした。

1980年創刊と、アップル2の雑誌としては後発でしたが、たちまちのうちに人気を呼ぶようになりました。その要因としては、他誌がそれぞれ専門を絞っていたのに対し、アップル2のユーザーなら誰でも楽しめるよう、きわめて幅広い層にアピールする方針を打ち出したことが大きいといえるでしょう。そんな雑誌をつくっていたのは、ことコンピュータに関してはほぼ素人といってもいい女性でした。

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(1981年3月号。コンピュータ業界で働く女性たちを取り上げる)

後に創刊編集長となるマゴット・トマヴィクは、もともとコンピュータとは何の関係もない生活を送っていました。ところが、テレビのクイズ番組で賞金を獲得し、その一部をはたいてアップル2を購入したところ、たちまち夢中になってしまいます。近所のコンピュータ・ショップで、シエラ・オンラインのアドベンチャー・ゲームの速解き大会が開かれると、24時間でクリアし、みごと一等賞を手にしたりもしました。

そんな折り、トマヴィクはある出版社がコンピュータ雑誌を企画していることを知り、資金を一部負担するので、ぜひ編集長をやらせてほしいと申し出ます。こうしてクイズ番組で得た賞金の残りを費やし、始めたのが「ソフトーク」でした。創刊号はわずか32ページという薄さでしたが、1年もしないうちに100ページを超える広告が入るようになり、順調なスタートを切ることができました。

「ソフトーク」はアップル2の専門誌として、ハードからソフトまで幅広く取り上げていましたが、とりわけ人気があったのが、注目株の会社を取り上げる連載記事と、ソフトウェアの売上げを集計したヒットチャートでした。当時、そのようなチャートは他になく大変貴重なものでした。また「ソフトーク」のチャートは、会社が提供した出荷データに加え、全国の小売店に電話で聞き取り調査を行っていたため、出荷ベースだけでなく実売の数字も反映されているということで、信頼性が高いとされていたのです。

連載コラムも充実していました。ブローダーバンドの社長であるダグ・カールストンによるアップルBASICのプログラミング講座や、アップル2のグラフィックツールとして最も有名な「グラフィック・マジシャン」の発売元であるペンギン・ソフトウェアの社長が担当するハイレゾCG講座など、いまから考えるとかなり豪華な執筆陣が起用されていました。その他、誌面を使ったパズルなど、読者参加型の企画も人気を呼んでいました。


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(1982年10月号。スティーブ・ウォズニアクが私財をなげうって開催したUSフェスティバルを特集)

たちまちのうちに急成長し、順調に号を重ねていた「ソフトーク」でしたが、終わりは唐突にやってきます。1984年8月号をもって「ソフトーク」は終刊となってしまいました。何のあいさつもなく、次号予告も載っていたことから、事前に計画されていたわけではなく、突然の出来事だったようです。

もっとも、熱心な読者にしてみれば「ソフトーク」が危機的状況にあるのは何となく察しがつくことでもありました。何しろ、ページ数が短期間で激減していたのです。日本でも雑誌が合併号を出すようになると末期と言われますが、アメリカでも事情は変わりません。

休刊の原因は資金不足でした。この頃にはパソコン市場はかなりの規模になってしまい、雑誌の数もずいぶん増えていました。ハードやソフト会社もすべての雑誌に出稿できない以上、効果を考えて広告を出すようになっており、こうなると決まった専門を持たない「ソフトーク」は不利になってしまいます。大手出版社から出ている雑誌なら持ちこたえたと思われますが、編集長のポケットマネーをあてにするような弱小誌には広告費の長い支払スパンは重い負担であり、キャッシュフローの乏しさから運転資金にも事欠くようになり、ついには突然の終わりがやってきたのです。

1984年はマッキントッシュ登場の年でもありました。この年を契機に、アップル2は徐々に一線を退くことになりますが、一足先に「ソフトーク」は消えてしまったのです。


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(1984年8月号。これをもって「ソフトーク」は終わる)

なお、終刊号が赤い表紙であったことから、コンピュータ雑誌が終わる時は赤い表紙、というジンクス?が(日本だけで)囁かれるようになりますが、真っ先にそれを踏襲してしまったのが「遊撃手」というマイナーな雑誌でした。わずか数か月という短命に終わり、それでいて世界にも類を見ないほど先鋭的なコンピュータ雑誌だったのですが、「ソフトーク」の翻訳記事を日本で唯一載せていた、貴重な存在でもありました。いずれも熱心な読者が存在し、今なおバックナンバーが高値で取引されている点でも共通しています。

プレミアが付くようなコンピュータ雑誌が、同時期に海をへだてた二つの国で出ていたという事実は、単なる奇妙な偶然で片付けてよいものなのでしょうか。それよりも、そこにはやはり、当時のコンピュータというものをめぐる、すさまじい熱気が反映されていたように思えて仕方がないのです。